河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2810- ブラームス、ズッカーマン、運命、ダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2002.1.29

2021-09-30 17:07:19 | DB-SKB2002
2002年1月29日(火) 7pm 東京文化会館

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ヴァイオリン、ピンカス・ズッカーマン

Int

ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調 op.67


ダニエル・バレンボイム 指揮 ベルリン・シュターツカペレ


運命は音楽が流れず不発であった。
昨晩の7番の場合、やり方さえ決めてしまえば、あとはそのスタンスで前進あるのみ、であるが、運命の場合はそうはいかないのだろう。
切り込みが深ければ深いほど前進性が失われてしまう。また、音楽が流れるよう、労を随所に施しているが小細工っぽく、作戦がまるみえになってしまう。
結果、ちぐはぐなものとなってしまった。
戦中のフルヴェンの運命のようにはなかなかいかない。このような曲は逆に機能的なものが前面に押し出されているようなオーケストラでやったほうがうまくいくのかもしれない。
おわり


















2809- ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲、ズッカーマン、交響曲第7番、ダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2002.1.28

2021-09-29 21:13:37 | DB-SKB2002
2002年1月28日(月) 7pm 東京文化会館

ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ヴァイオリン、ピンカス・ズッカーマン

Int

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調 op.77


ダニエル・バレンボイム 指揮 ベルリン・シュターツカペレ


素晴らしい集中力だ。第1楽章中間部あたりから既に過熱状態。アタッカで演奏される微妙極まりないニュアンスをもった第2楽章。これを聴くと全ては運命のなすがままに受け入れても良いような気がしてくる。
そして軽快なテンポのスケルツォとスローなトリオ対比が見事な第3楽章。
才気煥発、インテンポで押し切ったエキサイティングな第4楽章。
ティンパニストは副指揮者のように雄弁。天からとどろくテンパニ。そして荒れ狂うブラス。でも、終わった後に残るイメージというのは、鬱蒼とした弦の分厚い響き!このように弦がうなるベト7は新発見だ。
ベートーヴェンの場合、交響曲が2曲並ぶとだんだん、どつくような刺されるような感覚になってくるのだが、1曲だけだと曲に集中できて曲の位置づけとか特色とかがよくわかる。
第1楽章後半でファンブルした棒をコンマスが見事にバトンタッチ。何事もなかったかのように第2楽章へ。この、指揮者+オーケストラは今、絶好調だなあ。

ベトコンは完全なる室内楽。ズッカーマンとバレンボイムは旧知の仲であり、特に練習なんかしなくても呼吸はぴったりだろう。独奏に勝るとも劣らない雄弁なオーケストラが素晴らしい。
おわり


















2808- ラインの黄金(第2サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.27

2021-09-28 15:59:26 | DB-SKB2002
2002年1月27日(日) 5pm NHKホール

ワーグナー 作曲

ハリー・クプファー プロダクション

ラインの黄金

キャスト
ヴォータン ファルク・シュトゥルックマン(Br)
ドンナー アンドレアス・シュミット(Br)
フロー ロバート・ギャンビル(T)
ローゲ グレアム・クラーク(T)
アルベリヒ ギュンター・フォン・カンネン(BsBr)
ミーメ ペーター・メンツェル(T)
ファーゾルト ルネ・パーペ(Bs)
ファーフナー ドゥッチョ・ダル・モンテ(Bs)
フリッカ ローズマリー・ラング(MS)
フライア カローラ・ヘーン(S)
エルダ メテ・アイシング(A)
ヴォークリンデ カローラ・ヘーン(S)
ヴェルグンデ カタリーナ・カンマーローアー(MS)
フロスヒルデ アンドレア・ベーニッヒ(MS)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン・シュターツカペレ

(duration)
Act 5:10-7:38pm   2時間28分

ラインゴールドが気に入った。
今日からリング第2サイクルへ突入。
席は前回の横浜の3階から、今回は1階席へ。ぐっと近くなる。
横浜で全体ステージを俯瞰していたので今回は近くで字幕を見ながらゆっくりと。

マイナーチェンジが見られるものの全体感を損ねるということはない。それよりも、横浜では遠くで見えなかった字幕が今回は良く見えるので内容がタイムリーに分かり非常に面白かった。レーザー光線の劇場効果は遠くで見たほうがわかりやすい、といった部分もあるが。

ステージが近いと声も良く聴こえる。このキャスト、バイロイトの上をいくキャストで、ほぼ全員が、調子が良いとなれば、なにをこれ以上言うことがあろうか。
本当に全員が良かった。シュトルックマンは相も変わらず存在感が凄い。シュミットも良かった。クラークは言うに及ばず、カンネンの悪役ぶり、メンツェルのジークフリートへ橋渡しするミーメ、パーペも良い。エルダのメッテ・アイシンク、良かったなあ。
とにかく、一瞬も揺るがない素晴らしい舞台。

第3場ニーベルハイムにおけるバレンボイムのスピード感。とにかくどんどん前へ進む。それでいて歌の部分は自由に歌わせる。
ときとしてオーケストラが合わなくなるが、求めるものが正確性の為の正確性よりも、その音楽場面にふさわしい音作りが優先している。当然と言えば当然だが、これがバレンボイムの音楽的スタンスなのだろう。
NHKホールは大きすぎて音楽には全くふさわしくないが、響きが無い分、スピード感が出てきてもしかたがないのだろう。結果的には前回よりも3分ほど長かったが不思議。(実際は1分)

それにしても、ラインゴールドというのは、4場構成。4楽章形式のソナタシンフォニーのようだ。ラインゴールドは非常に気に入った。もう1回観る!
おわり






2807- アルト・ラプソディ、ドイツ・レクイエム、バレンボイム、ベルリン・シュターツカペレ、合唱団 2002.1.25

2021-09-27 22:29:52 | DB-SKB2002
2002年1月25日(金) 7pm 東京芸術劇場

ブラームス アルト・ラプソディ
(MS)ワルトラウト・マイヤー
ベルリン国立歌劇場合唱団

Int

ブラームス ドイツ・レクイエム
(S)ドロテア・レッシュマン
(Bs)ルネ・パーペ
ベルリン国立歌劇場合唱団


ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン・シュターツカペレ

(duration)
アルト・ラプソディ 13分
ドイツ・レクイエム 1時間18分


曲が進むにつれて、頭と体が何故か清らかになり、深い感動が全身を包み込んだ。このように落ち着きを得られる音楽を私は忘れていた。いや、そのような体験は思い出せない。初めてだ。このホールにいたみんながそうであったのだろう。
曲が終わっても拍手はおきず、しばらく清らかな静寂が我々を包み込んだ。厳粛な空気と言っても良い。
そして、ぱらぱらとどこからともなく始まった拍手はだんだんと熱を帯び、いつ果てることもなく続いた。といっても拍手までの空白は約15秒、拍手の時間は10分だろう。この間にみんなイメージしていたのだ。

この時間、このホール、空白をやめて拍手をやめれば我々は会場を出て不条理で不潔な世界に舞い戻らなければならないのだ。このブラレクの感動を何処にぶつければよいのだろうか?

でも、この感動は何故に!
歌とは心を込めて何もかも忘れただひたすら歌うこと。
合唱も独唱もオーケストラもそして譜面台のない指揮者も全員が世の不条理を忘却のかなたに捨て去っているのだ。そうでなければこのような表現は不可能だ。
そして会場のみんなが彼らのトランス状態を我々に転移させたのだ!
この清らかな一体感。私はこの演奏を一生忘れない。

各曲の最後の音のピッチが異常に合っている!これはなにゆえか?
ピッチ合わせをしたから合ったのではない。音楽の高まりが音を一致させたのだ。機能的なオーケストラ作りの逆をやっているのに機能的な結果と見た目(聞いた耳)、同じになっているのだ。なんという不思議!遠いものは近くにあり、近いものは遠くにあるのだろうか?
このような清らかな音を出せることが出来る指揮者の力量を我々は想像できるだろうか?
このオーケストラの弦はビロードのような美しさだけれども、それにとどまらず、深いシュヴァルツヴァルトを想起させるオーケストラ全体の響きの黒光りする美しさを何にたとえよう!

今年、年男のバレンボイムは今、何をやっても有無を言わせない説得力をもっている。表現力が絶好調になっているのだ。
最近はやりのピリオド系の奏法や表現なんて彼にとっては些末な事柄でしかないのだろう。音楽からいったい何を表出させるべきなのか、共同体のオールオウヴァーザワールドをどれだけ作ることが出来るのかということが彼の命題なのだ。
本当に、今夜は何物にも代え難い澄み切った清らかな一夜であった。
おわり















2806- ダニエル・バレンボイム ベルリン国立歌劇場 2002年来日公演 一覧

2021-09-27 15:52:19 | バレンボイムSKB 2002年来日公演一覧
ダニエル・バレンボイム ベルリン国立歌劇場 2002年来日公演 一覧

2802- ラインの黄金(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.16 
2803- ワルキューレ(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.17 
2804- ジークフリート(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.19 
2805- 神々の黄昏(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.23 

2807- アルト・ラプソディ、ドイツ・レクイエム、バレンボイム、ベルリン・シュターツカペレ、合唱団 2002.1.25
2808- ラインの黄金(第2サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.27 
2809- ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲、ズッカーマン、交響曲第7番、ダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2002.1.28






2805- 神々の黄昏(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.23

2021-09-26 21:16:48 | DB-SKB2002
2002年1月23日(水) 4pm 神奈川県民ホール

ワーグナー 作曲

ハリー・クプファー プロダクション

神々の黄昏

キャスト
ジークフリート クリスティアン・フランツ(T)
グンター アンドレアス・シュミット(Br)
アルベリヒ ギュンター・フォン・カンネン(BsBr)
ハーゲン ドゥッチョ・ダル・モンテ(Bs)
ブリュンヒルデ デボラ・パラスキ(S)
グートルーネ カローラ・ヘーン(S) (マーガレット・ジェーン・レイ出産による代役)
ヴァルトラウテ ワルトラウト・マイヤー(MS)
運命の女神1 メテ・アイシンク(A)
運命の女神2 ローズマリー・ラング(MS)
運命の女神3 キルシ・ティーホネン(S)  (マーガレット・ジェーン・レイ出産による代役)
ヴォークリンデ カローラ・ヘーン(S)  (マーガレット・ジェーン・レイ出産による代役)
ヴェルグンデ カタリーナ・カンマーローアー(MS)
フロースヒルデ アンドレア・ベーニッヒ(MS)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン・シュターツカペレ、合唱団

(duration)
ActⅠ  4:08-6:09pm 2時間1分
ActⅡ 6:53-8:00pm 1時間7分
ActⅢ 8:50-10:10pm 1時間20分


噂には聞いていたがプロローグ&第1幕の演出のわかりにくさは一体何だろう!
音楽的にはよくわかる。ライトモチーフの塊であるし、時として同時進行のような場面もある。ストーリー的にもその時そのライトモチーフが出てくるのもよくわかる。
しかし、これまでのラインゴールド~ワルキューレ~ジークフリートときて、ここで2時間もかけなければならない。全体の中での位置づけがわからない。というか、放り出されたような感覚を持つ。ここからは自分一人で理解せよ、という大人の音楽に一気になったような気がしないでもない。
演劇だと思って観ていればよいのだろうか。主にブラスによって断片が連続し、かろうじてつながっているライトモチーフ。その合間に歌われる歌。どちらかというと科白に近い。パルジファルの第1幕のように決して救われることのない音楽がブラスによる不協和音とともに小節をつぶしていく。やはり一度ではわからない音楽だ。
このショック状態は第2幕までずっと続いているのであり、合唱も加わり光が見えてきているのに、こちらは少しも晴れない。後遺症とでもいうべき状態なのだ。

それにしても今日も良く指揮者が見えるところに座っていてわかるのは、指揮者があまりにも確信をもって棒を振っているということである。小節などほとんどないような音楽をこのように確信をもって振ることができるというその、音楽への理解力が信じがたい。
第2幕の、邪悪なトリオがジークフリート暗殺のわるだくみ音楽あたりで少し音楽的な求心性が出てくるが、それとてワーグナーが意図していることとは思えない。ずっと拡散し続けながらクライマックスまでいくのだ。
この音楽は成長し拡散し続ける音楽なのだ。ラインゴールド冒頭の乙女の音楽とカミタソ第3幕冒頭の乙女の音楽は似て非なるものだ。全く充実度が異なる。ラインゴールドにおける弱さは無く、音楽的にも満たされるものだ。
成長し続ける音楽だが、ストーリー的には黄昏に向かっている。音型も下降線的主旋律であり、その意味では悲劇に突き進む話の内容は合っている。(めざす音楽と)
だからやはりメインテーマは拡散かなあ。よくわからない。

刺されるジークフリートの第3幕の頑張りは立派。
また、ブリュンヒルデも最後までくどくならず自己犠牲を歌い切った。ポラスキーの場合は見栄えが特に良いのでさまになる。
ハーゲンにはブラボーがかからなかったがよかったようだ。日本人的感覚では2人とも背中から刺して殺してしまうような人間は卑怯で武士道にもとる。といったあたりがブラボーナッシングの漂いなのかな。
それにしても、第3幕が終わっても暗中模索は続く。

Ps
クライマックスのところで、ブリュンヒルデが膝を使って槍を折ったとたんに非常灯が点灯した。あれは演出なのだろうか。それとも偶然のミステイク?
非常灯がつくと日本人的感覚ではなにか地震でもあったのかと思ったりする。音楽的に世界が破滅に向かっている最中なのでビックリさせるには良いアイデアかもしれない。次回見ればわかる。
おわり


























2804- ジークフリート(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.19

2021-09-25 21:37:27 | DB-SKB2002
2002年1月19日(土) 4pm 神奈川県民ホール

ワーグナー 作曲

ハリー・クプファー プロダクション

ジークフリート

キャスト
ジークフリート クリスティアン・フランツ(T)
ミーメ グレアム・クラーク(T)
さすらいの旅人(ヴォータン) ファルク・シュトルックマン(Br)
アルベリヒ ギュンター・フォン・カンネン(BsBr)
ファーフナー ドゥッチョ・ダル・モンテ(Bs)
エルダ メテ・アイシンク(A)
ブリュンヒルデ デボラ・パラスキ(S)
森の小鳥 天羽明恵(S)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン・シュターツカペレ

(duration)
ActⅠ  4:08-5:27pm 1時間15分
ActⅡ 6:15-7:30pm 1時間15分
ActⅢ 8:13-9:35pm 1時間22分


第1・2幕の二幕、それらと第3幕は全く異質だ。
第3幕になって話がようやくつながりを見せる。特にブリュンヒルデが女性として存在感をよく魅せてくれる。
人間技とは思えなかったジークフリートの歌もこうやってみてみると、第1・2幕はツボが1,2か所あるだけ。第3幕における圧倒的存在感が印象に残る。
第3幕こそ、神々の黄昏のプロローグのような雰囲気だ。
ブリュンヒルデの兜を剝がしにかかるジークフリートの音楽は神々の黄昏の冒頭の音楽であり、バレンボイムとオーケストラの絶妙なアンサンブルとともに忘れ難い。

ファーフナーのロボコップもミーメもあっけなく第2幕で死んでしまい、エルダも第3幕でいなくなり、さすらいの旅人もここまで。
ジークフリート第3幕が転機の音楽である。従って、他の指揮者とちょっと異なり、今まで突っ走ってきたバレンボイムは誰よりもここに時間をかけたと思えた。特に兜を剥がすところの音楽はこれ以上ない精緻な音楽、デリケートな表現となっていたようだ。全く素晴らしい。

ジークフリートはこの部分だけではなかなかわかりにくく単独ではちょっと理解が難しいだろう。前のワルキューレがあり、後に神々の黄昏があるから成り立っているようなところがある。しかし、この第3幕で一気に救われるような気持ちも間違いのないところである。


第1幕における工場がとんでもない。真ん中にプロペラ機のような扇風機のようなものがある。最終的には剣でばらばらになってしまうわけでだが、ここらあたりの演出は面白い。
ジークフリートの鍛冶場の剣を鍛える音が、オケとずれてしまい遅くなる。本人はその遅くなったほうに合わせて歌っているのでますますずれる。しまいには鍛えるのをやめて歌に専念していた。第1・2幕で体当たり的な迫力に欠ける歌ともども、もう少し歌い込む必要がある。
ミーメのクラークはいくつなのだろう。よく動ける。主役をしめる役にふさわしい。
それにしても録音だけだと音楽以外にドタバタと雑音が激しい第1幕であるがこうやって生で観てみると工場は五月蠅いものだと妙に納得。

第2幕はもっとわかりやすい。小鳥を操作しているのはヴォータンであるという演出が明らか。それよりも前にファーフナー、ロボコップ大蛇。金属いも虫が3個と、これまた巨大音響で床に落ちたシッポ2個。これは1匹で頭が3個、シッポが2個ということなのだろうか。という質問がすぐ浮かぶくらいわかりやすい。

このような事を経て、第3幕のブリュンヒルデが眠りから覚めるあたり、寝たときは頭を上手にして岩の上に眠らされていたが、ここで起きたときは頭を下手にして岩もなかった。それでもワルキューレ第3幕の大団円のイメージが表われてくるのでようやくストーリーがつながったような気がするのである。
男勝りであったポラスキーもここでは一気に乙女になりきる。一昨日よりも見た目的にも若くなった。歌いくちが非常に素直で滑らか。
ジークフリートと二人で大きなうねりを作りながらクライマックスに辿り着く。
フランツもようやく体当たりの歌唱となり全開。
おわり




















2803- ワルキューレ(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.17

2021-09-24 22:25:56 | DB-SKB2002
2002年1月17日(木) 4:30pm 神奈川県民ホール

ワーグナー 作曲

ハリー・クプファー プロダクション

ワルキューレ

キャスト
ジークムント ロバート・ギャンビル(T)
ジークリンデ ワルトラウト・マイヤー(MS)
フンディング ルネ・パーペ(Bs)
ブリュンヒルデ デボラ・ポラスキ(S)
ヴォータン ファルク・シュトゥルックマン(Br)
フリッカ ローズマリー・ラング(MS)
ヘルムヴィーゲ カローラ・ヘーン(S)
ゲルヒルデ インガ・フィッシャー(S)
オルトリンデ マクダレーナ・ハヨショヴァ(S)
ヴァルトラウテ ローズマリー・ラング(MS)
ロスヴァイゼ シモーネ・シュレーダー(A)
グリムゲルデ クリスティアーネ・ヒームシュ(MS) (ウタ・プリエフ 腕骨折のため代役)
シュヴェルトライテ アンドレア・ベーニッヒ(MS)
ジークルーネ ボリャーナ・マッテーヴァ(MS)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン・シュターツカペレ

(duration)
ActⅠ  4:30-5:37pm 1時間7分
ActⅡ 6:20-7:53pm 1時間33分
ActⅢ 8:30-9:37pm 1時間7分


昨晩の興奮冷めやらずといったところだが、このワルキューレプロダクションを観るのは4回目だ。同一メンバーで1997年に日本公演があり、そのときはワルキューレのみ3回行った。あのときの公演を全部観たので今日は4回目というわけである。従ってラインゴールドとは違い冷静に観ることができた。

第1幕
ジークムントのギャンビルは歌い込みが足りない、ほかのメンバーと比べると明らかに遜色がある。それに音程が下がり気味で力不足。相手役ジークリンデのマイヤーはやはり凄い。いざとなるとホールを揺るがす大音響が有無を言わせない迫力となって迫ってくる。
昨晩ロボコップで活躍したフンディングのパーペも、昔に比べてスリムになった気もするが、存在感が物凄い。
それにしても凄まじいオーケストラだ。

第2幕
ヴォータンのシュトゥルックマンはバレンボイムのお気に入りなのだろう。スタイリッシュで静止画像がさまになる。歌も非常に安定している。昔と違い、歌だけうまければあとはどうでもよいというわけにはいかない。視覚的要素も重要なのだろう。これに対等に勝負できるブリュンヒルデはやはりポラスキしかいないのだろう。
それにしても凄まじいオーケストラだ。語りの部分まであっという間に来てしまった。木が落下する。

第3幕
やはり出色のプロダクション。あれは何だろう。戦いに敗れた人間がワルキューレに起こされて、ステージ後方へ向かって歩いて行く。音楽は騎行。ここから最後の大団円まで歌と演技とオーケストラの呼吸がピッタリ。さらには炎を表す蛍光灯の輝き方のタイミングも音楽とピッタリ。まさに完成されたプロダクション。
オーケストラはどんどん加速していく。もう誰にも止められない。
強靭なダイナミックレンジ。伸縮自在のテンポ。歌と演技とオーケストラの見事に一致したプロダクション。まさに、天才指揮者の面目躍如たるものがある。指揮者は拍子をとっていない。曲想をなぞるとでも言おうか。オーケストラとの呼吸の一致がこれ以上なく感じられる。
歌の中に滑り込む絶妙のオーケストラ、もうひとつの歌のよう。


以上の3幕。
第1幕の駆り立てるような、やつすような追い込み。
第2幕の語りの静けさとジークムントが倒れる時の劇的な音楽の対比のクリアさ。
第3幕におけるチューバの炸裂音。まるで音を割らなければ音楽ではないといっているよう。そしてクライマックス、ここはプロダクションともども忘れられない音楽的印象を残してくれる。
もはや、ジークムントの力不足もかなたへ飛んで行ってしまった。やはり、DBの存在感が最も印象に残る。とはいっても本人はオケピットの連中とステージにがって挨拶しているが、ケロッとしたものだ。
おわり























2802- ラインの黄金(第1サイクル) ダニエル・バレンボイム、ベルリン国立歌劇場、2002.1.16

2021-09-23 21:21:52 | DB-SKB2002
2002年1月16日(水) 7pm 神奈川県民ホール

ワーグナー 作曲

ハリー・クプファー プロダクション

ラインの黄金

キャスト
ヴォータン ファルク・シュトゥルックマン(Br)
ドンナー アンドレアス・シュミット(Br)
フロー ロバート・ギャンビル(T)
ローゲ グレアム・クラーク(T)
アルベリヒ ギュンター・フォン・カンネン(BsBr)
ミーメ ペーター・メンツェル(T)
ファーゾルト ルネ・パペ(Bs)
ファーフナー ドゥッチョ・ダル・モンテ(Bs)
フリッカ ローズマリー・ラング(MS)
フライア カローラ・ヘーン(S)
エルダ メテ・アイシング(A)
ヴォークリンデ カローラ・ヘーン(S)
ヴェルグンデ カタリーナ・カンマーローアー(MS)
フロスヒルデ アンドレア・ベーニッヒ(MS)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン・シュターツカペレ

(duration)
Act 7:10-9:37pm   2時間27分

百聞は一見に如かず、百書は一見に如かず。おお、このラインゴールド、よくわかる。
最初の乙女の音楽は全体像から見ると少し弱い音楽である、とか、2時間37分終わった後には、これは成長する音楽であるということがよくわかる、とか、ローゲが出てきた途端に彼が主人公になる、とか、とにかく見て分かることが沢山ある。
歌と演技と演奏がこれほどぴったりあったものは見たことが無い。クプファーの素晴らしいプロダクション、そして、それに応える歌い手の演技。そして全てを包括するバレンボイムの指揮。さらには強靭な歌。
3階席から見るとバレンボイムは拍子をとっていない。ただ一筆書きのようになぞっているだけだ。五線譜の縦バーがないようだ。いかに手中におさめているかよくわかる。この棒から出てくるもの、まさに天才技といえるのではないか。
各内容は第2サイクルのときに書くとして、クプファーのプロダクションが抵抗なく受け入れられるのは何故であろうか。
これは1988~1992バイロイトで行った同氏が、そのあと作ったプロダクションである。似てなくもない、というのもあるが、各キャラが最近の流行に敏感に反応している。ローゲの部分染めアクセント、ヴォータンの左目サングラス、ロボコップ風巨人、機械の様な蛇、・・・・
言い出したらきりがないが、本当に現代にあっている。また、動きも、激しいというよりは、小さい動きでもきっちり決めてくる。非常に丁寧。それでいて学芸会にはならない品の良さがある。
5年前に決めたワルキューレ、そのままで迫るシュトゥルックマン、ローゲのクラーク、この性格テノールが主人公になってしまった。それと、
ファーゾルトのルネ・パペ、このあたりだな、ポイントは。

公演後、オケピットから団員がオンステージであいさつ。その中に全く目立たずバレンボイムが中央に。大きな花束の床を前へジャンプ。60歳の年男なんだからあまり無理せずとも。エネルギーがあまっているとでも言うのかな。初日で捻挫でもされた日にはたまったものじゃない。
おわり







































2801- ニュルンベルクのマイスタージンガー クラウス・ペーター・フロール 二期会 東フィル 2002.7.28

2021-09-22 16:29:53 | 2002年
2002年7月20日(土) 3pm よこすか芸術劇場
2002年7月27日(土) 3pm 東京文化会館
2002年7月28日(日) 1pm 東京文化会館 ●
2002年8月3日(土) 3pm 東京文化会館
2002年8月4日(日) 1pm 東京文化会館

東京二期会オペラ劇場 プレゼンツ

二期会創立50周年記念公演
ベルギー王立歌劇場モネ劇場提携公演

ワーグナー 作曲

クルト・ホレス プロダクション

ニュルンベルクのマイスタージンガー 全3幕・字幕付き原語上演

キャスト
ザックス 黒田博(Br)
ポーグナー 長谷川顕(Bs)
ベックメッサー 萩原潤(Br)
ヴァルター 田中誠(T)
コートナー 青戸知(Br)
ダーフィット 小貫岩男(T)
エーファ 林正子(S)
マクダレーネ 堪山貴子(MS)
夜警 甲斐栄次郎(Br)

二期会合唱団
クラウス・ペーター・フロール、東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
ActⅠ 1:22´
ActⅡ  58´
ActⅢ 2:04´


当時の短い感想を書き留めたものがありますので、ほぼそのまま掲載しておきます。以下、

リピーターになりそう。

7月28日(日)、二期会マイスターを観てきました。コーラス、指揮者、オケ、歌手、この順番でおしなべて好演を見せてくれました。
前回の公演が1981年ということですから、ふた昔前ですね。この大作を昔は観ただけでラッキーだったのかもしれませんが、今回のイベントは一家言ある人たちをも満足させてくれたのではないでしょうか。規則だらけの現状と規制緩和の対峙と言う今の日本に妙にマッチした演出が興味を倍加させてくれました。また、字幕の効果も異常に絶大でした。20年前に字幕があったかどうかわかりませんが、第2幕でタイミングを逃さず笑い声を漏らす事が出来るというのは字幕の効用以外の何物でもありません。
コーラスは二期会の誇りと矜持を感じさせてくれるのに十分な見事さでした。特に第3幕では日本刀のような強靭な合唱が聴きものでした。
指揮に関しては、このような曲を身につけている人そのものが人材不足なのでしょうが、かなりふけてしまったフロールが、その見た目とは全く違うコントロールのきいた棒で楽しませてくれました。
オケはしまっている、というよりはちょっと硬い感じがあります。オケピットの底から湧いてくる感じがなく、アタックを叩きつける感じ。これは指揮者のせいもあると思いますが、回数を重ねるとこなれてくる質のものです。
また、第1,2幕では歌手ともども大波小波がなくダイナミックレンジの無い緩急"不"自在の演奏でしたが、第3幕になるとにわかに活気づき始め、過去の事例としてのトリスタンが流れてくるあたりから、あふれ出るニュアンスと響きの充実感を感じることが出来ました。
歌手については、この歌手はどうだとか、という固有名詞レベルで語れるところまではいかないと思いますが、概ね力演だと思います。声が前面に出てこず、そういう意味では歌手/コーラスともにステージのかなり手前の方に配置した演出は功を奏したものの、まだホールを鳴らすような歌い手はいない。それでも、日本人だから心配、みたいな呪縛はもうそろそろ過去のものになりつつあるのでしょう。見栄えにおいても、昨今の日本人プロレスラーのマッチョ型大型化に時代の反映を感じることが出来るのと同様にこのオペラ界においても、その時代のトレンドを如実に感じさせてくれます。
ただ、ヒゲはよくないなぁ。顔の輪郭がわかってしまう。威厳を感じさせてくれる前に頭のサイズを感じさせる。ウェストポーチが日本人の短足を証明しているのと同じだ。ヒゲのない清潔感あふれたマイスターもあるのではないか!
モネプロダクションについては不勉強なのでよくわかりませんが、第1幕において審査員が上横一列に配置されるあたり権力/規則の意図強調は明白だとは思いますが、So what? という疑問は否めません。見た目的には、むしろゼッフレルリ演出のボエーム第2幕における舞台の二重構造、トスカ第3幕における舞台の上下移動、など見た目的二重構造を思い起こさせるだけです。
あと、東京文化会館はそれなりに奥行きのあるステージだと思いますが、歌手/コーラスをこれだけ、「前方に押し込めた」配置も珍しいのではないでしょうか。もともとの演出なのか、それとも声が通るように前に持ってきたのかよくわかりませんが、この酷暑にちょっとむさくるしい感じが無きにしも非ず、です。
それにしても、第3幕入場場面における一糸乱れぬ動き/整列の極度な見事さは、やはり国民性というものでしょう。先般のワールドカップチケット問題も日本人がやれば何の憂いも無かったのに、ということがよくわかります。
天井から足が4本出てくるのだけは意味不明でしたが。。。。
最後に、オールジャパニーズということであれば、演出も指揮者もジャパニーズでやって欲しかったという気持ちはあります。そうすれば演奏中に多少の地震が発生しても、誰一人憂いも無く演奏し続け、歌い続け、聴き続ける、でしょうから。指揮者が逃げたら演奏になりませんからね。(フロールがそうだと言っているわけではありませんが。)

みなさんは今回のマイスターどのように感じられましたか。私はリピートしたいと考えております。8月3日か4日ですね。
このように、ホールも盛況で、活気に満ち、イイ盛り上がりだったら毎年恒例行事でやればどうなんでしょうね。歌い手だけではなくて、みんな育つと思うんですけど。また、価格も相応ですし、土日にやるというのも良心的だと思います。企画としては大成功だと思います。
おわり

以上、実に簡単におもて面だけを語ってしまっている感想でした。
おしまい



















2800- ワルキューレ キース・ウォーナー 準・メルクル 初台 2002.3.29

2021-09-21 16:41:34 | 2002年
オペラ劇場、新国立劇場、初台
2002年3月26日(火) 5pm
2002年3月29日(金) 5pm ●
2002年3月31日(日) 3pm
2002年4月1日(月) 5pm
2002年4月4日(木) 5pm
2002年4月6日(土) 3pm
2002年4月7日(日) 3pm

ワーグナー 作曲

キース・ウォーナー プロダクション

ワルキューレ 全3幕・ドイツ語上演・字幕付

キャスト in order of appearance
ヴォータン、ジェームズ・ジョンソン(Bsbr)
ジークムント、ロバート・ディーン・スミス(T)
ジークリンデ、スーザン・アンソニー(S)
フンディング、ドナルド・マッキンタイア(Bs)
ブリュンヒルデ、リンダ・ワトソン(S)
フリッカ、藤村美穂子(MS)

準・メルクル 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
ActⅠ 70min
ActⅡ 98min
ActⅢ 70min


当時のメモを残していますので、ほぼ原文のまま書き留めておきます。以下

実験工房とでもいうべきか、かなり奇抜な演出であった。

こちら観聴きする方の脳内キャパも広がっているので、余裕を持って楽しむことが出来て面白かった。第1・2幕の不思議の国アリス的な作りはどのような意味を持つのであろうか。

第1幕は巨人族が住んでいそうな小屋である。
ジークムントとジークリンデの倍ぐらいあるテーブルや椅子が中央にあり、左サイドには大きな写真たてがあり夫婦のような感じで二人写っている。
第1幕冒頭ではヴォータンが中央に立っているところから始まるが、これはクプファーのラインゴールド冒頭を想起させる。また、フンディングは複数のマスクマンのような子分を引き連れて我が家に入ってくる。つまり第1幕は3人ではない。

双子の歌はそこそこ。ジークムントの
ヴェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーールゼ
は異常に長く、この一点に賭ける意気込みのようなものを感じた。
メルクルの棒がスローである。かなりのおそさだ。これは曲の解釈というよりも東フィルに丁寧に演奏してもらう為のギリギリのテンポのようにも感じられる。オケの音が浅いのがちょっと気になるが、この5時間ものをプレイ出来るだけでも良しとしよう。
フンディング役のマッキンタイヤは昔METで聴いて以来である。あの時はヴォータンだったので紛らわしい。この前ベルリン国立歌劇場で歌ったルネ・パぺとは水と油ほど違う。あの筋肉質の歌とは明らかに異なり、ここでのマッキンタイヤはほとんど浪花節である。歌うというよりもしゃべってる感じ。「やつし」まくりの極致である。いくら経験豊富とはいえあまりやりすぎるとちょっと聴きづらい部分もある。やにっぽい。
いずれにしてもここまで聴いて、値段以上のレベルであることは言を俟たない。さすが国から補助が出ている新国立劇場だけのことはある。専属オケがないのが玉に瑕だけれども。
さらに、第1幕の小屋は冒頭からそこにあるのではなく、曲の始まりとともに奈落から上がったくるものだ。さすが新国立劇場のしかけは最新だ。第1幕最後は巨大なテーブルが真ん中から割れ、そこの上でトネリコから剣を抜いたジークムントが滑り落ちながら、ジークリンデを引きつれ幕となる。演出もなかなか見事だ。

第2幕では、ブリュンヒルデが小さな木馬に乗ってステージに出てくるが、ここで聴衆大爆笑となる。リンダ・ワトソンは一生懸命に歌っているが。このグルーネと書かれた木馬を歌い終わったリンダが足蹴にしてステージからほっぽり出すあたりかなりのインパクトがある。
この舞台もいろいろと趣向を凝らしている。地図をあらわした床。ダンボール箱に書かれたWincなど、意味はよくわからないが目を引くものだらけだ。
ジーン・ハックマン風片目のヴォータンはサングラスで左目を伏せてあるので、これも即座にクプファー演出を想起させる。ファルク・シュトルックマンの印象が強くて、このヴォータンどうかと思ったが、全く別の表現で聴かせる。ワーグナー音楽のキャパの大きさを感じさせることにもなる。語りの部分では、ほとんど小声でささやくような感じ。これが見事にはまり聴衆は水を打ったように静まり返りその静寂自体が音楽効果となって、聴衆ともども抜群の集中力が形成された。
死の告知における、ブリュンヒルデとジークムントのやりとりは、これまたクプファー演出の、顔にドーランのようなものを塗っていくあのインパクトにはかなわないが、ジークリンデが周囲を歩き回る演出ともどもかなり凝縮され練り上げられたものだ。
ステージ左サイドの段ボール箱が取り払われると、そこには今度は小人族が住んでいそうな小屋の屋根が現れる。その屋根を頭で突き破って出てくるのがフンディング。強烈な演出。そして多数のマスクマンに袋叩きにされるジークムント。かなり過激な演出だ。

さて、第3幕である。これは何というか見なければわからない。救急病院である。部屋毎にくるくる回転し点滅する赤いランプ。そこを、救急ベッドを押しながら走りまくるワルキューレたち。この病院は廊下にある名前からWALHALLというらしい。ベッドの上にいる患者は立ち上がり奥に歩いていくが、ここも即座にクプファー演出を想起させる。
血がついた手術着(?)を着たワルキューレたち。一騒動の後の真っ白な看護婦衣装と病院の真っ白さ。赤十字を表すような赤い盾(?)。
そして、ストップモーションとともにその舞台は奥に引っ込んでいき、下から、第2幕で足蹴にされた木馬グラーネが奈落から今度は巨大な姿を現す。このインパクト!
クライマックスでは一度幕が下がり、ヴォータンが戸を3回叩く音とともに現れたのは救急ベッドに横たわるブリュンヒルデ。そしてベッドのフレーム全体が燃え始め(本当の火!)、消防車は来なかったけれど、奇抜な演出が聴衆を引きつけ続けた。
むろん、この間みんな歌は歌っている。
まずオールジャパンによるワルキューレたち。動きの敏捷さもさることながら、歌が非常に強靭で安定している。それにいかにもヴォータンの娘たちという雰囲気が良い。
ヴォータンもここにきて全開。娘たちを蹴散らすあたりの迫力は満点。リンダのブリュンヒルデも強靭であり、こんなに歌えると思わなかった。
この全体の迫力満点さが、後半からクライマックスにかけてうまく収斂されていって、最後は清純とさえ言える形に昇華されていった。舞台とのミスマッチはまるで感じない。
キース・ウォーナーの力だろう。

このようなステージが単に新奇さを狙ったものなのか、はたまた回を重ねるごとに説得力を増していくものなのか、今後の展開を待たなければならないが、この新国立劇場で集中的にではあるが年に一回しか行なわれないというのは残念だし、レパートリーとして定着する為には、このほとんどオールアメリカ人キャストに頼っていてはダメだろう。日本人の力量からして無理もないが、昨今プロレス界における大型化を見るにつけ、オールジャパンの安定した舞台もそう遠くない未来見ることが出来るのではないか。

最後に、今年バイロイトでフリッカを歌う藤村フリッカは、その自信と音量で圧倒していた。
そして、日本3大悪のひとつであるNHKホールの音とは比べるのも失礼な、抜群の音響効果を持つこのホール。専属オケがないのは返す返すも残念だ。
おしまい

以上、当時の感想。自分でも、よくこれだけのシーンを記憶しているものだと、感嘆。
おわり


















2799- ワーグナー・ガラ エルミング ラング モル 緑川 アルブレヒト 読響2002.11.15&16

2021-09-20 18:59:08 | 2002年
2002年11月15日(金) 7pm 東京芸術劇場
2002年11月16日(土) 2pm 東京芸術劇場

ワーグナー・ガラ

愛・地球博 プレゼンツ
読売日本交響楽団創立40周年記念

ニュルンベルクのマイスタージンガー
第1幕への前奏曲
ザックスのモノローグ、なんとふくよかなニワトコの香りよ (Bs)クルト・モル
第3幕への前奏曲

トリスタンとイゾルデ
前奏曲と愛の死 (MS)ペトラ・ラング

Int

タンホイザー
序曲

さまよえるオランダ人
ゼンタのバラード、血のように赤い帆に、黒いマスト (MS)ペトラ・ラング
ダーラントのアリア、見知らぬ旅のお方に歓迎のあいさつを (Bs)クルト・モル

リエンツィ
リエンツィの祈り、全能の父よ (T)ポール・エルミング
アドリアーノのアリア、正義の紙よ、もはやこれまでだ (MS)ペトラ・ラング
二重唱と三重唱、(S)緑川まり、(MS)ペトラ・ラング、(T)ポール・エルミング

ゲルト・アルブレヒト 指揮 読売日本交響楽団

(duration)
Nc









2798- ワルキューレ第1幕 エルミング ラング モル アルブレヒト 読響2002.11.9&10&11

2021-09-20 18:54:08 | 2002年
2002年11月9日(土) 6pm サントリー
2002年11月10日(日) 7pm サントリー
2002年11月11日(月) 7pm サントリー

ワーグナー 作曲

愛・地球博 プレゼンツ
読売日本交響楽団創立40周年記念

ワルキューレ 第1幕 演奏会形式 日本字幕付き

キャスト
ジークムント、ポール・エルミング(T)
ジークリンデ、ペトラ・ラング(MS)
フンディング、クルト・モル(Bs)

ゲルト・アルブレヒト 指揮 読売日本交響楽団

(duration)
ActⅠ nc









2797- パルジファル エルミング モル ラング アルブレヒト 読響2002.11.2

2021-09-20 18:37:33 | 2002年
2002年10月27日(日) 2pm 東京文化会館
2002年11月2日(土) 2pm 東京文化会館 ●
2002年11月4日(月) 2pm 東京文化会館

ワーグナー 作曲

愛・地球博 プレゼンツ
読売日本交響楽団創立40周年記念
高島勲 プロダクション
ヘニング・フォン・ギールケ セットデザイナー

パルジファル 全3幕 原語上演・日本字幕付き

キャスト
グルネマンツ、クルト・モル(Bs)
パルジファル、ポール・エルミング(T)
アムフォルタス、フランツ・グルントヘーバー(BsBr)
ティートゥレル、クルト・モル(Bs) (テープ)
クリングゾル、工藤博(Br)
クンドリー、ペトラ・ラング(S)
二期会合唱団

ゲルト・アルブレヒト 指揮 読売日本交響楽団

(duration)
ActⅠ 1時間32分
ActⅡ nc
ActⅢ nc

奇抜な演出であっけにとられているうちに終わってしまったという感じでした。当時のメモは短いもので、だいたいそのまま転記しておきます。以下。


うつせみのパルジファル
11月2日(土)のパルジファルを見ました。
随所に出てくるパジャマのご老人は誰なのでしょうか?
歌い手ではないと言うことは、この豪華キャストではみんな面が割れているので、すぐにわかります。歌い手ではないと言うことは配役ではないという事でもあるのでますますわかりません。ベッドの中ですりかわったパルジファルなのでしょうか。老人が今のパルジファルで若いパルジファルは現身(うつせみ)であるような、空蝉(うつせみ)でもあるような。
過去の投影が今を見ているのでしょうか。それとも。。。。そうだとすると輪廻風なストーリー展開でありリングのように終わりは始まりみたいにも見えます。あの角部屋はなんでしょうか。音楽家の部屋の中のようにも見えます。あの老人はワーグナーなのでしょうか。ワーグナーが過去の老人パルジファルの姿を借りているのでしょうか。そうだとすると幽霊風に部屋の中を詮索している姿は結果的には納得できます。ですから、前奏曲で既に動きがある舞台は、最初はわずらわしいと感じましたが結果的にはあそこで動くのが一番効果的であるような気がします。
終わってから全部氷解したような劇的な舞台であったと思います。

巨人族の歌い手たちは内容も巨人。なかでもアンフォルタスが役になりきっていたのが印象深い。また小人族のような(失礼)取り巻きは、歌は別にしてバランスがいささか奇異。エルミングが椅子に座るとちょうど目線が水平の位置にくるというのはかなり苦しい。
アルブレヒトは第1幕を1時間32 分ほどで終わらせた。別に速いからどうだということもないのですが、そのスピード感覚で何か表現できないもの、失われたもの、があるとすれば問題です。オーケストラのかおり、みたいなものが無いので速くせざるをえないのかな、とは感じました。第1 幕の終結はチェリビダッケの新世界の終結部と同じく、確信犯的しりつぼみ、をもって終わらせておりました。あれだと第1幕の拍手はどうしようか、などという心配以前に、第1幕は本当に終わったのだろうか、というとまどいの拍手がまずあり、その後、三々五々拍手が沸き起こるという妙な現象となってしまいました。いずれにしても第1幕で拍手をしてしまうと次がうまく始まらない曲ではないのかな、というのはこれまで何十回か生演奏観聴きしているのでなんとなく感じます。

第1幕の合唱は散々でした。せんだってマイスターを力演した同じ合唱団とはとても思えません。歌うときのポジショニングにも問題があったのでしょう。一人一人の声が浮き上がってしまいバラバラに拡散してしまいました。後半は持ち直したようですが。いずれにしてもオーケストラともども芯が無く薄い響きでした。パルジファルはそのような響きでそもそも作られているという部分もあると思うのですが、それよりも奏者自身の、音を出す事に対する自信の無さ、に起因しているのではないでしょうか。(この曲に関する限り)
演出は劇的でしたが、例えば前奏曲の後の祈りで居眠りするしぐさとか、それを小突くグルネマンツなどの表現は不要でしょう。毎日の儀式なのに何故今日も眠くなるの?といった違和感ですね。このような余計な動きは音楽を殺してしまいます。
それから、レヴァインと同じで私も第二幕は嫌いです。それは現実の自分と似ているからでしょうか。
おわり


といった感想で、完全に中途半端ですが、この駄文でも、追えば目に浮かんでくるものもあります。
あとあとまで残る演出でしたね。
おわり





























2796- Jakub Hrusa and the Bamberg Symphony have released a new recording of them all.

2021-09-18 10:53:36 | 音源



There Are Three Versions of Bruckner’s Fourth. Why Choose?
Jakub Hrusa and the Bamberg Symphony have released a new recording of them all.

The conductor Jakub Hrusa and the Bamberg Symphony, which he has led since 2016, have released a recording of all three versions of Bruckner’s Fourth.


The Austrian composer Anton Bruckner died in 1897, but his Fourth Symphony remains something of a work in progress.

Bruckner kept revisiting and revising many of his nine long symphonies, which in turn have been re-edited and tweaked by a series of followers, publishers and scholars. The result is that seven of the nine now exist in multiple scores.

The burden is on musicologists and conductors to decide which iteration is the most authentic, or just the best. And that problem is most acute with the Fourth Symphony, which Bruckner worked on longer than the others — from his first version, which dates to 1874 and was never performed in his lifetime, to a final third version, which premiered in Vienna in 1888. Following a critical reconsideration of Bruckner’s symphonies in the 1930s and ’40s, the second version, dating from 1880, became the standard.

This month, the Bamberg Symphony in Germany, led by its chief conductor, Jakub Hrusa, embraces the problem of the Fourth — or simply overwhelms it. The orchestra is releasing a four-disc set that includes recordings of all three versions, in new editions edited by Benjamin Korstvedt, a professor at Clark University in Massachusetts, as part of the ongoing complete Bruckner being published under the auspices of the Austrian National Library. (For good measure, the recording also includes a selection of unpublished alternate passages and an alternate finale.)

A native of the Czech city of Brno, Hrusa, 40, has led the orchestra in Bamberg, a small Bavarian city north of Nuremberg, since 2016. He has also appeared as a guest on major podiums, including several visits to the Cleveland Orchestra, and recently conducted the Berlin Philharmonic in the premiere of a new work by Olga Neuwirth — as well as in the second version of Bruckner’s Fourth.

While in Berlin, he gave a video interview from his hotel. Here are edited excerpts from the conversation.


Why did you decide to record, well, everything about the Fourth Symphony?

It took me a relatively long time to explore Bruckner with satisfaction. I had conducted his music before, but I was never really pleased. Then I got to Bamberg. Bruckner’s music is very much at home in German-speaking countries, and I suddenly had an orchestra that just breathes this kind of music. I felt like I wanted to do a lot of it, and we began with the Fourth Symphony.

I was rather innocent and didn’t have any experience with all the versions. Bamberg usually plays the second version, so I said, “Let’s do the third one,” which at the beginning of the 20th century was basically the only one that was performed. And then I wondered: Is the third version really the right one? Or is the second one right? And what about the very first version? And suddenly the idea came to record them all and bring out something new. There is so much Bruckner on the market, and if you record him again, it should have some bonus quality.

What are the key differences between the three versions? And do you now prefer one?

I was intrigued by the first version, because it is by far the most controversial, and the boldest. It is longer and has a completely different scherzo [the third movement], and there are certain passages that are on the edge of being unplayable. I don’t agree with people who say it is not good; it’s just not practical. But if you do it well, it sounds very contemporary. It’s now probably my favorite. If there is enough time to prepare, and the possibility to mount such a huge piece in concert, I would be eager to conduct it again.


Bruckner’s music was promoted by 19th-century German nationalists and 20th-century Nazis. Should that concern audiences today?

I am interested in these things, and I am very happy to read about them, but I don’t think we should care when we’re listening to the music. Great music can stand all kinds of analysis, but it also needs no analysis at all to be appreciated, and I don’t want to spoil the pleasure for people who go to a concert with no clue about those contexts. They have a right to be exposed to Bruckner’s music as it is. What has been done with the music shouldn’t be projected onto the interpretation.

And Bruckner (unlike, say, Wagner) didn’t provoke the controversies himself. He was a devout Catholic, and he had certain views of life that might not seem very modern, but — apart from dedicating his last symphony to his “beloved God” — they were not made explicit.

What are the challenges in maintaining a world-class orchestra in a small provincial city?

It’s much easier to promote an orchestra connected to a well-known city. Bamberg has about 70,000 inhabitants, and we have 6,000 subscribers — so roughly 10 percent of the adult population comes to our concerts. We feel like the flagship of the town.

But the orchestra has always thought that its mission must go beyond Bamberg. In continental Europe, the Bamberg Symphony has a name, but almost no one in the United States, for instance, knows where Bamberg is. As soon as people hear a recording or come to a concert, they discover the quality for themselves. But before that happens it takes twice as much as effort to open people’s minds.


Sometimes you use a baton and sometimes you don’t. How do you decide?

The baton is an elongation of the arm. It is only really needed in an opera house, where you have to be extremely clear so that everyone onstage can see you. And if you do a piece by Olga Neuwirth, where the meter changes in every bar and the musicians are dependent on every click of your hand, it is useful to have it. But if the orchestra doesn’t need clear indications, and the music flows in a way that doesn’t need a beat, then I can do without a baton. But I am not dogmatic about it; it’s just intuition.

You are a fierce advocate for the prolific Czech composer Bohuslav Martinu. Czechs place him alongside Smetana, Dvorak and Janacek, but he is much less known abroad.

If a composer writes so many pieces, as Martinu did, you can’t play all of them. The public needs focus, and you have to kind of shrink the heritage. In the case of Martinu, it is not so easy to do. I find that my task is to limit myself to his late period, when he was most original. And then I try to win over an orchestra, which is the first thing for a conductor. If the audience sees that the orchestra is playing with great pleasure and energy and effort, they take it for granted that it’s worth it.

You have what could be called an effervescent conducting style — very physically exuberant. How did you develop that?

It has taken me years. Even though I am overwhelmed with joy at what I do, I am also a very self-critical person. I started in a more controlling way, and I had to learn that the best results happen in a concert when you open yourself up to whatever comes.

The usual mistake of the beginner is to conduct like crazy when it’s not needed. I had to find a way to navigate the orchestra so that they get something that is helpful — not only technically, but also in terms of atmosphere and energy. In a Bruckner symphony, for example, there are 70 minutes of music, and the energy level of the musicians inevitably goes down. It’s my job to guide things so that the audience never feels that.
おわり