河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2418- タンホイザー、フォークト、ダッシュ、ゲルネ、ペトレンコ、バイエルン、2017.9.25

2017-09-25 23:29:50 | オペラ

2017年9月25日(月) 3:00-8:00pm NHKホール

ワーグナー 作曲
ロメオ・カステルッチ プロダクション
タンホイザー  (ウィーン版にもとづく)

キャスト(in order of appearance)
0.弓を射る女性たち(in overture)
1.ヴィーナス、エレーナ・パンクラトヴァ(S)
2.タンホイザー、クラウス・フローリアン・フォークト(T)
3.ワルター、ディーン・パワー(T)
3.ビテロルフ、ペーター・ロベルト(Bs)
3.ハインリヒ、ウルリッヒ・レス(T)
3.ラインマル、ラルフ・ルーカス(BsBr)
4.ウォルフラム、マティアス・ゲルネ(Br)
4.ヘルマン、ゲオルグ・ツェッペンフェルト(Bs)
5.エリザベス、アンネッティ・ダッシュ(S)

テルツ少年合唱団
バイエルン国立歌劇場合唱団、管弦楽団
キリル・ペトレンコ 指揮


Duration
Act Ⅰ 68′ (ov:20 sc1:28 sc2:20)
Int
Act Ⅱ 68′
Int
Act Ⅲ 52′


タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦、本当に歌合戦なんかあったっけ、覚えていない。といった感じで、圧倒的な静けさが全幕を覆い尽くしていた印象しかない。
歌えば場に静謐さを漂わせるフォークト。ペトレンコ&バイエルンの絶妙にして美ニュアンス、弱音コントロールが限りを尽くす、合唱のチリチリしたあまりに充実した清い響き。白黒基調のシンプルな舞台。大量動員された人が音をたてず動きを作る。おそろしく静かなタンホイザ-だった。思ってもいない別の可能性をモロに魅せられたというのが率直なところです。

第1幕の三分の一近くを占める序曲。どんな演出でもだいたいここは何かする。
白い緞帳に一点、矢が刺さっている。序曲が始まると神か半神かよくわからないけれども何人かがシルエット風なパントマイム。彼らが去ると何故か矢もなくなっている。影に引き抜かれたのかな。
上半身ヌードで弓矢を持った女性たちマックス24人(たぶん)が舞台奥の面にスクリーンされた巨大な目、そして耳に向かって一列整列で矢を放つ。最初から意味が分からなくて面白い。
彼女たちはヴィーナスと神、半神たちの手下なのだろうか。ならば矢の先にタンホイザーがいるのはおかしい。はたまた、官能の愛に対する清き愛への矢なのか。などと、序曲が長いので色々と邪推する時間がある。
ペトレンコ棒はオケに騒々しい音を出させない。抑制の効いたカツ全力弾きというようなもので音がたくさん詰まっていて締まったオケサウンド。さすが。
中間部ではウィンド刻みを前面に出して活力を際立たせる。また、吠えるブラスは無しにして短いアクセント風スフォルツァンド風味で減衰させる。まぁ、独特ですね。結果、この序曲を聴いただけでも全くうるさくない。きっと、このあとも同様な展開なのだろう。

明らかな場面転換でブヨブヨヴィーナス。まわりにも同じようなブヨブヨがたくさんいる。肉がつきすぎてロクに動けない。官能の愛も目を醒ませばこのようなものなのかもしれないな、などと思いながらヴィーナスの歌、そして少したってから現れるタンホイザー。
この場は紗幕が下りている。そのせいかどうかお二方の声のとおりがあまりよくない。声が小さい。そもそも脂肪分ゼロの歌唱ではあるとは思うのだが。
快楽シーンのインパクトは、弓を射る女性たちに比べればごく小さいものとなってしまった感がある。

ここで再度明らかな場面転換。今度は領主、仲間のいる巡礼一行とヴァルトブルクへ。ここまででメインキャスト9人衆のうちエリザベスを除く8人衆まで出そろった。
仲間との出会い、決意。しかし、音楽は一向に力強さをみせない。静かなくらいだ。ホント、独特。
シンプルな舞台で静かな動き、オーケストラは音で縁どりをしていく。宇宙のスローモーションのようだ、

ヴィーナスが抜けた7人衆、男だらけだが全員ピュアな歌いくちできれいすぎて静かさが勝る、というよりもその方向にセンテンスをシフトさせるようなことなのだろう、意図としては。
極めてユニークな演奏で、この舞台演出と軌を一にしている。ぴったりとはまった感じ。
ペトレンコの1幕フィナーレへの持っていきかたは、エンディングに向かうラッパが、その随分前に時折短く現れていて、短いものだがものすごく雄弁に響いており、その、点のラッパ音が心的つながりを次々と感じさせるようにしており、最後に、それまでの断片体がまとまりをみせてフィニッシュ。ものすごく効果的。この方針で前進すれば最後をうるさくする必要もなくてごく自然に音楽のつながりを感じることか出来る。納得です。

第2幕の舞台はさらにシンプル。天井から吊るした白いカーテンの動きとバックの黒が基調。衣装も同じく白黒。モノトーン配色。安いと感じさせるか、いいと感じさせてくれるか、大挙した人物たちの動きしだい。ストップモーション的な味わいも含めスローな動き、それに余計な音がしないのがいい。この統一感の良さが空虚な舞台を大きく見せてくれたところもある。

一体、歌合戦はあったのかと聴後感はそういった印象が強い。タンホイザーの背中に刺さる1本の矢。女性たちは清き愛だったのだろうか。
ドラマチックな鋭角的カーヴを排したような舞台と演奏。ゲルネとフォークトは潤滑油が注がれ本調子に向かう。
ローマへ、に至る滑るようなペトレンコ、バイエルンの演奏。弦を中心に大変に締まったサウンドが心地よい。煽ることになく緻密なアンサンブルの積み重ね、インテグラルな集積は精度が高く、スロープを頂きまで登りつめる技は美しき尾根でも見ているかのような美の極み。素晴らしく自然でエキサイティングな登り傾斜。
エモーショナルな心的ドラマ、音楽で内面を魅せてくれるペトレンコ棒。その表現のうまさが際立っているということになる。静かさは緻密なアンサンブルの成果でペトレンコの求めているものであるわけで、結果、このオペラのスタティックな面を大いに感じさせてくれた。見事というほかない。
フォークトの最後の一声はよくきまりました。これで3幕の絶唱への下ごしらえが出来たものと、後付けではあるが、そう感じた。

記憶がかすんでしまったが、3幕ウォルフラムの夕星の歌の前、「死の夕闇が大地を覆い、 黒い喪服が谷をつつむ。」のあたりで亡骸7変化の1体目があったと思う。その前に生身のタンホイザーとエリザベスがいわばゼロ体目として横たわり、彼らとの入れ替わりで1体目が置かれ、生身のタンホイザーは姿が明瞭に見えるが、エリザベスは薄くなり見えなくなる。
夕星の歌、そして、超ロングにして筆舌に尽くしがたいフォークトの美声に唖然のローマ語り。パーフェクトな歌。なにやら空虚にしてだだっ広いNHKホールを逆手にとって空気の流れをうまくつかみ振動させたかのような神業だった。茫然として聴き惚れている間に亡骸の7変化が次々に起こる。最後は灰になるわけだが、この推移の醜さ、リアルさ。腐臭さえ感じる。ふと、カラマーゾフのゾシマが頭をよぎる。この表現はいったいなんだろう。どっかからの引用なのだろうか、カステルッチの死の美学か。ローマ語りより長い亡骸7変化。つまり彼らは夕星の前に既にこの世のものではなかった。科白内容との時間軸のずれを狙ったものなのか。「死の始まりは、死の夕闇が大地を覆い、」のあたりまで前倒しされた予告の死だったのだろうか。ドラマチックなインスピレーションの具体的な舞台化と言わざるを得ない。

1場のウォルフラムとエリザベスの秋雨のようなやり取りの合間を縫うほどの長さでしかないが、巡礼、極度に磨き抜かれた合唱の素晴らしき響き。オペラの神髄の醍醐味を満喫。
ウォルフラムのゲルネは見た目のゴツゴツさは無くて慎重にこのオペラのペトレンコ様式への集中をうかがわせてくれた斉唱。エリザベスのダッシュはごくまれにぶら下がりのピッチを感じさせるものの、ピュアなままでの力強さがある。味わい深かった。

そして先ほど書いた夕星、亡骸7変化、ローマ語り、一気に場は進みあっという間に終わってしまった。
シンプルながら強烈なインパクトの演出とフォークトをはじめとする歌唱の素晴らしさ。9人衆お見事。

ということで、静かな印象が全編を覆う。ワーグナーの絶叫も律動もない。それ以外のすべてのもので満たされたペトレンコのウルトラ・ワールド。タンホイザー、未体験ゾーン、満喫しました。ありがとうございました。
おわり


 


2417- メンコン、木嶋真優、ドヴォスラ1,10、スメモル、チャイ1812、小林研一郎、日フィル、2017.9.23

2017-09-23 23:30:36 | コンサート

2017年9月23日(土) 6:00pm みなとみらいホール

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調  ?+10+7′
  ヴァイオリン、木嶋真優

Int

ドヴォルザーク スラヴ舞曲第1番 第10番  5′、6′

スメタナ モルダウ  11′

荘厳序曲1812年  17′

(encore)
ドヴォルザーク ユーモレスク  5′

小林研一郎 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


NHKホールからの移動に手間取り、着いたらメンデルスゾーンが始まっていた。3階の立見席に入れてもらい第1楽章の途中から聴く。立見席と言ってもステージは見えず音だけ聴く。この立見席、びっくりするほど音が来る。ヴァイオリンソロの音はやたらとデカいし、オケのピリピリした息づかいまで聴こえてきそう。スピーカーでもあるのかと勘繰りたくなる。
メンデルスゾーンはもう勘弁してほしいが、しょうがない。
ヴァイオリンはさっぱりとした感じ。オケ伴がないと進行にやや不安があるようにも聴こえる。

渋谷からの移動が遅れに遅れてもいいので1812だけ聴ければいいやという割と投げやりな気持ちだったのだが、横浜定期、めずらしい名曲オンパレードコンサートで1曲ずつ炎の解説付き。それが結構面白い。軽妙な語り口というわけではないが百戦錬磨の余裕を感じる。材料はたくさんありそうだし。
解説付き、試奏付きで聴衆をグイッと引き寄せてくれる。なかなか楽しかった。演奏もよかったですね、プレイヤーになれ合いのニヤケは一切なくて真剣。指揮者もオケも好感度高い。

1812年は印象的な演奏でした。昨今の右手振り、指揮棒を持った右腕の雄弁な動き、オケの反応の良さ、芸風はさらに一段深みを増している。
演奏は騒がしくがなり立てるものではなくて、むしろ端正とさえいる。一つ一つの進行が非常に丁寧で味わい深い。静かな中から強烈ブラスセクションが品性を保ちながら自然に湧き出すようなスペクタクルで、もはや、エキスのみの枯れた演奏と言えるのではないか。両者気負いゼロ、音楽の神髄だけ魅せてくれる。見事なものだ。
大砲はバスドラ、バンダはオルガンレベル。大音量のオーケストラ演奏なはずだが、何故かスタティックな味わい。煽り立てることはせず作品の内面を魅せてくれる炎の棒。淡々とした中に気品と美しさが漂う佳演でした。
いい演奏会でした。満足。ありがとうございました。
おわり



2416- ラフマニノフPC4、コジュヒン、スクリャービン2番、ヤルヴィP、N響、2017.9.23

2017-09-23 23:10:19 | コンサート

2017年9月23日(土) NHKホール

グリンカ 幻想的ワルツ  9′

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第4番ト短調  9-7-8′
 ピアノ、デニス・コジュヒン

(encore)
スクリャービン 3つの小品op2 第1番 練習曲 嬰ハ短調  3′

Int

スクリャービン 交響曲第2番ハ短調  16-12-15′

パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 NHK交響楽団


コジュヒンさんはお初で聴きます。
2010年エリコンチャンピオン。大柄でポニーテール、カンブルランを一回り大きくしたような感じ。弾く前から型にとらわれない雰囲気持っていそうなところがありますね。
軸のぶれないストライド走法ならぬ奏法のようでありながら、豪放磊落にジャバジャバといったのとはまるで違う。ちからまかせではなくて、力学と正確性のバランスの良さ。品性を感じさせる。終始スケールの大きい引き締まったプレイで、ヤルヴィPの締まったというか先に進むにつれて締め上げていくスタイルとは一見似ているようで非なるもの。そこは選曲の妙もあり両者聴かせてくれた。
生ではめったに聴くことのない4番コンチェルトは3番までとはちょっと付き合い方を変えて、ドラマチックでダイナミックなロマン性を横目に見ながら味わう。びっしり音が詰まったものではなくて隙間を感じるのはリズミカルな運びが目立つからかもしれない。要はたまにオケが吠えるのとは違うセンス。双方の拮抗が面白いし、ピアノの迫力も大したもの。筋肉オケと天性のプレイのぶつかり合い。楽しめました。

後半のスクリャービンの2番、これを聴くのは2010年、広上&日フィルのとき以来。(曲の話はこっちに)
1037- ファジル・サイ 広上淳一 日フィル ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 スクリャービン 交響曲第2番 2010.7.9 

ヤルヴィPの演奏は引き締まったもので、フィナーレに向けてさらに締めていって、コンパクトになってしまった。次の3番の情緒性の前触れを感じさせないのは彼のスタイルだろうが、勝利の歌にしてはスケール小さい。むき出しのブラスの歌はさまになっていない。

最初の曲のグリンカの幻想的ワルツ。
2番ホルンのソロが活躍していて、下吹きの高音ソロが聴ける珍しい曲だな、などと思いながら眺めていました。
おわり



2415- ベートーヴェン・プラス Vol.4 横山幸雄 ピアノ・リサイタル、2017.9.23

2017-09-23 23:00:29 | リサイタル

2017年9月23日(土) 10:30am-4:20pm コンサート・ホール、オペラシティ

オール・ベートーヴェン+

第1部 10:30開演
 ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調Op. 27-1  3+2+3+6′
 ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調「月光」Op. 27-2  5-2+7′
 ピアノ・ソナタ第15番二長調「田園」Op. 28  9-6-2-4′

Int

第2部 11:50開演
 7つのバガテル Op. 33  3-2-2-3-3-3-2′
 2つの前奏曲 Op. 39  5-3′
 ピアノ・ソナタ第16番ト長調 Op.31-1  7-8-8′

Int

第3部 13:30開演
 ピアノ・ソナタ第17番ニ短調「テンペスト」 Op. 31-2  7-7-5′
 ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 Op. 31-3

Int

第4部 14:30開演
 バッハ:半音階的幻想曲とフーガニ短調BWV. 903
 モーツァルト:幻想曲ニ短調 K. 397
 ショパン:即興曲第4番嬰ハ短調「幻想即興曲」Op. 66
 ショパン:幻想曲へ短調 Op. 49
 ショパン:ポロネーズ第7番変イ長調「幻想ポロネーズ」Op. 61

Int

第5部 15:40開演
 シューマン:幻想曲ハ長調 Op. 17

(16:20 終演予定)

ピアノ、横山幸雄


一日損した気分の秋分の日、あまり気張らず3か所巡り。
一つめは横山さんのロングリサイタル。朝の10時半から夕方4時半頃まで。
二つめの予定があるので作品31の真ん中テンペストを聴いたところで退出。18番までは聴くつもりでいたのだが、予定が押し気味で、各部の頭に横山さんのトークが入るのでさらに押した感があり、やむなくテンペスト止まり。

13,14,15,16,17の5ベトソナと7つのバガテル、2つの前奏曲。まぁ、これだけ聴ければほぼ満足。
横山さんのベートーヴェンは5月のガル祭でたくさん聴きました。今日も楽しみですね。

どの作品も肩の力が抜けていて本当に軽く弾いている感じ。そういったリラックスベトソナはフォルテのところでも透明さを保ったままで響いてくる。折れるカーヴが無い。自然に波打っている。ベートーヴェンの揺らぎは強くて柔軟。どれもこれもいい演奏。
13番は切れ目のないプレイで流れる。この作品のポテンシャルを再認識。大きい作品、魅力的。その大きさと幻想、醸し出す横山ピアノ見事です。
月光はガル祭でも単品で聴きました。今日は13番に続いての演奏。第1楽章のモードは13番を感じさせるも明らかにムードが3楽章寄りにシフトしている感がある。淡々とした演奏だがそういったことを思わせてくれる。すっきりとした中間楽章。これ必要ですね。
次の田園。全編を覆う魅力的な下降音型が印象的な曲。最下点に向かって押し込むようなものではなくて均質。むらが無い。2楽章などシンプルイズベストな雰囲気。大きな曲、田園を満喫。
ここで一服して次に進む。

7つのバガテル。明るくて大規模な作品でした。どこで終わってもいいような、いつまでも続きそうな、そんなピースのかたまり。
2つの前奏曲は粒立ちの良さ。
この2作品は譜面を見ての演奏と見うけられました。
16番は洗練された味付けで、ずれやねじれがカッコよく弾かれていて鮮やか。大変にバランスのいい演奏でした。
ここで2回目の休憩。

次は作品31のうちさっきの16番に続きテンペストと18番。
テンペストは一つずつの粒が小さくきれいに響いてくる。最初の13番からそういった力むことの無い演奏が延々と続く。
終楽章の無窮動、ピアノとフォルテのコントラストが素晴らしい。フォルテではややエキサイティングなところも。テンペストの嵐か。
最後はひっそりと沈みこむ。第1楽章のシベリウス第1番終楽章的エンディングとともに印象深い。

ここまで聴いて退席。

ホールは1階席は8割がた埋まっている。2,3階の左右バルコニーは普通に座ると舞台は見えない極悪席で、席を変えてほしいという方や、そもそも舞台を見ずに音に集中するかたなどまちまち。ホールサイズは横山クラスにはちょうどいいと思うのだが、舞台が見えない席が沢山あるホールなので、ここではなく別のホールでやってほしい。上野の大ホールで4,5階を閉めて3階席まで使う、など。演奏会は視覚的インパクトが大きいので、その点、この初台は全くよくない。
おわり



 


2414- メッシーナ、メンコン、竹澤恭子、牧神、スクリャービン4番、ジークハルト、新日フィル、2017.9.22

2017-09-22 23:27:59 | コンサート

2017年9月22日(金) 7:00pm トリフォニー

シューマン 序曲「メッシーナの花嫁」 9′

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調  14+9+6′
 ヴァイオリン、竹澤恭子 

Int

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲  11′

スクリャービン 交響曲第4番 法悦の詩  20′

マルティン・ジークハルト 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


予定されていたルイ・ラングレがキャンセル。代振りはマーティン・ジークハルト。
ラングレを聴けなかったのは残念だが、ジークハルトを聴けたのはよかった。
2009年に日フィルを振った時よりはだいぶ老けたが頭の中は冴え冴えしているのだろう。オーケストラからいい音を出してました。

プログラム後半は聴きもので、牧神のときにオルガニストが席にセットアップしたので、もしかしてスクリャービンとの連続演奏になるかと思われた。が、実際はそんなことなくて、牧神終わって一礼、すぐにスク4に突入というワンポーズでした。
牧神の最初のフルートの下降音型が、スクリャービンがすすむにつれて現れる。似たモードの作品、近似性を感じさせるもので興味深かった。
牧神の真綿のような響き、シルキーでメロウな音の漂いが素晴らしい。曇りガラスのような濃厚さが心地よい。
スク4は一変、アコーギグを自在に駆使し、メリハリがよく効いている。センスの良さを感じさせてくれた。ひきずらない演奏。
やにっこくて、なにやら壮大な結末にもっていく演奏とは真逆ですね。脂肪成分の多い3番のあと、この4番演奏もいける。ラングレとプログラムのままということなのでジークハルトの思いは別のところにあるのかもしれないけれど。
冴え渡ったジークハルトの棒は見事でした。

前半のメッシーナの花嫁はシューマンぎっしり詰まっている感じでいい作品。楽しめました。
おわり


2413- From me武満、ラフマニノフ2番、広上、京響、2017.9.18

2017-09-18 23:41:55 | コンサート

2017年9月18日(月) 6:00-8:40pm サントリー

武満徹 From me flows what you call time  36′
    あなたが時と呼ぶものは私カーネギーホールから流れる (自訳)

Int

ラフマニノフ 交響曲第2番ホ短調  22-10-13-14′

(encore)
チャイコフスキー 組曲第4番モーツァルティーナより、第3曲 祈り 3′

広上淳一 指揮 京都市交響楽団


タケミツのこの作品はどこかで聴いた記憶があるのだが今思い出せない。
叩いて音を出す、点の響き表現となる楽器がメインになるタケミツ作品というのは、彼の作品を積極的に聴くことは無くて、他にあるのかどうか知らない。

セブンスアベニューと57丁目の角にあるカーネギーホールから夜な夜な流れ出る珠玉の演奏、その演奏は線となり100年の歴史を刻む。それを36分に凝縮したのだろうか。歴史の線が折り重なるような束の流れになり、そして、刺激のマンハッタンに打点は必要だった。折り重なる線と点。タケミツの選択は核心をついている。
流れ出る音は毎晩美しいものであったに違いない。光と律動の妙、変化していく空気。
カーネギーにコンセントレートした作品、マンハッタンのスカイスクレイパーは見えてこない。飽くまでもここから湧き出る音楽からの創造。
色々と題材をふんだんに入れているので長い作品。必要な長さであったのだろう。インスピレーションは感じないけれどもなにかにじみ出てくるものがある。
打楽器の慣れたさばきとセンス、呼吸が自然。京響はカーネギーでその昔、演奏中でも響いてくるサブウエイRRの通過音騒音のようなものは一切ない。ピュアなものだが、車輪なみの重さも感じるものであった。

舞台の前の方に打楽器奏者が離れて5名。指揮台正面にあるのは弦ではなく1台のチェンバロを2台のハープでサンドウィッチしたもの。これら楽器群に弦グループが奥に押し込められたのか、しもてにずれた4ウィンドの横にブラスセクションが並ぶという変則配置。
cl-fg-hrn-trb
fl-ob-tp
ウィンドとブラスあわせて2列、オーケストラの醍醐味的な奥行き感はあまり出ない。階層が明確な複数平面。ソロ5人衆の響きが一人の時の5倍厚になるわけではないけれども占有ポジションはそんな感じで、他楽器が影響を受けた。

後半のラフマニノフ。
京響は圧力のある音で終始強めに響く。一辺倒でちょっと強すぎる。強い音でチューニングしているのかそれ基準でパフォームしていて音が大きくて重い。切れ味いまいち。第2楽章の頭にそういった混乱がもやもやっと出てきたのが典型的なところか。
広上のラフマニノフはツボをえたもので主題のコントラストが大きく、流れがよい。聴き手をグイグイと演奏のほうに引き寄せる力をモロに発揮。フィナーレ・エンディングは策士越えのジャンピング技が冴えエキサイティング、最高潮に達してフィニッシュ。あっという間の1時間。圧巻の演奏でした。
おわり

第46回サントリー音楽賞受賞記念コンサート




2412- プロコフィエフPC2、トリフォノフ、田園、マイスター、読響、2017.9.17

2017-09-17 19:46:40 | コンサート

2017年9月17日(日) 2:00pm 東京芸術劇場

スッペ 詩人と農夫、序曲   9′

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番ト短調  13-2-8-12′
  ピアノ、ダニール・トリフォノフ
(encore)
プロコフィエフ シンデレラより、ガヴォット  3′

Int

ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調 田園  11-13-5+4+8′

コルネリウス・マイスター 指揮 読売日本交響楽団


2011年チャイコンチャンピオン、お初で聴きます。トリフォノフはチラシの写真とはだいぶ変容している。
才能を無造作にそこらへんに広げたような作品で大変に魅力的なプロコフィエフ。随筆の材料出尽くした後に書く物こそ随筆の神髄、小説家は書き続けると内田百閒が言ったかどうか、そんな絞った後の雑巾のような湿り気を感じる曲で粗野とさえ言える。
トリフォノフは肩にだいぶ力が入っている。力んでいるような気配はあまりないのでこのような弾きスタイルなのかもしれない。ただ、この作品のこのような魅惑的な鳴り具合の作品が彼の力学的スタイルの部分を多少なりとも隠していたように思う。
ストレート、単刀直入に作品に没入する姿は音楽のピュアなところを魅せてくれてエキサイティング、うれしくもなる。やや骨太できれいな響きを満喫。
伴奏オケが特筆すべき素晴らしさ。読響の正三角錐の音場が不思議な鳴りのプロコフィエフをきっちりと表現していて、こちら、粗野感ゼロ。音の跳び具合は正面跳び、切れ味良くて素晴らしすぎた。伴奏越え。

後半の田園はテンポ定まらずふらつく。リハ不足と思う。
アルブレヒトのベト全は愛聴盤で読響ベト基準はこのCDと思っており、もちろんオケ自身も一家言あると思うのだが、この前のベト7、それに今日の田園と、もっと締めないと。
おわり


2411- ショスタコーヴィチ、レニングラード、ヤルヴィP、N響、2017.9.16

2017-09-16 22:59:06 | コンサート

2017年9月16日(土) 6:00pm NHKホール

ショスタコーヴィチ 交響曲第7番ハ長調 レニングラード 28-12-18+18′

パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 NHK交響楽団


第3楽章の弦を除いたインストゥルメントで18小節目まで食い込みをみせる頭17小節の二拍子のような動きの3拍子の吹き具合伸ばし具合、素数の束から出来上がった幾何学的模様のアヤ。明るめ硬め。ぬくもりは背後にまわり機能的な直線美を感じさせてくれる。これがヤルヴィの技、このオケドッシリドイツの遺伝子を横に跳ね飛ばすような響きのパフォーマンス、最高のバランス。これがツボ、ヤルヴィPの真骨頂。決まりました。
ショスタコーヴィッチの透徹した眼が厳しく光る。
このあと、ひとしきり盛り上がりがあり第2主題的フルートソロが練習番号112の3小節目から。このフシが安定調で今度はヴィオラで137の3小節目から始まる。素数もウエットになるときがあるとヤルヴィが語っているようでもある。
ところで、このヴィオラ節が出て来ない演奏もあると思うのですが、どうでしょうか。例えば、2016年テミルカーノフとペテルブルク、同じく2010年テミルと読響では演奏されていないと思います。割愛なのか別の形をしているのかわかりません。テミルの1995年商用CDでは演奏されてますね。他数多ある演奏はどうなっているのかはわかりません。
これ、気のせいかな。

N響のサウンドは脂身をそぎ落とした硬質なもの。霜降りが気持ち悪くなる人はこれですね。
昨晩のミョンフン東フィルの復活に続き今日もCb10。圧倒的だがこのホールではまだまだプレイヤーが至るところに陣取れそうな余裕のキャパ。客席も同じく横幅広のホールで、薄められた音がむなしく拡散する極悪非道ホールなれど、何十年もここでやってきたN響さんですからね。相応なことはしているだろうし、きっちりと決めれる。おそろしいと言えばおそろしい腕前。

終楽章も3楽章同様の方針、低音開始、もやもやしない。クリア、進行するにつれ解像度は増していく。激情よりもこれです。
長い第1楽章はボレロの前の副主題が泡のように溶けていかないで主主題の対立軸になっている。明確な音楽づくりです。響きの解像度とともに形式感もよく見えるもの。

いい演奏でした。
おわり


2410- マーラー、復活、チョン・ミョンフン、東フィル、2017.9.15

2017-09-15 23:39:54 | コンサート

2017年9月15日(金) 7:00pm サントリー

マーラー 交響曲第2番ハ短調 復活  23-10+10+5+33′
  ソプラノ、安井陽子
  メッゾ、山下牧子
  合唱、新国立歌劇場合唱団

チョン・ミョンフン 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


同公演はこの7月に同じキャストで聴きました。

2386- マーラー、復活、チョン・ミョンフン、東フィル、2017.7.21

演奏内容の印象はその時と概ね同じですが、ホールが違っていて今回のサントリーは音場環境が随分と改善されました。7月はオペラシティのコンサートホールでの公演で、18型(1Vlnのみ16)のぎゅうぎゅう詰め。Pレベルに立った合唱もところせましと。オケのフォルテでは飽和状態となってしまった。
ステージ上のヘリ左右奥に傘がかかるという奇妙な建築物、その下に立つことになるベース、パーカスが一部あり、あれは最悪と思う。2000何年だったかニューヨーク・フィルがここで演奏した時はホールキャパも含めたしか問題が出たと記憶する。
この1600キャパ、大きくないホールにもかかわらず見晴らしも良くない席数が多数あり、大規模作品にとどまらず視覚的にもふさわしくないホール。なんで、この時節、シューボックスにしたのか余人の理解がおよぶところではないが、音は相応に良いとまことしやかに言われる席位置もあるものの、ひどいホールの部類に入ると思うのだが。

この日の公演は7月の時より若干スピードアップ。ホールの影響なのかどうかはわからない。
この作品を掌握しきった演奏、オーソドックスな表現の中にドラマチックでオペラチックな勢いと繊細さがある。こちらのハートまでぐっさりと食い込んでくる。
肝は最後の最後、静寂の中でオケを引き継ぎ、タメを作ることなくスッーと入り込んでくる合唱のひと声。ハッとする。えも言われぬ美しき荘厳。あの呼吸はオペラ指揮者が成しうるものだろうと思うなぁ。

それから、せっかちでゴチャゴチャした汚れた拍手はホールを改修しても何も変わらない、残念ながら。
指揮者の胸も痛むことだろう。
おわり


2409- ベトコン4、ラーンキ、マーラー5、上岡、新日フィル、2017.9.14

2017-09-14 22:50:43 | コンサート

2017年9月14日(木) 7:00-9:15pm サントリー

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番ト長調  18-4+10′
  ピアノ、デジュー・ラーンキ

Int

マーラー 交響曲第5番嬰ハ短調  13+15-16-9+14′

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団

ラーンキをはじめて聴いたのは40年前のちょうどこの日。髪はブラウンだったような記憶がうっすらと。
870- ラーンキ&バル3 シチェドリン&カルメン 1977.9.14

ソロピアノから始まる今日の演奏、音が細めで粒立ちよくキラキラとオルゴールのよう。愛しむような演奏で素敵でした。コッテリとした味付けのベトコン4とは随分と違ってましたね。
新日フィルさんのサントリー定期の定席は鍵盤側と真逆なのだが、ピアノの裏蓋に指の動きが映るのでよく見える。指使いを上から見ているような映り具合。
ピアノの名手が振る伴奏オケはこのピアノの美感を更に引き出すもの。いい事尽くめ。ピッタリと寄り添う伴奏とはこういうもんだろうなぁ、プロの技というものは大したもんです。
音符が目に浮かぶクリアさで静かに進むオケ、滑り込むように細めで明るく鳴るピアノ。音価レングスに多少のブレが散見されるが、まぁ、そういうことは通り過ぎてきたことなのだろうと思う。バルトークだったらどうだったのかなという思いはある。

肩の力が抜け、指が重力のままに置かれた緩徐楽章の自然な響き。こうゆうコクのある演奏はお見事ですね。聴き入ってしまいました。美しい。

今日は同オケ2017-18シーズン初日の演奏。アメリカだと一大イベントの初日公演。日本ではどこのオケも何事も無く通過です。まぁ、それでも、コンチェルトとマーラーの大曲を並べるあたり、意気込みを感じさせるところはある。

上岡の振る棒の素晴らしさはオーケストラの全メンバーが彼の棒を信頼しきってどこまでもついていこうとする気持ちが演奏に乗り移っているというところだろう。ゲルギエフとキーロフ初期の頃を思い出す。プレイヤーの指揮者を凝視する目の鋭さが全員ものすごかった。この人についていくのだという眼でしたね。
日本のオケは音楽監督、首席指揮者などそのオケを振る回数がとても少なくて本当に一体感があるのか疑わしいのもある。新日フィルは上岡音楽監督になってから目に見えて振る回数が増えたのはいいことです。充実した演奏が多くなりました。
また、メンバーの隠れていた能力、やる気を引き出すことにより、別の指揮者が振った時でも上岡の時と同様なやる気演奏がたくさん聴けるようになった。目に見えない波及効果。指揮者の能力というのはなるほどこういう事なのかと納得。

指揮棒を二本持って現れた上岡。二刀流で指揮の奥義を魅せてくれるのかという勢い。ひとつは指揮台に置きましたが、棒がどこかに飛んでいってもいいようにスペアの用意だろう。何事も準備が肝心、備えあれば憂いなし。無用な雑念は排除という話だろう。

上岡の棒は他の曲同様、強調構文がいたるところにある。第1楽章のベースの強弾きから始まって普段あまり気に留めていないパッセージがすっと浮き上がったり、絶妙なバランスで流れたりする。聴いているほうは、おおそうだったのか、とあらためてその発見に驚く。フレッシュですね。各主題のコントラストよりこういったことに力点を置いた演奏のようにみえました。
また、マーラーに多い裸の旋律をプレイヤーが演奏しやすいように振っているのも心的作用としては大きい気がします。これは聴衆に対してではなくプレイヤーに対してのアクションなのだが、あの棒の動きは見ているこちらの方にも説得力あります。理にかなった棒だと思います。
冒頭の幅広のトランペット、ゆっくりと味わうような吹奏。その余裕と安定感。これ大事ですね。マーラーの縁取り感覚、最初から大きな演奏を聴くことが出来ました。
2楽章終結部のファンファーレ。スローな初速からハイテンションへのめくるめくようなカオス的スピード感、圧巻。
長い3楽章、奇妙な3拍子は濃い味付けながら何か軽妙に過ぎ去る足取りを感じる。ひとつずつかみしめながら聴くこの味わい。楽章が長ければ長いほどますます深みにはまる。はまりたい。
アダージェットはユニークな演奏。うねりに満ちた伸縮自在の流れ。上岡のこれまでのマーラーの流れからいって、バーンスタインのような限りを尽くしたスローモーションになるかと思いきやそうでは全然なくて、意表を突くような独特の表現でした。流れと美しさにポイントをおき、後ろ髪をひかれないように心がけている。ビーンとくる最後のベースのあとはいかにもあっさり弦がすーっとしぼみホルンの一声、その後の弦が長くて、そのあとの空白がもっと長い。これはなにかと。ここまでが4楽章なんでしょう、上岡の解釈では。ふーん、と、妙に納得できる技。切り替えが次にくる。ここはコントラストの妙が強く出ましたね。
終楽章の前進と転がり、気持ちがいい。マーラーがここで吹っ切れた。オケの滑り具合もさらによくなり快活、明るく鳴る。コーダ前は思いっきり緩め、高速エンディングでウィンドの束が滝のような鮮やかな下降ラインを作り、ブラスがさらにひと押しの下降エンディング。下降旋律終止なのに、天に舞うように終わる。

鮮やかな演奏だった。
おわり


2408- 天地創造、大野和士、都響、2017.9.11

2017-09-11 23:54:43 | コンサート

2017年9月11日(月) 7:00-9:25pm サントリー

ハイドン 天地創造 (オックスフォード版、ピーター・ブラウン校訂)
  序曲~5日目 56′
  Int
  6日目、Ⅲ  50′

ガブリエル & エヴァ、林正子 (S)
ラファエル & アダム、ディートリヒ・ヘンシェル (Br)
ウリエル、吉田浩之 (T)

合唱、スウェーデン放送合唱団
大野和士 指揮 東京都交響楽団


(duration approx.)
序曲  8′
第1部 第1日+第2日+第3日+第4日  6-4-14-8′
第2部 第5日 16′
Int
第2部 第6日 20′
第3部 14-12-4′


肺腑をえぐるような大野のまことにドラスティックにしてダイナミック、強烈なインパクトに仰天した演奏でした。都響オケの力量感が良く生かされたもので、いい手応え。

オックスフォード版という版での演奏ながら編成はそれを踏襲せずコンパクトスタイルでの都響演奏という事になる。それにしても音はあいかわらずデカいのだが。
リブレットを見ると2日目が短い。最初の合唱のところで終わる。以降3日目に寄せられているので3日目が長い。それと、2部の5日目は三重唱と合唱のところで締めて、ここで休憩。そのあと6日目はラファエルのレチタティーヴォから。
大きく4つの塊に分けられるシンフォニックな世界のようにも見える。序曲付きの4幕物オペラの様でもある。大野の表現様式だとまさにそれを目指しているかのよう。オケは見事にパンチが決まった。ツボにはまった演奏。

2001年の同日は渋谷の百軒店にあった磐梯山という小料理屋で知り合いと飲んでいた。テレビが置いてあってなにやらすぐにはのみ込めない事態が映し出されていて、大変なことがおきたと、切り上げてそそくさとうちに帰り朝までテレビを見ていたのを思い出す。
ワンワールドの69階よりもう少し上の方に先に突っ込んだ模様で、ツーワールドは後で突っ込まれて先に瓦解。先に突っ込まれたワンワールドが後に崩壊。と記憶する。両方とも垂直に地中に沈んでいくような映像だった。
ワンワールドの1階はアレキサンダーというデパートで丈夫な皮製品を安く買えたのでお昼休みによく顔を出していた。地下はコートランド駅。島内通勤だったのでこれは利用することが無かった。両方とも無くなってしまったのかという虚脱感。
ワートレがもしウォールストリート方向に横に倒れていたら、ブロードウエイとクロスしたところにあるトリニティチャーチまでとどいていたと思う。

同じ日付に聴く天地創造。全ては前向きに。

プログラム冊子とは別にリブレットが付いていて、さらに字幕も付くというサービスっぷりで、理解の良く進む演奏会。いいですね。
大野の棒は序曲の混沌描写からいきなり圧倒的。これはベートーヴェンではないのかと思わせるようなえぐり具合。弦のボウイングがものすごい。凄まじき混沌。最初から驚天動地、まだ地球は出来ていないけれども。

ティンパニが毎度強すぎるこのオケ、もうちょっと抑えると周りのアンサンブルがよく聴こえるのだが容赦ない打撃。指揮台からはほどよいバランスに聴こえるのかしら。
というところがあるのだが、今日のクリエーション、こんくらいみんなバクバクやってくれれば壮快感のほうが先に来る。
だんだんと地球が出来上がってくるのが目と耳の両方から入ってくる。
創造は続く。この天地は地球のどこら辺の事なのかな、古事記の世界観とは随分と違う。神話というのは時間軸を縮めるための技だと思っているので、話の中身にはともに違和感は無くて興味だけが湧いてくる。

ということで、混沌の描写、お見事。筋肉質で骨太の演奏で4日目まであっというまに出来上がった。一服して、5日目で生き物がゾロゾロと。4日目までとムードが変わり、ここでも大野の棒が光る。骨太一辺倒でもないですね。シンフォニックなダイナミズムを感じる。
休憩後の6日目は規模が大きく、ソリスト連の活躍もここまでの役としての盛り上がりが冴えてくる。ガブ林さんは拡散系の華やかさがあって、オペラティックな装い寸前の濃い表現。ラフのヘンシェルはストイックな佇まい。今年の2月にリサイタルを聴きました。同じ物腰ですね。
ウリエル吉田のレチタティーヴォはわかりやすい。声が前に出る。かれの一声のあとアダムとエヴァの世界へ。
この別々感。ある一つの音楽的スタイルのイメージ、到達する位置のようなものが、みなさんにあって、指揮者は指揮者でイメージがあり、合唱も然り。
今日の演奏会のイメージ合わせをして、ひとつの着地ポイントへ。といった方針である必要は無くて、別に、統一感のあるものが理想という話でもない。天地創造の表現の一本化を、今回の演奏会で目指す一番のところのものであるとするのならソリスト連は別に揃えればいいわけで、このようにビッグバン的な拡散系の表現はこれはこれで楽しめました。
16人×2列の合唱はポジション的にも拡散しており、都響の音圧的な後ろ壁になるだけの力強さがあった。合唱体としての雄弁さはやや薄れていて、大野の棒にもっと積極果敢に反応して欲しかった。

ジワジワとくる余韻があまりありませんで、ビッグバンで一気に強固な天体が出来上がったような雰囲気。
大野さんの力強いタクト、圧倒的でした。
おわり


2407- OCNブログからgooブログへの移行、いまだ修復ならず。

2017-09-11 01:22:53 | ブログ

あれは2014年の蒸し暑い時期だったろうか、今年12月にOCNブログ廃止します、というアナウンスがいかにも遺伝子脈々の電々公社らしい、一見、濃い雰囲気でノーティスがあって、まことしやかにgooブログへの移行を、ただで、して、差し上げますよ、などとほざかれて、まぁ、こっちとしては青天の霹靂状態で路頭に迷い、その方針を廃止させるのは、ボッチ努力ではいかんともしがたい、と、その移行に乗ることを決意。でもこちらは昔の人間、コンピュータはとんとわからないし、その上、移行とか言われても、なにそれ?、という感じで、文字通りグーの音も出ない。

2006年に、あることをきっかけにブログを始めて、膨大な昔の演奏会感想帳面ニ十何分冊を電子化するのに体力を使うので、ならば少なからず手応え感のあるブログというものに書きながらだとやる気も湧いてくるかもね、ということで始めた。そのうち、妄想が妄想を生みブログはマウンテン状態になったのだが。

OCNのブログは他社同様、地獄の沙汰も金次第で、払うもの払えば、親ルート1個に無制限にブログを作成できた。それを活用してインデックスポストと本文ポストを別々のブログで作成していたのだが、無料移行奉仕はブログ単位。現場と事務の乖離はこうゆうふうに見事に至る所にあるもの。とは言え、移行に乗ると決意したので、この試練は乗り越えなければならない。
要は、ディレクトリのチェンジネイムの処理ラインに乗らなければならない。本文だけこのラインに乗ってしまうと移行後、インデックスへのリンクが崩壊してしまう。
ということで、移行前にまず、ブログの統合を決意。インデックスブログを本文ブログに寄せるという大工事。これをおこなえば取りあえずディレクトリ名をグーの仕様にリネームされてもリンクは保全できる。サブディレクトリのリネームは自分でバンバン。これは一発処理できる。
そうやって整えて、いよいよgooへの移行を電々マニュアルを読みながら実行。まぁ、これ自体は大した処理ではない。文字変換不可等若干のエラーはあったが概ね移行できた。gooはルートに複数ブログをぶら下げるサービスをしていないので、移行処理用の統合ブログとgooブログは同じものでこれ以上策が無い。インデックスブログと本文ブログが、今のブログではシャッフル状態のまま。もう一個ルートを発注すればいいのだが費用が線形に増えるので、ばからしい。

ということで移行したgooがあまり良いものとは言えない。移行前に調べておけよ、と言われそうだが、今直面している問題点は二つ。1ポストの文字制限が2万字、それからこの前わかったことだが、ポスト日付の遡りがどうも10年がマックス。ポスト自体は10年以上前のものでもデファイン状態にはあるようだ。移行でも10年以上前のものでも残っている。のだが、遡り作成ブログ日付のポストは10年が限界のよう。移行ブログは10年以上前のものもあるので、インデックス張りを新しくやろうとして、インデックスはなるべく目立たない古い日付のほうに寄せようとしても、このサービス制限だと、インデックスと本文がシャッフル状態。それにもっとやっかいなのは、10年以上前のブログで2万字を越えているものを同じ日付別時刻で2分割しようとしても、この制限があるときれいに分割できない。日付が飛ぶ。
ジャストシステムに移っちまったhpbは今見ると21まで来てる様子。16までは使っていたので、hpb回帰もありかなと思っている。アクセスDBを沢山作ってるのでそのあたりのこともうまく展開できるのがいいんだが。

諸条件は悪条件で、なすすべなし。シコシコと修復中。と言っても誰も見てないので特に問題なし。ブログ見てますという方にたまにリアルで会っても話をしているとそれは社交辞令とわかるので、見てないのだろう。別に無理することもない。

オリジナルはローカルに持ってますのでその点は問題なし。ノートンのバックアップがここのところ3週間ほど自動バックされていないので変だなと思ってチャットしたら、バックアップセットが壊れているようです。だって。原因不明で直す手立てがない。だって。他の方からも同じクレームが来てる。だって。
手立てがないなんてのんびりした会話なんかしてるひまないでしょ。って、いったら、360やめますか。だって。これって脅しに近い。何十年貴社使ってると思ってんのよ、調べれば。といったら、申し訳ございません。だって。
MSのonedriveはかなり便利になっているので、気持ちはそちらに傾いていて、ダブルで利用しています。こちらサービス名がコロコロ変わっていると思うのだが、2000年代に使いまくったデータが脈々と生きているので、使える。

昔、ブログにひたすらポストしていた時代を思い出しながら修復しようと思って、とりあえず、1983-1984シーズンのブログあたりから修復しようと思っている。シーズン開始はちょうど9月の今頃ですからそれにかけて、今のカレンダーと同じ日付のあたりに来たら順番に修復ポスト出来たらいいなと思ってます。NYPの1983-1984シーズンオープニングは9月14日でしたのでタイミングとしてはいい感じです。
Gooはedge未対応と返事ありましたので当面はieでの作成です。
おわり


 


2406- 尾高、草原、山田、大みたから、伊福部、コンチェルタンテ、諸井、交響曲第3番、下野竜也、東フィル、2017.9.10

2017-09-10 23:21:13 | コンサート

2017年9月10日(日) 3:00-5:45pm サントリー

尾高尚忠 交響的幻想曲 草原 (1943)  7-3-4-3-3′
山田一雄 おほむらたかみ(おおみたから)(1944)  8-5-4-1′

Int

伊福部昭 ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲 (1941)  15-11-11′
  ピアノ、小山実稚恵
(encore)
伊福部昭 ピアノ組曲より 七夕  3′

Int

諸井三郎 交響曲第3番 (1944)  17-4+17′


下野竜也 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


作品年代からモロに戦中のもので当時の現代音楽というよりも時代音楽。中身が本当にその当時の聴衆、空気、ムードの要請で作られたものなのか、はたまた。
4作品生演奏ではお初で聴くのかもしれないし、忘れているだけかもしれない。吹コンなどでも取り上げられているかもしれない。
諸井3番は2009年発売の1978年諸井三郎記念演奏会のものを聴ける。横への広がりはないが聴けるCDです。山田一雄指揮都響によるものですね。(このCD解説、片山さん21ページもの、ディープ)
1978年4月6日の上野、この二日前にブロムシュテット&ドレスデン歌劇場管弦楽団によるトリイゾ前奏曲と愛の死、若いブロムシュテットは休憩を置かずブルックナー5番へ突入。そのことはよく覚えているのだが、その二日後のことは記憶に定かではない。ただ山田一雄の棒は何度か見ているのでそのうちの一つだったかもしれない。

ということで、飛躍的に技術レベルが向上した今のオケでコアな4曲聴けるのはハッピー。サントリーのサマーフェスは演奏するグループの質の面で最良のものを前面に押し出しているので、作品同様この点でも拍手喝采。

尾高尚忠の草原。
静と動の繰り返し。静7-動3-静4-動3-コーダ3、といった具合の20分の曲。
静はモンゴルの草原、動は騎馬での移動。そのような描写音楽ととれる。構成に深みは無いが響きの面白さで聴かせる。映画の伴奏音楽のよう。


山田一雄の大みたから。
マーラー5番の第1楽章葬送行進曲そのものといった感じで、押し迫った1944年に葬送行進曲を書くのはまさに本人のみならず時代の通奏低音的要請のモードであったのだろう。作曲家のものすごいオブラート作品と思わずにはいられない。昨年のサマーフェスで演奏されたリンドベルイのピアノ協奏曲第2番と音楽的構想は同じだと思う。
形式はGM5-1mvtのようでもあるがむしろソナタ形式に聴こえてくる。
提示部8-展開部5-再現部4-コーダ1、計18分ほどの作品。マーラーをぼかし宇宙の動きを示す。スローな塊の様なものがゆっくりと移動していく。リゲティのアトモスフェールのモード。
当時世間でマーラーがよく知られていなかっただろうなというのがよくわかるシチュエーションでの作品だと思う。今、うったえる力が大きいですね。圧倒的な力を持った作品と演奏でした。下野&東フィル、共感の棒&演奏。お見事。


伊福部昭のシンフォニー・コンチェルタンテ。
鍵盤側で拝聴。3楽章もの。第1楽章15、第2楽章11、アタッカで第3楽章11。構成感、バランスが大変に良い曲。オケの音が終始デカい。オケと同時進行のピアノにとっては少し厳しい。ピアノの動きが、複雑なオケの鳴りの一部分を切り取ったような弾きで音が埋もれる個所が多かった。双方を同じような機械音楽の表現スタイルにしているように聴こえた。
ピアノは中間楽章で存分に味わえる。オタマとオタマに隙間が多いものでそこで味わうそこはかとなく湧いてくる情感。大きなタメを作りながら進行する小山さんの渾身のプレイ、曲の内面が照らし出される。今となってみれば、機械文明モダニズム表現の両端楽章よりも無意識に作られたような、ウエットな点、を感じさせてくれる中間楽章に大いに魅力がある。
望外のアンコールがあって同じく伊福部の作品。琴の音を模したものに聴こえた。
サントリーでのピアノ音、改修後、少しはよくなった気がする。音像がクリアに分離しているようだ。


諸井三郎のシンフォニー3番。
3楽章の作品。第1楽章17(7+10)、第2楽章4、第3楽章17(9+8)。
先に書いたようにCDでちょっとは耳になじみがあるのだが生ライブの感覚はまるで違った。誇らしげで幽玄な気持ちの高揚を喚起させる。構えが大きくちょっと頭でっかち。
第1楽章の序奏が7分ほど続く、長い。主部にはいるあたりからスクリャービンの3番シンフォニーがジワジワとフツフツと湧いてくる。こうなると、もう、スクのことで頭がいっぱいになる。スクが形を変えて出てくる。リンドベルイPC2、山田一雄の大みたから、それにこの曲。鉄板下敷きがよく見える。
下野の棒、第2楽章は1978年ヤマカズ収録CDとはまるで違う。鮮やかすぎる棒とオケ。そしてスク3の闘争主題だな、と。
終楽章は前半半分ほどの進行はようやくスク離れになったかと思う間もなく、スクのクライマックスに向かう姿が出てくる。エンディングのティンパニなんて、もう、同じ。
と。人生人それぞれ、聴き方も人それぞれ。スリルとサスペンスに富んだ作品。


ところで内容が濃い片山さんのプログラム解説。共感に溢れるもので素晴らしい。彼のエネルギッシュな活動はこれからも続いていくことだろう。

プログラム解説は演奏が始まる前に割とよく読むのですが、作品紹介の前に為人の人生経緯をたくさん書いてあってその後作品解説が通常、ある。人それぞれの自分は作品解説をまず読んで、そのあとに為人を読む。もしくは、読まない。演奏会が終わってから読む。ので、聴き方もスリルとサスペンスに富んでいる。

大変に素晴らしい企画ありがとうございました。
おわり


再発見 “戦中日本のリアリズム” −アジア主義・日本主義・機械主義− 
 



2405- ブラッハー、パガバリ、石井眞木、遭遇Ⅱ、イベール、寄港地、ドビュッシー、海、ヤマカズ、日フィル、2017.9.9

2017-09-09 20:45:19 | コンサート

2017年9月9日(土) 2:00pm サントリー

ブラッハー パガニーニの主題による変奏曲  14′

石井眞木 遭遇Ⅱ番  18′
  雅楽、東京楽所

Int

イベール 寄港地  7-4-5′
ドビュッシー 海  9-7-9′

山田和樹 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団

連日連夜のサントリーサマーフェスティヴァルの間に挟まって、日フィルのシーズン開幕公演。ひっそりとというわけではないのだが、サマフェスの流れからいって、石井眞木の作品にスポットライトがあたるのは、もはや、歴然としている。
和に始まり洋との融合、そして和に戻る。
指揮台から上てにかけて最前列に陣取った東京楽所10名、床に座っての演奏。
チャンスオペレーション、和と洋の遭遇。雅楽の管、絃、打。西洋のオーケストラと同じものを持ち合わせている。と。
超高音から始まる雅楽の進行から、オーケストラが入り込み、音圧的なバランスも良くて、遭遇というよりは、むしろ、融合。非常に自然な融合。オーケストラに音が埋もれず、1対1のバランスで聴こえてくる。凄いもんです。見事な作品。
のたうち回るオーケストラ、入り込んでいく雅楽。絶妙。トーンクラスターと単線曲線が名状し難く融合。抜群のセンス、そして当時の現音からこちらに向かってくるものを感じる。
ホール改修のせいか、少し明るくなり解像度が増したように聴こえてきた日フィルの冴えた技も聴きごたえありました。素晴らしい作品、混沌ありません、佳演に舌鼓。

全4曲、ヤマカズの洒落たプログラミング。濃くて深めの演奏から作品のエッセンスが浮かび出る。副題もの作品、全て満喫しました。
おわり


2404- オテロ、バッティストーニ、東フィル、2017.9.8

2017-09-08 23:32:51 | オペラ

2017年9月8日(金) 7:00-9:55pm オーチャードホール

Bunkamura プレゼンツ
ヴェルディ 作曲
アンドレア・バッティストーニ プロダクション
ライゾマティクスリサーチ 映像プロダクション
オテロ  (コンサートスタイル)

キャスト(in order of appearance & voices’ appearance)
1.モンターノ、斉木健詞(Bs)
1.カッシオ、高橋達也(T)
2.イアーゴ、イヴァン・インヴェラルディ(Br)
2.ロデリーゴ、与儀巧(T)
3.オテロ、フランチェスコ・アニーレ(T)
4.デズデーモナ、エレーナ・モシュク(S)
5.エミーリア、清水華澄(Ms)
6.伝令、タン・ジュンボ(Bs)
7.ロドヴィーコ、ジョン・ハオ(Bs)

新国立劇場合唱団
世田谷ジュニア合唱団
アンドレア・バッティストーニ 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
ActⅠ 31′
Pause 2′
ActⅡ 34′
Int
ActⅢ 39′
Pause 2′
ActⅣ 31′

今年2017年春に初台の出し物でカリニャーニが振ったオテロと、その指揮者と主役3人が違っているだけで、他はオケまで含め概ね同じ。
バッティの振るオペラは以前リゴレット、イルトロを観劇。コンサートは江副記念の伴奏や東フィル公演を。観て聴いているほうとしてはヒート感はなくてコントロールしない棒という印象が聴く毎に強くなる。そんな中、
今回のオテロのプログラム冊子に彼の特別寄稿「オテロ、もしくは二元論の」というのがあってそれを読んでみると、一文に、私のオテロ解釈は楽譜というよりシェイクスピアの原作から引き出されたもう一つの重要な前提にも基づいている。と明確に書いてある。
結末、指揮台の下で絶したオテロを、指揮台に片足上げて見下ろすイアーゴ。これはプロダクションとしてクレジットされているバッティストーニ自身が付けたものであろうし、音楽の激しさはオテロ否定までの道のりだった。コントラストの妙を、強烈な味付けで表現したわけですね。うまいへただけで騒ぐものとは一線を画するような話だろうとは思う。
1,2幕の激しさが3幕まで突き抜けていてあまり聴くことの無い激流の音作りにびっくりしたのだが意図はよくわかるものだった。荒々しさがここまで必要だった。

ハンカチの勘違い策略がとんでもない妄想まで引き起こすものかどうか、圧倒的で威圧的な第1幕冒頭からの音楽、そしてこのストーリー、斜め見することが多いオペラオテロではあるのだが今日はそんな気持ちは湧いてこなかった。コンサートスタイルといいつつ、演技と歌は舞台上のオケの前と、オケと奥の合唱の間という2ラインで行う。このためオペラ的遠近感が相応に取れるものとなっている。ただ、策略謀議の妙までは出て来ない。そういうところはあるのだが、コンサートスタイルという要素で音が純化、精度が高まる、といったありきたりの結果を求めたものに無いのはバッティの上記解釈の表現が精度追及に勝ったのかもしれない。

バッティは殊の外、身が軽そう。ポンポン縦の動きが軽快。音楽からエネルギーをもらっているかのようだ。この身体躍動感、演奏はそれをもらい律動よりもむしろ音圧で応えている。冒頭の激しい音楽があとで場違いじゃなかったのかなといういつもの思いを蹴散らしてくれる持続の音楽でもあった。各幕内で完結するドラマ的な対比は強調するような音楽作りにはなっていなくてバッティ特有のフレージングも強調されない、全幕が最後の一点に向かう構成感で動いていく。
主役3人衆。
モシュクはデズデーモナを今回初めて歌うとのこと。コンサートスタイルで良かった的なところがあったかもしれない。無難にこなした。彼女は2013年スカラ座来日公演でリゴレットのジルダをドゥダメルの棒で歌ってますね。
アニーレとインヴェラルディは声質を別にしてキャスティングが反対ではないかとちょっと思いましたが、進んでいくうち納得したところがあります。両者、場数を踏んでいて場慣れしている感があり安心して聴ける。ドラマのツボを心得ている。ドラマ作りに長けている。
アニーレはよくのびる声でこのホールを満たす。インヴェラルディはこのバッティ意図劇には少し優しすぎるところがあるけれども、わるいものではない。両者の対比の妙がコンサートスタイルではなかなか出づらいというのもある。
概ね楽しめました。

それから、当公演では映像の事がクローズアップされておりました。ライゾマティクスリサーチが担当。オペラの数値化(データ化)実現のために、鑑賞者に登場人物になってもらい心的変化をデータ化解析、それと指揮中指揮者の動きをデータ化解析。阿部さんの文は抽象的なところが多く判然としない箇所が多いが、概ねそういったところ。
これらを作用子として、このホールの要素を三次元的に情報化したものに作用させたプロジェクション・マッピングということだろうと思われる。立体構造の正規化されたモデルに歪みのサンプルを作用させたものと理解。物理的な解説のところにアナログ、感情そういったものが入り込んでいてわかりづらい文章となっている。
それから例えば、見える化という言葉は使用法が違うのではないか、単に可視化の事をいっているようで、そういったところの気負いのようなものも感じる。言葉の定義の明確化が必要。
結果、データ解析して数値化したものが、何故、抽象的な映像にならなければならないのか。意味を含んだもの止まりと言わざるをえない。舞台を持ったせわしない芝居小屋オペラでもこのようなものは転がっている。裏切られた気持ちですね。
かえって、映像が出ない時、音楽が雄弁になる。これではその効果を狙ったものと少し苦笑いでもしたくなる。残念。

バッティの解釈はこれから変わっていくと思います。この作品だけでなく、スポットライトの当て方が変わっていけば解釈も変化成長する。
おわり