河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2309- ナッシュヴィル・シンフォニー、コンサートマスター岩崎潤、1人コンマス「和」奏でます。

2017-04-09 00:01:05 | 音楽夜話

2013年の記事で少し古くなりましたが再掲します。
ここにあるようにアメリカのオーケストラはコンマスは一人です。
ニューヨーク・フィルなんかも1シーズン250回前後コンサートあると思いますが、一人で貫き通していましたね。ディクテロウ時代ひたすら観ましたけれども、アシスタントがコンマス席に座ったのは記憶では数年に一度。
一人のほうが指揮者からコンマスへ、コンマスからオケメンバーへ、いろんなやりとりが一定していて、指揮者指示などをうまく効率よく伝えられるような気がします。ユニオンがありますから、効率重視はとても大事な話ですね彼らにとっては。
日本でわかったのは、コンマスが指揮者の次にスター性をおびているという事。ひとつのオケに複数のコンマスがいたり、国内の色々なオケに客演コンマスとして出演したりと多忙だということ。コンマスが変わるたんびにオケメンへの意思疎通がそれぞれ変化して、すんなりうまくいくものなのかどうも心配になります。それに加え、プリンシパルも複数置いてるオケありますね。出演したりしなかったり、出ないときは他でプレイしていたり、と。これもアメリカでは、日常風景ではありませんね。どっちがどうだという話ではありませんけれども。
最近は人の入れ替わり、違和感を持ちつつも観るの慣れました。

それで、ナッシュヴィル・シンフォニー 岩崎さんのお話です。


1人コンマス「和」奏でます
米オケ所属、演奏取りまとめや相談相手…大忙し 岩崎潤
2013/1/25

アメリカ合衆国テネシー州の州都ナッシュビルというとカントリー・ミュージックの本拠地。だが、人口60万のこの都市の人々は、あらゆる音楽を愛する。ジャズはもちろん、ロックも盛んで、クラシック音楽の愛好家も少なくない。内部がニューイヤーコンサートなどで有名なウィーン楽友協会大ホールに似た立派なホールもある。私は1年ほど前からここでオーケストラのコンサートマスターを務めている。
♪ ♯ ♯
日本・欧州では複数人
アメリカのオーケストラというと、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、シカゴ交響楽団、クリーブラ ンド管弦楽団がいわゆるビッグファイブ(5大オーケストラ)といわれてきた。ナッシュビル交響楽団は1946年に設立、指揮者にもよるが評論家の言からす ると全米ベスト10前後にいると思う。

 ヨーロッパや日本でコンサートマスターというと複数いるのが普通で、客員という制度を取り入れているところもある。だが、アメリカではどの楽団も大抵コンマスは1人、ナッシュビル交響楽団も私1人。あとはアシスタントがいるが、クラシック音楽の演奏会は基本的に私が責任を負っている。オケは年間 44週にわたってコンサートを行い、私はのべ100回は出演している。オペラも年1回は上演するので、結構忙しい。
♯ ♪ ♯
 楽員80人のグチにも耳
コンサートマスターはオーケストラの演奏をとりまとめる役目を担う職である。指揮者の楽曲解釈を楽員に伝えるための打ち合わせや、ボウイング(弓使い)を決めるほか、管弦楽曲にあるバイオリンソロも受け持たなければならない。しかし、コンマスで本当に大変なのは、楽員の様々な相談に応じることだ。

 ナッシュビルの楽員は80人以上おり、スタッフも80人はいる。楽団の人間関係を良好に保つため、私がカウンセラーの役割を担っている。指揮者には話せないような、個人的な悩み、いわゆるグチも聞き、なだめなければならない時もある。

 アメリカのオーケストラは一般の企業と同じくユニオン(組合)の力が強く、簡単に解雇や配置換えはできないといわれる。しかし、私の場合はオー ディションで合格、日本でいわれる特別契約のため、組合に属していない。音楽監督が「ジュンはふさわしくない」といえば、コンマスの座を降ろされる。幸 い、今の音楽監督である指揮者、ジャンカルロ・ゲレーロとはうまくいっている。

 私は82年の生まれ。チェリストの父とピアニストの母を持ち、アメリカで5歳でバイオリンを始めた。クリーブランド音楽院に入学、クリーブランド管弦楽団のコンマス、ウィリアム・プルーソー先生に師事したことで、コンマスのおもしろさを知り、この道を歩むようになった。
 ♯ ♯ ♪
日本人らしい心配り
音楽院には毎年定員1人というコンサートマスターアカデミーがあり、そこでディプロマを取得すると共に、在学中にオハイオ州のカントン交響楽団で コンマスを務めた。音楽院を修了するとともにオレゴン交響楽団でコンマス、4年間そこにいて、ナッシュビルに移った。コンマスはいわば天職だと思っている。アメリカでの生活がほとんどだが、国籍は日本である。

ナッシュビル交響楽団は町全体と同じく、いわば人種のるつぼ。指揮者ゲレーロはコスタリカ人だ。そういう雰囲気のなかで親から学んだ日本人らしい心配りもコンマスを務めるうえで大事な要素だと感じる。

アメリカのオーケストラにとって、あこがれのホールはやはりニューヨークのカーネギーホール。毎年春の音楽祭で全米から5つのオケが招待されるが、2011年はオレゴン交響楽団、その後、ナッシュビル交響楽団のコンマスとしてステージに立った。

忙しいとはいえ、ソロや室内楽の演奏活動もしている。クリーブランド管弦楽団の音楽監督フランツ・ウェルザー=メストにも目をかけてもらい、同管弦楽団の客員メンバーとして演奏旅行で弾く機会もある。今年の夏は「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」に初めて参加する予定だ。(いわさき・じゅん=ナッシュビル交響楽団コンサートマスター)

以上 2013年の記事でした。オリジナルは以下です。

 

コメント

2256- アイヴズ、答えのない質問、河童ライブラリー(201701ver.)

2017-01-12 21:05:58 | 音楽夜話

アイヴズの答えのない質問の音源ライブラリーは少しですが持っています。

奏でられる音楽によって、空間の静寂を意識させる曲。これしかありません。

音源は10種類。同一音源の再発ものが多数あります。同じ音源でタイミングもまちまちになっていますので、ここでは、保有する同一音源については一番短いものを記載しています。

また、保有音源ではありませんが、2015年に聴いたカンブルランの演奏を一番下に付け加えました。異常にスローな演奏でした。他演奏に比して概ね倍かかってました。



  アイヴズ 答えの無い質問          
  Ives、The Unanswered Question          
               
  指揮者 オーケストラ 録音 time 備考 ソロ レーベル
1 レナード・バーンスタイン ニューヨーク・フィル 1964年 4′59″   tp、ヴァッキアーノ CBS、ソニー
2 モートン・グールド シカゴ響 1966年 6′58″     タワレコオリジナル
3 MTT シカゴ響 1986年 7′13″ 改訂版 tp、ハーセス ソニー
4 MTT シカゴ響 1986年 7′01″ オリジナル版 tp、ハーセス ソニー
5 レナード・バーンスタイン ニューヨーク・フィル 1988年 6′09″     DG
6 ジョン・アダムズ セント・ルークス管 1989年 4′49″     ノンサッチ
7 オルフェウス室内管 1993年 5′10″     DG
8 MTT サンフランシスコ響 1999年 6′19″   tp、フィッシュサル RCA
9 ジェイムズ・シンクレア ノーザン・シンフォニア 2000年 4′36″ ヴァージョン2   ナクソス
10 アラン・ギルバート ニューヨーク・フィル 2009年 4′55″   tp、スミス
             
シルヴァン・カンブルラン 読響 2015年 10′ 実測値    
コメント

2253- 謹賀新年、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、ブルックナー全集、カーネギー2017

2017-01-02 21:25:45 | 音楽夜話

あけまして、おめでとうございます。
昨年2月、日本で行ったブルックナー全集企画、今年はカーネギーホールでありますね。

カーネギーホールブルックナー


コメント

2252- ベスト・ワースト2016

2016-12-29 16:55:24 | 音楽夜話

今年2016年は201回通いました。下記リンクに一覧があります。

2015-2016シーズン(一覧その1)
2015-2016シーズン(一覧その2)
2016-2017シーズン(途中)

今年はいい演奏会がたくさんありました。ベストのほうはすぐに溢れてしまいましたので、神棚ランクを設けました。

【神棚】
バレンボイム/ベルリン国立 ブルックナー全集
バレンボイム/ベルリン国立 モーツァルトPC選集20,22,23,24,26,27
【神棚ab順位】
5-8-7-8m-9-4-6-1=2=3


【オペラベスト16】
1. フィガロの結婚、ムーティ/ウィーン国立 (11.10)
2.ラインの黄金、ティーレマン/ドレスデン国立 (11.20)
3.ナクソス島のアリアドネ、ヤノフスキ/ウィーン国立 (10.25)
4.ドン・カルロ、ゲルギエフ/マリインスキー (10.12)
5.ジークフリート、ヤノフスキ/N響 (4.7, 4.10)
6.サロメ、新国立、エッティンガー/東響 (3.6, 3.12)
7.蝶々夫人、ミュンフンチュン/東フィル (7.22, 7.24)
8.ワルキューレ、新国立、飯守/東フィル (10.2, 10.5, 10.8)
9.オネーギン、ゲルギエフ/マリインスキー  (10.15)
10.イェヌーファ、新国立、ハヌス/東響  (2.28)
11.ジークフリート、神々の黄昏 抜粋、インキネン/日フィル  (9.27)
12.トスカ、藤原歌劇、柴田真郁/東フィル (1.31)
13.オランダ人、沼尻/神奈川フィル (3.19)
14.セビリアの理髪師、新国立、アンジェリコ/東フィル (12.7)
15.トリスタン、コボス/読響 (9.11, 9.18)
16.コジ、ノット/東響  (12.9)


【管弦楽ベスト18】
1.ロメジュリ、前奏曲、ティーレマン/ドレスデン国立 (11.23)
2.ブルックナー7番、メータ/ウィーン・フィル (10.10)
3.ブルックナー7番、MTT/サンフランシスコ響 (11.22)
4.シューマン2番、エルガー2番、アシュケナージ/N響 (6.22)
5.レニングラード、テミルカーノフ/ペテルブルグ (6.20)
6.ショスタコーヴィッチ10番、ロジェストヴェンスキー/読響  (9.26)
7.ドンジョ序、海、シュベ8、メータ/ウィーン・フィル  (10.9)
8.ショスタコーヴィッチ6番、15番、ラザレフ/日フィル  (5.21, 7.8, 7.9)
9.田園、ミュンフンチュン/東フィル  (9.23)
10.コリオラン、運命、皇帝、辻井&オルフェウス  (6.15)
11.マーラー8番、ハーディング/新日フィル  (7.1, 7.2, 7.4)
12.ブルックナー8番、ノット/東響  (7.16, 7.17)
13.プロコフィエフ、十月革命、ゲルギエフ/マリインスキー (10.11)
14.ドヴォルザーク、スターバト・マーテル、ヘンヒェン/新日フィル  (10.21)
16.ワルソー、ルル、ブラレク、ノット/東響  (4.24)
17.ラフマニノフ2番、ラザレフ/日フィル (11.19)
18.ショスタコーヴィッチ8番、インバル/都響 (9.20)

(15位、欠番)

 

【協奏曲ベスト6】
1. ショパン、PC2、ユジャ・ワン、MTT/サンフランシスコ響 (11.22)
2. ラフマニノフ、PC3、河村尚子、山田/バーミンガム市響 (6.28) 
3. ラヴェル、PC、グリモー、ヴェンゲーロフ/東フィル (5.19)
4.ショスタコーヴィッチ、PC1、ユジャ・ワン、MTT/サンフランシスコ響 (11.21)
5.ブラームス、PC1、ブッフビンダー、メータ/ウィーン・フィル (10.7)
6.シルクレット、トロンボーン協奏曲、中川英二郎、秋山/東響 (8.11)


【リサイタル・室内楽ベスト10】
1.ベートーヴェン、ピアノソナタ29、ユジャ・ワン (9.4, 9.7)
2.展覧会の絵、他、ガヴリリュク(7.14)
3.ブラームス、ピアノソナタ2、グリモー (5.16)
4.ベートーヴェン、ピアノソナタ1-24-17-21-32、小菅優 (10.14)
5.シューマン、ピアノソナタ2、他、マスレエフ (6.10)
6.鳥のカタログⅠⅢ、ピエール=ロラン・エマール、(5.3, 5.5)
7.モーツァルト、ヴァイオリンソナタ、イブラギモヴァ&ティベルギアン (3.25)
8.バーバー、ピアノソナタ、野尻多佳子 (3.5)
9.ベートーヴェン、ピアノソナタ30、他、岡田博美 (11.12)
10.ベートーヴェン、ピアノソナタ、8-21-14-23、清水和音 (12.11)


【現代もの系ベスト12】
1.グラス、VC2、マフチン、ジア/マカオ管 (5.3)
2.リンドベルイ、PC2、小菅優、板倉/都響 (8.29)
3.柴田南雄、ゆく河、他多数、山田和樹/日フィル、東混、(9.2, 9.3, 9.6, 11.7)
4.グラス、エチュード、滑川真希、久石譲、フィリップ・グラス (6.5)
5.フェラーリ、もしピアノが女体、佐藤紀雄/ノマド (8.27)
6.リゲティ、アヴァンチュール、他、杉山洋一/日本現代音楽協会 (12.11)
7.ライリー、トーキー、カーター、タワー、ライヒ、演:有馬 他、(3.15)
8.リゲッティ、VC、神尾真由子、板倉/東京シンフォニエッタ (8.25)
9.ベリオ、セクエンツァ1-2-6-7-9-12、プレイヤー多数、(4.14, 4.15)
10.ブーレーズ、主なき槌、半田、板倉/東京シンフォニエッタ (12.7)
11.ルツェルンから、佐藤/アンサンブル・ノマド (3.4)
12.細川俊夫、旅Ⅶ、ベルワルツ、アンサンブル・レゾナンツ (12.15)

【ワースト3】
1.ワルキューレ、フィッシャー/ウィーン国立(11.9) ダメ演出ダメオケ演奏ダメ価格
2.ブーレーズ、弦楽四重奏のための書 (4.14, 4.15) 演奏日分断ダメポリ企画
3.パリ管 (11.24, 11.25)  華無し

以上

コメント

061- スクリャービン 交響曲第3番 ムーティ音源

2006-09-19 00:01:00 | 音楽夜話

 

ムーティはこの曲がかなり好きだ。河童が保有している音源と生体験を列記。

 

フィラデルフィアo.  1984.2.22 Avery Fisher Hall
ベルリン・フィル     1987.5.31 NHK-FM1987.8.2
フィラデルフィアo.  1988 4.29,30 EMI
ウィーン・フィル    1990.10.21 NHK-FM1991.7.1
ウィーン・フィル    2005.5.2

 

これ以外にも当然フィラデルフィアとの定期での公演もあろう。3番という曲の音源がこれだけ出回っているというのは珍しいと思う。ここにある何倍も振っているはずだ。
1987ベルリン・フィルと1990ウィーン・フィルの聴き比べは大変に興味深い。1987ベルリン・フィルでは演奏後、巨大な時代遅れブーイングがあり、いまだに怪しげな曲であったのだろうと推測される。
1987ベルリン・フィルのやや固めで折り目正しい初物の雰囲気を醸し出している演奏に比べ、1990ウィーン・フィルのきらびやかな、特に木管楽器が光をちりばめるようにキラキラと輝くさまは色彩の作曲者の意図するところであったはずだ。しなやかな弦、そしてビロードのようなブラス・セクションの響き。極めて美しい演奏だ。
1987ベルリン・フィルはハーモニーがバランスしており、旋律の途中で強弱をつけることはあまりない。あったとしてもアンサンブル奏者が同じニュアンスであり意識された美しさ、機能的な美しさであると思う。1990ウィーン・フィルはアンサンブルが一つの楽器のような響きになり、織りなす音の彩が和服の生地の様に怪しく美しく響く。
2005ウィーン・フィルはさらに達観した雰囲気となり、3拍子の主題が軽やかにウィンナ・ワルツのエコーさえ想起させる。ニュアンスの細やかさは果てしもない。そしてクライマックスの打撃音三つのうち最初の一つは最後の曲想に重なっているのだが、この演奏では打撃音は全く聴こえてこない。フィナーレの曲想の最後の音の残音が自然に最初の打撃音の響きと想像上一緒になってしまっているような極めてユニークな響きとなっている。
そして残響のハーモニーがエコーとなって、それが消え去るまで決して奏されない第2打撃音までの異様に長い休止。ようやく二つ目が奏され、さらに長い休止のあと、最後の音が神秘的に天上のかなたまで我々河童族を運んでくれる。ビューティフルな演奏。ムーティのつぼここにあり。
おわり

 

 

 

 

コメント

0012 ホロヴィッツ・ピアニッシモ

2006-07-06 00:12:16 | 音楽夜話





河童はいつのものように週末のフライデーナイトフィーバーの翌朝、タクシードライバーのコロンバスサークルを、むかいブラッデマリーを求めてふらついていた。河童のボキャも乾いた皿のようだ。
ふと前を見ると、同じような風体で歩く東洋人と思しき人間界の発光ダイオードみたいな雰囲気でカロリー・トゥー・マッチ気味の動き、やばいと思いながら人間ウォッチをしてたら案の定何か落とした。ノートのようなのであわてて拾ってあげて渡そうと思ったらマンホールに消えてしまった。このノートを届けないといけないと思った河童は中を覗いてみた。なにやらレビューのようなことが人間語で書いてある。


1986年12月14日(日)4:00p.m. メトロポリタン・オペラハウス
ピアノ、ウラディミール・ホロヴィッツ
(プログラムはSTAGEBILLを参照のこと)

 物見が半分はいっていなかったといったら嘘になるであろう。しかし、会社を休んであの寒い中(12月4日)2時間並んでチケットを買ったのだ。日本ではいくらでチケットを買ったのだろうか。この前、ホロヴィッツが日本へ行ったときは前回と違ってずいぶん評判が良かったらしいが。ここニューヨークでも彼を聴けることはほとんど全くない。去年かおととし、たしかカーネギーホールで一度ひらいたきりだ。というわけでたしかに物見的気分はこちらとしてもかなりあったのはたしかだ。
 メトの私の席は座りなれた安い席。今日はそのオペラのマイシートよりも安い15ドル(注)。また、いつものオペラのように双眼鏡をもっている。ステージは閉じ、いつもオーケストラがはいるオーケストラ・ピットをふさいでその上にピアノが置いてある。従ってずいぶんと前に突き出ている感じだ。また、このメトであるから音は満遍なく非常に良く、持参の双眼鏡とあわせ遠近感はかなり解消されている。
 しかし、私はこの1904年生まれの高名なピアニストを、物見的気持ちをもって行ったことを少なからず反省しなければならない。ここにはたしかに音楽があったと思うのだ。音楽とは何であろう。いや音楽は何であれ全てはピアニシモから発生すべきだということをいやというほど教えられた。本当の音楽とは常にこうあるべきなのだ!!!!
 なんというピアニシモの美しさであったことか。特にものすごかったのがモーツァルトのソナタK330のアンダンテとラフマニノフのプレリュードop32。ここにはピアノのピアニシモの表現の最高の美しさ、そしてホロヴィッツの真骨頂とも言えるべきものがぞくぞくする形で表現されていた。過去に到達した全ての技術をなげうった、まさに、かれた水墨画のようなシンプルな美しさが存在していた。私がこのようなリサイタルでこれほど驚いたコンサートはいまだかつてなかった。本当に信じられない領域に達していると言っても差し支えない。
 そして、もう一つ驚いたこと。それはスタッカートである。あの歯切れの良さは一体どこからくるのであろうか。音の一粒一粒がまるで嵐のあとの水滴のようにキレギレとなってキラキラと輝くのである。なにもスカルラッティだけではない。今日のプログラム全面にわたっていたのはピアニシモの音楽もさることながら、まさしくこの切れ味の良いピアノの水滴音ではなかったのか! このピアニシモとスタッカートの音が微妙に交錯しあった時、それは一体どのような音楽になるのか。本当にそこに存在していなければわからないとはこのことであろう。
 ラフマニノフは華麗と言うよりもむしろ淡白でさえあり、そこには光ではなく全てを通り越してきた後の全てがある。そう、失われた光は取り戻せないけれども、彼の中にはそれらの全てが脳の連続作用としてチェーンのように絡まっているのだ。そう、彼はそれをひとつひとつときほぐしていくように、そして愛しむように彼の瞬間の全てを魅せてくれた。ラフマニノフもスクリャービンも私は初体験的雰囲気の音楽の作りに揺り動かされたが、約30分の休憩後の全てのプログラムがもっとすごかった。聴けば聴くほど、また噛みしめれば噛みしめるほど味が出てくるのであった。アラベスクにおける音の水彩画のような色どり。ここにはゴッホが到達したような世界がある。そしてリストの鍵盤の上を流れていくような音の粒立ち。なんという微妙で静かな世界なことか。
 ショパン。これぞ、まさしく、ホロヴィッツが、いや彼のみが見た「偉大なものは単純」な世界ではなかったか。現代のともすれば音が埋め尽くしてしまうような演奏の全く逆方向に進行していく音楽。ショパンの音楽が、音のひとつひとつの粒立ちに、まるで羽でも生えたかのように軽やかに飛び去っていく。何たる美しさか。マズルカの微妙な伴奏パートのリズム、そして、スケルツオにおけるトリオ部のなんと落ち着いた世界。音楽は無限大に向かって収束するものなのだ。ここには美しさを通り越した何かが存在した。
 ホロヴィッツが示してくれたこと。それは音楽というものは全てピアニシモからメゾフォルテの領域で表現できると言うことだ。こうやって双眼鏡をのぞいていると彼の手の動きが非常によくわかる。やわらかい、そして大きな手である。いつどこにでもすぐ飛んでいけるような大きな手。しかし、彼の表現したことは大きな音でもなければ技術の誇示でもない。まさしく、ピアニシモからメゾフォルテの音楽であった。こうやって見ていると彼はもう当然のことながら手・指は鍵盤と同じ性質のものになっているのであまり気をまわさない。気をまわすのは、その指を鍵盤に押しつける深さ浅さである。ひとつひとつの音全てがまるで異なるのはこの鍵盤を押しつける深さの度合いが全て異なるからではないだろうか!実際の彼の指の動きは、どの鍵盤へという横の動きは一心同体でもうほとんど意識されていない。彼が意識としてもつただ一つのこと、それは鍵盤をどれだけ深く、いや浅くたたくかということなのだ。時にはこすりつける程度に、またある時ははっきりと、その深度が彼の音楽をあらわしている。つまり縦の動き。
 彼の指の横の動きは、それは依然として驚嘆すべきものがいまだあるけれども、それはもうどうでもよいことなのだ。少しばかりのミスタッチなど弾く方も聴く方もどうでもよいことなのだ。私たちが見ているのは、まさしく縦の動きではなかったか。彼はこの動きに全てを尽くす。それがとりもなおさず音の強弱となってあらわれる。彼が行なったのはそのことだったのだ。そして今日はものの見事に成功した。全ての響きは無限大の収束方向へ統一され、幾何学的美しさをもっていたといっても過言ではない。恐ろしく響きの厚さが感じられる演奏だったのだ。 私がピアノ演奏家であったとしたら、あのような形で全てを表現できるであろうか。信じられない。信じることは容易いものではない。私はここに信じるべき演奏をみたといえる。ここにはたしかに音楽と言うものを確信させる何かがあったのだ。
 たまに宙に浮いた手をひらひらと動かしてみせるのは、あれは一種の運動であろう。常に動かしていなければならないのだ。たとえ一秒間の片手の休憩も彼にとっては何か調子を崩す原因になるかもしれないのだ。そして、時たま演奏中ですら左手にハンカチをもってきて口を拭くのはもうどうしようもないことなのだ。また、ふと思ったように目があらぬ方向を向くのもいたしかたのないことなのだ。演奏後、人差し指を高く上げるのは、私がNO.1と言っているのであろうか。また、手首をアメリカ人ならブー(no good)のときにやるように動かして聴衆を笑わせるのは一種の癖であろう。まるで、今日の演奏もまた私の数あるなかのひとつだよ、とでも言いたげに。現にあの元気さだったらこれからも何度もコンサートにでられるのではないか。
 とにかく私はまたしても教えられてしまったみたいだ。この貴重な演奏体験は頭の裏側に刻み込まなければならない。音楽とはピアニシモから発生するのだ!

(注)雪の積もるなかチケットを買うために並んだ。わりと唐突なノーティスであったためとにかく並んだのだが、少したったところで前の列の方からざわめきが伝わってきた。今日の発売チケットはキャッシュ・オンリーらしい。カードが使えない。このマンハッタンで!オーマイガッ。近くのジンジャーマンだったら3ドルのウィスキー一杯だってカードで払っている連中さえいるこの島で。私は恐る恐る財布をのぞいてみた。33ドルあった。周りの人に、お金貸して、とも言えず15ドル席を2枚買った。プラチナチケットではなかったが、当日までにはかなりの値がついたようだった。今日の15ドル席は普段はメトのファミリーサークル席であり、並んだ甲斐がありオペラの定席よりずいぶん前を取ることができ見晴らしもよかった。アンビリーバボな演奏であったことはたしか。日本では、どなたかがひび割れた骨董などと言っていた。評論の全文は読んでいないけれども、日常の音楽シーンに浸っていない垂直的な発言になんともいえない違和感を持ったものだ。ひび割れていない新品が欲しいなら数あるソフトから選べばいい。演奏結果だけをいいたいのならもう1000回多く聴いておくべき。始まる前の生ライブからコンサートは選べない。評論家として音楽愛好者として何を言いたかったのだろうか。
(「ひびわれた骨董」、「cracked antique」についてはまた別途)

New York Times, Monday, December, 15,1986
Recital: Horowitz Plays Mozart, Chopin and Liszt
By Bernard Holland
VLADIMIR HOROWITZ was back at the Metropolitan-Opera house yesterday afternoon - peeking out shyly from the wings, wiggling his fingers in greeting, mugging gently for the first few rows, rubbing his hands in vigorous anticipation. Mr.Horowitz made sure we knew this was no ordinary concert even before the first note was played.
 The 82-year old pianist seems in the midst of rebirth. After a long withdrawal from the stage and shaky return to it, there has been a real flowering to his career this past year, one that has included triumphal European tours and a number of new records. Word has it that early in the new year Mr.Horowitz will be off once again - to Milan to record Liszt and Mozart piano concertos with Carlo Maria Giulini and players from La Scala. The young Horowitz recorded very few concertos. In his advancing years, ambition seems to be growing.
 Given Mr.Horowitz’s lifelong reputation for explosive pianism - grand moments purveyed with maximum of excitement - yesterday’s program was almost as fascinating as the playing itself. Roughly half its music was small in scale and modest in technical demands. The Chopin B-minor Mazurka and the Mozart pieces ? the M-minor Adagio, the Rondo in D, the Sonata in C(K.330) - have been met and conquered by teen-agers only halfway serious in the study of the instrument.
 Is Mr.Horowitz playing such simple music because he has to - somehow to nurse a failing physical ability? One came away from the Met yesterday thinking not - that rather the ”smallness” of this repertory represented less a weakening technique than a new conduit for the old talent. Music awaits a truly thoughtful study of performers past 7- years of age; when it comes, I think it will agree that power does not necessarily diminish with age but simply changes its shape.

 Thus the opening Scarlatti and Mozart pieces spoke almost in whispers - just as the Schumann “Arabesque” and Liszt’s “Valse Oubliee” were eerily subdued. Their power, however, was considerable, but transformed, drained of any old brutalities or arrogance and couched in terms of great calmness. It is odd how a whole generation of young pianists has based its collective style on Horowitzian principles, while probably misunderstanding the nature of this playing.
 For, as yesterday demonstrated, Mr.Horowitz’s technique lies not in its ability to thunder in the bass line of Scriabin’s D-sharp-minor Etude or tootle at incredible speeds through a Moszkowski encore; it is a less-given talent - one that conceives a sound, colors it in mind with the appropriate tint and resonance, and then reproduces it precisely with the movement of a hand on keyboard. It is this amazing gift for using the quality of sound as a metaphor for human speech that sets Mr.Horowitz apart from his admires and imitators, many of whom play more quickly, more loudly and with more right notes than he.
 Once wondered, for example, at the Rachmaninoff Prelude in G, whose substance seemed evasive, shadowy, seductive and yet somehow perfectly clear. Through Liszt’s added filigree in the “Soiree de Vienne” arrangements, Schubert’s wonderful little waltzes shone in all their innocence and inspiration. When Mr.Horowitz had pianistic troubles, they were usually in Mozart’s straightforward, highly exposed scale passages.
Juilliard students could have played these figures in their sleep, but who among us could replicate the warm conversational tone of the Rond’s staccato passages or make ears deadened by two centuries of deceptive cadences accept the one at the end of this piece with total surprise?

Throughout, one felt mor spontaneity than deliberation - the third of Schubert’s “Moments Musicaux” (his first encore) sounded almost like an interpretation thinking on its feet. How totally different was this crisp separation of notes from the smooth and totally different version of the same piece recorded for Deutsche Grammophon engineers a few month ago.
 This is another reason that yesterday’s large, quietly enthusiastic audience had to congratulate itself. Each added chance to experience Mr.Horowitz’s special set of gifts is a gift in itself, but there is also the setting - the positioning that allows listeners to catch random thoughts on the fly. Horowitz on records is deceptive, being rarely a summation of an artist’s beliefs but rather the captured moments of one of music’s greatest free-associators.





コメント

0007- ベリーニ イ・プリターニ 日本初演

2006-06-29 22:55:45 | 音楽夜話

1_7

 

 

 

 

この間、バーでお酒を飲んでいたら、なぜか、ベリーニに話題が舞台転換してしまったので、ちょっと、清教徒、日本初演を思い出した。

ときはバブル真っ盛り、1989年2月という後れてきた日本初演だ。エルヴィーラは歌うしぐさがカラス似と言われていたルチア・アリベルティ。アルトゥーロはアルド・ベルトロという知らない人。カルロ・フランチ指揮東京フィル。藤原歌劇団公演。

注目はテノールのアルトゥーロのハイ音、歌う方もそのためにわざわざ来たのだと思う。全部完璧に出したのかどうか河童の記憶はここでも溶解し始めている。

1発目→3点cis。2発目→3点d。3発目→3点d。4発目→3点f。

こうやって書くだけで気持ちがブルーになってくる。ファルセットではなかったと記憶する。ベルトロはわりと小柄でアリベルティとアンバランスな感じではあったが、本気モードで頑張っていたようだ。高音を出すときの目の動き、顔の雰囲気がホセ・カレラスっぽかったような気もする。

曲自体が日本初であるため、いろんな人が来ていたと思うが、ハイ音の心の準備をしてきた人はあまりいなかったのではないか。みんなバブルに浮かれていたし、また初物だ、と言う感じ。アルコールで日本国中ボーッとしていて思考が停止していたのかもしれない。

でもみんな頑張った。カラス似と言われたアリベルティは、弱音を歌うときあごをひき、伏し目がちになる。一瞬カラスみたいな気がしないでもない。ただ、あごをひくときと声をはりあげるときで音質が異なってしまう為、2色音声のようだ。でも要所は決める。オケも初物にしてはホルンのソロをはじめベリーニ特有のひたすら流れる音楽に身を浸すことが出来た。たしかNHKのテレビ放送があったはずなので、是非DVDで出して欲しいものだ。これは上野なので音もいいはずだ。メト座の河童はサザーランドのエルヴィーラを見たような気がするぞ。それに連隊の娘とかも。別途。

アリベルティはその後も何度か来日した。オペラにガラコンサートにと日本でも活躍した。


‘Pretty night tonight

‘Thanks

‘When you back again?

‘I don’t know

‘Who knows?

‘Nobody knows

‘Nobodyelse knows?

‘I give you my autograph, bringing too much.

‘Thanks

こんな河童会話を最後に、最近は来ていないような気がする。


河童のプリターニ狂時代のアイテムをメモっておく。今手に入るかどうかはわからない。また、ハイ音の上げ下げは聴いて確かめて欲しい。


1.マリア・カラス/ジュゼッペ・デ・ステファノ

ピッコ指揮メキシコ  1952

2.マリア・カラス/ジュゼッペ・デ・ステファノ

セラフィン指揮ローマ 1953(ANGEL RECORD)

3.ジョン・サザーランド/ルチアーノ・パヴァロッティ

ボニング指揮ロンドン  1973

4.ルチア・アリベルティ/アルド・ベルトロ

フランチ指揮東京フィル 1989(NHK-FM)

5.ビヴァリー・シルズ/ニコライ・ゲッダ

ルデール指揮ロンドン  1973

6.マリエラ・デヴィーア/ウィリアム・マテッチ

 ボニング指揮マッシモ・ベリーニ 1989

7.エディッタ・グルベローヴァ/ジャスティン・ラヴェンダー

 ルイージ指揮ミュンヘン放送 1993

8.エディッタ・グルベローヴァ/マルチェルロ・ジョルダーニ

 プラシード・ドミンゴ指揮ウィーン国立 1994(NHK-FM)

9.ミレイラ・フレーニ/ルチアーノ・パヴァロッティ

 ムーティ指揮ローマ 1969

10.クリスティーナ・ドイテコム/ニコライ・ゲッダ

 ムーティ指揮フィレンツェ 1970

11.モンセラ・カバリエ/アルフレッド・クラウス

ムーティ指揮フィルハーモニア 1979

12.アドリアーナ・マリポンテ/アルフレッド・クラウス

 ガヴァッチェーニ指揮カタニア 1972

13.クリスティーナ・ドイテコム/アルフレッド・クラウス

 ヴェルトゥリ指揮ブエノス・アイレス 1972

14.ルチア・アリベルティ/ジュゼッペ・サバティーニ

 パテルノストロ指揮ベルリン放送 (ハイライト)

15.ジョン・サザーランド/ピエール・デュヴァル

 ボニング指揮フィレンツェ5月音楽祭 1963

16.ミレイラ・フレーニ/アルフレッド・クラウス

 ヴェチ指揮モデナ 1962

17.カティア・リッチャレルリ/クリス・メリット

 フェッロ指揮シチリアーナ 1986

18.ジョン・サザーランド/ジャンニ・ライモンディ

 セラフィン指揮パレルモ   1961

19.Lina Pagliughi/Mario Filippeschi

 プレヴィタール指揮ローマ 1952

20.ステファニア・ボンファデルリ/ステファーノ・セッコ

 クーン指揮カタニア  2001

21.ジョン・サザーランド/ロックウェル・ブレイク

ボニング指揮メト 1986(WQXR)


ANGELのカラスの歌は、美空ひばりがスコアを見ながら歌っているようないざとなったときの正確性に驚く。

指揮者では、リッカルド・ムーティがいかに若いときからものすごい連中とやりあっていたかわかる。日本ではぱっとしないが、昔河童が生聴きしたフィラデルフィアとのスクリャービンの3番はすごかった。彼はこれが得意でウィーンでもベルリンでも振っている。

それはそれとして、ここにリストアップした清教徒、みなさん聴きまくりオペラのつぼにはまりましょう。

コメント (1)

0006- 演奏は曲を超えた ムラヴィンスキー シベセブン

2006-06-28 00:04:25 | 音楽夜話

解釈の為に存在する曲。こんなとんでもない演奏はいまだかつて聴いたこともなかったし、これからもありえないだろう。まさに空前絶後という言葉がぴったり。河童推定で1972年に手に入れた新世界レコード。ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの1965年モスクワのライヴ録音。何度聴いたことか。掘れて白くなっている。白すぎるのはシベリウスの交響曲第7番。この演奏解釈を何にたとえよう。唯一、第2次世界大戦中のフルトヴェングラー指揮による運命の第4楽章コーダにおける超アチェルランド。トランペットのもつれるタンギング。ものともせず駆立てるフルトヴェングラーの震える波状攻撃の棒。並ぶのはこの演奏しかない。それほどすさまじいムラヴィンスキーの超シベリウス解釈。とにかく跡に残ったのはすさまじい解釈とオケの実力だけ、と言った感じ。

曲は約20分。交響曲とは言いながら自由な曲想で進む。主にテンポや雰囲気が変わるところを羅列してみる。聴きながら河童のお皿いをする人は是非、音量をオケの定位が明確に感じられるほど、あげて聴いて欲しい。

1. Adagio ティンパニの弱音(ピアノ)による導入。

1.1 mezza voce(22小節目) 弦楽器による流れるようなメロディーライン。

1.2 (60小節目)トロンボーン・ソロ。

1.3 (71小節目 練習番号D)ティンパニの打撃。

2. Un pochett meno adagio ~poco affrett(練習番号Fの前後)テンポ徐々にアップ。

3. Vivacissimo(練習番号J)スケルツォ風。

4. Adagio(練習番号L)トロボーンのソロに導かれ金管の彷徨。

5. Allegro molto moderato 流れる弦と木管。

5.1 (練習番号T)弦の驚異的なハーモニー。素晴らしい。

6.  Vivace さらなる加速。

7.  Presto シベリウスのギザギザ音。

8.  Adagio トロンボーン再帰。

8.1 (練習番号Y)ティンパニ炸裂。

9.  Largamento (練習番号Z)全金管炸裂。

10.  Affettuoso 最後の準備。

11. Tempo I


(1)抑え気味のティンパニに続いて2分の3拍子で弦が先を急ぐように上昇する。この時点でムラヴィンスキーのはがねの意志とレニングラード・フィルの実力のすさまじさを聴き取る事が出来る。(1.1)そしてすべるような長い長い弦楽器主体の柔らかなフレーズ。飛行機から見る眼下の流れる雲。魔法のじゅうたん。

そして曲想は一気に盛り上がり最初のクライマックスをむかえる。(1.2)圧倒的なトロンボーン・ソロ。向かって右側に定位したトロボーンが、ムラヴィンスキーによりこれまた圧倒的に静寂を奏でるべくコントロールされた他の楽器のもと、まるでトロボーン・コンツェルトなみに朗々と吹きまくる。目の前にトロンボニストのバジングが、アンブッシュアが、濡れた唇が、震えるビブラートが、なんという大胆な響き。これぞまさしく、何も足さない何も引かないムラヴィンスキーの楽譜のみを信じる鉄の意志からしか生まれえない偉大な解釈であろう。

(1.3)しかし真のクライマックスはこのあとにやってくる。トロボーンを引き継いだホルンがシベリウス的イディオムのショートフレーズでこのメロディーラインを切り上げた直後だ。強烈なティンパニの一撃。撥が飛び皮が破れそうなティンパニ。そしてそれを克明に超リアルにとらえた録音。スコアに強弱記号はない。それに続く木管の鬼気迫るユニゾン。これこそが真のクライマックス。思い起こせば、冒頭の第一音もティンパニがピアノで奏でられていたのだ。ここまで我々は息をつく暇も無いではないか。我にかえり、他のどの指揮者の演奏でもいい、あまたある演奏を少し思い浮かべてみよう。いかに凡庸であることか。ムラヴィンスキーの異形に畏怖の念をおぼえ頭がクラクラしてくる。

(2)テンポは加速を2度重ね、(3)スケルツォ風のヴィヴァーチェシモにはいる。一度だけ弦の合奏が不ぞろいになるが、その一箇所のライヴ的瑕疵を除けば、あとはレニングラード・フィルの圧倒的な腕。腕。腕。日本のオケの皆さん。よく聴いてください。こんな合奏やったことありますか。

(4)そしてトロンボーン・ソロに導かれ、大伽藍の圧倒的な金管の彷徨が始まる。まるで宇宙が共鳴するようなこれぞ真のロシアのブラスの響き。炸裂ではあるがこんなきれいな音きいたことない。そして再度スケルツォ風にもどり、すぐに(5)弦楽器と木管による流れるような音楽が始まる。なんと素晴らしい弦楽器のハーモニー。進むにしたがい曲は少しずつ刻みが短くなり始める。中低弦の刻みをベースにヴァイオリンの流れるハーモニー。(5.1)ここで我々はまたしても忘れがたい弦の響きに遭遇するのであった。

(6)音楽はさらなる加速をしながら、(7)最後のプレストに突入する。シベリウス特有の執拗な弦楽器の刻みの中、(8)アダージョで例のトロンボーン・ソロが再帰する。1.2と同じ進行だが、(8.1)このあとの真のクライマックスの再帰。つまりティンパニの強打。スコアではここはピアノからデクレシェンドするトレモロと書いてある。しかし、響く音は指定とは全く異なる大強打。ムラヴィンスキーの曲の縁取り感覚がものの見事に決まった瞬間であろう。フィナーレが近くに来ているので、ここで我々は興奮、静かなる熱狂を感じることになる。実に素晴らしい解釈だ。(9)音楽は急速にブラスの響きが急降下し、ウルトラ超フォルテッシッシッシモで、八分音符をかなでる。擬音で言うと、グワッ、という風に聴こえる。(10)弦が長い音をクレシェンド、デクレシェンドしながら最後の、たった5小節だが、内容てんこ盛りのクライマックスを導く。(11)弦がシンコペーションを繰り返すなか、ブラスセクションがメゾピアノから一つの音をクレシェンドしはじめる。トランペット、トロンボーン、ホルンが、メゾフォルテからフォルテッシモまでたった四分音符7つ分のなかを一度デクレシェンドし、すぐにクレシェンドするのだ。この解釈!そして見事すぎるほどに吹いてしまうレニングラード・フィルの恐るべき力。そして最後の炸裂のなか、ちょっと待て、この最後の炸裂音の響きは他の指揮者と全く異なる。バランスが異なるだけではないとみる。その最後の炸裂音、彷徨のなか、全ての弦がユニゾンで二つの音、全音符+2分音符、2分音符、をブラッシングしながら終わる、だけならよいのだが、録音を聴くとムラヴィンスキーはこの弦の全奏にホルンを重ねている。まさに朗々と宇宙的響きをかもしだす。そして、最後は、全音符+2分音符、2分音符、で本来なら、他の指揮者がやっているように、ざーーーーざぁ。と切り上げなければならないところ。音価は全く逆。というよりも、ざーーーー、ざーーーーーーーーーーーぁ。と終わる。どこまで伸ばして終わるのか、きっとレニングラード・フィルの強烈なビブラートが果てしも無く続き、全員のビブラートさえも完璧にピッチがあい共鳴し始めるその瞬間を狙って終わるのだ。ああ完璧な解釈だ。素晴らしい。

この演奏の素晴らしさを30年以上訴え続けてきた河童だが、誰も振り向いてくれない。一人を除いて。


ムラヴィンスキーがいかに無から音楽を始めているか。唯一信ずることが出来るのは楽譜だが、だからといってそのまま響かせるわけではない。彼の意思が入り込んでいる。ちょっと聴くと異形のようではあるが、しかし、レニングラード・フィルの実力ともども、双方の長い年月にわたるたゆまぬ努力と、ムラヴィンスキーの天才技がミラクルを生んだ瞬間。現場で起こった必然性のある解釈、屈服させられてしまう解釈。芸術は異形なり。

有名なベト4は全く方針の異なる曲だが、同じプロセスを踏むことにより、結果的には両曲ともアンビリーバブルな演奏であるとともに、透明性、ダイナミック、几帳面性など相似形の演奏となっている。生で聴いた田園など思い起こすと、強烈なコントロールなどといわれたものとは全く別の響きがそこにあったのは事実。あの演奏も忘れがたい。シベセブンは日本でのライブもあるが、録音のコンディションが悪いのと、それ以前に、やってる場所が悪い。なにしろN●Kホールですから。あすこでミラクルな演奏なんてめったにない。ホールが演奏を壊す。

あと、シベリウスの曲で、対極の路線から出発して、結果として同じような強烈な感動をもたらす演奏解釈として、クーレンカンプフのヴァイオリン、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのシベコン、戦中ライブがある。もう少しましな音で聴きたいものだが、残っているだけでよしとしよう。ヴァイオリニストの心臓が指揮者の強烈な演奏解釈につられてしまって、完全に煽られ、同一の意識レベル、高みまで達した稀有の例。クーレンカンプフの心臓がバクバクと音をたてている。駆り立てるフルトヴェングラー。これまた解釈がスキルを超えた録音である。また、バックを務めるベルリン・フィルのダイナミックレンジは覗うべくもないが、想像はつく。

オケの皆さん、このとおりやれ、などとは言わない。だけど、少なくともこのような志で音楽に向かっていって欲しい。真の芸術が真のエンタメを生む。聴衆は気が楽かもしれないが、ハイレベルな意識のなかで共同体を形成したいものだ。継続するエンタメを。

とにかく、ムラヴィンスキーの指揮による1965年モスクワライブは音がよいので、シベリウスの交響曲を始め、全部聴いて欲しいものだ。孤高の指揮者による、今では考えもつかない当時のハイレベルなレニングラード・フィルの恐るべき力が永久に輝き続けている。

おしまい

 

 

 

 

 

 

コメント

0003- ドミンゴ 日本デビュー30周年

2006-06-22 01:54:38 | 音楽夜話



昨晩はメトのワルキューレ公演最終日。N●Kホールは相変わらずダメサウンドだが、このミラクルキャスト見ないてはない。
ジークムントのドミンゴは1941年生まれ、と2,500円のプログラムに書いてある。65歳!
「日本デビュー30周年」と、第2幕が終わったところで今日は3つある字幕に書いてあった。
この字幕は対訳だけでるわけではなさそうだ。母音がむき出しにならずドイツヘルデンテノールの黒光りする輝きがあまり感じられないのは年齢のせいか、母国語の関係かよくわからない。
いずれにしてもオールスタークラクラキャスト。
両デボラによるガチンコは、声の強靭さと響き、広がり、の点でジークリンデのボイトの勝ち。
ブリュンのポラスキはこのロール全て知り尽くした安定感があるもののその昔から声質自体に特段魅力があると言うわけでもない、が持続するパワーが消耗戦の真昼のサッカー決闘選手の上をいくすごさがある。
ヴォータンのモリスはそのピアニスティックな響きが意外とはいえ、あの巨大ダメホールでよくあれだけ弱音で観客をうならせてくれた。
パペは昔第九の第一音を聴いてから尊敬しっぱなし。昨晩もグーなフンディング。
指揮のアンドリュー・デイヴィスはピアノも達者なはずで、今回レヴァインの代役で稽古をしたのかどうかよくわからないが、オーケストラの微妙なアンサンブルがしっかり、丁寧にきまっていた。
指揮者の功績か、それとも最近のこのオケの傾向か。弱音アンサンブルが決まっている分、しまりのある演奏。チェロは7本。全体に小ぶり。半分ぐらいしかメンバーが来ていないのはないか。

それにしてもだ。もっと若いジークムントみたい。メト座の河童はその昔、ドミンゴのパルジファルも、ローエングリンも、カヴァラドッシも、ホフマン物語も垣間見た。こうもりでは棒も振っていたようだ。グノーのロメジュリにアルフレッド・クラウスが出たときも棒を振っていたような気がする。記憶と記録が溶解し始めているが、当時の若さパワーも今は昔。早く出て来い。マジテノール。

写真は昨晩のプログラムのキャスト表。右側にキラキラかがやくチケットの鋳型は、このオットー・シェンクのプロダクションのワルキューレ初日1986年9月22日の記念物のようだな。
メト座の河童も今日は5時間公演で2キロ減った。トラヴィアータとドンジョヴァンいけばもう4キロダイエットできそ。


コメント

0002- 終演予定時刻20:29

2006-06-20 00:53:59 | 音楽夜話

2年前の5月に、サラステがN響を振った。ブル5とマラ6の2曲で2週うめた。
ブル5はぬぐい難い違和感があったが、マラ6は普通。自己主張型練習もやっていたように思えた。シベリウス的マーラーなどと言ったら、生知らず頭でっかちのレコ芸的文章の表現に終始していると言われても、はいそのとおりです、と言うしかない。
終楽章の、打たれない3打目のハンマーの前のところで、ティンパニを含めたパーカッション5人がごそごそと全員立ち上がりシンバルを持ち始めた。まさか全員でドンシャリすることもあるめぇ、と思ったのも束の間大音響でパシャーとやった。
シンバルの数え方はわからないが5人で5個。計10皿?


ところで、この写真は、演奏会場でよく見かけるものだ。
特に休憩等がない演奏会の場合は、素人向けに事前のお知らせの意味をこめて立ててある。
よく見ないとわからないが、終演予定時刻20:29とある。
何故このようなことがわかるのであろうか。かなり笑える。
この日は2晩目なので昨晩のタイミングから算出したのであろうか。
現代指揮の機械的な演奏に対するブラックジョークにもとれる。
(2004.5.15 サラステ&N響)

コメント

0001- クレンペラーの指揮台叩き

2006-06-18 16:07:10 | 音楽夜話


YouTube: クレンペラーの指揮台叩き

クレンペラー「おめぇら。なめんじゃねぇ。俺の言うとおりにやれ。」

フィルハーモニア管弦楽団「シーーーーーーーーーン。」

この映像は、プロのオーケストラにエグモントの稽古をしてあげてるとこ。

いまどき、こんなことしたらオケのメンバーに総スカンされるのがオチ。

だけど、どうやったら、今の根性もしまりもない、上滑りの、薄っぺらな音、存在するのは才能の無い指揮者ばかり、の状態をもとに戻せるの?指揮のかたもオケの皆さんも気をいれて演奏してね。演技はもういいから。

クレンペラーの、なめんなよ発言に文句言えるオケメンバーがいるとは思えない。マーラーとともに生き、当時の現代音楽に息吹を与え、音楽の歴史を綿綿と創造してきた人間の吐く言葉に誰が文句をいえるものか。一言たてついたら1000返ってくるだろう。そしてその言葉は全て正しいのだ。きっと。

歴史を作ってきた人たちの凄み。その歴史を今こそ受け継いでいかなければならない。その使命に燃えているのか。それともエンタメ学芸会とのバウンダリーで生きていけばいいと思っているのか。

出て来い。日本人根性指揮者。ところで、みなさんはジャナンドレア・ノセダの指揮姿をみたことありますか。あのバーンスタインも遠く及ばない、超指揮。手足がモゲテ飛んでいってしまいそうなトンデモ棒なのだ。だけど、見て聴いていると全く理屈にあったエモーショナル。1ミリのわざとらしさも無ければ、演技意識も無い。この棒にしてこの音楽ありなのだ。才能があるというのはこんな現象のことを言うんだろうね。きっと。

出て来い。日本人指揮者。君が音楽を作り、歴史を創り、ホールを造り、我々の耳を洗い、文化を創造するのだ。一心不乱にやるしかないんだよ。

ところで、クレンペラーは自分が死んだのも忘れ、日本人に根性を入れるために、ある日、わざわざN●Kホールまで担架に乗ってやってきた。指揮も担架の上。彼は練習でいきなり一撃をかました。「なめんじゃねぇよ。こんなホールで演奏なんか出来るわけねぇだろ。2階の奥なんか地獄席じゃねぇか。あんなとこ、カネいくら積まれたって座りたくねぇだろ。客も。」

ということで、これから巣立つ棒振りはホールを作らせるぐらいの頑張りを見せてほしいものだ。自前ホールがあればオケも育つ。他のセクションの音も聴こえないようなホールでいいアンサンブルなんか出来るわけがない。アンサンブルとは他人の音を聴く、ということでした。第1回目の日記でした。

 

コメント