河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

649‐ 聴衆、昔のマナー、エチケット MET、NYP 1983-1984シーズンより

2008-07-31 03:09:56 | 音楽

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1983-1984シーズンのことを書いてます。

今日は、当時のマナー、エチケットに関する注意事項から。。

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おしゃべり

ステージの上で演じられていることに全集中力を傾ける気持ちになれないときは、家にいろ。

ハミング、歌、指や足を動かす

演奏者はお前ら聴衆のヘルプはいらねえんだよ。(指揮者がちゃんといるんだから)

まわりの聴衆は静けさを求めている。足の先で拍子をとるな、とるなら靴の中でとれ。そうすればまわりの多くのいらだちを防げるし、靴にもいい刺激だ。

プログラムをガサガサやるんじゃねぇ。

ページめくりでせわしない連中はいい聴き手とは言えない。まわりの気も散るし。

ほかの聴衆の耳もとでガムをクチャクチャするんじゃねぇ。

この騒音は全く不快だ。紳士淑女でもクチャクチャ連中がいたりしてとんでもねぇ。

時間を刻む音がする腕時計、ジャラジャラ音をたてる飾り物。

この手の所有者は免疫があり平気、でも余計なパーカッションは邪魔なんだよ。

セロファンでくるんである飴を開けてなめるんじゃねぇ。

この音はおしゃべりの次に重大な問題だ。のどが悪くてどうしてもなめたいなら幕間とかそんなタイミングであけろ。

財布、小物入れの開け閉め。

この問題は普通女性だけのものだった。でも最近では男もおんなじだ。財布、小物入れ、オペラグラスケースは演奏の間は開けておけ。

退屈のため息

まわりの聴衆がもしかしてエクスタシーを感じているかもしれないのに、つまらんため息はだすもんじゃねぇ。

読む。

バレエとか演劇だと暗すぎてプログラムを読むことはできないけれど、コンサートではちょうどいい明るさ加減だ。読むんだったら演奏の前後とかにしろ。まぁ、それでも眠りこけていびきをしている連中よりはましだ。

遅れてきた聴衆、早めに帰る聴衆

遅れてきた聴衆が席を要求するなんてあまいんだよ。ほとんどの演奏はちゃんとスケジュールされているんだから、もうちょっと努力してちゃんと来い。

などなど、いまでも問題は同じ。

当時の注意事項でないものは携帯の音ぐらいか。

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最近、日本でも前かがみ、前傾姿勢の聴衆に対する注意がようやく目立つようになってきた。特にオペラでは座席に角度がつくので、前かがみにされると視界が半減する場合がある。

この連中、性格的に、自分を他人の目で見れない人が多く、ひとのふりみてわがみをただす、なんて美しい日本語は彼らの辞書には載っていない。

こいつらに一番の効き目ある良薬は、後ろに座った聴衆がプログラムを丸めて頭をポカンと思いっきりたたくこと。

河童はこれに似たようなことはしたことがあるらしい。前かがみになっているので前かがみにならないと叩けないんだなぁ。これが。。

欧米のオペラハウスではこのような姿勢をとらないのは常識だが、日本人のようにやせていて簡単におなかがまがるような連中が、観たこともないオペラをへたにみたりするとこのような姿勢をとる。後ろのことなんてこれっぽっちも考えない。旅の恥はかき捨て?

おわり

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648‐ アンドリュー・デイヴィス もぬけの殻の定期か! NYP 1983.11.29

2008-07-29 00:07:00 | 音楽

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1983-1984シーズン聴いた演奏会のことを書いてます。

毎度ニューヨーク・フィルハーモニックのことが多くて辟易する人もいるかと思いますが、まだ序の口です。山のような演奏会が果てしもなく続きます。。

ということで、今度は牛乳瓶のふた、ではなく、底、のような眼鏡がユニークなアンドリュー・デイヴィスの登場です。この時代、メータが音楽監督なのですがどこへ行っちまったんでしょうか。

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19831129()7:30pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

10,313

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MERCURE”Triptyque”  (ニューヨーク初演)

シベリウス/ヴァイオリン協奏曲

 ヴァイオリン、チョー・リャン・リン

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ニールセン/交響曲第5

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アンドリュー・デイヴィス指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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WQXR1984.2.26()3:05pm放送予定

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以下、ほぼ当時の駄文のまま。

リンのヴァイオリンは音が太く、細かさよりも大胆さの目立つ演奏であった。

ただ、オタマジャクシがひとつづつ正確な長さを保持しない場合があり、協奏曲の性格上そこらへんは仕方のないことなのかもしれないが、やっぱり、粗いと感じるようなこともあるのである。

また、この指揮者も名前は2年ぐらい前から知っていたが、聴くのは初めてであり印象としてはリンと同じようなものであった。

曲想が変わったとたんにまるで違うようなテンポをとることがあり、それが全く不自然でシベリウスにはあわないし、ニールセンまた然りである。

体ごと張り切っているのはよくわかるが、まるで音楽とあわず空回り。

ニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリンにも精彩がなかった。

指揮者がオーケストラを説得できるようでないと良い演奏は生まれない。

おわり

といったあまりにもあっさりとした感想。感想にもならない。

不調の演奏とはこういったものだ。ニューヨーク・フィルハーモニックはこのように、指揮者に敏感に反応する?、反応しないケースがあり、そんな日はもぬけのから状態の演奏となってしまう。

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647- ドン・ジョヴァンニはテイトの棒で MET 1983.11.19

2008-07-28 00:05:00 | オペラ





1983-1984シーズン聴いた公演を書いてます。

1983年11月19日(土) 8:00pm メトロポリタン・オペラハウス

モーツァルト/ドン・ジョヴァンニ (MET257回目)

ジェフリー・テイト 指揮
ヘルベルト・グラーフ 演出

レポレルロ ポール・プリシュカ
ドンナ・アンナ エッダ・モーザー
ドン・ジョヴァンニ ジェイムス・モリス
騎士長 ジョン・マッカーディ
ドン・オッタヴィオ デイヴィッド・レンダル
ドンナ・エルヴィラ キャロル・ネブレット
ツェリーナ キャスリーン・バトル
マゼット クリスティアン・ブッシュ


昔(1977)、銀座ヤマハで、フルトヴェングラーの指揮するドン・ジョヴァンニのカラー映画を上映するというので、師走押し迫った頃だったと思うが観に行ったことがある。今はDVD等で簡単に手にはいると思うが、当時なかなかそうはいかなかった。
フルトヴェングラーが映っているのは最初の序曲の部分だけであり、あとはほとんど舞台の上の映像。それにしてもウィーン・フィルの、なぜか超ヘヴィーな音に肺腑をえぐられっぱなしだった。そのせいかどうか、ドン・ジョヴァンニは昔からどちらかというと苦手。
フルトヴェングラーのドン・ジョヴァンニはどこをなにを目指したものだったのだろうか。デモーニッシュとよくいわれるけれど、フルオーケストラで音を全部鳴らして進む音楽は重量戦車みたいな感じだが、だいたいにおいていつものフルトヴェングラーのスタイルだ。
でもドン・ジョヴァンニというのはどうもフルトヴェングラーの作る音楽と少し位相が異なるような気がする。空回りと言っていいかもしれない。彼の指揮するドン・ジョヴァンニは多種あるのでいつでも聴けるが、聴くときはいつも、あんなはずじゃなかった、だからもう一度よく聴いてみる、といった心構えになってしまう。

さてMETのほうだが、この日は土曜日なのでマチネー公演あり。
そのお昼公演はブリッテンのピーター・グライムズ。
ピーター・グライムズをやって夜はドン・ジョヴァンニ。指揮者とソロ歌い手は完全に変わるので問題ないが、オケ、合唱は大変だ。

これも歌詞が理解できたらなと思ってしまう。いずれにしても有名なドン・ファンのことなのでなんとかなる。
ドンナ・エルヴィラ役がかなり調子が悪く、最初はちょっと正聴できないぐらいひどかった。オペラは生き物だからしょうがない。でもシンフォニー・コンサートはどうなんだろう。
タイトルロールのモリスは非常にスキニーでスタイルがよく、かといってあまり動き回るわけではない。メトのステージを舞台狭しと動き回るのは大変だろう。それでももう少し動きがあってよかった。動きがありすぎると、邪悪なものが軽くなってしまうのだろうか。
エッダ・モーザーのドンナ・アンナとツェリーナのキャサリン・バトルは全く対照的。同じソプラノでもこれだけ違えば役どころが明確になりわかりやすい。モーザーは少し乾いたような声質で曲によっては溶け込まない、馴染まない。
バトルはとにかく細い声。針金のような綱渡り的細さであるがはずすことがなく巧みな歌唱。彼女の人気はすごい。おばさん連中に絶大な人気がありそうだ。
(河童注:バトルがメトとバトルしたのはもっとあと)

ジェフリー・テイトはその身体をささえる杖さえアクセサリーのステッキのようにあやつり、やたらと様になっている。
序曲から第1幕は快走。
第2幕の幕間が間延びしていて、第1幕に比べてちょっと精彩がなかった。
おわり

 


646‐疲れを癒す華金ナイトはファジー加減なお酒で

2008-07-25 01:03:44 | 六本木にて

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お昼、近くにいい喫茶店がないので、よくタリーズに顔を出す。といってもテイクアウトがほとんどだが。

それで、ここのお店のコーヒーはとても量が多く、たのむときはいつもショートサイズ。なのに、店員に面が割れているせいか、いつもカップになみなみと溢れんばかりのコーヒーだ。量が少なくていいのでショートをたのんでいるつもりなのだがサービス精神旺盛な店員はショートサイズのカップにいつも特盛り。。

こうゆうケースってクレームのつけようがないよね。大は小を兼ねる。ゆっくりと飲むことにしている。

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今日は華金。。

ウィスキーはここ何年もピュアなモルト系のストレート飲みが普通になってしまったが、どうもあのはかり売りだけはいやなもののひとつ。

飲む前からその量がわかっているって、サラリーマンのお決まりの給料みたいで、ただでさえつまらなかった仕事が、はかられたお酒では癒されることもない。実につまらない。

そこまでわかってお酒を作ってくれとはもはや言うまいが、気持ちはそんなとこ。

だからといって、どくどくとタリーズのコーヒーみたいになみなみと特盛りにしてくれという話でもない。ショートはショートでいいんだ。

まず背筋を伸ばし、深呼吸をし静止状態を保持し、ボトルをおもむろにななめに傾け、そしてグラスに一筋のうなじのごとき滑らかさで、その黄金の水をたらしてほしい。

そのアクションが完結したお酒をゴクリとやればさぞおいしいことだろう。

お酒の量は、時と場合、雰囲気、人数、などにより腕のあるバーテンダーにそれぞれの気持ちの目分量ってやつで作ってほしい。

このようにしていただくお酒は実にうまい。お互いの気持ちみたいなものが飲む前に少しひらかれた感じになり双方に通じる心ができ、2杯目以降もおいしく飲める。カウンター越しで会話は少なくても通じるものが自然とできてくるものなのだ。このようなことがお酒のうまさに加味されさらにおいしいお酒となるわけだから、こうなれば仕事のことなど忘れ、本格的な華金ナイトに突入するのも日常茶飯事、もとい、金曜茶飯事となること間違いなし。仕事の疲れはこうやって癒されるんだ。

それでアップした絵はなぜかジョニクロオンザロックス。グラスがジョニクロなのでそのように思ってしまう。ストレートしか飲まない、などといっているのにオンザロックス。。

外でバーで飲むときはストレート系。河童の蔵で飲むときはオンザロックス。そんなところですかね。あんまり酔っ払っちゃうと翌日のコンサートにひびくし。

ところで、この絵は、一昨日 昨日と書いた1983.11.17クラウス・テンシュテット指揮ニューヨーク・フィルハーモニックのプログラムに載っている広告ページから拝借したもの。昔も今もおんなじですね。

オンザロックスだったら始まる前、休憩時間でもいけるかもしれません。欧米の真似をしてコンサート会場で酒を飲めるようになったのはサントリーホールの大罪だが、酒の魅力には勝てないのかもしれない。しかし一度飲んでしまったら演奏など二の次になるのが目に見えている。日本人のように分解速度がおそい人種にとっては百害あって一利なし。サントリーホールから5分歩けばギロッポンに着くのに、なぜ我慢できない。。

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かといって、異常に少ない量の400円コーヒーを飲んでも体の一部でさえ満足するものではないのも事実。サントリーホールのあの400円コーヒーにはいつも呆れかえる。。

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なにはともあれ

今週もよい週末を。

おわり

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645‐ヘナハンも絶賛。ツァラトゥストラ テンシュテット NYP 1983.11.17 その2

2008-07-24 00:07:00 | 音楽

1983.11.17の演奏会のことは昨日書きましたが、翌日のニューヨーク・タイムズにさっそく評が載った。

書き手は、ドナル・ヘナハン。

辛口評論家で知られる彼が珍しく超絶賛。

特にツァラトゥストラの褒めようは尋常ではない。

ニューヨーク・フィルハーモニックをべたほめ。

そして、クラウス・テンシュテットとシュトラウスの相性の良さをあげ、これ以上ない演奏としている。

昨日のブログで書いた感想がイメージの助けになればと思います。

全訳はまた時間のあるときに書いておきますね。

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644‐最後の咆哮ツァラトゥストラ    テンシュテット NYP 1983.11.17

2008-07-23 00:11:41 | 音楽

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前日のブログでは1983.11.15NYPO定期のことを書いたが、その二日後の演奏会がこれ。

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19831117()8:00pm 

エイヴリー・フィッシャー・ホール

10,306回定期

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シュトラウス/メタモルフォーゼン

シュトラウス/ホルン協奏曲第2

  ホルン、フィリップ・マイヤーズ

シュトラウス/ツァラトゥストラはかく語りき

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クラウス・テンシュテット指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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WQXR 1984.7.22 3:05pm 放送予定

ドイツ・ロマン主義最後の栄光をテンシュテットは見事に表現した。

ニューヨーク・フィルハーモニックがそのアメリカ的なものに全く感化されることなく、ただひたすら、テンシュテットとともにその音楽に浸るとき、私がもしドイツ人であったなら、その湧き出てくる涙を抑えようとはしないであろう。

テンシュテットはこのほとんど風化してしまいそうな曲に感動をもたらしてくれた。

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その23弦楽器のなんとしっくりしていることか。

また、ホルンの素晴らしさ。

そして、ほとんどその極致とでもいうべき大壁画。

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テンシュテットは素晴らしい指揮者であり、またニューヨーク・フィルハーモニックもすばらしく節度をもったオーケストラである。

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メタモルフォーゼンで弦楽器が一見何の変化もなく、ただひたすら音のあやを作っていくとき、そこにあるのはドイツの素朴な手工業的なものであり、ここにダイナミックな変化を求めるのは筋違いというものだ。これはベートーヴェンの世界とは全く異なる世界である。

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一昨日のブルックナーでも大いに感心したのだが、このホルン協奏曲を軽々と本当に軽々とこなすニューヨーク・フィルハーモニックのトップというのはいったい何者なんだろう。

完璧だ。。

シュトラウス特有のメロディーが弦楽器的な様相を帯びた表現など、よくピアニシモであれだけ軽々と吹きこなしてしまうなんてとても信じられない。また、普段はNYPの一員として演奏しているわけであるから、音色に違和感がなくバランスもよく、オーケストラに溶け込んでいる。曲自体はつかみどころがなく、まるでオペラの一節でも聴いている雰囲気なのだがやっぱり超一流で聴くとこのようになるのであろうか。協奏曲としては第1番のほうがわかりやすいのかもしれない。

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そして最後にもうこれ以上の超ロマン的な曲はないだろうと思えるツァラトゥストラ。

この曲をテンシュテットは誠実に指揮し、ふちどりがくまなく彩られ本当に交響詩にふさわしい大壁画となっていた。

このホールにオルガンがあるとは思ってもみなかったが、現実にあった。その出だしからなにか‘2001年’から編曲したような逆のイメージを持ってしまうのだが、テンシュテットが指揮をするとき、かまえが最初からシンフォニックであり、またあいまいさがないので通俗性を感じさせない。やっぱりこの出だしにはドイツ音楽の光と影がある。このような曲に感動するということはおかしいことだろうか。全く感動してしまった。

テンシュテットが独特のクラウチング・スタイルで姿勢を整えると、オルガンがピアニシモで地の底から湧きでる。そして徐々に音楽が高まり、ついに圧倒的巨大な大壁画の宇宙サウンドとなるとき、そして弦楽器がその高音においてむせび泣くとき、ここに身を置くだけでよいのではないか。批評すべきではない。このような音楽をこのように受けとめてよいのではないか。

最後にピアニシモでウィンドとコントラバスがかけあって消え入るように終わるとき、ドイツ・ロマン主義の最後の火すら消えていく。

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643‐静止状態のブルックナー4番 テンシュテット NYP 1983.11.15

2008-07-22 00:07:00 | 音楽

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1983-1984シーズンのニューヨーク・フィルハーモニック定期は、音楽監督がズービン・メータにもかかわらず、ラファエル・クーベリックにより開幕した。

メータは10月中旬にようやく登場。と思いきやまたいなくなってしまった。

今度はクラウス・テンシュテットだ。9回公演。

1983.11.910111215

1983.11.17181922

9回公演と言っても、プログラムは2本。

最初のほうはいつもの木金土火の4回公演に加え、水曜日も演奏している。

水木金土火の5回公演。

ブルックナーの4番を5回もやるといくらマイヤーズでも大変だろう。

19831115()7:30pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

10,305回コンサート

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モーツァルト/ピアノ協奏曲第21

  ピアノ、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー

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ブルックナー/交響曲第4

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クラウス・テンシュテット指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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静止。

ブルックナーは全く静止していた。ほかに言いようがない演奏。それに、この前(1983.11.1)聴いたフィラデルフィア管とのあまりの音の違い。

これらは、多かれ少なかれ指揮者のテンシュテットによっている。テンシュテットはテンポをあまり動かすことなく、また金管による絶叫にも、なにか節度が感じられた。

弦にしろ管にしろひとつの音をまんべんなく伸ばしていて、一つの音への配慮がよくいきとどいている。弦の音が特にいつもよりしっくりいっていたのはオーケストラの配置をかえていたせいかもしれない。これだけオーケストラのバランスがブルックナーにふさわしくなっていたのは、とりもなおさず指揮者の功績。

音楽がこのように落ち着いていると、第1楽章の幻想的な雰囲気の中で音楽が始まった瞬間から腰を落ち着けて聴きたくなる。原因と結果が逆になってしまった文章だが、実際、そのように感じたのだ。今日は演奏が始まる前から何かそのような気がしたのだ。だから演奏の素晴らしさにより、曲の構成に没入できるといった現象が発生したのだと思う。

たとえばブルックナーでも78番となってくると、いわゆる3主題形式の音楽様式がよく理解できるのだが、この4番は少し混乱するところがある。特に第1楽章は縁取りがあまり明確でない。展開部と再現部への、いりは明確だがほかの個所はすこしピンボケだ。

今日のテンシュテットの演奏を聴いていると結局、ブルックナーはこの曲ではまだはっきりとしたものをとらえていないのではないか、という説得力を感じとってしまう。

1楽章はこの点においてこのように弱いと思うが、それよりもむしろ、何か幻想的で魅惑的なものがあるから、このようによく聴かれるのであろう。

2楽章の音の絡み合いなどはヨーロッパ建築物そのものといった雰囲気があり、特に中間部から後半にかけての木管の素朴なアンサンブルは中世ヨーロッパの歴史そのもののような気がする。一見空虚に見えるがその実、よく見るとなるほどと思いたくなる。

テンシュテットの作りだすブルックナーは、このところブルックナーのレコードも出回っていて、その人気を裏付けるものがある。全くくずれがなく、プレイヤーも安心して身を任せているようであり、長身でなおかつあれだけ明快な指揮をしてくれれれば演奏もひとりでによくなるのであろう。また、このブルックナーに静止の印象を持ったと最初に書いたが、それが独立した印象をもたせることなく、注意力散漫といったことはまるでなかった。例えば、第2楽章の伴奏となるメロディーなどはっきりした意思を持ち、それが聴衆に容易に第3楽章のリズミックなものを想起させていた。また、第4楽章コーダにおいても乱れることなく最後まで3連符だらけのこの音楽の外枠を明確にしていた。やっぱりブルックナーは力のある人が演奏しなければならない。

また、この演奏で再認識したのは金管が非常に安定しているということだ。ホルンはフィリップ・マイヤーズの独壇場であり、出だしから最後まで完璧に素晴らしかった。特にピアニシモにおける抑えた表現が実に巧みであり、音がふらつくこともない。

またもう一人素晴らしいのがトランペットのフィリップ・スミス。何の苦もなくブルックナーのピアニシモ、フォルテシモ、それに複雑なリズムもピアニシモで軽々と吹きこなす様には唖然とさせられる。

金管が安定していないとブルックナーの名演もなかなか生まれてこないものなのだろう。

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さて、最初に演奏されたモーツァルトだが、これはゲルバーの軽いタッチにまず驚かされた。思い起こすにゲルバーは比較的聴くチャンスに恵まれていた演奏家の一人だが、モーツァルトは今まで一度も聴いたことがないような気がする。どちらかというとブラームスのような重い曲を聴いてきたような気がする。それだけにゲルバーからこのようにすばらしいモーツァルトが発生するなどとは思ってもいなかった。それは、はっとするほど軽いタッチで始まった。音自体も非常に鮮明であいまいなところがなくきれい。澄みきった演奏がひたすらホールのあちこちにちりばめられていく様子が手に取るようにわかり、音楽が天井から舞い落ちてくるとき、聴衆はそれに身を任せ、音楽の中にただひたすらうずもれるだけでよい。

テンシュテットは比較的小編成の曲では指揮棒をもたないが、全身これ指揮棒と言った感じで、こまごまとしたことよりも、全体の音楽の流れに気を配りながら包み込むような指揮姿であった。

上記公演は、WQXR1984.7.15オンエアされました。

おわり

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642-ワールト サンフランシスコ カーネギー 1983.11.4

2008-07-20 00:50:07 | 音楽

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1983-1984シーズン聴いたコンサートより。

ワールトが手兵のサンフランシスコ交響楽団をひきつれてニューヨークまでやってきました。

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1983114() 8:00pm

カーネギーホール

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リャードフ/キキモラ

サン=サーンス/ピアノ協奏曲第4

  ピアノ、オラシオ・グチエレス

エルガー/交響曲第1

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エド・デ・ワールト指揮

サンフランシスコ交響楽団

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今日は始まる前から眠かったが、このサン=サーンスは通俗的で眠気をさらに誘う。

それに比べて、エルガーの曲はシックリしていて、ちょっと長すぎると思ったが、手ごたえあり。

特に指揮者のこの曲に対する思い入れ、愛情の深さがよく表れていて、丁寧でわかりやすい演奏となっていた。

曲は最初、ピアニシモで行進曲風のメロディーがゆっくり流れ、それが第1楽章の導入部になっているだけでなく、全曲を一貫して支配していて比較的聴きやすい。退屈するような曲ではない。

ワールトはこの曲に特別の思い入れがあるのか、共感、愛着の念が観えてくる。特に第3楽章アダージョ結尾部における幻想的な雰囲気には圧倒された。オーケストラに彼の意思が乗り移ったような、静かで独特な情緒を醸し出していた。

私がイギリス人であったならば、故郷を思うその愛国心からきっと泣いていたことだろう。

エルガーの曲にはそれぞれの故郷を思い出させる何かがある。

昔の河童ノートにはこのような、わりと、本当にどうでもいいような駄文が短く刻まれている。

早い話が、わかっていなかったのだろう。

いま振り返るとワールトのエルガーなんて、あんまりありえないような気もする。

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641- ミスターS ブルックナー8番 フィラデルフィア・サウンド カーネギー 1983.11.1

2008-07-18 00:17:21 | コンサート・オペラ





河童のいつもの昔話。1983-1984シーズン聴いた演奏。

ミスターSは昔、フィラデルフィア管弦楽団を振っていたことがある。
フィラデルフィア管弦楽団は、当地だけではなくニューヨークでもサブスクリプションをもつ。ボストンとかクリーヴランドとかも同じ。シカゴはプライドが高いのでたまにしか来ないが。
早い話、昔のビッグ5はみんな東よりにあるわけで、大がかりなツアーを組まなくてもお手軽に来られたわけだ。


1983年11月1日(火)8:00pm カーネギーホール

ブルックナー/交響曲第8番ハ短調

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー指揮
フィラデルフィア管弦楽団


聴く前から答えがありそうな雰囲気。

コーダにおいてブラスがアウフタクトからの全強奏を始めるとき、そこにはなんの思い入れもなく、マッシヴなフォルテシモがただひたすら流れるだけである。
存在するのはオーケストラそのものであり、ブルックナーの世界を感じとることはできない。
この前(1983.10.6)、つい一か月前にオイゲン・ヨッフムの指揮バンベルク交響楽団の演奏でこの曲を聴いたばかり、いろいろな意味での比較ができ興味深かった。
オーケストラに関して言えば、これはもう断然、フィラデルフィア管のほうが素晴らしく、ひとつのオタマジャクシに対する正確さが違う。もうほとんど完璧。特に金管楽器の正確さは耳に余るものがある。(!?)
金管といえばホルンはすさまじく、前後8本(+アシつき)。うち、ワーグナーチューバ4人持ち替えで、びくともしないあの威力はものすごい。
つまるところ、ブルックナーに持ち込まれたフィラデルフィア・サウンド。
このような、世界を圧するブラスの咆哮のすさまじさは例えばバンベルクが同じような吹奏をしたとしてもその感性位置はまるで対極のような気がしてならない。
指揮者によるところも大きい。ヨッフムの本当に精神的な没我をここに感じることはできない。特に第4楽章の単なる音の羅列と化したパレットには少々虚しさを感じた。音楽ではなく音のみがつながっていく。構造の連鎖をどのように感じていいかわからない。フィーリングとしては落ち着きのなさのようなものを感じてしまい、それはブルックナーに好結果をもたらさない。

そのときの感想はこんな感じで、実にあっさりと通過してしまった。
そのわりには、カーネギーホールのぼろい楽屋までいってサインのおねだりをしている。


今、メモを読み返すとどうしようもない文章が、日本人評論家に影響された言葉だけが単なる単語の羅列と化し虚しいパレットになっているようだ。
ただ、フィラデルフィア・サウンドというのは、当地と日本での意味合いがかなり異なるようだ。日本ではキラキラ輝く、音楽内容の理解とは別のところにある能天気なもの、といった雰囲気が昔はあった。これは誤りである。
フィラデルフィア・サウンドというのは、集中する音、である。ステージ上のオーケストラという楽器の中心になにか磁石のようなものがあり、楽器の音々がそこに向かっていくのである。ある個所に中心をもつ音が存在するオーケストラであり、非常に高密度で分厚く、くるいのないマッシヴなサウンド。ブラスもでかいが、かけ離れた感じはなくブレンドされている。ゴージャスというより芯のぶれない安定感が心地よい。ニューヨーク・フィルハーモニックの拡散系のサウンドとは異なる。日本人は拡散系のサウンド・オーケストラはあまり好きではないと思うのだが、昔から評論家はフィラデルフィアのなにを聴いていたのだろうか。

ということで、1983年といえば、ミスターS、60才。
フィラデルフィア管を完全にドライブするまでには至らなかったかもしれないが、自分のすべき曲はとうの昔に分かっていて、だからこのような選曲が双方からもたらされたのだろうと思う。聴くほうとしては曲の巨大さはその長さ、音の巨大さ、といったものに比例するような感じの理解であり、あまり深くはなかった。ミスターSのスタイルは昔と方向が変わったわけではない。


640- マッサラでいくとこうなる ピーター・グライムズ MET 1983.10.29

2008-07-17 00:07:00 | オペラ




1983年10月29日(土) 8:00pm メトロポリタン・オペラハウス

ベンジャミン・ブリテン/ピーター・グライムズ  MET第36回公演

ジョン・プリッチャード指揮
ティロン・ガスリー、プロダクション

ホブソン/エツィオ・フラゲルロ
スウォロー/モーレイ・メレディス
ピーター・グライムズ/ジョン・ヴィッカース
セドリー夫人/バトヤー・ゴッドフライ
エレン・オーフォード/
   エリザベート・ゼーデルシュトレーム
漁師/パウル・デ・パオラ
おばちゃん/リリー・クーカシアン
ボブ・ボールズ/ロバート・ナギー
船長バルストロード/トマス・スチュワート
女漁師/バーバラ・バイストローム
ホレス・アダムス司祭/マイケル・ベスト
二人の姪/ルイス・ウオァフカ
     ベッツイ・ノーデン
ネド・キーン/ジョン・ダーレンカンプ
弁護士/ケント・コッタム
少年/カーク・ピーターソン
何も前提知識なし、聴いたこともなければ観たこともなし、ヴァイニル・レコードの音すら聴いたことがないかもしれない、オペラ読本も読んでいない、だからストーリーも知らない、まして当時のこと、字幕もなければ椅子にテロップなんてあるわけなし。
そんな状態で観に行けば次のような感想となる。
「英語で歌われるわけであるから、何となくわかるようなところもあるが、やっぱりオペラのすじを追いながら聴くのは多少つらいところもある。
音楽自体は幕間の間奏曲が次の場への重要なモチーフを必ず示しているといった感じで、それなりに分かりやすいところもあるが、それが直ちに感動に結びつくわけではない。
なにか現代の庶民劇といった雰囲気そのものであり、素朴で派手さはまるでなく、これがオペラである必然性をあまり感じさせてくれない。
どこに音楽の山があるのかまるでわからず、フラット、プレインのオペラである。しいていえば、第3幕第2場で音楽がやみ、独白となったところに最高の緊張感を感じた。
どうしても、オペラを聴く場合には、前提知識が前提条件であり、またこのようなめったに繰り返して聴くチャンスのないオペラにおいてはなおのこと前提知識が重要となる。つまり勉強してからいかないと今回のようにあまり楽しくない結果となってしまうのです。」
当時の駄文とはいえ、あまりにも素直というか、こんなまっすぐな不浄でないハートを持っていた時代もあったのかと、自分の昔の文章に感動。。

「たしかにきれいな長方形の舞台に大きくとられた空間、ただでさえばかでかい空間がこれみよがしにことさら大きい。おしなべて薄いブラックな色調の色合いが、むしろスコットランドの空を想わせる。
音楽のイメージは、非常に気品にあふれ、グレイなロングヘアが上質の油で束ねられたような音のクラスターがうねり、これまた気品のあるヴォイスと絡み合う。決してオーケストラの音のうねりをじゃましてはいけない声、そしてそのように歌われる歌。ヴィッカースの声は激しく荒いのでいくらおさえても少しアクセントがききすぎかもしれない。トマス・スチュワートはもう少し前の時代に聴きたかった。でもこのオペラの特質をよくとらえたものだ。ゼーデルシュトレームは非常に味のある歌で、いつぞやのルサルカの歌声が忘れられないが、魅力的なキャストで生きるオペラだ。」
今、同じような条件で聴いたらこんな感想かもしれない。
おわり




639- とんでも爆曲 ぜんぶ広上コントロール タコ12 2008.7.11

2008-07-14 00:10:00 | 音楽

この曲だけ聴いたら何が何だかわけのわからないト系の爆曲を名手広上が振るんだから、一発必中の生コンサート、行くしかない。

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2008711()7:00pm

サントリーホール

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武満 徹/3つの映画音楽

 ホゼー・トレス、訓練と休息の音楽

 黒い雨、葬送の音楽

他人の顔、ワルツ

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プロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第2

 ヴァイオリン、ボリス・ベルキン

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ショスタコーヴィッチ/交響曲第12番≪1917年≫

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広上淳一 指揮

日本フィル

小柄な広上が両手をまるで強風の中めくれかかる寸前の傘のように肘を伸ばしきって両手で振るその様は、鳥の羽のごとき理にかなった運動だ。曲の全てを掌握しコントロールする様は他の日本人指揮者の追随を全く許さない音楽の説得力。

フルスコアをピタッピタッと正確に一ページずつめくる音が聴こえてくるほどの迫力。きっちりめくり正確な音楽を刻み、そして爆発する。

この摩訶不思議なショスタコーヴィッチの交響曲第12番は、はじまってほどなく23分するととんでもない第1の嵐がやってくる。形式とかいった言葉が木端微塵宇宙のかなたに飛んでいく。ひたすら機械的な爆発音がじゅうたん爆弾のように鳴り響き続きまくる。いったいなんだこれは、唖然とする聴き手。やっぱりオーディオ装置で聴く曲ではない。この醍醐味は生でしか味わえない。

アダージョとスケルツォはショートブリーフでしかなく、やがて再び機械仕掛けのような大爆発の第4楽章となる。

いったいこの曲はなんなんだ。。

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何かが前にあって、その続きは実は世間の知らないところでやられており、四苦八苦縦横無尽の苦闘が続いていたようだ。

アクション映画で、平和な公園に突然、生きるか死ぬかのような喧嘩と追っかけが飛び込んでくる。これって映画を見ているほうは理解できるけど、公園でのんびりしている人たちにとっては、なんというか青天の霹靂とでもいおうか、やたらとしらけたことだったりする。自分に関係ないことがその兆候すら見せず進行していても、何にも関係ないことであり、唐突で理解にとても時間がかかるもの。

ショスタコーヴィッチの精神の交響曲は1112番あたりはこのようにすすんでいたのかもしれない。しかし一般的に言われる11番との近似性みたい話にはあまり賛成できない。続編といった話にも懐疑的。

音を聴けばよい。

1楽章の爆音楽は第10番と非常に似ている。音の進行、フレーズのくくり、拡大された音形。伸ばされたオタマジャクシ。酷似している。このまま第10番に突っ込んでいっても不思議ではない。最初から最後までこんな感じだ。

また、トロンボーンのソロは完全に第15番の先取り。あそこまで難しいソロではないが背筋がぞくぞくするような音楽に違いはない。

それにしてもいったいどうしてこのような爆音のような曲ができたのであろうか。

スターリンに音で抵抗した?歓喜の勝利ではなく、空虚な爆音で?

そこまで読んだり書いたりするものではないが面白い曲に違いはない。この曲が去ったあとに少なくとも勝利の美酒のような輝く余韻はない。

広上はこの曲を完全に手中におさめ、見事に噛み砕いて聴かせる。ショスタコーヴィッチの心の裏側をこれでもかこれでもかとえぐる。

1楽章後半の背中に背負った巨大なハンマー如き指揮棒を背負い投げアクションでオーケストラをあおり、音をぶつけるせめぎ合わせる、これでもか棒。他の日本人指揮者のようにうわっつらだけの、アクションのためのアクションとは全く趣を別にする音楽との一体感がある。オーバーアクションに見えない。

10番の重さと軽さ。第11番の一発勝負。そしてこの第12番の爆曲。このあと13番、14番が続くとは信じがたいし、さらにその先にはいきついてしまった15番がある。ここらあたりの音楽の多様性。演奏会であまり取り上げられることがないので、というか、客がはいらない?ので演奏会そのものが意味を持つ。去年誰かさんがやったショスタコーヴィッチ全交響曲演奏のようなものにはあまり意味を感じない。広上の今日のプログラムビルディングを見れば、そのようななんでも全部やればいい、みたいな考えとは対極にある棒振りのように思える。

オーケストラはトロンボーンのソロは少し不安定。トランペットの最高音の強音はピッチがあい澄み切っていた。ここらあたり新日フィルよりは上。

今日は広上に完全にドライブされており、双方のシナジー効果により1+1=3ぐらいになったかもしれない。

前半の武満、プロコフィエフは今日のメインディッシュを聴くにつけ理にかなっているように思える。プロコフィエフの前に武満の映画音楽をおくというのがまたしゃれている。イメージだけで言うとプロコフィエフの前になんだか今はやっているショスタコーヴィッチの映画音楽が置かれているような錯覚におちいってしまうようなところもある。イメージの親近性といったものがあり、聴くほうも最初から耳をすまそうと思う。

武満の音楽は個人的にはあまり関心がないが、広上のややアップ目のテンポが魅惑的であり、ときおりはいるルバートが音楽の生々しさに気づかせてくれる。ここでも広上の棒は見事だ。

プロコフィエフの第2番は伴奏が面白い曲だが、あんまりトリッキーだと空虚に聴こえたりする。ベルキンはたしかに昔聴いた記憶があるのだが、それがなんだったのか、やっぱり河童蔵を探さなければならない。昔と違いずいぶんとおとなしくなってしまったような気がした。あいさつもそぞろにすぐに消えてしまうその姿がいいものなのかどうなのか。どうしてあんなに足早に引っ込んでしまったのだろうか?

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638‐ロストロvsメータ NYP 1983.10.19 その2

2008-07-13 18:49:48 | 音楽

この日の演奏の内容は、すでに635-に書いてます。

翌日20日のニューヨーク・タイムズにアレン・ヒューの評が載りました。

この19日のコンサートは、いつもの週4日のサブスクリプションではなく、1回のみのコンサート。年金のためのコンサートとなっている。

フィルハーモニックメンバーの年金のためのものであり、そのせいかどうか、いつもの演奏会と比べて力の入れ具合がどうか、といったあたりに言及している。

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637‐MET1983-1984シーズンメンバー表

2008-07-11 00:19:55 | 音楽

2

19831984シーズンのことを書いてます。

このシーズンはMET100周年記念シーズン。

メンバー表をみてみましょう。

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●オーケストラ

人数は延べ数です。楽器の持ち替えがあります。

ヴァイオリン25

ヴィオラ9

チェロ8

ベース7

フルート4

ピッコロ2

オーボエ4

イングリッシュホルン1

クラリネット4

バスクラ1

サクソフォーン1

バスーン4

コントラバスーン1

ホルン10

ワーグナーチューバ2

トランペット5

バストランペット1

トロンボーン5

バストロンボーン2

チューバ1

ティンパニ3

パーカッション3

ハープ2

オルガン1

チェレスタ1

合計107

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●合唱

ソプラノ20

アルト19

テノール26

バス18

合計83

.

●バレエ

コリオグラファー8

ダンサー25

合計33

.

合計220人を超えている。

でもこれって表に見える人だけ。

裏方も含めるととんでもない人数だ。

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オーケストラでは、ホルン、ワーグナーチューバあわせて12名というのがすごい。さすが、イタオペとともにワーグナーに比類なき演奏を行うMETならではの充実度。

楽器は全員いつもそろっているわけではなく、曲に合わせて人数調整するし、また、出番によっては曲の途中で出たり入ったりしている。弦はそのようにはできないがブラスは結構出入りがある。

.

それで、合唱指揮はストイックな人物デイヴィット・スティヴェンダー。それにアシスタントが二人。

普通はこうだろう。ヘルプがいる。

でも、

指揮者1

.

指揮者は一人だけ。

オーケストラの指揮者は当時絶好調のジミー、ジェイムズ・レヴァインだけ。

音楽監督、兼、首席指揮者。

あとはタイトルでMETにかかわっている指揮者はいない。

METを振る指揮者は相応にいるもののジミー天下だったわけだ。

ものすごいスケジュールの週は日常茶飯事。そのうち紹介できると思います。

まずは、1983-1984シーズン聴いた演奏会でも見てくださいな。

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636- もうすぐMET100周年記念ゲイラ 1983.10.22

2008-07-09 00:36:27 | 音楽

3

これは、1983-1984シーズン、MET100周年記念の年、テキサコのだしたイラスト。

METでは毎週土曜日にマチネーがあり、それを毎週テキサコが生放送。

WQXRFM放送だがあまり音質が良くなく、たとえばピットにはいったオーケストラがフォルテッシモをならすと明らかに音がつぶれる、など、品質のよくないマシンで生放送していたのだろう。でも、毎週放送があるとないでは、耳の潤い方が異なる。

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このイラストにあるように、100周年記念のイヴェントは、19831022()の午後2時から8時間にわたり行われる。それを丸ごと放送するというもの。それもいつものラジオ放送ではなく、Televised liveテレビの生放送です。

この日の内容は今ではDVD等で手にはいるはずだが、その場で聴かなければ、一つのメルクマールの刻印を感じることは決して出来ない。

このイラストですが、何人言い当てることができますか。

頂点にいるジミー(ジェイムズ・レヴァイン)

左下のルチアーノ・パヴァロッティ

あとは、、うーん、

顔は覚えているけど名前は忘れてしまった人が多い。

その時はおそらく全部覚えていたはず。

その音楽シーンにいなければ音楽に関する脳が活発化しないといでもいおうか、いたしかたないとはいえ、その時の現実もあとで考えると夢物語のようであったことがあるもの。

初台にある新国立劇場、これもいつか新国立歌劇場と名前をかえ、専属のオーケストラをピットにいれ、毎夜、オペラを、レパートリー形式で奏でる。そして、写真のうようなイラストにスターを描き、、、、

そこまでしなくていいか。

観た夢は膨らみ、そして膨らみ続ける。。

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前回のブログでは1983.10.19のニューヨーク・フィルハーモニックの模様を書きましたが、その時点であと3日で10.22でした。当時はニューヨーク・フィルハーモニックを中心に聴きまくりでした。

1022日のMET100周年記念ゲイラにも、実は、いってません。

なにをしていたのでしょうか。

何かひもとけば答えがでてくるかもしれませんね。

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635‐ロストロvsメータ NYP 1983.10.19

2008-07-07 00:10:00 | 音楽

Scan10005

19831984シーズン演奏会感想です。

今日は毎週4回のサブスクリプションではなく、年金コンサート。一晩だけの催しものです。

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19831019()8:00pm

エヴリー・フィッシャー・ホール

10,288

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ペンション・ファンド・ベネフィット・コンサート

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ストラヴィンスキー/ペトルーシュカ

(1947年改訂版)

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ドヴォルザーク/チェロ協奏曲

  チェロ、ムスチスラフ・ロストロポーヴィッチ

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(アンコール)

バッハ/サラバンド

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ズービン・メータ指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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この日の演奏会は

WQXR1983.1.223:05pm

放送されました。

ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、ロストロポーヴィッチの独壇場であった。後ろ向きになってチェロを弾けるものなら、彼は同時に指揮もしていたかもしれない。

今まで実際に聴いたチェロで圧倒的だったのがヨーヨーマであったが、ここにきてロストロポーヴィッチのチェロを聴いてみると、なんというかヨーヨーマでさえも、1000メートル後方を走っているにすぎないといった感覚におそわれる。チェロ一個であれだけホールを鳴らせることができるというのはすごい。

また、高低、強弱における音色の一様性はちょっと信じられないほどである。音楽が完全に余裕から発生している様が手に取るようにわかる。完璧な自信に裏づけされた自由とその開放感の素晴らしさ。またそれを聴衆が手に取るように理解できるその表現力の豊かさ。

大家とはこのようなことをいうのではないだろうか。作曲家が作った曲の素晴らしさにならんでしまうような演奏。というよりも飛び越えてしまった演奏と言えるかもしれない。

特に第2楽章の後半の清涼感はドヴォルザーク特有の弦の美しさにあるが、呼吸といい、その音色といい、ニューヨーク・フィルのアンサンブルとともにドヴォルザークを越えてしまうような恐るべき美しさであったように思う。平然と弾きこなすロストロポーヴィッチに唖然。

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フルニエのチェロ、セル指揮ベルリン・フィルのレコードをほとんど擦り切れるまできいたおぼえがあり、あの組み合わせの素晴らしさは、いまだに頭にこびりついている。ここで聴くニューヨーク・フィルもまた実にすばらしく、特にホルンの音色は全くマンハッタン的でないというか、いつ聴いても深みのある素晴らしい音色である。

アンサンブルがよく、聴きつくされたこの曲を蘇らせてくれる。本当にフルニエのレコードを最初に聴いた時の感動を蘇らせてくれた。

ストラヴィンスキーのペトルーシュカ。レコードではハイティンクのものをよく聴いたおぼえがある。あらためて?こうして生演奏に接してみると、全く奇妙な音楽であるとつくづく思ってしまう。いわゆる新古典的折衷的な音楽なのだが、そうとはわかっていても本当に変な音楽だと思う。

形式感をもとにして聴く音楽ではなく、バレエ音楽だと思って聴いていれば少しは気が休まるが、踊る方は楽ではないだろう。但しいたるところに一度聴いたら忘れられないようなメロディーが出てくるので聴衆は少しは安心するのだが、またすぐ、ごちゃごちゃ、曖昧模糊、となるのでやっぱり全体を把握しづらいと思う。

メータはスコアなしでやっていたが、これまた大変だろう。ごちゃごちゃした音楽が何しろ45分も続くのだから棒を振る方も途中でなにがなんだかわからなくなってしまったら、本当にそのあとは、なにがなんだかわからなくなるのではないか。

ニューヨーク・フィルは特にトランペットが安心して聴いていられるので、このような曲の場合にも取り乱さない。この手の曲で一番おかしいのはプレイヤーがはずしたときです。はずした原因が曲そのものにあるように思える時など、本当におかしくて笑いだしたくなるものです。その点、ニューヨーク・フィルはちゃんとやってました。全くアンサンブル単位の曲なのだが、楽器ごとにばらばらになることもなく、メータの棒もしっかりしていました。

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