河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1473- モスラがきます。ダンス・ミックス1991 ザ・ピーナッツ

2013-03-31 01:48:58 | また聴きたくなるCD

1
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2
.

3
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4
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これは1991年発売。ザ・ピーナッツのリミックス版、かなり飛んでいて面白い。
特にトラック2のモスラがきます~メドレーは、ミキシングを縦横無尽にやっておりはじけている。今聴いても妙に新鮮。
他の3曲も、筆舌に尽くしがたい空前絶後の名曲だらけなので、
踊りたくなる{昔なら}
.
トラック
1. 恋のフーガ
2. モスラの歌~
  情熱の砂漠~
  悲しき16才~
  可愛い花~
  チャッキリ、チャ・チャ・チャ
3. 恋のバカンス
4. ふりむかないで
.


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1472- 4つの最後の歌 河童ライブラリー

2013-03-28 22:48:20 | インポート

2009年時点のものですのでそのあとのものはいれておりません。


1.
アンナ・トモワ=シントウ
カール・ベーム/シュターツカペレ・ドレスデン
1976.8.11ザルツブルク
1976.12.22NHK-FM
.
2.
キリ・テ・カナワ
アンドリュー・デイヴィス/ロンドン交響楽団
COLUMBIA
.
3.
キリ・テ・カナワ
ズービン・メータ/ニューヨーク・フィル
1985.1/10,11,12,15 (聴衆)
エイヴリー・フィッシャー・ホール
1985.4.28WQXR-FM
.
4.
アンナ・トモワ=シントウ
ヘルベルト・フォン・カラヤン/
ベルリン・フィル
DG 1985/11
.
5.
エリザベート・シュワルツコップ
ジョージ・セル/ベルリン放送交響楽団
EMI
.
6.
エリザベート・シュワルツコップ
オットー・アッカーマン/
フィルハーモニア管弦楽団
ANGEL 1953.9.25
.
7.
ルチア・ポップ
クラウス・テンシュテット/
ロンドン交響楽団
ANGEL
.
8.
エディット・マティス
若杉弘/シュターツカペレ・ドレスデン
1989.4.5サントリーホール(聴衆)
1989.4.30NHK(映像)
1989.6.14NHK-FM
.
9.
ルチア・ポップ
アンドレ・プレヴィン/ウィーン・フィル
1989.8.29フェルゼンライトシューレ
1990.5.2NHK-FM
.
10.
ジェシー・ノーマン
クルト・マズア/ゲヴァントハウス管弦楽団
PHILIPS 1982.2
.
11.
リサ・デラ・カーサ
カール・ベーム/ウィーン・フィル
DECCA 1953.
.
12.
ギネス・ジョーンズ
ロベルト・パテルノストロ/
東京交響楽団
1991.4.29サントリーホール(聴衆)
1991.4.29NHK-FM
1992.1.20NHK-FM
.
13.
グンドラ・ヤノヴィッツ
ヘルベルト・フォン・カラヤン/
ベルリン・フィル
DG
.
14.
ジェシー・ノーマン
ジュゼッペ・シノポリ/
フィルハーモニア管弦楽団
1990.8.11ザルツブルク
1991.6.15NHK-FM
.
15.
シルヴィア・シャーシュ
エルヴィン・ルカーチ/
ハンガリー国立管弦楽団
HUNGAROTON
.
16.
エディット・マティス
クルト・マズア/ベルリン・フィル
1990.9.22フィルハーモニー・ザール
1991.8.8NHK-FM
.
17.
セーナ・ユリナッチ
ミラン・ホルヴァート/
オーストリア放送交響楽団
1973.5.24コンチェルトハウス、ウィーン
.
18.
テレサ・ツィリス・ガラ
フランツ・パウル・デッカー/
ハノーヴァー放送交響楽団
RODOLPHE
.
19.
キリ・テ・カナワ
ゲオルグ・ショルティ/ウィーン・フィル
LONDON 1990.6
.
20.
フェリシティー・ロット
ネーメ・ヤルヴィ/
スコッティシュ・ナショナル管弦楽団
CHANDOS 1986.12.8
.
21.
チェリル・スチューダー
ジュゼッペ・シノポリ/
シュターツカペレ・ドレスデン
DG 1993.6
.
22.
チェリル・スチューダー
ウーヴェ・ムント/NHK交響楽団
1994.10.15NHKホール
1994.10.16NHK-FM
.
23.
エリザベート・メーヤー・トプシュー
ハンス・ノルベルト・ビルマー/
コペンハーゲン・フィル
KONTRAPUNKT 1993.2
.
24.
ビルギット・ニルソン
レイフ・ゼーゲルスタム/
スェーデン放送響交響楽団
BLUEBELL 1970.1.3
.
25.
バーバラ・ヘンドリックス
ヴォルフガンク・サヴァリッシュ/
フィラデルフィア管弦楽団
EMI 1994.9.26,27,10.5
.
26.
ルネ・フレミング
クリストフ・エッシェンバッハ/
ヒューストン交響楽団
RCA 1995.3.14,20
.
27.
フェリシティー・ロット
ジュゼッペ・シノポリ/ウィーン・フィル
1996.9.11クンストハウス
1997.5.14NHK-FM
.
28.
デボラ・ヴォイト
クルト・マズア/ニューヨーク・フィル
TELDEC 1998.12
.
29.
カリータ・マッティラ
クラウディオ・アバド/ベルリン・フィル
DG 1998.12
.
30.
ジェーン・イーグレン
ドナルド・ラニクルス/
ロンドン交響楽団
SONY 1999.2.13,3.3,
10.12,14,15
.
31.
キルステン・フラグスタート
ウィルヘルム・フルトヴェングラー/
フィルハーモニア管弦楽団
レーベル多数 1959.5.22
.
32.
エリザベート・シュワルツコップ
ジョージ・セル/コンセルトヘボウ管弦楽団
AUDIOPHILE 1964.6.19
.
33.
メラニー・ディーナー
デイヴィット・ジンマン/
トーンハレ管弦楽団
ARTENOVA 2002.5.6-8
.
34.
ソイル・イソコスキ
マレク・ヤノフスキ/ベルリン放送交響楽団
ONDINE 2001.7
.
35.
ルチア・ポップ
マイケル・ティルソン・トーマス/
ロンドン交響楽団
SONY 1993.5.21,22
.
36.
クリスティーネ・ブリューアー
ドナルド・ラニクルス/アトランタ交響楽団
TELARC 2006.4.1,2
.
37.
ミカエラ・カウネ
大植英次/北ドイツ放送管弦楽団
BERLINCLASSICS 2004.11.15-17
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38.
ニーナ・シュテンメ
アントニオ・パッパーノ/
コヴェントガーデン
EMI 2006.9.1,2,4,5,11
.
39.
ルネ・フレミング
クリスティアン・ティーレマン/
ミュンヘン・フィル
DECCA 2008.4
.
40.
シャルロッテ・マルジオーノ
エド・デ・ワールト/オランダ放送フィル
BRILLIANT 1933.2.22
.
41.
ヒーザー・ハーパー
リチャード・ヒコックス/ロンドン交響楽団
EMI 1987.2.11,16
.
42.
リカルダ・メルベス
ミヒャエル・ハラス/ワイマール歌劇場
NAXOS 2006.8.28,30
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43.
アニヤ・ハルテロス
ファビオ・ルイージ/シュターツカペレ・ドレスデン
SONY 2007.21-23
.
ふ~


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1471- シュトラウス、オーボエ協、モワネ、ベト7、下野竜也、新日フィル2013.3.25

2013-03-27 23:55:00 | インポート

130325_201101
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2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2012-2013シーズン

2013年3月25日(月)7:15pm
サントリーホール
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バッハ、マックス・レーガー
おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け
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シュトラウス オーボエ協奏曲
 オーボエ、セリーヌ・モワネ
(encore) バッハ サラバンド
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ベートーヴェン 交響曲第7番
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下野竜也 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
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シュトラウスの協奏曲はドレスデン歌劇場のソリストが放つ大いなる微妙なニュアンスと対極のようなオーケストラの特にウィンド陣のデカすぎてストレートな鳴りと全く噛み合っておらず、とても協奏曲とは言えなかった。(席は前方ほぼ中央)
バスーン、フルート、クラリネット、関せず別の曲でもやっているような雰囲気。指揮者は遠慮していたのか、一回だけの合せだけだったのか、それともそのような解釈、指示だったのか、よくわかりません。
モワネさんが明らかに戸惑っている様子が見て取れるか所があり、むしろ彼女の方からオーケストラに合わせていくような場面もあったように見受けられ、一緒の下ごしらえ練習が少なかったと思いますし、曲や演奏に対する意思の疎通や相互理解までいっていなかったと思います。有名ソリストを招いて単発公演することのむずかしさかも。
指揮者はもっとコントロールするべきです。「コントロール」という言葉がいやなら、正しい自己主張をしてオーケストラをピアニシモ・ドライブして欲しい。例えば昨今の、オーケストラが指揮者にFoot-Stompingする行為の前提とその結果としての音楽への切り込み不足といったようなことが多少なりともあるのならば、やめさせればいい。社員が社長をほめる姿をグッドカスタマーであってもなくても顧客が眺める。サラリーマン的にはありえない光景です。リーマンの世界ではないですから」と言われれば、はい」と答えるしかない。なにしろこっちも三度の飯と同じぐらいクラシック音楽が好きなわけですからネ。でも、
極度の美化は滅亡を招く。共同体としての3者の存在意義を熱く書いたのはフルトヴェングラーでしたが、今ある3者というのはあまり正しくないことも正しいとする共同体ではないか。このような誤りを含んだ一方向への美化は先鋭化が少数化へと進み衰退する。ブログの副題はそうならないように願う意味を込めてつけた副題です。
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後半のベートーヴェンはエキセントリックな嵐でした。前半の曲に輪をかけ、鳴らす、鳴らす。そして猛烈なスピードアップが第4楽章の頂点まで。オーケストラと指揮者が同意の猛スピード。狙いの効果とベートーヴェンの真実が遭遇したということか。駆り立て過ぎだったけど、ずれてはいなかった。
これを上回るような高速地響き7番を聴いたことがあります。バレンボイム&ベルリン国立歌劇場による公演の折。シンフォニー・サイクルでしたし、突出したような違和感はありませんでした。バレンボイムは7番は全部つなげて演奏します。
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下野さんは第1+2楽章、第3+4楽章といった感じで、第2楽章が終わったところで一服。また第2,3楽章は両端楽章と同じくかなりの高速運転です。時代設定配慮型の高速運転というのではなくて彼の演奏解釈。下から上への棒運動ではないので、メンバーと一緒になって演奏しているような熱さがあります。楽しめました。
あれだけ荒れ狂っているのに弦が地響きを立てならが突進してくるように聴こえないのは、足腰に力を入れて床に踏ん張るような感じがないからではないか、と、モワネさんの演奏姿を思い浮かべながら、感じました。杭のように踏ん張っている姿が時おりみられましたので。
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最初の曲バッハはいかにも短い。アンコール入れてようやく正味70分越えるぐらいの定期。プログラムビルディングも含め、時間的な長短についても検討を加えてほしい。料金の柔軟な対応も含めてということです。これをはじめると議論のきりがなくなるとか、話が拡散していくところもあるかと思います。でも例えば、なぜ昔の演奏会は総じて長く、今は短いのか。「昔」は「昔」だけだったのが、「今」は「昔」との比較などが出来るわけですから意味のない話でもないと思います。それとも、聴衆サイドが「短くてもいい、濃ければ」と思っている演奏家団体サイドの思惑もあるのかな。それなら、勘違い、で済むような気もしますが。
この日のプログラムや団体についてだけの話ではありませんので、お互いに公開の議論の場があるといいですね。たぶん、知らなかったというようなことが出てくるかもしれませんし。
おわり


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.1470- 嘆きの歌(初稿版)、ますます強靭に!秋山和慶、東響、2013.3.23

2013-03-26 23:35:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2012-2013シーズン

2013年3月23日(土)6:00pm
サントリーホール
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ブラームス 悲劇的序曲
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マーラー カンタータ「嘆きの歌」(初稿版)
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ソプラノ、小林沙羅
ソプラノ(ボーイ・ソプラノ)、星川美保子
メゾ、小川明子
メゾ(ボーイアルト)、富岡明子
テノール、青柳素晴
バリトン、甲斐栄次郎
混声合唱、東響コーラス
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秋山和慶 指揮 東京交響楽団
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嘆きの歌、タイミング
第1部29分
第2部18分
第3部19分
合計66分(実測値)

嘆きの歌はめったに接する機会がないはずなのに、ここのところ一年で3回目。
1364- 嘆きの歌 アルミンク 新日フィル2012.5.18
1392- スーパー・コーラス・トーキョー、嘆きの歌、インバル、都響、ジークフリート牧歌2012.10.3
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なにか策略でもあるのだろうか。そういえば何年か前にブル8のオンパレードということもあった。
嘆きの歌ならもう2,3回続いてもいいかもしれない。
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秋山はなぜか年齢とともに棒が強靭になっていくような気がする。さらに確信の棒に登りつづけている。見た目はティーレマンと似てきた、どっちが先かわからないが。
釘を抜く様な剛直な運動は確信の棒に見える。無理やりな強引さはなく、妙に清涼感みたいなものがある。さわやかな剛直さといったところか。
初稿版の日本初演者ということもあるのかもしれません。忘れていたことを思い出せばよく、もちろん、曲をオーケストラと合唱に移植するだけではなく、鳴りに余裕のようなものも出てきているのだろう。めったに奏されない曲で余裕の表現が可能なのはひとえに指揮者の力量が秀でているから。
企画面では字幕スーパーがなかったのが悔やまれる。コストの問題なのだろうか?
嘆きの歌は、観ながら聴いていればすぐにわかるのだが一つの歌がとにかく短い。カンタータだろうがなんだろうが、とにかくちょっと歌ってすぐに移ってゆく。これだと字幕スーパーも難しいだろうなとは思う。だからこそ必要。
プログラム冊子に対訳が載っていたが本当に対訳だけで、誰がどこを歌っているのかあれではわからない。歌がショートなのでいちいち書いていられないかもしれないが、それならばせめて、ここは(合唱)、ここは(独唱)みたいな注記があれば手掛かりにはなる。画竜点睛にするべきだったのだ。演奏の方はおそらく、成功裏なものが予想されていたような気もするし。
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第1部に物語が集約されている。事の発端と事件がここにある。全曲の半分近い長さ、一番ドラマチックな場面は字幕がないとわからない。マーラーの音楽は盛り上がりは見せるものの、普段慣れ親しんでいるブレイクしたマーラーの音響像からいうと当たり前のような膨らみであり、その感性で聴くと殺しの部分はむしろ滑らかとさえ言える。二十歳の劇的表現はこのようなものだったのかもしれない。
また、シンフォニーや歌曲の萌芽が見えるといった具合の話しは自分も前聴いたときに書いてはいるものの、当たり前すぎてあまり意味がない。なぜこんなにプチプチと歌が途切れながらつながっていくのかそのテクストを含めそっちのほうに興味が湧く。単に作曲家が若かったから、なのかな。ブーレーズとかだときっちり教えてくれそうな気がする。
主題は一つだけ鳴り響いており、あとはよくわからないものが並んでいるといった感じかなと思います。
秋山は力強い指示で進める。出てくる音は曲にむしろ手慣れた感じの表現で非常に安定している。一見剛直そうだが実は柔軟な演奏。歌い手たちも歌いやすそうです。
第1部30分をあっという間に聴かせてしまう秋山の力量はすごいと思います。オーケストラは機能も含め膨れ上がっていくことになりますが、それでいて歴史的にはそれまでにないような革新性が感じられる、全部とにかく、広がりの可能性を大きく感じさせてくれる。この第1部だけで十分魅力的に思えました。この演奏あっての成功でしょう。
字幕スーパーがないことだけが悔やまれます。
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第2,3部は言わずもがな、骨の笛がポイントになりながら進行していきます。これだけで十分に劇的な内容ですが、音楽の劇的なものがきっちりと作られているとは言い難く、秋山の演奏解釈とその表現があってこそのドラマチックな展開だったと思います。息をつく間もないストレートな棒でありながら、妙に居心地がいい。
何事にも媚びない内容のあるいい演奏でした。
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ブーレーズは自作自演がとにかく一番素晴らしいと思う。最も過激だった時代の自作が一番面白いという時代はいつかは来るはずと思いつつ、時代背景的には当初思ってもいなかったような合体での全曲収録(たしか)となったロンドン交響楽団・他によるマーラーの嘆きの歌だったはずだが、それが1969~1970頃だから40年以上も前。シンフォニー全曲ありきの後ではなく、この曲。
ブーレーズの意思や意図が明瞭で、それは曲の響きにも同じ言葉で表現できる。過激な作曲家としては頭の中でシンフォニー全部消化され既に通過していたのかもしれず、それがあればこその10番第1楽章、嘆きの歌、だったような気がする。(今となってみればだが)
日本国ではどうだろうかと思うに、マーラー・ブームとは言い難く、単にブレイクの継続状態。発掘行為の最果ての一つが嘆きの歌だと思う。むろん、ここ20年余りで国内オーケストラは昔とは比べ物にならないぐらいうまくなっているので、そういった部分での寄与も当然ある。つまり、嘆きの歌でも聴かせるようになったのだ。
この曲を含めたブーレーズのライブ収録での一連の再録。クリスタルのようでありながら柔らかい。みんな、もとには戻れないかもしれないが、マーラーの後は自作があるじゃないか、とブーレーズに言いたい。
演奏の発掘材料としての同曲の地位は終わりになり、いつか嘆きの歌の時代は来るのだろうか。
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ブーレーズ全作品CDが4月に出るようです。
ピエール・ブーレーズの作品全集BOX
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1469- 充実の音塊、アンドリュー・リットン、都響、プロコフィエフ、ロメジュリ、交響曲第4番、モツ

2013-03-24 23:45:00 | インポート

2012-2013聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2012-2013シーズン
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2013年3月22日(金)7:00pm
東京文化会館
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プロコフィエフ ロメオとジュリエット、第3組曲
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モーツァルト ピアノ協奏曲第21番
 ピアノ、伊藤恵
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プロコフィエフ 交響曲第4番 (改訂版)
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アンドリュー・リットン 指揮 東京都交響楽団
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このコンサート、率直に申し上げて、リットンが指揮だから聴きに来たというところがある。だいたいプロコフィエフの4番なんて、どうやればあのようなわかりにくい曲が出来るのか不思議なぐらいの曲だと思っていて、リットンだから来たんだが、結局、都響の魅力的なサウンドで攻められれば、攻められてこそ、ぐいっと興味の湧く曲に早変わり。だから、こういう曲こそ絶好調のオーケストラがライブ収録ではなくて、より磨きのかかるセッション録音で収録、発売してほしいものだと思う。この日のコンサートをもう少し整理整頓して、特に、合奏のときの縦の線を揃えなおせば、SACD永久不滅盤間違いなし。もちろん、ロメジュリの脇道の方だけ選んだような第3組曲もセットで。できればモーツァルトも詰め込んで1枚価格で。
セッションはスタジオがいいと思いますが、この上野のやや硬質で引き締まったホールの響きも良いもので、空っぽだとどのようなエコーになるのかわかりませんけれど、専門家の技でお願いします。
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少し硬質でありながらメロウなオーケストラの響き、魅力的ですね。一人一人が自信に満ちた弾きぶり。知らない曲やめったにやられないような名曲など、このサウンドの魅力があればどうにでもなりそうな気がしました。特にヴィオラの潤いが素晴らしい。最初、チェロかなと思ったのですが、このウエットな佇まいはヴィオラですね。トップの方は3個のオーケストラでこれまで聴いてきました。(というところまでは認識している)
束ね方というか方向性を揃えるといったあたりでも素晴らしいのでしょうね。チェロの黒い響きとはまた一味違うブラウン色の美しい合奏。この日のプロコフィエフはいわゆる腕で聴かせたプログラムといったところです。
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リットンの腕であれば、この日のモーツァルトも軽く弾き振りできるはずですけれど、この日は、指揮者は指揮者、ピアニストはピアニストで。
伊藤さんは空いている方の手で指揮をはじめたりするので、是々非々で。
呼吸の素晴らしい演奏で、あの溜息のようなちぎっては投げの第2楽章の休符。目をつむっていても吐息のようなものが感じられました。やっぱりセッション録音がいいかな、たぶんもっといいに違いない。
総じて満足の演奏会でした。ホールサウンドも満足。
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アンドリュー・リットンは、なんというか、自分の前にあるオーケストラは一流であるという前提の指揮者だと思う。だから、彼がするのは曲を教える、もしくは解釈の移植です。それも彼の趣味から言えばこの日のような曲。ブルックナーでもベートーヴェンでもいまのところない。マーラーは10番クリントン・カーペンター版が秀でていますけど。
ピアニスト的にはオーケストラと一緒に成長していくといった部分もあったかもしれません。彼の録音はなんといってもダラス時代のもの。(デロス、ハイペリオン)
日本ではあまり出てないと思いますが、せっせとバーンズ・ノーブルから買い続けたころもありました。建屋は本屋さんですがCDもあります。
前回N響で第九を振ったときより一段と肥えてきているので心配な面もあります。ダイエットも必要ですね。
おわり

**リットンの弾き振りご参考CD
937- ショスタコーヴィッチ ピアノ協奏曲第2番 アンドリュー・リットンの弾き振り

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1468- マーラー、交響曲第6番、悲劇的、シルヴァン・カンブルラン、読響2013.3.18

2013-03-20 21:47:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちら

ブログ左サイドにシーズン毎一覧。(クリックすると一覧がでます)
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2013年3月18日(月)7:00pm
サントリーホール
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マーラー 交響曲第6番 悲劇的
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シルヴァン・カンブルラン 指揮
読売日本交響楽団
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スケルツォをはじめとして多少の変拍子はあるもののいたって普通拍子の曲だと思うのだが、カンブルランの棒さばきは克明。20世紀後半の音楽の表現をほうふつとさせる。棒さばきというのは文字通り棒のさばき方のことで、こんなに拍子を克明に大きくとらなくても自然に流れていく曲なのにリズムを感じさせたり、音と音のぶつかり合いから出てくるものを際立たせ、また奥行き感の縁取りも明確にする。特に腕を大きく横に動かして「腕刀」のようにとっていくあたり古典とはとらえていない斬新な振りで、曲を新鮮にする。やっぱり一つ上のレベルの指揮者だ。
オーケストラは技術的な部分で十分に応えていたとは言い難い。
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第1楽章 22分 提示部リピートあり
第2楽章 14分 アンダンテ
第3楽章 12分 スケルツォ
第4楽章 28分
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タイミングはだいたいこんな感じで、さらに言うと
第1楽章の提示部、約10分
第4楽章の序奏、約5分
ぐらいの長さ。
スケルツォを第3楽章にもってきたことで、より古典的でさえある。
とは言え異常に膨れ上がった曲想や、多彩な音色追及の為に拡大した楽器編成。コントロールするカンブルランの棒さばきが気持ち良い。
ブーレーズ流と言えるかどうかわからないが、膨大編成ではあるが肥大化させない引き締まったアンサンブルを志向しておりソフトパッセージも感情に流されずリタルダンドの多用もない。ためを排したアシュケナージの演奏は確信犯的であったが、そのような一種作為的なものはない。現代音楽のオーソリティとしての6番解釈です。
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第1楽章はいきなり第1主題から入ります。最初の数小節がかなり重かった、オーケストラが。
たぶん前々日の1回目の同曲演奏の後、合わせていないからでしょうね。それでもすぐに感覚が戻ってきてギュッと引き締まった演奏が展開されました。
この提示部の第2主題にはいる前の経過句のちょっと前あたりにティンパニの打撃とコラール風モチーフが早速現われます。瞬間的に第4楽章の最後の最後で爆撃的に鳴る波形そのままです。なんというか、現代感覚に優れた指揮者が振ると、このような端端のことが妙につながって聴こえてくるんですね。音楽の感情論の前に、音楽構造ありきというのでもなくて、「響きのつながり」を感じさせる。響きで聴かせる。オーケストラがこの響きのつながりを表現するにはボテ系にふやけていてはだめで、引き締まったサウンドが求められる。余計なものがあると「つながりのパッセージ」の印象まで薄れる。
結局、カンブルランの感性の素晴らしさです。
.
この楽章の提示部は昔はあまりリピートされなかったような気もしますが、楽章の長さバランス的には繰り返すことにより、ちょうどいい感じになります。結果、長さは長さを招く、長大なシンフォニーになっていきます。
再現部を考慮すると提示部をリピートすることにより展開部が相対的にコンパクトになったわけですが、カンブルランは立体感で聴かせます。遠近法的奥行き感と言った方がしっくりきますけれど、具体的には、いろんな響きが同一楽器、アンサンブル単位等で、そこかしこで独自に鳴っている。響きが奥や手前で束になって鳴っているので彫が深く感じられる。距離的に離れたポジションにあるインストゥルメントが強弱をつけてハーモニー重視で奏するのとちょっと違う。
ですので、この束ごとに「音のぶつけ合い」のような現象もでてきます。展開部はあっという間の出来事とはいえ、時間の流れとは別の火花の散らし合い的面白さがあります。カンブルランの感性の素晴らしさ。
読響常任の決めになったと個人的には思っているトゥーランガリラの演奏のような面白さがありました。
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再現部を聴いていると、カンブルランはもっともっとギュッギュッとオーケストラを引き締めたいように感じたのです。とはいえこの疾走の強烈な響きはむしろ逆説的潤いさえ感じさせる道端のタンポポ的「感情」のこもった部分であったのかもしれません。
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アンダンテを第2楽章にもってきている。古典形式だとこうなると思います。第九的な激烈さを求めるならこの楽章はスケルツォにしたかもしれない。それでも形式の分解ではない、ベートーヴェンがそれをしているので。カンブルランのしたいことはそのような主旨のことではない。
それで、この楽章も指揮者はリタルダンドをあまり使いません。昨今の指揮者が多用するウェットでズブズブでやわな演奏は、はなから眼中にない。基本的な方針は第1楽章と同じ。結果、ドライできわめて美しい演奏が繰り広げられました。耽溺する美しさではなく。
ホルンのソロは限りなく難しいと思われ、この日のようにやや線が細く際どい演奏もおつなものではありますし、また、化粧をしない顔のようなザラザラだがふくよかなサウンドのソロも可能性としては面白い。どちらとも言えません。ただこの日、浸るというより応援するモードに近かった感は否めない。
ウィンドに関してはカンブルランはもっとピアニシモを多用したかったような気がします。ありったけのデリカシー。そうすればホルンはじめソロの際どさがもっと映えていたように思います。この楽章は際どい美しさ、スレスレの美が面白いのです。
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第3楽章のスケルツォ
スケルツォを第2楽章に持ってくると、第1楽章再現部の圧力がそのまま継続モードで乗り移ってきます。あの圧力に押しつぶされないようにするにはスケルツォの方が正解かな、とも思います。それに楽想も相似的緊密さがありますし。ですが、この日はここにスケルツォ。
この楽章はハーモニーが厚くなったり薄くなったり、十二単が一枚ずつめくれていくような妖しさ、またその逆行。音色旋律のことはよくわかりませんが、そのような聴き方も面白いかなと。激しさばかりではない。
カンブルランはテンポをあまりいじらない。そうゆうことで面白さを引き出そうとしているわけではないですし、グロテスクな表現はもともと彼の頭の中にない。
ソロ楽器があちこち突き出てくるような大胆な響きを欲しているように思います。ちょっとここはオーケストラに妥協かな。
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最終楽章は序奏に5分もかかっちまいますんで、古典形式からの類推でいけばかなりの長さになることはだいたい予想がつくところですね。あまり「もったいぶった感」を出してしまうとそのあとの厳しいスコアにポシャってしまうかもしれません。ここは力を抜いて。
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展開部に入る前のところで序奏の速度で再帰する場面があります。非常に際どいスコアだと思いますけれど、ホルンがはずした、というより、揃わなかった。ここで一気に緩んでしまった。雪崩現象ですね。自分(私)だけ雪崩ていれば一番よかったんですが、そのあとの展開部のトランペットのハイ音の強奏も完雑モード。アウトに近い。糸が切れ、おのおのみなみな拡散モードで一気に緩みました。思わず1980年代のこのオーケストラのことを思い出してしまいました。
指揮者はすぐに持ち直しましたが、最初から指揮者の要求レベルの一歩下の方での演奏であったものがもう一歩下がってしまった。むろんこの最終楽章の困難さもあったのかと思いますので相対的であったところもあります。つまりミスがなくてもうまくいっていたかどうか怪しいところがあったということです。
いずれにしてもこの楽章が一番、指揮者のやりたいこととオーケストラの表現とのかい離が大きかったと感じました。
その指揮者のしたいことは、この巨大なフィナーレをそびえたつような演奏をするのではなく、引き締まった鋭い演奏、それは少しは達成された感はあります。
カンブルランは楽器を可能な限り減らして、響きのぶつかり合いの饗宴をやってみたいのではないかと個人的には思いました。
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全体的によかった」といった話よりも記憶を呼び起こし、曲のシーケンスに沿って追体験をしてみないと自分の記憶力の度合いがわからない。それに他人(ひと)の文面をとやかく言う前に自分はどうなんだ」というのがやっぱり必要。
前者に関しては、脳内での追体験はそれなりに楽しいことでもある。
おわり


1466- ワーグナー「リング・サイクル」とタランティーノ「ジャンゴ 繋がれざる者」の関連

2013-03-14 23:34:05 | NYT

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ジャンゴ 繋がれざる者」にワーグナーの指環を絡めた批評がニューヨーク・タイムズに載ったのは先月2月のことで、日本ではこの映画の封切前でした。
3月1日公開となりましたので、この批評を意訳してみました。
(映画はまだ見ていないので細かいニュアンスのところはわかりませんが)
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ニューヨーク・タイムズの記事オリジナルはここ
こちらにもあります。
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2013年2月21日 ニューヨーク・タイムズ
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批評家ノートブック
ワーグナーのサイクル以前に、その伝説にはよく知られたリングあり
By ZACHARY WOOLFE

クエンティン・タランティーノの「ジャンゴ 繋がれざる者」、この映画のサウンドトラックにはエンニオ・モリコーネや、リック・ロスといったワイドビスタな響きがこだまする。
この映画の中で最も重要な音楽セレクションのひとつであるはずのものは決して聴こえてこない。それはワーグナーの「リング」サイクルである。
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五つのアカデミー賞にノミネートされたこの映画、ある晩二人の主役がキャンプファイヤーをしながら、ワーグナーの「サイクル」にもとづく昔話をしている。黒人の解放奴隷のジャンゴ(ジェイミー・フォックス)の妻はいまだに捕虜になっている。彼女の子供の頃の先生はドイツ人でブリュンヒルデと呼ばれていたとジャンゴは明かす。正確には、ブルームヒルダ・フォン・シャフトと言い、意味深い神話と漫画チックな陽気で現代的なブラックスプロイテーションを足し合わせたものだ。
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ジャンゴの新たな友、賞金稼ぎになったドイツ人の歯医者キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、ブルームヒルダを救う行動はより大きな文化様式への適合であると即座に気がついた。というのも、かつてブリュンヒルデと呼ばれていた囚われの身の女性を救った恐れを知らない若いヒーローがいたからだ。その名はジークフリート。
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シュルツは語る。「ドイツ人なら誰でも知っているよ」
神々の王を父にもつブリュンヒルデが反抗し、火の中に眠らされ、最も勇敢なものだけが彼女を救える、という物語のことを。これはサイクルの2番目のオペラ「ワルキューレ」の終結部、そして3番目のオペラ「ジークフリート」の始まりに位置している。この魔の炎の音楽は、このオペラで最も頻繁に取り上げられるところ。
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「ジャンゴ、繋がれざる者」では、今年の5月22日に生誕200年を迎えるワーグナーを明示的に示すのではなく、「ドイツ神話」の物語の源を示すだけだ。ワーグナーの「リング」を表立って出すのは時代錯誤だろう。ジャンゴの時代設定は1850年代後半で南北戦争前、1869年にミュンヘンで初演された「ラインゴールド」よりもずっと前。言うまでもなく1870年にミュンヘンで初演された「ワルキューレ」、1876年バイロイトで初演された「ジークフリート」はずっとそのあと。
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しかし、タランティーノはこの映画や作品のもとになっている時代錯誤的なものをほとんど切り捨てていない。今日、多くの聴衆がジークフリートとブリュンヒルデの物語を知っているとするなら、それはワーグナーへの熱烈な支持によるもの。つまり、「リング」神話を持ち込んでくるということは「リング」を持ち込んでくるということである。「ジャンゴ」にワーグナーを持ってくる理由は一体なんなのか?
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クリストファー・ベンフェイはニューヨーク書評のウェブサイトで次のように示唆している。在庫処分のビールを浴びせられているような「プロットの中に拡散しているように見える」シュルツ(すなわちヴァルツ)のドイツ語のアクセント、それを説明する試みとして始まったものであることを示唆している。「リング」物語はジャンゴの物語に、叙事詩のメモを加えたもので、クライマックスの大火災を予期させる。
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19世紀来、「リング」神話に関しては特別なアメリカ人がいると思われていた。アメリカの批評家ヘンリー・クレビールはかつて次のように書いた。
あたかもタランティーノを予期するかのように、アメリカ人は「これまでジークフリートのような人気ヒーローのキャラクターはもってなかった。祖先の故郷、家を奪った民族、たしかに男らしくて強くて、少し無鉄砲ではあるが、そんな伝説のヒーローの人気キャラクターは持ち合わせていなかった。」
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しかし、アメリカ南部の農場での反抗的な奴隷や激しい暴力行為の映画が、「リング」からの神話的な背景があるというのは、民族に関するワーグナーの見解が辛辣で反動主義的傾向にあることを考えると、少なからず奇妙なことではある。「ジャンゴ」におけるワーグナーの隠れた存在は、このワーグナー生誕年において、ワーグナーと民族に関する諸問題を余儀なく浮かび上がらせることになる。
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それらの見解にはいくつかの曖昧なところがある。ワーグナーは自著のなかで、自分の愛するドイツ人でさえ、複数の人種からなっていると認めている。彼は人種が「取り返しのつかないほどに異なる」と認めているが、白人の為に黒人を押さえておくといったメキシコの地における黒人認可のような平等の主張を嘲笑した。
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ワーグナーは1883年に亡くなっているので、彼の音楽がナチによって利用されるところを見たわけではないが、「リング」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」といったオペラは、ユダヤ人をモデルにしたように見える哀れみの泣きや執念深いキャラクターの描写があり、それはワーグナーの個人的所信の表れでもあるため、その暗い流れから逃れられるものではない。
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今、メトロポリタン・オペラで上演されている卓抜な新演出のワーグナー、気高い告別であるパルジファルでさえ、腐敗や堕落がないわけではない。音楽歴史家ジョゼフ・ホロヴィッツはこう書いている「要求される種の保存というのは「パルジファル」がもつれていく混乱のテーマで形成されている。」
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それでは、タランティーノによるワーグナーのこのかすかな気配は冷酷で無慈悲なジョークなのか。彼はそのイデオロギーの側面を無視して、単に物語に引き付けられただけなのか?たしかなところはよくわからないが、「ジャンゴ」は、今日ワーグナーに関する考察という観点でこの重要な役を演ずるべきだ。
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ある友が指摘していたが、ヴァルツは「ジャンゴ」で演じているのと同じくタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」に同じような役で出ていると。格式マナーを持ったクレバーで多言語を話す殺人ハンターだ。
全く異なるのは、「バスターズ」ではナチの悪漢役、「ジャンゴ」では、我々がルーツと思っている誰か、我々サイドの誰かであるということ。
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激烈な奴隷反乱の物語に「リング」を絡めるのは、ヴァルツを円滑に奴隷廃止論者に変えていく前に、彼にナチの役を与えるのに似ている。
これらの並置は、我々が奴隷廃止論者と「グッドガイ」を見ているときにナチが映像にでてきて、ナチを呼び起こすため、両者をより深く考えさせることになる。
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同じ方法で、「ジャンゴ」は新たな予期しないアメリカ奴隷制度の文脈に「リング」を、この二つが不可分になるよう、入れさせることになる。
私たちは、ワーグナーの外国人嫌いの著書や、彼の作品の問題面等を忘れてはいけない。しかし、私たちは彼の音楽を回避するべきでないし、それを楽しむことが出来ければならない。
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タランティーノのこの映画は、意識しなくてもこのようなことを思い出させるので、我々がするべきことはというのは、気づくままにあれ、ということ。ワーグナーのオペラは歴史や政治の外に存在するものではない。レパージュの「リング」・サイクルのプロダクションは政治には無関心なものだが、4月にメトロポリタン・オペラにリングが戻ってきて、たくましいブロンドのジークフリート、ジェイ・ハンター・モリスが魔の炎にはいりブロンドのブリュンヒルデ、デボラ・ボイトを目覚めさせるとき、聴衆は自分たちの中に「ジャンゴ」を想起することになるだろう。

以上、河童の意訳。
おわり


1464- フィンランディア、シベリウス3番、1番、尾高忠明、札幌交響楽団2013.3.5

2013-03-07 01:01:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2012-2013シーズン
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2013年3月5日(火)7:00pm
サントリーホール
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シベリウス  フィンランディア
シベリウス  交響曲第3番
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シベリウス  交響曲第1番
(アンコール)
エルガー  弦楽セレナーデ 第2楽章
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尾高忠明 指揮 札幌交響楽団
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このオーケストラはお初で聴きました。東京一発公演。一階席から見渡すと客入りは85パーセントぐらい。おひとり声高で長めのブラボーを都度連発。これ以外にも通常のブラボーもありましたのでなんとなく賑やかでいい感じの演奏会でした。
アンコールも入れて4曲の演奏会。最初のフィンランディアの充実した響きと演奏内容が光ります。
まず、在京のオケとは明らかに違う弦の響き。透明で、太くて、張りがある。一音一音確信をもって力強く弾いている。横広の響きが心地よい。本拠地での響きを違うホールでもそのまま出せるというプレイヤーの耳。練習の積み重ねだろう。弦の合奏を聴いたという実感と手ごたえがありました。
この太くて清らかな弦の響きが、ウィンド、ブラスのダイレクトなむき出し音をある程度遮蔽する。いわゆる、金管で消されることの無い弦の響き。
唯一ティンパニがうるさすぎて潰れていたのはすわった席のせいだったのかも(1階中央横断通路すぐ後ろ、右よりの席)。ティンパニについては最後まで気になりました。締まった音ではなくて割れたような、ふやけたような音で。
フィンランディアは指揮者の解釈は横に置くとしても、その充実した響き、切れば弾けて滴り落ちそうな響き。それはストックホルム・フィルに似ている。昔、名をはせたエーテボリのようにも感じるが、あの柔らかさというよりやっぱりストックホルムに近い。
ウィンドとブラスが今ひとつ抜けきらないように聴こえるのは、例えば、フィンランド放送響の鳴りとよく似ているかもしれない。ブラスは横に広がらないで昔のロシアのオケみたいに、もっと近くにかたまれば馬力があって、さらに清涼な響きになると思った。
金管、木管が抜けきらないのは、息の保持が譜面通りだからのような気がする。それでいいのだろうが、全音符ならその4拍目は既に余裕で歌っているような状態がのぞまれる。
お初で聴くオーケストラのサウンド、1曲目のフィンランディアで力量とか充実度、これまでの積み重ねのようなものがよくわかりました。
曲の解釈自体は、主題転換のところでタメがなく通過。もうちょっと潤いとか音楽の機微、憂いといったあたりを味わいたいものだ。エルガーだけでなく。
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前半メインの3番はフィンランディアのモードが継続しており、引き締まっていた。気力の持続もあると思う。
先急ぎ指揮で特に第3楽章など流れていくかなと思いきや、縦に彫る。横に流れて欲しかった。響きは素晴らしいが、指揮が縦方向の進行で、第1楽章の冒頭のつまずきのようなフレーズがそのままそこかしこにある感じ。シベリウスの指揮解釈としては自分のもっているイメージとかなりかけ離れていた。経過句への気配りがいると思います。
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後半の1番は全体に埃っぽくなってしまいました、またティンパニのうるささもかなりの濃度。オーケストラの気力の持続は前半どまりだったのか。
前半からの感じでは清涼感のある1番を聴けるかと思いましたが、音量増量で少しボテ系サウンド。
なんというか、台形全体を想像させるような底辺だけのフレーズ。かなり抽象的ですが、そのようななくてはならない底辺、引き締まった響きと縁取り感覚。そうではなかった。
それから、冒頭クラリネットのソロから始まり、シベリウス特有の弦の刻みがいきなりこの第1番の第1楽章に既に根をはっているわけですけれども、ここへの導入も、スゥーと入ってしまっていて先急ぎ感を感じる。あっさりしすぎ。
フレーズや経過句の扱いをもっと大事にしてほしい。そうすると、シベリウスのいわゆるモザイク的な組み立てをもっと面白く聴けると思う。節目が無いのでモザイクたちの陳列止まり。
演奏の方は、パッセージの音符が抜けているような個所が散見(散聴)されました。ブラスと弦。
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アンコールの前に指揮者がマイクでいろいろと。CDの宣伝とかも。
エルガーのアンコールは弦の響きと呼吸が美しい名演奏でした。

指揮者への足踏みはやめた方がいいと思います。お得意様の顧客を前にして、社員全員が自社の社長を褒め称えているようで。
学生オケが霊感を与えてくれた指揮者に足で礼をいうのとはちがう。もっとも、カーネギーホールでのネゼ・セガン&フィラデルフィア管でも同じ現象が起きたらしい。
A Foot-Stomping Night at Carnegie Hall ヤニック・ネゼ・セガン、フィラデルフィア管、カーネギー・ホール公演2013.1.17
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この日、一番気持ちよかったのはコンミスがほぼ真っ先に大股で席に着く。なんか北海道的で良かった。
在京のオケのように、団員、次にコンマス、そして指揮者。日本の聴衆は18:50には自席で息を整えているので、このようなグダグダ格式はいらないんです。
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写真は、帰り際に外でいただいたものです。ありがとうございました。

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1462- 鈴木雅明、ニューヨーク・フィル バッハ・バリエーション2013.3.6-3.9

2013-03-03 19:20:08 | インポート

Nypbachfestival


鈴木雅明氏がニューヨーク・フィルを振ります。

フィルハーモニック・フェスティヴァルのひとつで、
鈴木氏の公演は1プログラム、4公演です。

バッハ・バリエーション フィルハーモニック・フェスティヴァル

バッハ・バリエーション バッハとメンデルスゾーン

2013.3.6水 エイヴリー・フィッシャー・ホール
2013.3.7木 エイヴリー・フィッシャー・ホール
2013.3.8金 エイヴリー・フィッシャー・ホール
2013.3.9土 エイヴリー・フィッシャー・ホール

詳細はこちら