河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1418- 今年もそろそろフルトヴェングラーの命日、nyp全プログラム、交響曲第1番日本初演など

2012-11-24 22:38:13 | 日記・エッセイ・コラム

この11月末、今年もフルトヴェングラーの命日がやってきました。1954年11月30日に68歳で亡くなっておりますので58年経ちました。いまどき68歳というと指揮者では脂がのりきっている年頃。あと20年ぐらい活躍しても不思議ではない。
でも、あの棒の振り具合だとこの年ぐらいが限界のような気もします。あまりにも過激な振り姿。
ワルター、トスカニーニ、クレンペラー等の生年没年の中にすっぽりと収まってしまう短い生涯ではありました。濃く短く。
このヒート感が人気を保っている一つの理由かもしれません。また、あの律動芸術の奥義については彼自身が書いた本をたくさん読むのがいいと思います。浅学の知恵ではない哲学の世界をさまよう棒。
個人的には、日本フルトヴェングラー協会会員を、10年を4度重ねてしまいましたが、昔の熱はどこへやら、昨今は東京フルトヴェングラー研究会の熱い動きに恐れ入ります。CD頒布などとはべつに、演奏会、読本、フォーラム、フェスト等、野口氏の活躍には目をみはるものがあります。
商用の音源発掘はほぼ終わりつくして久しいですが、今度は音質向上と称し手を変え品を変え、これはこれで悪い話ではないとは思います。
一般に、音源に関しては昔のセッション録音中心の時代から移り変わり、バブル期以降はライブ音源の掘り起しが流行り、その流れのまま音質向上と称し再発連発。新譜はほぼライブ音源、掘り起しは未発掘のものと音質向上再発盤。経費節減もありだいたいこの流れできている。
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偉大なものは単純であると運命の動機が鳴り、濃くもぶ厚い2,3楽章を垣間見てフィナーレ勝利のファンファーレが高らかになり、コーダへ滑り込む、このコーダは高技術集団ベルリン・フィルの保有技術を越えてしまっていてフルトヴェングラーの指揮についていけてない、圧倒的な解釈なわけです。そこまでして何を表現しなければならなかったのか。これはもちろん1943年戦中の怒髪天を衝くトンデモ演奏の話ですけれど、戦争中という尋常でない状況があって初めてできた演奏であって、それならば政治と音楽とは別物と言ったフルトヴェングラーの言い分は矛盾するのではないのかと、かの大木正興氏は昔言いました。では戦後のこの演奏、シュマ1の圧倒的奇天烈さはどう説明すればいいのでしょうか。
ここは気を静めて、全く別の側面、例えば独特な弦のスタッカートなど絶妙な表現に耳を傾けてみるのも一つの手かと思います。
政治と音楽については、来年の2月に再上演されるテイキングサイド(注1)を楽しみにしましょう。
それまでに彼の本(フルトヴェングラー執筆のもの)は読めるだけ読んでおきましょう。その深さに驚きます。私も再読しておきます。
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書き出すときりがありませんので、ここまでとします。
それでは、これも最終的には政治がらみとなりその後続かなかったものですが、恒例となったニューヨーク・フィルハーモニックへの登場の全プログラムをメモしてありますのでリンクをご覧ください。フルトヴェングラーの登場は3シーズンのみです。
1924-1925シーズン
1925-1926シーズン
1926-1927シーズン
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それから、これも以前書いたものですが、フルトヴェングラー作曲の交響曲第1番の日本初演の演奏会の模様をリンクしておきます。
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フルトヴェングラー作曲 交響曲第1番 日本初演
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おわり
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注1
これは演劇です。
日本国内では、来年の公演は再演です。初演は「どちらの側に立つか」という題で国内初演済み。
そのかなり前の1995年にイギリスで上演済み。その際の日本の新聞評をリンクしておきます。
1995年10月12日の朝日新聞より
ここ ←写真をクリックすれば拡大記事を読めます。
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1344- 記憶連続

2012-02-05 23:30:00 | 日記・エッセイ・コラム

河童さんは「さすらいのにせサラリーマン」、さすらいではあるのですが、とりあえずサラリーマンでして、会社にはいってから12回ぐらい引越しさせられました。あまり引越し回数が多いので、もういいだろうということで、飛行機通勤をやったこともあります(笑)。もういいだろうというのは引越しがもういいだろうということだけで、あちこち行かされるのは変わらなかったわけですよ(笑)。飛行機通勤は3年やらされました。火曜日朝方出て木曜日夜戻る、月金は東京で。この間354回フライトしました。
このフライト回数で印象にあるのは、飛行機が飛ばなかったのは一回だけだったということ。それも天候とか事故とかではなくて、ANAのスト。
あともう一つ、平日なか日の水曜日に渋谷のオーチャードでドホナーニ&クリーヴランド管によるマーラーの9番がありまして、それをどうしても聴かなければならず、というより終わってからチェロのダイアン・マザーさんと焼き鳥屋に行かなければならず、そのためにちょっと戻った、だから週に二往復した、とか。
マザーさんとかマジェスケさんとかご本人たちは知らないことですが、私はもっとずっとずっと前の1974年のあの来日、セルが1970年万博の後に亡くなり、襲ったマゼール、当時全身から湯気が出て後光が沸騰しているかのような天才絶好調男その名もロリーン・マーゼルではなくロリン・マゼールがクリーヴランドを連れて初見参した時、随行した当地の新聞記者たちからすすめられ、誰のかもわからない杖(スティックですね)を持たされて団員とポーズをとらされて新聞記者たちが撮る写真に収まったことを昨日の出来事のように思い出す、それ以来メンバーの事はよく知っていたのですよ。
付け加えるとこのときのプログラムの事は脳裏の裏の縫い目のあたりにしっかり今でも焼き付いてます。ベートーヴェンの4番、ベルリオーズの幻想、そしてアンコール、本当に弧になった虹をみた運命の力序曲!第2主題ですね。空気が呼吸してました!あの静寂から現れたヴァイオリンの超美弱音!当時のクリーヴランドはまるで水滴の中でヴァイオリンを弾いているかのようなあまりにみずみずしく、音符もしずくとなって滴り落ちる。ベト4なんて空中に浮いて美しい水滴がスローモーションしてましたね。幻想はまるでガラス張りのステンドグラスのなかで動く悪魔。日本の当時のオケとは比べるものもおこがましい実力差(10倍ぐらい)、来日トップクラスのオケの実力のものすごさをかみしめるといったおもむき。

何の話をしようとしていたのかわからなくなりました。こんなことそんなことどうでもいいって言うわけでもなくて、例によって記憶が全部まるで、弾き振りのミトプー(ミトロプーロスですよね)並みなんですよ。音符ではありませんが、昔引越しでいったいろいろな土地や彼の地での悪行の数々がまるでレントゲン写真のように一瞬に全部浮かんでくるようなそんな状態で記憶の底に沈んでるんですよ。
昔のことを静かに思い出したくなる状態がそのうちやってくると思いますけれど、そのときになったら一度、昔渡り歩いた土地を訪れてみたい、「年寄りの思い出さぐり」みたいな。
でもなんだか、一旦そこを訪れてしまうと、それまで膨らませたイメージが全部消えてしまうような気がするんです。だから、今はまだ、膨らんだイメージを書き留めて置くことに割と力をいれることにしてるんですよ。昔を見ると忘れてしまう、見ないでいれば思い出せる、変と言えば変ですけれど、これ実感なんですね。

それで、これは会社にはいるずっと前なんですが、旅的な、どこかへ行った、という記憶で一番古いのが、おじいちゃんに連れられて行った「あぐりこ」というところです。駅があって、小川があって、石の橋を渡るとお寺があって、今でも鮮明に覚えてます。いくつだったのかな。たぶん、3~5才ぐらい。石の橋にすわっておふくろが作ってくれたおにぎりを食べました。自分が全部食べてしまいおじいちゃんは食べ損ねたということをあとで聞きましたけど。
おばあちゃんは僕が生まれて一年ぐらいで亡くなったそうで記憶には一つしかありません。抱きかかえられて居間を通過した記憶があります。居間の形も記憶にあります。黒い大黒柱があったころですね。
でも、自分の全部の記憶で一番古いのは、たぶん、羊水のなかでした。溺れているのに苦しくない。妙な気持でしたね。ジャバジャバという音まで聞こえていたような気がします。
いずれにしても、なんとしあわせな時代だったことか!!

転勤の着任地で、最初っからカメラもって思い出づくりを始める人がおります。自分の場合は全く逆です。その地で遊びも仕事も全部しちまぇといった感じ。あとで考えるといろんなことをしていたなぁ、というぐらいです。写真もあまりありません。思い出作りなんて考えたこともなかった。
今はなにかにつけデジカメの世界であんなにムーヴィーとか写真をとって、一番大事なことをしていない。つまり自分の記憶の中にその瞬間を、必然性をもった一貫した流れとしてとらえることが出来ていない。自然の時の流れを断絶するデジカメ世界の何がいいのか。
プロは別ですよ。プロというのは逆にその自然の流れの中にある必然をとらえる、リアルな目を持ってつかむ、そのことができる人たちがプロでしょう。
自分的には写真は少なくていい。ある時の点と点が写真で少し残っていればいい。あとは記憶が呻いていく。記憶が生きて呻く。もっと言うと、その点と点になる写真もいらない。
点と点、その隙間、両方、「年寄りの思い出さぐり」を始めるにはまだ少し早いような気がします。自分のブログもそうですが後ろ向きといいますか、後ろを見ながら前に進む、みたいなところは少しありますね。

デジャビュの経験ありますか。なんか、ものすごい人だかりと混乱のストリート。雑踏の声、クラクション、絶え間ない通奏低音。でも自分に聞こえてくるのは、シーン、ツーンとした妙な静けさの音、そのなかで、あれ、この場の雰囲気なんか記憶にある、自分は初体験なのに懐かしい。
既視されている方が夢で、既視している方が現実?それとも、既視されている方が現実で、既視している方が夢?はたまた両方とも夢?両方とも現実?
既視している自分は絶対的に現実なんでしょうか。これって昔むかし見たことがある、って思っている自分が実は夢の中っていうことはありませんか。自分はそんな風に思うことがあるんですよ。今夢の中で既視感を味わっている、それを見ている現実の自分がいる。インセプションって本当にあるのかもね。
睡眠中に見る夢は先々のことに関するものであってもなくても、全て過去の出来事のイメージ化だとどこかで読んだことがあります。だいたい、こんな夢、なんで見たんだろう、なにかの前ぶれなのかなと思ったりしますが、じっくりよく思い起こしてみると、ああ昨日こうゆうことがあったんでこんな夢を見たんだ、と感じる時が結構ある。少なくとも自分の場合、その夢が出てきた原因は過去の出来事にあると思い当たるのがほとんど。
それで、その見た夢の内容がデジャビュのことだったりして。
デジャビュって現在は現実であるという絶対公理みたいなものの上に成り立っているのかな。現在が夢見状態かもしれないということじゃいけないのかな。
この感覚ってデジャビュなのかなって思っている自分が実は夢の中の人だったりして。
間髪無し状態、夢の中でデジャビュっている状態が絶え間なく続いているような気がするんですよ。だから昔のことをよく覚えているねぇ、といわれても単に、「今、ずーっと連続した夢の中でデジャビュしている。夢の中で絶え間ないデジャビュをしている」ので記憶が点と点で蘇るというよりも線になっている。それを文章とか声に出しているだけ。なので、もしかして、周りから見て過去をクリアに思い出しているときの自分は夢をさまよっている状態なのかもしれない。そんな状態のことを、記憶がいいね、と言われているだけかもしれないんです。連続は線だ。点でなく線になって蘇えるのは連続しているデジャビュ夢のせい。だから夢の中でデジャビュ夢を見続ければ断片やジグソーパズルではなく、シームレスで記憶が順序正しくシーケンスに次々と湧き出てくる。
じゃあ、私の話し相手は、夢の中の私と会話しているのかな。よく、寝言いっている人にうなずいて返事とか相槌をうってはいけないと言われますよね。おそらく夢の中の自分と会話している人はやはり夢見中の人のような気がする。ゆめゆめ同士で記憶の探り合いをしている。
だめだ、夢が妄想を呼び起こす。

(後半省略(笑))
●●●●
おわり

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1271- ≪独立宣言235年 自由の女神125年≫

2011-07-04 21:48:46 | 日記・エッセイ・コラム

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ブロードウエイはパインストリートを越え、右にトリニティーチャーチを仰ぎ見ながら、ウォールストリートをやり過ごし、レクターストリートをスキップすると、まもなくバッテリーパークに着く。そこから見るやや遠目の、スタチュー・オブ・リバティーは今日もしっかり立っている。
昔、地下鉄コートランド駅、アレキサンダー・デパートの上に天までとどくビルがあった頃、その天から睥睨したながめは絶景であった。右にハドソンリヴァー、その先にニュージャージー、左にイーストリヴァーを見ながら、そして正面やや左にスタッテン・アイランド、やや右に、スタチュー・オブ・リバティーを展望することが出来た。ジャンプするとどこまでも飛んでいけるような気がした。そのビルも今は無い。
アメリカが独立宣言をしたのが1776年。独立百年記念で自由の女神をフランスから寄贈されたのが1886年。百年記念と言いながら、110年たっていた。だから自由の女神寄贈100年祭は1986年。このお祭りのとき、レーガン大統領はたしか空母だか戦艦だかを降りなかったはずだ。当時リビアのカダフィがマンハッタンの地下鉄に爆弾を仕掛ける、などといった噂がニューヨークに流れていたのだ。100年祭で世界中からたくさんの船が来てお祝いをし、自国の、島のような空母、戦艦なども山のように寄港した。しかし、レーガンは確か上陸しなかった。いずれにしろ独立記念日と自由の女神寄贈とは百年単位+10年という割と中途半端な数値である。

ニューヨーク・フィルの最初の公演は1842年アポロ劇場においておこなわれた。思えば長い歳月が経ったものだ。ざっと169シーズン。数々の指揮者がオーケストラとともにあった。未来の音は聴くことが出来ない。しかし音を出すことによってしか未来は創造出来ない。未来を創造するのは夢・希望に膨らむ若手プレーヤーをおいて他にない。河童に出来ることは残念ながら昔の音を思い出すということだけだ。
指揮者と歌い手、変な話、亡くなると両方ともあっという間に忘れ去られてしまう。場合が多い。例えばギュンター・ヴァントの盛り上がり。あれは一体なんだったのか。その意味では聴衆は冷たい。今、ここで、音楽を発する演奏家が大事なのである。この冷たい現実はしかししっかり受けとめなければならない。音楽をする喜びとともに聴かせることが出来る喜び、両方感じたい。
作曲家は未来の音を予言する。聴衆にとっては予期せぬものだから張り切って聴けばいいものを、その根性がなくなってきている。駄作が増えたのではなく、予期せぬ音楽の広がり緊張感についていけなくなってしまったのだ。最近の河童は半世紀前のいわゆる当時の現代音楽も何故か懐かしい。誰か音楽の行き先を教えて欲しいものだ。Too ripeした音楽はどこへ向かっているのであろうか。
(記憶だけで書いてます)
*
掲載写真は約100年前のもの。トリニティーチャーチを南西方向から。
チャーチ先の左から右にある道路がブロードウエイ(左がアッパー、右はバッテリーパークへ。チャーチ先から奥への道路がウォールストリート。手前の広場は予約待ちが地面に重層しているらしい著名人の墓たち。)
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1115- ブーイングにブーイング?フライング・ブーイング?

2010-11-17 16:13:53 | 日記・エッセイ・コラム


いきなり結論っぽいですが、
ブーイングの特色は、
「わからない人はブーイングはしない。
わかっていてもブーイングするとは限らない。」
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ちょっとあまりうまく思いだせないのですが、たしか、今年の春の新国立オペラ・パレスで神々の黄昏が上演されたとき、ブーイングが割と多く、それに対しブーイングする連中がいたという現象があったはずです。
キース・ウオーナーの好評であったリプロダクションで、なにをいまさらブーイング?エッティンガーの棒へのブーならちょっとタイミング違うなぁ、みたいな感じで眺めてましたけど。
989- 神々の黄昏
990- 神々の黄昏
992- 神々の黄昏
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何にブーイングしていたのかわからない聴衆も多くいたのは事実で、ブログなどでも、なにあれ?みたいなものは結構あったと思います。
ブーイングにはブーイングの制裁を!
おくての日本人もやるね。やるときは!
みたいな感じ。
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それで、この前ブログにフライング・ブラボー、フライング・クラップのことを書いたのですが、ブーイングをどう思うか、という人がいましたので、ちょっと書いてみますね。とりたてて思うところはありませんけど。(笑)
フライングとブーイングは関係ありませんが、マイナス思考の意思表示というわけでもないので、そこらへんつながりで。もちろん、外国ではフライング・ブーイングありますよ。フライング・ブラボーの南極と北極みたいで、どっちもサムイだけ。
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トップクラスの来日オーケストラ公演のチケット料金は、某サントリーホールの価格つり上げオペレーションのたまもののおかげで、400円のコーヒーも含め、また、アルコールも外国並みにガブ飲み出来るような悪しき文化まで取り込んでくれたおかげで、日本国中流行り病の様相を呈してしまっている現状のなか、最高ランク席がだいたい30,000円前後。
この最高ランクチケットを買った人たちが、来日オケがいくら、ダ演、したとしてもブーイングすると思いますか?
ダ演しないからトップクラスと言うんだよ、といわれればそれまでなんですけど、
30,000円だしたら、どんな演奏でも、今日の演奏は最近まれにみる名演奏でその場所と時間を共有していたんだエヘン、ぐらいがせきのやまでしょう。普通は。
60,000円のトスカでタイトルロールが不出来でも、超絶的名唱歌になっちまう。でないと60,000円が浮かばれない。
この人たち、決してブーイングしません。
ちょっと逆説的ですけど、もともとそのような種族しかそのような席を買えない、ということもあるかもしれません。
もし、別の種族で、1年貯金して最高席をゲット。ダ演だったらブーイングする?
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いずれにしても、表面(おもてづら)的には、最高ランクの席からブーイングなど出たためしがない、少なくとも個人的には聞いた記憶がない。
ブーイングは天井桟敷からしかとんでこないんです。だからルーチン・ワークの日常的ゴアーズの観点が大切というのが普段からの主張ですがこれは横に置いて。
ちょっとややこしいですが、ブラボー・コールはいたるところのエリアから聞こえますが、フライング・ブラボーは決まって奥から。これはこれでブラボー屋などの存在もあるのでこれもちょっと横に置いて。
ただのブーイングとフライング・ブーイングは、とりあえず同じ扱いにしましょう。
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1. ブラボー・コール:全席から
2. フライング・ブラボー:天井桟敷、奥から
3. ブーイング:天井桟敷、奥から
4. フライング・ブーイング:天井桟敷、奥から
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なんだか、仕事で、箇条書きしてこい、という能なし上司みたいになっちまいましたが、まぁ、こんな感じだと思います。
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それで、日本人はあまりブーイングはしない、というのはありますけれど、最近はそうでもなくて、結構意思表示しますよ。オペラでは顕著ですね。つい先月も初台の上演であまりもひどいオケに、オケ替えろ、の声援がとんでました。まぁ、これも奥の席からではありますけれど。個人的にはオペラ・ゴアーズが育つような環境が出来てきて、これも日常化ルーチン・ワーク化したおかげだな、と内心喜びましたけど。
また、日本人はあまりブーイングはしない、という人の中に、現場に聴きに行くこともなくそのようなことを言う人がいる。鮪を喰らってからものを言えということになります。
むろんメディアでは、そんな小五月蠅くて騒々しいもんは商品にしないので間接媒体を通した耳ダンボ、目ダンボでは、話の出元の根拠を明確にしておく必要があります。(例えばバイロイト音楽祭の中継など、かなりリアリスティックで、その放送を30年間毎年聴いているんだ、といったことならいいですが。残念ながら日本のイベントではありませんね。)
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ただやっぱり、
日本人には、悪いものも、けなさない、というDNAがあると思うんです。
つまり、鮪には捨てる部位はないと。
ここまで言っちまうと短絡的すぎるかな。
だから音楽芸術的反応は停滞しているように見え、料理の方は緻密になる。と換言してもいい。どっちも同じことだと思える。
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音楽芸術は許容し過ぎで、悪いもの、不出来なものでも、なにかそこにあるはずだ、光るものがあった、学べるはずだ、ということになっちまう。流行りすたり、流行遅れ、二番煎じ、新機軸が無い、といった批評的観点でそれにくいこんでいけない。
新しいもの作れというのと何か学べる光があるはずだというのは別に背反するわけではないが、後者に力点があるのが日本人のDNAのような気がしますね。
その意味では、来日オケだけでなく国内オケ公演でも現象は同じというのもわかります。
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ヨーロッパだと、現代音楽、オペラ問わず、実験工房的確信犯的な曲、提供できる場所、イベント、いろいろとそろっている国もありますね。でもこれは文化が根付いているというよりも、当の芸術の発祥の地なわけですので、包括的に、単なる自国文化の変遷の一瞬にしかすぎません。だからその耳目で良作駄作ふるい落としていくのが自然の成り行き。
でも日本、クラシック音楽は輸入品だから日本人の接する態度は許容的になっちまう、というのもちょっと違う。日本人が受け入れて消化し同じように曲を作るようになってからの作品に対してはそれなりに批評的観点での物言いもできる。言っておきますが、ブーイングというのは、また脳なし上司の指示通り箇条書きすると、
【ブーイングの対象】
1. 作品に対するもの
2. 演奏に対するもの
3. プロダクションに対するもの(オペラ)
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実験工房的ブーイングは1と3です。2の演奏がいくらうまくても駄目なものは駄目なんです。日本では、このての意思表示が出来ないけれど、これは上記のような文化、歴史が背景にある。
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かたや日本、悪いなりにどこかいいところがあるはずだ、学べるはずだ、となっちまう。学べるというのは誤解してはいけませんが、反面教師的な学びではありません。飽くまでも対象の中身において、ということです。また、日本では1と3に接する機会がないではないか、という一面もあります。
結局、日本ではブーイングしてもしなくてもそれを起点とした波がどこにも立たない。自分の内面にさえ立たない。のではないか。批評は出来るが批判は出来ない。批判のDNAがない。換言、悪いものもけなさないDNAがある。その自己表現。
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とりとめのない文章になっちまいました。
あと、
音楽の特殊性で言うと、音になってみないと分からないから、音になったときに初めて意思表示(ブーイング)をする。美術館で絵を見てブーイングしませんね。
また、拍手をしない。立ちあがって帰る。中座してそのまま帰る。などの意思表示もあります。ブーイングみたいに音になりませんが、ステージからはよく見えます。指揮者だけは振り向かなければその姿、行動が見えないという違いはありますけど。
いろんな意思表示の方法があるのでより多面的な視点が必要だと思います。
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それから、
ブーイングをして目立つのが恥ずかしい、見られるのが恥ずかしい、勇気がない、といった理由であまりしないのではないか。というのもあるかと思いますが、それは表層面においてはブラボー・コールにおいても同じですので、このことに関しては、演奏会どうのこうのとは別に、音楽に限らずもっと一般的な見地で考える必要がありますね。
ブラボーは声高に発声できるが、ブーイングは声高には出来ないのは何故か、多勢に無勢?
結局堂々巡りかな。
おわり

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1113- 怒濤のフライングブラボー、携帯オヤジはモウロク箱へ

2010-11-15 15:00:07 | 日記・エッセイ・コラム


2010.11.12の高関&日フィルのブル8公演のブログをいろいろと読んでおりました。
自分(自分だけ?)とずいぶんと異なる感想が多いなぁ、というのが正直なところですけれど、それとは別に携帯ピーピーとフライングブラボーへの不快感を書いている人が多くおりました。個人的には修行を積んだ結果(笑)、慣れてしまいました。しかし、当の指揮者や演奏家以上に慣れてしまってはいけないとも思います。かたやオペラの指揮者なんてぇのは日常茶飯事なことでそもそも想定して棒を振っている。地震以外何が来ても大丈夫、というか、必ず何かが起こるものだという前提でしょう。
エヴァ・マルトンのあごがはずれた事件なんかもひょっとして想定内?
022‐ エヴァ・マルトンのあご -1-
023‐ エヴァ・マルトンのあご -2-
024‐ エヴァ・マルトンのあご -3-
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それはそれとして、
どうしようもない聴衆は必ずどこかに潜んでいる。本人は悪意だと思っていないので始末が悪いけれど、必ず毎回いるもんだ。地震も来るかもしれない。演奏会は集中して聴いてはいますが、そんなことこんなこと頭のメモリーへ常駐化する必要があるかもしれませんね。
フライングブラボーは人間の意識された行為ですけれど、携帯ピーピーは音楽とは関係ないところでピーピーしますからホント、手に負えません。人間の意識した行動でオフにしなければいけないので、それが出来ない人は、クルナ!
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サントリーホールは携帯電波遮蔽(しゃへい・シールド)していてもアンテナが立ったままのエリアがあります。
私の経験では、2階センター奥。しっかり3本立ってます。他のエリアでも立つ箇所があるかもしれません。
アナウンスで諌めるものの、シールドされている旨もアナウンスしてしまうのでお客もつい油断してしまうのかもしれません。きっちり言えばいいと思います。
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フライングブラボーをする人は、「知ったかぶりの人」と、あとは「音しか聴いていない人」がいるような気がします。
知ったかぶり人間は一人とは限らないので、自己主張の強い知ったかぶりが二人隣席だったりして同時にハモッたら笑えますね。そのあとコイツラ同志親友になるかもしれないので、お説教だけにしておきますけど(笑)
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音しか聴いていない人は音がなくなったら終わりと思っている。棒が止まったら終わりと思っている。そんな人間。舞台を観ていないし空気も読めない。こちらがたちが悪いかも。
お河童さんは、知人と演奏会、オペラ行きますが、指揮者が手をおろすまで我々は動かない。と決めてます(笑)
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あとこれも、音しか聴いていない人に属するかもしれませんけど、「曲を知らない人」。
昔、メータ&イスラエル・フィルでチャイコフスキーの悲愴をカーネギーホールで聴いたことがありますが、第3楽章が終わったところで大爆ブラボー。隣のつがいは席をたって帰り仕度をはじめました。まだ終楽章が残っている旨おしえてあげたらおとなしくなりましたけど、異国人に説教されて、オッ、ソウダッタネ。だって。
メータもアメリカ人がここで拍手、ブラボーをするのは慣れっこみたいで、それを待ってましたからね(笑)今でもアメリカでは同じでしょう。というか第3楽章を終えてシーンと出来る人種は日本人含めそう多くはいないと思いますよ。
ただ協奏曲の第1楽章が終わったところで拍手をするのはヴィルトゥーゾへのイタオペ的自然さのような気もします。
いずれにしても、とにかく、曲を知らなければだまってろと。
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もちろん、たちが悪い客の中にあってネテル連中は上客。終わっても起きるな。
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カラヤン&ベルリン・フィルは1966年の来日公演でブルックナーの8番を演奏しました。
590‐ カラヤン 上野のブルックナー8番1966年
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きわもの録音持ってますけど、フライングブラボーどころの話ではありません。聴衆全員と関係者全員が一度にフライングしたような騒ぎですね。
昔は来日公演が今みたいに多くなく、一年分溜めていた人も多かったのでしょう。

対極が昔のギュンター・ヴァントの棒、現地ハンブルクでのルーチンワーク。何本か録音ももってますけれど、少しずつパラパラと拍手が始まりだんだんと加熱していく。二度三度コールされるごとに騒ぎがでかくなる。ドイツ北部の特性と言う人もおります。拍手とブラボーが真の無意識化した自然行為になっている。日本人にとっては驚きでした。
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でも南のミュンヘンでもクナッパーツブッシュが振ったこのブルックナーはすごい。演奏もすごいが、そのあとも、すごい。
164‐ 拍手がこない!クナのブル8
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ということで文化が違うと言ってしまえばそれまで。レベルと言い換えてもいい。
これほど無知の知と本当の知の行動が一致する業界(演奏界?)もめずらしい。これら知の間にいる嘘の知たちが迷惑千万をかけているわけだ。
どっかの一番湯みたいに御利益はないんだから、一番最初に空気を汚しておいて、今日もオレの声がきっと収録されたはずだ、などと思っていたりしてたら言語道断のさらし首。頭かち割って脳内行動をさらし脳。でもこのての人種、案外いるかも。
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矯正能力がないわけではないんだからちゃんと矯正しろ。さもなくば入場者を名簿式にするぞ。フライングブラボーは決まってホールの天井桟敷とか奥の方からしか聴こえてこないんだからそこらへんを重点的に!
携帯オヤジは、ピーピーごとモウロク部屋で操作の勉強してコイ。できなかったらクロークに預けろ。それもいやなら、クルナ!
オレの自由、と、勝手、を履き違えるな!
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ということで、携帯はホールのシールドの有無にかかわらず、電源をオフにしましょう。
操作がわからなかったら、ホールスタッフに恥ずかしがらずに訊いてくださいね。
フライングブラボーは自殺行為です。オレの自殺ではなく、芸術の自殺行為です。そんなに殺したいのですか。自分の好きなものを殺しにきているのですよ。
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1057- さらば渋谷HMV 2010.8.22閉店

2010-08-22 21:48:27 | 日記・エッセイ・コラム

渋谷のHMVには最初のころは頻繁に通った。クラシックフロアだけだったがずいぶんとお世話になった。しかし、何年か前にクラシックフロアにジャズフロアが越してきて同居を始めたのを境にほとんど行かなくなってしまった。個人的にはあの時点で渋谷HMVは終わっていた。

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今の渋谷のHMVは昔の万葉会館跡に引っ越したもので、その前は東急本店通りにあった。センター街に20年あったわけではない。

駅を降りて東急本店通り(今の文化村通り)を東急に向かって歩いていくと右側のビルの一階に最初のHMVはあった。クラシックは例によって冷遇されていて、手前右隅にこじんまりとコンパクトにおさまっていた。ここに寄ることはほとんどなく、CDの大型店の概念ができる前で、またバブル真っ逆さまの少し前で、お酒ついでの六本木のWAVE方面が多かった。

今でこそ、N響定期を聴いた後タワーレコードで物色して帰ることもあるが、当時NHKホールを後にしてCDショップに寄って帰るという発想がなかったようだ。

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タワーレコードとHMVは歩いて10分ぐらいの距離。クラシックファンというのはCD1枚買いという人はあまり多くなく、バケツをぶら下げて買い漁る人が割と多い。こんな買い方なので価格にも割と無頓着な人が多い。でも輸入盤は微妙に値段が両店で異なっているので、また電車代をかけずに行ける距離なので、ふらふらと気になるところもあった。

またタワーレコードとのすみわけは販売戦略で当然やっていたと思うのだが、クラシックの新譜など限られており、輸入盤で濃淡をつけるか、あとはジャンルで力の入れ具合を施すぐらい。

同じCDをべたべたとのべつまくなしに置く手法をなんというか知らないがタワーレコードはその典型であり、HMVはそのような並べ方はしていなかった。これも販売戦略というものなのだろうか。CDを手に取ってさわってみてみることをほとんどしないので、置き方視覚的要素などどうでもよくて、なにがどこにあるのかがわかればよかった。いずれにしてもだんだんとタワーレコードの圧倒的品数に明らかに勝負がついたのも、ネット買いが流行るより前だったと思う。

その昔、悪友S君とは渋谷で飲む機会が多く、そのときはHMVを待ち合わせの場所によく使わせてもらったものだ。ソファが置いてあるので、CDをまとめて手に取り座ってじっくり見たりして。

センター街から道玄坂にでて上り、今は昔、無残な姿となってしまった百軒店にもいいお店があった頃ですね。

HMVCDを買い、百軒店のいつもの小料理屋にはいり、音楽談義だけでは飽き足らず、買ったCDの見せっこ。子供みたいなもんだが、深夜まで会話がはずんだものだった。

終わり。

(記憶だけで書いてます)

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935- フルトヴェングラーの命日に寄せて

2009-11-30 00:10:00 | 日記・エッセイ・コラム

高名な考古学者の息子として1886125日に生まれ、1954年、今から55年前のちょうどこの日1130日に指揮者としては若い68歳の生涯を閉じた。

あのすさまじい棒の振り方を見ていると、よくも68歳まで続いたというのが実感だ。痙攣するような右腕、オーケストラを流れるようにコントロールする左腕。両方が分かちがたい動きをもって音楽を毎日、生成してきた。

エキセントリックをはるかに通り越し、常軌を逸したとんでもない演奏は数々あれど、戦中のベートーヴェンの交響曲第5番に勝る演奏は今後永久にあらわれることはないだろう。あのような演奏は戦争中であろうがなかろうが、人間の外の現象だったのだ。

肺腑をえぐるような心の臓の鼓動。アレグロ・コン・ブリオ運命の動機は常に垂直に彫られる。

決してやさしく微笑みかけることのないアンダンテ・コン・モト。シューベルトの音楽との決定的違いを魅せる。

続くアレグロは驚天動地の地響きであり、これであればこそアタッカで続くしかなかった第5番ではある。崩れかかりそうなベートーヴェンの構造音楽を、逆説的ではあるがフルトヴェングラーの棒が構成美に変えた。極限の演奏芸術。

そして、それまでのすべての上を行くアレグロ・プレスト。第4楽章に入りいきなり音楽は頂点に達し、ハイテンションがずっと続く。何ゆえに、こうもベルリン・フィルは持ちこたえることができたのか。指揮者の魔術としかいいようがない。芸術を熟知したもの達にしか到達することができないエクスタシーがそこにあったのかもしれない。

そして、プレストはコーダに流れ込む。これぞ演奏芸術の極み。この演奏を聴いたことがない人は騙されたと思って一度CDを買って聴いてほしい。とんでもない演奏はすべての楽器を一度に追うことは困難、それであれば例えばトランペットのタンギングに耳を傾けてみよう。解釈は技術の上をいくのだ、そのことを実感できる。腕達者なベルリン・フィルの奏者たちを技術の破たんギリギリまで追い込んだ、そこまでして表現したいもの、技術が追いつかなかったら音楽にならないのではないか、というのが愚問のように響く。

この超高速のコーダは演奏芸術史上、空前絶後、もう成しえることは誰にも不可能だ。そして最後の打撃音に至る圧倒的急ブレーキもこれまた空前絶後。造形演奏の美ここに極まれり。第九のフィナーレさえ吹き飛ぶ。

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戦前戦中戦後で解釈が異なるのではないか。戦中の演奏表現は戦争があったから成しえたのであり、そういう意味では芸術至上主義のフルトヴェングラーの主義主張と違うのではないか、という議論があるが、これも前に述べたことがあるが、戦争は現実にあったわけで、戦争がなかった場合別の表現になっていたかどうかという議論は多くても50パーセント以下の確率でしか当たっていない。個人的には戦争による常軌を逸した演奏ではないと思う。この演奏がなされた1943年は指揮者57歳。

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アップしてある写真は、日本フルトヴェングラー協会の第3回目の会報。創立が196912月だから研究品頒布のテンポもおそかった。河童が会員になったのはこの第3回目からだから19734月頃ということになる。

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今でも会員ではあるのだが、後遺症的微熱状態になっている。

何年か前にフルトヴェングラーのコレクションをほぼ全部(まだ残っているよ)、ヤフーのオークションに出品した。いろいろと話題になったのでまだ記憶にとどめている人もいるかもしれない。レアLPは別にして、CD一枚が6万円を越えるようなものまで出る始末でかなりヒートした。ただ、戻ってきたお金で別のコレクションを始めようという気は全くおこらなかった。

売りさばいたのは卒業したかったから?そんな偉そうなことは言えないが、結果的にひとつだけ確実に言えること、それは自由にフルトヴェングラーを聴けるようになったこと。

だから、たまには聴く。

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演奏芸術は現代ではもはや死語ではないだろうか。意味のない伸縮自在な演奏は数多あれど、指揮者解釈のその前に、演奏家、オーケストラ・プレイヤーの腕が落ちた。これは誤解のある言い方で、昔よりは確実に腕はみんなあがっている。しかし、ボーイングの深さはどうだろう。ウィンドのアンサンブルはオーケストラのものか。ブラスのハーモニーは空虚になっていないか。

演奏芸術とは何か、なぜ必要なのか、という問いが今頃になって現実味を帯びてくるわけで、無くしたものは大きかったということかもしれない。

おわり

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783‐ 昔の華金 L-Mnhttn

2009-03-06 01:09:26 | 日記・エッセイ・コラム

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金融危機というのは、14番あたりが震源地ということはないでしょうが、マネーを操ってきたところにかわりはない。
一階がアレキサンダーのデパートで、地下がコートランド駅だった6番は既にありません。六千度の熱で圧縮されたわけです。
カパコとお昼よくいった空中レストランも粉砕。あすこからみるスタチュー・オブ・リバティーは絶景でしたけど。
あすこらへんは様変わりしたものの、その周りはそんなに変わってないでしょう。
10番12番13番14番15番に囲まれた一角は、ブロードウエイの見晴らしも良く、楽しい時代でした。
向かいはトリニティーチャーチなんですが、いつも心の中では懺悔してましたよ。将来の悪事の懺悔をあらかじめしていたということになるのでしょうか。。
ここらへんは週末はゴーストなタウンになるのですが、華金のファイブ・オクロック過ぎれば、コンサートのない日は、とりあえず、フルトン・マーケットまで歩いていって、そこの野天の広場で一杯ひっかけ、そのあとはなるようになる、みたいな感じで。
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バッテリーパークまでは歩いて10分もかからないので、ここもお昼休み散歩がてらうろうろしてましたね。自由の女神を同じ目線で見ることができてなかなかいい眺めです。
2番のシティーホールに行く途中に、J&Rという電気屋レコードショップがあって、ここも頻繁に行きましたね。CDの黎明期で日本のCDがかなりの価格で並んでましたね。初期はDENONレーベルのCDが多かったですね。そう言えば、TEACのX2000R、つまり4トラックのオープン・リール・デッキなんですが、あれ、ここで買いました。アメリカ仕様で電圧が高いのですが、現地で使う分には問題がありませんが、日本に持ち帰ると問題が出ます。昇圧機が必要になります。今でも動いてます。。
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ウォール・ストリートとリバティー・ストリートの間にチェンバー・ストリートというのがあるんですが、周りのビルがあまりに高く日が射すことはなく暗くてちょうどよかったんでしょうね。上から見ているとよくコケインのやり取りしてる人物を見ることができましたね。ブラジル産の純度100%近いのが5グラム程度で20ドルとかって聞いたことがあります。河童は仕事以外ではクラシックの演奏会のことしか(。...。。)興味がなかったので、どうでもよかったですけど。
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仕事に熱中すればするほど、華金の解放感は何ものにも代え難いものでした。
今の時代、六本木で真夜中、うろうろする西欧人の気持ち、よく理解できます。それにたむろする日本人の、特に女性の気持ちもだいたいわかります。田舎の子たちが東京に出てきただけで外国人とイージーに接触できる場所、そこにイージーにいけるだけで国際的感触をある程度味わうことができるんですね。これってほぼ錯覚なんですけど。でも悪くはないと思いますよ。積めばいいんです。経験を。。
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ということで、華金のコンサートは良し悪しなんですが、とりあえず今日は行く予定です。
おわり

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