河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1190- アゲイン ジョナサン・ノット ショスタコーヴィッチ 第15番 など2011.2.17

2011-02-17 22:23:30 | インポート

2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2011年2月17日(木)7:00pm
サントリーホール
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アルヴォ・ペルト ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌
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アヴナー・ドルマン フローズン・イン・タイム(日本初演)
 パーカッション、マルティン・グルービンガー
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(アンコール)
マルティン・グルービンガー プラネット・レリメント
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ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番
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ジョナサン・ノット 指揮
NHK交響楽団
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N響定期二日目です。演奏自体が割とレアなので良し悪しにかかわらず二日続けて聴きました。もちろんショスタコーヴィッチの第15番なんですが、この日二日目のほうが断然よかったと思います。昨晩の第1楽章の超高速も少し緩和されていたし整っていたと思います。時間にして30秒か1分ぐらい長くなっていたようです。旋律の味わいをもう少しかみしめたいのですが第1楽章はやはりちょっと無理。第2楽章でだいぶクリアな線がでますが、第4楽章への伏線的な旋律等は埃をかぶったまま突き進んでしまいます。コントラバス10艇の布陣でここらあたりもどうしてこうなのかわかりませんが、必要以上に太くなって聴こえるようでもあり、しかしショスタコーヴィッチのこの曲の異様さを表しているようでもありそこらへん微妙なバランスで、やっぱり指揮者の解釈に大いにひきずられる曲ではある。全体印象は前日とあまり変わりませんが、整理整頓され尽くせばそれ相応な演奏になると思われます。
15番の魅力は蓄積経験の自由な羅列にあると思います。それまでの素材展開、技巧を駆使した巧みで一部語りすぎ、そのような曲ではなくて、作曲家がそれまで積んできたいわばナレッジウエア的なものを過去の束縛にとらわれることなく、自由奔放に並べ立てた。誰それからのどうのこうのといった言いがかりを無視した、超越してしまった。随筆家が文章を書くとき辞書を調べながらなんていうことはせず、また頭の中から掘り起こしたものを組み立てなおしたりといったことをへずにそれまでのものを一気に洗いざらい並べていくように(たぶん)、それでいて瞬間瞬間の味わいを強く出していくことができる、そのような余裕で精神の安定を感じることができるような文章そのものであり、間際の曲はこのようにありたいし、できれば日常的にもこのような力をもちたい、それにはそれまでの大変な経験と思考の深さが必要なんだろう、ショスタコーヴィッチのこの曲は非常に示唆に富む曲だと思います。自分のなかで、素材を駆使する時代は去り、自由奔放な蓄積の羅列。ワーグナーの響きさえ自分のものとして飲み込み消化し、そして吐き出した。あまりに自由で位相のねじれさえ単なる振幅の幅の大小に置き換えてしまったようなショスタコーヴィッチ晩年の傑作だと思いますが、
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前半のヴィルティオーゾについては昨晩と同じ。
おわり
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1189- ジョナサン・ノット ショスタコーヴィッチ 第15番  など2011.2.16

2011-02-17 22:07:00 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2011年2月16日(水)7:00pm
サントリーホール
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アルヴォ・ペルト ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌
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アヴナー・ドルマン フローズン・イン・タイム(日本初演)
 パーカッション、マルティン・グルービンガー
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(アンコール)
マルティン・グルービンガー プラネット・レリメント
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ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番
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ジョナサン・ノット 指揮
NHK交響楽団
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久しぶりに生聴きするショスタコーヴィッチの第15番。
第1楽章のテンポがあまりに速すぎです。ハイティンクとかザンデルリンクの倍速に近い速度ではないでしょうか。これだけ速いとさすがのN響も少し埃っぽい感じで雑ではないのですがフレーズの輪郭をすべて聴くのはちょっと困難な個所が発生。
でも妙なことに、この速度感というのは現代の古典を聴くような雰囲気があります。40年の時を経てようやくこのように普通に、もしくはいろいろな解釈を許容できるようになった、そんな感慨があります。じっくり聴かなければわからない時代を越えてきた。
ただ、最後の第4楽章のピアニシモにして巨大なパーカッションと予定調和的な弦の通奏、ショスタコーヴィッチ自身のエンディングに向けた収束とのバランスをどうとるのか難しいところではある。ザンテルリンク&クリーヴランド管のような見事なバランス感覚の演奏にはなかなかお耳にかかれない。むしろザンテルリンクとは別世界の音楽解釈といえるのかもしれない。
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第2楽章で少し落ち着きましたが、埃っぽさはひきずったままで大編成のもたもた感がでてきてしまいました。この楽章は第4楽章を先取りした暗示的な楽章なのですけれど、そのようなことが隠れてうずもれてしまいかねない。単なる第2楽章になってしまっていて面白み、深遠さに欠けた。
アタッカの第3楽章では第1楽章の速度感が舞い戻りましたが、スケルツォ的な第3楽章より第1楽章のほうがバタバタとせわしなく速いというのは、やっぱり速度設定に問題ありと言わざるをえません。ただしそれは飽くまでも古典的形式を前提にした場合の話ではありますけれど、それはそれでそんなに間違いではないと思いますよ。
第4楽章はいたってまとも。もっと彫れると思いますが、ノット自身の第1楽章からの解釈バランスではこのようになるのでしょう。彫って歌えればこの曲の別の面が見えると思いますけれど、そのためには第1楽章に戻ってやり直しをしなければならない。
ノットがこの曲をこれからも振っていくとすると、経験が静けさを求めるような形になっていくのではないでしょうか。是非振り続けてほしいと思います。
この日の演奏では、曲のユニークさが前面にでてこない演奏になっていたと思います。
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この日は前半の2曲が面白かった。ペルトの曲はどこかしら必ず期待を裏切らない部分があり、沈殿物のような沈み込みには割と納得させられた。後半のショスタコーヴィッチの曲と呼応するような雰囲気がある。ブリテンがどこに入っていたのかわからないけれど。
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2曲目のドルマンのフローズン・イン・タイムが面白かった。過激なパーカッション協奏曲みたいなもんで、プレイヤーのグルービンガーはほとんど曲芸師のよう。360度の広角に配置した打楽器群をすべて一人で奏するので、指揮者を背中に見ることもあるため、でかい鏡をセッティング。ユニークな超絶技巧で聴衆を魅了しました。
このプレイヤーは、打楽器自身の多彩な響きを全て引き出すとともに、楽想に潜む微妙なニュアンスまで細かく丁寧に彫りおこし表現している。大胆にして繊細、すばらしく説得力のある演奏でした。聴かせるパーカッション・コンチェルト。
それと、アンコールがありました。パーカッションのアンコールなんて聴いたことがありませんが、自作の刺激的なダイナミズムが聴衆を飲み込みました。曲芸技に近いけれどセンスの良さが音楽を品の良いものに押し上げている、本人の意思の具合にかかわらず。そんなハイセンスな演奏でした。満足しました。
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演奏とは関係ないかもしれませんが、前日のゲルギエフの公演では2割ほど空席がありましたが、この日の公演では曲の知名度などにもかかわらず満員。サントリーのN響定期はだいたいいつも満員なんですが、それでも聴衆の数と演奏内容、論じて比例するような具合でしたよ。
それと非常に気になったことなんですが、2階席LA最前列に座った若い女性がショスタコーヴィッチの前半1,2楽章ずっと、プログラムなんだか扇子なんだかわかりませんけど、あおぎっぱなし。この微妙な曲に頓着することない無知のやからといわれればそうなんですが、この角度は指揮者が一番頻繁に指示を出すために向く方向で、ノットも非常に振りにくかったと思います。単拍子の曲を振っているわけではないのですし、少しは聴衆も考えをめぐらしてほしいものです。隣のつがいごとくべてしまいたくなりました。
おわり

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1188- ゲルギエフ マリインスキー パルジファル第3幕 他2011.2.15

2011-02-17 00:11:46 | インポート

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2011年2月15日(火)7:00pm
サントリーホール
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オール・ワーグナー・プログラム
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ローエングリン 第1幕前奏曲、第3幕前奏曲
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タンホイザー 序曲
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パルジファル第3幕
グルネマンツ、ルネ・パペ
クンドリー、ナデージダ・ハトジェーワ
パルジファル、セルゲイ・セミシュクール
アンフォルタス、エデム・ウメーロフ
 マリインスキー歌劇場合唱団
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ワレリー・ゲルギエフ指揮
マリインスキー歌劇場管弦楽団
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前半は棒演に近い。あれでは巡礼も何もない。全曲の解釈があったうえでの演奏ではない。凡演であり、疲弊を感じる。
思うに今回の来日公演はスケジュールがたて込んでおり、プログラムもかなり無理をしていると思う。客の入りも8割方いるかどうかという感じで、ひところの過熱感は無い。
早い話、ゲルギエフ、振りすぎなんだ。問題視している人もいると思う。
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後半のパルジファル第3幕は、とりあえずブラッカダーのようなコクは感じることができるが、これは濾していないお酒、透明感はあまりない。そのレベルで精いっぱいだ。ゲルギエフ得意のインスピレーションとか熱気といったものをほとんど感じることができない。彼は舞台の人であり都度都度の集中力をそのときに凝らせばいいと思っているはずで、それはそれで悪い話ではなくむしろいつもそのようにあってほしいのであるが、たとえそのようなスタンスで毎度演奏を行ったとしても、出来不出来感が出てきてしまっているというのは疲弊からくるものではないだろうか。むろん、オーケストラも同様だ。
ここのオケは2流から始まり、ゲルギエフのもと、同じメンバーでそれなりに1流になったオケであり、そういう意味ではゲルギエフから離れることはできない。ゲルギエフがいなくなったら自分たちは1流ではいられなくなる、つまり元に戻ってしまうのではないか、といった観念があると思う。ゲルギエフは才能の人で別にマリインスキーがなくても構わないわけで、多少思い通りのプログラムが組めなくなるぐらいで、それでも今までにロシア物はほぼやりつくしているので、彼にとってこの劇場オケがなくても今となってはあまり構わず、すぐにどこかが飛びついてくるのは必定。オケと指揮者は持ちつ持たれつの関係から離れてきている、何から何まで仮説だが、そのように思える。
話が例によってそれてしまったが、影の女を二回上演し、翌日は超大作トロイア、そして翌日パルジファル、まだまだ続く。つまりはたてこんだ無理な来日公演スケジュールとプログラミングであり、演奏内容も多少出来不出来があっても仕方がないだろう。この日のワーグナープロはあまり良くなかった方だ。ゲルギエフの振りすぎが問題だと思う。陰りと言い換えてもいい。
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それで、パルジファルですけれど、第3幕のタイミングは76分。
前半の棒演でインストゥルメントがあたたまったのか、結果的には前半でふかしておいて良かった。でも、たとえば聖金曜日の音楽、ほとんど何もなかったかのように通過する。これはないだろう。もっと高まりとうねりがほしい。インスピレーションの欠けた演奏で、ゲルギエフご本人のがんばりが空振りになってしまった。原因追求と対策が必要ですね。
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グルネマンツのルネ・パぺは前半一時間立ちっぱなしで熱演、彼にとってはルーチン・ワークなんだろう。タイトルロールのセルゲイ・セミシュクールは、むきがよくない。横を見ながら歌っている感じ。声がホールに響かない。アンフォルタスのエデム・ウメーロフはコンパクトながら存在感あり。
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パルジファルでも起こるフライングブラボー。何度言ってもこらえ性のないはた迷惑な客はつまみ出してほしいものだ。
おわり

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1185- マーラー 交響曲第3番 ミュンフン・チュン N響2011.2.12

2011-02-16 00:22:28 | インポート

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2011年2月12日(土)3:00pm
NHKホール
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マーラー 交響曲第3番
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アルト、藤村実穂子
女声合唱、新国立劇場合唱団
児童合唱、東京少年少女合唱隊
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ミュンフン・チュン 指揮
NHK交響楽団
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チュンの線をむき出しにした大胆な解釈が、アヴァンギャルドでブラスの割とクレイジーなサウンドの3番にベストマッチ。ブラスをはじめとする単旋律の強調、それぞれの線がアンサンブルというよりむしろ、ぶつけ合うような響きに新鮮な響きを感じ、これまでの第4楽章以降の方に主に引きずられてしまうような解釈ではなく、前半3楽章の魅力をこれほど感じたことはない。
タイミングはだいたいこんな感じ。
Ⅰ:33分
Ⅱ:10分
Ⅲ:15分
Ⅳ:10分
Ⅴ:4分
Ⅵ:24分
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第6楽章は声が欠落したまま厳かともいえる流れるような響きに圧倒されるわけだが、結末がこのような感じなのでどうしても正調派音楽のようなイメージなんだが、チュンのこの日の演奏では、前半第1,2,3楽章の響きが大胆で面白かった。
普通やらないようなスネアドラムの強調、コントラファゴットの異様なフォルテシモ、ベースのブイーンといった響き、しなる。フレーズの強調グリッサンド。
際どい単旋律のブラス、ウィンド、むき出しで強調させる。結果、アンサンブルが音のぶつけ合いになり独特の響きとなる。なにか非常に現代的で新鮮な響きとなる。
第1楽章は曲想があまりに膨らみすぎて、ついそれがソナタ形式であることさえ忘れさせてしまうような長丁場。チュンは弛緩することがなく大胆な表現でこの巨大な第1楽章のイメージをより現代方向に舵を取る。またオペラティックな棒の振り具合が素晴らしい。曲想に合わせて大振りと細かい振りを小節単位でめまぐるしく変える。このように曲想を意識した棒というのはオペラからの賜物であろう。非常に楽しめた第1楽章。
同じ方針の第2,3楽章も味わいがありコクがあり噛みしめて聴く。
第3楽章のポストホルンは少し音が小さすぎると思うのだが、これはチュンの指示ですね。納得ずくの棒でしたから。
ブラスの細かな瑕疵をごちゃごちゃ話したりしているツイッターもいるが、響きの大胆な面白さの前に、このようなことは耳くじらを立てるような話ではなく、議論に値しない。解釈から何を聴きとるかだ。
とはいえ、多数のトラが総動員された大規模オーケストラ編成で、少しの濁りは致しかたがないところがあるとはいえ、ミスがトップにあらわれてしまうというのは、非常な難曲であることを改めて思い知らされるし、彼らにしてみれば、何度でも完璧さを求めて挑みたくなるような曲であることに間違いはない。それだけ魅力的な曲だ。
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あと、第4楽章の藤村の気持ちの入れようは尋常ではなく超スローななか一時たりとも緩むことがない緊張の糸が張りつめた歌は素晴らしいの一語に尽きる。アタッカの第5楽章で合唱が入ったところで、聴衆から思わず安堵のようなため息が漏れた。
おわり

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1184- ニューヨーク・フィルハーモニック15000回コンサート 2010.5.5

2011-02-09 00:16:00 | インポート

Nyp20100505


周回遅れです。
ニューヨーク・フィルハーモニックは昨年2010年の5月5日に1842年来、通算15000回目のコンサートを行いました。
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1982年~1987年シーズンに現場で聴いたコンサートをアップしようと努力しておりますけれど、いまのところ、
途中の1983-1984シーズンを書いているところです。
これら前後は追って書いていきます。
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1183- これはすごい。必見! レナード・バーンスタインがマーラーの交響曲第9番へ書き込みをおこな

2011-02-08 23:51:00 | インポート


このサイトでデジタル・ブック風に見れます。
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http://archives.nyphil.org/index.php/artifact/5749cc67-077a-47e6-9622-7b718e6a964c
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ほとんどが青鉛筆、たまに赤鉛筆。
すごいですが、わかりません。
オタマは読めますけれど、このフリーハンドで書かれたレナード・バーンスタインの脳みそまではわかりません。けれど、CD聴きながら見てめくっていけばいいんですね。興味尽きませんね。
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河童メソッドの演奏会ログもよろしく。
ブログ左側です。
ニューヨーク当時のものは、1983-1984あたりから書いてますが、まだ1シーズンだけです。乞う期待!
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1182- ジュリアン・ラクリン N響 ミュン・フン・チュン 2011.2.5

2011-02-07 23:29:00 | インポート


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2011年2月5日(土)6:00pm
NHKホール
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ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、ジュリアン・ラクリン
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ベルリオーズ 幻想交響曲
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ミュン・フン・チュン指揮
NHK交響楽団
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プログラム前半、今日もまた、人間とも思えないようなフライングブラボー屋が性懲りもなく、全てを無視してぶち壊しに来たとしか思えない発狂絶叫を発したわけだが、なぜだか知らぬが最初の一叫びだけでやめってしまった。周りの連中にたしなめられたのか、それともどこぞからいただいた盛り上げ費の分だけ絶叫したからお仕事終わりで帰ってしまったのか、真相はいつも闇の中で、後味の悪さだけが消えずにある、という事実だけがむなしく漂うだけだ。尾行でもして真相追及できたらいいのだろうが、どの日に、どこの座席に座っているのやら、わからないし、現実には難しいところもあるよ。
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演奏の方は、あの絶叫の音量が感動の深度と比例するとするならば、このブラボー屋は聴く耳をあまりもっていなかったようだ。
ラクリンは昔の若い頃の切れ味鋭い峻烈な印象とは様変わりで、柔らかくなったわけではないものの味わいはそれなりに深まったような気はするが、それよりも線の細さの方が勝っていたような感じだ。
演奏は伴奏の方にこそ味わいが深く、チュンのコントロールが素晴らしい。徹頭徹尾弱音系に抑え、特に第1,2楽章ではリズムという鼓動をまるで意識して排除したような具合で素朴でシンプルな解釈。でもプレイヤーにとっては非常に神経を集中させる、強いる解釈であると思う。チュンはそのような指揮者であったのかというのは久しぶりにみて驚いたことでもあった。
この協奏曲はオーケストラ・プレイヤーの音が裸で出てくるところが多く、それだけで集中度を高めて奏さなければいけないが、この日のN響のトップの響きはよかったと思います。
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ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、奇妙にも音の美しさを主にねらったものであると思います。気持ちの動きを表すような中音域から低音域でヴァイオリン・ソロが奏される箇所はあまりありません。ほとんど高音域での配列になっており、それもあって動きのないソロ楽器の響きの美しさを強調した曲と言えると思います。
ラクリンがそのようなものにジャストマッチだったのかどうかということもありますけれど、昔のように切れ味鋭くやればできると思うのだが、今、力がどちらの方向に向いて動いているのか、昔のような方向ではない方に向いてきていると思った方がよさそうだ。
ベートーヴェンの協奏曲は素朴な表現が多いけれど、結果的には大きな縁取りの構造を出現させており、そのなかで高音域中心に推移し続けるソロは主張の種類も多くなくむしろ美しさがラクリンの手により、少し小さなスケールになってしまったような気がした。
第1楽章:25分
第2楽章:12分
第3楽章:9分
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後半の幻想。一番感心したのは、ようやく第4楽章になって鳴りはじめるトロンボーン、チューバの爆音の中、隙間を這うようにでてくるウィンドの素晴らしいアンサンブル。細かいところまで決してはずさない、このような姿勢が音楽の演奏の質を高めているのであり、日本ではN響以外では簡単ではないところなんだね。
チュンはコントラバスを10艇並べた。そのわりには全般にコンパクトになっているというか、この曲が十八番の一つだと思わせるような慣れたものが、コンパクトさを感じさせたのだろうか。
チュンの両腕が大きく弧を描くときオーケストラはきっちりそろえる。まさにオペラ振りそのもので、こんがらかったら合わせるポイントにもっていくスタイル。この日のオーケストラは変になるような箇所は全くないので、このような大振りの箇所はむしろ指揮者の解釈が表面化するところととらえてもいいと思う。振りなれている曲なのでこのように要所を締めるようなやり方で済んでいるというところもある。もちろん、オーケストラの技術的経験的ベースがなければ話が始まりませんけど。
全体としてはウェットな感じ。埃っぽさを感じさせないむしろ端正で響きを敷きつめた折り目のついた演奏。
第1,2楽章。第3楽章。第4,5楽章。このまとまりでアタッカとチューニングをはさむ。まさに構造通りのリセット。演奏に新鮮味は今一つだが手慣れた解釈で安心してベルリオーズの爆発を楽しめた。
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プログラムの説明を補てんしますと、チュンのメトロポリタン・オペラのデビューは1986年3月で、なにを振ったかというと、
シモン・ボッカネグラ
です。現場で観ましたので間違いありません。ピアノからオペラへ。バレンボイムなんかと似てなくもないような。
メトのお隣のニューヨーク・フィル・デビューは、シモンに先立つこと2年。1984年です。ドヴォルザークの3番とか振ってました。
四半世紀前から一流な棒振りだったわけですけれど、そろそろテーマを定めて欲しいような気もします。
おわり

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