河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

675-ふるいたつブル9は流れの悪い未完成から ハルトムート・ヘンヒェン 日フィル2008.9.12

2008-09-15 00:10:00 | 音楽

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秋のコンサートシーズンが始まった。

ちょっと汗ばんだりして秋のクールさはまだ実感としてはあまりないが、それでも演奏会場を出る頃にはちょうどいい風が吹きはじめた。

639-以来、2か月ぶりのコンサート

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2008912()7:00pm

サントリー・ホール

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シューベルト/未完成

ブルックナー/交響曲第9

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ハルトムート・ヘンヒェン指揮

日フィル

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これらの曲の組み合わせで即座に思い出すのは、

20001114()

ギュンター・ヴァント指揮ハンブルク北ドイツRSO.

三日間連続同曲公演の最終日であった。

ひたすた剛直な演奏の中に妖しいしなやかさを秘めたヴァント究極の演奏であったが、日本に単独で来て、国内のオーケストラにブルックナーの解釈を移植しなければならないという条件ではなかったわけで、その分、日常のしなやかさが表現できていたのだと思う。

遠い昔N響への客演の折のブル4を思い出した。解釈というよりも、伝統の移植といった感じで、一人で遠い地まで来る意味の深さを思い知らされたコンサートだった。

それこれの模様はいつか書くことがあると思う。

今日は日フィルの秋シーズン初日だ。

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ヘンヒェンという指揮者ははじめてみるが、大柄でわりとエネルギッシュな振りだが、大げさ感はなくいたって普通の棒だ。

選曲を見る限りそれ相応の自信、確信がなければ振れない、振ってはいけない曲たちだ。。

結果的には、

流れの悪い未完成が久しぶりにふるえたブル9をもたらすことは見えた。両曲とも見事であったヴァントの高みまで駆け上がってほしい。

といったところか。。

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未完成は難しい。

2楽章練習番号Eのフォルテッシモをピアノで始めるムラヴィンスキーの技は天才のひらめきとしか言いようがないが、普通の路線で、美しさを求めるか、形式を求めるか。

ヘンヒェンは両方求めて失敗したのではなく、形式を求めた。それ自体はいいのだが未完成の流れがないがしろにされた。

12主題を明確にして、対比感を出し、曲を立体的に掘り進める路線はよくわかる。縁取りをクリアにし曲の構造に光をあてる。

でも、流れない。だから流れないともいえるが、主題の転換部分、フレーズの変わり目で音楽がとまる。立ち止まってしまうのだ。もう少し流れる未完成が聴きたかった。

ただ、この路線でブルックナーをやるとたぶんうまくいきそうな気配はあった。

両方すごかったのがヴァントということになるのだが、それはそれとして。。

ブルックナー特有の三つの主題の提示はだいたい唐突というか明確にわかれていればいるほど曲の転換点がクリアになり見事な立体構造物のようになるのだから、未完成でみせた解釈を推し進めればよい。

ヘンヒェンは明らかにこの曲が得意と思われる。第2楽章の棒さばきを見ていればわかる。自信確信に裏打ちされている。譜読みも丹念に行われているようだ。

スケルツォにおける音の粒立ちのよさはオーケストラの能力も示しているが、見事な呼吸の棒でありオケとの一体感がある。ソノリティーとダイナミックスがバランスしていて曲の力を感じる。未完成ではホルンのバランスに少し違和感があったが、ここではそのようなことはない。

トリオにおける弦の透明な響きとウィンドの空虚な響きも音楽の歌を感じさせるに十分。

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ブル9は二短調。第1楽章からどうもやりづらいというか聴きづらいというか、音楽が終始安定しきらないような調だ。未完成であるということ以外に、この調の不安定感、この曲特有なものなのかもしれないが、どうも8番までとは異質と感じる。

ヘンヒェンの速度感は一般的な演奏と少し異なり、普通ならテンポを落としこむような場面で、急きたてるように推し進めることがあるが変なはみ出しではなく、その解釈は納得させるものをもっている。ここらあたり、シューベルトにもあてはめてほしいものだ。

ホルンとワーグナーチューバの響きは圧倒的だが、こすりつけるような弦のぶ厚さがそれに負けない。日フィルの充実した演奏。ホルンのソロは細くホールを包み込むようなサウンドではないが、チェコ・フィルなんかも同じで細さが不安定感を生むわけではなく、むしろ音楽に繊細さを与えている。日フィルのホルンにもそこらあたりを求めたい。

いずれにしてもあっというまの第1楽章24分であった。ヘンヒェンが全体の見通しを立てながら曲を構築していっているのがよくわかる。

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2楽章は前述したとおりで、出色の12分。

さて、本当はここで終わりではない第3楽章アダージョ。

このアダージョ楽章は、聴いていてたとえば第7番アダージョのようにa-b-a´-b´-展開~といった切り分けがうまく出来ない。だいたいにおいて第1主題と思って聴いてる出だしのフレーズであるが、途中からいきなり全奏によるフォルテシモが爆発するのである。そしてトランペットがピアニシモの和音で締める。不思議なアダージョ楽章。

ヘンヒェンのコントロール、見通し感はここでも見事。なにやら変奏曲の趣きでこの楽章を進める。変奏曲風であるからか曲想が少しずつ変化するたびに演奏のほうは盛り上がってくる。シンプルなリピートでさえ続ければその積み重ねが結果としてあらわれる、そんな感じ。

そしてなによりも、彼の自信があらわれていたのが、あまりにもあっけない幕切れ。

その前に、コーダにはいる前に、ウィンドによる不協和音が音を切りながら長々と続くが、ここをどのように演奏するか。スタッカート風に切っていく指揮者。ヘンヒェンのようにテヌートで進める指揮者。そのテンポもあわせ多種多様。ひとつの聴きどころではある。

ゆっくりめのテンポでテヌートで進めたヘンヒェン。さぞかしコーダも粘ると思いきや。ワーグナーチューバと弦のかけあいはあるものの必要以上に味わい深くなることを意識して避けているかのように、、

そして、、

さっと終わった。

このコーダのあっけなさがヘンヒェンのこの曲に対する自信のほどを物語っている。

この曲はまだ終わっていない。

まだ先を振るべきだ。

そのような構築物だ。

そのようなことを思い起こさせるに十分な印象的な結末。

お別れの曲ではない。見事な解釈。。

25分ぐらいかな。

サントリーホールでの演奏。

2階LD席中央寄りの席に座ったのだが、なんだか音が以前よりいい。ホールの鳴りがいい感じがした。もともと一階席で通過する音よりも、2階席のほうが音像の焦点が合う感じがあり気持ちのいいサウンドを味わえるのだが、以前に増して情報量が多くなったように感じた。昨年の改修のおかげだろうか。改修後に何度か聴いたが、その際も少し感じたことがあるが、今年は音がさらに馴染んだのか2階席のやや奥の席なのに、眼前にオーケストラの音が迫ってくるようなところがあった。演奏のよさもあったと思うがなかなかいい感じになってきた。

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