河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1779- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人:千葉馨

2015-04-01 22:16:17 | デニス・ブレイン 千葉馨



巨匠との対話  デニス・ブレイン
語る人*千葉馨・・・・・・・・・・・・・ききて*中川原理

ホルンという楽器の演奏を現代的なものにしたイギリスのデニス・ブレインがホルン演奏史上、きわめて大きな役割を果たした人であることは周知のとおりだが、NHK交響楽団の千葉馨氏は1956年から57年にかけての4か月、ロンドンでブレインに学んだ。

日フィル入りがきっかけ

― デニス・ブレインとはどういうことで・・・・・
千葉― 私の前のカミさんの、イギリス人のマネージャーを通じて習いたいということを打診したんです。そしたら、まずきてみてはどうかという返事なんです。その前にひとつあったのはデニス・ブレインのおやじさんでオーブレー・ブレインという大名人がいましてね、このおやじさんにつこうという野心は以前からあったんですよ。で、敵がいくつか全然しらなかったんですよ。渡辺暁雄さんが日フィルをおつくりになったとき、バーチ(千葉氏のあだ名)日フィルにこないか。そうですね。いってもいいけどホルンなんて一人で動いてもどうしようもないから、三人か四人まとめて引っこ抜いてよ。ついては親玉が必要だからオーブレー・ブレインは爺さんだろうから柱に呼んでくれないかっていったら、いいだろう、いいだろうというんで渡辺さんが打診なさったんですよ。そしたら返事にいわく、残念ながら去年死にました(笑)。はあ、そうかいなというわけですよ。そのうちデニス・ブレインがレコードを出しはじめたので、日フィルが出来た年、ブレインに打診したんです。とにかくこいというので、私のカミさんもヨーロッパに演奏旅行のスケジュールもありましたし出かけたんです。

たいへんに普通の人

― 初対面はどんなふうでした。
千葉― なんていうホールだっけな、あれは。ロンドンも録音ホールが底払いしているらしくて、どこやらをレコーディングに使ってました。そこで録音していたのがカラヤン、シュヴァルツコップですね、「ばらの騎士でした」。フィルハーモニア管弦楽団でね。ブレインはそこでホルン吹いていたわけですね。最初会ったときは、名人とは、かくも普通の人かいなと思いましたね。小柄で、おとなしくて、品行方正で、お坊ちゃんで。つき会っているうちに、この第一印象は間違っていなかったって、だんだん思うようになりましたね。たいへんに普通の人です、模範的に。もう我を張ったりしないで・・・・・。だいたい楽隊(音楽家のこと)は直観人間で、オレはこう思うんだと思ったらそれっきりで、あとは何にもみえなくなって、しゃにむに飛んで行っちゃうのがふつうなんですが・・・。悪くいえばサラリーマン的な、ホワイトカラー的要素も、大変からだについている人です。ところが、それでいて、やることはあっということをやるんですね。

―それから四カ月、ブレインに習われたとききましたが、授業はどんなふうでしたか。
千葉― 個人レッスンです。週に一度、その都度その都度、次はいつ来なさいというぐあいですね。ブレインの家はロンドンの南のほうでしたかな、ええと、うろうろしても、もうわかんないです。朝十時から一時間半か二時間ですね。ロンドンは混んでいるので、車で少し早目にいっていると、五分前ころ買い物袋を持って帰って来て、あれ、オレ時間まちがえたかな。いや、私が五分早くきたんですというと、いいよいいよ、入れよというぐあいですね。彼は弟子がいなくて、学校でも教えていなかったので、初対面のときに、君、だいたいどういうこと悩みがある?なんて尋ねるわけですよ。こっちは、ついでのことに最初からやり直してみようなんて妙な気持ちがあるもんだから高い音が出ない、低い音が出ない、早い舌つきが出来ないということをいったんですよ。すると、ええ、高い音は私も多少苦労したことがあるから多少助だちできるかもしれない。早い舌つきは、おい、早い舌つきはどうやったらいいんだなんて二番奏者に尋ねたりしてね。つまり出来ちゃう人なので、説明ができない人ですね。すると二番吹きが、おまえはそうするが一般的にはこうしたほうがいいんだなんて議論しているんですね。言葉で教えるのがへたなので、やってみろっていって、いっしょに吹いてみたりして、もしよかったら、こういうふうにしてみたらどうだろうっていうことをボソっという始末です。しかし、私もそれまで十年商売してましたから、二人で合作で、ああじゃない、こうじゃないとやって、こっちが考えすぎると、じつは、ひょっとしたら、きみ、逆の方に走ってんじゃないかっていったりしましてね、こっちが早とちりすると。そういうところがとてもおもしろかったですね。

スケールとアルペジオ

千葉― 最初は何でもいいから吹いてごらんというので、モーツァルトの三番の協奏曲を吹いたのかな。そしたら、それはもう今のところ完成しているし、君の悩みと関係ないじゃないか、うまくいってるよ。それよりヒンデミットかなんかやらないかっていい出して、ヒンデミットとソナタを始めました。その前にこれをやったほうがいいかもしれないといって、自分で作ったスケールとアルペジオを二、三種類やらされました。ですから印刷した練習曲は、彼からひとかけらもおそわっていません。

― 四ヶ月習われて、得るところ大でしたか。
千葉― じつはスケールとアルペジオが僕のもらった宝です。これは大変充実したものでした。ホルンはF管だったりB管だったりしますが、彼はホルンをクロマティックなものと、つまり白鍵と黒鍵をなくしちゃおうという考えです。それで実音のHドゥア(ロ長調)のスケールをやらせるわけです。これで二オクターブ。これをこなすのに一カ月かかりました。というのは指使いがたいへん面倒くさくなるわけです。B管でHドゥア吹くというのは、ピアノでいえばハ長調を嬰ハ長調で弾くようなものですね。ってなもんでへんな指使いになるんだけど、彼はこれを避けて通ろうとしないんですよね。これをいつやってもいい、おまえさん子供じゃないんだからって・・・・・。これは一生もっていていい問題だから、やってみたらどうかっていうわけですね。アルペジオは二オクターブですね。キーを使うところと使わないで口でころがすところがありますが、これを切れ目をわからせないように、上りも下りも同じつながり方にするわけですね。それからもうひとつ、トリラーがありました。音域をのばすにはトリラーをやったらどうだろうかって、これは二カ月くらいたって出てきたことです。高い音にコンプレックスを持っているといいましたら、トリラーをやらせました。私の場合、これが図に当たって、とても音域が楽になりました。作品でいうと、ヒンデミットのあとイギリスの新しい人でバークレイという人の三重奏曲のホルンのパートを習いました。

慎重運転のカーキチ

― これまでは演奏の教え方ですが、その間のブレインの教えっぷり、つまり人間的な側面はどんなですか。
千葉― 大変几帳面です。さっきお話をした、買い物袋を持って五分前に帰ってきたなんていうのは彼の人柄をとってもよくあらわしていると思いますね。そして人に押しつけることはなかったですね。そういえば初対面のときは、カラヤンには日本で会ってから初めてなので、うちの有馬副理事長がよろしくと申しておりましたみたいなことをいいにいくわけですよね。するとカラヤンは、ブレインをよんで、これはオレが日本でかわいがっているオケの一番ホルンだみたいなことをいうんですよね。するとブレインは、オレといっしょにドライブに行こうかなんてね。カラヤンとブレインはモーター気違い仲間なんですよ。

― ブレインのカーキチぶりを話してください。
千葉― 彼は当時トライアンフのTR2というのに乗ってましたがね、彼の運転マナーはたいへんよろしくてね、巡航速度も意外とおそいんですよ。僕が来週エディンバラに行くんだけど、どこを見てきたらいいでしょうなんていいますとね、車は何だ、フォルクスワーゲンか、じゃ十二時間みなさいとか、あそこの角は抜けるまで気を許せないとか、いろんなことをいうんですよ。ところがお師匠は何時間で行くのか行くのかって尋ねますとね、スポーツ・カーのTR2で十時間ぐらいかけてるんですよ。で、私が行ってみると八時間半か九時間でついちゃうんですよ(笑)。当時わたしもむちゃな運転してましたがね、それにしてもそんなにかかるわけないんですがね、彼のふだんの所要時間より、とんとんか、少し早く着いちゃうんですよ。ですから相当慎重な人ですね。たいへん用心深くて、停車すべきところは必ず停車していたんだろうと思うんです。いっしょに乗ったとこはないんですがね。ただメカニックにも興味はあったようですけど、車の下にもぐってエンジンを替えたりということはなさらなかったですね。カーレースは見に行ってました。何年のどこのレースは凄かったなんていうこともいってましたから。
 慎重である一方ではレコーディングなんかやってますでしょ、で、一時間半休けいなんていうことになると、ぽっといなくなっちゃうんですね。みんなデニスどこいったなんていうと、誰かが、またBBCに行ってんだろうなんていってるんですよ。私には、カラヤンという人は神経質だから録音が再開したらうるさいから、君はここにいなさいなんて注意するのに、お師匠さんはいなくなってしまうんですよ。それが本当にBBCで録音して帰ってくるんですよ。ラジオ・リサイタルなんていうのをね。あっという間にやって帰ってきて、それでAの音なんか合わせる段にあると、すうっと帰ってきて、ちゃんといるんですよ。何くわぬ顔してね。慎重な一方では神風的ですね(笑)。いつもこんなことやってるらしくて、まわりの人も気にしないです。当時ホルンの三番吹いていたのがアラン・シヴィルで、私の面倒みてくれて、お茶のみにいこうなんて街を引っぱりまわしてくれたりしました。

全く突然の死

― ブレインは当時“売れて”いたんでしょうね。
千葉― ええ、レコーディングなんかして売れてたホルン吹きだと思うんですよね。ところがその人が、マネージャーがいなかったということもあるのかどうか、自分の出演料なんかも、どのくらいもらったらいいのかなんていうことに、まるっきり無頓着でした。おやじさんがブッシュ・ゼルキンなんかとトリオを入れているほどの人だから、もう少し出演料に敏くてもいいと思うのに、全然しらない。これはおもしろかったですね。あるマネージャーが、ブレインに、君、アメリカに行ってみないかとかいっても、ひまはひまなんだけど買ってもらえるかしらっていうぐあいで、ちっとも売り出そうということをしないんですね。だからカラヤンあたりに引っぱりあげられたのが運がよかったんでしょうか。

― ブレインの家族はどんな構成ですか。
千葉― 奥さんに娘さんが一人できたばかりでした。奥さんは音楽とは関係ない人です。ちょうどアパートに引っこしてきたときで、家具がなんにもないときで、おやじさんが吹いていたラッパなんかが、ニス塗って置いてあったりして。ラッパ吹くときも、すごくまじめなんです。すたすたと出てきて、ペコンとおじぎして、そのままパッと吹く人ですよ。気張ったりすることがぜんぜんないんですよ。まっすぐ立って吹く人ですよ。死なないとすればアメリカに行って、帰りに日本に寄るといってましたがね、残念でした。

―ブレインは一九五七年に三十六歳で自動車事故のため死んだんでしたね。どういう状況だったんですか。
千葉― 十一月から習って翌年の三月いっぱいまでやって、私は四月からドイツの学校に入ることにして、彼もヨーロッパのあちこちをまわるのでつき合えないから、ちょうどいいや、九月一日にはロンドンに帰っているからというんで、私も八月にドイツの学校が終わるからロンドンに帰りますといって別れ、八月三十日にロンドンに戻ったんです。その朝の新聞にデニス・ブレインが死んだと書いてあるんです。もう、びっくりなんていうもんじゃないですよ。信じられなかったですね。
エディンバラの音楽祭でシュトラウスの協奏曲を吹いたあと、その晩、徹夜で自分の車でロンドンに戻る途中だったんですね。途中の街の“魔のカーブ”とかいうところで、道が左に曲がっているところで、右側に大きな樫の木がありまして、この木にぶつかって、くちゃくちゃに。対交車も何もなかったらしいんですがね。安全運転の人がどうして事故を起こしたのかわかりませんね。それで日本と同じで、ブレインが死んだ、あんな安全第一のオート・マニアが、あそこで死んだ。あそこは毎年八十人だか死ぬのに、どうしてあのカーブをほったらかしておくんだなんて騒いでいましたがね。

―お葬式にはお出になりましたか。
千葉― ええ、彼の家の近くでありました。・・・・あんまりよく覚えていませんね(と、思い出すのがつらいらしく、あとは語らない)。

父親ゆずりの名人

― ブレインの音楽はどんなふうのものでしたか。
千葉― 音楽も音色と似て簡単明瞭でした。そのかわりむつかしいところに行けば行くほど簡単明瞭に吹いてしまうんです。そこがこわいんです。むつかしいところにきて難行すれば人間的なんですけれど、ちょっと人間ばなれしてましたね。大変に粒が揃ってて、悪く言えば機械的と言いますかね、とってもパラパラパラといっちゃうんですね。ですから、こっちが調子がわるいようなとき、お師匠さんのレコードを聴いてヒントを得ようなんてことには絶対ならないですね。そんなの聴いたら、こっちは死にたくなりますからね(笑)、

― そんなふうにうまかったのは、やはり父親が名人で、そういう血とか環境のせいなんでしょうか。
千葉― アラン・シヴィルはブレインのおやじさんに習ったあと、高いEsの音をひっくりかえしてしょんぼり帰ろうとしていたら、デニス坊やがひょこひょこ出てきて、ねえ君、きっと押さえコルクが減っているんだよ。そこのうしろにマッチ棒を入れて、コルクを浮かせると高いEsがひっくりかえらないよっていったそうですよ。つまり隣の部屋でガキが聴いていて、兄ちゃん出てきたところでいったんですね。なにおっと思ったけど、やってみたら本当にひっくりかえらなくなったなんて思い出ばなしをやってました。それでいて、デニスはおやじには習わなかったなんていってましたが。普通の意味では習ったはずですから、おやじへの批判もこめていったのかもしれませんね。

― ブレインのレコードでは何がいいですか。
千葉― やっぱりモーツァルトの協奏曲ですね、四曲入っているぶん。あれはベスト・セラーだと思います。次はベートーヴェンのホルン・ソナタ。これは二十歳前の録音だと思います。たいへん音も音楽も若いけど、まるっきりラッパのソナタで、簡単明瞭です。もってまわったところがまったくなくて。

おわり

東版 週間FM1973年7月23日号 7/23→7/29 放送番組表 \100 音楽之友社

巨匠との対話(30)デニス・ブレイン
語る人*千葉馨・・・・・・・・・・・・・ききて*中川原理


1778- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第6回:父親ゆずりの名人

2015-03-31 20:30:58 | デニス・ブレイン 千葉馨

1778- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第6回:父親ゆずりの名人

第1回:日フィル入りがきっかけ

第2回:たいへんに普通の人

第3回:スケールとアルペジオ

第4回:慎重運転のカーキチ

第5回:全く突然の死

第6回:父親ゆずりの名人

― ブレインの音楽はどんなふうのものでしたか。
千葉― 音楽も音色と似て簡単明瞭でした。そのかわりむつかしいところに行けば行くほど簡単明瞭に吹いてしまうんです。そこがこわいんです。むつかしいところにきて難行すれば人間的なんですけれど、ちょっと人間ばなれしてましたね。大変に粒が揃ってて、悪く言えば機械的と言いますかね、とってもパラパラパラといっちゃうんですね。ですから、こっちが調子がわるいようなとき、お師匠さんのレコードを聴いてヒントを得ようなんてことには絶対ならないですね。そんなの聴いたら、こっちは死にたくなりますからね(笑)、

― そんなふうにうまかったのは、やはり父親が名人で、そういう血とか環境のせいなんでしょうか。
千葉― アラン・シヴィルはブレインのおやじさんに習ったあと、高いEsの音をひっくりかえしてしょんぼり帰ろうとしていたら、デニス坊やがひょこひょこ出てきて、ねえ君、きっと押さえコルクが減っているんだよ。そこのうしろにマッチ棒を入れて、コルクを浮かせると高いEsがひっくりかえらないよっていったそうですよ。つまり隣の部屋でガキが聴いていて、兄ちゃん出てきたところでいったんですね。なにおっと思ったけど、やってみたら本当にひっくりかえらなくなったなんて思い出ばなしをやってました。それでいて、デニスはおやじには習わなかったなんていってましたが。普通の意味では習ったはずですから、おやじへの批判もこめていったのかもしれませんね。

― ブレインのレコードでは何がいいですか。
千葉― やっぱりモーツァルトの協奏曲ですね、四曲入っているぶん。あれはベスト・セラーだと思います。次はベートーヴェンのホルン・ソナタ。これは二十歳前の録音だと思います。たいへん音も音楽も若いけど、まるっきりラッパのソナタで、簡単明瞭です。もってまわったところがまったくなくて。

おわり


1777- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第5回:全く突然の死

2015-03-26 00:45:31 | デニス・ブレイン 千葉馨

1777- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第5回:全く突然の死

第1回:日フィル入りがきっかけ

第2回:たいへんに普通の人

第3回:スケールとアルペジオ

第4回:慎重運転のカーキチ

第5回:全く突然の死

― ブレインは当時“売れて”いたんでしょうね。
千葉― ええ、レコーディングなんかして売れてたホルン吹きだと思うんですよね。ところがその人が、マネージャーがいなかったということもあるのかどうか、自分の出演料なんかも、どのくらいもらったらいいのかなんていうことに、まるっきり無頓着でした。おやじさんがブッシュ・ゼルキンなんかとトリオを入れているほどの人だから、もう少し出演料に敏くてもいいと思うのに、全然しらない。これはおもしろかったですね。あるマネージャーが、ブレインに、君、アメリカに行ってみないかとかいっても、ひまはひまなんだけど買ってもらえるかしらっていうぐあいで、ちっとも売り出そうということをしないんですね。だからカラヤンあたりに引っぱりあげられたのが運がよかったんでしょうか。

― ブレインの家族はどんな構成ですか。
千葉― 奥さんに娘さんが一人できたばかりでした。奥さんは音楽とは関係ない人です。ちょうどアパートに引っこしてきたときで、家具がなんにもないときで、おやじさんが吹いていたラッパなんかが、ニス塗って置いてあったりして。ラッパ吹くときも、すごくまじめなんです。すたすたと出てきて、ペコンとおじぎして、そのままパッと吹く人ですよ。気張ったりすることがぜんぜんないんですよ。まっすぐ立って吹く人ですよ。死なないとすればアメリカに行って、帰りに日本に寄るといってましたがね、残念でした。

―ブレインは一九五七年に三十六歳で自動車事故のため死んだんでしたね。どういう状況だったんですか。
千葉― 十一月から習って翌年の三月いっぱいまでやって、私は四月からドイツの学校に入ることにして、彼もヨーロッパのあちこちをまわるのでつき合えないから、ちょうどいいや、九月一日にはロンドンに帰っているからというんで、私も八月にドイツの学校が終わるからロンドンに帰りますといって別れ、八月三十日にロンドンに戻ったんです。その朝の新聞にデニス・ブレインが死んだと書いてあるんです。もう、びっくりなんていうもんじゃないですよ。信じられなかったですね。
エディンバラの音楽祭でシュトラウスの協奏曲を吹いたあと、その晩、徹夜で自分の車でロンドンに戻る途中だったんですね。途中の街の“魔のカーブ”とかいうところで、道が左に曲がっているところで、右側に大きな樫の木がありまして、この木にぶつかって、くちゃくちゃに。対交車も何もなかったらしいんですがね。安全運転の人がどうして事故を起こしたのかわかりませんね。それで日本と同じで、ブレインが死んだ、あんな安全第一のオート・マニアが、あそこで死んだ。あそこは毎年八十人だか死ぬのに、どうしてあのカーブをほったらかしておくんだなんて騒いでいましたがね。

―お葬式にはお出になりましたか。
千葉― ええ、彼の家の近くでありました。・・・・あんまりよく覚えていませんね(と、思い出すのがつらいらしく、あとは語らない)。


父親ゆずりの名人

―ブレインの音楽はどんなふうのものでしたか。
千葉― 音楽も音色と似て簡単明瞭でした。そのかわり


・・以下、次回へ続く・・


1776- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第4回:慎重運転のカーキチ

2015-03-25 01:07:17 | デニス・ブレイン 千葉馨

1776- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第4回:慎重運転のカーキチ

第1回:日フィル入りがきっかけ

第2回:たいへんに普通の人

第3回:スケールとアルペジオ

第4回:慎重運転のカーキチ

― これまでは演奏の教え方ですが、その間のブレインの教えっぷり、つまり人間的な側面はどんなですか。
千葉― 大変几帳面です。さっきお話をした、買い物袋を持って五分前に帰ってきたなんていうのは彼の人柄をとってもよくあらわしていると思いますね。そして人に押しつけることはなかったですね。そういえば初対面のときは、カラヤンには日本で会ってから初めてなので、うちの有馬副理事長がよろしくと申しておりましたみたいなことをいいにいくわけですよね。するとカラヤンは、ブレインをよんで、これはオレが日本でかわいがっているオケの一番ホルンだみたいなことをいうんですよね。するとブレインは、オレといっしょにドライブに行こうかなんてね。カラヤンとブレインはモーター気違い仲間なんですよ。

― ブレインのカーキチぶりを話してください。
千葉― 彼は当時トライアンフのTR2というのに乗ってましたがね、彼の運転マナーはたいへんよろしくてね、巡航速度も意外とおそいんですよ。僕が来週エディンバラに行くんだけど、どこを見てきたらいいでしょうなんていいますとね、車は何だ、フォルクスワーゲンか、じゃ十二時間みなさいとか、あそこの角は抜けるまで気を許せないとか、いろんなことをいうんですよ。ところがお師匠は何時間で行くのか行くのかって尋ねますとね、スポーツ・カーのTR2で十時間ぐらいかけてるんですよ。で、私が行ってみると八時間半か九時間でついちゃうんですよ(笑)。当時わたしもむちゃな運転してましたがね、それにしてもそんなにかかるわけないんですがね、彼のふだんの所要時間より、とんとんか、少し早く着いちゃうんですよ。ですから相当慎重な人ですね。たいへん用心深くて、停車すべきところは必ず停車していたんだろうと思うんです。いっしょに乗ったとこはないんですがね。ただメカニックにも興味はあったようですけど、車の下にもぐってエンジンを替えたりということはなさらなかったですね。カーレースは見に行ってました。何年のどこのレースは凄かったなんていうこともいってましたから。
 慎重である一方ではレコーディングなんかやってますでしょ、で、一時間半休けいなんていうことになると、ぽっといなくなっちゃうんですね。みんなデニスどこいったなんていうと、誰かが、またBBCに行ってんだろうなんていってるんですよ。私には、カラヤンという人は神経質だから録音が再開したらうるさいから、君はここにいなさいなんて注意するのに、お師匠さんはいなくなってしまうんですよ。それが本当にBBCで録音して帰ってくるんですよ。ラジオ・リサイタルなんていうのをね。あっという間にやって帰ってきて、それでAの音なんか合わせる段にあると、すうっと帰ってきて、ちゃんといるんですよ。何くわぬ顔してね。慎重な一方では神風的ですね(笑)。いつもこんなことやってるらしくて、まわりの人も気にしないです。当時ホルンの三番吹いていたのがアラン・シヴィルで、私の面倒みてくれて、お茶のみにいこうなんて街を引っぱりまわしてくれたりしました。


全く突然の死

― ブレインは当時“売れて”いたんでしょうね。
千葉― ええ、レコーディングなんかして売れてたホルン吹きだと思うんですよね。ところがその人が、

・・以下、次回へ続く・・


1770- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第3回:スケールとアルペジオ

2015-03-19 23:57:31 | デニス・ブレイン 千葉馨

巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第3回:スケールとアルペジオ

第1回:日フィル入りがきっかけ

第2回:たいへんに普通の人

第3回:スケールとアルペジオ

千葉― 最初は何でもいいから吹いてごらんというので、モーツァルトの三番の協奏曲を吹いたのかな。そしたら、それはもう今のところ完成しているし、君の悩みと関係ないじゃないか、うまくいってるよ。それよりヒンデミットかなんかやらないかっていい出して、ヒンデミットとソナタを始めました。その前にこれをやったほうがいいかもしれないといって、自分で作ったスケールとアルペジオを二、三種類やらされました。ですから印刷した練習曲は、彼からひとかけらもおそわっていません。

― 四ヶ月習われて、得るところ大でしたか。
千葉― じつはスケールとアルペジオが僕のもらった宝です。これは大変充実したものでした。ホルンはF管だったりB管だったりしますが、彼はホルンをクロマティックなものと、つまり白鍵と黒鍵をなくしちゃおうという考えです。それで実音のHドゥア(ロ長調)のスケールをやらせるわけです。これで二オクターブ。これをこなすのに一カ月かかりました。というのは指使いがたいへん面倒くさくなるわけです。B管でHドゥア吹くというのは、ピアノでいえばハ長調を嬰ハ長調で弾くようなものですね。ってなもんでへんな指使いになるんだけど、彼はこれを避けて通ろうとしないんですよね。これをいつやってもいい、おまえさん子供じゃないんだからって・・・・・。これは一生もっていていい問題だから、やってみたらどうかっていうわけですね。アルペジオは二オクターブですね。キーを使うところと使わないで口でころがすところがありますが、これを切れ目をわからせないように、上りも下りも同じつながり方にするわけですね。それからもうひとつ、トリラーがありました。音域をのばすにはトリラーをやったらどうだろうかって、これは二カ月くらいたって出てきたことです。高い音にコンプレックスを持っているといいましたら、トリラーをやらせました。私の場合、これが図に当たって、とても音域が楽になりました。作品でいうと、ヒンデミットのあとイギリスの新しい人でバークレイという人の三重奏曲のホルンのパートを習いました。


慎重運転のカーキチ

― これまでは演奏の教え方ですが、その間のブレインの教えっぷり、つまり人間的な側面はどんなですか。
千葉― 大変几帳面です。さっきお話をした、買い物袋を持って、



・・以下、次回へ続く・・


1769- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第2回:たいへんに普通の人

2015-03-18 23:45:55 | デニス・ブレイン 千葉馨

1769- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第2回:たいへんに普通の人


第1回:日フィル入りがきっかけ

第2回:たいへんに普通の人

― 初対面はどんなふうでした。
千葉― なんていうホールだっけな、あれは。ロンドンも録音ホールが底払いしているらしくて、どこやらをレコーディングに使ってました。そこで録音していたのがカラヤン、シュヴァルツコップですね、「ばらの騎士でした」。フィルハーモニア管弦楽団でね。ブレインはそこでホルン吹いていたわけですね。最初会ったときは、名人とは、かくも普通の人かいなと思いましたね。小柄で、おとなしくて、品行方正で、お坊ちゃんで。つき会っているうちに、この第一印象は間違っていなかったって、だんだん思うようになりましたね。たいへんに普通の人です、模範的に。もう我を張ったりしないで・・・・・。だいたい楽隊(音楽家のこと)は直観人間で、オレはこう思うんだと思ったらそれっきりで、あとは何にもみえなくなって、しゃにむに飛んで行っちゃうのがふつうなんですが・・・。悪くいえばサラリーマン的な、ホワイトカラー的要素も、大変からだについている人です。ところが、それでいて、やることはあっということをやるんですね。

―それから四カ月、ブレインに習われたとききましたが、授業はどんなふうでしたか。
千葉― 個人レッスンです。週に一度、その都度その都度、次はいつ来なさいというぐあいですね。ブレインの家はロンドンの南のほうでしたかな、ええと、うろうろしても、もうわかんないです。朝十時から一時間半か二時間ですね。ロンドンは混んでいるので、車で少し早目にいっていると、五分前ころ買い物袋を持って帰って来て、あれ、オレ時間まちがえたかな。いや、私が五分早くきたんですというと、いいよいいよ、入れよというぐあいですね。彼は弟子がいなくて、学校でも教えていなかったので、初対面のときに、君、だいたいどういうこと悩みがある?なんて尋ねるわけですよ。こっちは、ついでのことに最初からやり直してみようなんて妙な気持ちがあるもんだから高い音が出ない、低い音が出ない、早い舌つきが出来ないということをいったんですよ。すると、ええ、高い音は私も多少苦労したことがあるから多少助だちできるかもしれない。早い舌つきは、おい、早い舌つきはどうやったらいいんだなんて二番奏者に尋ねたりしてね。つまり出来ちゃう人なので、説明ができない人ですね。すると二番吹きが、おまえはそうするが一般的にはこうしたほうがいいんだなんて議論しているんですね。言葉で教えるのがへたなので、やってみろっていって、いっしょに吹いてみたりして、もしよかったら、こういうふうにしてみたらどうだろうっていうことをボソっという始末です。しかし、私もそれまで十年商売してましたから、二人で合作で、ああじゃない、こうじゃないとやって、こっちが考えすぎると、じつは、ひょっとしたら、きみ、逆の方に走ってんじゃないかっていったりしましてね、こっちが早とちりすると。そういうところがとてもおもしろかったですね。

スケールとアルペジオ


千葉― 最初は何でもいいから吹いてごらんというので、モーツァルトの三番の協奏曲を吹いたのかな。そしたら、

・・以下、次回へ続く・・


1768- 巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第1回:日フィル入りがきっかけ

2015-03-17 00:36:42 | デニス・ブレイン 千葉馨

巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人*千葉馨 第1回:日フィル入りがきっかけ

ホルンという楽器の演奏を現代的なものにしたイギリスのデニス・ブレインがホルン演奏史上、きわめて大きな役割を果たした人であることは周知のとおりだが、NHK交響楽団の千葉馨氏は1956年から57年にかけての4か月、ロンドンでブレインに学んだ。

日フィル入りがきっかけ

― デニス・ブレインとはどういうことで・・・・・
千葉― 私の前のカミさんの、イギリス人のマネージャーを通じて習いたいということを打診したんです。そしたら、まずきてみてはどうかという返事なんです。その前にひとつあったのはデニス・ブレインのおやじさんでオーブレー・ブレインという大名人がいましてね、このおやじさんにつこうという野心は以前からあったんですよ。で、敵がいくつか全然しらなかったんですよ。渡辺暁雄さんが日フィルをおつくりになったとき、バーチ(千葉氏のあだ名)日フィルにこないか。そうですね。いってもいいけどホルンなんて一人で動いてもどうしようもないから、三人か四人まとめて引っこ抜いてよ。ついては親玉が必要だからオーブレー・ブレインは爺さんだろうから柱に呼んでくれないかっていったら、いいだろう、いいだろうというんで渡辺さんが打診なさったんですよ。そしたら返事にいわく、残念ながら去年死にました(笑)。はあ、そうかいなというわけですよ。そのうちデニス・ブレインがレコードを出しはじめたので、日フィルが出来た年、ブレインに打診したんです。とにかくこいというので、私のカミさんもヨーロッパに演奏旅行のスケジュールもありましたし出かけたんです。

たいへんに普通の人

― 初対面はどんなふうでした。
千葉― なんていうホールだっけな、あれは。ロンドンも録音ホールが底払いしているらしくて、どこやらをレコーディングに使ってました。そこで録音していたのがカラヤン、シュヴァルツコップですね、「ばらの騎士でした」。フィルハーモニア管弦楽団でね。ブレインはそこでホルン吹いていたわけですね。最初会ったときは、

・・以下、次回へ続く・・