河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1461-【本】ジャン=ジャック・ルソーと音楽 海老澤敏著 半世紀に及ぶ研究の集大成

2013-02-24 10:43:10 | 本と雑誌

 
本紹介です。
ジャン=ジャック・ルソーと音楽 海老澤敏著 半世紀に及ぶ研究の集大成
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 本書はルソーと音楽を巡る著者の半世紀に及ぶ研究をルソー生誕300年に当たって集大成したものである。すでに『ルソーと音楽』(1981年)他によって「音楽者ルソー」について世界に例を見ない業績をあげ、ルソー研究の一翼を担ってきた著者は、旧著に種々の書きものを加えて新たな一冊とした。
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 ジュネーヴ生まれの共和主義の政治哲学者ルソーが書簡体小説や自伝的作品を残した文学者でありまた教育思想家でもあったことはよく知られているが、作曲家で音楽理論家でもあったことは周知のことではない。「ルソーはまず音楽家だった」と著者が言うのは決して誇張でない。新記譜法の成功を夢見て30歳でパリに上り、『百科全書』に多数の音楽項目を寄稿し、幕間(まくあい)劇「村の占い師」がルイ15世の前で上演されて大成功を収め、『音楽辞典』を刊行し、「オテロ」の「柳の歌」を作曲しつつ死を迎えたルソーにとって、音楽は生涯の情熱だった。
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 本書の内容はルソーの音楽体験から、その音楽上の創案、「魂の表白」としての音楽思想、旋律の統一性や和声に対する旋律の優位等の音楽理論、声楽曲を中心とした120曲もの作品中の主要作解説、「むすんでひらいて」の「原曲」探しまで、多岐に亘(わた)る。イタリア音楽への愛からラモーに代表されるフランス音楽を根源的に批判したルソーとラモーの論争やモーツァルトとルソーの「親近性」もさることながら、音楽とは本来何かを問い音楽の本源に常に立ち返るルソーの姿を描くのが本書の眼目であり、最大の魅力でもあろう。こうしたルソー=音楽家観が本書の通奏低音をなしており、著者のルソー理解の真髄(しんずい)でもあるのだが、繰り返しが多いのが多少気にならなくもない。しかしこれもそれだけ著者の思い入れが深いということなのであろう。
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 残された課題はルソーの音楽思想と彼の文学・哲学・人間学・政治思想との架橋ということになるが、これはそう簡単ではない。まずはルソーの音楽作品の目録完成を期待したい。
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〈評〉中央大学教授 永見文雄(ぺりかん社・5800円)
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著者:
えびさわ・びん 31年生まれ。国立音楽大学長・理事長・学園長、新国立劇場副理事長・同劇場オペラ研修所所長を経て、国立音楽大名誉教授。著書に『音楽の思想』『モーツァルトの生涯』など。


1460- ヘルベルト・シュフ最高、リスト前奏曲、協奏曲第1番、サン・サーンス3番、準メルクル、N響2013.2.20

2013-02-23 10:47:00 | インポート

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2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちら
2012-2013シーズン
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2013年2月20日(水)7:00pm
サントリーホール
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リスト 前奏曲
リスト ピアノ協奏曲第1番
  ピアノ、ヘルベルト・シュフ
(アンコール)
バッハ - ブゾーニ編曲
コラール前奏曲「イエスよ、わたしは主の名前を呼ぶ」BWV639 
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サン・サーンス 交響曲第3番
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準メルクル 指揮 NHK交響楽団
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前奏曲はトランペットとトロンボーンがあまり品の良い鳴りの曲ではなくて、どうかなと思うところもあるのですが、なぜか好きな曲。感情を押込めたような冷たさのなかに、ときたまウェットに浮かび上がる心情のようなものが滴る。埃っぽい中にキラキラと。
N響の演奏は一言で言うと、非常にちからの抜けた力まない8分目の鳴りで、気張らない、余裕のあるさまがありありとわかる。そんな演奏だったように思います。なにの前奏曲かわからないが悟った様な清らかな演奏でよかったと思います。
メルクルはその情感の部分をねっとりと歌うことはせず、むしろテンポを速めながら流れるように歌う。見事な解釈だったように思います。このようなうねりはバルビローリの演奏が重なります。
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2曲目のコンチェルトとアンコール。ヘルベルト・シュフ、初めて聴く名、それに演奏。確信犯的な出し入れ操作。したたる詩情。冒頭からワンフレーズの中の空白を自由に動かしながらオタマを出しいれしている。かなり濃厚だが、作為的と思わせない詩情がある。ものすごいデリカシーと説得力。リストがショパンになった感じ。
こうなると作為というより、自身の自由な響きと呼吸を意識しながら表現行為をしているのはもはやこの耳に明らか。
柔らかく流れるのではなく、繊細なデリカシーが川面に漂っている。非常にユニークで説得力のある演奏でした。
アンコールでそれを推し進めて証明。なんたる詩情のバッハ。作品を愛しむさまは異常ともいえる。愛するものを愛する方から表現する。そんな感じ。
こうなると見事という言葉しか見つからない。自由な表現というのは、全てのことを表現するということではない。ある一面かもしれない、それでいいいではないか、素晴らしい感覚のバッハ。
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プログラム後半は、音が派手な割にはとりたてて演奏回数が多くない名曲。シンフォニーの構成、造りが浅い、浅いとはわからなくても皮膚感覚で底が浅いな、と実感しやすい曲。
メルクルは見透かしている。ここでも緩徐部分をうっとりとせず比較的速めに流しながらうねらす。ですので、もたれない。こうするしかない。
細い鉄筋の隙間からあちらが見えるような響きの曲で、オルガンもあるしピアノもあるし、それなりに楽しめました。
ところで第1楽章第2部は通常の第2楽章に位置する緩徐楽章風です。最初の弦の歌に続き、ブラスユニゾンがフレーズを繰り返します。ここ、見ていると、トロンボーンのトップとホルンの3番が二人でユニゾンしている。この二人の距離、推定7メートルぐらい。こうゆうところは現場で見てわかる醍醐味なのかなと。
おわり

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1459- ダフクロ、SSチェロコン、ダニエル・ミュラー・ショット、準メルクル、N響2013.2.16

2013-02-20 00:10:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2012-2013シーズン
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2013年2月16日(土)3:00pm
NHKホール
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サン・サーンス チェロ協奏曲第1番
 チェロ、ダニエル・ミュラー・ショット
(アンコール)
ブリテン 無伴奏チェロ組曲第2番第1楽章
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ラヴェル ダフニスとクロエ、全曲
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合唱 国立音楽大学
準メルクル 指揮 NHK交響楽団


前半のサン・サーンス。
チェロの台座がスピーカー代わりになったのかどうかわかりませんけど、響きが濃厚。特に中低音の潤いのある幅広のサウンドは魅力的で素晴らしかった。高音も線が細くなることが無くて、全般にムラの無い響き。20分ぐらいの曲で終わってしまうのはなんだかもったいない。(席は、台座とステージの間に出来る空間の位置よりも少し低い。いわゆる平土間前方)
チェロの魅力を堪能しました。
アンコールは初めて聴く曲で、調性が感じられず、かなりやにっこい曲。誰のなんという曲かまるでわからず。チェロの鳴りの良さだけが気持ちいい。あとで、ロビーで曲名を知りました。初めての曲なのでタイトルを見てどうだという話でもないが、ブリテンのここらあたりを聴けば音楽をもっと幅広く楽しめるだろうなあと思わずにいられませんでした。
最近、「20世紀を語る音楽」(上・下)を読み終えたばかり、その中でブリテンの項が出色。
PGは今シーズン観ましたが、この本とともにほかの曲にも興味が湧いてきたところ。いいきっかけの演奏を聴きました。ブリテンはほかのイギリス作曲家と作風がかなり異なり、あの本で輪郭を知りなるほどというところがおおいにありました。
(テノールとホルンのセレナードだけは昔からよく聴いてます。)
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準メルクルは体が軽そうでうらやましい。指揮の棒に影響が出そうな肉はまるでない。横揺れはあまりなく、縦揺れの振幅が結構ある。縦に動いて疲れを感じないような体で本当にうらやましい限り。
ダイエットしたいと思います。
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ラヴェルは耳を洗われるようなサウンドで、前日のオケとはだいぶ違う。
メルクルは縦にジャンプしているだけでなく、そうとうオケを引き締めている。コントロール美といってもいいかもしれない。効率のいいリハーサルや的確な指示、それにあうんの呼吸のようなものがありそうだ。
メルクルの棒というのは、全部の音を隈なく出し切るというふうに見えます。パート奏やアンサンブルでも全部ゆきとどいており、曖昧さを避けているように見えます。これだけで透明なラヴェルがさらにダイナミックさを増してきます。パースペクティブな装いは必然的にあまり感じない。フラットになってしまうかというとそうでもなくて、楽器の音量増量がそのままオケサウンドとして比例増大。圧倒的な迫力。だから作為的なものは感じないのに機能美のようなものが心地よい。響きの世界に浸れる。
第1部終結の合唱のみの部分でオーケストラの照明を落し、バックの合唱を浮き上がらせる。演出まではいきませんが効果的なスポットライト。光りを戻して第2部の爆発へ。昔のミュンシュのLPとかだとここでB面にひっくり返すために立ち上がった。
この日のダフクロは53分ほどだったので、第1部25分はほぼ半分の道のり。昔のLPの割り方も正しかったのかもとふと思ったり。
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また例えば、ミュートでの超高音といったことはラヴェルが積極的に音色変化を求めているからなんだろうか。ピアノ協奏曲なんかでも際どいところありますよね。
迫力ある音色変化はオーケストラを聴く醍醐味。ドライで整理尽され響きの饗宴を楽しめました。
N響の着地ポイントてドイツ風正三角形なのかな、というところがあり指揮者は最後まで手綱を締め続ける必要がありますけれど、幅広ではなく久しぶりに縦に上下に動いたサウンドを満喫できました。
おわり


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1458- エポックメイキング・ナイト、マーラー10番クック全曲版、金聖響、神奈川フィル2013.2.15

2013-02-18 19:00:00 | コンサート
2013年2月15日(金) 7pm 横浜みなとみらいホール

マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調
デリック・クック補筆完成版

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金聖響 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

マーラー全曲企画の一環のようですが、この曲全曲をやるだけで残りの分全部ほどの価値がある。国内外問わずブレークしっぱなしのマーラー公演、それに録音ですけれど、こと10番全曲版に関しては、数えるほどしかないと思う。レアなのは当人の作ではない部分が多すぎる為と思われるが、9番までこれだけブレークしているんだから指揮者のスタンス含めもっと考えを先に押し進めてもいいかと思います。指揮者の意にそぐわなくてやらないケースでもやる、を含めて、聴衆に判断させる」ある部分、そういうところがあってもいいかと思います。解釈より曲が先です。
解釈より曲が先ですが、その曲自体に問題があるということはわかりつつ、まず音響にしてみたらどうか。
クック版はあまり拡大解釈のない全曲版で、これまで相応の地位を築き演奏されてきました。昔は全曲版と言えばクック版。今はたくさんの版が出ています。指揮者によっては、この版ならやる、あの版ではやらない。ということの無いようお願いしたいと思います。解釈が先に立つ指揮者は今ではあまりいませんし。個別のオーソリティはいると思いますが。

ということで、この日の棒は金聖響さんお初です。曲に対して大変に素直な指揮で、上記のような問題点も感じません。もっと欲しいのは生々しさかな。

第5楽章の冒頭は死者さえ生き返るバスドラの地響きで始まると思いきや、「ポン、ポン、・・」とやや強めのお経風で、ちょっと拍子抜けしました。あの太鼓は何と呼びますか?平土間からは見えません。

第1楽章と第5楽章はアウトラインが見えてこない。
本人作の第1楽章においても主副テーマとその対比みたいなところはなく、モヤモヤと進むやにっこい曲。むしろ、第1楽章が回帰する第5楽章ではその回帰よりも前楽章の雰囲気の継続が濃厚で、当人作ではヤッパリないよな、と感じさせるところは大いにあるものの響きの変化ではこの第5楽章のほうがよっぽど面白い。
中間部で弦が思いっきり歌いその頂点で弦が止み、ポンがはいりチューバソロが再起。これはこれでいい感触の縁取りでしたけれども、終結部では再度うねる弦が鳴る鳴る、のはずの帰結が肩透かしというか空振り、これはオケに問題があると思います。響きが薄く感じるのは物理的なせいかもしれませんが、それとは別に、滔々と流れない。指揮者の意が音の流れとして見えてこない。その意味では第1楽章も同じです。
「コクが無い」というのは抽象的な表現とは思いますよ、でもそんな感じ。
しかし、そのコクの前に、

もっと前に、味のある演奏の前に、「フルぢから」で。
よくわかりませんがこのオーケストラは、パート練習が多く、生演奏会(GPも含め)が少ないと感じました。後戻りのできない生々しい生演奏を繰り返せば「コクの感触」まで行き着くことができるのではないか。手がかりはスコアだけ、最初はたしかにそうですが。
誰か骨太の奏者が何名かいて強引さをだせば、オケもたぶんイキイキしてくると思う。

指揮者は引っ張ろうとする。なかなか、フルぢからでついてこないもどかしさ。
それでも第5楽章の面白さはよくわかりました。
オーケストラは、ブルガトリオと前後ろのダブル・スケルツォ、この三つの楽章の流れがいい。それから、ブルガトリオのあとそのまま第5楽章に入っていくような錯覚をおぼえました。この第3楽章と第4楽章は違う音楽のはずなのに異質さを感じない、むしろ同質の響きに聴こえてくる。オーケストラの流れの良さがあったからかもしれません。
この第4楽章のいい流れが第5楽章で再度クローズアップ。このようなケースはマーラーではあまりなく、第5番の第4,5楽章は速度を変えれば同じふしの山、といったケースもありますがそれとは方向性とか暗さの度合いが全く異なる。
10番はやっぱり他人の作ということになるのかしら。

メラメラとした生々しさや、オーケストラの赤裸々な演奏を。それがこの曲のスタイルかどうかは別にして、オーケストラの表現の幅の広さを示すことができるという可能性の部分で、円の片側に留まっているように見受けられました。
総じて10番の体験としては意義深い夜となりました。ありがとうございました。
おわり



1457- Defying Wagner With Buckets of Blood メトのパルジフ

2013-02-14 22:45:20 | NYT

ニューヨーク・タイムズ2013年2月7日(木)の記事です。
メトの新演出パルジファルの初日は2月8日でしたので、記事はリハーサル等についての内容となります。
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NYTの2013.2.7オリジナル記事はこちら→ここ
ここにもあります→ここ

Par

左から、カウフマン、ダライマン、パペ、マッテイ

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大量の血でワーグナーに立ち向かう
CORINNA da FONSECA-WOLLHEIM 記
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月曜(2013.2.4)の午後、ヨナス・カウフマンは真っ赤に汚れた手で、メトロポリタン・オペラハウスの楽屋に立っていた。彼がタイトルロールを歌う新演出のパルジファル第2幕のリハーサル。メーキャップなしでジーンズによれたシャツという格好で、肌には舞台の上の血がついたままだった。
この演出には大量の血がでてくる。映画監督フランソワ・ジラールによるものでこの金曜日(2013.2.8)にメト初演出となるものです。(これはリヨン・オペラと共同制作になるもので既に3月に当地で初演済み)
第1幕では舞台を二分する乾いた河床を血で満たす。第2幕では床全体が、水とグリセリンと食品着色料で作られた偽の血、1600ガロンでおおわれる。
「このオペラはいたるところ血だらけだな。」ドイツのテノール歌手カウフマンは続けて、「これは治らない傷に関係してるんだから、この傷の中で第2幕をやればいいんじゃないかな。」
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1882年に初演されたパルジファルはワーグナーの最後の舞台芸術作品。寓話、儀式、哲学的な遺言でもある。ワーグナーは紫色のインクで書いたパルジファルを舞台神聖祝典劇Buhnenweihspielとしました。
ワーグナーはバイロイト以外でパルジファルを上演しないよう言い残した。バイロイト祝祭歌劇場は、オーケストラピットを覆い隠し、聴衆を暗さの中に陥れることにより、これまでにない没入と敬意を持った聴き方を作り上げた。今日まで、バイロイトにおけるパルジファル上演では最後に拍手はありません。(*そんなことはない。河童)
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スコアのコピーが密輸され、1903年にバイロイト以外ではメトで初めてパルジファルが上演されました。それ以来、誘惑に抵抗し聖杯騎士のパワーを手に入れる幕で、知識というものを得る「無垢の愚者」のドラマには解釈が要求されるようになった。
「パルジファルは監督してうまくいくようなもんじゃないんだな。」レッド・ヴァイオリンといった映画等で知れ渡るカナダの映画監督ジラールは言う。「5年間パルジファルの仕事をしてきたんで、今ならシアタースクールの連中に、なんで不可能な作品なのか講義できるようになったよ。」
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ジラールのパルジファルのビジョンでは、地球温暖化によって不毛になった世紀末後の世界を描いている。マイケル・レヴァインのセットについてカウフマンはこう言っている。「長年雨が降らず、地表に割れ目ができているアフリカのイメージなんだ、まさに。」
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前奏曲の間、聴衆がみるものは反射するカーテンに映し出される自分自身です。「レディース・アンド・ジェントルマン、さあ、あなた方自身の物語の始まり始まり。」ジラールは続ける。「これは自分自身の、哀れみと誘惑の根本原理、それに精神性を探すことに関するものなんだよ。」
ほとんどのパートはワーグナーのテクストに近いとジラールはさらに付け加える。「白鳥もいれば、槍もあれば、聖杯もある。」「第2幕はいつだって抽象的。暗黒の王子クリングゾルについては、それは意識下のものとして明らかにされる。アンフォルタスの深い傷の中に分け入れば、それは奥底の人間の血のなかにあって、結局は重心部分なのです。」
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第3幕でアンフォルタスの傷が癒え、パルジファルが聖杯の槍で国を再統一。そのアンフォルタスを歌うのはピーター・マッテイ。グルネマンツはルネ・パペ、十字架のキリストを笑った罰、幾世にわたる苦痛の輪廻から救済されたい誘惑女クンドリをカタリーナ・ダライマン、クリングゾルはエフゲニ・ニキーチン。
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ジラールによると、輪廻、自己犠牲、哀れみの啓発といったオペラのテーマはワーグナーの仏教的な魅力であるのは明らかである。ショーペンハウエルの著述を通して東洋の精神様式をワーグナーは知った。特に自己犠牲という仏教の理想はワーグナーの女神であるマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙や、彼の妻コジマの日記の中に出てくる。
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ジラールのビジョンでは仏教徒の法輪は聖杯騎士により表現される。彼らは完全円の片側に座る。前のオットー・シェンクのメト演出でグルネマンツを歌ったパペは次のようの言っている。「閉じた円、騎士たちが打ち破りたいが出来ない、そんな円。」
パペはさらに言う。「それは、男の世界、喪失の感覚、希望、不連続の感覚。そういったものを表現している。他方、排除された女性の社会がある。彼女たちは絶えず新たな星座を作り続ける。男性の配置は安定したものであるけれど、貧弱なもの。4時間半後全てのものが一緒になり、人間的な音符で終わることになる。」
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このオペラは長大で、また180人におよぶ歌い手、ダンサー、エキストラが必要で、やむを得ずディテール部分の扱いをちょっとはしょった。とジラールは言っている。合唱メンバーにはステップごとに合図を送るのではなく、自発的な動きが出来るようにした。
テクストの詳細部分はそれぞれの役の間でやりとりをし、熱がはいった。古いドイツ語っぽくてなんだか曖昧な感じだったけどね。とカウフマン。
ト書きに関しては、指揮者のダニエル・ガッティがト書きの位置をうまく調整できるようにした。
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「この作品はみなさんより偉大なんだ。」とジラール。「それはエゴをみんな一様なものにしてしまうんだ。なんでかというとそれは残存する巨大な作品の中にくっつける以外選択肢が無いからさ。」(*意味不明。河童)

「いつでもこの音楽の美しさは圧倒的だよね。」とカウフマン。「これら全ての奇跡と全てのこの情熱が書かれているこの音楽はちょっと信じられないほどゴージャスで魅惑的だ。この音楽にみんな吸い込まれるよ。宗教に関心が無い人たちでさえ、この音楽を聴いている間は、なんだか宗教的になるんだよ。」

以上


1456- マーラー10番 いよいよ

2013-02-12 22:20:50 | インポート

もうすぐこの演奏会があります。

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マーラー 交響曲第10番
(デリック・クック補筆完成版)
2013年2月15日 横浜みなとみらいホール

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神奈川フィル公演

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当日の演奏会を楽しみに待つことにします。

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ところで今までに実演で聴いた10番コンプリート・ヴァージョン、思い出してみたのですけれど国内で聴いた記憶なし(たぶん)
あちらでは2回分は思い出せます。ほかにもあったような気がしますが今思い出せるのはこれら2回3公演。
ザンデルリンク&nyp(2公演)、
ラトル&LAP(1公演)
だいたい四半世紀以上前の公演です。

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加工せず再掲しておきます。なお、多種の版が今でこそにぎわってますが、当時はクック版ぐらいしかなかったと思います。版のことには言及しておらず、むしろ全曲版を行うこと自体のスタンスや、バランス、構成などに対する話がほとんどだったと感じます。
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661-マーラー10番 クルト・ザンデルリンクNYP1984.1.5

662-マーラー10番 クルト・ザンデルリンクNYP1984.1.5 その2

663-マーラー10番 クルト・ザンデルリンクNYP1984.1.7


030-サイモン・ラトル29才のマーラー10番1985.1.18 -1-

031-サイモン・ラトル29才のマーラー10番1985.1.18 -2-

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以上です。


1455- テイキングサイド 銀河劇場2013.2.4 偉大なものは単純である。

2013-02-09 21:00:00 | インポート

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2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2012-2013シーズン
テイキングサイドは、演奏会ではありませんが、このカテゴリーに入れます。
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2013年2月4日(月)7:00pm
銀河劇場
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行定勲 プロダクション
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「テイキングサイド」
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キャスト(in order of appearance)
連合米軍少佐スティーヴ・アーノルド、筧利夫
エンミ・シュトラウベ、福田沙紀
中尉デイヴィッド・ウィルズ、鈴木亮平
ヘルムート・ローデ、小林隆
タマーラ・ザックス、小島聖
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、平幹二朗
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世界最高の指揮者フルトヴェングラー(ドイツ人)は、第2次世界大戦中、なぜドイツに留まり続けたのか、という劇です。
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第1部 1時間15分
休憩15分
第2部 1時間10分
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使われるシンフォニー。(鳴った順)
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・ベートーヴェン交響曲第5番第4楽章 
 *コーダで音が抑えられるが、たぶん1943年録音のもの。
・ベートーヴェン交響曲第8番第1楽章
・ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章
・ブルックナー交響曲第7番第2楽章 
 *実際の戦中宣伝録音かと。劇中で取り上げられる。
・ベートーヴェン交響曲第9番第1楽章
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劇内容にはあまり触れず、縁取りを思うまま書きました。

以下。
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個人的に印象に残ったのは、第2部真ん中ぐらいのところのやりとり。
連合国米軍少佐スティーヴ・アーノルドが
部下の中尉デイヴィッド・ウィルズに、
「君はどっちの側につくのか」
という、まさにタイトル通りのセリフが出てきます。
その直前、
「君はユダヤ人だろう」
と言うところ。
アーノルドも矛盾を抱えているとここで理解。
テイキングサイドというタイトルは原題では複数形で takingsidesテイキングサイズ。
相対するものは芸術と政治だけでなく、国民と芸術、あなたとわたし、いろいろな解釈が出来そうだ。
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あと、アウシュビッツ映像にベト7の第2楽章が流れたこと。
これでは過去を美化の範疇に入れてしまう。ロマンチックに過ぎた。ワイドショーとか夜のお笑いのようなニュース番組でも、死んだ人間のストーリーを追う時に音楽をつけるが、あれと同じだと思った。
たしかに、コンサートで著名音楽家が直前に亡くなったとき、演奏プログラムの前にこの曲を流して追悼したりすることもあるが、この劇ではちょっと違うかなと。

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それから、最後の場面、舞台の背景が上がり、フルトヴェングラーが奥で後ろ向きに第九の第1楽章を振り、エンディング。
ここは瞬時に、チェリビダッケの廃墟でのエグモントの映像がオーバーラップ。ここで、劇が開いた。戦後復興というもう一つ、忘れてはならないことを想起させてくれた。
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ベルリン・フィルのそう長くもない歴史ではあるが、常任指揮者は今のサイモン・ラトルを含めても事実上たったの6人。ラトルの前がアバドで、その前がカラヤンでその前がフルトヴェングラー、今につながっている実感。(チェリビダッケはシチュエーションが少し違う)
フルトヴェングラーは1954年にたったの68才で亡くなった。だから晩年と言っても今なら指揮者にしてはそうとうな早死に。あれだけ過激な棒を毎晩振っていれば寿命も縮まってしまってもしかたがないのではないかというリアリティーは確かにあるが。
その晩年耳がよく聞こえなくなっていた。
これは治らないものであるし、性能のいい補聴器もない時代、彼は自身の障害を運命として受け入れざるを得ないと思っていたことだろう。ただ、この劇は戦後すぐの設定。難聴になる1950年頃以降とはちょっとちがうというのはある。
カラヤンは出来のいい若者レベルから、最後は相克のレベルまでいったと思うが、フルトヴェングラーが書いている数々の本を読んでみると、高みの境地の種類が違う感じがする。
ドイツ最高の指揮者が世界最高の指揮者であるそのような通奏低音的響きは、むしろ生まれたときからの前提のようなものであったのではないか。だから逆に彼を悩ますライバル指揮者は同じ国内にしかいないのであって、当然の相克でもある。
それはそれとして、ミュンヘン大学教授の息子として英才教育を受けてきたフルトヴェングラーの音楽の書をここは読み切るべきだろうと思ったりもする。彼の棒の動きは自己哲学の実践であり、そのようなことを具現化した人物は前にも後にもいない。
相克、難聴。ピュアな再現芸術の使命とは別のところでいろいろとあったことはたしかではあろうとは思うけれど。
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私生活を崩しにかかるアーノルドであるが、劇とはいえこの執拗さは、フルトヴェングラーが再婚した25才年下のエリーザベトが100才を越えた今()、フルトヴェングラーの芸術を語り続ける彼女が見たらどう感じるであろうか。今のシチェーションで戦後を眺めたら事実が歪んでしまうかもしれず、その意味では問題提起になっていると思う。熱狂的なフルトヴェングラーファンにとって、私生活面をクローズアップすることはこれまでなかったというか、意識して避けてきたことなのかもしれない。
まぁ、今の彼女なら、やきもちやかんでしょ。
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ナチが政権を掌握した1933年という言葉がキーワード的に何度か発せられますが、これは象徴的なことであって、フルトヴェングラーが初めてやばいと気がつくのは翌年のヒンデミット事件からではないでしょうか。音楽と政治が対峙した。その前から帝国枢密顧問でありその意味ではドイツ、ズブズブであったと言えなくもない彼は、そのとき辞任。帝国枢密顧問の権力を手放すことの作用。音楽という空気と政治という力の対峙が自分の現実となった。
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思えばニキッシュのあとを襲い、1922年にベルリン・フィルの座を手に入れたフルトヴェングラーは、その年代は最高のシーズンを送り続けていた。かのニューヨーク・フィルへの客演も3シーズン連続で行っている。
*フルトヴェングラー&ニューヨーク・フィルの全プログラム。
1924-1925シーズン
1925-1926シーズン
1926-1927シーズン
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もちろんバイロイトも振りまくり。ここらあたりでヒトラーの影が見えてくるわけです。
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その後、上述のようにドイツ国内に踏みとどまったとはいえ、最終的にスイスに亡命というか一旦退避。前夜の先を急ぐフランク、ブラ2の濃すぎる演奏は、心情反映と言われてもしかたのないところ。
一般に言われている、彼の芸術表現は戦争というアブノーマルな時代だからなしえたものではないか、というトークには反対です。昔ちらっと書いた。→ここ
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そしてフルトヴェングラーの戦後は1947年のベルリン・フィルとの巨大な演奏、エグモント、田園、運命ではじまる。
残された時間は少なかったけれど、エキセントリックな強烈解釈が続くかと思えば、一方でスタジオ録音、戦争の呪縛から解放され落ち着いた精神状態が耳に取るようにわかる美しい演奏スタイルも完全に決まっている。
これら全て、音の塊としての動き、崩しではなく生き物が動く様な演奏表現、そして最初の音から既に最後が見えている造形感。ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの構成美を見事なまでに表現。一度全てをぶち壊し飲み込み、自らのものとして再構築。再現芸術の極み。まさにベートーヴェンと同じではなかったか。壊さなければ創造はできない。形式のぶち壊しと再創造。第九のアダージョとスケルツォのひっくり返しをあげるだけで十分だ。
いろいろな指揮者たちがいろいろとやりたいことを主張しているそれら全ての表現をフルトヴェングラーの棒は内包していた。一聴やりすぎではないか、と思うのは結局そういうことなのだろう。幅の広さと奥行き、高みと深さ。
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最後に微妙なことを書くと怒られそうだが、戦中のフルトヴェングラーの第九演奏会の映像が残っておりますが、最前列に座るナチ。とりわけ、ゲッペルスのフルトヴェングラーを見る、その夢見るような眼差しが脳裏から離れない。
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ということで、「テイキングサイド」は国内では以前「どちらの側に立つか」という題で舞台にのってます。
また、イギリスでの初舞台の評が1995年の朝日新聞に載ったことがあります。→ここ
ついでに、指揮者巨匠時代の写真を→ここ
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劇のことはよくわかりませんが、筧さんの独り舞台かな。あのような長いセリフが細かいニュアンスとともに滔々と流れる、まさに、アンビリーバブル!
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銀河劇場には初めてきました。天王洲アイルというモノレール駅は、昔、飛行機通勤wしていたころはなかった駅。あとでつくられた駅ですが、最初の頃のそんな面影は全くありませんね。
以上です
(河童記:昭和49年からWFSJはいってます。ヲタクではありません。)
終わり

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:エリザベート・フルトヴェングラーは、2013年3月5日、102歳で亡くなりました。
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1454- タンホイザー、オペラパレス、新国立、初台2013.2.2

2013-02-04 23:35:00 | オペラ

2013年2月2日(土) 2:00pm  オペラパレス、新国立劇場、初台

ハンス=ペーター・レーマン プロダクション
プレゼンツ

ワーグナー タンホイザー

キャスト(in order of appeaance)
ヴィーナス、エレナ・ツィトコーワ
タンホイザー、スティー・アナセン
ウォルフラム、ヨッヘン・クプファー
ワルター、望月哲也
ビテロルフ、小森輝彦
ハインリヒ、鈴木 准
ラインマル、斉木健詞
イェリザベス、ミーガン・ミラー


新国立劇場合唱団
コンスタンティン・トリンクス、指揮
東京交響楽団


ストレートなストーリーなので舞台にはメリハリ、コントラストの妙があれば楽しめる。
いきなり舞台が底から上に移動したりして期待感を持たせたが、結局この第1幕から最後の3幕までかわり映えのしないものでした。引っ越し公演用の舞台と言われてもしかたがないでしょう。このようなクリスタルっぽいのは使い古されてしまっていて、今ではかえって逆に、山があり谷があり草木が生え水が流れて神様がいる。ワーグナーにこんなイメージを持っている人たちもいますね、そもそもオペラも観劇の一つであってそうゆう人たちにとってはそれなりのイメージがある(実際にそのようなイメージを抱いている人たちもおります)、それでよかったのではないか。
演劇要素、アクション、よみかえ、いろいろありますが、それらは素材であり一度使えば、次に自分がやらなくても誰がやっても陳腐化してきます。初めて観る人、たまにしか観ない人たちにとって自分たちの立ち位置というかストリーム、音楽シーンを捕まえ切れていないわけで、そんななかで妙なプロダクションとかだと放り出された感じになる。この日の演出は、妙ということはありませんでしたけれど、あれだけ動かないのなら、山谷川海でいいのではないか。
全体に動きが無いので演劇的なリスクがあまりなくて、思いっきり歌に集中できるという側面、本来部分を側面というのも変ですが、この日の演奏は、歌も側面止まりでした。
硬い声から柔らかい声まで、いろとりどりでしたけれど、ウォルフラムのヨッヘン・クプファー(ハーリ・クプファーと何か関係がありますか?)の非常に柔らかい声、舞台を轟かすようなものではなく、本人の静かさが聴衆の静かさを誘導する具合で、聴き耳を立てさせるレベルはたいしたもんだと思いました。欲を言いますと山と谷が欲しいですね。
イェリザベスのミーガン・ミラーは舞台映えのする人で魅力的でした。第2幕の最初の方は今ひとつでしたが、だんだんとエンジンがかかってきたのか、やはりメトのような大舞台に容姿、声ともに向いていると思いました。割とファンになりました。
ヴィーナスとタイトルロールは新たな歌い手に期待しましょう。
ニュー・プロダクションが必要ですね。
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棒のトリンクスは、第2幕の歌合戦と、ローマへ、あたりがやたらと高速運転。このほうが音楽が生き生きとして、また歌い手たちもノリよく歌えると思います。知り尽くしている聴衆だったらいいですが、この劇に初めて接する人にとっては少し違和感があったかもしれず。それと第1幕の序曲からバレエの終わるところまで30分。いかにも長い。ここでストーリーを作れないので、残り第1幕40分ほどで展開させるのは演出的にも結構厳しいのではないか。
それから今回の舞台では、第1幕第2幕ともに音が出るや否やすぐに幕が開いたので開放空間での鳴りでほっとした。第3幕はワーグナーらしくなかなか開かない。
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オーケストラは荒く、大雑把とは言いません、荒い。特にブラス・セクションはオペラの呼吸になっていない、オペラの呼吸を感じて吹奏しているのかどうか、ここら辺は指揮者のせいかもしれません。オーケストラから歌は聴こえてきませんでした。
合唱の方がオーケストラより精度が高かったと思います。動かない演出ということもプラスの要素で、かなり圧力あり。オーケストラより合唱の方が練習量が多いのは明らか。
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舞台、演出全体的には、ワーグナーのカタルシスのようなものが感じられず、あの最後の音の後すぐにもう一度全曲やれば。
おわり
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1453- デイヴィッド・ゲルブ 二郎は鮨の夢を見る

2013-02-03 23:37:50 | 映画

すし職人追った米記録映画、日本で公開

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世界各地で愛され、日本の食文化の代表として知られるすし。すしに人生をかける日本の職人を追った米国のドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」が日本で公開される。手がけたのは29歳のデヴィッド・ゲルブ監督。メトロポリタン・オペラ総帥のピーター・ゲルブ氏を父に持ち、幼い頃から日本文化に親しんで育った監督が満を持して取り組んだ作品だ。

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 東京・銀座のすし店の初代店主、小野二郎さんと、同じ職人の道を歩む息子たち、店で働く職人たちの姿を描く。下調べを兼ねて日本の立ち食いすしや回転すしの店を食べ歩き、小野氏の取材許可を得るために店や築地市場に日参し、職人の世界の礼儀作法を学び、ようやく舞台裏の撮影を許されたという。

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 「80歳を過ぎた今も現役の職人としてさらなる高みを目指して技術を磨く二郎さんには特別のオーラがある。彼の哲学、人生を見せたかった」とゲルブ監督。大きな存在である父とその息子という関係性は、自らの境遇にも通じ、「映画を作るうえでいいインスピレーションになった」という。

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 米国ではわずか2館で公開されたが、口コミで人気が広がり、上映館も拡大。異例のヒットとなった。次回は一転してSF作品に挑むという。映画は2月2日公開。

(2013/1/31付日本経済新聞 朝刊)