河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1374- イチローの31は、デイヴ・ウィンフィールドだった。(写真付き)

2012-07-24 20:54:57 | マンハッタン

イチローがヤンキースへ!
背番号は31、これ、デイヴ・ウィンフィールドのものよ。
ものすごいダウン・スウィングだったウィンフィールドは、よく3塁内野席に飛ばしていました、バットを。
ホームランも恐ろしくて、レフト・ライナーかと思いきや、アナウンサーは興奮気に言ったもんです、スティル・ライジング、と。Still rising
練習中にシーガルをのしてしまったあとの試合はテレビで見ました。ゲネプロでラ・ボエーム第2幕出演のアニマルをのしてしまった後の本番さながら。大ブーイングでした。
バーニー・ウィリアムスはウィンフィールドのバッティング・フォームと少し似ているかも、神様の真似だから許せるか。
背番号31のウィンフィールドがヤンキースにいたころのメンバーを思い出すと。
ドン・マティングリー
リッキー・ヘンダーソン
ウィリー・ランドルフ
ルー・ピネラ
ドン・ベイラー
レジー・ジャクソン
アンドレ・ロブソン
ケン・グリフィー(息子は瓜二つのクラウチング・フォーム)
ニクロ兄弟
ロン・ギドリー
リゲッティ(名前失念、みてる前でノーヒットノーランやったことがある)
ビリー・マーチン監督
ヨギ・ベラ監督(開幕10何連敗かして前年首になったビリーすぐに再登場)
今思い浮かぶのはこんなところかな。
メッツにストロベリーとかグッデンが出てきた頃ですね。
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ナックル専門のフィル・ニクロは40過ぎてからヤンキースに移ってきて、よく覚えているのは記録のかかっている試合でピンチになりそうな局面があり、そこに監督ビリー・マーティンがしたこと。それは弟のニクロやとにかくベンチにいるピッチャー全員を投球練習に出したこと。あれはすごかったね。
ホームベースへの砂かけはビリーが発明したんだろうw
セカンドのランドルフは静かな闘志満々で好きだった。
犬の穴掘りのようにバッターボックスに立つたんびに両足をばたつかせてバッティングポジションを決めていた安打製造機マティングリーは、それこそ若いときのイチローみたいな感じで、とにかくヒット打ちまくり。サウンドはマティングリーではなくマティグリー。
ところで、ビリー・マーティンって指揮者の誰かに似てると思いませんか?
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31番ウィンフィールド
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Winfiled



安打製造機マッティングリー
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Mat



ネクストバッターズサークルでたたずむレジー・ジャクソン。長嶋のスタイルと同じ。
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Reggie


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1373- 未完成、英雄の生涯、ハーディング、新日フィル2012.7.6

2012-07-10 20:05:43 | インポート

2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2011-2012シーズン
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2012年7月6日(金)7:15pm
すみだトリフォニーホール
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シューベルト 未完成
シュトラウス 英雄の生涯
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ダニエル・ハーディング 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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前週のタンホイザー、エルガーとだいぶ異なり、策を弄せず、いや弄していたのかもしれないが、音楽の揺蕩う(たゆたう)流れは自然であり、定まらずして定まる。
未完成は巨大な編成。未完成とは譜面のオタマが歯抜けだから未完成ということではない。そんなことをあらためて感じてしまった。
柔らかく始まる。タンホイザーの序曲もそうだった。でもまるでちがう。妖しさと不安げなざわめき、未完成の響きは魅惑的。そして音が角立たない。第1主題第2主題、曲想の変化、滑らかに推移する。エルガーのように細部に耽溺しない。
先を急ぐとはないが、音楽とは流れなければならないとシューベルトは言っている。両楽章ともに3拍子系の同じ雰囲気の中にあり、ハーディングとしても彼の今の方針であれば違いをくっきりとさせるような演奏にはならないのは聴く前からわかる。そもそも観点が別のところにある。
この曲の冷たい美の極致演奏はムラヴィンスキーのもの。第2楽章中間部のフォルテのフレーズをピアニシモから始めることにより氷の中で凝縮する美、シベリウスの7番を想起させる真の天才技。レニングラード・フィルを完全掌握し、圧倒的な技術レベル、真の美はスキルの中にある。ほぼ信念に近いのではないだろうか。スコアの読みに他演奏等参考になるものはなく、一切の雑念がない状態から生成していると思う。
ハーディングはそうではない。なにか肩の荷がおりたようなところがあり、まるで、前週の河童メソッドを読んで、はっと気がついてそれでスタイルをマイナーチェンジした。(ありえないw)これは聴く方の錯覚。
肩の力が抜け余裕があり、このシューベルトの流れに自然に身を任せられる、いい気持ちにさせてくれる。濃い表現は出来るが意識して排除しているんだよ、そんな感じの気持ちの良い演奏でした。
曲の恐さをまだ知らないのかもしれない。でも指揮者は振り続けるしかない。巨大音響を鳴らしながら、滑らかさも追求。このような縁取り感覚は好みです。それにしても巨大でした。
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ヘルデンレーベンは編成が超巨大。雄弁すぎて字幕付きオペラでも観ているようだ。スペクタクルなオーケストレーションでは右にでるものはいない。作曲者自身もそう思っているに違いない。めくるめく音色変化、全ての楽器を鳴らしきる。音響効果満点の曲、ハーディングは中心部に位置するウィンドから魅惑的な響きを引き出す。伴侶ヴァイオリンもあれぐらい頑張らないとこの音響ではつとまらない。
全ての楽器がピアニシモからフォルテシモまで完璧にピッチがあうような機能があれば、もっと力を抜いてもこれ以上きれいなサウンドハーモニーはない、というぐらいになると思うのだがそこまで贅沢に求めることもない。
ハーモニーばかり気を取られがちですが、リズムのきざみがきっちりしていて会話的な効果も十分に楽しめました。
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この日の未完成、英雄の生涯ともに最終音が鳴り終わり、音楽の響きの振動が止んでから拍手が起こりました。たくさんの聴衆のもとで概ね理想的な余韻を楽しむことが出来ました。いつもこのような演奏会であればいいですね。
フライングブラボーは「意識された感動」であり、始末が悪い。
この日の演奏会のことを忘れないようにしましょう。
おわり
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1372- 外山雄三の世界 N響、広上、外山 2012.7.4

2012-07-08 11:19:18 | コンサート

2012年7月4日(水) 7:00pm サントリー

<オール・外山雄三プログラム>


ノールショッピング交響楽団のためのプレリュード(1991)

ピアノ協奏曲(1984)  ピアノ、中村紘子

管弦楽のためのラプソディー(1960)

Int.

(トーク)
壇ふみ、池辺晋一郎、外山雄三、中村紘子

交響曲「帰国」*

広上淳一、外山雄三(*) 指揮 NHK交響楽団

一人の作曲家のための一夜、外山雄三&N響の組み合わせは昔はよく聴いたものだし、彼らの結びつきは尋常ならざるものがあるとはいえ、こうやって一晩コンサートが催されるということはその企画ふくめ素晴らしいことではある。そのうえでの話なのだが、この日のプログラム冊子のあまりのお粗末さは、まさしく画竜点睛を欠くという言葉にふさわしいはずれ具合だ。紙を二枚折っただけ、中身は他のゲストや出演者の紹介文の長さとさしてかわらずという変なもの。記念公演である。もう少し考えてもよかったはずだ。
また、このような機会に詳細に触れず、いつ触れるというのか。

ということで、休憩後のトークがそのプログラム冊子となった感はある。司会者の壇ふみは前半冒頭からセッティングのつなぎで司会をしていたので必要だが、特に関係があるとも思えない人がいたがこれはNHK色が強く出るだけで余計だったろう。恣意的な作為は不自然だししらける。


ラプソディーの原音お目当てできた感が強かったのだが、全部満喫しました。特にピアノ協奏曲のユニークなリズムと響きは新鮮でした。つんのめったようなリズム、これは外山の日本民族の民謡その他から直接曲を借用したのではなく、彼の研究のトータルとしての響き、いろんなものを飲み込んで全部が自然に出てきた、そんな感じのするユニークなもの。中村さんのピアノも久しぶりに聴きました。昔、ギーレンの棒のもと、矢代秋雄のピアノ協奏曲を地を這うように弾いていた姿はここには面影しかありませんけれど、外山の曲想をよくとらえた素晴らしい演奏だったと思います。演奏家は腕で勝負を、あたりまえか。
また、オーケストラの響きが多彩でいいですね。N響には余裕の演奏。もしかして外山の曲はみんな演奏しやすいのかもしれない。

1985年に国連の40年記念かなにかでニューヨークでN響は外山の指揮で演奏会をしたことがあります。(越天楽、ドヴォコン(堤)、ベト7、)
このときのアンコールがラプソディーでした。ほぼ定番とはいえ実際耳にして、興奮しましたね。印象としては高音域多用、太鼓が強い、借用で全部出来上がってしまった、むき出しの音楽でちょっと赤面、でも日本人を実感。ベト7のあとのアンコールピース、興奮が持続、リズム的にはベト7もつんのめる感じがあり雰囲気も継続、最高でした。
それで今回のラプソディー、N響はもっとくずせばもっと面白かったと思う。スリルがないのは毎度ながら、遊び心があればと。爆発的でない拍手が全て物語っていたようです。
優秀な演奏は内面を浮き彫りにしたのかもしれません、日本とオーケストラが存在し続ける限り、この曲は永久不滅でしょう。

後半の映像つきトークは面白かったですね。ゲストはいらなかったと思います。外山と中村の話だけで十分。内容についてはテレビでやると思います。(8/26朝6時BSプレミアム・特選オーケストラ・ライブ)

最後の曲は3管編成の大曲「帰国」。これは回帰という意味合いらしい。原点回帰というよりもヨーロッパで吸収したものが花開いた。形式についてはそうだと思う、響きは前半のラプソディーをひきずっている。独特のリズムはここでも同じ。日本の民謡とか民族音楽を引用するとこうなるのだろう。パーカッションの響きが強すぎるのも日本の太鼓引用だからこうなるのか。
クライマックスに向けた大げさな大向こうをうならせるような事態にはならずコンパクトにまとまり、いろいろな響きを楽しめました。これは1965年の作とあるから、もう一度回帰はあるのかな。
おわり


1371- タンホイザー、エルガー2番、ダニエル・ハーディング、新日フィル2012.6.29

2012-07-02 20:21:46 | インポート

2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2011-2012シーズン
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2012年6月29日(金)7:15pm
サントリーホール
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ワーグナー 歌劇「タンホイザー」序曲~ヴェヌスブルクの音楽(パリ版)
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エルガー 交響曲第2番
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ダニエル・ハーディング 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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タンホイザーは一音目から非常に心地よい響きで耳にやさしい。うっとりするような魅力的な音だ。そしてヴェヌスブルクの最後の最後は、リタルダンドから減速を推し進め、合わせて曲を通してのメゾフォルテ音楽からひたすらピアニシモに減衰し、最後は停止するのが先か、音が無くなるのが先かといった様相を呈し、ワーグナーのうねりは皆無、ドラマチックの対極で、タンホイザーのオペラストーリーも無視した、衰退の美のような演奏表現に驚きました。彼流の贖罪表現かもしれないところはありますが。
これはこれでありかなとも思います。オペラが不慣れという噂のようなことはツイッターでヨーロッパのオケピットの独り言を目にしたこともありますが、後半のエルガーや、これまで何度か演奏会に接してきた表現内容を考え合わせると、もはや不慣れどうのこうのではなく、ハーディングの今のスタイルであり、それは極めてあくが強いもの。ディテールに光をあてる、換言すれば、こだわり。その為にはテンポを落とす必要がある。といったロジック。ディテールとテンポどちらが先なのかわかりませんがいずれにしても、弱音の美学と微にいり細にいりの表現が一体化している。うねりではなく静止のエクスプレッションですね。
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後半のエルガーについては言を俟たない。
スタイルは前半とほぼ同じ。エルガーは交響曲ですし形式的、構造的な意味合いをワーグナーよりもう少し前面に出してもいいと思うのですけれど、そうはなっていない。特に感じたのは主題推移の経過句への必要以上のこだわり、経過句が経過せず前半のワーグナーのように微に入り細に入りの表現になっている。これがどういう意味、解釈なのか分かりません。
とにかくこのように経過句にもこだわるあまり全体のフォルムがバランスを崩しシンフォニックではなくなり、またエルガーらしくないというか思ってもみないエルガーでした。耐え切れず緊張の緒が切れちょっと緩んでしまいました。必要以上の愛着が必要なのかもしれませんね。
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エルガーの大編成曲の聴き方はイギリス・ブラバンのような響きを堪能しながらデリカシーも感じとる、構造も理解しながら。そんな聴き方をすると割と楽に聴けるのでいつもそんな感じ。(ノーブルな聴き方は出来ませんw)
この2番の交響曲はどの切り口からでも1番の方に移って行ってそのまま続いてもあまり違和感のない曲で、あれ?いつのまにか1番になっている、そんな感じのする曲ですね。
1番ほどの閃きはない。
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ハーディングがこのような状態ですので、例えば第3楽章の爆発とか、第1楽章結尾の駆け上って何かをこじ開けるといったあたりの表現が決まらない。また最終楽章のピアニシモのエンディングに関しても、最初から始終このような演奏表現である為メリハリがなく、終わりなのか途中の減衰静止なのかとまどう。
この日の演奏のよかったところは曲自身によるところが大きいと思う。つまり曲を消化表現できていないと思いました。
この感じでブルックナーをやったら、聴かなくてもだいたいわかります。ちょっとそれますがマーラーは振れるけど(振れると思っているけど)、ブルックナーが今いち、という指揮者は日本人でも多いですが、時間推移する構造の力学というと音楽なのに理系っぽいとたたかれてしまいますけれど、まずそこらへん修めてから振りなおしてみるのもよいかと思います。最近、マーラーの構造に光をあてた棒を振るのはアシュケナージぐらいではないか。昨今の日本人指揮者や日本でうけている外国の指揮者の内容は変態とは言わないが、かなりグロテスクな方向に向かっていると思う。一度、構造に光をあててみてくださいねと。マーラーが振れるというのは錯覚だと思います。大部分振られている。
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ただ、ハーディングはたんにそれだけの指揮者とは思っておりません。曲に対する思い入れと表現の思い込みが今はハイブリッド化している、そのように見えます。だんだんと開けてくるとは思いますが、でもこれらの要素だけでは足りないということの認識も必要です。ですから、唐突ですが、フルトヴェングラーは全てを持っていた。全てを表現できていたから偉大だったんですね。今のハーディングに哲学を求めるのは酷なのか。
おわり


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