河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1421-メインディッシュふた皿、チャイ4、ハルサイ、ダニエル・ハーディング、新日フィル、2012.11.28

2012-11-29 22:25:00 | インポート

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2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2012年11月28日(水)7:15pm
サントリーホール
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チャイコフスキー 交響曲第4番
ストラヴィンスキー 春の祭典
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ダニエル・ハーディング 指揮
新日本フィルハーモニー管弦楽団
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2曲ともに普通ならメインディッシュ演目。おなかいっぱいになりました。
チャイ4は力演だが、余裕感とか浮遊感みたいなものがなくて、目いっぱいという感じ。速いパッセージでの歌がない。
ハルサイもちょっと埃っぽかったですが、音色変化、テンポの対比、極端なダイナミックレンジ幅、いろいろと楽しめました。こちら、こだわりディテールとは少し異なる表現があったように思います。
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前半のチャイ4は例によってこの指揮者の「今の」特色であるところの細部へのこだわりが見える。ソナタ形式で言うと第2主題の細部にかなり光をあてる。これ自体別に悪い話ではないのだが、形式という構築物としてとらえようとしていないのであればそれはそれでいいと思う。どちらにしても例えば第2主題への経過句とか、展開部への入り、などにもこだわりがあるようでそうゆうところは建物的にはどうもバランスが良くない。それからこの曲は4楽章形式ですからこの全体感も保ってほしいところはある。第4楽章の快速はやっているほうは特に感じていないと思うのだが、全体のうちの第4楽章ということですから、テンポとしては全体バランスを考えると少し唐突感がある。コーダ出だしのホルンから徐々に爆音になっていくあたりでアブノーマルな駆り立てがありましたけれど、第1楽章の冒頭主題からのつながりとか脈絡が見えるような内容の演奏であればなおよかったと思います。抽象的ですが、音楽が弧を描かけばさらによくなる。
それからオーケストラは大変に素晴らしいものの、超一流どころのオケだと32音符の連続でも歌がある、余裕感とか音の浮遊感みたいなサウンドを聴くことができるのですが、そこには達していないと思いました。いっぱいいっぱいかどうかは別にしてもちょっと気張り過ぎ。それとブラスは横広がりをやめて奥行き広がりにすれば、そろって突き刺さる感じが出てきていいと思います。無理やり気張らなくても突き刺す感じがでてきて鋭さが増すと思います。むかしのソ連邦やロシアの配置が懐かしいですね。古典的編成で鳴りまくるのは彼らの力とはいえ、配置の妙もあったように思い起こしました。
音圧系は好きですので、最終的には楽しめました。
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後半はハルサイです。こちらのほうがチャイ4より揃えやすいように聴こえてきました。リズムは難しいのでしょうけど、タタキつけるオタマジャクシはうまくいく。
それからハルサイ第2部は弱音系の音楽がしばし続くのですけれど、ディテールへのこだわりという側面だけで聴けば、ちょっとちがうかな、と感じました。
つまり前半のチャイ4とかの細部こだわりとは同じものではない、と思えたのです。例えば音色変化を念頭に単色、二色、・・、ハーモニー色、アンサンブル色、これらの違いを楽しませる。また極度なピアニシモとフォルテッシモを表現し多彩な対比をつけて楽しませる。そのようなことと同じように、目くるめくテンポ変化、アップテンポのところは通常より駆り立て、スローなところはハイスピードのところと対比が出来るような緩め速度とする。このような全体的にいろいろと多彩なバリエーションのうちの一つであったと思うのです。このフィーリング、ハルサイは対比の塊であった。それに気がつき、楽しまさせていただきました。伸びたり縮んだり蛇腹のような表現であっというまの33分(ぐらい)でしたね。楽しかったですよ。
おわり


1418- 今年もそろそろフルトヴェングラーの命日、nyp全プログラム、交響曲第1番日本初演など

2012-11-24 22:38:13 | 日記・エッセイ・コラム

この11月末、今年もフルトヴェングラーの命日がやってきました。1954年11月30日に68歳で亡くなっておりますので58年経ちました。いまどき68歳というと指揮者では脂がのりきっている年頃。あと20年ぐらい活躍しても不思議ではない。
でも、あの棒の振り具合だとこの年ぐらいが限界のような気もします。あまりにも過激な振り姿。
ワルター、トスカニーニ、クレンペラー等の生年没年の中にすっぽりと収まってしまう短い生涯ではありました。濃く短く。
このヒート感が人気を保っている一つの理由かもしれません。また、あの律動芸術の奥義については彼自身が書いた本をたくさん読むのがいいと思います。浅学の知恵ではない哲学の世界をさまよう棒。
個人的には、日本フルトヴェングラー協会会員を、10年を4度重ねてしまいましたが、昔の熱はどこへやら、昨今は東京フルトヴェングラー研究会の熱い動きに恐れ入ります。CD頒布などとはべつに、演奏会、読本、フォーラム、フェスト等、野口氏の活躍には目をみはるものがあります。
商用の音源発掘はほぼ終わりつくして久しいですが、今度は音質向上と称し手を変え品を変え、これはこれで悪い話ではないとは思います。
一般に、音源に関しては昔のセッション録音中心の時代から移り変わり、バブル期以降はライブ音源の掘り起しが流行り、その流れのまま音質向上と称し再発連発。新譜はほぼライブ音源、掘り起しは未発掘のものと音質向上再発盤。経費節減もありだいたいこの流れできている。
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偉大なものは単純であると運命の動機が鳴り、濃くもぶ厚い2,3楽章を垣間見てフィナーレ勝利のファンファーレが高らかになり、コーダへ滑り込む、このコーダは高技術集団ベルリン・フィルの保有技術を越えてしまっていてフルトヴェングラーの指揮についていけてない、圧倒的な解釈なわけです。そこまでして何を表現しなければならなかったのか。これはもちろん1943年戦中の怒髪天を衝くトンデモ演奏の話ですけれど、戦争中という尋常でない状況があって初めてできた演奏であって、それならば政治と音楽とは別物と言ったフルトヴェングラーの言い分は矛盾するのではないのかと、かの大木正興氏は昔言いました。では戦後のこの演奏、シュマ1の圧倒的奇天烈さはどう説明すればいいのでしょうか。
ここは気を静めて、全く別の側面、例えば独特な弦のスタッカートなど絶妙な表現に耳を傾けてみるのも一つの手かと思います。
政治と音楽については、来年の2月に再上演されるテイキングサイド(注1)を楽しみにしましょう。
それまでに彼の本(フルトヴェングラー執筆のもの)は読めるだけ読んでおきましょう。その深さに驚きます。私も再読しておきます。
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書き出すときりがありませんので、ここまでとします。
それでは、これも最終的には政治がらみとなりその後続かなかったものですが、恒例となったニューヨーク・フィルハーモニックへの登場の全プログラムをメモしてありますのでリンクをご覧ください。フルトヴェングラーの登場は3シーズンのみです。
1924-1925シーズン
1925-1926シーズン
1926-1927シーズン
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それから、これも以前書いたものですが、フルトヴェングラー作曲の交響曲第1番の日本初演の演奏会の模様をリンクしておきます。
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フルトヴェングラー作曲 交響曲第1番 日本初演
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おわり
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注1
これは演劇です。
日本国内では、来年の公演は再演です。初演は「どちらの側に立つか」という題で国内初演済み。
そのかなり前の1995年にイギリスで上演済み。その際の日本の新聞評をリンクしておきます。
1995年10月12日の朝日新聞より
ここ ←写真をクリックすれば拡大記事を読めます。
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1417- ヴォツェック、エッカ・ペッカ・サロネン、フィルハーモニア、ニューヨーク公演、エイヴリー・フィッシャー・ホール2012.11.19

2012-11-23 20:33:49 | コンサート・オペラ

Fk

フランシス、キーンリサイド

 

エッカ・ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団
ニューヨーク公演
エイヴリー・フィッシャー・ホール

2012.11.18 マーラー 交響曲第9番

2012.11.19 ベルク ヴォツェック(コンサート・スタイル)
 サイモン・キーンリサイド、ヴォツェック
 アンジェラ・デノケ、マリー
ヒューバート・フランシス、鼓手長
 他


来年2月に来日するサロネンのプログラムにはないものだと思いますので、この週末と月曜日にあったサロネンのニューヨーク公演よりちょっと書いておきます。
NYTのレビューはヴォツッェクのものです。
アウトラインだけメモしておきますので、全文訳はお任せします。

この公演はニューヨーク・フィルハーモニックの本拠地エイヴリー・フィッシャー・ホールでおこなわれたもの。オペラハウスはお隣ですので、このホールではコンサートスタイルの公演です。Opera in concertということになります。
まず、オペラは非常にドラマティックで直感的、音源としてカール・ベームとフィッシャー・ディースカウのものや、レヴァインの昨年のメト上演、等々紹介しております。
そしてサロネンの棒については、この指揮者兼作曲家が作曲したような素晴らしい内容と紹介しております。
演奏は約90分で幕間に相当する部分は短いブレークのみ。
歌は、キーンリサイドほめまくりで、彼がいたからほかのみんなも素晴らしかったという話になります。2008年2009年と場数を踏んでいるので問題なし。
デノケ、フランシスも概ね好評。
演奏中、退場した聴衆もいたけれど全体反応としてはものすごいオベーション。
オーケストラのフィルハーモニア管はマーラーの9番では今一つでほかのオケの方が上ということもあろう。でもこのヴォツッェクは素晴らしかった。

ところでマーラーの9番の公演は、一か月におよぶリンカンセンターの第3回ホワイト・ライト・フェスティバルの最終公演との事。演奏会にタイトルがついているようで、
On Departing
日本でも副題付きの演奏会があるが、同じコンセプトなのだろうか。個人的にはわずらわしいだけなんだが、どうなんだろう。


November 20, 2012
Haunted Soldier, Demeaned Anew
By ANTHONY TOMMASINI
The performance of Berg’s “Wozzeck” at Avery Fisher Hall on Monday night was called an opera in concert. But the impressive cast, headed by the baritone Simon Keenlyside in the title role, and the conductor Esa-Pekka Salonen, who drew an intense, harrowing and, finally, deeply poignant performance of this landmark work from the Philharmonia Orchestra, were not about to let the confines of the concert format inhibit them. This was as dramatically visceral an experience of Berg’s masterpiece, completed in 1922, as you will have in any opera house.
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That it took place the day after Mr. Salonen led the Philharmonia in an organic and pulsing account of Mahler’s Ninth Symphony at the hall suggests that things are going very well for this important London orchestra since Mr. Salonen became its principal conductor and artistic adviser in 2008. The Mahler program on Sunday afternoon, titled “On Departing,” was a fitting conclusion to Lincoln Center’s third White Light Festival, the monthlong series of programs exploring spiritual dimensions in music.
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In the period following the 1925 premiere of “Wozzeck” in Berlin, its champions tended to treat Berg’s pungently chromatic and lushly atonal music as an extension of the late-Romantic language of Wagner and Mahler, as in the conductor Karl Bohm’s classic 1965 recording, with Dietrich Fischer-Dieskau as Wozzeck.
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James Levine, one of the work’s finest interpreters, who last conducted “Wozzeck” at the Metropolitan Opera in 2011 (and is scheduled to lead it next season), also captures the Wagnerian resonances of the music while bringing lucid textures and disciplined execution to his performances, like the expert interpreter of contemporary music he is.
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Mr. Salonen’s approach emphasized the score’s modernism while still bringing out its remnants of late-Romantic yearning and gnashing Expressionist power. Mr. Salonen thinks of himself, rightly, as a composer who conducts. He led “Wozzeck” with such purpose, direction and precision that you might have thought he had composed it.
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This three-act opera of roughly 90 minutes (played here, as is common, with only brief breaks between acts) flowed with uncommon urgency, a miracle of compact dramatic storytelling and exploration of the unconscious. The inspired Philharmonia players were with Mr. Salonen all the way.
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Wozzeck, an impoverished soldier living in a garrison town with his common-law wife and illegitimate son, is becoming a signature role for Mr. Keenlyside, who was fresh from his triumph as Prospero in Thomas Ades’s opera “The Tempest” at the Met.
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One of the most charismatic actors in opera, Mr. Keenlyside was a haunted Wozzeck in a daringly modern production at the Paris National Opera in 2008. If Monday night’s performance had the feel of a lived-in staging, that was probably because Mr. Keenlyside, along with several members of this cast, had taken part in a semi-staged presentation, with costumes and videos, that Mr. Salonen conducted with the Philharmonia at the Royal Festival Hall in London in 2009.
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Mr. Keenlyside’s essentially lyric baritone voice may be a little light for the music. At times on Monday, during anguished outbursts, he sounded as if he were pushing his sound. But he brought intense expressivity to every line and captured the tormented character’s volatile mood swings.
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From the moment he appeared in the opening scene, when Wozzeck shaves the Captain for whom he performs menial tasks, Mr. Keenlyside embodied the character. Obviously, in this concert performance he did not actually shave the Captain (the tenor Peter Hoare). But he brushed off the Captain’s jacket and straightened his hair, sometimes tottering on his feet as he nervously used one leg to scratch an itch on the other.
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As the moralizing Captain, Mr. Hoare lectured Wozzeck for living in an unwed state with Marie, and delivered lines in a haughty, bright tenor. Mr. Keenlyside just took it, looking the essence of a beaten-down man.
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The soprano Angela Denoke, who sang Marie in that 2008 Paris production, gave a haunting, vulnerable portrayal. Her voice is sizable, focused and richly colored. Among other standouts in the excellent cast were the bright tenor Hubert Francis as the preening, self-assured Drum Major; the lyric tenor Joshua Ellicott as the decent Andres, Wozzeck’s only friend; and the husky-voiced bass Tijl Faveyts as the doctor who pays Wozzeck to be a guinea pig in quack medical experiments. The always strong Westminster Symphonic Choir took part in the short but crucial choral scenes.
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The ovation was tremendous. During earlier breaks between acts, a number of people in the audience left the hall. In a strange way, I am almost glad that “Wozzeck” still drives away some listeners. This great work should never become too palatable.
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The Philharmonia may not be all Mahler buffs’ idea of an ideal orchestra for their hero’s symphonies. Other ensembles might have brought more sheer richness and depth and glowing string sound to Mahler’s 80-minute Ninth Symphony.
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But, as with “Wozzeck,” Mr. Salonen conducted the score like an insightful composer. The pacing and shape, the way Mahler develops the musical materials ? all this came through with freshness and clarity. And in the sublime final Adagio, especially the hushed moments of the ending, when the music seems unwilling to trail off, the performance achieved Mahlerian transcendence.
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This score was an obvious candidate for a festival exploring spiritual realms in music. But “Wozzeck” could also have been included. Any work that penetrates the human condition with such wrenching honesty fits my definition of spiritual.
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1416- シンフォニア・ドメスティカ、エド・デ・ワールト、N響2012.11.21

2012-11-23 13:00:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月21日(水)7:00pm
サントリーホール
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メンデルスゾーン フィンガルの洞窟、序曲
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ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番
 ヴァイオリン、ジャニーヌ・ヤンセン
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シュトラウス 家庭交響曲
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エド・デ・ワールト 指揮 NHK交響楽団
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家庭交響曲は後半しだいに、なんだかシャルル・デュトワでも聴いている感じになってきた。音色変化がきらびやかで、ドラマチックにエキサイトしていく。
ドンキホーテと同じく終わりそうで終わらない曲で、標題音楽たる所以だが、後半20分を残して次第に駆り立てていき、プレイヤーもN響らしからぬというと語弊があるが、能面演奏ではなかった。8本直列に並んだホルンのトップ福川氏は、同インストゥルメントにリーダーシップを発揮しているのは明らかで、こうゆう姿が毎度N響には必要だと思った。必須ポイントになっているウィンドはみんなオーボエの茂木氏と同じぐらいのけぞってもいいのではないか、これに揺れ動きが加わればさらにいうことなし。音は揺れていいと思いますよ。聴こえたり聴こえなかったり曲想の陰影とマッチしていればそれはそれでいいことだと思いますしね。
前週のブルックナーの8番は選曲ミスでした。
例えば、フィリップ・グラスのコヤニスカッティとか、浜辺のアインシュタイン(抜粋)とかやれば、もともと興味のない人たちや、聴きに来たけど中座したい人たちは去るので、結果的にエキスな聴衆のみが残り音楽的完成度や満足度が高まる。放送オケですから自由がきかないところもあるとは思いますけど企画にリスクはつきものでしょ。
名ばかりの音楽監督制度はあってもなくてもあまり変わり映えしませんでしたし、カリスマ指揮者をN響に1か月常駐させてテーマを設けて演奏しまくる。拠点は東京のみでいいと思います。とにかくN響にはなにかターニングポイント的なものが欲しいですね。危機意識がないというか、持つ必要がないので、リスクあることをやる必要もない。というところか。
放送オケとして8番に意味がなかったとは申しませんが、出来がよくなかったのは、たまたま以上のものがありましたから。
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それでこの家庭交響曲の演奏は、N響特有の重さや四角四面さがありましたけれど、持ち味ですから意識的にわざわざ崩す必要もありません。やつさない演奏が持ち味ですから、そういったなかで推進性や馬力が見えてきたのはいい事だったと思います。持ち味を生かしつつ多彩な表現が出来ればいうことなしですね。
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前半に現われたヤンセンは長身の美貌の持ち主で才色兼備とはいかなかった。音が大きくなくまた特にこれといったところもない。本当はヴァイオリンをやめたいのではないかと下衆の勘繰り。定例になっているアンコールもなし。無伴奏で弾く風情でもない。
一曲目のフィンガルは殊の外小さい編成で今一つ波風の立たないものであった。
おわり


1415- 音楽の魂、マイケル・ティルソン・トーマス、サンフランシスコ響2012.11.20

2012-11-21 23:10:00 | インポート

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2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月20日(火)7:00pm
東京文化会館
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ジョン・アダムズ short ride in a fast machine
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プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番
 ピアノ、ユジャ・ワン
(アンコール)
シューベルト(リスト編)糸を紡ぐグレートヒェン
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ラフマニノフ 交響曲第2番
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(アンコール)
ビゼー アルルの女よりファランドール
コープランド ロデオより
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マイケル・ティルソン・トーマス指揮

サンフランシスコ交響楽団
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都民劇場主催のプログラム冊子、経費節減の典型のような内容には毎度恐れ入る。100歩譲ります。
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この日の白眉はラフマニノフです。バックステージ・ストーリーはあまり好みとするところではないが、MTTが体調万全でないのは見た目、明白。
第2楽章の最終バーのところで、左手で右腕を持ち上げていてやっぱり変が確信に変わり、この楽章終わってコップ水を一杯飲み、第3楽章を振り終え、がまんできずといったところか、第4楽章はほぼ左手のみで振りとおした。熱もあった様な話で、厳しいスケジュールの中、誠心誠意、振り尽したのだ、この音楽の使徒は!
そして予定されているとはいえアンコールを一曲、さらに団員の譜面台を見て、次は、ああこれか、と、二曲目のロデオに突進。このロデオ素晴らしかった。スピーカーからは決して出てこないめくるめくリズムの饗宴。
長丁場のラフマニノフをやり終えて、あの体調でさらに2曲も振る。演奏の内容とその真摯な姿勢に、その場で自然に頭がさがった。(個人的に敬意を表したいと思います)
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そのラフマニノフの2番。
20分10分16分15分
一時間越えで、コンプリート・ヴァージョンだと思います。
演奏内容は、大熱演とか力演といった言葉にあてはまるものではない。
めんめんと流れる音楽、4拍目の動きを見れば意図は明白で、MTTの拍はもはや明確に呼吸を求めており、フレージングの「ため」が美しく、自然に響く。甘美なラフマニノフの音楽は映画音楽のようなものをはるかに越え美しさの極みであった。特に第1,3楽章の優美な音楽にはクラクラする。そして、物憂げな陰影への思い入れ。ささいな変化まで見事に表現している、この集中力。
第3楽章は非常に美しい反面、ややもするとつながりの部分でぎくしゃくしてしまいつぎはぎのような音楽となったりするのだが、MTTの棒ではそのようなことが皆無であった。音楽の流れは飽くまでも滑らかであり自然。
ここまで様変わりしたのかMTTと思いつつ、現われてきた己の本質そのもののように聴こえてくる。
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このオーケストラの響き、特に弦は少し薄いと思います。全体的に拡散系で響きが広がってしまうのは配置のせいだけとはいえないと思いますね。ビッグファイブまでには結構な距離があると思いますが、それでも昔のあまり明瞭でない埃をかぶった様なサウンドからは様変わりしている。オーケストラの技量アップとMTTの意思が成果としてでていると思う。きっちりした表現力、やつさない、そまつにしない、誠意を感じる演奏内容で、やはりそのようなことに心を動かされ、気持ちの波長が揺れてくるのです。
ブラスは少し線が細くひかえめ。このようなコントロールはMTTのものだと感じる。コープランドのように弦とブラスがどちらかというと等価な扱いをするものとは別物という理解。
第2楽章のスケルツォの動きは強調されたものではなく、第1,3楽章のはざまで動きを吸収されてしまったかのように聴こえる。第3楽章までで46分かかっており、その中で10分ほど、道端にタンポポがさいていた。
これらめんめんと流れる音楽の後、第4楽章はもはや楽章全体がフィナーレではあるのだが、律動の喜びというよりはやはり前3楽章に引きずられたようなおもむきで、第2主題の深さに傾斜していく。つまるところMTTのラフマニノフへの思いを理解。弦の歌と抑制されたブラス、一撃のパーカッション、ソロに徹したウィンド、強引さのない棒、オーケストラ全体への気配り。ウエットにして鮮やかなラフマニノフでした。
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アンコール2曲目のロデオがこれまた素晴らしかった。この曲のトリッキーな面白さは生で聴かないとわからないとあらためて思いました。MTTが水を得た魚のごとく振るさまは、やはり、根ざした音楽なのだろうと思う。
その意味では、演奏会冒頭のアダムズのファンファーレ。この作曲家はミニマルがメインというわけではないと思うのですが、この曲は「あたり」になっているようで、あえて言えばミニマルを余裕で駆使している、もはや消化された材料のよう。それをMTTがこれまたよく消化されたものとして自在に振っている。お見事。
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前半2曲目のプロコフィエフ、どうやればこんな変な曲を作れるのか本当に毎度不思議な曲と思う。作曲し始めたとき第1楽章の結末さえ思い浮かんでいなかったのではないか。この曲の演奏は爆なものしか聴いたことが無いのだが、この日の演奏ユジャ・ワンは一言で言うと繊細さに勝り、馬力が今一。押しが足りない、文字通り鍵盤の押しが足りないのではないか、百もわかっているはずだからそのような理解というか、彼女のスタイル、表現方法なのだろうと思う。柔らかさが前面に出ている演奏で、これまでとはかなり異なる演奏を個人的には聴いたことになる。爆さ加減が少し和らいだ感じだが、そうするとこの曲の魅力も半減したような気がして、縁取りが不明瞭になり、作品の力量不足のように聴こえてきてしまった、奇妙ではあるか。
この曲の伴奏にホルンが4本いたが、うち3人が女性。だからどうだという話でもありませんけど、曲のイメージとはズレたが、ワンの柔らかさイメージとは一致したのかもしれない。
ちょっとそれますが、この協奏曲で3人いた女性ホルン陣、後半のラフマニノフでは1名でしたので、やっぱりメンバー表が欲しい。都民劇場さん、プログラムにメンバー表載せてくださいませ。そうすると有料になっちまうんですかね。
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MTTは2曲目のアンコールを終え、もうお寝むの時間よポーズとともに終演となった。あれは本音ポーズだったと思いますよ。
おわり

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1414- ブルックナー8番、エド・デ・ワールト、N響2012.11.17

2012-11-20 20:30:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月17日(土)3:00pm
NHKホール
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ブルックナー 交響曲第8番(ノヴァーク版)
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エド・デ・ワールト 指揮 NHK交響楽団

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16分14分25分22分
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第一印象は、何かが非常に欠けている。例えばホルン、ワーグナーチューバ、トランペット、トロンボーンあたり、早い話がブラス。揃っているし散漫でもない普通にハモッテいる。(ゲルギエフ&マリインスキーには遠くおよばないけれど)
何が足りないか、やる気、気持ちの込めよう、まるで、ない、と思う。
ワールトの棒云々といったこと以前に、N響の特にブラス、あれじゃ動かない能面。
やる気を起こさせない指揮者が悪いんだと例え言ったって所詮、当事者同士の話しで、こちらでどうだこうだという話でもない。ムジチーレンっていいましたっけ、音を楽しんでいるというより、ルーチンハーモニーだね、これは、
バシャー、バシャーって音が出てくる。
演奏のことを考えながらやっているんだろうが、そのレベルの深度が相当に浅い。名演奏なんかできっこないって自分たちが思っているのではないか。それとも、うまくやって、良かったですよお手柄でした、とほめてくれる人が必要なのかな、聴衆以外に。
自発的ムジチーレンがない演奏会でした。またこの音楽が持つ緊張感はまるで感じませんでした。
縦のライン一つとっても揃っているが、なんというか呼吸は合っているいないにかかわらず楽譜通りやればバーは合うけれど、息や、やる気があっているとは思えない。同じ指揮者を今後招へい予定があるのなら、やめて別の指揮者にした方がいいと思う。
指揮者は悪いとは言ってません、このオーケストラの性格に合わない。
「じゃあ、おまえ、ブラインドで聴いてみろ」って言われたら恐いですね。
おわり
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おわりって書いた後に思い出したんだが、このオーケストラには競争意識が必要な気がしました。
おわりおわり


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1413- ウィーン弦楽四重奏団フィリアホール・イン・青葉台2012.11.16

2012-11-19 20:00:00 | インポート

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2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月16日(金)7:00pm
フィリアホール
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ハイドン SQ第39番ハ長調Op.33-3, Hob.Ⅲ-39「鳥」
モーツァルト SQ第17番変ロ長調K.458「狩」
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★ 休憩時間“ウィーン伝統菓子”のサービスつき。
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シューベルト SQ第14番ニ短調D810「死と乙女」
(アンコール)
モーツァルト SQ第19番「不協和音」より第2楽章
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ウィーンSQ
 第1ヴァイオリン=ウェルナー・ヒンク
第2ヴァイオリン=フーベルト・クロイザマー
ヴィオラ=ハンス・ペーター・オクセンホファー
チェロ=フリッツ・ドレシャル
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弦楽四重奏、何年ぶりにきくのか、前回いつ聴いたのか覚えていない。メモにもなかなか表れてこず。
青葉台までは結構な時間がかかりますが、せっかくのいただきものでしたので無駄にせず、の精神で。
まず、このホールはお初です。500人規模ということでコンパクト、一階ステージ奥から最後方の席までの距離より、土間から天井までの距離の方があるのではないか。そんな感じです。ホール音は少し明るめで、落ち着いている。たぶん、小編成オケなんかよりも室内楽の方がしっくりしていそう。二階に座りましたが席幅がなく窮屈な一面も。
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前半の鳥、狩。今更呼吸がよくあっているなんて書いてもしょうがありません。水準が維持されたまま、アンサンブルにとどまることなく、各楽器それぞれの節まわしはわりと自由にやっている、余裕の演奏でそれが一つのスタイルにさえなってしまっている。一言で言うとそういったところか。こうゆうのを味わい深いっていうのかも。
チェロのヴィヴラートがかなり強烈ですね、気になるということはありません、この楽器が安定感を示さないと始まらないわけで。
スタッカート的な音楽の喜びよりも、密な流れが心地よい。変化を求めるという言葉自体あまり意味を持たないのかなと思います。形式感へのこだわりはなくそれらは歴史の流れから言うとむしろ音楽が前進する材料として必然的に出てきたものであり肩ひじ張らずに聴けと言われているような気がしました。ベートーヴェンがこのようなものでは物足りなかったというのはもはや明白とさえ言えると思います。
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後半の死と乙女は前半とは異なります。ドラマチックで音楽の持つ劇的効果を、形式感を持たせながら(形式表現を使いながら)表現する。前半とはまるで違う世界。これはやにっこいニ短調ですね、フランク、ブル9、第九、シュマ4、たしかにやにっこい、ニ短調。
気合を入れないと没我できない。
同じシューベルトの未完成はロ短調ですが、ムラヴィンスキーの絶演だとなにか死の淵から地獄を垣間見てそして上を向くと救済があった、そんな劇的なあたりは死と乙女と何か相関する部分を感じる。ただウィーンSQはそのようなものに特に光りをあてた演奏ではない。ぴったりとあったアンサンブルであるが、研ぎ澄まされているか、鋭い突っ込みがあれば相応の観点で面白く楽しめたような気もします。でもそれはこの四重奏団の性格を変えるといったところまで踏み込まないといけないわけで、それはこっちのわがまま。
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このホールの沿革を見ると、バブル期後半崩壊あたりに出来たようですね。約20年の歴史。初めて入りましたがホールスタッフの多さ、扱いのコネり具合など良く慣れたもので、おそらく年数というより回数を重ねている、比較的演奏会開催回数が多く場なれ、客扱いなれしている。こちらは安心してうろうろできる。
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休憩時間にウィーンの伝統菓子、リンツァーシュニッテン、一個配分のところ、お腹がすいていたため2個いただきました。失礼しました。おいしかったです。ありがとうございました。
(かたやビュッフェの400円コーヒーは全くいただけませんね。サントリーホールがその元凶(たしか)となったか全国各地、「ベラボーなコーヒーを飲んでブラボーの声は出ない、この値段で委員会」、チケット価格も含めサントリーの価格設定の真似をするのではなく、味のレベルを上げてほしいものです。(といっても真似するほどおいしくはないが)
今のところタリーズのブレンドショート300円の敵にもなれないなあ。(私はタリーズの回し者ではありませんがタリーズカードは持ってます。))
おわり


1412- パーフェクト公演、ゲルギエフ&マリインスキー NHK音楽祭2012.11.15

2012-11-19 01:30:00 | インポート

121115_215201


2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月15日(木)7:00pm
NHKホール
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メシアン キリストの昇天
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シベリウス ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、レオニダス・カヴァコス
(アンコール)
バッハ パルティータ第2番よりサラバンド
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プロコフィエフ 交響曲第5番
(アンコール)
ワーグナー ローエングリン、プレリュード
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素晴らしいプログラムと演奏。見事な集中力と緊張感。
私にとって 夢見心地の中にいるような2時間45分の演奏会でした。
メシアンの澱みと輝き、シベリウスのぶ厚くも巧みにコントロールされた咆哮、そしてプロコフィエフにおける滑らかさと荒々しさ。
多彩な表現は考えられ練り上げられており、クラクラとめくるめく音色やダイナミクスの変化に悶絶。素晴らしい演奏でした。
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一曲目のメシアンが始まるや否や、指揮者の右手にあるあれはなんだという話になりました。立てた小指と同じぐらいの長さの爪楊枝のようなものが右指でつままれ指揮棒のように動いている。最近のはやりなんでしょうか。噂どおりではありますが。
キリストの昇天27分。並々ならぬブラスセクションのハイテンション。ゲルギエフとこの歌劇場の関係はもう四半世紀にもなるはず、にもかかわらず毎度このテンションの高さには恐れ入る。これがこの指揮者のカリスマと呼ばれる一つの側面を表しているのかもしれない。
はたからみていると棒のわかりにくさはますます極端化し、最近の例でいうとティーレマンの倍ぐらいのしゃくりあげの揺り戻しあたりで音がようやく出てくる。これを見るだけで一つの芸でも見るようなおもむき。このわかりにくさがオケのハイテンションの一役を担っているところもあろう。でも、あすこまで極端だと、オケの音がようやく出てきたときが音楽の始まりで、もはやこのオーケストラの芸風といってもよく、ゲルギエフとは切っても切れない。とにかく出の遅さは特筆に値する。ゲルギエフが後かオケが後か。
それにしても素晴らしいブラスセクション。メシアンの意識された澱みの響きをものの見事に表現。音は敷き詰められペーヴメントのようになり、それは昔のレニングラード・フィルの雨に濡れた石畳とは異なるけれど、川面に見える浮草のごとき同じ自然な向きでまとまり流れる。なんと素晴らしい響きであることか!これでトゥーランガリラなどやられたらたぶん、失神する。
近くで見ているとそれぞれのアンサンブルとしての動きは非常に密なれど、ほとんど指揮者あっての響き合わせのように感じる。澱みの表現がこれだけ雄弁だともはや解放は不要というか聴かなくてもわかる。
そして弦のぶ厚くも透明な響き。深く碧い透明な海の底でも垣間見るような魅力的なサウンドはロシア特有なものであるけれど、どうすればあのような音になるのかな。
メシアンは響きです。自分が求めていたメシアンはこのようなものだったのかと。
それにしても見事な棒さばきだなぁ。緊張感を強いる、それでいて開放させる。この極意!
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前半一曲目のメシアン30分弱やって、普通の巷のコンサートだとここで休憩。しかし、ゲルギエフはもう一曲置きます。それもメシアンより長い。聴く前からわかっているとはいえ、すごいよね。
この日のシベリウスはちょっと後先逆になりますが、第3楽章の主題に絡めて魅惑的なチェロのソロが2回でてきました。ゲルギエフはこの曲の版の相違に関心があるようで、もしかして普段聴くのとは違っていたのかもしれない。ほかの箇所では特に気になるところはありませんでしたけど。
カヴァコスというヴァイオリニスト兼(指揮者)はお初でお目にかかります。場数をたくさん踏んでいるような余裕のしぐさなんですが、見た目とは逆になにかインターナショナルでないようなものを感じました。ローカルっぽいと言ってしまっては語弊がありますが、ゼロから作り上げた語り口のように感じました。シベコンには相当な自信をもっているように見受けられます。
容貌と似たような細身の音でその長髪のようなしなやかさをもっている。独特のシベリウス。ゲルギエフも若干抑え気味だったと思います。要所での咆哮はものすごかったがあくまでもヴァイオリン協奏曲です。
第1楽章17分の緊張感と音楽の構成感、縁取り感覚、息をのむゲルギエフの圧倒的な曲作りです。緊張感を保ったまま見事な演奏をおこなうオーケストラをバックにヴァイオリンが清く響くさまはもはやそれだけで感動的。素晴らしい。
第1楽章17分、第2楽章11分、第3楽章8分。
協奏曲の常で楽章を重ねるほどに尻つぼみ的になったりしますが、そもそも、運動の第3楽章は短くなる。普段なら感じない構成バランス、この日は第1楽章の張りつめた緊張感があまりにもすごくて、後半曲の弱さみたいなものを感じてしまうぐらいでした。
このシベリウスの協奏曲、なんど聴いても飽きません。最後の三つの打撃音に絡みつくソロ、お見事でした。
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プログラム後半はプロコフィエフの5番。
14分8分13分10分。
こんな完璧でエキサイティングな演奏聴いたことがありません。
深くて碧い弦の滑らかさと、それに対比するようにブラスと飛び跳ねるパーカッション。一見粗野とも思えるパーカッションの響き、ダイナミクスそれ自体が生き物のように咆哮を繰り返す。弦の滑らかさも極限状態。
前半のプログラムよりもさらにオーケストラはありえないレベル。
ダイナミクス、めくるめく音色変化(へんげ)、ありとあらゆる表現が極度に拡げられてプロコフィエフの面白さをものの見事に表現。トリッキーで嘲笑うようなプロコフィエフ、これを表現するには作曲者を越えて驚かさなければならない。
重くてふっきれない第1楽章や第3楽章にこれだけひき込まれるとは。めまぐるしく変わる音の魅力とともに、旋律の関連性も明確で曲としてのつながりを表現。全部同じ節でできているように聴こえてくるから不思議だ。
空虚でシニカル性さえ感じさせる終楽章が非常にエキサイティング徐々に加熱してくる。この楽章の序奏の後のヴァイオリンのチリチリした主題が、繰り返されると段々と興奮状態へ。これはプロコフィエフの意図していなかったものかもしれないが、ショスタコーヴィッチなどとは明らかに異なる諧謔性。こちらの興奮の色も少しは異なるかもしれない。
ゲルギエフの多彩な表現は驚くべき高みに達していると思いました。
この演奏、興奮しすぎて何を書けばいいのだろう。
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アンコールでよもやワーグナーが鳴り響こうとは思いませんでした。プロコフィエフのロメジュリなら話は楽ですが、ローエングリンの前奏曲です。また、ある程度長丁場覚悟。
弦の響きは最初に書いた通り魅力的なもの。そしてブラスの息の長い咆哮は緊張を保持したまま清奏される。プロコフィエフの運動の後にこのような整理体操こそふさわしいかもしれませんね。確かに氷河の束がまとまって動いているような感じ。
すこしだけ、2006年の同組み合わせによるリングサイクル(2回)思い起こしました。前回の来日ではパルジファルもやっておりますし、少なからず彼のワーグナーは聴いている。
長いアンコールですけれど緊張感を保ったままのマリインスキーの演奏はお見事の一言に尽きる。
おわり


1411- エド・デ・ワールト&N響、ウェストブレーク&ファン・アーケン、ワルキューレ第1幕2012.11.11

2012-11-15 19:20:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月11日(土)3:00pm
NHKホール
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武満徹 遠い呼び声の彼方へ!
 ヴァイオリン、堀正文
武満徹 ノスタルジア~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に
 ヴァイオリン、堀正文
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ワーグナー ワルキューレ第1幕
ジークリンデ エヴァ・マリア・ウェストブレーク
ジークムント フランク・ファン・アーケン
フンディング エリック・ハルフヴァルソン
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エド・デ・ワールト 指揮 NHK交響楽団
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前晩に続きこの日もうかがいました。
この日は通常の前売り席、2階中腹。比較的いい席なんですが、もう少し後方は例の地獄席で、自分が叩いた拍手の音しか聞こえないという最悪座席があります。低い天井狭いエリア、モニター室や隔離部屋から外を眺める趣きの音で、昔オペラ公演でこの席にぶち当たり、NBSの担当の方もあすこの席が他の良好な席と値段が同じとは不本意といってましたね、変えてはくれませんでしたが相応に認識された地獄席。この日はその少し前でしたので難を逃れました。
とは言え、N響の響きには今日も満足できませんでした。切れがなく16型で他も超巨大編成なのですが、不明瞭さ加減も比例するのかもやもや感を払しょくできません。威力はあるのですが、いつぞやの新国立におけるトーキョーリングのような明瞭さがない。角が無くわりとボテ系。
ワールトもビルダーではなくて頓着するところがありませんから、モヤモヤ感をひきずって進行。いつものN響が埃をかぶってしまった感じ。オーケストラが光り輝かない。
突き詰めるともしかして答えは簡単で、前月リング・サイクル編曲ものを自作自演したマゼールはいなかったということなのかな。あれだって同じような編成、でも明瞭な響きだった。やはり指揮者の力量の差は明白。無作為の棒のレベルが低いとは申しません。十分素晴らしいのですがあえて言うと聞き分ける耳力(みみぢから)がちょっと違うのかもしれない。
ワーグナーオーケストラなら指揮者が誰であってもハイレベルをキープできるかもしれないが、放送オーケストラのように多彩な曲種、そしてN響のようにスター指揮者が毎月入れ代わり立ち代わり、これでは広く浅く、技術水準の高さだけがどのようなものに対する場合でも、オンリーワンの共通項。
だからスキルレベルは共通項として保持されても、そこどまり。耳と才がずば抜けた指揮者がいなくなれば、共通項だけが独り歩き。
結果、いまいちであった。
付け加えるに、前半のプログラムはいくら指揮者の好みとはいえ、プログラム・ビルディングとしては感心できない。ワルキューレ一本でよかったのではないか。昨今、前半にジークフリート牧歌がたとえ有ったとしても、飽きるという人が結構います。演奏会が多くなり選択も多種多様にわがままになり、好き勝手なことをいってごめんなさい。
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スペシャル・ガラ・コンサート
ワーグナーの夕べ
前半
ワルキューレ第1幕
後半
ジークフリート第3幕
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次回はこのような3時間企画をお願いしますね。
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ファン・アーケンは連日連夜の鬼の形相でワルキューレを歌い終えました。つかみどころがあまりありませんが、トロンと声が丸くなることが無く、誠実にこの日の歌唱をこなしました。
ウェストブレークも前日金曜公演の後、19時間後には声を張り上げないといけなかったわけで、通常のオペラのコンディションの持って行き方とは違っているんでしょうね。
純に楽しみました。
おわり
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1410- ウェストブレーク&ファン・アーケン、エド・デ・ワールト&N響、ワルキューレ第1幕2012.11.10

2012-11-14 20:00:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月10日(土)6:00pm
NHKホール
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武満徹 遠い呼び声の彼方へ!
 ヴァイオリン、堀正文
武満徹 ノスタルジア~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に
 ヴァイオリン、堀正文
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ワーグナー ワルキューレ第1幕
ジークリンデ エヴァ・マリア・ウェストブレーク
ジークムント フランク・ファン・アーケン
フンディング エリック・ハルフヴァルソン
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エド・デ・ワールト 指揮 NHK交響楽団
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この日、いわゆるはしごの二つ目の方です。
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16型、超巨大編成、66分。
このアブノーマルなストーリーを夫婦で歌ってしまうとあぶなさも中庸なりというところだが、そこはプロ、ペットボトルの数は違えど、初日のワルキューレ合体大馬力で頑張りました。
ウェストブレークの名前の方って、ワーグナーのオペラの主役のいいとこどりしたような名前でうらやましいですね。20年ぐらい前に同じような名前のワーグナー歌い手を何度か聴きました。エヴァ・マリア・ブントシュー。
ちょっと細身ながらトリスタンとかぐいぐい前に出てくる。また奥歯の光り具合がきらびやかで印象にあります。
ウェストブレークもどちらかというとタイプですね。
昨年メトで自身のデビュー公演、レパージュのリング・サイクルで途中退場(2011.4.22)。ワルキューレの第1幕を終えたところで、幕間にピーター・ゲルブがあらわれ、どうも彼女の調子が悪いのですが第2幕も歌います、と言い訳予告を入れたものの、結局第2幕は代役が歌うことになったと。オペラは生き物ですからこのようなこともたまにある。昔、フィガロの結婚でスザンナ役がやはり調子が悪くなり、代役で出てきたのがなんとキャスリーン・バトル、メトのどよめきは生半可なものではなかったことを思い出しました。
メトデビューで途中退場という華々しいデビューを飾ったが彼女なわけですが、歌いきった第1幕はそれなりに良かったようです。三日後の公演ではきっちりと答えを出たようですね。
ウェストブレークはデュトワ&N響の演奏会形式のエレクトラで観たらしい。(記憶が彼女と認識していない)
あのときはたしかデュトワがN響の監督としての最終公演だったと記憶します。エレクトラ役は今年亡くなったエリザベス・コンネル、ゆっさゆっさとワーグナー歌い手の主みたいな雰囲気でステージにあらわれると、聴衆の無声音のどよめき。おおという感じだったのですが、この時の妹役が彼女だったらしい。たしか代役で発音はウェストブルック。
代役の妹役でお姉さんはコンネルですから、ほとんど注目しておりませんでしたけれど、終わった後の聴後感は個人的には完全に妹役の方にやられていたのを思い出します。エレクトラはサロメのようにちょっと聴衆迎合的なところがなく、シュトラウスにしては受けを狙わない非常に厳しくそびえたつ音楽だと思うのですが、峻烈にして鋭い歌唱はものの見事に決まっていて最終的にはコンネルの上をいったような気がした。
ということで完全脱線。
この日もワールトの巧みな棒のもと、徐々に山の頂上に登りつめました。
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ジークムントのファン・アーケンは生で聴いたことがあるのかどうかよくわかりません。
あの汗を拭く姿は演技なのか、ペットボトルを置いたりでコンサートスタイルならではのものですね。ヴェルゼ~~~~~のあたりから急激に盛り上がりを魅せました。
フンディングのエリック・ハルフヴァルソンはハルファーゾンと読んでませんでしたっけ。彼ならバレンボイムとのワーグナーで何度か観てると思います。
この日、左手をずぼんポッケに突っ込みぱなしの演技でしたが、連れの方は、胸の赤いハンカチはなに?って言ってましたね。たしかになんだろう。
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アーケンは明日のことを考えず、尻上がりに声を張り上げワーグナーの役どころにはいっていった。もっとヘルデンなサウンドだともっといいのかな。個人的にはあごをひいて歌えばどうなんだろうなどと思ったりするが、そうゆうことってペーター・ホフマンからのイメージというか残像をひきずっている自分を思う。
アーケンは全く弛緩するところがなく、ゆるみがない。非常に丁寧な歌いくちでいいと思いました。第2幕など役どころとしては尻つぼみ系なあたりでもたぶん、きっちり歌ってくれそうな気がしました。
この日、第1幕最後の一声では目玉剥き出しの熱唱となりました。それだけでなく全体に柔軟な歌い手だと思います。役どころのイメージ集中も素晴らしい。(ワーグナーの熱唱にここはだめだ、ああすればこうすればみたいなことを言う気にならないというのが本音ですよね)
オケとのピッチのずれが若干数か所あったような気がしますが、全てをなぎ倒して進む。
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ウェストブレーク、どちらかというと情熱よりも理性を感じる。個人的にはこのてに弱い。
歌としては急激にドラマチックになったりして激しいところは激しいのだが計算通りといった雰囲気もある。ドラマとしてのワーグナーの息の長い音楽的クレシェンドとしてはアーケンの方が自然で加熱感がありそうですね。
彼女はポイントをはずさないので音楽的効果、高揚感など今はオペラ歌いまくりでいいと思いますけれど、歌曲なんかも聴いてみたい。
アーケンとは息がものすごく合っていて、山・谷・平地、同じような波長でぴったり。納得ずくの愛なのだ。
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出番が少ししかないフンディング。この日のスタイルだけ見たら大御所キャラクター俳優といったおもむき。もしかしたらあのメガネも技かもしれない。
安定感抜群で役どころをつかんでおりました。
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ワールトの棒はどうだったのか。駆り立てたのは兄妹の歌が終わった後のエンディングのあたり。ほかはむしろ歌を聴いてそれから音を出す感じで、それが安定感抜群。うたいやすそうです。例えばヴェルゼ~~~~のあたりでも、歌い手は指揮者よりも前にいるのでどこらあたりで切ればいいのかと、指揮者の方が戸惑うかもしれないのですが、きっちり合っていました。練習の成果と言われればそれまでですが、アーケンの熱い熱唱はものさしで計れないところがあり、それにあわすワールトはやっぱりすごいということだと思います。
N響はワーグナーの脂を取り去り、清く正しく美しく、いつもはそうなんですが編成が異様に膨らんだせいなのかどうか、ブラスとウィンドのピッチ的なかい離を若干感じた個所がありました。ですので、極度にきれいに響いたかというともうちょっとだったかなと。
おわり


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1409- ビューティフル、山田和樹&パスカル・ロジェ&日フィル2012.11.10

2012-11-13 19:30:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2012年11月10日(土)2:00pm
サントリーホール
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【前半】
野平一郎 グリーティング・プレリュード
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ガーシュウィン ピアノ協奏曲 へ調
 ピアノ、パスカル・ロジェ
(アンコール)
サティ グノシェンヌ第5番
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【後半】
ヴァレーズ チューニング・アップ
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ムソルグスキー作曲(ストコフスキー編曲) 展覧会の絵
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山田和樹 指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
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この日は、いわゆるはしごをしました。
まずは山田さんの日フィル正指揮者就任披露演奏会から。
山田はお初でお目にかかります。
はじめに全体の感想から。
指揮ぶりが大きく、それでいていやみがなく、しぐさが作られたものではない。自然に映ります。また、昨今の粘着質でディテールにこだわった演奏が多い中、彼はそのような細部に耽溺することなく進みます。ずぶずぶの演奏には関心がない、そんな感じで全体としては非常に明快でビューティフル、好感が持てました。
また、選曲とプログラムの配置バランスが良い。こうゆうことはきっちり考え抜いた上での話でしょうね。もちろん、指揮者の演奏解釈バランスもいいものです。
ということでこの日の選曲4曲満足しました。
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最初の野平の曲、タイトル通りといいますかハッピー・バースデー・トゥユーの引用がありました。ひらめき型引用で瞬時に思い出すのはコリリアーノですね。もう6年ぐらい前に書いたブログでCDを紹介しました。
025-2006.7.23  コリリアーノの息子はコリリアーノ
このCDには見事な引用があります。是非聴いてみてください。
それからこの前なくなりましたヘンツェ (ブログ記事1404-)ヘンツェのトリスタンなんかも不気味な引用がありますね。
この両者はアヴァンギャルド系ではなく、かといって体制派というわけでもありませんが、ブーレーズなんかの真逆な作曲家たちですね。音楽というものを音楽だけで表現してきた人たちだと思います。聴いている方も奇妙に安心感があるというか、音楽に対して不安定な気持になりません。惹かれる音楽です。
野平のプレリュードを聴いてほぼこれらと同じ印象を持ちました。あまり魅力的でない今の時代の音楽のなかで、比較的強く惹かれ、エンターテインメント的なエンディングまで用意している。聴衆はある部分満たされ納得できる。野平の音楽系譜は知らないが、まず曲からはいる、でいいと思いますね。
指揮者は自身の就任を誕生日にたとえたのでしょうか。そういわれてみれば、最初からこのメロディーが鳴っていたような気もします。
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前半2曲目はこの日の一番長い曲、ガーシュウィンのコンチェルト・へ調です。
これを一番最初に生で聴いたのは、プレヴィンの弾き振り。
779- プレヴィン ピッツバーグso. in New York 1984.5.23
強烈な響きとスウィングだったと記憶します。特によく覚えているのは第2楽章のトランペットのソロ。きわどい響きでガーシュウィンを満喫。かなりデカい音でミュートはつけていなかったかもしれませんね。
日フィルのこの日の演奏ではトランペットが抑えられていて、そこだけあまりスリルを味わうことができませんでしたけれど、これも方針と思えば、全体としては100点満点だった。マンハッタンの息吹が目に浮かぶようなガーシュウィンの曲、そもそもが混沌とした内容でそれがクラシカルな大音響で響き、奇妙なハイブリッド感覚がたまらない。綱渡り的な面白さはありませんでしたが、そこはロジェに耳を傾けると結構、いけてましたね。
ピアニシモから爆音まで変幻自在の演奏、オーケストラを見事にコントロールしていた山田の棒も特筆に値するでしょう。ディテールにこだわり過ぎて自滅する指揮者が多い中、彼はしっかりと音楽バランスを考慮した水際立った演奏解釈をしたと思います。
ピアノのロジェも満足したんでしょう。聴き耳を立てさせるサティの響き、ガーシュウィンのあとだから効果があるんですね。満足倍増。
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後半一曲目はヴァレーズのチューニング・アップ。これぞまさしく音楽に背を向けない音楽そのもの。メチャな曲だがなにしろタイトル通り音合わせの曲ですからね。非音楽的なはずもない。いつの間にか始まる音楽。劇中劇、ナクソス島のアリアドネを思い出してしまいました。ブログにはまだアップしておりませんが、メトでアンドリュー・デイビスがアリアドネを振ったとき、たしか、ラフな格好のデイビスがピットにいつのまにかいて、ざわざわとしたなか、オペラが始まっていた。誰のプロダクションだったのかしら?
ヴァレーズとは全然関係ない毛色のものだけれども、山田の演出の雰囲気は似ている。このような面白さもいいですね。奇を衒うというよりもこのような音楽への入り口として、全く嫌みのないもので好感が持てるし、第一、曲そのものに対する興味が俄然湧いてくる。このようなことってとっても大切だと思います。
いい音合わせでした。前半冒頭でなく後半に持ってきているあたり考えたプログラム・ビルディングと感じました。
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最後の曲は奇天烈と思いきやのストコフスキー編曲の展覧会の絵。冒頭はトランペットではなく弦が奏する。これがこの曲の全てを語っている。ブラス的な派手さではなく、フルの弦の響きと音圧で迫る展覧会の絵でした。バッハのトランスクリプションあたりだとブラスとウィンドがかなり前面に出てきますけれど、そのつもりでこの展覧会を聴くとちょっとちがってたな、という話になります。まず、響きが鋭角的ではなく柔らかい。これもストコフスキー・マジックなのだろうか。
この曲はみんな知っているのでその上でのこのような別の編曲ものは割と余裕の気持ちで聴けると思いますね。派手な効果ではなく音楽を聴かせてくれる山田の選曲はお見事でしょう。ストコフスキーの編曲の展覧会なんて生で聴くのは初めてでしたし、二重にもうけもの!
お隣の隣の席のなぜか途中からマスクをしてしまった某棒振りK氏もマスクの中から声を張り上げておりました。指揮者チェック、曲チェックといったところでしょうか。
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ということで冒頭の繰り返しになりますが、この日の演奏会には満足しました。指揮者のバランス感覚が優れている。演奏解釈だけでなく、プログラム構成や前後半配分、演出など、考え抜かれたもので出色の演奏会でした。
これで譜面台がポーディアムのあたりからなくなればプレイヤーは指揮者にひれ伏すのでしょうが、最後まで譜を置いていた指揮者もおりますしね、そこはあんまりこだわりはありませんけど。
あと、プログラム冊子にある写真ですが、ちょっと子供っぽいので変えた方がいいと思います。個人的には全然違うと思います。
おわり


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1407- 活き活きアンサンブル、ブロムシュテット、バンベルク、エロイカ&7番、2012.11.1

2012-11-03 10:33:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2012年11月1日(木)7:00pm
サントリーホール
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ベートーヴェン 交響曲第3番 英雄
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ベートーヴェン 交響曲第7番
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(アンコール)
ベートーヴェン エグモント序曲
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ヘルベルト・ブロムシュテット 指揮
バンベルク交響楽団
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素晴らしいプログラム。
このようなプログラムを胸を張って振れたのは、日本人なら朝比奈あたりまででしょう。
魅力的でこわいプログラム。がなり立てるマーラーよりよっぽど難しそう。
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編成は後半の7番の方が人数が減るというもの。
エロイカは14型、対向配置、ホルン4、トランペット3(たしか)、他2管。
7番は14型、完全2管。
アンコールのエグモントはホルン2本増強。
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以上の編成で繰り返し全てあり。(と思います。)
コンパクトな編成でオケは拡散せずポーディアムを中心にギュッと集まる。これで思い出すのがギュンター・ヴァントのハンブルクです。このコンビの最終来日のときは圧縮凝縮配置でしたね。正面で見ているのになぜかヴァイオリンの背中が見えるといった具合。
これほど極端ではありませんでしたが、この日のスタイルは近いもので鳴る前から拡散しないだろうなということが自然とわかる。
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プログラム前半はいきなりエロイカ。
16分、14分、6分、11分。
結構な高速です。
ブロムシュテットは第1楽章の冒頭から同楽章最後のバーまで、1拍子振りを貫きました。いきなり見事な音楽の流れとなった、というしかない。途中の例の変則リズムの5個の打撃音も完全1拍子。これって見てると、棒と音がどうリンクしているのかわからなくなります。両者全身に全く同じリズム感覚をもっていないとああならないと思う。とにかく、第1主題も第2主題も3拍子系という感覚はほぼなくて重くならずどんどん前進。
1拍子振りですからご本人はアクセルを踏むのも比較的楽かもしれません。驚くべきはこの棒にものの見事にドライブされまくるオーケストラの生きたアンサンブル!活魚のごとき自発的で積極的なアンサンブルには驚嘆。この姿勢無くしてあの棒についていくのはなかなか難しいと思う。波打つアンサンブル。
ですからこの楽章、見た目が非常にユニーク。カメラははいってなかったので後にも先にも想像してみてください。指揮者のブロムシュテットがまるでスローモーションのように振っているのに、オーケストラはゆらゆらと動き、音楽は快活に鳴り前進を重ねる。超常現象的ミラクル。
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第2楽章は葬送行進曲、よく聴いてみてください。マーラー第6交響曲悲劇的、第1楽章短い序奏の後すぐに現われる第1主題。これをテンポを落としピアニシモで口ずさんでみてください。葬送行進曲があらまれませんか。
ブロムシュテットの棒はここでは1拍子とはならないが、スタイルは第1楽章と同じです。どんどん先に進みます。メロディーライン毎のフレーズ間にほとんどタメを作らず進む。一番すごかったのは第4楽章変奏曲で快速テンポからコーダ前のスピードダウンした最後の変奏曲へのパッセージ。タメ・ゼロで突き進みましたからものすごい場面転換。だいたいこんな感じで進む。
確信犯的タメ・ゼロの演奏聴いたことあります。アシュケナージの悲劇的。タメを排除した猛スピード。
ブロムシュテットとアシュケナージの芸風が同じとは言いませんが、見た目(聴いた耳)的に、同じような結論の音楽を聴けることって、たまにある。
この楽章も生きた弦のアンサンブルが秀逸。日本のオケもこんくらい掘ってほしいよね。指揮者次第かもしれないが。
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第3,4楽章も推して知るべしです。
弦と管とティンパニのバランス感覚が非常に良い。おそらく本拠地とこのサントリーホールと特性とか雰囲気が似ているのではないかという気がします。日常的なバランスの良さが良く出ていたと思います。アンサンブルは周りの音が聴こえないと生きた演奏にならないと思いますので、似ているというのはやりやすいと思います。
スケルツォのあとのトリオのホルンはどちらかというと細身で、特に光り輝くというわけではない。むしろ抑制。最上のバランスです。
ブラスがもう少し抜けて聴こえてきてもいいような気がする、というのはマーラーの聴き過ぎかも。
第4楽章の変奏曲はノー・タメです。そんなところで呼吸している暇があったら先に進もう、そんな感じ。弦は厚さよりもますます凝縮さを感じる。無理やり圧縮された音楽ではなくて、解放された凝縮感ですね。弦が地を這っているのではなく、温泉が湧き出ている感じ。コーダも奇抜さはない。いたって普通の演奏。
サウンドバランス、活魚アンサンブル、強弱バランス、だけでなかったんです。結局のところソナタ形式の形式感、構造物としてのエロイカ、これが出たんです。
両者が見事に一致した演奏。彼らにとっては日常かもしれないが、このような演奏は今の日本では聴くことが出来ない。流行っている曲種も違いますし。
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後半は7番。
13分、8分、10分、9分。完全2管
エロイカがあったので猛爆進かと思いきや、形式感重視の構造バランスを整えた演奏となりました。ここらへん、やっぱり知性とか理性とか根ざした文化とか、そういったものを感じますね。
第1楽章の序奏は巨大ということはありません。聴いた後、あすこは頭でっかちにならなかったよねという残像。構造のバランス感覚です。それから、
フリッチャイ&ベルリン・フィルによる超ヘヴィー級のベト7が世の中にはありますけれど、あれの第1楽章の最後のところってブラスがスッキリ抜けて終わるんですよね、要所は締める。ブロムシュテットも同じです。構造物は壊しては何もなりません。
ブロムシュテットは昔から3拍目を早めに切り上げてアウフタクトを長めに保つ癖棒なところがありますが、この日は割と少なかった。曲のせいなのか、最近の振りなのかわかりませんがそう感じました。
ほぼアタッカ状態ではいった第2楽章は憂いを含んだ弦が秀逸。そして管の見事なアンサンブルバランス。テンポは速め。
第3楽章は1拍子振り、スケルツォとトリオが2回あるので、第2楽章との時間バランスが逆転気味。静と動がフィナーレをイメージ。非常に滑らかな演奏。
終楽章は節度のある嵐、アンサンブルパワー、理性を保持した熱狂、基本の上に全てがある、そのようなところが素晴らしい。形式感を忘れない熱狂。本流の演奏解釈と表現です。
なにもいうことはありません。
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アンコールはエグモント序曲。
8分、ホルン2本増強。
やるまえからエグモントしかないと思ってました。
いいですね、エロイカの第1楽章と同じです。充実した流れ。これ一曲目に聴きたかったと思いますが、そうすると何をアンコールでやるか、ちょっとわからなくなりますね。
ブロムシュテットのカーテンコールが一回ありました。
おわり