河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2040-  ベスト&ワースト・パフォーマンス2015

2015-12-30 16:32:40 | コンサート・オペラ

2015年はオペラやコンサートに145回通いました。2014年は146回でしたので1回減りました。
食指の動くものを中心に聴いていますので、同じ公演プログラムに複数通うこともあって、偏りは大変なものですね。

ということで、自分なりのベスト・パフォーマンス、ワースト・パフォーマンスを選んでみました。複数通いについてはかっこの中に通った回数をいれました。

【オペラ・ベストテン】
1.オテロ、沼尻 神奈川フィル
2.ラインの黄金(6回)、 飯守 オペラパレス
3.サロメ、 バークミン デュトワ N響
4.ワルキューレ(2回)、 ヤノフスキ N響
5.トリスタン(2回)、 カンブルラン 読響
6.ドンジョ、 パッパーノ コヴェント
7.ワルキューレ第1幕(2回)、ブラビンズ、名フィル
8.リゴレット、 バッティストーニ 二期会
9.トスカ、 イェンセン オペラパレス
10.椿姫、 アベル オペラパレス

次点
1. ダナエの愛 メルクル 二期会 (演出問題で次点)
2. パーセル 妖精の女王 寺神戸亮 レ・ボレアード

【オペラ以外ベストテン】
1.ブルックナー9番、ティーレマン、ドレスデン
2.リスト 前奏曲(2回)、 ノセダ N響
3.アイヴス 答えのない質問、 カンブルラン 読響
4.死と変容、静寂と反転+ミサソレ メッツマッハー 新日フィル
5.ルトスワフスキ チェロ協、ウィスペルウェイ リントゥ 都響
6.タコ8とトーク(2回)、タコ9(2回)、タコ11(2回)、ボロ2、ラザレフ 日フィル
7.わが祖国 ビエロフラーヴェク チェコフィル
8.ガーシュウィンpf協、ラウンド・ミッドナイト、リットン ピアノと指揮 都響
9.シベリウス567 ヴァンスカ 読響
10.ハイドン 十字架上のキリストの最後の7つの言葉、 ロト 読響

次点
1.クッレルヴォ、新田ユリ、アイノラ響、2015.3.3
2.シュマ1 ブラ3 阪 日フィル
3.チャベス シンフォニア・インディア バスケス エルシステマ
4.タコ15 (2回)、 ノット 東響
5.GM3番 デュトワ N響

特別賞
モツpf協12、ラフマニノフ2番、フライシャー ピアノと指揮 新日フィル

【ワーストファイヴ】
1.パルジファル抜粋、ペンダ ノット 東響
2.エロイカ、 サロネン フィルハーモニア管
3.GM1、 下野 読響
4.エグモント、ベト7、エロイカ ソヒエフ DSO
5.GM1 幻想 (2回)、 エストラーダ Hr響

【番外1:奇声もの】
2015年最初の観客奇声ウリャー 田園 阪 東フィル


【番外2:落差あり過ぎ企画】
モツ全曲公演、素晴らしい企画ながら、耳慣れない2千円のプログラムを買わないと演奏進行タイムチャートが不明という未聞なもの。


【番外3:今年発掘した昔の記事】
巨匠との対話 デニス・ブレイン、語る人:千葉馨

以上

 


2039- 第九、インバル、都響、2015.12.25

2015-12-25 22:06:05 | コンサート・オペラ

2015年12月25日(金) 7:00pm 東京文化会館

ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調  15′11′16′23′

ソプラノ、安藤赴美子
アルト、中島郁子
テノール、大槻孝志
バリトン、甲斐栄次郎
合唱、二期会合唱団

エリアフ・インバル 指揮 東京都交響楽団


インバルの棒というのはヤノフスキなんかと同様、叩きつけ派で、突き上げ派に見られるような音の出はここらあたりどこでも可能といった呼吸の不揃いの確率が高くなるやりかたのファジーな部分を嫌っていることからくるものと推測されます。それがデフォの前提ですから、プレイヤーはまずそこまで意識レベルを上げてからの演奏行為となるわけです。インバルの作戦勝ちと言ったところもありますが、若いときに彼の時代の時代音楽やいわゆる現代音楽を振っていればこその今という話しでもあります。正確性は彼の要求の前提でしかないということ。
そのようなことを頭に描きながら観聴きしているとなるほどと思うことはたくさん出てきます。コントロールと開放。コントロールは彼が振るという行為により、つまりポーディアムに立つことによる存在自体が、このオーケストラにとって既に解決しているものとみるべき。ですから聴衆が聴くのは開放の音楽です。素晴らしい、というより、凄いという話にもなるわけですね。

まぁ、一言でいうと第九のレベルが高い。

インバルの指示は非常に的確で明快。彼の得意とするテクスチャの浮かび上がらせ、これがこのオーケストラの明るくて硬くて一見、録音向き的なサウンドに合致していて見事に出てくる。インバルの指向性がこのオーケストラと一致しているかどうかは別の話しですが、このようなオーケストラ・サウンド表現で解決されるケースもあるということです。
パシーンパシーンとインストゥルメント単位に揃って研ぎ澄まされた鋭角的な響きは露骨ではあるが正しく分離したサウンドは聴く者に生理的快感をもたらすのですね。ティンパニが硬すぎて強すぎるのが個人的には耳障りでなんとかならないものかと思いますが、これはこのオケをドライブする上で必要なものだとインバルは感じているふしがありますね。歌えるティンパニがリズムを正確に取る、これが理想かもしれません。一流を感じさせるにはこういったことがクリアできていないとなかなか世界でトップレベルオケとまではいかないのかもしれません。

したがって、インバルが年月とともにこのオケへの要求が高くなるのは、良いことで、正しいことでもあります。


合唱、ソリスト登場はともに第2楽章後。ソリストは合唱とともに奥の最前列。甲斐さんはじめ柔らかで充実した響き、このオーケストラとのソノリティは聴く側の問題なのかもしれませんけれど、一致したものではないが、年末ですし。

3楽章ホルンソロは1番さん。
因みにホルンをはじめとした作為的な表情はここには無く、パーヴォ・ヤルヴィ&N響ではかなり感じた。インバルが一枚上と思う。
おわり


2038- ヘンデル、メサイア、鈴木雅明、bcj、2015.12.23

2015-12-23 20:54:42 | コンサート・オペラ

2015年12月23日(水) 15:00-18:00 サントリー

ヘンデル  メサイア HWV56   53′、54′、32′

ソプラノ、シェレザード・パタンキ
アルト(カウンターテナー)、クリストファー・ローリー
テノール、ダン・コークウェル
バス、ベンジャミン・ベヴァン

鈴木雅明  バッハ・コレギウム・ジャパン

(enocre)
きよしこの夜 (無伴奏)  4′


デューレーション
1部 36′(11曲まで)
Sb 1′
1部 18′(12曲ピファから)

Int 20′

2部 53′
Sb 4′
3部 32′

ヘンデルのサムソンは、昔メトで観たことがある。1986年に8回だけ舞台上演され、そのうち第4回目のを観た。(※1)
舞台上演できるのは登場人物がいるからなのだが、それでも長いメトの歴史で1985-1986シーズンに8回行われただけ。このときのヴィッカーズをタイトルロールとした劇にいたく感銘を受け、それ以来ヘンデルのオラトリオものはちょくちょくとCD漁りなどをしている。

1741年8月から1カ月弱で完成させたメサイア、そして筆をおかずすぐに1カ月強で完成させたサムソン。メサイアは登場人物はおらずいわゆる朗読ものでサムソンとは異なるオラトリオで、ドラマチックな部分に置いてサムソンは圧倒的だと思う。
この日聴いたメサイアでも2部の中間から音楽はがらりと華麗に様変わりし劇的になっている。サムソンの世界に足を半分突っ込んだ状態になっている。

第1部、2部前半まではストイックさが勝り、くすんだかなり渋めの曲が連続し、この演奏団体の味わいのよく出たバッハ風な色合いが濃い。ソリストのアリアは、テノール、バス、アルト、そしてピファの前に一服置いて、柔らかな膨らみと広がりのある田園曲が始まりソプラノの出番となる。ここからはソプラノの出番が多くなり、圧倒的な歌唱。アルトと同質的な響きの主張が心地よい。バスとテノールは語りの色彩感が覆いかぶさる。合唱は響きの強さにおいて女声のほうが男声に勝っている。ちょっとバランスがいまいちと思うのだが、これは普段、正三角形のオーケストラ音場構成感に耳が慣らされているからなのだろう。聴いているうちに、各声部の均質性にこそ耳を傾けるべきだろうと段々思うようになっていった。
個人的には宗教には関心が無いので響きへの興味一辺倒なのだが、歌詞に感動を受けやすいタイプなので、内容の深さはある程度分かる。
プログラム冊子に英語と日本語の対訳は載っているが暗くて読めない。なぜ字幕をつけないのだろうか、つけてもいいチケット価格です。入っている聴衆の濃さも感じるのだが、宗教であれ何であれそれらを越える理解の伝播とはそういうものと認識もすべし。極度の美化は滅亡を招く。

ショートブリーフを置いたのち始まる田園曲、豊かな音楽、もうここのあたりで第1部は締めモードと自然に感じる。
休憩後の第2部、3部、ここに休憩は無く連続演奏となる。2部後に拍手があり長めのショートブリーフこそあれインターミッションが欲しいところですね。3部は1部や2部の半分のレングスですが、ここは音楽の高まりと冷却、休憩をいれるべきと感じる。

それで第2部、最初のほうはストイックな朗読歌唱が1部からの余波のように続いていく中、28からのソプラノのレシタティーヴォとアリア、そして合唱あたりから少しずつ音符が小刻みになり運動が目立つようになり、それはもちろん朗読内容と合致したものですが、受難と復活よりは福音の広がりと神の勝利のほうにウエイトがあり、刻みを濃くすることによる音楽の律動、そしてハーモニーを重ねることによる広がりや深みを一段と感じる。編成自体は全く小さいもので音響には限界があるけれども相応な劇性の手応えはあります。
やや急な坂道、だけれどもデコボコでないストレートな坂道、それを登っていくようなヘンデルの音楽と歌詞との一体化した高まり感は圧倒的です。
ハレルヤでは起立している人がLBから可視で18人ほど。また、立つように促している人が数人いました。まぁ、立っている方々は通路とか壁席の人が多く、はやい話、まわりに迷惑がかかりにくいポジションの席の人たちが立っている雰囲気で、本当は意思としてはもっと多かったのかもしれませんけど、王様真似起立は自分には馴染まないものです。音楽を味わうには邪魔です。ヘンデルの斜め45度坂上りの音楽の高まりを身を持って聴いている最中の人の動きは変な違和感が残るだけです。King of Kingsのくだりのあたりで王は勘違い立ちしたのではないでしょうか、と勘繰りたくもなります。

この第2部の中間部から〆のハレルヤまでの圧倒的な音楽の盛り上がり。インターミッションが欲しいところですが、残念ながら無し。確かに3部は短いものなのですが、連続させると整理体操みたいな雰囲気になってしまいます。アメリカのプロレス番組の構成は今は知りませんが、メインイベント大格闘のあと番組は終わらず、軽量系の、もう一試合を整理体操的に流して興奮を冷却して終わる構成。まぁ、あれを思い出しました。
ここは整理体操ではなく、死の克服なのです。並んだ朗読内容も言葉の上でもものすごく説得力のあるもの。そしてヘンデルの味付けは一層ドラマチックになる。レングスバランスとか関係なく、音楽の深度の意味合いに置いて、ひとポーズ欲しいシリアス局面ではあると感じました。
指揮の鈴木さんは最後の合唱での高まりではルバート多用気味になり劇性の表現もものの見事に決まっておりました。ストイックで清らかな表現から、ここの着地までまき散らされたバリエーションの数々。合唱の一本筋のような響き、鋭い閃光のような合唱はお見事の一語に尽きる。オーケストラは、特に主体の弦はプレイしっぱなしで大変だと思います。渾身の演奏でした。緊張感をこのように連続させるのは大変なストレスかと思います。オーボエももちろん。
ティンパには少し強すぎると感じたところがありました。通奏低音はチェンバロに息子さん、この前、芸劇でトゥーランガリラを振りましたけれど、あのときとはまるで違う、音楽の温室のなかに浸りきって音楽を奏でられる幸せを見ました。
低弦には締まりが増せばさらによかったと思います。特に合唱の鋭角的な響きにうまく合致させるとさらによくなったことでしょう。

無伴奏のアンコール曲、きよしこの夜。合唱はさらにストレートで鋭角さが増し、張った響きが素晴らしい。3番までありましたけれど、一本の糸のような合唱和声の妙と指揮の多彩なニュアンス、この日一番静かなホール。
無伴奏合唱なのに、チェンバロの息子さんがお父さんの指示でスタンディングしていたので編曲したと推測されます。
メサイアからきよしこの夜への流れは演奏会モードとしては最高でしたね。
素晴らしい演奏会ありがとうございました。
おわり

(※1)
1986/2/15(土)8:00-11:40pm メトロポリタン・オペラハウス
ヘンデル サムソン
ジュリアス・ルデール、ジョン・ヴィッカーズ、レオーナ・ミッチェル、ジョン・マッカーディ、キャロル・ヴァネス、他


2037- 第九、パーヴォ・ヤルヴィ、N響、2015.12.22

2015-12-23 12:54:30 | コンサート・オペラ

2015年12月22日(火) 7:00pm NHKホール

ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調  13′14′12′23′

ソプラノ、森麻季
アルト、加納悦子
テノール、福井敬
バリトン、妻屋秀和
合唱、国立音楽大学

パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 NHK交響楽団


第3楽章がやたらと速い、とは感じなかったのですが、とにかくティンパニがポンポコと跳ねるような感じでそれがやたらと強調されている。弦のリズミック強調やピチカートなども含めスタッカート状態の切れ味で。まぁ、ユニークな解釈です。また全般的にフレーズのはざまにタメを作らない棒で音楽の息吹は有りません。ゼンマイのような流れです。これはこれでダイナミック。

妻屋さんは朝飯前、福井さんはいつものまじめ気張りで、シックな加納さん、派手ドレスの森さん、コーラスと一緒に開始前入場。

第3楽章のホルンソロは1番の福川さん。その前後の上と下も一人で吹いていましたので、指揮者解釈による奏者変更指示があったのかもしれません。

年末第九価格とはいえ高いチケットです。
おわり


2036- 3曲、デュトワ、N響、2015.12.16

2015-12-17 16:55:23 | コンサート・オペラ

2015年12月16日(水) 7:00pm サントリー

コダーイ ガランタ舞曲  17′
バルトーク 中国の不思議な役人、組曲  19′
Int
サン・サーンス 交響曲第3番ハ長調  11+10′、8+7′

シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団


この12月、デュトワはサロメ、マーラー3番と名演奏が続きました。締めはお得意の3曲構成のプログラム。
プレイヤーのほうは名演奏後の燃え尽き症候群が少し見られましたけれど、デュトワの棒はそうとうに厳しいものなのでしょう、ここにきて少し緊張の糸が少し緩んだのかもしれませんね。

それにしてもエネルギッシュな棒です。高年齢ものともせず上下移動が大きいわかりやすい棒。コダーイのダイナミックな色彩感もさることながら、マンダリンが後半にかけてまるでハルサイのような具合になっていくのが凄い迫力。ずっーとオーケストラを押していく、このドライブがやっぱり並の指揮者ではないとあらためて感じます。
緊張で張りつめていた前2週のオケ、快活さがだんだんと戻ってきます。やっぱりプレイしているのが一番、そんな雰囲気が出てきました。

サン・サーンスはその精神的アンプリチュードが安定した演奏と、手に取るようにわかる。
オーボエ青山さんは茂木さんよりもビブラートが濃く、個人的にはこちらが好みです。
この曲は各楽章2部構成でその違いというか輪郭がよくわかる演奏で、弦の落ち着いたアダージョ、ダイナミックなブラスセクション、自在な緩急、よく整理された演奏でお見事でした。

サン・サーンスのホルンの出番は3番4番がメインですので、プリンシパルはコダーイの冒頭、あすこに焦点を置いた吹きになったのでしょうか。

いい演奏会でした。
ありがとうございました。
おわり


2035- ルーセル、バッカスとアリアーヌ、ブルックナー0番、ミンコフスキ、都響、2015.12.15

2015-12-16 02:40:05 | コンサート・オペラ

2015年12月15日(火) 7:00pm サントリーホール

ルーセル バレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」第1組曲、第2組曲 17′、20′

Int

ブルックナー 交響曲第0番ニ短調 (ノヴァーク版)  15′13′6′10′

マルク・ミンコフスキ 指揮 東京都交響楽団


0番は1番と2番の間の作品。
2番とは桁違いにうぶな曲とは思いますが、ミンコフスキの作品解釈は、このあと2番から9番までの素晴らしい曲があるのだよ、それらを知っているよね、そのうえでこの0番もこう鳴るべき曲なのだ、と言っているような素晴らしいものでした。例えば第2楽章の大団円と言いますか、大きく弧を描く様なスケールの大きな弦の響きはまるで4番とか7番でも聴いているようなおもむき。早い話2番以降の響きの世界を体現している。
全体に力感があり、大きなフレージング多用で、また強弱の落差も大きい。弱音フレーズでの細やかな音の表現まできっちりと。チェロとベースの雄大な響きは特筆すべきものでした。聴いていて脊髄に快感が走りました。スケルツォのブラスセクションはバリバリ鳴らして相変わらずドライフラワーみたいなもので深みがないが、表面的なダイナミズムの世界はブルックナーの特質の一点も示しているわけでそういう意味ではそんなに悪い話でもない。

ミンコフスキはあとの曲をイメージしていてフォルムはそんなに追いかけていないと思われるのだが、後続曲をイメージすれば自然に形式感が出てきて、ブルックナーの構造はそれなりに輪郭が浮き上がってくる。
第4楽章は序奏があって、主題は2つのみ。第1楽章は3主題かろうじて見えるが、ブルックナー比率から言って、展開部は極度に短いと思われる。提示部と再現部がロング、それにコーダも。第1楽章が一番スケールが大きく、聴く方も構造の聴き応えがある。手応え十分です。
緩徐楽章の弦のうったえは素晴らしく、ブルックナー初期の作品のウエットな響き楽しめました。エンディングもものすごく印象的。ミンコフスキのナイーブな神経を見る思い。

ミスターSとはまるで別世界のブルゼロ、色々と楽しめました。


前半のルーセルは明るい響きの曲でシンフォニーにあるようなエンジンのかかるような前進具合や、あまり瞑想しない静けさなど印象的。このオーケストラにあっている響きですね。収録して商品化できそうな曲です。
おわり

PS
ミスターS、読響、ブルゼロ

2014.10.9

2008.9.22


 


2034- グロリア・カンパネール、ピアノ・リサイタル、2015.12.14

2015-12-14 23:38:47 | リサイタル

2015年12月14日(月) 武蔵野市民文化会館 小ホール

シューマン 子供の情景 op.15  17′

ベートーヴェン ピアノソナタ第23番ヘ短調 熱情  9′+5′+5′

Int

ラフマニノフ 幻想的小品集op.3より
       エレジー、前奏曲、道化師  5′、4′、3′

スクリャービン  練習曲op.2-1   5′
スクリャービン  詩曲「炎に向かって」Op.72   3′

プロコフィエフ トッカータ op.11  4′

ピアノ、グロリア・カンパネール

(enocre)
ドビュッシー 月の光  4′
アルヴォ・ペルト Fur Alina  アリーナのために 1′


実のところ熱情を聴きたくて、ちょっと遠出でしたが出向きました。このホールもソリストもお初となります。
1986年イタリア産、スレンダーな大人美人で黒のロングドレス、ちょっとハイヒールが高い気もしましたが、着こなし歩きこなし、見られ慣れしているようで、いいですね美人は。
もったいぶったところが無く、自意識過剰も無い、あっさりと弾き始めます。目をつむるような瞑想ピアノではまるでなくて、目を大きくひらいてじっと何かを睨みつけるような感じ、そして時折、満足の不敵な笑顔。殊の外、音楽に集中しているピアニストと見受けました。

ざっくりと、子供の情景は音のふくらみが感じられました。熱情はかなり激しくアゴーギク多用でテンペラメント。ラフマニノフはロマンティックでスクリャービンはより現代風、プロコフィエフはヴィルトゥオーソの時代を思い出させる。


子供の情景を聴いていて、音に太みがあるなぁと、暖かなオレンジ色の音色で隙間が無くてやさしい。1曲ごとに曲想に沿い明確に表情を変えていく。カンパネールは姿勢が良くて見ていて気持ちがいい。強音でビクつく弾きっぷりは癖だと思うが、気の入れようのクセというより現代音楽のショートフレーズに細かく対応して出来上がった形のような気がしないでもない。憧憬のようなロマンティックなワードとは別の引力。

熱情はベートーヴェン中期のやりつくしの作品で、運命動機がどうのこうのというより、叩きならあの音形しかないだろうと思わせるに十分。荒れ狂う音楽の素晴らしい表現。
息を切らず前へ前へ、形式は下敷であり、綱渡り的なフレーズから激烈な響きまで見事に表現、本当に素晴らしい熱情を聴きました。すごい作品、あらためて。

休憩後のラフマニノフはそれぞれの副題をイメージさせるものだが、ロマンティックな曲ですね。同期のスクリャービンと並び合わせると、ラフマニノフの目はその時代を見つめていて、スクリャービンの目は先を見つめている。
スクリャービンの練習曲は甘いものですけれどノスタルジックなものはない。その最後の響きがそのまま詩曲の最初の音になっているのは曲目構成の妙でしょうが、あまりに違う小品でびっくりしますね。初期のピアノ協奏曲から一気にシンフォニーの5番に流れていったような錯覚に陥ってしまいました。
こうやって並べて聴くと本当に面白いものですね。

最後のプロコフィエフは、その昔、ピアニストがヴィルトゥオーゾで売っていた時代を思い出させるもので、腕達者の自己表現で聴衆も求めるものだろうが、あまり好きな曲ではありませんでした。

カンパネールは、曲ごとに終わるとさっと消え、すっとはいってきてすぐに次の曲を弾き始めます。曲ごとに1回ずつの出入りですね、あっさりしたもので、拍手に過剰に反応しないし求めることもしない。あれだけの美人だと自意識過剰という単語もどこかに飛んで行ってしまっているのでしょうね。
アンコールもすぐに始めてしまう感じ。コンセントレーションの方法をよく知っていると思う。集中度の高め具合、気持ちの切り替えがすっと出来る。夜のモードの表情を濃く出したドビュッシーは黒くしっとりとしたものでした。
2曲目のペルト、点と点の短い曲。彼女のしたそうな作品群がここらあたりにもたくさん並んでいそうですね。

いい演奏会でした。特に濃口の熱情を聴けて良かったですね。
ありがとうございました。


この小ホール、オルガンがあって、演奏の合間にそのパイプの数を見て数えてみました。よくわかりました。
コンパクトなホールで椅子に余裕があり、リサイタルをゆっくり聴くには最適ですね。三鷹の駅から一本道を曲がることなく、結構歩きますが、雨でなければ問題ないでしょう。

武蔵野市民文化会館のコンサート・パンフにはいつも少し笑いの要素があって面白い。さらにこの日のプログラムには、「激ムズ!」といった言葉でわかりやすく説明があったりして、今まで見たこともないものだっただけに笑ってしまいました。楽しい一夜でした。
おわり

 


2033- パーセル、妖精の女王、寺神戸亮、レ・ボレアード、2015.12.13

2015-12-13 21:10:41 | コンサート・オペラ



 

2015年12月13日(日) 2:00-5:40pm 北とぴあ さくらホール

北とぴあ国際音楽祭2015プレゼンツ
ヘンリー・パーセル作曲
宮城聡 プロダクション

セミ・オペラ 妖精の女王    (全5幕 セミ・ステージ形式)

歌詞英語、台詞日本語上演、日本語字幕付き(歌詞部分のみ)

第1幕+第2幕+第3幕  1時間48分
Int 20分
第4幕+第5幕  1時間17分


キャスト
俳優:静岡県舞台芸術センター

レ・ボレアード(歌手)
ソプラノ、エマ・カークビー、染矢熱子、名倉亜矢子、広瀬奈緒、山崎千恵
アルト、ヒュンター・ファンデヴェン、田中栄吉、中嶋俊晴、波多野睦美、眞弓創一
テノール、ケヴィン・スケルトン、坂口寿一、根岸一郎、福島康晴
バス、大塚雅仁、大山大輔、小笠原美敬、小酒井貴朗

レ・ボレアード(楽器) 略

指揮 寺神戸亮

 


セミステージ形式。楽器群は舞台の前方に位置し暗くして、後方は一段高くして舞台イメージを設定。
作曲1600年代で、様式が固まる前時代のもの、セミオペラ様式。ここらあたりなじみがないためウェブを色々と探して予習。このサイトが一番勉強になった。

パーセル 『妖精の女王』 における詩と音楽
(または、宇都宮大学 学術情報リポジトリ(UU-AIR)の検索にパーセルといれて検索)

ストーリーは真夏の夜の夢のことなので、こちらとしてはあとは様式感を頭にインプット。
でしたが、音楽の前にいきなり劇から始まる。今様オペラ演出並の読み替えや過剰演出なのかといきなりインパクトを受けました。まぁ、前出しで出演キャラクターの紹介みたいなものですね。オペラだと序曲中にやったりします。
セミオペラ様式だと、歌い手、劇の俳優とその声、別の方々がやるわけで、また歌い手もシーンにより変わったりするわけですから、要は一番ポイントになることはそれに一番すぐれている人が行うわけですから、ここらあたり日本の黒子とは別の方針で出来上がった上演の歴史というものを感じたりしながら、役どころはダブるわけで、序曲中に音楽が鳴っている中での紹介ではなく、事前の出しでどっちを出してくればいいのかというあたりは悩ましいものでもなくて俳優の出番となるわけですね。
歌唱は英語、せりふは日本語。字幕は歌唱のときだけ出ます。このような方針はいいですね。メトでのこうもり公演を思い出しました。歌はドイツ語、セリフは英語。オペラ様式が出来上がった時代のもので、歌、セリフ同じ人間がやっていました。

それで、その様式の時代を踏まえたうえでこのセミオペラの進行を予習しておいたのですが、例の紹介サイトとは異なるというか、あれはファンダメンタルな知識として是非とも必要なものと感じました。そのうえで、この日の上演では素直にもっと作品に内包された様式感を感じたいと思った。前半は特にそう感じました。さらに、幕を続けて上演、幕の切れ目がわからなかったのは自分としては痛かった。なにかミュージカルのリメーク版を観劇しているような具合で、そうとうにズレを感じました、前半の1,2,3幕は。

後半4,5幕は、もうこれで楽しむしかない、楽しむのがベストと気持ちを切り替えました。
劇のほうも途中からカメラ記念写真とか、日本の神式結婚式、髪を結ったカークビー、等々、和式様式ごちゃごちゃとてんこ盛り、時代感覚もわからなくなり、俳優の劇のほうも過剰な笑い取りアクションが頻発、エンジョイ。

ですので、別の演出でもう一度観てみないとああだこうだという話しは出来ませんね。
楽しい観劇でした。
ありがとうございました。
おわり







2032- フィンジ、Cl協、RVW、バスチューバ協、グレイト、尾高忠明、日フィル、2015.12.12

2015-12-12 19:22:12 | コンサート

2015年12月12日(土) 2:00pm サントリー

フィンジ クラリネット協奏曲Op31  7′12′8′
 クラリネット、伊藤寛隆

ヴォーン・ウィリアムズ バス・チューバ協奏曲 5′5′4′
 バス・チューバ、柳生和大
Int
シューベルト 交響曲第8番ハ長調  12′14′10′12′

尾高忠明 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


前半は同オケのソリストによるコンチェルト。
RVWのバス・チューバ協奏曲は明確過ぎるくらい明確な音楽で、気分がスカッとしました。珍しいものを見せてもらいました。トリルなど爽快ですね。
昔、高校の先輩が定期演奏会に招待されて誰だったかのチューバ協奏曲を吹いたことがありましたけれど、あのときは立って吹いていましたね。この日の日フィル柳生さんは座っていましたが、協奏曲の場合、どうなんでしょうか、どちらもありですかね。

一曲目のフィンジは長すぎる協奏曲。クラリネットは相当大変だと思いますが、伊藤さんは暗譜で演奏、すごいもんです。デリカシーにとんだ曲で気持ちをこめないとプレイする方も聴く方も大変な代物と感じました。形式感の枠があまり感じられない中で、長時間持ちこたえるに値する曲なのかどうか今一つ理解が出来ませんでした。

後半のグレイトは最近の尾高の傾向から言ってもっと飛ばすかと思いましたがそうでもなくて、それよりもヘビーに肉厚にそれぞれの音を鳴らし切りながら進めていく感じ。
棒を持たない尾高には少し違和感があるけど、イギリスもののように完全に手中におさめている作品はいいとして、この日のようなシューベルトには今一つ馴染まない雰囲気が見て取れる。出てくる音と振る腕の一体感が感じられない。
おわり


2031- マーラー3番、シャルル・デュトワ、N響、2015.12.11

2015-12-12 10:51:54 | コンサート・オペラ

2015年12月11日(金) 7:00pm NHKホール

マーラー 交響曲第3番ニ短調 32′10′18′9′4′25′(全楽章アタッカせず)

アルト、ビルギット・レンメルト
女声合唱、東京音楽大学
児童合唱、NHK東京児童合唱団

シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団


デュトワの指揮するN響のアンサンブルの精度の高さは尋常ではなく、その昔から、ずっと昔から言われているウィンドアンサンブルのうまさはこの日も唖然とするような具合で、例えば、マーラーのいたるところに出てくるやにっこい長めのクレシェンド、この揃い具合も異常ともいえる精度と均質さで、ブレンドされ一つとなった単色とは別の色合いのサウンドがまるで一つの楽器にでもなったかのように多彩なニュアンスで奏される。驚きました。
8本のホルンも整然としたもので、それが官僚の論理みたいな吹き按配でないのが心地よい。積極的な精緻バランスとでも言うべき自己主張された美しさは、プリンシパル1人のみならず音質の同色性も含めた全員アンサンブルの勝利の音色(ねいろ)とさえ感じる。

ニ短調の曲は第9、ブル9、シュマ4、など挙げたらたくさん出てきそうですが、なにやらやにっこい曲が多い。一筋縄ではいかない、聴かせどころのツボどこらあたりあるのかなと。
デュトワのGM3はその振幅の大きさですべてを吹き飛ばしてくれました。素晴らしく明るくクリアで明瞭(全部同じ意味か)、そして繊細さから豪快な響きまで見事な表現力の幅の大きさ。コントロールと開放の見事さ。それがこのアンサンブルで奏されるわけですから、もう、気持ちも解脱状態。
デュトワは、たまにほかの指揮者で見かける、自分が一番感動して振っている姿の棒、これが皆無。それと、ルーチンワーク的な振りも皆無。
両腕を大きく上下させて振る棒はプレイヤーが見やすくて演奏しやすい棒と思います。指揮棒を持っていますのでその上下の振幅はさらに大きく見え、上下の切り込みの深さは作品への食い込み具合と同じだと思ってしまうような説得力。
第5楽章終えたところでアタッカ演奏する指揮者が多いのですが、彼は一服置いて、ここは棒も持たず横に大きく振る勢いでその流れを重視したさばきはオーケストラ全体の響きになる。横に流れていく終楽章はハーモニーが殊更美しく聴いていて息もできない。
こんな演奏なら何楽章まであっても構わない。

第1楽章、ブラームス1番の終楽章主題から始まるホルンの吹奏、よく合ったアンサンブルが続きます。拡大されたソナタ形式はロングなものですがその長さを感じさせない。冗長なところがまるでない、弛緩するところのない見事なオーケストラアンサンブル、波打つダイナミズム、クラクラする美しい弦。ソナタ形式も満足の雄叫びをあげている。
第1楽章終わったところでレンメルトが入場、もう二楽章待たないと出番は有りません。
第2楽章は磨かれた素朴さでマーラーの実は人工的な自然さがよく垣間見れる。
第3楽章は、5番の3楽章に続く様な中間楽章の異様な長さを感じさせるのだが、このロング楽章もデュトワは飽きさせない。トランペットのプリンシパルは3楽章始まる前にステージかみてにひっこみ、そこでポストホルン。この部分は楽章後半の活躍になるわけですけれど、響きの柔らかさ、バランス、スキル完成度、なにも言うことがない。落ち着いたいい楽章となりました。多彩な表現の別の一面を見たような気になりましたね。
第4楽章でレンメルトのソロを短いながら味わうことができたのはいいことでした。大柄な体躯、オペラとはまた違った、(オペラに比べれば全部簡単よこんなもの)、といった雰囲気がまるでないオーケストラル伴奏で精緻に神経が透けて見えるような歌はコンセントレーションの高さがもろに出たものでこれまたお見事の一語に尽きる。デュトワのさりげない、でもツボを外さないソリストへの指示も含めたオーケストラ伴奏の的確さ。
第5楽章へはアタッカしません。一息置きます。デュトワは全ての楽章でこのようにシンフォニー作品にふさわしい間を置きながらの指揮です。各楽章は独立した一つのエレメントであって、全体像は終わった後にいつまでも構築物として残る。そうゆう姿をみせてくれます。
1時間10分ほどまってようやく合唱が出てきます。明るいサウンド。70分の内的コントロールが一気に開放。短い楽章はその片側の明るさだけのもの、表面には出ないもう片側も感じさせてくれます。解き放たれた合唱は美しく歌われました。
棒を置いての終楽章はなにやら厳かなという雰囲気はありません。デュトワの飽くまでもスコアにリアリスティックなさばきです。棒を置いた振りはむしろ大きく横に広がりを魅せ流れていく。

この日の編成は合唱も含め大きなもので、NHKホールの前のほうの席を何席つぶしているのか知りませんけれど、ステージが随分と前のほうにせせり出ている。これだけオーケストラが前に出てくると、いくらこのホールでも結構、それなりにいい音、前に音が出てきますから。実力がもろにわかるホールですがこのオケなら問題は無い。相応なエコーもありますね。
この日の演奏、フライングは有りませんでしたけれども、デュトワが最後振り終えて動かずにいる中、無造作で無神経な拍手がバチバチと鳴り始めました。デリカシーがないというか、ホールの空気感を変えたアトモスフィアというものをわからない、まるでCDでも聴き終えたようなバチバチは悪趣味でしかない。

よいものは徹底的によく味わいたいと思った一夜でもありました。
よい演奏ありがとうございました。
おわり


2030- タコチェロ協1、スタドレル、チャイ1、ミヒャエル・ザンデルリンク、都響、2015.12.10

2015-12-11 00:07:38 | コンサート・オペラ

2015年12月10日(木) 7:00pm 東京文化会館

ショスタコーヴィッチ チェロ協奏曲第1番変ホ長調  6、12+6+4
 チェロ、アレクセイ・スタドレル
(encore)
バッハ 無伴奏チェロ組曲より  3′
Int
チャイコフスキー 交響曲第1番ト短調 冬の日の幻想 11′10′8′12′

ミヒャエル・ザンデルリンク 指揮 東京都交響楽団


スタドレルというチェリストはお初で聴きます。
4階で聴きましたが都響に負けず音がでかい。第3楽章カデンツァなどびっくりするぐらいのサウンド。
それよりも印象的なのは、一見すると素朴と言ってもいいような、やつさない、地に根を張った弾きっぷりで一歩一歩前進していくような具合で、派手さは無くまた知ったかぶりもない。自分のプレイを自分で聴きながら噛みしめながら進めていく。そのようなスタンスはよくわかるのだがややもするとフレーズが薄められて空中分解してしまうのではないか、といった危惧も感じない。これは見通しがいいというか、最初の部分のプレイ時点で最後までが見えているからにほかならない。曲を理解しつくしているということか。
この曲は構成感はよくなくて気まぐれモードなところがあり油断すると散漫となってしまう。このソリストは上から一度に全体俯瞰が出来るソリストと思えた。
第1楽章のアレグレットの骨太の軽快感は魅力的なものですが、重心はヘビーな第2楽章とカデンツァ楽章と呼べそうな第3楽章に多くの力点を置いている。第1楽章アレグレットの歯切れの良さとは別の面、潤いのある幅広く包み込むような中低音域の響きがものすごく魅力的。
都響の伴奏はティンパニが硬すぎて耳障り、ソロに水を差している。メリハリあるとも言える。またチェロにからむホルン1本、淡白すぎる。

後半のチャイコフスキー。
昔、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア響のLPが出始めの頃、あれはステレオ録音で右左の分離があり過ぎで真ん中が空みたいな雰囲気があったが、それよりも何よりもキンキンいう高音域があまりにヒステリックで辟易したものだ。
今日の都響を聴いていてそれを思い出した。あまりに硬くてドライ、線一本ずつ見えてくるのはこのあまり演奏されない曲を理解する上では輪郭が明確になりわかりやすいというのはあるけれども、そんなことより、硬くてドライな合奏が、乖離した一本線のようなサウンドで、マスでもやせて聴こえる。そしてふと思ったこと、それは、オーケストラのプレイヤーがもしかして、なんでこんな乾いた音しか出せないのかな、と自分たちに息詰まり感を感じながら演奏しているのでないかと思えたこと。
焦燥感です、ウェットな潤いのある音色がでないことによる。

ザンデルリンクの棒は第4楽章の導入部の念の入れようを聴けば分かるようにフォルム重視です。この曲は形式で下支えして演奏した方がより強固なスタイルとなる。
2年前のドレスデン・フィルとの公演、今年のN響との演奏。同じような雰囲気です。
おわり

PS

1490- ベートーヴェン7番、ブラームス1番、ミヒャエル・ザンデルリンク、ドレスデン・フィル

1794- シューマンpf協、シャマユ、ブルックナー4番、ミヒャエル・ザンデルリンク、N響2015.4.23

 


2029- サロメ、バークミン、デュトワ、N響、2015.12.6

2015-12-06 19:06:54 | コンサート・オペラ

2015年12月6日(日) 3:00pm NHKホール

シュトラウス サロメ (コンサートスタイル) 100′

キャスト(in order of voice’s appearance)
ナラボート、望月哲也、テノール
ヨカナーン、エギリス・シリンス、バスバリトン
サロメ、グン・ブリット・バークミン、ソプラノ
ヘロデ、キム・ベグリー、テノール
ヘロディアス、ジェーン・ヘンシェル、メゾ

シャルル・デュトワ 指揮 NHK交響楽団


前から2列目かぶりつきで観ました。
スタートレックのスポックのようなヘアスタイル、何頭身かよくわからないスレンダー美人、不敵な笑顔で登場、なんだか、これだけで、もう既に、バークミンのワールドですね。秘めたエキセントリックさ、ホントはアブナイ感じ。サロメワールドが脳内で半分出来上がりました。ビアズリーのクライマックスがレントゲン写真のように脳内に貼りつきました。聴く用意が出来たというところか。

デュトワ、N響のサロメと言えば、ビビッと思い出すのはあの稀代の絶演、2003年のエレクトラ。その初日、エリザベート・コーネルが登場した時のNHKホールのどよめきは忘れられない。草木もなぎ倒す歌。そして姉に匹敵、追い越す勢いのこれまたとんでもない歌唱だったのがフランソワーズ・ポレの代役エヴァ・マリア・ウェストブルック。最後ちょこっと、エキストのジークフリート・イェルサレムはラスト10分に現れ3分の歌唱。
と。

エレクトラはサロメとは違った厳しさのある音楽、あえて言えば迎合しない音楽。そのように感じる。サロメはいたってシンプルなストーリーで、どれだけ深彫りするか、えぐるか、にかかっている。まぁ、比べるような話ではないがどうしてもあれを思い出してしまいますね。

サロメ、このタイトルロールは麻雀でいえば裸単騎みたいなものです。逃げも隠れも出来ない。覚悟と度胸が勝負の分かれ目。
フィフスエレメントに出てくる例のソプラノ歌手のような細身の人が歌うサロメ、昔だったら馬力勝負の馬力の力感が体躯にそのまま出ていたものだが、今はそんな時代ではないということですね。細身で自由自在。びっくりするぐらい大きな声で歌われます。均質な声、揺れの無い歌は圧倒的で、ひとつの流れる線のようなものでそこからさらに光が出ている。光りうねる線。どこで息を整えているのかまるでわからないシームレスな歌唱、唾を吐く劇的な歌唱ではないのにそのドラマチックな世界の創造には別次元のエモーショナルを感じる。サロメが乗り移ったか、彼女の表現するサロメは毒々しくない。妙にエキセントリックで正確に狂っている感じ。一心同体な話か。何度説得されようがヨカナーンの首を何度でも求める気持ち悪いセリフのゾクゾク感。リアルすぎて思わず身震いしました。
サロメの狂気は全く今風なものでスッキリ明快そしてクレイジーに。聴衆、劇場のすべての人たちが彼女に支配されてしまっている。それは正しいこと。そんな雰囲気がホール全部を支配。すごいものです。

前半に歌い尽くすヨカナーン役のシリンス。彼はワーグナーを中心にもう何度も聴いていて、深いバスバリトンがものすごく魅力的。長身でシリアスな歌、役になりきる歌唱でずっと好印象です。
ヨカナーンの生真面目さを前面に出すというよりなんだかご本人の性格がそのまま出ている感じですね、非常に激情的な歌となりましたが安定度抜群、シリアスな役どころお見事。

ベグリー、ヘンシェルは似たものどうしみたいなところがありますが、性格の裏と表ですかね。テノールのベグリーは全開というわけではないと見受けました。劇的でありながら真っ当な役どころをよくこなしていたと思います。
ヘンシェルは2003エレクトラのときにも母親役で出ていますね。役どころをわきまえたサポート風味の歌唱で出しゃばらない。いいと思います。

この4人の出来栄えしだいという話ですけれど、あれだけ完璧にバークミンにきめられると、脇役の日本人たち、一緒に歌っている一体感よりも、役が違うとか声種が違うとか関係なく、もう、やる気が失せるのではないか、と思った。
圧倒的なバークミンでした。

デュトワは自分の指揮に感動しながら振ると言ったところが皆無で、またルーチンワーク風なところも毎度皆無、上下に腕を大きく振る姿はプレイヤーにとってわかりやすいものだろうと思う。N響からあのエレクトラのときと同様な黄色いギザギザ絶叫サウンドを引き出していたのはさすがとしか言いようがない。
もう一度、このオケの音楽監督をやったらどうか、これほど息の合ったコンビネーションはそうそうないと思いますよ。

バークミンはシーンごとに、ポーディアムの右で歌ったり左で歌ったりと、いいサービスしていました。
何度でも聴きたいですね。
今日の絶演ありがとうございました。
おわり


2028- 仮面舞踏会、藤原歌劇団、2015.12.5

2015-12-06 00:44:31 | コンサート・オペラ

2015年12月5日(土) 2:00-5:20pm オーチャードホール

藤原歌劇団 プレゼンツ
ヴェルディ 作曲
粟國淳 プロダクション

仮面舞踏会

キャスト(in order of appearance)
1.サムエル、久保田真澄(Bs)
1.トム、小田切貴樹(Bs)
2.オスカル、高橋薫子(S)
2.リッカルド、西村悟(T)
3.レナート、牧野正人(Br)
4.判事、納谷善郎(T)

5.ウルリカ、鳥木弥生(Ms)
6.アメリアの使者、狩野武(T)
7.シルヴァーノ、和下田大典(Br)
8.アメリア、小川里美(S)

藤原歌劇団合唱部
佐藤正浩 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

(タイミング)
前奏曲 4′
第1幕第1場 18′
SB 2′
第1幕第2場 31′
Int 20′
第2幕
前奏曲 2′
幕 28′
Int 20′
第3幕第1場 27′
SB  2′
第3幕第2場 24′


なんで仮面舞踏会には階段舞台が出てくるのだろうかという既視感のもと始まりました。
第1幕はゆるくて点と点の世界で、それもつながりのないもの。さえない幕でした。
2幕になり二重唱、三重唱と引き締まってきた。ヴェルディにはやっぱりドラマチックドラマがよく似合いますね。
マスカレードの舞台、3幕も暗い。最初の幕から暗いトーンのシーンが続きます。この3幕でもきらびやかさよりは暗さを強調しているように思えます。
リッカルドは露と消え、レナートは生きる。ヴェルディの仮面は後続ストーリーを覗いてみたくなりますね。

リッカルド役の西村は体躯もさまになっていて堂々としたものだが、思いっきり声を出せればもっとよくなる。本番場数をバンバン踏んで思いっきりの度胸声を聴きたいものです。

指揮の佐藤はオペラのツボを心得ている、ただ、歌い手たちが全員いうことを聞いているわけではなさそうだなという感がぬぐえない。

全般的にあまり水準の高い内容ではありませんでした。


この団体も1000円プログラム販売ですが、これを買わないとキャストもあらすじも何もわからない。1枚もののキャスト表がない会社。どうなってるんでしょ。
おわり


2027- シベリウス、5,6,7、ヴァンスカ、読響、2015.12.4

2015-12-04 23:03:54 | コンサート・オペラ

2015年12月4日(金) 7:00pm サントリー

オール・シベリウス・プログラム

5番変ホ長調  14′、8′+9′
Int
6番ニ短調  9′、7′、3′+9′
7番ハ長調  21′

オスモ・ヴァンスカ 指揮 読売日本交響楽団


昔、ヴァントがN響でブルックナーを振り始めた頃、これは単に作品をなぞった棒ではなくブルックナー解釈の移植だと思った。もっと言うと、当時の感覚だと田植えとか畑の耕しみたいな一種名状し難い感覚にとらわれたものでした。道具はある、肝心な、もの作りを今するのだ、そんな話です。
それが実現された形は、指揮者のブルックナー完全理解は当たり前の前提であって、その実現方法の一つとしてオーケストラの磨き上げが必須なんですよ、というあたりのことも明確に感じられた、ブルックナーの真っ当なインターナショナル化です。
この二つのことをヴァント&N響のブルックナーでは強く感じたものでした。

そのままの話ではありませんけれど、この日のヴァンスカのシベリウスではそのようなことを強く思い出しました。一曲目の5番の第1楽章これは完璧なシベリウス像ではないか。
色々な断片が次から次と出てきますけれど、断片と言っているのはその時の話しであって結局全てつながっていく。有機的結合と言う話ですけれども、そのしょっぱなの第1楽章の全部出し、ここらあたりの出しかたが圧倒的な説得力。
展開部にあたるところのヴァイオリンの半音階主題、滑らかに入っていきます。そしてモザイク風な管のトリルとシベリウス的イディオムといえるしゃくりあげ締め、ここ、圧倒的でした。さらに特筆すべきはゲストコンサートマスターの荻原尚子さんの見事な弾きと統率力、合わせて、ものの10分も経たないうちに巨人のようなシベリウス演奏に悶絶。
この楽章の後半スケルツォへの移行も冷静にして自然、全く素晴らしい棒というしかない。そして駆り立てて熱狂のエンディング、でもまだ先があると言わんばかり。フォルムを感じさせてくれます。ここの主題の主張と結合、形式感の見事さは、すべてお見通しのヴァンスカが成しえる技でしょうね。
第2楽章、聴くほうはかみしめて聴く番です。ホルンはプログラム前半のこの5番と後半でプリンシパルが交代していましたが、日橋さん率いるこの作品の演奏、第2楽章の中間でホルンハーモニーが少し濁ってしまうところがありました。すぐに立ち直りましたけれど。牧歌的な楽章なれど、する方はテンションの持続がポイントです。
第3楽章はいきなり締めのような緊張感で始まり、第1楽章のスケルツォエンディングが移ってきたかのよう。それが中間部からの展開は中低音域を中心にまるで人間が息でもするような具合のフレーズが印象的。ヴァンスカの移行は非常に滑らかで見事の一語に尽きる。音楽が生きている。
そして圧倒的な空白、打撃音の響きの正しさをこんなに正確に味わえる瞬間というのはクラシックの作品数々あれどそんなにない。完璧な余韻を何度も味わいつつ、明確にずらしたティンパニが音楽のフレームを見事にえぐりだし曲を終える。あぁ、見事。

後半の最初の曲、6番も大きかった。特に第4楽章は巨大と言ってよく、むしろ演奏の激しさが壮絶で言葉もない。前半3楽章も終楽章にバランスしたもので縁取り感覚、フレームのクリアさですね、明確な輪郭で、それが余裕の細部指示は既にリハーサルでブラッシュアップの極みに達していての棒指示であることがよくわかる、この説得力の強さ。

この6番の3,4楽章はアタッカで奏されました。第2楽章の冒頭のティンパニは、あとで考えると第7番の冒頭と同じとわかるのですが、ヴァンスカは6番7番の親近性の強調よりも、独立した作品としてポジションを確立していることを主張していたと思います。シベリウスのイディオムは打楽器だけでなく打撃のアクセントなど調性が異なっていても同じようなモードを感じさせてくれるところが多くありますけれど、この6番の巨大な演奏による圧倒的存在感は、とりあえずそんなことは横に置いてこれを聴け、と彼は言っているように思えました。

最後の7番。2回ある雄大なトロンボーンソロのうち1回目のソロのあとホルンをはじめとしてブラスが流れ込んだ後のティンパニの打撃。この1回目は譜面では、ピアノからクレシェンドして叩きつけるところ、そこには強弱記号がありません。ヴァンスカはかなり強めの指示で、このような解釈はムライヴンスキー以外では初めて聴きました。2回目のほうは弱めの指示が譜面にあり、ヴァンスカは指示通りの聴こえないぐらいの弱さ。ちなみにムラヴィンスキーは2回目もスコア無視の大打撃をしています。皮が破裂してばちが飛びそうなぐらいの。
また、トロンボーンソロが始まるとムラヴィンスキー、レニングラードは他の楽器を信じがたいほどのピアニシモまで落とします。このようなことが出来るのは世界ひろしと言えども当時のこのオケだけにしかできない絶対能力で神がかっている。と、つい、ムライヴンスキーの演奏をどうしてもしゃべりたくなってしまう。

ヴァンスカ、読響の7番は個人芸の集積というよりも合奏、統一感のとれた同じ呼吸の合奏、それが素晴らしい。薄い膜でも張ったかのような、比較的肉厚な弦なのだが揃ったアンサンブルでぶ厚い透明さみたいなものを感じる。読響の特質だろう。
最後までぶ厚い透明感で押し切っていく。シンフォニーの面影はもはやなくて交響詩でもない、なにかシベリウスの全エキスだけで出来ているものを飲まされているような味わいだ。最後、鮮やかな転調を繰り返し、スコアにある正確な音価レングスを保ちつつ極度の緊張感をもって、さっ、と終わる。お見事。
素晴らしい演奏ありがとうございました。
おわり

PS
1251- シベリウス交響曲第7番 演奏は曲を超えた。異形の絶演!ムラヴィンスキー&レニングラード・ フィル


 


2026- jbPfCon2、オピッツ、ewkシンフォニエッタ、ゲッツェル、神奈川フィル、2015.11.30

2015-12-01 18:24:50 | コンサート・オペラ

2015年11月30日(月) 7:00pm ミューザ川崎

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調  18′、9′、13′+8′

Int

コルンゴルト シンフォニエッタ  13′9′9′16′

(encore)
ヨハン・シュトラウスⅡ 雷鳴と電光 3′

サッシャ・ゲッツェル 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団


お初でお目にかかる指揮者です。前半後半ともに勝負プログラム。
ヘビーで大きい曲2曲と思いきや、そんなにヘビーではなく、大曲ながら重心が下がらない明解な演奏でした。

オピッツは、この前の2015.11.25に聴いたばかり。そのときはモーツァルト、この日はブラームス。
モーツァルトのときと同じように明晰なサウンド、音価が几帳面に整理されていてブラームスの埃のようなものが微塵もない、きれいな演奏。音が締まって短くなると隙間がかえって雄弁になる、面白い現象だと思います。手はそれほど大きくは見えません、指先をちょっと丸めるように、ところどころ引っ掻くようにうまくさばいていく。ここだけ取れば、ブロンフマンと似た弾き。
第4楽章の重くしない美しいハーモニーに乗せて迫る大詰めは、全く大詰めではなく、時が来たから終わるかというエンディング、この4楽章をうまく終わらせるのはなかなか難しいと色々な演奏を聴いて思いますが、この日の演奏は自分のイメージによく合うものでした。
思うに、指揮者が細部耽溺型とちょっとちがう、細部ハーモニー噛みしめ型で味わいが深い。ブラームスの美しいハーモニーが思う存分奏でられる。この美しい音楽を奏でるための停滞みたいなものでじっくりと味わえる。ビロードのような響きの中、音がなびきながら終わる。
この指揮者はここだけではなくて、第3楽章も同じでハーモニーの噛みしめが深くてバランスされた響きを十分に楽しめる。2楽章のように縦ずれしてしまう箇所もあったことはあったが、これはオーケストラに帰されるべき問題のような気もする。ハイレベルのオケは何も言わずとも全部揃えてきます。コンセントレーションの問題と思います。とはいえ冒頭のホルンのソロ、そして魅惑的なピアノ、そこから流れ出てくる音楽はブラームスの明るさを示していて、その光が放たれた様な演奏はお見事でした。充実した演奏でよかった。

後半のシンフォニエッタ。解説によると15歳の時の曲、管弦楽曲の作曲としては2曲ということだから聴く前から驚く。結果、前半の協奏曲と同じく50分に迫る大曲でした。
ここでも指揮者ゲッツェルの棒がよくきまっています。重心を低くせず高から低まで各インストゥルメントとそのアンサンブルが均質にバランスよく鳴る。また細部への光の当て方も前半と同じく美しさが際立っている。初めて聴く曲ですが全く飽きることなく最後まで楽しめました。
第1楽章ソナタ、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテ、第4楽章パテティコ。
形式感は下敷きのようなもので、ときに甘く、少しだけ激しく、メランコリックな雰囲気の音楽が続く。響きが変わり、流れていくので飽きることはない。曲はデカいが内容はシンフォニエッタにふさわしいと言える。
2番以外のホルンは女性陣、これはこれで迫力ある。この曲ではホルンはほぼ吹きっぱなしではないか。ソロは頻繁に出てくるが長続きするようなメロディーラインは無く、アンサンブルでの吹奏が多いですね。吹きっぱなしは大変だと思います。この曲では重要な楽器であるようです。

2曲と休憩で2時間越えてしまいましたが、アンコールがありました。指揮者の十八番でしょうか。季節的な景気づけのような気もしました。あと1カ月で正月ですし。

いい内容の演奏会、ありがとうございました。
おわり