河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1758- ドイツ・プログラム3曲、ワイケルト、新日本フィル、2015.2.27

2015-02-28 23:29:02 | コンサート・オペラ

2015年2月27日(金) 7:15pm トリフォニー

ウェーバー  魔弾の射手、序曲 10′
ヒンデミット  ウェーバーの主題による交響的変容 4′9′4′5′

Int

ブラームス  交響曲第1番ハ短調  15′8′4′17′

ラルフ・ワイケルト 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団

ワイケルトは昨年、ドンジョを振ったのを観て、オーソドックスで舞台の上の人たちもプレイしやすい感じに見えました。
この日のプログラムはこれ以上ないドイツ物。奇を衒うことのない棒は、曲の深みを味わうにはいいものでした。細かいところも、さっと引き締めた演奏で好演。

2番ホルンに、1月に訪問した名古屋フィルの女性のかたおりました。と、メンバー表見たら客演が18人という大掛かりなものでした。随分と多いですね。

あと、このオケのブラスのチューニングはまいど、ブファーと20秒ぐらい、まるで汚れ確認みたいな感じで好きになれない。神経集中して音合わせしてほしいです。
おわり


1757- ブリテン、pf協、エルガー1番、秋山和慶、東響、2015.2.26

2015-02-27 02:04:03 | コンサート・オペラ

2015年2月26日(木) 7:00pm サントリー

ヴォーン・ウィリアムズ  グリーンスリーヴスの主題による幻想曲 5′
サラサーテ  スコットランドの歌 9′
  ヴァイオリン、大谷康子

ブリテン  ピアノ協奏曲 作品13  13′6′10′8′
  キット・アームストロング
(enocre)
ウイリアム・バード  森はこんなに荒れて  4′

Int

エルガー  交響曲第1番変イ長調  21′8′+13′+12′

秋山和慶 指揮 東京交響楽団


イギリスものプログラム。前半は少し散漫。
このオケは前任者が日本国内で過大評価され、井の中の蛙のような雰囲気だったが、ノットになったらというよりも前任者がいなくなったら、解き放たれたかのようにきっちりとした力量が出るようになった。ブルックナーをマーラーの様に振る指揮者のどこがいいのかさっぱりわからなかったし。ただ名前がスーダンと呼ばれていた頃から知ってはいる。
ちょっと前までの、時として潰れたような音は、いつぞやのノットの棒によるブーレーズのノーテーションで払拭されたとはいえ、こうやって継続的に、ステージの音場が少し持ち上げられたように腰がすわり響きが美しく透明になるとはびっくりである。比べるのもアレですが昨晩オケとはずいぶんと違うものだ。

秋山のエルガーは今のこのオーケストラの響きの良さを前面に出したもので、ウィンド、ブラスの奥行き感、立体的な彫の深さと洗練された彼の素直な音楽解釈がストレートに出た佳演。イギリス風味のブラバン的な響きが美しいエルガーでした。弦にマッシブ感が出ればさらに良い。
2,3,4楽章は連続演奏。緊張感を保ってまるごと一気に振り終えた感じ。

ブリテンの若い作品は、ここ半年で2回目。オズボーン(2014.10.20)のときは駄作だと感じたものだが、たてつづけに聴くとよい部分もクローズアップされてくる。キットはまるで全部グリサンドみたいな腕達者な弾きぶりでした。若い作品には若者をのベストマッチ。

その前の2曲はよくわからなかった。プログラムビルディング的にはブリテン、エルガーで十分おなか一杯になるのですけれど、なぜかぱっとしないものが2曲。
おわり






1756- マーラー6番、チョン・ミョンフン、東フィル、2015.2.25

2015-02-26 01:44:18 | コンサート・オペラ

2015年2月25日(水) 7:00pm サントリー

マーラー 交響曲第6番 イ短調 23′13′15′29′

チョン・ミョンフン 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


第1楽章の提示部は5分ほどかかり、さらにそれをリピート、また第4楽章の序奏に5分かかる曲。これで通常のソナタ形式寸法でふちどりしていくと当然長大なものとなるわけです。この作曲家がどのような思考の順序、順番の発想でこのような規模の曲を書くに至ったのか、興味のあるところではあります。この曲だけではありませんけど。

個人的には、ミュン・フン・チュンという名がなじみ深い。チュンのピアノの雰囲気から言っても、変なところのないバランス感覚に優れた演奏を繰り広げ、当たり前と言えばそれまで。この曲は技量をはかると言ったあたりにスポットライトが照射されすぎてしまうのはその昔からそうで、格段な技術的進歩をみたいまのオケ技量の中にあっても同じテーマで語られるのは、聴き手サイドのテーマと言う範疇の広がりの無さ、進歩無さを物語っている。ではどこに進んで行けばいいのかという話になるんですが、普遍でなくてもいいので自分なりの基準などをもっていれば、いい演奏、悪い演奏、良かった、悪かった、のレベルから少しは逃れられる。ただ良不良を語っても何も生まれることが無いぐらい上演回数的には陳腐化してしまったシチェーションですし。自分で基準のようなものをもてないのなら、例えば、なぜこのような曲を書くに至ったのかマーラー本を読めばいろいろわかることが出てきますね、それが進歩へのワンステップになるかもしれない。
チュンの演奏スタイルはそのようなことを考えさせる演奏ですね。精神が落ち着いているし、何を聴きに来ているの?ということを考えさせてくれる。彼の頭の中のスーパースターをトレース、イメージし、少なくともモノトーンな受動的なだけの聴き手ではいたくないと思わせてくれる。こちらが思考に関しアクティヴな多様性をもつようにならないといけない。

ほぼ右手オンリーの棒テクニック、いろいろなことを片手でやってしまう、ピアノは両手なのに!

18型編成、ハンマー2回。


メモ。
初めて見たミュン・フン・チュン

オーケストラ演奏会
1984/10/16 AFH、ニューヨーク・フィル デビュー
バルトーク舞踏組曲
ショパンpf協2、エマニュエル・アックス
ドヴォルザーク交響曲第3番

オペラ
1986/3/19 メト デビュー
ヴェルディ シモン・ボッカネグラ、ミルンズ、カナワ、他

おわり


1755- 変容、ブルックナー9番、ティーレマン、ドレスデン国立歌劇場管、2015.2.24

2015-02-24 23:35:52 | コンサート・オペラ

2015年2月24日(火) 7:00pm サントリー

シュトラウス  メタモルフォーゼン 27′
Int

ブルックナー  交響曲第9番ニ短調(ハース版) 26′11′27′

クリスティアン・ティーレマン 指揮
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

elapsed time at ab
<第1楽章> 26分
第1主題 4
第2主題 4 (主題3+経過句1)
第3主題 4 (主題3+経過句1)
準展開部第1主題 1
準展開部第2主題 1
準展開部第3主題 1
展開部+再現部 9
コーダ 2

<第2楽章> 11分
スケルツォ 4
トリオ 3
スケルツォ 4

<第3楽章> 27分
第1主題 4 (主題3+経過句1)
第2主題 4
自由な展開 14
コーダ 5 (調性帰結前3+帰結2)


鉄板解釈を鉄板聴きしたという話です。

9番の演奏行為がまるで建築物の様に見えてくる一種名状し難いもの。普段聴くような音楽の演奏会とは全く違っていて、深い森の中に立っているビルディングが最初は遠目に、森をかき分けて進むとだんだんと近づいてきて全貌がうっすらと、最後はクリアにそびえ立っているのを理解、把握できる、そんな感じで、最後の最後は天空から地上の建築物を睥睨するような気持ちとなる。音楽とは一種別なアンビリーバブルな体験となりました。

この種の演奏は逆立ちしても構造だけです。つきつめて言いますと、日本人が好む非対称、アンバランスな不安定力学美学とはまるで異なる強固な造形物の構築作業と結果の見事さです。
そしてもうひとつ、遠い国の遠い昔の、F系のエキセントリックな世界観とは別のもう一つの世界、つまり隠れていた時空が出現したという話です。


始点から終点まで時間軸の中にあるのが音楽で、演奏はそれを見せる為の実現行為になるわけですが、この演奏はまるで造形物でも観ているように感じた。
時が経てば現在からの時間距離はおのずと遠くなり、つまり始点終点は少しずつ近づいていくように思え、最後は同じ時間軸で一体化する。そのような現象を見せてもらいました。始点は終点よりも過去のものではなく、最初の音から最後の一音までで、構造物が完成したようなおもむき。古い方から忘れるといったそういう話では決してありませんでした。
時間推移が消えたような、一つの超常現象を感じたエポックメイキングな気配をもつ演奏となりました。
私がトレースした経過時間は思うにティーレマンの音楽解釈と表現方法や手段をトレースしたものと感じております。彼の意識された音楽表現方法という話です。

このての方針で成功しそうなのはこの9番とあとは静止画像みたいな解釈を受け入れ可能な4番ぐらいかなと思います。一つの面を極大化して見せたやり口は圧倒的でしたが、全部これでいけるかというとそうでもないと思うところはあります。
第3楽章の帰結5分に至るちょっと前の木管の不協和音の音符のばしのテンポは尋常ではないスローさ加減で、あれと同じのはクレンペラーの演奏ぐらいしか浮かばないのですが、全体的な静止物件の構造を完結させるためにはああなるしかない。それでいて最後の帰結は情に耽溺することなく比較的あっさりと終わる、構造バランスの整合性とはこういう話かと思いまして、不気味なくらいジャストフィット。この方針でいけるのはやはり限られていると少し脳裏をかすめたわけです。
支えが不要な彫刻作品の制作現場をみているような感じですね。

と言う感じで、やにっこいニ短調の出だしを思い起こしてみるだけでも全貌が目に浮かんでくる。
プレイヤーが全プルト全インストゥルメント、指揮者と同じテンションと集中力で動いている、圧巻。指揮者と全プレイヤーがまるで一つの生き物のように一体化、圧巻。
両者で構築作業をしている。プレイヤーたちの生々しい豊かな経験が指揮者を動かしているのも手に取るようにわかる。そして指揮者は現場監督と指図、上下関係ではなく相互作用により物が出来ていくのが手に取るようにわかる。圧巻です。両者の骨髄のエキスを感じる。

アウトプットされたものは案外、普通の出来事だったのかもしれませんけれど、それを追体験できました。ブルックナーの作曲の追体験ではありません。完成品を完成品としていつもよりもうひとつ突っ込んだ形で見ることが出来た体験と言う話です。


ここでちょっとFが1944年に振った9番を思い出してみよう、思い出したくないという気配もある中、非線形型ゆがみの醍醐味、でもそれは聴き方が、ティーレマン的創造の世界に立った聴き方をすれば、そのように聴こえるという話です。音楽の運動をF的哲学で実行すれば今かろうじて聴かれる録音のようになるし、ゆがんでいるのは音楽が発せられた空間と聴き手であって、彼の哲学を実践すれば指揮したすべての演奏が、当然、あのようになっちまう。
構造物はゆがんではいけない、ひずみもいけない、壊れるから、確かにそうなんです。時空、空間、それらが真っ当であれば確かにそうですね。
Fは、そうはなっていないと言葉と文にし、それを実行した人なんです。このように自らの思考、文を具現化した人はいそうでいない。Fの本は全て読む価値があるし深いものですが、それらはちょっと横に置き、とりあえずは現象。
ティーレマンの現象は対極の現象でした。対極と言ってしまうとティーレマンには言葉や文がないのかと言われそうですが、そうではなくて、ティーレマンはそれらが不要である世界を見せてくれたということで異次元だったわけです。一見するとFのほうが異次元っぽいですけれど、まぁそうかもしれませんが、ここは、言葉の替わりをするものというよりむしろ言葉なき世界が見事に成立していたということを、対極演奏のFを思い出すに至り、そのことが驚異だったと換言してもよいのかもしれません。
ここは異次元と言う最近の流行り言葉を本来の意味で使いたい。
彼らの行為により次元や時空、空間、ゆがみ、ひずみ、線形、対称非対称、構築物、等々、そのようなものが複数存在しているということをあらためて気づかせてくれた、それが実感です。隠れていた時空が姿を現したと言えるかもしれません。

思うところは沢山ありますが、とりあえずここまで。


プログラム前半のメタモルフォーゼン。この曲、いきなり暗譜棒と言うのも割と妖しい。徹頭徹尾理解しまくり振りまくりなのでしょう。23本の神経の一本一本が生きているのが見えるような演奏で、あまり聴いたことのない凄いオーケストラアンサンブルでした。
23人中、女性奏者は3人。いまどき日本のオケでは見られないレアな比率です。物理的な力強さも表現の一端を担っていると考えて然るべきかと思います。

ティーレマンは随分前、ベルリン・ドイツと来日していた頃は割と子供子供していて、自分の出番でない時はホール通路をはしゃぎまわったり、そんなシーンが目に浮かびますが、さま変わりです。
ニヤケ笑いはもちろん一切なし、スーパーシリアスすぎる顔でブルックナーに対峙。ニヤケる理由などかけらもないわけですしね。

ティーレマンは天才肌と言うわけではないと思います。オーケストラの自発性を引き出す。このてのオーケストラには最適な気がします。
エポックメイキングな一夜でした。ありがとうございました。この日の演奏会のことはまた書くかもしれません。
おわり


1754- リゴレット、二期会、バッティストーニ、東フィル、2015.2.22

2015-02-23 00:21:46 | コンサート・オペラ

2015年2月22日(日) 2:00-5:00pm 東京文化会館

東京二期会オペラ劇場 with パルマ王立歌劇場 プレゼンツ
ヴェルディ作曲
ピエール・ルイジ・サマリターニ & エリザベッタ・ボレッリ プロダクション

リゴレット

キャスト(in order of appearance)
マッテオ・ボルサ   渡邊公威、テノール
マントヴァ公爵    山本耕平、テノール
チェプラーノ伯爵夫人 成田伊美、メッゾ
リゴレット      成田博之、バリトン
チェプラーノ伯爵   野村光洋、バリトン
モンテローネ伯爵   泉良平、バリトン
マルッロ       山口邦明、バリトン
スプラフチーレ    伊藤純、バス
ジョヴァンナ     小泉詠子、メッゾ
ジルダ        新垣有紀子、ソプラノ
小姓         宮澤彩子、メッゾ
マッダレーナ     加藤のぞみ、メッゾ

二期会合唱団
アンドレア・バッティストーニ 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

(タイミング)
第1幕第1場 15′ sb 2′ 第2場 41′
Int
第2幕 30′
Int
第3幕 33′


1987年生まれの指揮者が振るリゴレット4日連続公演の千秋楽にうかがいました。この指揮者を見るのは昨年1月(2014.1.26)以来で二回目です。その時は同じ東フィルを振ったオーケストラコンサート、今回は得意分野のオペラ。リゴレットは外せませんね。才能豊かな自由自在棒がうなりをあげます。

リゴレットはヴェルディオペラの中では一二番の好み。あまりにも劇的すぎるストーリー展開と音楽、魅力的に過ぎる。
ただ、ちょっとした違和感もあって、有名作家の作品を下敷きにしたものとはいえ、道化師が貴族を色々となじったりできるのかなと思いつつ、でもこれは時代を考証すれば真実なのだろうなぁという部分と、悪に誠実に罪を罰するスプラフチーレがシルダを刺すところの現実離れ感、この2種類のことが同じオペラで起こっているというあたり、喉に魚の小骨が刺さっている状況がなくもない。
今回の千円プログラムには、道化師のなじりがなぜ可能だったかということを推測で書いているが今一つ、よくわからない。このドラマの悲劇の始まり、起点の一つになっているはずなのだが。


若き俊英バッティストーニは、ストーリーの流れを見事にとらえた音楽づくり、柔らかくて大胆で滑らかなフレージングでうならせる。ダイナミックにゴツゴツと躍動する特有のヴェルディ節を圧倒的な強力サウンドで物語の波風、起伏をにらみながら突き進む。歌い手やオーケストラに、よし一丁やってやるかと俄然やる気を起こさせる凄腕の棒。チリチリと音楽に熱を感じることが出来る指揮であり、理屈だけのぜんまい仕掛けジョブの棒などとは明らかに一線を画する。それは見れば明白だし、耳にも確かにそのように到達してくる。
また合唱への指示、コントロールも抜群、長身なので大きい指示でしたいことが的確に伝わる。大きい指揮ですね。合唱は第1,2幕の出演ですけれど、だからかどうか、第1幕いきなりからピッチが揃い厚みがあり横によく広がる、まるで空気が動いているような素晴らしい二期会の表現力。この第1幕の合唱も指揮者の術中にはまったのだろう。

オーケストラが草木をなぎ倒すように進むその中をかき分けて歌い尽くさなければならない歌い手たちは第1幕から大変です。第1幕第1場はゴチャゴチャとしたシーンですが、内容的には物語が動く起点となるところですから目を皿にして見聴きしなければなりません。舞台のシックな美しさと歌、オケの秀逸さがこの第1場をとっておきのものにしてくれました。美しいものは短い、15分。

第2場ジルダが出てきます。アリアと二重唱、それぞれの思いで歌われる。
この場は、冒頭にスプラフチーレが出てきて、最後の場面は多数によるジルダさらい、暗い緊張感にサンドイッチされながらもアリア、重唱がきわめて美しく響く。45分
こうゆうところでこの指揮者は結構音を切りながら(止めながら)寄り添ってくる。ただ静かに流すのではなく、息に合わせてフレーズを伸縮自在に出し入れする、オーケストラと歌への指示が自然で分かりやすく、あえて言えば人間の感性に沿うもの。フィーリング・グー、の世界なんですね。音楽は自然な呼吸で、というのはこういったあたりのことかもしれないと一人で納得。
この場での本日のロール3人、強弱のバランスやニュアンスのコンビネーションが素晴らしく良い。練習努力の成果と思わせないぐらい自然なもの、リゴレットワールド。

この、比較的長めの第1幕は場切りとせず第1幕第2幕としてしまうのもあるが、そうなると第1幕がちょっと短くなる。昨今の変な幕切りが多いオペラ演出の中にあって、この作品は2回休憩を取るのは概ね合点がいくもの。長さ頓着せず幕を続けざまに進めてしまう演出とか都合演出が多いのは作品の幕のバランスのせいもあるかもしれないとふと考えたりする。リゴレットは相応にバランスいいものですね。昨年の今頃上演された同じく二期会のドン・カルロの休憩の入れ方にはまいってしまった。(4回全部観たけど)

この第1幕、全体にわたって自由な空気が満ち溢れていた。伸縮自在、美しいフレージング、これはベースとチェロを思いっきり大きく歌わせることにより、腰の強い鳴りが圧倒的だし、ブラス、パーカスセクションのこれでもかのダイナミックレンジの広さには驚きを通り越し胸に圧力がかかってくる。また、裏バンダのきっちりした演奏には繊細な芸風を感じることが出来る。要するにバッティストーニの音楽的感性の振幅の大きさがこの第1幕を聴いただけでよくわかるものとなっていた。


第2幕はもっと長くてもいい、いくら長くてもいい。この30分は本当にあと言う間に終わってしまいます。ストーリーとしてはわかりやすい。
ジルダはやや硬めの発声ながら、ロール3人の中で締める役割を担っており、決めるところは決める。マントヴァはヘアオイルを流したような艶やかなウエット感があればと、タイトルロールはどぎつさとあくの強さがもっと欲しい、などと人間の欲望は言い出したらきりがないが、3人のバランスが非常によく、それなりに満足のいくもの。
この2幕は最後、親子それぞれの思いで転調を重ねながら突き進む、これぞヴェルディ節なんですが、この親子の交錯する歌への指揮者の伴奏は軽妙にさえ聴こえてきますね。それぞれの機微が思いもかけず軽やかに歌われる、オーケストラも冴えわたる。ここらへん、オペラ手慣れているオーケストラだからこそすんなり出る。いい掛け合いにはいい伴奏を。素晴らしい。

合唱関係はこの2幕で終わりなので、幕開きのカーテンコールが盛大に。


大詰めの3幕。
第1幕第1場を思い出しながら、この3幕はかなり血なまぐさいなと、そのシチェーションの違いにあらためて驚く。ドラマティックオペラの醍醐味でしょうか。
この幕は、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」風なメロディーの「女心の歌」がマントヴァによってすぐに歌われるのですが、バッティストーニは結構な猛速。こうゆうところで油を売っていてもしょうがないよ、と言う感じ。マントヴァの歌も限界が見え隠れ、あまり伸ばし切ってもよくないと考えたのかどうかわかりません。味わいより先に進むスピード感を、そんなところか。ここらへんは、この指揮者にイタオペこてこて歌手があてられていたら思いっきり変幻自在で伸ばしにかかるだろうな、そうゆう風に思わずにはいられない、なぜか確信が持てました。
ちょっとへばってきて、そのあと四重唱ですからそこはジルダになるべくお任せで。ジルダはポイントを外さないので聴いているほうはスッキリ。それにスプラフチーレの存在感がやたらとでかい。この役、こんな大役だったかなと考えてしまいました。この日はとてもポイントのように見えました。つまり、罪を罰する役に徹していればジルダは死なずに済むわけで、そうなったらどんなストーリーテーリングになったのだろうと、妙にリアルに感じさせてくれた。その辺のオペラだれか考えてください。
このプロダクションの舞台は、落ち着いた良いもので、ここの四重唱における配役たちのポジショニングが絶妙で、上下、遠近、動き、明暗、それぞれなるほどと思わせてくれる。よく考え抜かれていると思いました。

その、スプラフチーレがジルダを手にかけるところの指揮者の具合がまたすごい、オーケストラに、ここは乱れまくりでいいんだ、乱れまくれ、と嵐棒。昨今の若い指揮者では見たこともない解釈と言いますか、インディーズ的芸風。音楽に熱を。直情的な熱風が聴衆をエキサイトさせてくれる。ドラマのなかにいつのまにかはいりこんでしまう。バッティストーニマジックと言う言葉があるのかどうか知りませんけど、あってもいいかな。
そして起点があったように悲劇の終点がやってくるわけですけれど、ここでのオケ伴はもう、言葉、独白。音楽を一瞬忘れさせてくれる。このオペラの頂点で物語は劇風な色彩を帯びながら圧倒的にめくれるようなサウンドの中、終幕。33分。


ということで、この劇的なオペラにバッティストーニは合っているんでしょうね。歌、オケ、合唱、群を抜いたコントロールで。コントロールと言うよりむしろ、開放と言う言葉のほうがふさわしいかもしれない。プレイヤーたちのやる気度100パーセント越えにする能力。
まわりからの華やかさ有りますが、迎合する風でもない、媚びる雰囲気無し。能力がまわりを屈服させていると言ったら語弊がありますが、双方の理解などと言う生易しい言葉ではなく、フィーリング的な裏付けに割と納得しているような気はします。

プロダクションは自然で、作為的でなく、陳腐さもない。
昔通りの舞台ながらチープな感じがまるで無い。きらびやかなものでさえ何か影を帯びたような陰影。日本人が無理にやっているような違和感もない。歌い手のポジショニングもよくきまっている。
ワーグナーを筆頭に昨今の超作為的なものが日常化してしまった舞台とはまるで異なる。イタオペでも同じようなことは演出家によってはありますしね。
観るのに苦しまなくてよい、いい舞台でした。

二期会の合唱は、歌い出しからピッチのあったいいもので、なにか音場が一つ上方に持ち上げられたように思えるような冴えわたる歌唱でした。

リゴレットは個人的には2年前のドゥダメル、ラ・スカラ以来のもので、あの時と同じく楽しむことが出来ました、ありがとうございました。
おわり




1753- ソヒエフ、トゥールーズ・キャピトル国立管、2015.2.21

2015-02-21 19:15:12 | コンサート・オペラ

2015年2月21日(土) 3:00pm サントリー

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲 11′

サン=サーンス ヴァイオリン協奏曲第3番 9′7′10′
  ヴァイオリン、ルノー・カプソン
(encore)
グルック メロディ 4′

Int

ムソルグスキー(ラヴェル編曲) 展覧会の絵  32′
(encore)
ビゼー 「カルメン」第3幕への間奏曲 3′
ビゼー 「カルメン」第1幕への前奏曲 2′

トゥガン・ソヒエフ 指揮 トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団


フランスとロシアが混ざったようなプログラム。
前半フランスプロ、後半ロシアプロ、オケと指揮者双方の意思を尊重し合った結果のプログラムビルディングか。ルーチンワーク的な雰囲気もありますね。

ソヒエフは前、N響定期を振っていてその時は軽い棒にあまり感心しなかったのですけれど、今回は随分と違いました。手兵オケには意思の浸透が普段からある、ということで、ソヒエフの明確な棒テクニックのもと、殊の外、ハイレベルなサウンドが奏でられた。

最初のドビュッシーとアンコールのカルメン、フルートのプリンシパルを際立たせたようなフレーム感覚は故意なのかもしれません。良かったと思います。
オーケストラサウンドは明るくて少し硬め、ざらっとした感触は無くハイスキルレベルのオケであることをうかがわせるが、たまにアンサンブルや音の塊にすき間があるようなところもある。

サン=サーンスのコンチェルトは低音域系の曲なのか、随分と下の方で奏でられ、幅が広く感じられ大きく響いてくる。あまり聴くことのない曲なので出てきたものを楽しむ感じで。
アンコールは一転、高音域のピースで、コンチェルトとの対比が際立っていますね。面白い曲の連続で楽しみました。

後半の展覧会の絵はソヒエフの棒が見事。ヘビー級の曲にせず、比較的サラッと、というかラフにならないように気配りがありそうだ。重心が一つ浮いたような展覧会でした。
ときおり、ブラスの咆哮のあたりで、オタマを1個ずつ克明に振るようなところがあり、ロシアの血が騒ぐのかもしれない。
総じてパワフルに鳴らすのではなく、丁寧さをひとつ前に出したようなスタイルの演奏でした。

このオーケストラレベルはチケット同価格帯の来日オケと比べるとワンランク上だと思います。CDで聴く明るいがモヤモヤと音が束になってき終えるようなところは無く高い分解度。

当夜はカメラ5台、収録マイクが乱立。そのうち何かでやるのかもしれませねんね。日本の悪しき慣習プログラムパンフが1500円というのは収録放映代に何某か転嫁されているのではないかと勘繰りたくもなる。

そのプログラムを読んでみると、トゥールーズはフランス第4の都市、トゥールーズ管は、オペラ劇場で年間10演目、コンサートホールで24回の定期公演。と書いてあります。
これが事実なら、アメリカオケとは比べ物にならないぐらい少ないだけでなく日本のオーケストラと比べても少なすぎる。
と感じるが、たぶん、オペラ10演目といっても1演目5回やったとして50回、定期24回と言っても1定期2回やったとして、48回。双方合わせて100回ぐらいはこなしているんでしょうね。

それから、キャピトル国立管という日本語は誤り訳だと思います。キャピトルは固有名詞でなないですし。他例で、エンシェント室内管というのも変で、こちらは形容詞の固有名詞化で、どちらも同じ類の誤りかと思います。
おわり


1752- ジャン=クリストフ・スピノジ、新日フィル、2015.2.20

2015-02-21 12:53:19 | コンサート・オペラ

2015年2月20日(金) 7:15pm サントリー

ロッシーニ 「チェネレントラ」序曲 9′

シューベルト 交響曲第3番 二長調 9′4′3′7′

Int

サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調 オルガン付き
11′+10′ 7′+8′
  オルガン、松居直美

ジャン=クリストフ・スピノジ 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


年に一回の来日で、あっという間に終わってしまう楽しい演奏会。

真っ赤なタイに軽めのジャケット。演奏会が跳ねる頃はだいたいワイシャツがズボンからはみ出る感じで終わる。活き活き飛び跳ねる棒と応えるオーケストラ、最高です。

一曲目のチェネレントラの自然でダイナミックにしゃくりあげ歌うロッシーニ・クレシェンド、スタッカートのきいた活き活きサウンドが飛び回る。それに香ばしい絶妙なニュアンスのしなやかさがブレンドする。オーケストラの表現力の豹変には驚くほかない。指揮者の才覚がオケに見事に浸透し、そして息吹となって出てくる。

シューベルトの3番はロッシーニの雰囲気モードを引き継いでおり、同じ呼吸を感じる。いつまでも聴いていたい。この快活さは明日への活力に。

後半のサンサーンスは、じっくりと聴かせる部分が比較的長めで、オケのスキルが少し戻ってしまった感があったがテンション高く、モードも継続している。
オルガンをいつも聴くような上方奥で弾くのではなく、ステージのオーケストラレベルに鍵盤をセットアップ。どのようにパイプと繋がっているのか知りませんが、指揮者の目線、オーケストラと同じレベルでのサウンド雰囲気を共有しながらのプレイ。それをスピノジは要求したということでしょうか。
この曲は大げささが、空虚なサウンドとなってしまうことがあってあまり好きではなかったのですが、昨年連発で何度か聴くうちにかの国の神髄音楽の一つなのかもしれないと思うようになってきました。最近は結構ひかれています。
スピノジの演奏は全く重くならず、ブラスが強音で濁ってしまうのが残念なオケで解像度に難がありますが、意は汲まれた。明快に表現したい意思は感じた。響きに音楽を求める方針ではなく歌い跳ねる、そんな感じ。

このオーケストラのサントリー、トリフォニー両定期をすべて持っていてよく聴きに来るのですけれど、最初のチューニングでのブラスセクションのビャーという3秒ぐらいの粗末な音合わせだけはやめてほしい。もう少し丁寧なチューニングを。そのような明確な意思を意識して持っていればこの曲に対するアタックもだいぶ違ったものになるような気がするのですが。

20分の休憩入れて1時間35分の演奏会。定刻5分すぎないと出てこない都響とは違い、このオケは定刻前に出てくる。指揮者登場が定刻と言う話なのですが、そもそも演奏会の開始が7時ではなく7時15分であり、終わりは9時前。演奏会の短さは都響と双璧なのかもしれない。
おわり




1751- シベリウス5,6,7、尾高忠明、札響、2015.2.17

2015-02-18 01:20:16 | コンサート・オペラ

1751- シベリウス5,6,7、尾高忠明、札響、2015.2.17

2015年2月17日(火)7:00pm サントリー

シベリウス 交響曲第5番 14′9′9′
Int
シベリウス 交響曲第6番 8′6′4′10′
Int
シベリウス 交響曲第7番 23′

(enocre)
シベリウス アンダンテ・フェスティーヴォ 4′

尾高忠明 指揮 札幌交響楽団


3年がかりの東京でのシベリウス交響曲全集のラスト年。昨年は風邪をひいてしまいダウン、仕事を一週間休んでしまって、夜だけ踏ん張ってなんとかホールまでたどり着いたが、熱にうなされながら何を聴いたのか覚えていない。今回は体調万全で。

2回の休憩が設けられた演奏会。
札響サウンドは独特の透徹した冷や冷や感の肌触りが心地よい。線が細いということもなく、大型の流氷のような趣き。

5番第1楽章の第2主題ヴァイオリンフレーズ、もうちょっとゆっくり目がタイプ。速すぎてタップリと味わうことが出来ない。
第1主題が牧歌的なので対比を際立たせる解釈は確かにあるとは思うのですけれど、そもそも半音進行みたいな主題のヴァイオリンフレーズですので、あすこはそのようなフィーリングの妙が欲しいところです。
スケルツォ相当部は駆り立てモードのアクセルがよく効いていました。
第2楽章はソロが目立ちます。秀逸な演奏でした。それで第3楽章へ、思わぬゴツゴツとしたところがあり流氷が転がっていく感じ。荒々しさが自然に出ていて6打撃の響きが透明で素晴らしい。

6番の響きは本当に独特で淡い。
この第2楽章はティンパニのコロンとした音から始まります。まさに第7番冒頭そのものですね。

2回目の休憩の後、最高傑作の7番へ。
数多あるシベ7と同類の演奏でした。作品自体があまりにも素晴らしすぎるので、演奏のほうが負けてしまうケースが多く、つまり曲の素晴らしさを100パーセントまで表現できていない演奏が多い。スキルベースのことは前面には出ないけれども、この曲は高性能オケで、技術面でまず上まで持っていってほしいですね。それ自体が高みの演奏表現の一つになります。根性だけではダメですね。
尾高の表現はひらめきにとぼしい。この曲の全体像をどのようにとらえているのか今一つつかめない。構成感だけで押す曲ではないし、札響の透徹した響きは素晴らしいけれど、ボテ系のまま置き去りにしてしまっているところもある。オーケストラ自体これだけ磨かれているサウンドなのですから、もうちょっと攻めてもいいのではないか。たとえばトロンボーンのユニークなソロ部分における弦の扱いなどもう少し工夫が欲しいです。トロンボーン・ソロは他を圧するものにはなっていないので、頓着しない弦のもっていき方は不満の残るものでした。コーダは音響の嵐になっておらず、サー、サッ、と切り上げる。ここらへんはお見事です。何度も振っているとは思います。

これは参考にしてはいけない演奏かもしれませんけれど、
ムラヴィンスキーの演奏

アンコールの祝祭アンダンテは昔、BISレーベルから出たイエルヴィ&エーテボーリ響のブラックジャケLPで連発されたシベリウスの交響曲全集の何番かにカップリングされていて、その時初めて聴きました。1982~3年頃だと思います。その時の演奏とはずいぶんと異なり札響の弦がぶ厚く響きました。気持ちよかった。

追補
昨年一昨年と帰り際に頂いたお土産、今年はホールから出ても無くて、聞いたら品切れとのこと。別に恨みはしませんが、楽しみにしていたのに。
おわり


(詳細別途)


1750- モーツァルトpf協20、菊池洋子、マーラー5番、エッティンガー、東フィル2015.2.15

2015-02-15 19:56:42 | コンサート・オペラ

2015年2月15日(日)3:00-5:25pm オーチャード

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 16′9′8′
 ピアノ、菊池洋子
(enocre)
シューベルト 軍隊行進曲 op.51  7′
 ピアノ、菊池洋子&ダン・エッティンガー

Int

マーラー 交響曲第5番  13′16′18′10′15′

ダン・エッティンガー 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


この公演は、ミューザ川崎2014.8.5と同じものです。演奏スタイルも同じ。
違うのはホールと連弾のアンコールがあったこと。

菊池さんのピアノは鍵盤に吸い付くような手、また、はねる感じも。一見軽いタッチ、ある一点で感覚がバランスしている感じ。
長身、ロングヘア、赤いドレス。

エッティンガーとの連弾アンコールが見られるとは思いませんでした。エッティンガーは最初左側低音部、途中、菊池さんと右左、入れ替わり弾き。楽しそうでした。
エッティンガーのピアノはどうなんでしょうか。これもバレンボイム譲りなのかも、ソロリサイタルも聴いてみたい。

マーラーはスタイルが確立している。それに、
フレーズのあたまをとにかく、塊みたいな感じで出したがるあたり、やっぱり指揮ぶりだけでなく、その演奏スタイルもバレンボイムによく似ている、いまさらですが。

この日は近くで観たかったので、音が通過してしまうと言われている前方3列目ぐらいで、直に響く音を中心に観聴きしました。音は確かに通過するが、聴こえないわけではない。良く聴こえましたよ。それにブラスがかなりアタックかましても、オーチャードでは柔らかになりますね。高い天井見ながら聴いてました。
おわり








1749- 答えのない質問 カンブルラン、読響、2015.2.13

2015-02-14 20:55:55 | コンサート・オペラ

2015年2月13日(金)7:00pm サントリー

武満徹 鳥は星形の庭に降りる 14′
バルトーク ヴィオラ協奏曲 24′
 ニルス・メンケマイヤー
(enocre)
バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番 から「サラバンド」 3′
Int

ドヴォルザーク 交響曲第9番
   第0楽章 アイヴズ  答えのない質問 10′
   第1楽章 +11′
   第2楽章 12′
   第3楽章   7′
   第4楽章 11′

(enocre)
ドヴォルザーク スラヴ舞曲 op.72-2  6′

シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団


格別だ、得体の知れない何かが重力に逆らいつつスローモーションで動き始めるその波動を感じる。世の超越主義をも飲み込んでしまいそうな、アイヴズ宇宙に浮かぶ物体が別の重力を発している。格別だ。

アイヴズの為だけに来た。と言っても、
プログラム後半のアイヴズとドヴォルザークは、アタッカ以上の完全な連続演奏でしたのでタイミング等、表記は上のようにしました。これは2014.10.3のメッツマッハーNJPによるツィンマーマンとベートーヴェンの連続演奏と同じスタイルです。

連続演奏の新世界は「完全に」アイヴズに食われ、もはや立ち直ることすらできない。
アイヴズを前にして新世界第1楽章は古すぎて陳腐でさえある、この重力的静けさのモード余韻は、かろうじて同じ静けさが宿る第2楽章の家路がふさわしく、この古めかしい第1楽章の演奏の間、頭の中をずーーと駆け巡っていたのは第2楽章。アイヴズの後、第1楽章を省略して、第2楽章から始めることこそベストな道ではなかったかと思わせるぐらいアイヴズのこの曲のインパクトは強いと言わざるを得ない。

メッツマッハーが、ツィンマーマンとミサ・ソレムニスをつなげた時、ベートーヴェンは新しいものだと感じたが、ドヴォルザークにその力は無い。曲のモードが第2楽章なら似ているからつなげられる、その程度のもの。
名曲のドヴォルザークもアイヴズを前に太刀打ちできない。この連続演奏は、アイデアは秀逸ながら完全自失の失敗プログラムビルディング。第1楽章を割愛したら演奏行為と言えなくなるとでもいうのだろうか、そうかもしれない。ここらあたりのことをカンブルランに聞いてみたいものですね。

カンブルランが指揮する答えのない質問は、他の指揮者たちによる「通常」の演奏の倍の長さであり、これだけとっても「異常」。
出てきた音楽のあまりの深さと緊張感にしばし自分を忘れる。ホール中に心地よい静けさが漂う。制御された静かさが支配。まぁ、たしかに一種の作曲追体験的な作為的行為だったのかもしれないエポックメイキングな演奏。このような曲をこのように演奏できる指揮者は他にはいない。これ以上ない演奏。

エマーソン、ホーソン、オルコット、ソローの楽章をもつコンコード(ピアノ・ソナタ第2番)、それと直前出版のエッセイ。超越主義セットみたいな感じの頃よりもずっと前に書かれた答えのない質問。歴史を遠目に見れば、同じ時間軸にして物事を見てしまいがちだが、それは誤りとは言えなくとも、深く理解するうえで妨げになってしまうもの。ですから、理解とは追うことなり、と。
カンブルランのこの日の演奏行為は、答えのない質問は超越主義に浸る前ながらその萌芽以上のものを感じさせてくれた、つまり、一度、時間を追うことをしつつ、遠目で見える萌芽以上のもの、その両方を垣間見せてくれた。この双方を同時に感じさせてくれたものであり、主義に至る過程の作品ではなく孤高曲と認識させてくれたその追体験と完結した遠目のアイヴズ世界の同時体験。声にならない感動が体を包み、しびれた。
結果的にドヴォルザークの作品は、カンブルランのプログラム・ビルディングとこれら作品の演奏内容によりアイヴズに寄与してしまったと言えるかもしれない。

それと、アイヴス的二元論は、この曲の中にトランペットと弦で対比されているわけですけれど、自分のフィーリングでは、この曲対聴衆、そんな気もする。アイヴズがどんな気持ちで書いたか、今となっては聞く術もありませんが、追うことはできますね。


と言いつつ、アイヴズで一番好きな曲は、20代前半に書かれた交響曲第2番。引用だらけの曲でそれもこれもありきたりすぎたり斬新過ぎたり。唐突で破天荒な不協和音終止。何も恐れるなと父の教え。後期の四分音も遠いようで案外近かったのかもしれない。

真実は自らの中にある。

この日の演奏はあまりに素晴らしすぎて、しばらく何も聴く気が起きない、そんな感じ。



前半一曲目の武満、彼の作品を聴くことはあまりない。この曲は割といいなと、最後はベルクみたいな感じ。ややドライなサウンドの中に、音に見通しがある。

バルトークは骨太な演奏、ちょっと繊細さが欲しかったような気もする。

この日はアンコールがありましたがそれが始まったのが9時5分、通常こんな時間帯ならアンコールは無いが、3月のヨーロッパツアーの練習を兼ねているのかもしれない。
おわり



   



1748- ワルキューレ第1幕、スティール、ブロック、小鉄、ブラビンズ、名フィル、2015.1.31

2015-02-02 00:36:36 | コンサート・オペラ

2015年1月31日(土)4:00pm 愛知県芸術劇場コンサートホール

シュトラウス  13管のためのセレナーデ op.7  10′

ブリテン  シンプル・シンフォニー op.4  3′3′9′2′
Int

ワーグナー  ワルキューレ第1幕  67′
         (in order of voice’s appearance)
          ジークムント、リチャード・バークレー=スティール、テノール
         ジークリンデ、スーザン・ブロック、ソプラノ
         フンディング、小鉄和広、バス

マーティン・ブラビンズ 指揮 名古屋フィルハーモニー管弦楽団


名古屋二日目、同公演二回目。昨晩公演後プラプラして、この日は夕方4時からの公演なので朝からずっと散歩、その話は別口で。

この日の席は、一階中央。音がうまく広がっておりました。ちょっと焦点がぼけてしまうような気がしないでもないところもあり。昨晩の傘をさした2階席よりは良好でしたが、なんというか芯が何処にあるのかうまく探せない。オーケストラにすると硬い足場がキックには必要かな、そんなところです。概ね良好。

後半のワーグナーは二日ともに均質感のある至芸を聴かせてくれました。舞台だとなかなかこうはいかないと思います。コンサートスタイルの良さがうまく出ておりました。
バックのオーケストラがソリストの歌唱をかき消さない絶妙なサウンド構成、がなり立てず、うるさくならず、柔らかなワーグナーの響きがホールに広がり、お三方の熱唱がカタルシスを呼び起こす。
ブラビンズの振る3拍子は極度なギアチェンジはなく滑らか。音価も肥大化するようなところは無い。ねっとり感は皆無。伸縮が自然でシームレス、オーケストラの奥行きとかダイナミックな加減も同じく滑らかにコントロールされている。いわゆる、ワーグナー音楽が自然に加熱してくるような色彩。気がつけば森の中ならずお城の中でのやり取りみたいな気品、昨晩も同じように感じましたが。
全体が、第1幕で完了となってもいいようなシンフォニックなおもむきでドラマを開けたままにせず閉じて終わる。
第2幕のヴォータンの語りから次第に荒々しくなりドラマチックな3幕へ、今後そこまでやってほしいと名古屋フィルさんにはお願いしたい。1とかいった企画ではなく。

前半のブリテンは昨晩のような変な掛け声もなくて楽しめました。一つ一つのインストゥルメントがブレンドしているようでもあり分解されているようでもある。昔のチェコ・フィルの弦を思いだしました。川面にうねる水草、そんなところ。チェコのほうはもっと硬質でしたけれど。

一曲目のシュトラウス、なかなか表現しづらいところですけれど、去年聴いたマクリーシュ&都響のクリアで硬質な響きとはだいぶ異なる、まろやかさが前面に出たナイーヴで高スキルが自然とにじみ出てくる。ウィンドがこれだけ充実していれば、あとは推して知るべしと最初の10分で分かったのでした。

二日間に渡り楽しみました。
ありがとうございました。


1747- ワルキューレ第1幕、スティール、ブロック、小鉄、ブラビンズ、名フィル、2015.1.30

2015-02-02 00:34:03 | コンサート・オペラ

2015年1月30日(金)6:45pm 愛知県芸術劇場コンサートホール

シュトラウス  13管のためのセレナーデ op.7  10′

ブリテン  シンプル・シンフォニー op.4  3′3′9′2′
Int

ワーグナー  ワルキューレ第1幕 (コンサートスタイル)  67′
           (in order of voice’s appearance)
           ジークムント、リチャード・バークレー=スティール、テノール
           ジークリンデ、スーザン・ブロック、ソプラノ
           フンディング、小鉄和広、バス

マーティン・ブラビンズ 指揮 名古屋フィルハーモニー管弦楽団


食指の動いた公演がありましたので名古屋までうかがいました。一泊2公演です。名古屋には昔、仕事で住んだことがありますので、今回時間を作って、公演の合間に当時の住処や仕事場のあたりをいろいろと歩き回りました。これについては別記したいと思います。

このホールで聴くのは初めてです。名フィルを聴くのも初めてかな、たぶん以前聴いているはずですがなかなか思い出せません。ホールの場所は栄ということで、仕事帰りはだいたいこのへんで毎晩うろうろしていたのでわかりますがどちらかというと逆サイド。

ということで、早速。この日は公演1日目、2階席中央、あいにく前の席に座高のあるおじさんが座ったため視界不良、シュトラウスが終わったところで、空席に移動しました。同じ2階センター少し左寄り通路わき、なかなか見晴らしがよかった。音は翌日の1階席がより良かったですが明日と言うことで。

この指揮者は昨年都内で2回ほど初めて聴きました。イギリスもの中心でよかったと思います。とはいえ、この日のターゲットは作品と歌い手たちです。スティールはこれまた初めて聴くと思うのですが、他のお二方は聴いたことがあります。ブロックは初台のトーキョーリング、小鉄はグート・プロダクションのパルジファルでのグルネマンツ、等々。
基本的に作品中心で観聴きの行く行かない判断をしますので、しいて言えば作品おっかけ。

スティール、ブロックの一糸乱れぬ歌唱は当然と言えば当然なのですけれど、柔らかくて気品のあるスティールのヴェルゼからのロングな展開を経て、息ぴったりの、冬の嵐は去りのあたりまでのナイーヴな盛り上がりと逃避行、極度なドラマチック性を追うことなく、森の中と言うよりもまるでお城の中の出来事のようなノーブルな味わいは、これはこれでなかなかいいものでした。
長身のスティールはソフトで、ヘルデンテノールの黒光りモードの張りのある声とは異なる。均質で声の色が変わらず、ヴェルゼでも余裕のある一歩ひいた感じの歌唱、声量があり納得の百戦錬磨。ブロックはふけましたが以前と同じような肺活量でダンナ越えの箇所も多々あり。
ブラビンズは過度なドラマチック性の表現はせず、柔らかに奥行きをだしながら横幅広げてじわじわと大団円で頂点へ。テンポでワーグナーを締めつけない。ワルキューレの3拍子が自然に耳に沁みてくる。リズムの深彫りは何かを失うことになるのだと言っているようです。
名フィルはしなやかで奥行き感のある響き、座る位置にもよると思いますけれど、ソフトな響きがホールを覆います。比較的明るくまろやか、クリーム色のオレンジ。


ワルキューレは幕ごとにだんだんとうるさくなっていって、ブリュンヒルデが火の中におさまるところで終わるわけですけれど、この第1幕はうるささの前の静けさ以上の落ち着きがあったように思います。ラインゴールドの神々の入城から、カミタソでのジークフリートの死まで、いろいろな響きが現われては消えていく、それがものすごくよくわかる。
ソロ斉唱でのブラビンズはオーケストラの弱音制御がお見事で、声と非常によくバランスしている。そのような中をライトモチーフがくっきりと現われてくる、飽くまでも自然のコントロールの中で。
ブラスセクションがはいっても弦の鳴りを消さないバランス感覚はこのオーケストラの本能的なサウンド制御なのだろうと感じた。これは素晴らしい美点でワーグナーの響きを落ち着いたものにさせてくれる。歌手、オーケストラがともに美しいニュアンスでそれがよくわかる。柔軟性にとみやや明るみのあるまとまりサウンドが美しく響きました。

このデュエットのカタルシスは、冬嵐が過ぎて剣抜きまでの果てしもなく充実した斉唱、この両者に微にいり細にいり、寄り添ってよく歌う弦の雄弁なブラビンズ棒で頂点の高みへ。まるで三重唱のごときアンサンブル。エポックメイキング・ナイトでありました。
16型、対向、ソリスト3名ともに譜面無し。


ところで、
誰か入ってきたの?いや、春の陽射が入ってきたのだ、冬の嵐は消えた。
素晴らしい斉唱、重唱、こんな感じで最後まで行くわけだから、剣が抜けなかったら?などと思うと身震いがする(笑)、
でも、そんなこともちょっと思い浮べました。あまりに素晴らしすぎると、悲劇の始まりの紙一重に喜劇があったりするものだ。
予定が調和する前提でワーグナーはストーリーを進めているわけで、その思いの部分が過度になっている傾向は確かにある。はまりこんだらなかなか抜け出せない作曲家作品ではありますが、まぁ、だからと言って嫌いになる必要もない。プレイヤーも同じ。

歌い手はオペラハウスを通り、過ぎてゆく、いつまでも残るのはハウス。歌い手達は舞台を去るとすぐに忘れ去られる。比較、聴き比べ自慢が大好きな日本人、それもいいが、今を楽しめばそれはそれでまたいいものです。


プログラム前半、
13管セレは全員スタンディングで、身体を動かしながらの奏法が難しい女性お二方によるホルン、それとバスーン、これら以外のインストゥルメント奏者たちは体がよく揺れる。アンサンブルをしている実感。アンサンブルとは周りを感じるということ。
このオーケストラのウィンドは高性能でした。ニュアンスが良く出ていてシュトラウス初期の淡い感じ実感。

次のシンプルシンフォニーでの終楽章始まる前のミラクルなスーパー・フラブラは一体なんだったのかと、早い話、曲を知らないだけのことかもしれない。細やかな演奏に水を差すこの変なタイミングの雄叫びがあったせいか、そのあとの展開が割と静かになって良かったかもしれない。曲自体は明日もう一度聴けばいいかなという感じでした。ぶち壊し屋はどこにでもいるものですね。

演奏会の前に、あすこのコーヒーを一杯いただきました。東京の400円コーヒーより高くてまずい。量が多すぎてみんな残しているだけではないとみる。
これも翌日の散歩でリヴェンジですね。
おわり