河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1127- カンブルラン 読響 ドビュッシーペレメリ コルンゴルトVn協 ヴィヴィアン・ワーグナー マーラー作曲ブリテン編曲 野の花々が私に語ること シューマン4番第1稿 2010.11.29

2010-11-30 17:26:45 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月29日(月)7:00pm
サントリーホール
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ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」交響曲
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コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、ヴィヴィアン・ハーグナー
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マーラー
(ブリテン編曲:オリジナルは交響曲第3番第2楽章)
  野の花々が私に語ること
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シューマン 交響曲第4番(第1稿)
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シルヴァン・カンブルラン指揮
読売日本交響楽団
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4曲並べたコンサートは最近珍しい。こうゆう手応えのある演奏会をもっと聴きたい。
この日の演奏で一番気に入ったのがシューマン。筋肉質で締まっていて音場が磁極にひかれるように一定の方向感をもって鳴る。聴きごたえがありました。また、第3楽章のトリオにおけるウィンドとストリングの流れるような美しさは川面に流れるビロード、何本もの線がゆらゆらと揺れて流れる様はこよなくきれいで透明で美しかった。満点。
曲自体特に第1,4楽章はリズムがつんのめっているような感じで、前ではなく上下に走っているような錯覚を覚えたりしますが、正確性を前面にだすとこうなる。従ってカンブルランの面目躍如ということになります。そしてときおりアクセントをきかせたこぎみの良いスタッカートが曲の流れを整え変則リズムの快感を再認識させてくれます。曲の味わいというものをあらためて感じました。よかったですよ。
カンブルランとしてはどちらかというとシューマン以外の3曲をやりたかったのではないかと思えますが、結果はえてしてこのようになったりするものです。
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1曲目のペレメリは、この指揮者セレクトのシェーンベルク、フォーレに続くものです。3回のペレメリでは今回のが聴く方としては一番困難をともなったのではないでしょうか。
クラウディオ・アバドはウィーンとの全曲盤やベルリン・フィルと断片を録音していて、そこらあたりを愛聴盤にしている人とか、最近のアルミンク&新日フィルのオペラ公演を見た人たちなら、違和感なくすんなりはいっていけて、さらにものたりない、というところまでいっちゃう感想だと思うのですけれど、そうでなければ、なにがなんだかわからない。音の広がりが武満よりはあるなぁとか、澄み切ったもやもや感、など不思議どまりだったかもしれませんね。
録音で聴くペレメリなどよりも、この日の演奏は断然締まっていて行き先明瞭でクリア、大きなリズムまで感じることが出来るやっぱりカンブルランの得意技といえますね。この指揮者、今が絶好調というのがよくわかります。
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2曲目のコルンゴルト。これはやっぱり、ジャナンドレア・ノセダ&N響の公演(1049-)が決して忘れられませんね。ヴァイオリニストは誰だったのか忘れてしまうぐらいすさまじい棒でした。
ヴィヴィアンさんは割と太めの音で、なぎ倒す感じではありません。どちらかというとストイックで、第3楽章などもウキウキ感より誠実に一つずつフレーズを進めて弾いていくそんな感じですね。この曲がなかなか流行りきらないのは第1,2楽章の難解さ、馴染みにくさにあると思います。よくわからない、というのが正直なところ。ただ、負の色ではないなとは思います。出来れば明るい目で流してほしい。
カンブルランはノセダのような爆発棒ではありません。難渋な曲を真摯に振っていたと思います。伴奏ということもあって彼のレパートリーではないと思いますが、感覚的に振りこなせる感じ。
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マーラー。このような編曲は初めて聴きます。オリジナルとの違いを調べるような調子で聴く必要もないと思います。編成は少し小粒ですが、締まったサウンドで流れるようないい曲ですね。3番は昔はあまり演奏会で取り上げられることがなかったのですが、最近は割と頻繁。マーラーイヤーですのでこれからも続くでしょうね。
ブラ1の第4楽章の例のメロディーそのものといった感じのホルンで始まるマーラー3番第1楽章ではありますけれど、約40分の第1楽章か、なんて昔聴いたときはびっくりしましたことを覚えてます。ここだけでモーツアルト2曲聴けるなぁ。
それで、オーケストラが全奏で回転し第1楽章をおえて、ようやくこの静かで素朴な第2楽章を聴くことが出来る。脳裏での聴き比べ。
マーラーイヤーにふさわしい選曲と演奏でした。
おわり
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1126- ショパン協2番ダン・タイ・ソン ブルックナー8番 スダーン 東響2010.11.27

2010-11-30 15:26:31 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月27日(土)6:00pm
サントリーホール
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≪ショパン 生誕200年≫
ショパン ピアノ協奏曲第2番
 ピアノ、ダン・タイ・ソン
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ブルックナー 交響曲第8番(ノヴァーク版第2稿)
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ユベール・スダーン指揮
東京交響楽団
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いまどきブルックナー1曲でおしまいというのがはやりで、このような長めのプログラミングはわりとめずらしい。
11月12月は在京のオケ、何故か知らんがブルックナー8番だらけ。全部聴く必要もないが、ちょっと前に高関さんという人のハース版の8番を聴いた。ちょっとむずかしいと思う。
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この日のスダーンさんはどうなんでしょう。この指揮者はたぶん初めて聴くような気がします。昔はスーダンって呼んでたのかな?英語読みなら、ヒューバート・スーダンで決まりだと思いますけど。でもオランダ人ですからね。
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それでブル8ですけれど、その前にこの指揮者の動き、ブルックナーというよりもまるでチャイコフスキーとかプロコフィエフでも振っているような仕草棒なんです。ナッツクラッカーとか思い浮かべてみてください。あの棒でブルックナー振られたら出したい音も出てこないのではないか、そんな感じです。
外見は中身ほど大切というわけではありませんので、とりあえずはなるべく上の方を眺めながらの鑑賞となりました。
簡単に言うと、第1,2,3楽章はプレイヤーも指揮者も流れが悪く、おそるおそるやっているわけではありませんが、ノリの悪い演奏に終始してました。それが終楽章の提示部第3主題あたりからようやくノリはじめ、バランスとか縦の線とかいちいち気を使わなくてもフレージングがきれいに流れはじめました。この第4楽章はよかったと思います。演奏に対する安心感みたいなものが出てきましたのでね。ですので、翌日同じプログラムがあるかと思いましたが、きっと頭からいい演奏が聴ける確率が高いと思います。指揮者とオケともに慣れていない感じでしたからね。
いくら技術的に相応にこなしていてもそれがいい演奏というわけでもなく、今回の例で言うとぎこちなさを一度解消してから、もう一度演奏してほしい。通しやってたんですかね。
タイミングはだいたい以下
Ⅰ:16分
Ⅱ:14分
Ⅲ:22分
Ⅳ:21分
トータル:73分
一番深みがないのがブラスが強奏するところ。ただ、バーンとベニヤ板が上の方にしなったような、トクホンをお腹に貼ったような、なんとも味気なの無い深みの無い音。
ズッシーン、とこない。
これ、ブルックナーの音の出し方慣れていないからなんですね。バーンとくるから弦やウィンドがかき消され、ブラバンモード。
ズッシーン、という出し方は、まわりの、気配の音、を聴きながら、ギリギリどこまで待てるかみたいな感じの究極ポイントで下方から泉が湧き出るようにサウンドが上方に広がる。感覚の問題だ。指揮者がたぶん慣れていない。ヴァントが昔、N響でブルックナーを振っていたときは、完全に、この作曲家の曲を移植しに来たという感じだったのだが、スダーンにそのような具合のかけらもない。自分本人がこれから作り上げていくか、とりあえず横においてしまうのか、といったあたりが選択肢ではあろうかと思います。
フォルムに関しては、フォルムの前に深みがない。そんなところです。
第4楽章はよかったので、再度言っておきますが、翌日の演奏はおそらく良かったと思います。
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プログラム前半のショパンの第2番はメロディーだけ聴いているといつの間にか頭の中が第1番と第2番をさまよったりしてしまいます。通奏低音だけのようなオケ伴など飽くまでもピアノ個体を聴く曲でしょう。
タイ・ソンは見た目はあっさりしたものですが、指の見えるような近くだと、両腕を必要以上に上げ下げせず比較的軽めのタッチで流すように弾いていきます。さらっとしたもんです。
結果、ショパンの美しさが際立ったものであることを理解できる。作曲家の音を妨げない。綺麗な並びのオタマと美しさが沁みる演奏でした。
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1125- ウィルヘルム・フルトヴェングラー命日~ゼロからの回帰

2010-11-30 13:53:45 | インポート

今日11月30日はフルトヴェングラーが1954年に68才で亡くなってから56年となりました。思えば長いようで短い、時代の移り変わりは容赦なく。
この命日にあわせてまた本が一冊刊行されました。
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「巨匠フルトヴェングラーの生涯」
アルファベータ社 504ページ
2010年11月30日発売
4700円(税別)
とりあえず買ってしまいましたがすぐに読み始めるかどうかはわかりません。自分でも。
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日本フルトヴェングラー協会というのが昔からありまして、早い時期から入会していて、今でもそうなんですが、ひところだいぶ興ざめになったこともありますけれど、別に退会する必要もないのでそのままとなってます。いまは年会費制になっておりますね。
それで、いつ入会したのか調べてみたら、昭和49年1月某日でした。1025足して1974年ですね。会員番号は一度リナンバーされております。桁が増えただけですけど。
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また、興ざめの時期にヤフオクで、音源、書籍等を大量処分しましたので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。最近の乱立音源を除けばほとんどがプレミアムが大幅についてかなり値がつりあがりました。CDで一番落札金額がつりあがったのは定価の33倍でした。などなど。
ただ、全部処分したわけではなくて、まだ、あります。たまに聴いてます。印象的なのは時代とともにウラニアのエロイカの音質がよくなっていること。あとは、聴く方のスタイルとして、実況録音については、当時のプログラムの順番で聴き演奏会イメージを頭の中で作り上げて。そんな感じはあります。
まぁ、どっちにしろ一度通過しました。
それで最近は、他の20000枚のCDを聴くときと同じような平衡感覚で、たまに、聴く。そんなところですね。
今日のブログタイトルの「ゼロからの回帰」というのは、ですから、自分自身のフルトヴェングラーに向かう、今の姿勢のことをいっていることになります。
大量処分して、いっぺん頭をワイプアウトして、骨董品収集みたいに集めることが目的みたいなそんなことをやめれば、なんだか自由になれるというか、なにもなくても頭の中に残っていたことだけで書けるというか、残像の寄せ集めなんだと思うのだが、それなりにひとつの像が出来上がってきますね。
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河童メソッドのブログでもフルトヴェングラーものは折を見ては書いてましたので、一覧を下にリンクしておきます。
内容としては稚拙、ダブりあり、古い、などありますが、最初に書いた時のままですのでしょうがないです。若い番号の方から読むとそれなりの順序になってますので、これからフルトヴェングラーファンになる人とか、そうでない人、同じような人、興味関心のない人、どなたでもよろしいですので、一度、よろしくお願いします。
今ならもう少しましな文面で書けますが、それだからといって内容の掘り下げもできるかと言ったら怪しいので、とりあえず、ママとしてます。ゆくゆくは整備対象ではありますけれど。

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935- フルトヴェングラーの命日に寄せて

457‐ フルトヴェングラー現る

456‐ 終わりそうで終わらない日本F協会

455‐ 五里霧中にさせてくれる日本F協会

374- フルトヴェングラーのニューヨーク・フィル定期 1926-1927シーズン

307- フルトヴェングラーのニューヨーク・フィル定期 1925-1926シーズン

229- 同曲同演フルトヴェングラー

228- フルトヴェングラーな夜

227- フルトヴェングラーのニューヨーク・フィル定期 1924-1925シーズン

048- ニューヨーク・フィルハーモニック with フルトヴェングラー

047- 決死のイヴェント前夜に聴きたくなるフルヴェン

046- フルトヴェングラー Taking Sides

045- フルトヴェングラー 交響曲第1番 日本初演

044- フルトヴェングラー 対 大木さん

043- 経年変化に耐え続けるフルトヴェングラー

042- フルトヴェングラー エキセントリック・コンサート


1123- Bar Atrium en バー・アトリウム・エン 新橋熱気

2010-11-27 07:42:40 | グルメ

あれクラキチさん、新橋で焼鳥なんてありえないって言ってましたよね。
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はい、あれは、うそです。
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クラキチさん、最近、うそ連発じゃないですか。
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えっ、
ほかにうそなんかついてませんよ(タラ汗)
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それでどうだったの?
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はい、最近、新橋、いいと思うようになりました。男二人とか、三人で、会社の帰りに、ここらへんをぶらぶらし、焼鳥、小料理をはしごする。いいですね。
安くてうまいのがいいですね。一軒三四千円で済みますし。
それで、この日は、焼鳥屋をはしごしました。
昭和の風情をわざと残している店とか、使い込まれすぎちゃって床がターミネーター2の警察官の足みたいにくっついちゃったりする店とか、いろいろあって面白すぎますよね。
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そうですか。それはよかったですね。
それで新橋のバーはどうなんですか?
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そうですね、柳通り、赤レンガ通り、烏森通り、栄通り、この四角に挟まれた界隈には、他のお店に比べたらバーはかなり少なめです。出来ればピンポイントでチェックしておくことを勧めます。逆に探して歩くのが楽しいということはありますけど、僕は、あまりアップステアーなところのバーにはいかないので、それを外すと条件的には結構難しいものがありますね。
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あいかわらず、上階には行きたがらないな。なにか高所恐怖症とかですか?
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いや、例のスーパールーズの火災事件以来、あんまり上階では飲み食いしません。個人的にあの火災とは関係はありませんよ、でもサラリーマンですから。バーとかキャバはビル管理があまり良くないところが多いですからね。
上階で楽しむならでかいビル、こじんまり系なら地階。
このバー・アトリウム・エンは地下一階、雰囲気半地下みたいな感じですね。
そういえば、あのスーパールーズの火災はたしか2001年ですね。かなりの人が亡くなって、我々も飲み方、気をつけようなどといいながら一階で酒を飲むようになり、その話題でしばらくは炎上していたのですが、その一ヶ月後ぐらいですかね、これまた例のマンハッタンのワートレ(ワールドトレードセンタービル)がグランドゼロになっちまったテロが起こり、スーパールーズの話題はあっという間に消えてしまったことを良く覚えてますよ。
テロの飛行機は、たしか、ワン・ワールドに先にクラッシュし、その直後、ツー・ワールドにクラッシュした記憶がありますね。この2の方が先に朽ちて、その前にクラッシュされた1のほうが後で朽ちたと思いますが、どうだったでしょうか。
このワン・ワールドなんですが、その昔、弊社の現法を立ち上げた際、ほんと小さかったんですが、それなりの事務所を構えたことがあります。79階のXY番という部屋でした。XYというのはベートーヴェンの運命のオーパスと同じです。それで、テロの時代にはもうとっぱらっていたんで問題なかったんですけれど、もし事務所が続いていれば、80階のあたりに飛行機がぶつかったはずなんで、完璧、朝っぱら、出勤した瞬間の時間帯で、アウト、6000度の高熱に骨身もなくとろけていたはずですわ。
すみません、話がずれまくりで。
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そうでしたか。それでアトリウムはどうでした?
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はい、雑踏の中に専門的なスタッフが二人、宝石のように輝いていた、といっちまうとあまりも美化しすぎですけれど、新橋の小料理屋、焼鳥屋が客の心をつかんでいるのと同じようなたたずまいとでもいいましょうか。イメージどおりでした。
また、モヒートを夏でも冬でも飲めるようにと瓶詰めでたしか2種類置いてあったかと思います。おいしかったですよ。
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それはよかったですね。
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はい、いついっても、どこのお店でも温かくむかえてくれるいい街です。
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そうですか。ところで、アトリウム、という名前なんですが、たしか銀座にもありますよね?
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ええ、銀座の3丁目あたりかな、女性スタッフだけのお店で、昔よく通いました。
アトリウム銀座
僕が通っていた頃は女性スタッフがたしか3名いたような記憶があるのですが、今はどうかわかりませんので、行ってみてください。
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はい、わかりました。質問者と回答者が逆転したところで会話をおえたいと思います。
ありがとうございました。
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1122- バー日向 ひなた Hinata

2010-11-26 13:18:43 | グルメ

こちらの無知の不首尾の致すところとは言え、お釣りを御祝儀代わりにしてしまったのは、まったくもって、ど失礼なことではあった。なにしろ、御祝儀の意味は二つあるわけで、日を改め、少なくとも、開店のお祝いと永久の契りに対するハイブリッドな包みとすべきところではあった。
お祝いどきに持ち出す話でもないが、彼は僕の無二の親友が某年海の日前日あっというまに昇天したときに、落ち込んでいた僕を気遣ってくれたそれこそ少ない人物のうちの一人だった。その友の話は今日はふさわしくないのでやめ別の機会にゆずる。
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日向ひなた、いい名前じゃないですか。向、を、比谷、と替えれば彼が長く勤めたお店の名前になりますね。
彼とは、シャンテ近場のお店を退したあとしばらく疎遠になってましたけれど、この前、山野楽器で、バボラークが吹く誰が買うのだろうか不思議な新譜のエチュードのCDをゲットし、まぁ他にも、マゼールがバイエルン時代に振ったブルックナー全集とか、エイドリアン・ボールドのロンドン極めつけオタク系CD第2弾などを物色し漁ったその足で、なんだか、以前はよく金曜日仕事のあと山野楽器へ、そしてそのあといつも通り数ある日比谷バーで一番コンパクトな隠れ6号店で、ベルタを喉に垂らしながら、裏メニューの極上パスタをいただいていた頃をつい思い出し、といっても前日の祝日の23時半頃うかがったら終わりかかっていたので、では日を改めてということもあったのだが、それやこれやが脳裏を走馬灯のように走り、この日は一人で、新しくなったドアを開けたのでした。
久しぶりの6号店でスタッフはすっかり変わってましたけれど、まだ早い時間でしたので、例によって、お河童さん、バーカウンター貸し切り状態で(借り切り状態か)、その昔の、日比谷バー新宿店や渋谷店、そしてまぁ、バレルで造ったテーブルでお酒を飲んだこともあったウィスキーズに至るまでのあたりのことを、一人トクトクと喋りまくりで、スタッフもたぶん、聞き疲れ?みたいな感じになったところで、最後に、昔のスタッフの去就を訊いているうち、彼の話に及んだわけで、そうしたら、自分で新しいお店をこの3月にオープンしたということがわかり、場所はどこ?などといった野暮な質問は、このお河童さん銀座マップは皿の上にいつも乗せていて知らない小路はないなどと隠れ自負するなか、することもないと思ったのだが念の為に訊いてみたら自分のテリトリーにあらずで、でも長年徘徊していると、人間の脳は不思議なもので、まるで空中から銀座の小路を一気に俯瞰したように焼きついているわけで造作もなく、ニュートーキョーとスープストックに挟まれた小路角の2階への階段を上ることが出来たわけです。
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カウンターは五六席でほぼ一杯でしたが、一人でテーブルで飲む酒ほど味気ないものはないので、女性のスタッフに無理をいってカウンター真ん中の席に割り込ませてもらったのだが、なんだか初めてのような気がしない微妙な空気が漂うその奥でおいしいメニューを作っていた彼がでてきて、再会とあいなった。
二人で頑張っているのは見ればわかるし、そんな野暮な質問はせず(ちょっとしました。合い方が一人ずつになったタイミングを見計らってどっちからプッシュしたのかといったことを。お互い、自分がされた、といってましたけど。)、今日はおすすめのハードリカーを喉に垂らしこんだのだが、翌日も仕事ということもあり適度な量で帰路につくこととし、華金とか土曜日に再訪する旨伝え、劈頭にある通りのお勘定の払いをしてしまったわけです。
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バーでお酒を飲むときは距離感が大事といつもそのように努力はしているのですけれど生来の聞き上手が災いすることもあり、お店の人と話がヒートしてしまうことも多々あり、でも、プライベートなところまでのお付き合いは誰とも、いたしたことがなく、それはそれで一線、バウンダリーであるのかなと常日頃から思うところでもありで、などといった一見どうでもいいような話をいきなりはじめて、はずんでしまうような感じで、ずいぶんと久しぶりに会ったのだが、双方忘れるには足らなかったなにかをもっていたのだと感じるところではあった。
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僕はいろいろとバーに行くので、だいたいのアトモスフィアを直感でとらえることが出来て、まぁ、苦労も多いだろうがやるときはやるっきゃないなっ、みたいな感じで身を粉にするのも苦労をそうとも思わず出来るのは、むろんお客とのつながりを大切にしている人徳もあると思うのだが、それにもましてこのお二方のお互いのゆるぎない信頼、もとい、愛、があるからなのだろうと強く感じた。いい一日であった。
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バー日向
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1121- バー・ベスパ Bar Vespa  ミッドナイト

2010-11-25 16:55:20 | グルメ

あれ、クラキチさん、また夜更かし?
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すいません。溜まってました。
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何が溜まっているのかい。
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はい、
10月14回のコンサート、オペラ、
11月は今のところ9回、
ということで、
ちょっと聴きすぎ観過ぎで、食べログを更新する時間がありませんでした。
溜まっていたので直近のほうから少しずつ書いているわけです。
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おや、そんなにコンサート行っておいて、グルメする時間はあるわけ?
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はい、あります。
グルメのスタートはいつもおそいのです。
早くて22時。遅いときは2時スタートとかですから、
ステージが跳ねてから行けばいいんです。
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おたく、サラリーマンですよね?
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はい。
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平日のそんな遅い時間から食事始めて、翌日会社いけるんですか?
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はい。大丈夫です。気持ちの問題です。
体力は無尽蔵ですから。(昔は)
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なにが、あなたを、そうさせているのかい?
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はい、言えません。
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いろいろあるでしょうが、ほどほどにしたほうがいいのではないのですか?
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いや、ショートなライフをロングに生きる為には、今までの隙間を埋めていかなければならないのです。
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なるほど、それはなんとなくわかります。
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それは朽ちるまでし続けなければいけません。振りむいてはいけません。
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それは違う。今、振り向かざるをえないようなことしか、昔、してこなかった。
それの理由探しをしているだけです。そうではありませんか。
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はい、鋭いご指摘。まさにその通りかもしれません。
猿でさえできる反省を、今でも、君は出来ていない。そうおっしゃりたいのですね。
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そんなことはないさ。クラキチさん、
どんなときにも自分を見失わない方法を教えますよ。
それは、
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1120- ダ・ペッピーノ

2010-11-25 15:33:40 | グルメ

あれ、クラキチさん、夜更かし多いですね。
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はい。クラシック音楽ブログのはずなんですが、ちょっとそれ続けですみません。
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ここのお店はどうでしたか。
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クラキチのレストランガイドをご覧ください。
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祝日の夜おそくだと銀座でもお店を探すのはなかなか困難ですよね。
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そうですね。パソコンで検索するとある程度、開いているのはわかりますが、客が集中してしまいます。
大きいお店の方がかえって気が楽で安心して食事が出来るのがこうゆうときなんですね。
小さいお店だと客が自分たちだけだったりして、次の客が来るまで帰るタイミングを見つけずじまいだったり。いろいろと余

計なこと考えちゃいますよね。
それにお店のスタッフも会話に参加しちゃったりして、濃い話が出来ないときがある。休みの夜中の外食なんて濃い話しかな

いんですよ。そこらへん、わかってほしいですよね。
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そうなんですね。そうでしたか。
あまり無理なさらずご自愛ください。
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ありがとうございます。河童のお皿もかわくときがありますから水分補給は必要ですが、溢れるほどする必要もありません。

覆水盆に返らなくたっていいと思ってますから。
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思ってても思ってなくても返りませんけどね。
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1118- マーラー 復活 シュテンツ N響2010.11.20

2010-11-21 11:19:08 | コンサート

2010年11月20日(土) 3:00pm NHKホール

マーラー 交響曲第2番 復活

ソプラノ、クリスティアーネ・リボーア
アルト、アンケ・フォンドゥング
合唱、東京音楽大学

マルクス・シュテンツ 指揮  NHK交響楽団
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自分ももうすぐああゆうふうになるのかもしれないが、加齢臭のジジババ・スローモーションだらけの渋谷NHKホール、土曜日の午後三時、お茶をしにきてるだけのばね仕掛けのスピーカーか電源切ってもしゃべりまくり、始まって1分で気絶状態の昏睡状態、過去の栄光だけがもぬけの殻のように横柄な態度、いろんな加齢臭だらけ。跳ねて外に出たら救急車が待機、ほんとに笑えない冗談だなぁ。
終わりかかっている人たち、今から始まろうとする人たち、コミュニケーションはあるのだろうか、もっともこの日、若者はあまりいないのはいつものこと。

それで、今日もマーラー。復活です。
シュテンツは、簡単に言ってしまうと、テンポの拡大解釈が顕著。これを時代遅れととるか様式の復活ととるか、それによって評価が分かれるところだ。
第5楽章をソナタ形式というならば、展開部に入るところの、ティンパニーのクレッシェンドを異常にのばす、これは昔バーンスタインも同じようにしていたが、今日のものものしさも双璧ではある。ここが一番目立つ個所ではあったが、それ以外にも第1楽章の再現部に入る下降音フレーズ、同じ楽章のエンディングも同様。なぜここまでテンポを落とさなければならないのか。おしなべてフレーズのまとめ方、楽章のまとめ方、ぐっとテンポを落とし切る。なにを主張したいのかよくわからないのは、緊張感はかなり持続はするものの、彫の深さや音楽のしなやかさが今一つ稀薄で、その主張が明確に伝わってこないからだ。
個人的には、このような解釈は現代の乱立するマーラー解釈のなかでは比較的異質、だからどうだというところはあるが、くさるほど聴いてきたものからしたらやはりトレンドとして、意識された拡大解釈は、あまり賛成するものではない。このての曲にこだわりがあるのだろうが、意識された音楽演奏様式が、音楽の内面からのもではなく本当の心情告白になっていないもどかしさが見え隠れする。残念ながら。
この曲に関していえば、今のインバルよりは上、ゲルギエフにはかなわない、といったところですね。


タイミング合計は約90分。第1楽章終了後、ほぼ5分ほどきっちりと置いたので、演奏時間としては、だいたい85分ぐらい。あれだけ濃い演奏すればこんな感じになるんでしょう。

N響は非常に優秀で、ウィンドの美しさはいつも通り、ブラスの正確性がこの曲では際どく求められるのだがきっちり決めました。それにもまして弦のみずみずしい透明感が負けず美しく響きました。
二人のソリストは活躍の場はそんなに多くないが、アルトのフォンドゥングは柔らかさが印象に残りました。ソプラノのリボーアはオペラ馬力ありそうですね。
合唱はそこそこ。指揮のシュテンツの棒が、かなり間を置くので集中して凝視しないと弛緩してしまう。練習の成果が出てましたね。



ところでこの日のホルンのトップは松崎裕さんでしたが、NHKの小冊子フィルハーモニー10月号の38ページによると、10月21日付で退団、と明記されてます。団友のリストにもないのでなにか契約の関係でやってたのかな。だれかおしえて。
おわり


1117- アンドレア・シェニエ 絶好調ファンティーニと東フィル 新国立劇場オペラ・パレス2010.11.18

2010-11-20 12:55:45 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月18日(金)7:00-9:40pm
新国立劇場、オペラパレス、初台
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ジョルダーノ アンドレア・シェニエ
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フィリップ・アルロー プロダクション
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アンドレア・シェニエ ミハイル・アガフォノフ
マッダレーナ ノルマ・ファンティーニ
ジェラール アルベルト・ガザーレ

合唱、新国立劇場合唱団
フレデリック・シャスラン 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
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今日の東フィルはよく鳴った。ファンティーニと同じぐらい良かったね。
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アンドレア・シェニエは以前、ジャコミーニの斉唱を観たことがある。15年ぐらい前のことですね(注1)
どうも、やにっこいというか、これ二調なのかな。それともたまに無調とか。
吹き上げるイタオペではありませんので。浸りきれないもどかしさが少なからずあるんです。ちょっとジョルダーノは1948年まで生きていたんですね。ほんの少し前ですね。このオペラ自体は1896年ものですから、やっぱり遠いかな。
でもこの音楽のやにっこさはやっぱりよくわかりません。歌う方はどうなんだろう。歌いづらいのではないのかな。
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今日の出演者は全部良かったんですけれど、それはそれとして、
「どんなオペラでも必ずいいところは一ヶ所はあるもんだ」
というのが自説、まぁ、自説と言うほどのもんでもありませんが、たくさん観てきましたけど、いいところを探そうとする意志が働くのか、どこかいいいとこ早く来い、という感じでみたりすることもありました。決してこのオペラがダメとかという話ではありません。
けど、昔、ツァンドナイのフランチェスカ・ダ・リミニを観たことがあるのですが、レナータ・スコットが炎の中奮闘していた割には、オペラそのものはあまり印象的なものではなく、派手さはあるが緊張感が続かない、みたいな感じでした。でも必ず一ヶ所はいいとこあるんですね。出合いとか別れといったあたり。
アンドレア・シェニエは緊張感が結構続くオペラではありますが、いまひとつ波に乗れないというか、調とかといった話だけでなく、ストーリーの希薄さが絶唱でカバーできるようなところがあまりないんですね。4幕物で最後の幕はあっという間に終わる。別に悪くありませんけど、第4幕は一回だけ盛り上がって終わる。ドラマが希薄で最後に相応に首ちょん切られ終わる。看守に金を渡して自分を殺させる仕様を作る。なんともやりきれない結末ではあります。
そんななか、第2幕のアンドレアとマッダレーナの実際の出会い。あすこはいいですね。私はオペラのああゆうところに惚れっちまってるんです。現実的ではありませんけど、夢でいいじゃないですか。
昔、オペラさえあれば、オペラの夢を観つづけていれれば、あとは何もいらないという時代がありました。オペラの中でトラヴィアータのファイナルのように、現実の体と魂がかい離して空中浮遊して終わる。あのような、ま、どちらかというと、むなしいものではありますけれど、そのような夢を観つづけてかい離できれば、あとは何もいらない、この安眠をいつまでもむさぼり続けて死んでいきたいと思ったものですよ。今日はなにかそのようなことを思いださせてくれました。
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シャスランという指揮者は初めて聴きました。もしかしてアンドレア・シェニエのオーソリティーなのかな。最終幕の結尾における音の鳴らしかた、ふきあげるようなブラスの鳴り、断頭台の露と消えた二人がこのオペラのあとに結ばれていくような様がまるで眼前に浮かぶような強烈にして悲しくもハッピーな、そのようなことを思い起こさせずにはおかないような見事なエンディングでした。そこは一番最後のところなんですけれど、第1幕からオーケストラの鳴りが非常に良く、今日の東フィルはどちらかというと絶好調。10月の新国立での公演の伴奏とはまるで人が(オケが)替わったかのような見事さでした。これはひとえに指揮者に負うところが大きいと思います。テンポをやや早めにとり、細部の泥炭をとらない非常に明確な棒と見受けました。このような見事な棒であればこそ、歌い手も浮かばれる。
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今日のメインキャスト3人は全部よかった。
マッダレーナ役のファンティーニはオペラ肝っ玉がすわっていて、そのようなことはつい最近歌ったヴェルレクでも明らかであって、その才をこの日は図らずも証明することになりました。彼女は中低音域も不明確にならず伸びがある。明快で劇的、圧倒的な歌唱で役になりきる。タイトルロールの上をいっている。
そのタイトルロールのアガフォノフは、バリバリのテノールというわけでもなく、どちらかというと少しだみ声っぽいところもある。伴奏が消え地で行くところは安定さに欠くところがあった。でもおしなべてよく、一面、ファンティーニにつられて才以上の才が出た部分もあるのではないか。
もうひとり、ジェラール役のバリトンのガザーレ、この人よかったですね。どっちがタイトルロールなのかわからなくなる局面もあったりして完全にくってました。
声が聴きとりやすく、この人もファンティーニと同じく中高低が万遍なく出ているのでそうなんでしょうが、安定感と聴いていて安心感がある。
ジェラールとマッダレーナのドラマ性、劇的なもの、彼女を奪い切れない、なにか人間の目覚める理性、そして悲しさ、見事であったと思います。
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マルローのプロダクションは赤と白を明確にしたもの。舞台は回るが、回り舞台というよりも、一段引いているので、前面とのかい離が少し気になる。つまり回り舞台のそれぞれのシチュエーションのなかでの演技とはなっていない個所が多数あり、舞台を回して舞台をつくるというよりも、景色的な背景が都度変化していくといった傾向が強い。ただ、幕間を緞帳とはせず、斜めに切れたった壁が、なにかギロチン的鋭さを暗示しているようでもあり、とにかく舞台に丸みを帯びたところが一切なく、鋭角的な角度を伴ったものだらけで、この物騒なストーリーにあっていると思いました。
おわり
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注1:
この時点で、1994年聴いたコンサート観たオペラはまだアップしてませんので、データだけ書いておきます。
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藤原歌劇団創立60周年記念公演
1994年7月2日(土)、5日(火)、8日(金)
6:30pm東京文化会館
ジュゼッペ・ジャコミーニ
ジョヴァンナ・カゾッラ
パオロ・ガヴァネッリ
菊池彦典 指揮 東フィル
(7/8河童潜入)
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1116- フランツ・ウェルザー=メスト クリーヴランド管弦楽団 めくれるような美しさのブルックナー7番2010.11.17

2010-11-19 15:53:16 | コンサート

 

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2010年11月17日(水) 7:00pm  サントリーホール

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲

武満徹 夢窓

ブルックナー 交響曲第7番

フランツ・ウェルザー=メスト 指揮    クリーヴランド管弦楽団


この前聴いたミスターSのブルックナーとはまるっきり違う。
アプローチが違っているといった話ではなくて、美観、がまるで違ってた。美しすぎる演奏。
曲は第1楽章から始まりますけれど、第3楽章のスケルツォ冒頭、弦の回転に続きトランペットのソロが短くあるが、このピアニシモの品の良さ、滑らかさ、柔らかさ、これが、セル時代から続く圧倒的室内楽的美しさの一つの証左である。アメリカのビック5のなかで他とは全く異なる抑制の美学が綿々と生き続けている。
第1楽章と第2楽章は、それこそ、もう、ほぼ、室内楽状態。ブラスをほぼ一列に広げているのも室内楽的響きの追及と納得できる。弦楽四重奏のスタイルの相似的拡大の極限をみるようだ。その意味では指揮者ともども同じスタイルを指向していて美しさを求める方向感が一緒だ。
コントラバスが右に9挺並ぶが、強じんさよりも柔らかさ。全体の中にあって決してバランスを崩さない。
全体に、この第1,2楽章においてビック4とはあきらかに音量が1レベル控えめ。自分は今までなんとうるさい音を聴いてきたのだろうか。奏者は耳をそばだてて同一セクションの他の奏者の音を聴く。一緒になることにより、ひとつとなった音は他のセクションと真のアンサンブルが可能となった。室内楽的美しさの形成。
シカゴ響みたいにストリングがビーンとまるで強じんな馬のような音は決して出てこない。飽くまでも柔らかく、美しく、音そのものの美しさを求める。たとえ巨大オーケストラという楽器であっても。
セルが形式の美学を追求するために作った楽器が、結果、音楽の持つ第一義的な意味合いでの美の要素を持つに至った。まことに美しい響きが今の今でも光り輝く。

今日の演奏のタイミングはざっとこんな感じ。
Ⅰ:19分
Ⅱ:22分
Ⅲ:8分
Ⅳ:12分

ミスターSのそれよりも一回り早い。向きが違うので比べてもほとんど意味がないだろうね。


ダニエル・マジェスケも、焼鳥を一緒に食べたダイアン・マザーもこのステージにはもちろん、いない。そして音も変化した。しかし、フィラデルフィア管のようになにか地球のマグマの中心の一点に凝縮しようとするサウンドとは明らかに異なる、ニューヨーク・フィルのような拡散系の響きでもない、フラットで透徹したそれでいて決して分散することのない明瞭なクリーヴランドの抑制の響き。このオケは日本でアメリカで何度も聴いたが、セル後のマゼールは音を開放したと言われたものだが、むしろ柔らかになったのだ、といった印象が個人的には強い。ドホナーニは、あのラインゴールドのクリスタルなサウンドを作り上げた。いや、こちらが開放したのかもしれない。まるでヨーロッパの抑制された響きの開放、そのような素晴らしさのラインの黄金。
メストとクリーヴランドの組み合わせは年数こそ長くなったがどのくらいの頻度で振っているのだろうか。メストはウィーン国立歌劇場の音楽監督となり、顔もかなり気合が入ってきているとみた。しかしウィーンでの責務が増えれば、クリーヴランドでの回数は減ることはあっても増えることはないだろうね。このオーケストラはメストの作り出す音楽に違和感はなく、共感の棒で、しっかりついていっている。合うんだ。きっと。


それでメストは結局、形式感の出来上がった曲に対してはそれを焦点としていない。むしろいかに美しく響かせるか、美しさを求めるか、そのようなことに力点を置いているように見える。
とにかく音がよく流れる。第1楽章の第2主題を第1主題より早めにとり、いたるとろこにあるパウゼもなし。まるで第1,2,3主題が一個の連関した提示部的まとまりとしているかのような流し方だ。滑らかなチェンバー・ミュージックはあっという間に展開部に入る。静寂な音楽は音と音がつながりを失うことなく緊密に連携しながら彫を極度に深くすることはなく、むしろフラットな感じさえするのだが、日常、濃い大音響の爆演を聴いている耳には慣れるまで時間がかかるかもしれない、いや、本来の音を思い出してほしい。音楽の響きがクリーヴランドは一つの個体として昔から身についている。伝統とは個体の連続性。個体になれるオーケストラはそうは、ない。自分個人を殺して一つの個体が出来る。遠い昔にセルが作り上げた音楽が今もこうやって共鳴している。この第1楽章の展開部の静けさにはうたれた。静かであればこそしみいる。蝉の声と同じなわけです。
従って、再現部も流麗に美しく流れ、あっと言う間にこの楽章は最後の響きが地響きをたてることもなく昇天する。あっという間だ。

第2楽章においてもメストの求めるものは同じ。完全なものが既にあって、あとはどう響かせるかに注意を払う。飽くまでも隙間の無い、流れるような美しいサウンドは、パウゼ的禅問答が入り込む余地がない。
左奥にホルンとワーグナーチューバが並び、トロンボーンの横に日本人チューバが一個。この楽章が始まる前にチューバは歩き出し、ワーグナーチューバの後ろに移動。何気ないことかもしれないが、アンサンブル重視というより、室内楽的ひらめきといった方がより近いと思う。ひとつの個体としてのセクション群を指向している。
2個の主題が流れ、なだらかな丘陵となり最大音も爆発することなく、もとの丘陵に戻り、肩の力が完全に抜けたチューバ群がワーグナーを葬送する。あっさりしたものだが、室内楽的限界の長さとはこのようなものではないのだろうかとふと思わせてくれる。

第3楽章については冒頭に書いたとおり抑制のトランペットがこのオーケストラの特性をものの見事にあらわしている。
スケルツォ後半からようやく少し全開となったブラスセクションの響きはアメリカ的ぶっきらぼうになったりするが、これはこれで。
なんというか腰のおれない、芯が上方にしなったようなブラスの全開音は、やっぱりアメリカ的と言うしかない。歌の前に楽譜がある、そんな感じかな。
第4楽章もブラスは同じ傾向が続くが、メストの棒は提示部展開部再現部あまり見境なく流れていく。これはこれでいいが、もう少し深みが欲しいという人もいるに違いない。アメリカ的にはこれぐらいが中庸の節度かもしれない。
コーダはゆっくりめ。そのテンポで締めくくる。息の長さと、弦の上に展開するウィンドの美しさは慎ましやかでさえある。


前半一曲目の牧神ですが、意識して縦の線をぼかしているように思えました。柔らかさを前面に出し、また、ピアノ(弱音)にも奥行き感があり、比較的明るいサウンドも相まって、滴り落ちるしずくのような響きが印象的。
武満の曲は、滴ではなく広がる波紋のような印象だが、例によってよくわからないのでスキップ。個人的には武満ではなく、もう一曲ドビュッシーをやってもらいたかった。遊戯、とか。

ということで若干空席がありましたけれど、見事なブルックナーにうたれた一夜となりました。
アンコールはありませんでした。
おわり


1115- ブーイングにブーイング?フライング・ブーイング?

2010-11-17 16:13:53 | 日記・エッセイ・コラム


いきなり結論っぽいですが、
ブーイングの特色は、
「わからない人はブーイングはしない。
わかっていてもブーイングするとは限らない。」
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ちょっとあまりうまく思いだせないのですが、たしか、今年の春の新国立オペラ・パレスで神々の黄昏が上演されたとき、ブーイングが割と多く、それに対しブーイングする連中がいたという現象があったはずです。
キース・ウオーナーの好評であったリプロダクションで、なにをいまさらブーイング?エッティンガーの棒へのブーならちょっとタイミング違うなぁ、みたいな感じで眺めてましたけど。
989- 神々の黄昏
990- 神々の黄昏
992- 神々の黄昏
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何にブーイングしていたのかわからない聴衆も多くいたのは事実で、ブログなどでも、なにあれ?みたいなものは結構あったと思います。
ブーイングにはブーイングの制裁を!
おくての日本人もやるね。やるときは!
みたいな感じ。
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それで、この前ブログにフライング・ブラボー、フライング・クラップのことを書いたのですが、ブーイングをどう思うか、という人がいましたので、ちょっと書いてみますね。とりたてて思うところはありませんけど。(笑)
フライングとブーイングは関係ありませんが、マイナス思考の意思表示というわけでもないので、そこらへんつながりで。もちろん、外国ではフライング・ブーイングありますよ。フライング・ブラボーの南極と北極みたいで、どっちもサムイだけ。
.

トップクラスの来日オーケストラ公演のチケット料金は、某サントリーホールの価格つり上げオペレーションのたまもののおかげで、400円のコーヒーも含め、また、アルコールも外国並みにガブ飲み出来るような悪しき文化まで取り込んでくれたおかげで、日本国中流行り病の様相を呈してしまっている現状のなか、最高ランク席がだいたい30,000円前後。
この最高ランクチケットを買った人たちが、来日オケがいくら、ダ演、したとしてもブーイングすると思いますか?
ダ演しないからトップクラスと言うんだよ、といわれればそれまでなんですけど、
30,000円だしたら、どんな演奏でも、今日の演奏は最近まれにみる名演奏でその場所と時間を共有していたんだエヘン、ぐらいがせきのやまでしょう。普通は。
60,000円のトスカでタイトルロールが不出来でも、超絶的名唱歌になっちまう。でないと60,000円が浮かばれない。
この人たち、決してブーイングしません。
ちょっと逆説的ですけど、もともとそのような種族しかそのような席を買えない、ということもあるかもしれません。
もし、別の種族で、1年貯金して最高席をゲット。ダ演だったらブーイングする?
.
いずれにしても、表面(おもてづら)的には、最高ランクの席からブーイングなど出たためしがない、少なくとも個人的には聞いた記憶がない。
ブーイングは天井桟敷からしかとんでこないんです。だからルーチン・ワークの日常的ゴアーズの観点が大切というのが普段からの主張ですがこれは横に置いて。
ちょっとややこしいですが、ブラボー・コールはいたるところのエリアから聞こえますが、フライング・ブラボーは決まって奥から。これはこれでブラボー屋などの存在もあるのでこれもちょっと横に置いて。
ただのブーイングとフライング・ブーイングは、とりあえず同じ扱いにしましょう。
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1. ブラボー・コール:全席から
2. フライング・ブラボー:天井桟敷、奥から
3. ブーイング:天井桟敷、奥から
4. フライング・ブーイング:天井桟敷、奥から
.
なんだか、仕事で、箇条書きしてこい、という能なし上司みたいになっちまいましたが、まぁ、こんな感じだと思います。
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それで、日本人はあまりブーイングはしない、というのはありますけれど、最近はそうでもなくて、結構意思表示しますよ。オペラでは顕著ですね。つい先月も初台の上演であまりもひどいオケに、オケ替えろ、の声援がとんでました。まぁ、これも奥の席からではありますけれど。個人的にはオペラ・ゴアーズが育つような環境が出来てきて、これも日常化ルーチン・ワーク化したおかげだな、と内心喜びましたけど。
また、日本人はあまりブーイングはしない、という人の中に、現場に聴きに行くこともなくそのようなことを言う人がいる。鮪を喰らってからものを言えということになります。
むろんメディアでは、そんな小五月蠅くて騒々しいもんは商品にしないので間接媒体を通した耳ダンボ、目ダンボでは、話の出元の根拠を明確にしておく必要があります。(例えばバイロイト音楽祭の中継など、かなりリアリスティックで、その放送を30年間毎年聴いているんだ、といったことならいいですが。残念ながら日本のイベントではありませんね。)
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ただやっぱり、
日本人には、悪いものも、けなさない、というDNAがあると思うんです。
つまり、鮪には捨てる部位はないと。
ここまで言っちまうと短絡的すぎるかな。
だから音楽芸術的反応は停滞しているように見え、料理の方は緻密になる。と換言してもいい。どっちも同じことだと思える。
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音楽芸術は許容し過ぎで、悪いもの、不出来なものでも、なにかそこにあるはずだ、光るものがあった、学べるはずだ、ということになっちまう。流行りすたり、流行遅れ、二番煎じ、新機軸が無い、といった批評的観点でそれにくいこんでいけない。
新しいもの作れというのと何か学べる光があるはずだというのは別に背反するわけではないが、後者に力点があるのが日本人のDNAのような気がしますね。
その意味では、来日オケだけでなく国内オケ公演でも現象は同じというのもわかります。
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ヨーロッパだと、現代音楽、オペラ問わず、実験工房的確信犯的な曲、提供できる場所、イベント、いろいろとそろっている国もありますね。でもこれは文化が根付いているというよりも、当の芸術の発祥の地なわけですので、包括的に、単なる自国文化の変遷の一瞬にしかすぎません。だからその耳目で良作駄作ふるい落としていくのが自然の成り行き。
でも日本、クラシック音楽は輸入品だから日本人の接する態度は許容的になっちまう、というのもちょっと違う。日本人が受け入れて消化し同じように曲を作るようになってからの作品に対してはそれなりに批評的観点での物言いもできる。言っておきますが、ブーイングというのは、また脳なし上司の指示通り箇条書きすると、
【ブーイングの対象】
1. 作品に対するもの
2. 演奏に対するもの
3. プロダクションに対するもの(オペラ)
.
実験工房的ブーイングは1と3です。2の演奏がいくらうまくても駄目なものは駄目なんです。日本では、このての意思表示が出来ないけれど、これは上記のような文化、歴史が背景にある。
.
かたや日本、悪いなりにどこかいいところがあるはずだ、学べるはずだ、となっちまう。学べるというのは誤解してはいけませんが、反面教師的な学びではありません。飽くまでも対象の中身において、ということです。また、日本では1と3に接する機会がないではないか、という一面もあります。
結局、日本ではブーイングしてもしなくてもそれを起点とした波がどこにも立たない。自分の内面にさえ立たない。のではないか。批評は出来るが批判は出来ない。批判のDNAがない。換言、悪いものもけなさないDNAがある。その自己表現。
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とりとめのない文章になっちまいました。
あと、
音楽の特殊性で言うと、音になってみないと分からないから、音になったときに初めて意思表示(ブーイング)をする。美術館で絵を見てブーイングしませんね。
また、拍手をしない。立ちあがって帰る。中座してそのまま帰る。などの意思表示もあります。ブーイングみたいに音になりませんが、ステージからはよく見えます。指揮者だけは振り向かなければその姿、行動が見えないという違いはありますけど。
いろんな意思表示の方法があるのでより多面的な視点が必要だと思います。
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それから、
ブーイングをして目立つのが恥ずかしい、見られるのが恥ずかしい、勇気がない、といった理由であまりしないのではないか。というのもあるかと思いますが、それは表層面においてはブラボー・コールにおいても同じですので、このことに関しては、演奏会どうのこうのとは別に、音楽に限らずもっと一般的な見地で考える必要がありますね。
ブラボーは声高に発声できるが、ブーイングは声高には出来ないのは何故か、多勢に無勢?
結局堂々巡りかな。
おわり

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1114‐ 竜土町 きらく

2010-11-16 23:10:43 | グルメ


あれ、クラキチさん、また夜更かしですか。


竜土町 きらく


いや夜更かしというより、夜中スタートが最近は多い。


この日は22時スタートでしたので比較的早めで、


平穏無事。


竜土町というとわかりにくいですが、結局、


ミッドタウンと国立新美術館の間あたりになりますね。


星条旗通りのGSからちょっと先の小路をはいったあたりです。


その昔は、星条旗通りにこそ少しはお店らしきところはありましたけれど、


この小路までは足をのばしたことはめったになかった。



四半世紀前?


この星条旗通りにショーをやっている店があって、


そこは結構行きました。


ショーといっても他愛のないショーで半分ジョークみたいな感じでしたけれど、


たしかにその当時から日本人の踊り子ではなかったなぁ。


それで、たしか、梅雨時と記憶するが、大雨が降り、


この地階のお店が水浸しになって一時クローズ。


結局、より防衛庁に近い方の大八ラーメンの通り


通称、お河童通りで遊ぶようになったわけなんですよ。


今は、結構変わってしまいましたけれど、


通りそのものは、昔通りですわ。



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