河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1046- やっぱりすごいノセダ トリノ王立歌劇場特別演奏会 2010.7.24

2010-07-31 22:57:54 | インポート

100724_212401

2009-2010シーズン聴いたオーケストラ観たオペラより。

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この日は、お昼に新日フィルを聴いたのではしご。

2010724()7:00pm

東京文化会館

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<ヴェルディ・プログラム>

マクベス

 ・前奏曲

 ・“ここで何をしていたのだい?いってごらん”

 (魔女の合唱)

 ・踊り

 ・“虐げられた祖国”

  (スコットランド亡命者の合唱)

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海賊 “私の頭から暗い考えを”

   ソプラノ、イリーナ・ルング

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シチリア島の夕べの祈り 序曲

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ドン・カルロ “ひとり寂しく眠ろう”

      バス、ニコラ・ウリヴィエーリ

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聖歌四篇(四つの宗教合唱曲)スタバート・マーテル

     バリトン、ガブリエーレ・ヴィヴィアーニ

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ナブッコ

 ・序曲

 ・“行け、わが思いよ、金色の翼に乗って”

    (ヘブライの捕虜たちの合唱)

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(アンコール)

オテロ “喜びの火、楽しげな炎は”

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ジャナンドレア・ノセダ 指揮

トリノ王立歌劇場管弦楽団、合唱団

初来日で、椿姫とラ・ボエームの公演の合間の特別演奏会。

清く明るくて、かたくてつるつるしていて、素晴らしくうまいオーケストラのサウンドの響きは上野にこそふさわしい。清らかに響いたこのオーケストラの証明はマクベス冒頭の序曲で既にヴェールを脱いだ。今日ははしごで、お昼の新日フィルとのあまりに違いにびっくり。むろん、サントリーホールと上野の圧倒的な音響の違いもある。でもトリノのサウンドはその上をいく。

ガブリエーレ・ヴィヴィアーニのいかにも劇場にふさわしい歌い手による歌の見栄。

圧倒的なノセダの棒。これでも数年前よりずいぶんとおとなしくなった。体の動きと音楽がこれほど一致をみる指揮者は昨今あまりいない。そして、渋すぎるプログラム。中身で聴かせるノセダらしい。

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リゴレットもなければ椿姫もない。仮面舞踏会もなければアイーダもない。結局それらのようなもの以外からの選曲。それでも6演目からピックアップ。ヴェルディのオペラの多さをあらためて思う。また、このプログラム・ビルディングはノセダのものと思わずにはいられない圧倒的に渋いものだ。

オーケストラ演奏では冒頭のマクベスの前奏曲からして、明るく響きよく刻まれていてプレイヤーの音楽の楽しみを感じる。そして、夕べの祈り、ナブッコそれぞれの序曲の快活とさえいえる響きの明確さ。ノリの良さ。まったく素晴らしい。

歌い手は3名。バスは少し弱かったが、海賊を歌ったソプラノのイリーナ・ルング、ドン・カルロを歌ったバリトンのガブリエーレ・ヴィヴィアーニはよかった。

ルングの折目正しい歌いっぷり。ホール全体にまんべんなく響く声質。劇を表現するベースがしっかりできている。聴く方に快感を感じさせてくれる。

ヴィヴィアーニは役へのめりこむというか没頭できる。つまり劇場、舞台の場数を相当な数こなしているのは明白だ。このような人たちが劇場をささえている。

合唱では、行けわが思いよ、より、スタバート・マーテルの困難さの表現のちりばめられたニュアンスがなんとも言えず良い。

そして、合唱とオーケストラをつなぐのは、あまりにも激しくそれでいてデリカシーに富んだノセダの棒。しゃくり上げる棒なのだが、音との一体感がすごい。彼の通りの音がでてくる、この説得力がすごい。彼もたぶん劇場の人間なのであって、ライブでこそその神髄を聴くことが出来る。観ることもできる。ものすごいアクションでもあるのだ。全力投球。このような生真面目でいながら振り回す棒、音楽に真摯でありながら越える激しさ。今や時代の寵児。わかる。

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1045- 秋深しのような アルミンク 新日フィル 2010.7.24

2010-07-26 00:10:51 | インポート

2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラより

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この日は土曜日で、このお昼公演と夜のトリノ王立歌劇場の特別演奏会をはしご。両方とも声づくし。

それでまずお昼の方

2010724()2:00pm

サントリーホール

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ブラームス 悲歌

 合唱、栗友会合唱団

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シュトラウス 4つの最後の歌

 ソプラノ、イルディコ・ライモンディ

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ブラームス ハイドン・ヴァリエーション

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ブルックナー テ・デウム

 ソプラノ、イルディコ・ライモンディ

 アルト、小山由美

 テノール、ベルンハルト・ベルヒトルト

 バス、初鹿野 剛

 合唱、栗友会合唱団

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クリスティアン・アルミンク指揮

新日本フィルハーモニー交響楽団

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連日40度に迫ろうかという猛暑、酷暑のなか、まるで深まった秋のようなプログラムが打ち水となってくれるのか。

この4曲ともに折目正しい演奏がまずベースとして求められる。そのうえでどうだということになるのだろう。

ディープなプログラムの一曲目はブラームスの悲歌。曲を聴いたという以上の感想は特にない。オーボエの響きも座った席のせいか今一つ心にこない。

合唱は、ワインヤードのP席を潰したものではなく、ステージ上奥に陣取っている。コンパクトでこのほうが音がまとまって聴こえてくる。折目の正しい演奏をクリアに聴きたい、そのような場合このホールは必ずしも最適というわけではない。この同じ日の夜に聴いた上野でのトリノ王立歌劇場のサウンドとはその差が歴然としている。

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シュトラウスの驚異的に美しいオーケストラル・ソング、4つの最後の歌。この日歌ったのは、真紅のドレスのマルシャリンのようなイルディコ・ライモンディ。ホール全体を包み込むような声ではなく、かといって突き刺すような鋭さがあるわけでもない。アルミンクは比較的速度を上げて進むのだが、このソプラノはその先を急ぐように一声を間髪なくいれてくる。どうもかみ合わない。またオーケストラも今一つ丁寧さがたりない。

2曲のホルン・ソロも淡々として味わいがない。ポロッもでて少し興ざめであったがトップのヴィブラート自体は好ましいと思う。アルミンクのテンポ設定に問題があり、もう少し落として味わいをかみしめたかったところだ。

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後半一曲目のハイドン・ヴァリエーション。この日の4曲のプログラムのうち唯一声のない曲。ブラスと弦のバランスが非常にいい。ブラスを抑え、ウィンドを前面に出しながら弦も表情が濃い。ウィンドはもっと切れ味があって飛び跳ねるような表情が欲しい。歯切れが悪いわけではないのだが、この日の夜聴いたトリノ王立歌劇場との差は歴然。特に音楽の喜びみたいなものがさっぱりでてこない。

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最後の曲ブルックナーのテ・デウム。合唱の響きがブルックナーの交響曲のようなオルガン・サウンドのような響きを醸し出しており、迫力も満点。ゲネラル・パウゼにあまりこだわりがなさそうに見えるアルミングだが、ここはもう少し強調してもよかった。というのもこの曲はどうも構成的にぎくしゃくしており、醒めたそれでいて深い響きの森を聴いてみたいのだ

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こんな感じでさっぱりいいところがないような具合だったのだが、それも夜のトリノの演奏会を同じ日に聴いてしまったからこんな感想になってしまったのかもしれず、単一の公演としてはそれなりに楽しめました。

おわり

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1044- クレンペラーをユーチューブに変えました

2010-07-21 22:49:28 | インポート

このブログの1回目のクレンペラー動画をユーチューブに変更しました。

OCNブログにはめると右はじが欠けてしまってうまくみれません。

どなたか修正方法わかりましたらおしえてください。

クレンペラーの指揮台叩きをユーチューブで

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ユーチューブサイトだとちゃんと見れます。


1043- ミトロプーロス ニューヨーク・フィル マーラー5番 デルタ・クラシックス

2010-07-20 00:10:00 | 音源




 

この前デルタからでたミトロプーロスの棒、ニューヨーク・フィルの演奏によるマーラーの5番を買って聴いてみました。スコアが目の前に透明なレントゲン写真のように空中浮遊しているかのような脳みそで全部暗譜で振りまくっていたミトロプーロスのたった4回の公演の一つの記録。
前進性より垂直的な進み具合で、リズムや表情を変えるところはしっかりと明確にわかるように演奏している。ニューヨーク・フィルのラフな演奏もかなりのものだが、第4楽章の一本の線のような弦の響きは妖しく響く。このように素晴らしい個所がいたるところにある演奏でもある。
どのような経緯のCDなのかわからないが、とにかく聴けるにこしたことはない。

マーラー 交響曲第5番
ディミトリ・ミトロプーロス指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
1960.1.2録音
Delta Classics DCCA-0071
価格2415円

チェンバースとシンガーが頑張った第3楽章のあとに盛大な拍手がはいっているのは、せっかちなアメリカ人のせいだけとも言えない。なにしろ第3楽章のあと休憩がはいっているのだから。


ミトロプーロスはニューヨーク・フィルハーモニックを505回振ったが、5番はこの録音の前後に振った4回だけだ。
この5番は定期公演ながら、マーラー・フェスティヴァルの一環をなすもので、マーラー生誕100年、また、マーラーが音楽監督として同オーケストラを振ってから50年経つ、その両方の記念公演の一回目のものだ。

1959-1960シーズン(第118シーズン)
マーラー・フェスティヴァルⅠ
1959.12.31(木)8:30pmカーネギー・ホール6073回
1960.01.01(金)2:15pmカーネギー・ホール6074回
1960.01.02(土)8:30pmカーネギー・ホール6075回
1960.01.03(日)3:00pmカーネギー・ホール6076回
ベートーヴェン 大フーガ
マーラー 交響曲第5番第1,2,3楽章
 ホルン、ジェイムズ・チェンバース
休憩
マーラー 交響曲第5番第4,5楽章

ディミトリ・ミトロプーロス 指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

重要な休みはクリスマス前後の一週間ぐらいで、正月休みは元日だけであとは何事もなかったかのように続き、ここらへん節目はない。だから年末年始ぶち抜きの4回公演は今でもあまり変わらない。

ラジオ放送されたのは、4回公演のうち1960.01.02の公演。
第899回CBSラジオ・ネットワークの中継放送。
放送エリアはニューヨークだけではないので時差を考慮し、同時生放送以外にテープで録っておいて、地域のベストな時間帯にテープ録音を流すような方法もとられている。
デルタ盤は板起のように聴こえるが経緯はわからない。モノラルのそれなりの音ではあるのだが思い入れの分だけよく聴こえるだけでなく、音源も近くかなり明瞭な音質といえる。
演奏解釈も明瞭な指示がいたるところにある。指揮者の思いだけでなく、いろいろなものが伝わってくる。カーネギーホールの響きも粗いなりにゾクゾクするサウンドだ。


1959-1960シーズン
ニューヨーク・フィルハーモニック
<音楽監督>
レナード・バーンスタイン
<客演指揮>
ディミトリ・ミトロプーロス
パウル・ヒンデミット
フリッツ・ライナー
レオポルド・ストコフスキー
ブルーノ・ワルター
トマス・シッパース
エレアザール・デ・カルヴァーリョ
<日曜日シリーズ>
アンドレ・コステラネッツ
<ヤング・ピープル・コンサート>
レナード・バーンスタイン
ハワード・シャネット
<アシスタント>
シーモア・リプキン
ステファン・バウアー・メンゲルベルク
ケネス・シャーマーホン

<主なプレイヤー>
コンマス、ジョン・コリリアーノ
ヴィオラ、ウィリアム・リンサー
チェロ、ラスロ・ヴァルガ
ベース、ロバート・ブレンナド、ジョン・シェーファー
フルート、ジョン・ウンマー、ロバート・モリス、ペイジ・ブルック
オーボエ、ハロルド・ゴンバーグ、アルバート・ゴルツァー
エス・クラ スタンリー・ドラッカー
バスーン、ハロルド・ゴルツァー
コントラ・バスーン、バート・バイアル
ホルン、ジェイムズ・チェンバース、ジョゼフ・シンガー
トランペット、ウィリアム・ヴァッキアーノ
ホルン、エドワード・ヘルマン2世
チューバ、ウィリアム・ベル
パーカッション、ウォルター・ローゼンバーガー


おわり


1041- シルヴァン・カンブルラン 読売日響 デュティユー メタボール 2010.7.14

2010-07-18 11:18:45 | インポート

2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラより

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今日はカンブルラン&読響の7月公演より

この月のカンブルランは非常に多彩なプログラムで唸らせる。

ベルリオーズ、オネゲル、ラフマニノフ、ムソルグスキー、ハイドン、ヴァレーズ、マーラー、フォーレ、メシアン、ドビュッシー、デュティユー、メンデルスゾーン。

このうち14日の公演はこんな感じ。

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2010714()7:00pm

サントリーホール

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フォーレ ペレアスとメリザンド

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メシアン 鳥たちの目覚め

 ピアノ、児玉桃

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ドビュッシー ピアノと管弦楽の為の幻想曲

 ピアノ、児玉桃

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デュティユー 5つの変遷

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シルヴァン・カンブルラン指揮

読売日本交響楽団

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多彩なプログラムで圧倒。

フォーレの第一フレーズ、抑えた第二フレーズ、この丁寧さを聴いただけでこの絶好調男の充実感が手に取るようにわかる。今が一番乗っている棒振りだろう。積み上げてきたものを自由自在に振れるみなぎる力を強く感じる。

フォーレはペレメリ・シリーズ、シェーンベルクに続く二つ目。全く異なる音楽ではあるが、その静けさには妙に聴き耳をたてさせる。美しい音楽。

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児玉桃がほぼ弾き語りのような様相の鳥たちの目覚めは、フォーレの後ではあまりに鮮やかな響きで思わず耳を奪われる。最初から最後まで鳥だと言われればそれまでなのだが、トゥーランガリラの後の作品で、その響きのきざみ節的な感覚はここでも鋭利でグリースだ。このピアニストはお初ですけれど、舞台感覚は日本人ではないだろう。国際派というより来日演奏家といった感じ。

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メシアンの響きよりプログラム後半のドビュッシーの曲の方が、はやりそうもないのは聴き耳を立てなくてもそんなもんだろう。ピアノが邪魔というかしっくりしないというか、なによりも音楽が板についておらず説得力のない曲であまり面白くない。

カンブルランは当初のプログラミングを変えて2曲目と3曲目を入れ替えた。フォーレのあとはシャープなメシアン、ドビュッシーのあとはメタボール。その対比の妙を浮き彫りにしたのだろうか。このほうがいい。カンブルランはこの月、多彩なプログラムなのだがラヴェルは振らないのだろうか。ドビュッシーではなくラヴェルでも聴きたかったような気がする。

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メタボールこそはカンブルランの得意技。このての曲を振るときの棒さばきは大したもの。

以前2006年に聴いたトゥーランガリラにもいたく感銘をうけたものだ。

1916年生まれのデュティユーは存命。メタボールは1965年ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団により初演。若気のいたりというには晩い曲ではあるのだが、それでもやっぱり機は熟したという時期は、ほかの作曲家同様割と早めにやってくるものなんだろう。晩ければいいというもんでもない。

変遷メタボールは5曲からなる変容。初めて聴きます。変容というより全体になにか上昇するような雰囲気を感じさせる。それと緊張感。一瞬の閃きで作った曲のように思える。このような場合、大概出来のいい曲となっている。

5曲目は読響の腰のある動きが見た目以上に軽やかに動き、重い響きが自在な動きを感じさせるとき指揮者の意思がとおっているのであり、またメンバーたちの積極的なやる気度もなみなみならぬものがあった。切れ味鋭い演奏で、指揮者、オーケストラ双方お見事でした。

おわり

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1037- ファジル・サイ 広上淳一 日フィル ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 スクリャービン 交響曲第2番 2010.7.9

2010-07-12 00:10:00 | コンサート

2010年7月9日(金) 7:00pm サントリーホール

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番
 ピアノ、ファジル・サイ
(アンコール)
ファジル・サイ ブラック・アース

スクリャービン 交響曲第2番

広上淳一 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


広上の棒の振り具合、オーケストラの充実サウンド、サイの陶酔、どれをとっても素晴らしいものでした。

ファジル・サイの演奏熱中度はこちら聴衆の週末仕事疲れの眠気を一気に吹き飛ばしてくれる圧倒的なもの。
もはや自己陶酔の極致と言いたくなるような第2楽章など、ベートーヴェンのオーラのようなものがサイを通して出まくっていたとさえいえる。あまりに情緒的に過ぎる第2楽章はベートーヴェンではなくサイのもの、でもそれも音楽のものと言える。
鍵盤をたたいていないときの左腕右腕は指揮をしているかのよう、いや、ちょっと違う。棒を振りたいといったしぐさではない。シンガー、ダンサーのアクション、即興の振付のようだ。見た目は完全な自己陶酔の真っただ中にいるようでもあり、音楽を体全体で作っているようだ。

広上の指揮はいつものことながら非常に的確で的を射ており説得力だらけの棒で素晴らしいの一言に尽きる。棒だけでなくつま先まで使ってホップステップジャンプが日本人でこれほど音楽と一体化される棒振りはほかにはいないだろう。曲を理解しつくして振っている。納得の棒。
ベートーヴェンの3番の協奏曲は、昔風に第1,2主題を出し切ってからピアノがでてくるのでその部分長大なのだが、全く流す風がなく豊かな表情、特に全体におさえられたオーケストラながらやや硬質風にベートーヴェンの荒々しさをフォルテ以下の音響の中で表現。ベートーヴェン特有の荒々しさがこのように余計な力を抜いた音響の中で表現できるとは驚きだ。心地よい。サイも弾く前からこの音楽に浸ることができ既に満足の感がある。
オーケストラもピアノもともに音楽の表情が豊かで一気に集中。
サイにとって、形式はベートーヴェンが用意してくれているので、あとは自分で好きなように弾きまくるだけで良いのだろう。それはそれで正解だ。これだけ柔らかくてデリケートで情緒豊かな演奏はなかなか聴けない。いい演奏でした。


スクリャービンの2番は生ではなかなか聴くことが出来ない。変奏曲の頂点のような第3番でさえ実演に接する機会はあまりない。最近は5番までたまにやられるようになってはいるけれど。
2番の終わり方含め、節が一つ二つしかないものを変奏、その展開で最後までもたせる手法はたしかに3番の前段ではある。でも、3番のトタンがめくれあがるような華麗なサウンドには遠く及ばない。スクリャービンの一方の夢見心地的究極の曲第3番では楽章の切れ目なくほぼ二つの節の展開が続く。一方この日の第2番は5楽章形式で、アンダンテの第3楽章が他の楽章に比べて長すぎる感があるのだが、第1,2楽章はアタッカ、第4,5楽章も同じく束になっている。こちらはアタッカとうというより単に続けて突き抜けているだけであり、第4楽章でいったんこと切れることはできない。4,5楽章は同じ楽章として聴いていいものだと思う。
潤いのある音楽と筆の混沌が、いかにも初期中期の音楽のもつれを感じさせずにはおかない。どの切り口からでも第3番の展開へ移ってもおかしくない曲でありながら、何かを探し続けているもどかしさを醸し出してくれている。
エンディングも頂点前の2個の空白は、第3番の圧倒的な響きと空白の緊張感にとてもかなうものではない。のだが、広上の棒がここでもよかった。
広上は基本的に知り尽くしてからでないと振らないと思う。指揮者たるもの当たり前と言われればそれまでなのだが、広上の場合、圧倒的な共感がその奏でる音楽に対してあるので、この棒ならプレイヤーは極めて明瞭についていくことが出来る。
第3番ではブラスへの配慮がもっと必要なのだが、この2番においてはフルート、クラ、オーボエなどウィンドの裸の響き、アンサンブルのあやが美しく強調され、ここらへん、いかにもこれから向かうスクリャービンの世界の先取り風ではある。
ブラスは響きがややボンボンとふやけてしまうような個所があった。とくに強奏すればするほどボンボンとなり不揃いのピッチが強調されてしまう。前半のベートーヴェンのように力を抜いて演奏できればもっと良い演奏となっていたはずだ。トランペットのトップはかなりきついと思うが細めの音でバランスを保っていた。トロンボーン全般、ホルンなど汚れがあり、力まない演奏を望む。(といってもいつこの曲の再演がきけるかわからないけれど、)

前半のベートーヴェンのあとアンコールがあった。自身作曲家でもあるサイの自作自演による「ブラック・アース」
深遠な響きの妙を楽しめる。
おわり


1034- ブラームス3番、1番 ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス 読響2010.6.29

2010-07-05 00:10:00 | インポート

100629_194501

2010629()7:00pm

サントリーホール

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ブラームス 交響曲第3

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ブラームス 交響曲第1

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ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮

読売日本交響楽団

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このような骨太の音を出すオーケストラは日本には他にはなく、大変にブラームスにふさわしいサウンドに他ならない。

プログラム・ビルディングとしては、全楽章ともに消え入るように終わる第3番を前半に置いて、完全な第1番は後半に置く、当たり前というか、いたしかたがないというか、完全な第1番の後で第3番を聴いてみたいような気がしないでもない。運命の後で田園を聴いてみたいと思うのと同じなのだろうか。

ブルゴスを初めて聴いたのはフィルハーモニア管との来日公演、30年以上前。なんだかあまり雰囲気が変わっていない。老いてますます盛んといった雰囲気ではなく、昔のままだ。

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前半の3番はオケがあまり気合が入っていなかったのか、特にウィンドに少し丁寧さが足りなかった。この3番は線香花火が散る間際のようなパラパラ下降する音型が聴かれ味わい深いのだが、この演奏よく聴くとそこらへん不揃い。人によっては後半に焦点をあてながら演奏しているのかもしれない。もうちょっとウィンドの濃い縁どりを聴きたかった。

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3番も第1番もそうですが、ブルゴスの棒というのはエンディングの表現がかなり丁寧で濃い。一方、音楽が呼吸を変える部分、例えば第1主題から第2主題に移るところ、展開部への経過句、コーダへの盛り上がり、等々、あっさりしていてそのまま流れていく。第1主題のまま第2主題へいくし、コーダへの盛り上がりも節目のようなものがない。いつのまにか変わっている。大げささがなく、これはこれでブラームス的味わいがあるといえるのかもしれないが。

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構えすぎない第1番というのもいい。淡々と流れるという言葉はこの読響には全くふさわしくないものですけれど、この重厚さが淡々と流れるような響きの具合はこれはこれでいいもの、堪能できました。音響規模としてはビックではあるが、全体のはまり具合はこじんまりしている感もある。

1番を前半に置き、その後に艶のある3番を丁寧な演奏で聴いてみたくなった。

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