河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2193- ジークフリート、カミタソ、オニール、リンドストローム、インキネン、日フィル、2016.9.27

2016-09-27 23:00:10 | コンサート

2016年9月27日(火) 7:00-9:30pm サントリー

ワーグナー ジークフリート、excerpts 第3幕 7+46′

Int

ワーグナー 神々の黄昏、excerpts プロローグ+第3幕 4+20+5+7+7+17′

キャスト(in order of voice’s appearance)
ジークフリート、サイモン・オニール (T)
ブリュンヒルデ、リーゼ・リンドストローム (S)

ピエタリ・インキネン 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


昨日今日とエポックメイキングな連続ナイト堪能です。
今日はインキネンの日フィル、首席指揮者就任披露演奏会。豪華キャストロール2名を招いての一発公演。
このての公演で昔からありがちな復活公演ではなく、指揮者が自らをうらなうビッグな演目。前任者をないがしろにしたような復活公演などというものは特に日フィルさんの場合は、あたりまえのように、そんなことできませんですよね。偉大な前任者でしたから。就任で復活公演はおこがましい話ではある。
ちなみに、記憶によると、新日フィルと日フィル、分裂前の日フィル最終公演が小澤による復活であったと記憶する。最後から始まる、そのような節目でこそふさわしいプログラムだったと記憶します。

ラインゴールドで突然、劇が中断したかのように出現するエルダ、あのフレーズを強烈フォルテシモに置き換えた嵐のようなジークフリート第3幕の冒頭ミュージック。それを目印にしてそのあとのヴォータンとのやりとりは割愛、第3場を全て魅せる。作曲の経緯もあるとは思いますが、そんな経緯のことを殊更知る前から、もう、何度か書いていますが、ジークフリート全幕をみてまず感じることは、第3幕はカミタソに突き出ているという印象のことです。特にブリュンヒルデの目覚めのあたりからは1幕2幕とは別のおもむきで、カミタソに突き出ているというか、そこだけもう一個の独立楽劇としてもいいのではないかといった皮膚フィーリング、それをピックアップしたインキネン。
鉄火場1幕、憧憬と終幕への見事なブリッジ2幕、3幕3場は美しさと劇性が際立ったリングのアルプス、エベレストか。
90度越えの鋭角でさえ登り切りそうな勢いの昇り竜ヘルデン・テノールとドラマチック・ソプラノの掛け合い、堪能しました。彼ら二人とも劇への入れ込みがまず見事。まるでそこにシーン3があるかのように速攻集中。すごいですねこのアトモスフィアは!歌う前からこれだけテンション感じる演奏会なんて!

オニールは何度か聴いています。美しき音色の声質で揺れない声ですね。絶好調テノールは余裕ありまくりなんだが、ここでのジークフリートの不安をうまく表現できていました。声質が美しすぎてオーケストラに埋もれてしまうように時折感じるのはピッチが合いすぎているからかな。
イタオペ3人衆でいったらパヴァロッティの一点光源型の発声に似ていますね。豆電球のような小さい音源からストレートに伸びてくる感じ。ですので、オニールの場合も彼の正面席に陣取れば一番いいと思います。あとは今日みたいにデカいサウンドのオーケストラはバックではなく、通常のオケピットでもなく、バイロイトみたいに下に潜り込んでしまえば、オニールのテノール満喫できそうです。光るビロードのような声。
歌う前から劇の中で炎に包まれて眠るリンドストロームのコンセントレーション。抜けるような声というより、キーンな声で前に前に前進。目覚めからファイナルシーンの圧倒的歌唱までドラマチックな振幅が大きい、ハイテンションすぎて、素晴らし、過ぎて。
お二方の出来栄え素晴らしすぎて、満喫堪能。

日フィルさんはオペラ伴奏はあまりやりませんし、ワーグナーは新首席指揮者に手綱を引いてもらえばいいのだと思いますよ。オーケストラは縮こまらずまずは出来ることを全てだす。そこを始点にしてこれから色々とやっていけばいいと思います。インキネンもそんなことは百も承知していると思います。まぁ、派手な伴奏、なにはともあれ、拍手喝采。

カミタソはプロローグの頭をまずちょこっと出し。ジークフリート3幕3場の目覚めモチーフの空虚系のハーモニー。まぁ、前半プロとのつながりを感じさせます。
あとは、これでもう終わったんじゃないかと思えるような割と能天気なホルンの信号から始まる3幕からの厳選抜粋。あたまの信号のシーンは、もちろん、ありません。あすこやってしまうと、2幕ファイナルシーンでの悪だくみ三重唱がすぐに尾をひいて出てきますしね。
ワーグナー名曲集みたいな感じで進んでいきます。ここらへんはオケがアクセル全開できるので、いくら鳴らしても、過ぎることはない、という感じで思いっきり。フルオーケストラのサウンドを聴く醍醐味、快感。
演奏後の印象としては指揮者インキネンは全く目立つことなく、音楽に溶け込んでいた。この派手なあたりでも思い起こすにそのような印象です。
ここでのジークフリートは弱点の背骨のあたりをやられるので、劇的には弱々しくなってしまう。ので、聴き所はそのようなシーンでの清唱、そして力強くもはかないブリュンヒルデの絶唱ですね。結末、リンドストロームの角度を持った鋭角でストレート、見事な歌唱、自己犠牲で火照った音楽はライン川のうねりとなり、気づく間もなく、全ては炎上、そしてまた始まる。それは来年2017年5月26,27日を待たなければいけない。
素晴らしい演奏会でした。
ありがとうございました。

入場者に記念品が配られました。首席指揮者就任記念グッズ。これもありがとうございました。
大満足の一夜でした。
おわり


2192- ショスタコーヴィッチ、pfcon1、ポストニコワ、Sym10、ロジェストヴェンスキー、2016.9.26

2016-09-26 23:51:38 | コンサート

2016年9月26日(月) 7:00-9:25pm サントリー

オール・ショスタコーヴィッチ・プログラム

バレエ組曲≪黄金時代≫ 5′9′3′2′

ピアノ協奏曲第1番ハ短調  6+9+2+6′
 ピアノ、ヴィクトリア・ポストニコワ
 トランペット、辻本憲一

Int

交響曲第10番ホ短調  28′5′15′15′

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー 指揮 読売日本交響楽団


ロジェストヴェンスキー85才、この魔力というか催眠術にみんなかかってしまったのか、あの吹き抜けるような10番シンフォニーの最後の音のあとで、なんとエポックメイキングな長い空白が生じるというヒストリックなものであった。むしろ大いに戸惑ったのは指揮者のほうで、あれ?終わったんだが、なむさん、拍手もないほど、ひどかったか、ははは。とロジェヴェンが思ったかどうかは知らないが、そのような仕草が見えた。
現実は裏腹か、神のみぞ知るといった具合で、圧倒的な降臨演奏、アンビリーバブルな出来事となりました。
前回2009年に見た時よりも全体的に少しスリムになったように見えました。この年齢で身体が重くならないというのは指揮者にとってはいいものと思う。
身振りは指揮芸術の極致といったところ。振りは小さくなったけれども、必要にして十分、すべてのインストゥルメント、アンサンブルの入りを長い指揮棒と左手の動きで表現。それに目、頭の動き、顔の表情、小さな動きに巨大咆哮からピアニシモまで、それに入り組んだパッセージの強弱ニュアンスまで表現するオーケストラのほうももはや圧倒的という言葉しか見つからない。再現芸術の極み、極限技を見ました。
ロジェヴェンはポーディアムを使わず、メンバーと同じ高さ。ひな壇の上にいるブラスセクションなどに指示するのは多少上向きになって、サウンドを全部浴びる気持ちの良いものだろうね。

この前(2016.9.20)のインバルが振った8番のところで書いたように、この10番も3楽章イメージがあります。28,5、30、のバランス感覚。
第1楽章は遅めのインテンポ。読響の正三角形音響バランスは思ったほど重くない。厚みを作るような進行はあまりなくて、一つのメロディーが冴え冴えと次々に楽器を変えながら進行していく。楽器群の特色がよく出ている、圧力あるベース、ふくらみのあるチェロ、ウエットな潤いのヴィオラ、そしてなでるようなヴァイオリン。混沌としたパッセージが続くウィンドは聴く方に手がかりを与えてくれるいいバランス。ブラスセクションの味わいもダイナミックさからピアニシモまで味わい深い。パーカスの強打には飛びますね。
第2主題への移り変わりは殊の外、明瞭なもので、カオスの水源のような第1楽章ではありますが、相応なメリハリはある。一時も弛緩しないプレイヤーの緊張感が素晴らしい。ロジェヴェンの一挙手一投足を見逃すまいと、この神経集中力の素晴らしさ。聴衆もこのなかに組み込まれていく。聴き手が受け身という感覚はもはや無くて、積極的なのめり込み状態。
自分の感覚では8番の第1楽章と双璧かそれ以上に名状し難いわからなさをもった10番の第1楽章なのですが、この一本音型での進行はパッセージ単位での音色旋律風味があるなぁとは思います。この楽章を持ちこたえて聴くのは普段なら少し努力が要るが、今日のロジェヴェン、読響の演奏ならそんなことは忘れさせてくれました。この楽章のソナタ形式バランスは完ぺきなものかもしれないと。
第2楽章は、1楽章、3+4楽章の転換点となるもの。点であれば短くて凝縮されればされるほど束ね効果がでる。前楽章の広がりをここで絞って後半楽章でまた広がりを作る。
ロジェヴェンはここでも概ねスローなインテンポ、これは最後まで変わらないので、相対的な話になるかもしれませんね。上から蓋をするような音型と滑るようなウィンド。荒れ狂うリズムにも先走りしないプレイは見事で、離れ業の妙味堪能。

第3楽章は前楽章のスケルツォの音型を引き継ぐことから始まるので、ブルックナーの5番、2,3楽章の進行とよく似ている。1,2+3,4楽章の感覚があるのですが、ロジェヴェンは2楽章のあと完全ポーズをとりますので、ここはやっぱり、1,2,3+4楽章の味わいかと思いました。(4楽章へアタッカでは入りません、ここでもたっぷりポーズをとりますので、あくまでも構成感の話です)
この楽章の後半は気がつくと終楽章の序奏モードになっていて聴き手のほうは意識下の出来事が次々と進んでいるような気になってくるのかもしれない。味わいで言ったら終楽章よりもこの第3楽章かな。
終楽章は序奏の長さほど主題の圧力は感じないもので、ウエットな潤いと軽快な遅めのインテンポが綯い交ぜになったもの。派手なものは一切なくて、むしろ淡々としている。枯れた芸風と言えるかもしれない。彼でなかったら出来そうもない技ですね。まぁ、ベニヤ板が上にしなっていくような具合で、しなり尽くしたところで、ブラスの裏打ちが極限に達したところで、元に戻りめくれるようにフィニッシュ。唖然茫然の聴衆は催眠術からしばらく目が覚めず、拍手ができない。10番のフィニッシュでフラハクもフラブラも、まして普通の拍手も来ないというエンディングには遭遇したこともない。それほど覚醒までに時間のかかった、これぞ至芸、あえて至芸の極致と呼びたいもの。言葉の本来の意味で空前絶後ですな。とんでもねぇ演奏。

前半プロ。黄金時代。えも言われぬテンポで一歩一歩進む。真面目な皮肉なのか。
自発的コントロールが効いたオーケストラのプレイは味わい深く、お見事。ショスタコーヴィッチをもっと聴きたい、と思わせる。(このあと2曲ショスタコーヴィッチであったわけですが)

ポストニコワとロジェヴェンの一体感は当たり前すぎる話なのかもしれないが、息が合い過ぎていて気持ちよすぎる。
ポストニコワのピアノはショスタコーヴィッチのオーソリティなのでしょう。慣れたものだがツボははずさない。非常にきれいな音でびっくり。後ろから見ていると、高音、バスと右左腕が大きく離れるところもある曲で難しそう。腕が広がったところでも右左の押しのバランスがよくて、余計な力を抜きつつもコントロールされた筋肉を感じる。緩徐フレーズでも隙間がなくてウエットな響きを堪能。雰囲気ですね。それが絶妙。
ピアノのすぐ左に陣取ったトランペットとの掛け合いも絶品で、終楽章ではポストニコワが顔でも掛け合いをしている。トランペットさんはふき出してはいけない、商売にならない、ひたすら吹かなければならない。というシーンまで楽しめました。
ポストニコワのウエットなピアノサウンド、それから一転、軽妙なアンサンブルの妙。楽しめた。ショスタコーヴィッチが演奏していたらこうなったかもしれない。

ということで、プログラム3曲。2時間半に迫る演奏会でしたが、ロジェストヴェンスキーはずーっと立ったままで振りぬきました。太らずにすんでいるせいもあるかと思います。健康は大事です。いくら才能があっても身体が動かなければ宝の持ち腐れ的な職業ですし、そうなっていないロジェヴェンには敬意を表したいですね。それに極小の動きで全てを表現している至芸は長年振ってきた経験の積み重ねが大いにあると思います。もちろん、才能のほうを強く感じますけれども。まぁ、生まれながらの天才棒。
これで終わりとせず、また来てほしいです。オケは読響以外は考えられないでしょうから、読響が演奏しにモスクワまで行くというのはどうでしょうか。
おわり


2191- モツコン27、フォークト、ブル2、ヤルヴィ、N響、2016.9.24

2016-09-24 23:41:21 | コンサート

2016年9月24日(土) 6:00pm NHKホール

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595 13′7′9′
 ピアノ、ラルス・フォークト
(encore)
シューベルト 楽興の時 第3番ヘ短調 2′

Int

ブルックナー 交響曲第2番ハ短調 (キャラガン版(第2稿に基づく校訂))
                 16′17+6′16′

パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 NHK交響楽団


27番コンチェルトは、この前(2016.9.16)、ケフェレックのピアノで聴いたばかり。

27番のスコアはスカスカな気がするが、フォークトのピアノは慎重に正確にポツポツと弾き進む。均質なタッチ。全くぶれない。厳格さが音楽の中心にある。そうすることで、音楽を一段高いところに持っていく、のではなくて、別のオーソドックスなスタイルを手にいれている。自分にはこうゆう演奏があっている。心地よい響きのモーツァルトでした。

後半のブルックナーは第2稿、短縮で緊縮な版。約55分の演奏。マゼール&バイエルンRSOによるノヴァーク版70分とは随分と違う趣き。どっちにしても色々と手を加えて一見ボロボロ、でも2番。なんだかムソルグスキーの世界を垣間見る心地ですゎ。

この日の演奏はスコアを見ているような具合の演奏で、スコアだとヴァイオリンもベースも、同じ大きさのオタマジャクシなわけですが、実演のほうもそんな感じで、音場が高低同じような強度、結果、軽い。バランスがいいとはどういう意味かともう一度、自問。

第1楽章ソナタ形式の経過比率は、
提示部:第1主題2、第2主題1、第3主題1
展開部6
再現部:第1主題2、第2主題1、第3主題1
コーダ2
以上4-6-4-2の構成感。これはこれで素晴らしいバランス。
いわゆるデモーニッシュ(陳腐な言葉かっ)の対極解釈で、これが今風の普通の演奏。
ブラスがさざ波をたてるように進む音型が、引き締まった弦に前進力を与えている。清らかでピュアな演奏でした。もう一歩、踏み込んでほしかった気もしますが、これはこれで楽しめました。
おわり


2190- エンペラー、ソンジン、田園、ミョンフン、東フィル、2016.9.23

2016-09-23 23:51:50 | コンサート

2016年9月23日(金) 7:00pm サントリー

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 皇帝 20′9+10′
 ピアノ、チョ・ソンジン

(encore)
ベートーヴェン ピアノソナタ第8番ハ短調 悲愴第2楽章 5′

Int

ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調 田園  12′11′5+4+11′

(encore)
ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調 第4楽章 7′

チョン・ミョンフン 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


ミョンフンの指揮は何度見てもほれぼれするもので、音楽を完全掌握、オーケストラを完全掌握。東フィルの引き締まった充実のサウンドはこのような指揮があってこそ湧き出てくるものとあらためて認識。指揮者の実力の凄さ、スーパー・ナレッジ、耳の良さ、音楽を感じさせる棒さばき、音楽のありとあらゆるものが全部出てくる。プレイヤーにとってスーパーコンダクターは怖いに違いない。ビビらせずに力を出させる指揮者ですね。もう、感服。
それにしても東フィルのサウンドは機能美とは一味違ったもので、生き物のような火照り具合で、本格的な響きが何かデジャビュのような雰囲気を醸し出している。初台のオペラ伴奏などでは見られない現象で、この指揮者が振るとこうなる。オケは指揮者しだいですかねやっぱり。もはや、豹変と言っても過言ではない。
それに、
にやけない、踊らない。
にやけて、踊って、サムアップする前にもっと大事なことをするべきなんだと言っているようだ。彼の爪の垢を煎じて飲まなければならないジャパニーズ・ダンシング・コンダクターは沢山いる。

1994年生まれ、昨年2015年ショパコンチャンピオン、ソンジン。ホールは満員の盛況。
初めて聴きます。皮相的な熱に殊更浮かれることもないと感じるのは若いながらこれまでの数々の受賞歴からもわかるように場慣れしているからなのか、それともご本人のもともと持っているテンペラメントからくるものなのか、わからないですけれども、たぶん後者だろうなぁと思うに至ったのはアンコールに選んだ悲愴第2楽章を聴いてから。
ピアニストにとっては過酷な響きのホールですので聴衆は頭の中である程度イメージ補正をおこなって音を聴くことになります。ピアニストの派手なアクションがイメージ補正に一役買うこともありますね。ソンジンの場合はストイックとは言いませんが、余計な助けを借りることのないピアニスト。むしろ淡々としているほどで、技巧を忘れさせてくれるし、また、曲が進行するにつれて、音楽の内面を魅せつけられているように思えてくる。エンペラーの曲を久しぶりにじっくりと聴くことが出来ました。彼のプレイでベートーヴェンは素晴らしいと感じさせてくれた。ベートーヴェンが前に出てきた。
さらに特筆すべきは伴奏です。ミョンフンの指揮によるオケ伴は最初に書いた通りのもので、アナログ風味で引き締まった本格的サウンドは魅力的。ピアノにあわせたコントラストが素晴らしく雄弁。本当にほれぼれとする伴奏、生きた演奏でした。圧倒的。

田園はともすると凡庸な演奏に聴こえてきたりするのは聴き手側のせいによるところが大きいのだろうとは思うのですが、波のあまりない第1,2楽章あたりはどうしてもユルム。
ところが、この日の田園。ミョンフンの棒による田園は全く弛緩しない。とことん魅力的な演奏でした。
厚みのある人肌のようなオーケストラサウンド、ミョンフンの醸し出す指揮の魔術ですね。指揮姿を見ていればよくわかる、音楽そのもののような運び、ウィンドが歌い、ザッツの合ったピアニシモからフォルテに湧き出るような音楽の流れはもはや止めようもなく、筆舌に尽くし難い美しさとなる。絶品の第1楽章。何も言うことはない。
美しさは次の2楽章でも変わらない。心地よい緊張感がホールに漂う。中低音域で弦が歌い尽くす。アンサンブル単位に揺れ動くさまは、何重もの小川の流れが生き物のように動いているかのようだ。離れ業ですな。
3楽章の深いリズム、快活さの極み。4楽章の滑り込むようなダイナミックな嵐表現。するりと雲の中からさす光がやたらとまぶしい終楽章、溢れる喜びの音楽はもはや歌を越える、そして遠くでホルンが信号を鳴らし天に飛んでいく、ベートーヴェンの振幅の大きな曲をこれほど見事に表現した演奏はそうザラにはないだろう。もう、満足の極み。
田園、再発見。

アンコールがありまして、翌々日のプログラム演目になっている7番。それの先出なのか第4楽章をいきなり始めました。
これがまた凄かった。7番はこの楽章だけあればいいのではないのかなどとふと脳裏をよぎるような最高峰の演奏。ダイナミックなたたみ込み、滑るような音の流れ、嵐の舞踏。ど・アンコールに満足。
前半後半、両アンコール含めオール・ベートーヴェン、最高の演奏会。

前半のコンマスさんのめずらしいチューニング含め、大いに楽しめた一夜でした。
色々とありがとうございました。
おわり


2189- モーツァルトVn協3、デュメイ、ショスタコーヴィッチ8番、インバル、都響、2016.9.20

2016-09-20 23:25:53 | コンサート

2016年9月20日(火) 7:00pm サントリー

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調  9′8′6′
  ヴァイオリン、オーギュスタン・デュメイ

Int

ショスタコーヴィッチ 交響曲第8番ハ短調  24+6′、6+8+14′

エリアフ・インバル 指揮 東京都交響楽団


いつもは深刻に聴いている8番。この日の演奏、プログラム解説じゃないけれど、案外、明るい曲だった。インバルの棒で良く光った演奏、目から鱗が落ちました。

ショスタコーヴィッチはどう思ってこの曲を書いたのだろう。ヘヴィーな7番のあと、とりあえず1曲作ってみよう、無題で。外部インプット無しで自分の頭の中の材料だけで作ってみようかしらと考えたかどうかは知りませんが、意識下のマテリアル・オンリーのものがジワッと表面化して、無機質、無機的なピュア・シンフォニーが出来上がったように思えるのですが。これはこれでシンフォニーの醍醐味。インバルのもう一つの解釈みたいな演奏も大いにあり得ていいと今思いました。
目から鱗が落ちたのは全体の半分近い1楽章と激しいリズムが絶品の3楽章。
長い1楽章の、この構造感。インバル棒は極めて明確でスッスッと進む。この楽章はソナタ形式としてもやっぱり2主題構成。そもそも、リストのファウスト・シンフォニーなんかでもあるあの感覚、つまり曲自体に主題1個しかないよね感覚、終楽章の最後の最後まで続くこの連続感覚。その中での第1楽章、ちょっとボーとすると今はどこらあたりという迷子状態になる。耳をそばだてると、主題比率配分は、
提示部第1主題5-第2主題5-自由な展開部10-再現部第1主題2-第2主題2、
こんな感じか。(勝手な思いですが)
無機質な魅力満載のシンフォニーをインバルが気持ちよく紐解いてくれました。割と快速なインテンポで通しながら節目でテンポを若干落とし、それが都響の腕もありクリアに耳心地が良い。海山あるこの楽章、オケも海も山も明るい、明快な1楽章でした。スコアにも光が当たりすみずみまで照らしだされた素晴らしい演奏でした。

続く2楽章スケルツォへはアタッカ攻撃。ドライで、ぶ厚いサウンドで塗りたくられたギクシャクした音楽が興味をどんどん先につないでいく。前楽章からの目覚めにはいい具合の音楽。ここらへんのひねり具合はこの作曲家ならではのものですね。本当に面白い。
そしてインバルは一服ポーズを取り後半3,4,5楽章へ。この頭の第3楽章、前の楽章をさらに激しくしたようなもので、嵐のようなパフォーム。突進、泡立つリズム、指揮棒が先かオケが先か、100メートル競走のような過激さに至る。頂点の猛速はもはや筆舌に尽くし難い、出色の演奏でした。指揮、プレイヤー、絶賛ものです。凄かった。無標題でマシーンのような楽章。無数の歯車が回転。プレイヤーたちがマシーンのように見えてくる。お見事な表現。絶賛。
まぁ、スケルツォのあとに過激な3楽章を持ってくるこの連続技、凄い作曲家まずありきですね。
続く4,5楽章は風景が一変、静かさの表情が勝るもので3+4+5楽章と進むにつれて長くなる興味深いもの。そしてフシつまり主題は一つしかないということをあらためて実感。作曲者が素材の陳列にこだわらずピュア1本で激しさも静かさも表現した見事な作品というしかない。堪能しました。それに明るい作品だったと。

が、
ラザレフなどの言を俟つまでもなくショスタコーヴィッチのシンフォニーには実質3楽章スタイルのものが多い。この8番もそのようなものだが、インバルは2楽章へはアタッカ突入で全体バランスは2楽章構成の印象でした。
24+6、6+8+14 = 30、28
といった具合で、1部2部の雰囲気でしたね。
3楽章イメージだと、
24、6、28
この感覚のほうが、ショスタコーヴィッチの他作品を眺めてみるとより自然でバランスが取れていると思います。まぁ、2部構成であれどうであれ、インバルの術はショスタコーヴィッチのマシーン音楽を見事に表現してくれたことに変わりはありませんので。

前半のモーツァルト。デュメイはお初で聴きました。長身痩躯、メガネのせいか殊の外、若い雰囲気。実際のところ動きも良い。写真でもってるイメージとは随分と異なりました。自分の定席は2階ですので少し遠めの方が色々とデフォルメされるのかもしれない。それが第一印象になるわけです。
プレイは、隙間を作らず弾いてくる感じで、そのままスーッと伸びてくる。高音推移の曲で、音域にもう少し中音域以下での動きがある曲だとかなり強めで鳴るのがわかりそうな気がした。彼のようなスタイルだと、モーツァルト、淡いなぁ、これが実感。

ということで、前半後半、まんべんなく楽しめました。
ありがとうございました。
おわり


2188- トリスタンとイゾルデ、デッカー、ロペス=コボス、二期会、読響、2016.9.18

2016-09-18 23:39:21 | オペラ

2016年9月18日(日) 2:00-7:00pm 東京文化会館

東京二期会 プレゼンツ
ワーグナー 作曲
ヴィリー・デッカー プロダクション
トリスタンとイゾルデ

キャスト(in order of appearance)
1-1イゾルデ、横山恵子(S)
1-2ブランゲーネ、加納悦子(Ms)
(2.若い水夫の声、新海康仁(T))
3-1.クルヴェナール、大沼徹(Br)
3-2.トリスタン、ブライアン・レジスター(T)
4.マルケ、清水那由太(Bs)
5.メロート、今尾滋(T)
(6.牧童、大野光彦(T))
7.舵取り、勝村大城(Br)

二期会合唱団
ヘスス・ロペス=コボス 指揮 読売日本交響楽団

(duration)
前奏曲 10′
第1幕 70′
Int
第2幕 68′
Int
第3幕 72′+ 6′


先週日曜は池田福井組を鑑賞。今日はレジスター横山組を。
デッカーのプロダクションについては先週書いた通りなのです、が、目の包帯をとる行為と腹の包帯を取る行為ではやっぱり、違うのではないか。まぁ、わかっていてあえてやっていると思いますので、そうゆうことも含めて味わうというところはあります。が、トリスタンの歌う、傷がいえていないし、死ねないというあたりのことはそもそも前史の話であって、ここで死に至るのは第2幕でメロートの剣に飛び込んだから、ということですから、目だと死に至らないと思うので、死ぬのは前史のせいと思うような作りになってしまっているのではないか、見た目は強くそう感じる。それがねらいだったのかしら。
小道具の活用はほとんど無いので、このシーンの印象は一層強く目に残ります。
服装が第1幕では中世のロングなワンピース風、それがその幕最後のところでマルケが洋装(スリーピースにシルクハット)で出てきてファンファーレエンディング。それの流れなのか次の幕ではトリスタン以下敵も味方も男どもはスリーピース、スーツ、意味は分からないが小道具風味は少しある。
あと、たぶん2人乗り用の小ボート。ほかの役どころ連中は乗れないサイズ。小ボートは幻影で、舞台全部が船なのだろうか。

第1幕に関しては、これだけ何もないのだから歌はバリバリ声出してよと言いたくなるぐらい。イゾルデはドラマチックなソプラノというより、あまり前に出てこないリリック・ソプラノといった感じで弱い。それにワーグナー独特のセンテンスが下降しながらまとまってしゃべるあたりのところが不安定。パッセージがコンクルードしないもどかしさがある。第1幕のイゾルデは長丁場かもしれないが最初からバンバン前進してほしかった。慎重さはもちろん必要ですが、それは見えてはいけない。
幕が進むにつれて両タイトルロールの声は出てくるようになったので、夜のとばりのあとのドラマチックな展開以降、楽しめました。
ロペス=コボスの棒が先週観た時よりも10分近く伸びている。オーケストラの鳴りが十分にタップリ。読響は先週よりプレイヤーが増えているのではないのかと思えるぐらいデカい音。室内楽風なトリイゾと言えるものではなかった。声は出ていたがオケに打ち消された部分もあるかもしれませんね。
おわり




2187- テンペスト、ワルトシュタイン、ショパン3曲、志鷹美紗、2016.9.17

2016-09-17 23:57:13 | リサイタル

2016年9月17日(土) 7:00pm 小ホール、東京文化会館

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 テンペスト 7′7′7′

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 ワルトシュタイン 9′3+10′

Int

ショパン 幻想曲 12′
ショパン 子守歌 変ニ長調 4′
ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 16′

(encore) 2曲 4′ 5′

ピアノ、志鷹美紗


お初で聴きます。
椅子に座ってピアノを弾きはじめるまでに結構時間を作り、呼吸を整えて、ある種、構えを大事にして、それから演奏に入る。
ベートーヴェンの中身も同じような感じです。作品に対する構え、それは、イメージを作り過ぎているのでないかと思えるようなところもあります。イメージを持ちすぎると言ってもいいかもしれない。構えは大切だと思いますが、プレイは自由であっていいような気もします。自由さから徐々に焦点を絞っていく、それでいいような気もします。
ニ短調のテンペスト。ニ短調はやにっこい。第九、ブルックナー9番をはじめとして、聴くほうも自ら足を一歩踏み込んでいかないといけないところがあって、まぁ、入り込めばむしろコンセントレーションは高まりをみせたりはする。神秘的な開始はこれら作品に共通します。こんなことを色々と思い起こさせるような志鷹さんのテンペストでした。漂うような演奏でした。
ワルトシュタインは3楽章切りにしているので、アタッカで終楽章に突入するとはいえ、その楽章への単なる序奏ではないという認識で、2楽章そのものの神秘度は彼女の演奏だと否が応でも、増す。ウエイト高い。
2楽章のポツポツ感、3楽章の水切りの鮮やかさは美演。第1楽章はシンフォニックでダイナミックな演奏が多いので、それも含め、今回ベートーヴェンの違う表情を聴かせてくれた思いは残りました。

後半のショパンで印象深かったのは子守歌。なんだかラヴェルのようなキラキラしているところがある。透明な響きだが硬質ではない。いい響き、堪能しました。

どの曲にも、短調の陰りの潤いを感じさせてくれる。全体印象はそのようなリサイタルでしたね。
ありがとうございました。
おわり


2186- モーツァルト33、Pfcon27、ケフェレック、ブラームスpf四1、上岡、新日フィル、2016.9.16

2016-09-16 23:58:20 | コンサート

2016年9月16日(金) 7:00pm トリフォニー

モーツァルト 交響曲第33番変ロ長調K.319  6′4′2′5′

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595  14′7′9′
  ピアノ、アンヌ・ケフェレック

(encore)
ヘンデル(ケンプ編曲) メヌエット ト短調  4′

Int

ブラームス(シェーンベルク編曲) ピアノ四重奏曲第1番ト短調 13′7′9′9′

(encore)
ブラームス ハンガリー舞曲第1番  3′

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


変ロ長調を並べたピュアな雰囲気漂う前半モーツァルト、一転してダイナミックで起伏のある後半ブラームス、対照的な作品と演奏。対比の妙がよく出ていて、さらに、このコンビの可能性の振幅の広がりまで感じさせてくれるエキサイティングな快演となりました。いい演奏会でした。

後半のブラームスは各パートを思いっきり目立つように歌わせ、中太の線を明確に響かせてシェーンベルクの編曲にくまなく光を当てる。骨太のブラームスで秋モードも感じさせてくれる味わい深い演奏。
自席は1階ほぼ中央席で、これまでだと、ベースは下手(しもて)にセットアップしてあって音は完全に上手(かみて)から聴こえてくる、と、前に書きました。
この日、上岡の指示なのかどうか、ベースは上手にセットアップ。不思議なことに音も上手から聴こえてくる。という、一般的には当たり前の話かもしれないことに軽い驚き。さらにそのベースの締まりがいい。ぎゅっと音が締まっていてクリアなサウンドが聴かれた。何かが刷新されたような雰囲気。メンバーが心地よい緊張感でプレイしているのがよくわかりました。
楽章毎にきっちりとポーズを取り、音がたくさん詰まった演奏、充実の演奏でオーケストラの醍醐味を味わい尽くしました。全楽章出色のできで、構成感、バランスも整ったもの。
ブラームスのハーモニーと巧妙精緻なシェーンベルクの編曲、大いに楽しめました。
また、指揮者上岡の耳の良さを実感できる演奏で、耳の良さはこれからプレイヤーにとってはもうひとつの緊張感につながっていくような気もします。精度はさらに増すと思います。
アンコールのハンガリアン・ダンス、滑るような波立つようなビューティフルな演奏もベストな雰囲気で秀逸。

この前(2016.9.9)の標題系の曲のときは大げさな身振りもあまりなく音楽と一体化した棒にうなりました。
今日の前半モーツァルトは、過剰な身振りが邪魔。標題系ではなくシンフォニーで振りが過剰。振っているというより音楽の線の尾根を示しているだけで、これはもはや音楽に合わせているのではないのかとさえ思いたくなる。線振りは相応な味わいはあるのですが、出てくる音楽は流れるものではなくて、そこに漂っているという感じ。これはこれで見た目と出てくる音は別々で、出てきた音だけ聴いていればユニークなパフォーマンスで、道端のタンポポのような思わず見たくなるそんな雰囲気をよく醸しだしているものではありました。コンパクトなオケ編成でなによりもメンバーが音楽を実感してプレイしているのがヒタヒタと伝わってくる佳演でした。CDなど「聴くだけメディア」で、あとで聴ければ良さが実感できると思う。

2曲目のコンチェルト。ピアノのケフェレックは華奢で見た目がそのまま音楽になっている。ナイーブな神経がそのまま透けて見えるような演奏。叩き無用というよりそれは音楽の外、それ以外の事で音楽は出来ている。流れる演奏というわけでもない。なにか、音をひとつずつ置いていくような点の音。ひとつずつの音がポツポツと点がつながっていく。そんな演奏でとても不思議。それに、トリルとか装飾音を短いフレーズの中に一気にクルンと束にして響かせながら伸縮というよりここは切れ味を感じさせてくれる。
淡く今にも消えてしまいそうなプレイ。それが残る。不思議な味わい。アンコールはそういたものがさらに増す。いつくしむような演奏でした。
伴奏のオーケストラも秀逸でした。いい演奏でしたね。

トリフォニーは前シーズンまでとはやや異なった収録マイクセッティング。マイク数が多くて、そのマイクの形状もこれまでとは異なる。支えているスティックも黒くなってます。(色が関係あるかわかりませんが)
それに、9列10列目あたりの真上からも左右2本ぶら下げている。会場雰囲気まで収録するのかしら。と。
といった具合で、雰囲気はセッション並みのセッティングでした。かなり本格的なもの。こういったあたりも新指揮者上岡の意気込みと、当然メンバーの方にも相応なやる気が出てくると思います。いい流れですね。

次回はさらに凄い演奏をお願いします。と、気楽な聴衆はわがままが絶えませんです。
おわり


2185- トリスタンとイゾルデ、デッカー、ロペス=コボス、二期会、読響、2016.9.11

2016-09-11 23:12:37 | オペラ

2016年9月11日(日) 2:00-7:00pm 東京文化会館

東京二期会 プレゼンツ
ワーグナー 作曲
ヴィリー・デッカー プロダクション
トリスタンとイゾルデ

キャスト(in order of appearance)
1-1イゾルデ、池田香織(Ms)
1-2ブランゲーネ、山下牧子(Ms)
(2.若い水夫の声、菅野敦(T))
3-1.クルヴェナール、友清崇(Br)
3-2.トリスタン、福井敬(T)
4.マルケ、小鉄和広(Bs)
5.メロート、村上公太(T)
(6.牧童、秋山徹(T))
7.舵取り、小林由樹(Br)

二期会合唱団
ヘスス・ロペス=コボス 指揮 読売日本交響楽団

(duration)
前奏曲 9′
第1幕 67′
Int
第2幕 67′
Int
第3幕 68′+ 6′


デッカーのこの演出で一番衝撃的なところは、第2幕第3場でトリスタンがメロートの剣に飛び込むところ、大幅にひねっていて、自らの目を自刃する。そして立ったまま重なるようにイゾルデも目を自刃する。目だと自刃にならない確率が高い。つまり第3幕で死に至る根拠とはならないのではないか。ということと、イゾルデも同じことをしていて、彼女の場合も死んでも死ななくても文字通りの自刃とはならないはず。ここらへん釈然としないわけです。問題はなぜ目かという話で、これは、わかりません。デッカーの演出が両者ともに傷つくという前提を崩したくないということであれば、腹を刺してしまうと今度はイゾルデも死んでしまう確率が高く、それだと、これまた話が違うということになるから、というのであれば少しは納得。つまり、両者をともにするというのは、デッカーの言う二つの現実、一つの現実に対してひとりはこう思っている。もう一人は別なことを思っている。そんなことがたくさんあるのだが、トリスタンとイゾルデだけは会話がかみ合って一体化していると。それの延長線上の出来事なのかなとも思ってしまう。
トリスタンはこの2幕と3幕で死を試みるわけですが、2幕では目を傷つけ、3幕では目の包帯を取る、という行為に大幅変更というひねりに。

ということで第2幕は演出含めいい出来栄えで見ごたえありました。主役2人は事件の象徴的な意味合いか真っ赤なドレスとスーツ。舞台全体はモスグリーン。原色的な趣味の悪さを感じさせず主役を浮き彫りにさせてくれる。
2場の愛の二重唱はお見事でした。途中、二人がまどろみながら歌はやめ、どこか上の方から重唱が聴こえてきました。気のせいではなくてそのような演出と見ましたが、誰と誰がどこで歌っているのかは知る由もありません。
それもこれも含め、二重唱は一気に盛り上がりブランゲーネによる中断まで、素晴らしく均整の取れた両者の歌が気持ちよく続きました。

舞台に目をやると、前奏曲では幕が開きません。過剰演出ではなさそうだなとふと思う。
幕が下りたままでも何か床の角がピットのほうに突き出ている。幕が開くとわかるがそれは本当に床で、床の上に床がある感じ。形はひし形系だが対称性が無く、突き出し方も形も奇妙にずれていて、したがってプロンプターはセンターではなく、ややかみて寄り。
ステージには小さな2人乗りボートがあるだけ。あとは奥に壁がひし形床にあわせるように2面あるのみ。その壁はかみての片側だけ移動できるようになっている。
2幕でも同じ。小ボートはひっくり返っていて、愛の二重唱の開始のあたりで、2人で元に戻される。
3幕ではボートは2つに割れている。舞台は灰色。トリスタンが間際前に2つに割れて分かれていたボートをくっつける。
3幕では両者目をやられているので、折角イゾルデが到着しても瀕死のトリスタンとボートの脇ですれ違いが起こる。
といった具合で色々あるが、小ボートがメインアクセントになった演出。1幕での薬箱もそのボートの中にありますしね。
場面転換はありません。照明の具合が変わるだけです。小規模なプロジェクションマッピング風な効果は相応にあります。シンプルですね。
これまでの過剰演出とは少し異なり、すっきり演出ポイントひねり演出で過剰系も少し感じられる中、このような傾向があるのは、これはこれでいいのではないかと思いました。

歌は主役が満足な出来で、特にイゾルデは前進系と言いますか、歌が前に出てくる。イゾルデ役は前にどんどん出てくるような歌いっぷりが気持ちいい。3幕の最後の登場でもグイグイ押してくるような感じでパワーと圧力が衰えませんでしたね。相応に飛ばしつつ最後までもつ。
マルケはメリハリついた歌で濃い。ユニークななり(スーツ)なんだが、結構様になっている。
ブランゲーネとクルヴェナールは役どころとして申し分ない活躍。こちらも満足。
キャスト達が浮き彫りになる演出で、かなりめだつ姿となるシチュエーションが多い中、きっちりとこなしていました。脇が充実していると一気にレベルが上がった公演になる。

ロペス=コボスの棒は重くならず結構なスピードで流れている。無理に押すところがなく、騒ぎ立てることもしない。肩の力が抜けた好演でした。
去年の今頃、同じオーケストラでカンブルランの指揮による同作品が上演されましたが、あれはコンサートスタイルできめの細やかさはちょっと違う。

あと、1000円プログラムには前史の記述がありませんが、少し詳しく載せれば見通しがきくと思います。必須です。

来週も聴く予定ですので、また。
おわり




2184- カプレティとモンテッキ、藤原歌劇団、2016.9.10

2016-09-10 22:08:17 | オペラ

2016年9月10日(土) 2:00-5:00pm オペラパレス、新国立劇場、初台

JOF プレゼンツ
ベリーニ 作曲
松本重孝 プロダクション
カプレティとモンテッキ

キャスト(in order of appearance)
1. テバルド、笛田博昭(T)
2. カペッリオ、安藤玄人(Br)
3. ロレンツォ、東原貞彦(Bs)
4. ロメオ、向野由美子(Ms)
5. ジュリエッタ、高橋薫子(S)

藤原歌劇団合唱部
山下一史 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

(duration)
序曲 5′
第1幕第1場 23′
Sb 3′
第1幕第2場 28′
Sb 2′
第1幕第3場 19′
Int
第2幕第1場 16′
Sb 1′
第2幕第2場 15′
Sb 1′
第2幕第3場 21′


久しぶりにこのオペラ(C&M)を観ました。夢遊病の女、ノルマ、これらの前の作品ですね。ベリーニと言えば最後のイ・プリターニが大好きで、それに比べればC&Mは小ぶりとは言えやっぱり観たい。

第1幕3場の5重唱、5人のバランスが極めてよく取れている。流れるベリーニにはこういったあたりの歌い口こそが相応しい。5人衆はソロ、重唱ともに聴き応えありました。
この幕の2場の頭のホルンソロの節を聴いていると、いつ清教徒に移ってしまってもそのまま進行できそうな雰囲気があるなか、みなさん流れるように歌う。
第1場でロメオの使者はあとでロメオ自身というくだりがありますが、こういった普通はドラマチックな出来事でさえベリーニの美しい流れの中に埋没していく。止めようがない流れなのですね。

ロッシーニ風な序曲から始まるベリーニ。そして場をきっちり区切っていく演出は、古風なもので奇を衒ったようなところがないオーソドックスなもの。動きはほぼ無い。歌は立ち尽くしのものだが音楽的に違和感なし。
ロレンツォの迫力ある声が印象に残りました。
テバルドは、どうしても清教徒のアルトゥーロを思い出してしまうのですが、あれと比較するわけではございませんが、どうも、下げて歌っているところが散見されたような気配があります。声自体は張りのある大きなもので奮闘でしたね。
ロール的にはズボン役のロメオがジュリエッタを食ってしまっているわけですけれども、全く不満は無いジュリエッタではあるのですが、高音の抜けるような圧力で通すことが出来れば、この2人、ともに喝采となっていたように思います。

合唱、指揮もそつなく、久しぶりに観るC&M、楽しめました。
おわり




2183- ツァラ、英雄の生涯、上岡敏之、新日フィル、2016.9.9

2016-09-09 23:21:07 | コンサート

2016年9月9日(金) 7:00pm サントリー

シュトラウス  ツァラトゥストラはかく語りき  33′

Int

シュトラウス  英雄の生涯  45′

(encore)
シュトラウス サロメより、セヴン・ヴェール  9′

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


新シーズンスタート、新指揮者就任記念公演。
指揮者、オーケストラともに気合いの入ったいい演奏会でした。
ツァラ冒頭のブラスセクションの奥行き感が見事に出た強烈サウンド、その中に聴こえてくるウィンドセクション、弦が圧力をかわして浮き出る。このオケ特有のちょっと埃っぽいサウンドに上岡が見事な打ち水。粘り腰の出たフル全奏は頭から圧巻。縦ラインもお見事。
この日の指揮者の前には譜面台がありませんでしたが、パーフェクトな理解と指示でしたね(席が近いのでよくわかる)。彼が加えた独特なアクセント、ヴァイオリンパッセージを跳ねるように強調終止させたり、ブラス、ウィンドのアンサンブルバランスを強く濃い目にして大胆な響きを醸しだしたり、そういったあたりのことまで指示しまくってました。これに応えるオーケストラ、いい意思疎通、それがまたリハのせいか指揮者のおかげか、余裕をもって表現するオケ。なかなかの聴きものでした。
上岡の指揮は伸縮自在でテンポの出し入れが激しいけれども自然。最後のナハトが彼の表現の真骨頂とみました。濃厚な粘り気を感じさせないスローさで、曲種をあらためて感じさせてくれる味わい。ロマンチックの排除というと語弊があるかもしれないが、この標題音楽にふさわしい筆の運びと見ました。
シンフォニーに見られるジェスチャー過剰な指揮はあまり見たいものではなくて、見苦しいわざとらしさが前面に立つこともある上岡の指揮なんですが、標題系の音楽ではむしろ自然に見えました。それに標題系の曲の方が、ジェスチャーが過激でない。これは興味深いモーションと思います。音楽をより自然に振っている。それが姿かたちに表れてきている。見た目も自然体という話。
サウンド充実のいい演奏でした。

後半は作曲家の大言壮語な自意識過剰曲。まぁ、シュトラウスの場合、口ほど以上に実力はあったという話になりますから、これはこれで。
前半の気合いが少し緩んだのか縦ラインがボサッときますが、じきに立ち直り滑るような演奏がまもなく展開。
長いヴァイオリンソロ。ここでグッとテンポを落とす指揮者、それがベストと気持ちよく歌いまくるヴァイオリン。絶妙な掛け合い。オーケストラの伴奏の息もあっている。上岡のコントロールがよく効いたオケも聴きもの。
コンマスの表現がこれだけお見事ですと、もう、ひとりコンマスでいいのではないか。
日本国中、首席コンマスとか客演なんとかコンマスとかコンマスも指揮者化してしまっていて、これはどうかと思う。オケと指揮者をつなぐものだし、普段のコミュニケイトが大事。それがコロコロかわる。コミュニケイト的には非効率的で無駄な時間が発生しているのではあるまいか。
アメリカの場合、ユニオンがありますし、リハに時間がかかると残業代が要る。ひとりコンマスだと日常のコミュニケイトがいい。何人もコンマスがいて果ては客演コンマスなんてぇのは、コミュニケイトに余計な時間がかかり残業代の話は日本の場合、知らないけれども、効率が悪いし、それよりもなによりも演奏の出来が悪くなると思うのだがいかがか。もっとも、ニューヨークフィルは1シーズン200回を上回る定期公演、こんなに極端でなくてもアメリカのオーケストラは概して公演回数が多い。そのため、効率重視。ユニオン制度はそれを後押しする良さがあるという一面もある。
話がそれましたが、この日のコンマスと指揮者の息がよく合っていると思いましたので、そのようなことが脳裏をよぎりました。ひとりコンマスでいいですよ。

ということで、英雄の生涯、ジックリと45分。ホルンの日高さんを筆頭に、ブラスとウィンドにトラが多いのが気になりますけれどもこれからどんどん正社員で埋めてほしいし、少なくとも全プリンシパルは正社員でやってほしい。日高さんがなればいいのではないのか、正社員に、と、それも脳裏をよぎる。
そんななか、めくれるような後半の頭、ブラスの活躍には目を見張るものがありました。上岡のメリハリ棒も光る。音楽が生きている実感。
最後のパッセージのピアニシモまでのもっていきかたは余計なタメを作らず比較的すーと終わらせましたね、濃さの中に、それにズブズブにならない指揮者がいる。最後はもう、あっさりした短いエンディングで締め。
これもいい演奏で満足。

そして思わぬアンコール、それもサロメ。びっくり。エキセントリックなサロメの踊りの描写がにじみ出ていたいい演奏でした。最後は迫力ありましたね。上岡の得意なオペラでしょうか。ぜひまるごと聴いてみたいです。

以上、
今日は上岡新音楽監督の就任記念公演。いい盛り上がりの演奏会でした。新日本フィルさんにはこの日の充実した演奏会、それよりもいい演奏をするんだという気概で毎回取り組んでいってほしい。
おわり


2182- 強力ソリスト多数、バッティストーニ、東フィル、2016.9.8

2016-09-08 23:21:19 | コンサート

2016年9月8日(木) 6:30-9:20pm サントリー

ブラームス ダブル・コンチェルト イ短調 17′11′9′
     ヴァイオリン、弓新(1992ボーン)
チェロ、水野優也(1998ボーン)

ベリーニ カスタ・ディーヴァ、ノルマより 7′  (S)砂川涼子
モーツァルト 多くのご婦人方、あなた方は、コジより 3′ (Br)谷友博
ヴェルディ 美しい恋の乙女よ、リゴレットより 6′
      ジルダ、砂川涼子(S)  リゴレット、谷友博(Br)
      マッダレーナ、鳥木弥生(Ms)  マントヴァ、樋口達哉(T)
サン=サーンス 愛の神よ、私を助けて、サムソンとダリラより 4′ (S)鳥木弥生
ジョルダーノ ある日、青空を眺めて、アンドレア・シェニエより 5′ (T)樋口達哉

Int

プーランク 2台のピアノのための協奏曲ニ短調  8′7′6′
       ピアノ、高木竜馬 北村朋幹(1991ボーン)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調  11′12′11′
       ピアノ、田村響


アンドレア・バッティストーニ 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


江副記念財団45周年記念コンサートに行ってきました。3時間ロングの演奏会です。
主旨から言ってヤングガイをメインにすえたもの。
プログラム的には、コンチェルト3曲でオペラアリアのピースをサンドイッチしたもの。

ブラームスのダブルコンチェルトはよく鳴っておりました。難しさがありありとわかるパフォームでしたね。
プーランクは大変にユニークな曲で、演奏はのりのいいもの。ただ、サントリーのピアノ音響は最悪で、それも2台ピアノとかになると限界越えの悪さですね。演奏する方も辛いと思います。
ラフマニノフの田村さんはもう何度も聴いている。そつなくこなしているといったところか。
オペラアリアはシンガーたちが選んだピースなのでしょうか。十八番、ツボにはまる。そんなところです。
バッティストーニは伴奏に終始。

色々と楽しいひと時でした。
おわり


2181- ユジャ・ワン、ピアノ・リサイタル、2016.9.7

2016-09-07 23:45:15 | リサイタル

2016年9月7日(水) 7:00-9:45pm サントリー

シューマン  クライスレリアーナ  28′

カプースチン  変奏曲op.41  6′

ショパン バラード第1番ト短調op.23  9′

Int

ベートーヴェン  ピアノ・ソナタ 第29番変ロ長調  12′3′16+12′

(encore)
シューベルト(リスト編)  糸をつむぐグレートヒェン  3′
プロコフィエフ  ピアノ・ソナタ第7番第3楽章 4′
ビゼー(ホロヴィッツ編)  カルメンの主題による変奏曲  3′
モーツァルト(ヴォロドス/サイ編)  トルコ行進曲  2′
カプースチン  トッカティーナop.40  2′
ラフマニノフ  悲歌op.3-1  4′
グルック(ズガンバーティ編)  メロディ  3′


ピアノ、ユジャ・ワン


この前の日曜に神奈川県立音楽堂にユジャを聴きに行ってきまして、今日は2回目。
2016.9.4(日)リサイタルはこちら

その日と同じく前半プログラムは変更。日曜はクライスレリアーナ、カプースチン変奏曲、この2曲に変わったが今日は、その2曲にさらにショパンのバラード1番を追加し、前半だけで3曲の1時間コース。

クライスレリアーナの1音目から始まりました。が、あらためまして、サントリーホールの音響の悪さをまず実感。いつものことながら、ピアノの縁取りがピンボケになるというか、もやーとしてしまう。コンチェルトでも同じで曇り空の先を、目を凝らして見る感じ。
どなたの時か忘れたが高音ピッチがフラットになっていくのを明瞭に聴くことがあった。あのときは他の方も同じ感想があって、このホールの音響の悪さはピアニストにとっては弾く前から、何も悪いことはしていないのにペナルティーを科せられたようなもので、大いにマイナスですね。
神奈川県立音楽堂とは比べものにならず、上野の大小はここよりはるかにいい。サントリーは来年前半、半年かけて改修するようなので、音響の改善もしてほしいものだ。ピアノだけでなく全てのインストゥルメントで同じような傾向だと思いますし。
まぁ、著名演奏家出演の時は、聴衆側もある程度、音を補正して聴いていて、イメージをより正しい方向に持っていっているのではあるまいか。このホールでやる力量のプレイヤーは相応に大変だと思う。
今日の最初の直感としては、ユジャさんはもしかしてこのホール音響の悪さを認識しているのではないか。


こんななか、ピアニシモからメゾフォルテあたりのアンプリチュードで弾くユジャの極美ニュアンスは、上記の事を少し忘れさせてくれる。ガラスのようなピアニシモは耳をそばだてるほどに切れ味良く、美しい。どこにあっても物憂げなフシが多くを占めるシューマン。ドロリとしない彼女のピアノは現代的だと思う。これまでに無い感性だと思います。
ドロリとしない。起伏のあるパッセージでフォルテからピアニシモに移るとき、情を込めたようなタメのようなものを一切作らない。それでいて角張ったところが無くて自然な進行に聴こえてくる。彼女の技でしょうね。こういった自然な技はベートーヴェンではさらに生きてくる。打楽器さながらのいかついた叩きは彼女の頭の中にはなくて、これを聴いている聴衆もそんなことはワイプアウトされている。
クライスレリアーナ、なんだかとっても小品に見えました。

2曲目のカプースチンの変奏曲。憂さ晴らしといっては語弊があるかもしれないが、プレイヤーではなく、作曲者がシューマンに対しての憂さ晴らしのような曲に聴こえてしまう。この前聴いて今日も、立て続けに2回聴くと底の浅さが見えてくる。理解が深まる感覚とは異なる。
前半の締めはショパン。最初のシューマンと同じようにウェットなところがない。ドライな義務的な表情も無い。輝くガラス細工。暗さと明るさが綯い交ぜになった曲。響きは精緻を極めほれぼれする中、ホール音響の事はようやく忘れることが出来た。美しい演奏でした。


後半の大曲。いきなりミスタッチからスタート。すぐに立ち直りました、といいますか、それは聴いている側の心の動きだけなのかもしれない。
この前の演奏と同じように、第3楽章全部、それに終楽章の序奏部分、ここらあたり、普通の演奏とだいぶ印象が違う。この前はラヴェルの新作を聴いているようなフレッシュな感覚と書きましたけれども今日も同じような錯覚に陥った。このアンダンテ・ソステヌート、隙間をまるで感じない。この空気感。別次元の位相。
音の強弱は何層もありそうだ。それもシームレスに変えられていく。微妙な強弱で流れていく。極美ニュアンス。
正確で均質な音価レングス、冷静なコントロールとバランス感、知的な奥行きフィーリング。
色々言葉が出てくる。
両指が大きく広がり、同じレベルの意思が働いているのか、ぶれがなく均質に鍵盤が押さえられていく。ピアニシモの清らかな流れは聴きものですね。ベートーヴェンが聴いたらどう思うだろうか。心の耳。
素晴らしい表現力。位相が格段に違う別次元ベートーヴェンワールドを満喫しました。
ありがとうございました。

鳴りやまぬブラボーと拍手。アンコールはなんと、7曲。実力と人気兼ね備えたスーパーピアニストに誰も帰らない。自席からよく見えたタッチパネルの譜面を持って下がったところでようやく、幕。


ホールは主催者側でおそらくコントロールしているバックのP席以外は満員の盛況。
P席は3,4列ほど埋めていたようですが、それを見た客が後半、ほかの席から移ってきて空いているところに着席。スタッフに自席に戻されていたが、女性6名がスタッフの指図に従わず頑として動かず、と見ました。これで後半開始が少し遅れましたね。別席から眺めていると、彼女たち自分たちの立ち位置が見えていないというのがよくわかって興味深いものがあった。
なぜP席上部を空席にしたのかは主催者に尋ねないとわかりませんが、当夜は収録するということだったので、もしかしてあすこらあたりに座っていた方々は事前に映されていいという承認をしていたのかもしれない。(想像)

ユジャさんは、前半、薄いパープルのロングドレス。後半、シースルー風のロングドレス。この前とは少し違いました。
おわり
 

 


2180- 柴田南雄、萬歳流し、山田和樹、東京混声合唱団、2016.9.6

2016-09-06 23:44:27 | コンサート

2016年9月6日(火) 2:00-4:30pm 神奈川県立音楽堂

里の秋/故郷/見上げてごらん夜の星を/蛍の光
春の小川/雨降りお月さん/かもめの水兵さん/夏は来ぬ
以上8曲 32′
ピアノ、小林有沙

柴田南雄 萬歳流し (1975)  14′

Int

上田真樹(曲)/林望(詩) 混声合唱とピアノのための組曲「夢の意味」 20′
ピアノ、小林有沙

みかんの花咲く丘/うみ/リンゴの唄/おもちゃのチャチャチャ
幸せなら手をたたこう/思い出のアルバム/今日の日はさようなら
以上7曲 28′
ピアノ、小林有沙

(encore)
森田花央里(曲)/葉祥明(詞) ひかりの世界からの手紙 (世界初演) 3′
ピアノ、小林有沙

 

山田和樹 指揮 東京混声合唱団


柴田南雄生誕100年、没後20年。この前(2016.9.2、2016.9.3)、両日にわたりヤマカズと日フィルによる「コンソート・オブ・オーケストラ CoO」を聴いてあらためまして、いたく感動。
柴田南雄イヤーにつき色々と聴けるのはいいですね。この日は「萬歳流し」を聴きにいってきました。CoOに比べたら頻度はあると思います。自分としては初めて観る聴く。
指揮は日フィルのときと同じくヤマカズ。音楽監督として東混を指揮。
柴田のシアターピース2作目。現地での音源採取がオリジナルで、アレンジはしない方針で作ったとのことなので当地でのリアリスティックな世界を聴ける。合唱の素材としての活用という話ではなくて、シアターピースを作るうえでジャストな素材がこれだったということだと思います。

東混としては比較的慣れた作品かなとは思いますが、何しろこちらはお初です。色々とわかりました。
舞台の照明を落とす。照明を落としても聴衆のおしゃべりは全くやまず、トーンダウンもしないものでちょっとこちらとしては正直なところ先が心配になりました。また遅刻入場者もここでは常識のようで、暗くなっても普通にバタバタと出入り。萬歳流しの前にあった日本の歌も色々と煩わしかった。これは席を中央横通路のドアの近くにとったからだろうとあきらめ。横通路の上の一列目だったのでユジャ・ワンのとき(2016.9.4)のような席の狭さはありませんでした。
それで、照明を落としてしばらくしてから、その横通路の両方のドアから女声合唱グループが入り、すぐに壁伝いに舞台の方に向かって1列整列。
男声陣は舞台上に非対称にポジショニング。ピアノは使わないので中央が空く感じでひな壇に闇の中、彼らは立っている。
光がさし、1組の太夫と才蔵が前に。そしてこの2人で萬歳が始まる。喋りと掛け合いの呼吸、2人のリズム、素晴らしく、息もよくあっている、大変にノリの良いもので躍動するものだ。
歌が進むにつれて、6組ほどの太夫&才蔵の組み合わせは舞台から聴衆席の方に掛け合いながら散らばってくる。小鼓はぐっと控えめな拍子道具。
ヤマカズはどこ?と、舞台の上で太夫か才蔵かわからないが彼らと同じ装いで一人指揮を始めている。開始と回数を指指示している。ここらへんはCoOでのトーンクラスターのところと同じ指揮指示ですね。
両壁に並んでいた女声グループは舞台に移動し、斉唱を始めている。会場に散らばった太夫&才蔵の歌は加熱してくる。あらまぁと、おひねりを出す客も何人かいますね。なかなかいい雰囲気になってきた。会場のあちこちで萬歳が騒然となるなか、太夫&才蔵も舞台へ戻っていく。ヤマカズの指揮は明確なものとなってきて盛り上がりが爆発してエンディング。
この日のヤマカズは全てタクトをもたず両腕で柔らかく指揮。振る姿はオーケストラの場合と同じです。この萬歳流しはシアターピースであり、あちこちと向きながら指揮をしなければならないが1000人ほどの収容サイズのホールで、手ごろな感じですね。
シアターピースの萬歳流し、下に示すような資料を読んでも、じゃぁ、具体的にどのような場所で、誰に見せていたのか、わかりませんね。昔は各家々にまわり、家の前でもやっていたのではないのでしょうか。その記憶は人によっては掘り起こせるような気がしないでもありません。潜在化した記憶は何かのきっかけで表にでるものかもしれない。
この日の演奏は14分ほどで終わってしまったので、アドリブによる伸縮だけではなくどこか割愛していたのかもしれない。もう少し長い作品と思います。
聴くほうとしては色々周りのコンディションなども含め再度じっくりと聴かせてくれる場に出会いたい思いがありますね。これ実感。

柴田南雄の作品、ここ1週間ばかりの間に2作品聴いたことになります。コンソート・オブ・オーケストラ、萬歳流し、全く違う作品。作曲家としての振幅の大きさ、時代をつかまえる感性の鋭さ、表現の鋭さと多様性。見事ですね。9月からコンサートシーズンになり今年中に柴田作品をまだまだ聴けそうです。
おわり


参考資料

1.
法政大学アリオンコール HISTORY
第2部 企画特集 委嘱作品一覧    法政大学アリオンコール 委嘱作品一覧
1975年
柴田南雄「萬歳流し」

2.
柴田南雄「萬歳流し」
歌詞


2179- ユジャ・ワン、ピアノ・リサイタル、2016.9.4

2016-09-04 23:04:30 | リサイタル

2016年9月4日(日) 2:00-4:30pm 神奈川県立音楽堂

シューマン  クライスレリアーナ  28′

カプースチン  変奏曲op.41  6′

Int

ベートーヴェン  ピアノ・ソナタ 第29番変ロ長調  11′3′16+12′

(encore)
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ第7番より第3楽章 4′
ラフマニノフ  悲歌 op.3-1  5′
カプースチン  トッカティーナ  2′
ショパン  バラード 第1番 op.23  8′
モーツァルト トルコ行進曲(ヴォロドス/ファジル・サイ編曲) 2′

ピアノ、ユジャ・ワン


前半のプログラムは大幅に変更になりましたが、後半のベトソナは生き残り、ちょっと遠いところでのリサイタルでしたけれども来たかいがありました。ベトソナは聴いたこともないような演奏でびっくり。

アナウンスされていたプログラム前半は、スクリャービン4番ソナタ、ショパン即興曲2番3番、グラナドスのゴイェスカスから2曲、ということでしたが上記の通り跡形もなく変更。事前に変更するような気配ノーティスありましたけれども、いざベルが鳴り聴衆全員着席してから、変更プロのアナウンスがあるとさすがにどよめきがありましたね。良しなのかどうか人それぞれとは思います。

最初のクライスレリアーナは、6月に木村さんのピアノで聴いて以来です。(2016.6.8)
背中が割れた例の黒のロングドレスで現れたユジャさん、あっさりと弾きはじめる。物憂げな旋律が魅惑的な曲。やや硬質、ねばらない、すっきりテンポ、でも緩徐曲は隙を作らないスローさ、これは本当に独特。間延びしないゆっくりテンポで、どうやればこのようなうまい表現が出来るのか。音符と音符の間に瞑想的で思わせぶりな思考隙間を作るのではなくて、沈殿していく風でもなくて、ウェットさを感じさせることもなく。空気は潤いよりもドライな風味。
この説得力はなんだろうと思ってしまう。ひとつ、正確性が何にも勝っているのがまずあるのかなとは感じる。正確な弾きを極めてからのくずし、くずしというのはちょっと違うか、均質な伸ばし、数学的に理にかなった音符比率で伸縮していく。幾何学的な模様が立体的に伸縮を繰り返しているように聴こえてくる。彼女の中に規則があって、それはたぶん天性のものだから規則などというのもおこがましいが、なにか他にはないような法則がありそうだ、感性とはちょっと違うかなとも思う。
あと、表現の幅が凄いですね。いろんな方のいろんな得意技を全て包括しているのではないかと思えるぐらいだ。
乾いた尾根に小雨が滴るようなクライスレリアーナ。ウェットなものはあとでやってくる。聴後感はそんな感じ。素晴らしく美しい出来上がりのシューマン。

前半2曲目はカプースチンの変奏曲。初めて聴くもの。
クラシカル風味なものに、リズミックでジャジーな雰囲気が混ざっている。斜めに突っ走るそんな感じの曲。クライスレリアーナとはまるで違う曲。ユジャさんの指技が味わえました。
席がセンターのかぶりつきで指の動きがよく見える席でしたし。あとのアンコールでもそうでしたがあの指技は神技ですね。速くて見えない。

後半のベトソナ大曲。
500円のプログラムにはベートーヴェンのことは特に書いてありませんでしたが、ドイツ物のレパートリーや録音を拡大していきたいようなお話は書いてありますので、その一歩なのかもしれません。いきなり大作の29番からですかね。
跳ねるような音符、快速な第1楽章から。ベートーヴェンの響きが満たされている。主題は1も2も、それに提示部、展開部も全部ひっくるめて一気に、あっという間の第1楽章。続く短いスケルツォは、もう本当にあっという間に終わってしまう。まぁ、ここまではベートーヴェンだ。硬質でガラスのような、様々な響きをタップリ堪能できる。短すぎて惜しいぐらい。
そして、一呼吸おいてアンダンテ・ソステヌート。これが聴いたこともないような演奏。音符はタップリと隙間だらけなはずなのに、それに前の響きが収束してから次の音に移っていく局面もあるのに、音楽がつながっていく。響きの具合はまるでラヴェルの新作ソナタでも聴いているような生まれたばかりのみずみずしさと透明なガラス、ジャングルジムの骨組みからあちらがよく見えるような。それ以上に今まで馴染んでいたはずの聞き覚えある楽章の響きではないのだ。初めて聴くような音楽で、それはベートーヴェンでもなくて、やっぱりラヴェルの新作風味。ラヴェルが生きていたら書きそうな音楽という話だが。
かすかに31番の第1楽章のような趣きを感じるところがあるのは、彼女が31番を弾けばそうなるだろうという淡い予測にすぎないけれども。
とにかくこの神プレイ、かなり、真剣に驚いた。フレッシュすぎる。それに、あの、大家たちのような深い思考の森へ、といったベートーヴェンではないのですよね。全くの新たな世界。
ということで前2楽章とは位相が異なる別世界へ。彼女の音を探り当てるのに軽い興奮を覚えました。

そして終楽章の序奏へ、これがまた第3楽章との境目がまるでわからないもの。アタッカとか言ったありきたりの話ではなくて、彼女の中ではつながっているのではないのか。序奏のアトモスフィアは3楽章のまま。フーガの開始で覚醒。そのくらい繋がっている。驚きました。聴いたこともないような演奏です。この3,4楽章は一瞬、ユジャさんが間違って別の曲でも弾いているのではないかと思えるぐらい、こちらの脳が錯覚模様の別次元のパフォーマンス。
こうなると、フーガも、もう、ベートーヴェン越え。なんか、何を聴いているのかわからなくなる。アンビリーバブルな演奏。放心状態のままエンディング。

後半のこのプログラムでは黒からシルバーのドレスに。今度は超ミニの超ハイヒール、わかっていることとはいえ、かぶりつきで見ていると目のやり場に困ることもあったが演奏が凄くて目をつむるわけにもいかない。。ハンマーでぶちのめされたような心地よさでした。
凄いピアニストもいるもんだ。

アンコールは5曲!、最後のモーツァルトは完全なショーピース、ヴォロドスとサイが束になってかかってきても負けないだろう、俊敏過ぎる両手、速くて見えない。凄い演奏。
他の4曲のアンコール、切り替えが見事ですね。すぐに別の曲に集中していける。多彩な表現で思う存分楽しみました。ありがとうございました。
おわり


このホールは初めて来ました。席がとにかく狭い。横へも前にも身動きが出来ない。それに駅からの登り坂。坂は若い人には問題ないと思うが、席の狭さには耐えられないかもしれない。