河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2390- ブルッフVC、ロザコヴィッチ、グレイト、ゲルギエフ、PMF、2017.7.31

2017-07-31 23:40:18 | コンサート

2017年7月31日(月) 7:00pm ミューザ川崎

ワーグナー タンホイザー序曲(ドレスデン版)  14′

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調  9+9+8′
  ヴァイオリン、ダニエル・ロザコヴィッチ
(encore)
バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番BWV1004からアルマンド 5′

Int

シューベルト 交響曲第8番ハ長調  16-15-10+11′

ワレリー・ゲルギエフ 指揮 PMFオーケストラ


毎年聴いているPMF東京公演。ワーグナーから始まりましたが、管はおしなべてレヴェルダウン。練習不足だったのだろうか。弦楽合奏は相応に力感ありみずみずしさも漂うのであっただけに。
ブラスセクションはオーケストラでの吹奏が板についていない感じ、全くしっくりとこない。

日本初登場のロザコヴィッチのヴァイオリン。これは素晴らしかった。2001年生まれというから16か17。華奢な感じの長身痩躯。出てくる音は力強くて自信に満ち溢れている。プログラムを読んでみるとドエライ活躍でびっくり。
弾き込まれたブルッフは下味がしっかりしたもので味わいが深く、このやりつくされた名曲にあらためて耳を傾けたくなるものだ。大きく力強く鳴るヴァイオリンは見事なものでした。ビューティフル・ブルッフ。
アンコールのアルマンドはまるでヴィオラのような響き。ふくよかなサウンドがホールいっぱいに鳴る。びっくり。これはうなるわ。

後半のシューベルトを最前列で母君と思しきかたと一緒に拝聴していたロザコヴィッチ。たまに顔に手を当て下を向きつつ。
そのシューベルトは弦楽合奏に活力があり、大規模ソナタ形式の力感を感じさせるもの。ゲルギエフの主題分けも見事なものだ。スケルツォの動きがちょっとユニークなところもあるゲルギエフの解釈、譜面無しの指揮、音楽の流れを作っていく棒はさすがとは思うが、精彩を欠いたところもあった。ノリは必ずしも良くない。
ウィンド、ブラス、管はちょっとスキルレヴェル的にきびしい。S席9千円はいかにも高すぎる。ゲルギエフ値段とはいえ。
シューベルトの最後、フライングゼロの世界で余韻を満喫できたのは良かった。あんまり拍手がこないので指揮者は苦笑い。
おわり


2389- 交響三章、芥川、架空バレエ、深井、気高い幻想、ヒンデミット、交響三章、三善、鈴木、ニッポニカ、2017.7.30

2017-07-30 19:25:58 | コンサート
2017年7月30日(日) 2:30pm 紀尾井ホール
 
芥川也寸志 交響三章(1948)  5-12-6′
深井史郎 架空のバレエのための三楽章(1956)  3-4-3′

Int

ヒンデミット 気高い幻想(1938)  7-10-6′
三善晃 交響三章(1960)  9-4-11′
 
ピアノ、三輪郁
鈴木秀美 指揮 オーケストラ・ニッポニカ
 

ニッポニカの濃厚プログラム。企画としてはこだわりの三楽章という話だと思います。プログラムノートに詳しく書いておりますね。
このプログラムノートはそれぞれの作品についても譜面を示しながら大変に詳細にわたり記述されており、内容をより深く知ることが出来る。力作ですね(1部多めにもらいました)。このプログラムが後日にでも手に入るのであれば熟読をすすめます。

ということで、これを読めば全部わかるような様相を呈しておりますので、聴いた感想というのもおこがましいものではあるが。
 
企画もさることながら、指揮が鈴木秀美、ゲストコンマスに荒井英治と名実ともに脂がのり切っている方々を配し、充実のパフォーマンスを期待できるものであった。
 
 
芥川の三章からスタート。ざっくり急緩急。1と3は吹奏楽的な華やかさ。2は悲愴のイメージというよりはマダムバタフライの悲し気な音楽が響いてくる。
それから1から派生した主題は2,3にも感じられる。1,2,3全曲に渡り強い関連を思わせる。
 
深井の作品はタイトルが絶妙で、2の弱音で鳴るバレエ音楽は音色の移り変わりの妙を感じ取れるもの。
 
上記2曲ともにリズミックな派手な律動はむき出しのシンコペーションが効果的。

後半最初の曲、ヒンデミットは前半の作品二つに比べて、オーケストラが目に見えてぶ厚い。明らかに違う音楽という気がする。これはこれで味わい深い。演奏で作品をかみしめる。
 
最後の作品は三善の三章。
迎合を排したきびしい音楽で、前3作品とは音楽の性質が明らかに異なる。深刻な音楽。
聴きようによってはソナタ形式シンフォニーの第1楽章が欠けたようなおもむきを少し感じる。
ザっと、1静謐、2華やか、3強弱強、の流れ。パーカスのひゅ~どろ、の鳴らしかたは、前3作品には無い扱い。今を強く感じさせるもの。現代への共感という実感を強く感じる。
 
音からのイメージはザっとこんな感じ。ディープなプログラムノートが主催サイトから見ることが出来るようになればさらにうれしい。(徐々に掲載されてきているようです)
素晴らしい企画でした。
おわり
 



2388- ばらの騎士、ヴァイグレ、読響、2017.7.29

2017-07-29 23:39:00 | オペラ

2017年7月29日(土) 2:00-6:00pm 東京文化会館

国内6団体 プレゼンツ
シュトラウス 作曲
リチャード・ジョーンズ プロダクション Glyndebourne Festival Opera Production
ばらの騎士 originally performed in the Glyndebourne Festival 2014
66′ 51′ 56′

キャスト(in order of appearance)
1.マルシャリン、林正子(S)
2.オクタヴィアン、小林由佳(Ms)
3.オックス、妻屋秀和(Bs)
4-1.ヴァルザッキ、大野光彦(T)
4-2.アンニーナ、石井藍(A)
5.歌手、菅野敦(T)
6.レオポルド、光山恭平
7.ファニナル、加賀清孝(Br)
8.マリアンネ、栄千賀(S)
9.ゾフィー、幸田浩子(S)
合唱、二期会合唱団

セバスティアン・ヴァイグレ 指揮 読売日本交響楽団


幕が開くと、ど真ん中奥で朝シャンするマルシャリンから始まる。衝撃的と思う人もいればそうでもないと思う人もいるだろう。壁上の劇中時計は朝の8時半を指している。そこからスタートし、第1幕が終わるころには9時40分。この70分ほどでこの劇、時間通りに第1幕を終えたことになる。パンクチュアルな進行に違和感はない。ジョンジーモードか。

印象に残ったのは、全幕通して、ドレスアップしたマルシャリンのそのドレスや動きがどうもマネキン風だなぁ、レプリカント風だよね。といったことや、3幕での全員ダンシングはスリラーの写しみたい。そういったことが目につく。奇抜なところは散見されるが想定内、添え物としては面白い。

大きく仕切られた2幕での絨毯はその模様にステージ前から奥に縦ラインが入っている。おそらく遠近法錯覚で奥に行くほど狭まっているとは思われる中、手前でゾフィーとオクタヴィアンが向き合って、ひとめぼれシーン。そして前後に揺れる。その揺れ具合が絨毯の縦ラインと非線形なゆがみとなり、それがお互いの揺れる気持ちを巧妙に後押ししている。ジョーンズの作為はこういったところまで考え抜かれているのだろう。とりあえず、サイド席からだとわからないといった話は別のところでしないといけない。

3幕、角部屋風に仕切られた居酒屋、ソファが突き出てきてベッドに早変わりするアクセント。角を中央奥に配したセッティングでは左右の壁が斜めに前方にメガホンのように広がってくるので音の通りが、1,2幕と明らかに違う。
1幕でのオックス妻屋は精彩を欠いているのか、早口なシュトラウス歌を扱いにくそうにしているように見受けられたのだが、この3幕では一変、前に声が出てきて活力が増してきた。遅きに失したところはあるものの。

この3幕の舞台はブルー系中心で大変に柔らかい感じ。暖かみさえ感じさせるもの。曲線というほどではないのだが、シャープな作りを極力排した居酒屋。音響にも相応な影響を与えていたと思う。結末の重唱が頻発するシーン、ここ、納得の舞台でした。

無料プログラムには堀内さんの解説や、ジョーンズとエリソンの対談が載っている。階級の話や男性社会の話題がある中、ジョーンズのトークはいまひとつポイントをつかめないけれども、西洋の没落はお互いの阿吽の呼吸の中に隠されているのだなといたく感じた。

ほぼオールジャパニーズのキャストのバラ。オクタヴィアン小林は冒頭から声の出具合も動きもいい。ズボン役が女装するという逆説的なあたりも含め最良な出来だったと思います。マルシャリン林は危なげないという感じ。
1幕でのオックス妻屋はさっき書いたようにあまり聴こえてこない。早口の歌過ぎるのかもしれない。
場がゴチャゴチャしてきてテノールシンガーによる歌唱が始まるが、まわりの雑然とした中に埋もれてしまい冴えない。ここはひとつ日本最高峰のテノール歌手を出して破格の斉唱を聴かせてほしい。これはそういう趣向のオペラですよ。
日本最高峰は誰なのか、とりあえず第九出演回数が最も多い方でもいいです。

3幕でのオックス妻屋は大きく声が出て動きも良くて、彼の洒落た劇も楽しめた。尻つぼみ的に去るオックス。ああだこうだと言わず全て飲み込み去る。後先を考えて規範行動をする。西洋の没落も近い。

残った女性陣による三重唱、二重唱、美しい重唱が奏でられました。あまりに綿々と流れる音楽。

ジョーンズ・プロダクションは色々と面白い。これでこの作品を終わらせてはいけない。別の角度から光をあてた演出を観たいものだ。

昨年の今頃、読響を振ったヴァイグレ。

2167- ヘーヴァー4LS、ヴァイグレ、ティル、家庭、読響、2016.8.23
2171- モツクラ協、オッテンザマー、ブラ1、ヴァイグレ、読響、2016.8.27

オペラの棒はこれまで観たことがあったかどうか今記憶にない。個別インストゥルメントへの指示はほぼ無い。舞台の上の歌い手への指示も無い。両腕で全体フレームを作っていく。既にそこに上質のオペラハウスのオーケストラがあって毎晩伴奏をしている、そのようなオケを前にしたような指揮ぶりだ。
テンポ移動は歌の変わり目で大きい。デリケートな歌唱での動きは理にかなったもので目立つことはない。自然な流れ。

オーケストラはあまりよろしくない。指揮者のせいとも思えない。2幕弱音パッセージでのティンパニのずれは頻繁で緊張感無く、他楽器にもザッツずれ感染。もう少し丁寧に演奏して欲しいものだ。指揮者のほうをまず見るべきと思います。
全体に普通の出来。ホルン日橋はじめ濃厚なフレーヴァーが欲しくもあるが、そこらあたりのことは指揮者の匙加減かもしれない。コンマスは萩原さん。
おわり








2387- 浄夜、ハルサイ、ノット、東響、2017.7.22

2017-07-22 21:06:00 | コンサート

2017年7月22日(土) 3:00pm ミューザ川崎

シェーンベルク 浄められた夜  31′

Int

ストラヴィンスキー 春の祭典  15-17′


ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団


眼前に迫るメタリックな機能美は圧倒的。過去にこのような音を出すオーケストラは国内にはなかった。機能的なオケらしいサウンドカラー。それやこれや全部しびれた。
ハルサイ1部は殊に素晴らしくて一糸乱れぬパワフル演奏に片時も耳を離せない。ストラヴィンスキー特有の空虚な弱音ハーモニー、強奏でのスカッとするブラスセクションの咆哮、決まりまくりのパーカッションの鳴りの素晴らしいこと。ストリングからパーカスまで立体的な奥行き感。この彫琢、練り上げられた美しさ。ほれぼれする。パーフェクト・パフォーマンス。
2部は作品的に1部よりパワーダウンすると常々感じるのだけれども、この日の演奏では全くそのようなことに気をまわさせてくれない。めくるめく情景が次から次へと見事に移り変わり息のつく間もない。
技術力の誇示は、後半大詰めのカオスを作り上げるには故意作為にスライドさせてずらしていくことでも出来るんだよと、もはや全てが余裕の表現のように聴こえてさえくる。
1部と2部の異なる風景、この凄まじきド迫力のモースト・パワフル・パフォーマンスの奥からベリベリとくっきりと二つの眺めを見ていくことが出来る。何もかもが声にならない大した演奏でした。

ノットの前に譜面は無し。拍の呼吸をよく感じさせてくれるもので大余裕などというのもおこがましい。むしろ無くて自然。頭の中に譜面がレントゲン写真のようになびいているのだろう。
右腕、左腕、体がよく動く。そし左足が雄弁。右足を支点にし、三つの動きはまるで魔術。もちろん別々のところに指図しているわけでオーケストラの応答は尋常ではない正確さ。計算されつくした嵐のような激しさ。メカニカルに優れているこのオケの能力を計算し尽くし、双方極限演奏を実現。これぞオーケストラを聴く醍醐味。開いた口がふさがらない。
細身のノット、背中は滝汗でお尻まで流れているけれども黒の正装であるためあまり目立たない。一仕事終えた感はしっかりと感じ取ることが出来ました。このコンビ、どこまで素晴らしくなることやら。


前半に置かれたシェーンベルク。
濃厚で鋭い弦、申し分ない、浄夜。
眼の前にやや硬めに黒光りするストリングサウンド。締まったもので剃刀シュートが一度に何本も飛んでくる感じ。弦のみの東響サウンド、これも魅力的。
席が前でちょっと型がよくわかりませんでした。12-8-6-4、ベースがバック中央に4本。他の弦はそれぞれ半分ずつ右左にセット。左右対称と見えました。
メカニカルで幾何学的、これならばこのオーケストラの機能美をさらに押し上げる。作品とオーケストラという生き物その両方を知り尽くしたノットならではの冴えた試み。サクセスフル。
タイトルにふさわしいサウンドが、最初から最後まで鳴り響き、あっという間に浄夜が過ぎていった。暗い中に光源を感じさせない明るみが全体に射す。名状し難い色彩感、精緻に満ちた名演であった。

ノットは、譜面はあれど、見たり見なかったりでそもそも手触りで何ページ目はここといったことがごく自然にわかっているのだろう。時折めくれる譜はノットの指に吸い寄せられているように見えた。


この2曲、このコンビならではの絶好調、ビューティフル演奏。満足しました。
おわり

フェスタサマーミューザ2017 オープニングコンサート


2386- マーラー、復活、チョン・ミョンフン、東フィル、2017.7.21

2017-07-21 23:50:34 | コンサート

2017年7月21日(金) 7:00pm コンサートホール、オペラシティ

マーラー 交響曲第2番ハ短調 復活  24-10+10+5+34′
  ソプラノ、安井陽子
  メッゾ、山下牧子
  合唱、新国立歌劇場合唱団

チョン・ミョンフン 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


ここ一週間ほどで復活関連、ノット東響インバル都響(葬礼)、そして今日のミョンフン東フィル。
どれもこれも素晴らしい。今日のミョンフンも前2回とは別の味わいのあるもので魅惑的な演奏でした。

このホールに18型というのは背中ぎっしりのパーカスのみならず溢れかえる楽器群というステージのこともさることながら、1600人キャパのホール、強音では飽和状態になるものでさじ加減が簡単ではないだろう。
せまいオルガンレベルにはコーラスがぎっしり。見たところ男声女声が何人かずつまとまり、バラバラとまだら模様に立っている。マーラーのスコアは知らないがこのような形で立つのはこれまで見たことがない。コーラスはオーケストラと同じタイミングで整列。ソリスト2名は3楽章の最終局面で演奏中の登場。

ミョンフンはノット、インバルに比して解釈はオーソドックスでこれまでの音楽経験をバックにしてそれらを生かしきった消化の妙、味わいのあるもの。ダイナミックでドラマチック、長大な作品にテンションを継続的に保ち、息の長い扱いに長けている、オペラチックな展開がお見事。それもこれも近くで見ると圧倒的なのは、プレイヤー全員が彼の手の中にある。プレイヤー個人が全方位で競っても負かされる相手にはひれ伏すしかなくて、ひれ伏せばひれ伏すほど演奏に磨きがかかると言うデジャビュN響のような風景をひしひしと感じる。そら恐ろしくなるミョンフンの目。ここから電波が100本出ているのか200本出ているのか、全員と1対1の真剣勝負が同時に出来るという離れ業を見る思い。かつ、その1対1が対話や会話のコミュニケーションを感じさせるもので、真剣勝負ながらプレイヤー心にゆとりがあるように見える。何かを許容しているミョンフンの投影を見る思い。これが巨匠指揮者のマジックなのだろうか。

ミョンフンは総合芸術のツボを魅せてくれる。コーラスは終楽章のみ、それもその終楽章が始まってから20分もたたないと出番が回ってこない。クライマックスはそのコーラス導入の複数テンポ同時演奏、舞台裏活用プレイあたりからで、初めからずっとそこがポイントと照準を定めている。このような方針は劇性を高めあおるもので、間違いなくカタルシスのボタンを押してくれる。それまでの全てが前奏曲のようだったとわかるのは体感的快感。舞台のドラマを見ているような気になってくる。まさに観劇のツボですな。
場を静謐にするゆっくりとしたコーラスの味わいは格別な深さ。ここが始まった時、同楽章冒頭のベースから始まりブラスが炸裂するマグマを思い起こし、その導入部というべき原光を感じ、3楽章スケルツォでの転換、第2楽章の夢の中にいるような3拍子、そして第1楽章の葬列。走馬灯のようにフラッシュバックする。全体を常に意識し俯瞰する指揮芸術はまことにお見事というほかない。

オペラで幾度となく観ているメッゾ山下さん。豊穣なトーン、柔らかくて厚みがありこの音楽にふさわしい。光につつみこまれそうになる。スバラシイ。オーケストラの伴奏ハーモニー、バランスも最高。一緒に歌を奏している。ソプラノ安井さんは光の筋を感じさせるもので短い歌唱ながらリザレクションには必要欠くべからざるものですね。美しさの実感。

1600キャパのホールに上から15本ほどの収録マイクがぶら下がり(可視)、ステージ上には同じ規模で乱立。あの壮絶なサウンドをうまく拾うことが出来たのだろうか。いつか楽しめそうだ。
おわり



2385- パガニーニVC1、戸田弥生、幻想、上岡、新日フィル、2017.7.21

2017-07-21 22:42:49 | コンサート

2017年7月21日(金) 2:00pm トリフォニー

パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調  17-5+7′
  ヴァイオリン、戸田弥生

Int

ベルリオーズ 幻想交響曲  12-6-14-5-10′

(encore)
リスト ハンガリー狂詩曲第2番 G359-2  11′

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


新しく始まった金土午後2時定期シリーズ、これに今回は企画ものをのせた。演奏して欲しい作品をお客が選ぶリクエスト・コンサート。リクエストがあった曲のうちこの2曲が選ばれた。リクエストが多いほうから2曲というわけではなさそうだ。なかなか面白い組み合わせ。

戸田さんのヴァイオリンはお初で聴きます。どこがどう難曲なのかさっぱりわかりません。いたって普通のプレイのようにみえるということが驚嘆の出来事なのかもしれない。むしろ柔らかく流れるような音楽が心地よい。マイルドなサウンド。ギスギスしたインパクトを求めるような話ではなくて飽くまでも滑らかな音楽を指向しているように思う。聴くほうとしても徐々にそのモードに。最後まで居心地よく聴くことが出来た。

幻想は上岡の技が沢山出ます。手練手管、オーケストラはなんとかついていっている。
3楽章の遠雷はずっと遠雷のまま。本当に遠くの出来事。断頭台は艶めかしすぎるブラスセクションをはじめとするテヌートのオンパレード。舐めるような気持ちの悪さ。魔女宴夢はしゃくりあげるような独特な気味の悪さ。オルガンレベルにある鐘の叩き具合も。
3楽章あたりからのユニークな上岡節はグロテスクな方向へ。

ウィンド四羽烏プリシンパルたちのアンサンブルは見事なもので全体を主導。いい呼吸ですね。
それと合奏のむき出しハーモニーのぶつかり合いはザラザラとした美しさ、正直なサウンドという感じ。上岡サウンドは素の美しさを表現するとともに、プレイヤーの潜在能力も引き出している。噛むほどに濃厚なテイストになっていく。

これでホルンのプリンシパルが固定すればさらにいい演奏を継続的に聴けるようになるだろう。客席の埋まり具合も最近はだんだんとよくなりつつありますしね。
より過激になりツボにはまった幻想は次回聴けることだろう。

アンコールは10分以上かかる長いもの。上岡棒の時は収録マイクが乱立。このアンコールは余白を埋めることにでもなるのだろうか。ノリが良くて荒々しくて波風多く色々と楽しめたリストでした。
上岡&新日フィルのコンビは着実に進化していってますね。
おわり


2384- キャンディード、弦アダージョ、ラプソディインブルー、小曽根、コープランド3番、スラットキン、デトロイト響、2017.7.17

2017-07-17 23:53:33 | コンサート

2017年7月17日(月) 3:00-5:30pm 文京シビックホール

バーンスタイン キャンディード、序曲   4′

バーバー 弦楽のためのアダージョ  9′

ラプソディ・イン・ブルー  25′
 ピアノ、小曽根真
(encore)
小曽根真 エイジアン・ドリーム  5′

Int

コープランド 交響曲第3番  10-9-9-16
(encore)
菅野よう子 花は咲く  6′
F.スラットキン  悪魔の夢  2′

レナード・スラットキン 指揮 デトロイト交響楽団


1998年にヤルヴィNと一緒に来日、今回は2度目の来日公演となるデトロイト交響楽団。
アジアツアーの一環。日本での公演は以下の6回。
2017年
7.14 聖徳大学川並香順記念講堂
7.15 豊田市コンサートホール
7.16 ザ・シンフォニーホール
7.17 文京シビックホール ●
7.19 オペラシティコンサートホール
7.20 ハーモニーふくい


このうち、7月17日の公演に潜入。

休憩後に置かれたコープランド3番は、オーケストラの草木もなぎ倒すモースト・パワフル・ウルトラ・アンビリーバブルな演奏となりました。シビックホールの天井の蓋が天空に飛び散って逝ったブラスセクションの鬼気迫り越える鬼サウンド。パーフェクト。空前絶後の絶対演奏。

この3番は聴きようによってはノーブル、ときに上から目線を感じる作品。絶対音楽風味満載だが冷たさと誇りが綯い交ぜになっている。誇りは戦って勝ち得た自由の響き。どこぞの勝手気ままと自由のはき違え行動とはだいぶ違う。アメリカ時代の自由の象徴のような響きを感じる大作。上から目線というよりは、上に目がありその水平レベルに全てがあるべきだという平等の世界観を音楽で達成しようとしたようにも聴こえてくる。ファンファーレの出現は高貴なものを感じさせてくれる。
色彩的には、摩天楼から見る地平線、目線を変えて遠くから見るスカイスクレイパー。ともにシルエット風なモノトーンを感じさせる。大編成で多彩な音色を楽しめる曲ながら聴後感というのは一色、一線だ。派手な色彩だったという気がしない。メカニカル文化真っ盛り、うっそうとしたビルの森林。

ファンフェアー・フォ・ザ・コモン・メンの節で始まる終楽章導入部は感動的、この楽章はコッテリと長い。その前の1,2,3楽章は同じような長さで、ともにソナタの形式を踏襲している。バランス感覚に優れた作品。
脳天が吸い込まれそうになるブラスセクションの咆哮は音圧、技術力、バランス、全てが圧倒的。決してかき消されることの無いストリング、ウィンドのアンサンブルの凄さ。彫りが深い。これらにさらに立体感を与えているのがパーカス。全フレームがものの見事に浮き上がる。開いた口が塞がらない。パーフェクト。
緩徐楽章はドライというか静かだが埃っぽい音楽。コープランドのもう一つの目を感じる。
フィナーレはドラマチックでしなやか、多様なコープランド・ワールド。

スラットキンは1980年代を中心にセントルイス響で振りまくり、アメリカのビッグファイブに食い込む勢い、はたまたビッグシックスかと。当時このコンビでカーネギーにも出張って演奏をおこなっており、また単独でニューヨーク・フィルも振っている。両方幾度か聴きましたが、まぁ、当時、既に巨匠。絶好調男。自分の印象としては若いときから巨匠。特に現音オーソリティ。日本では相応に名前は知れ渡ってはいるものの決定打には至っていない感じ。
今日のコープランドのまとまりの良さ。派手は派手、その派手さもすべて彼の手の内にある。オーケストラを隈なく統率しているように見受けられる。作品の中に集中していっている姿があって自ら音響の中に耽溺しない。コントロールと開放に優れた棒技。等身大の等身がおそろしくビッグ。
デトロイト響の1980年代はギュンター・ヘルヴィッヒの時代。このコンビでの公演も聴きましたが、もはや同じオケとは思えない。当時も申し分ないオーケストラではありましたが、さらにパワーアップ、昔を軽く凌駕している。
今回のコープランド、このようにして日本で聴けるのはセンセーショナルと言ってもいいのではないか。エポックメイキングな出来事ではありました。日本国内でこれからどのようにアメリカ音楽が奏されていくのか期待大。


アンコール1曲目の花は咲く。各楽器が歌を引き継いでいくのだが、短いフレーズながらトロンボーンとチューバのビブラートには少しびっくり。ここらへんにもオケの柔軟さを感じた。

1曲目のキャンディードもそういえば、同じような傾向があったのかもしれない。派手にして硬直とはちょっと違うんです。

たっぷり時間をかけたバーバーのアダージョ。ブルーな憂いと美しさが混ざり合ったストリングは強靭でニュアンスたっぷり。多様性を感じるアメリカ音楽。

ガーシュウィンはアドリブが長すぎて違和感あり。あらぬ方向に膨らんでしまった。ピアニストは自己陶酔の世界に自分の世界観で浸っているようだ。どうしたことだろう。
「デトロイト響 feat. 小曽根真」といううたい文句はもしかして客寄せの意味合いがあったのかと思うのだが、スラットキン&デトロイト響のビッグワールド、これではなく、アイヴスのシンフォニー2番でも置いてくれたら、後半のコープランドともども、決定的な公演になっていたように思う。

メンバー表を見ると弦を中心に中国系のかたが大変多い。時代とともにあるのだろうが。


参考
1980年代前後のニューヨーク州マンハッタンでのビッグファイブを中心としたブロードキャスト。

月曜日WQXR 9:05pm ボストン響
火曜日WQXR 9:00pm  フィラデルフィア管
水曜日
木曜日WNCN 10:00pm カーネギーホール公演(アメリカの国外団体)
金曜日WQXR 9:05pm デトロイト響を中心にアメリカ国内オケをリストアップ
土曜日WQXR 9:05pm クリーヴランド管
土曜日WQXR 午後 メトロポリタンオペラ、マチネー・ライブ
土曜日WNCN 9:00pm アメリカ国外団体のアメリカ公演とヨーロッパ公演
日曜日WNCN 1:00pm シカゴ響
日曜日WQXR 3;05pm ニューヨーク・フィル
他省略(ほかにもある)

木曜日のカーネギーホールでの公演は1時間の抜粋もの。他は概ね2時間枠、割愛といったことはしない。2時間枠越えのものも全曲放送。メトは公演丸ごとの全米向けライブ放送。

金曜日のWQXRはデトロイト響を中心にアメリカの著名オーケストラ公演を放送。ニューヨークでの位置づけはブロードキャスト的にはビッグファイブの次がデトロイト響だった。

以上、1980年代とその前後のマンハッタンでのFM放送、およびサイマルキャスト放送、抜粋。(記憶と保有資料より)
おわり




2383- マーラー、葬礼、大地の歌、ラーション、キルヒ、インバル、都響、2017.7.16

2017-07-16 18:29:04 | コンサート

2017年7月16日(日) 2:00pm 東京芸術劇場

マーラー 交響詩 葬礼  22′

Int

マーラー 大地の歌 9-9-3-6-4-27′
  コントラルト、アンナ・ラーション
  テノール、ダニエル・キルヒ

エリアフ・インバル 指揮 東京都交響楽団


前日、ノット&東響による復活を聴いたばかりで今日はインバル&都響による葬礼からスタート。ほぼ、復活第1楽章のまま。細かく見ると少し違いはあるようだけれども、それよりもなによりも昨日の今日で、演奏の違いを感じるところが大きい。
インバル&都響のマーラーを観てるとインバルは特に何もしてないんじゃないか、などと思うことが常々あったのだが、こうやって並べてみると、そんなことはまるで無くて、リハまでのインバルの意図が克明に投影され、都響の表現を思うと意思が明確に反映されているといたく思った。
この80を越えた指揮者のポーディアムへ向かう足取りは速い。快速だ。いったん振り始めるとスパッスパッとなぎなた振り回すしぐさも鮮やかに余計な尾ひれはひれはワイプアウトされ、むしろ齢を重ねるごとにテンポはそう快、切れ味は鋭く、耽溺は不要、埋没は悪、みたいな世界観がより濃く出てきたような気さえする。それやこれや全部その場で出来る話でもない。入念なリハというよりは都響との長年にわたる結びつきの強さ、阿吽の呼吸の深さ。そういったことが綯い交ぜになってこのような驚嘆すべき演奏をサラリと事も無げに出来てしまうという思いの方が強い。インバル、都響、マーラーはまさにwin-win-winの関係。

マーラー安定の歌い口。まずこれが一番。あまりに自然すぎるというのも変だが、各セクション、ソロの節回しの自然な見事さ。これ、ほかの演奏を聴けばいかに自然に奏されているかよくわかる。
セクションのまとまりがいいのでステージでのパースペクティヴ感も手に取るようにわかる。配置ポジション通りのところから音が出てくるのだが、彫りが深い。立体的です。
その出てくる音はクリアで精度が高い。透明。ピッチの事もあるし、セクション同士のバランスの良さもある。インバルがそこにいるから、的な都市伝説であったとしても彼らの関係を思うにつけ、それもありかな。
モタモタしないベース開始から湧き上がり、スパッと切っていく葬礼は克明で明快。ノット東響の冒頭に見られたような緊張感や慎重さは、インバル都響にとっては過ぎ去りし過去の話であって、それはもはや忘れ去られたようにみえるぐらい骨身に染みついたもの、隠れ基本なのであって、今このマーラー演奏会では、その先の事を表現している。これはたいしたものだと納得。お見事な葬礼でした。


後半は大地の歌。
1977年、同指揮&フランクフルト放送響の音源を持っているが、その時の演奏よりもスピード感が増している。この齢にしてというよりも、上記のような指揮ぶりだから当然だ。深彫りされた内容は圧倒的で、立体感が増した分、時間が削られた。
インバル都響、ロマン性を排し、明るく美しい。死は暗いかもしれないが生は明るいものだと、そして暗い死のあとに訪れるものは明るい事なのかもしれない。

奇数楽章はテノールにありがちな指向性のあるもので、身体が動くと音源の放射角度が変化するのがよくわかる。よく聴こえたり聴こえなかったり。冒頭楽章はもっと馬力でかましてほしかったですね。
これに比して偶数楽章の長身痩躯ラーションはホールに満遍なく響き渡る声。オペラ風に殊更傾斜せず、あでやかな歌曲集歌唱の趣き。広がりが美しい。
インバルはこの場で特別何かをしているようには見えないのだが前述したとおりのもので、決まり具合が尋常でない。見事な演奏を醸し出しているのは間違いなく彼だ。
イーヴィヒは耽溺せず、クルッと終わる。このさばき。いや、終わりではない。と、まだ80ぐらいはいけそうだと。異色のシンフォニー。インバルにとってはポーズなのだろう。
鮮やかで残像消えやらぬ美しい大地の歌。ありがとうございました。
おわり


あのうまいhr3番さんが、大地の歌で2番席に移動していましたが、そういう曲なのかしら。


2382- 細川、嘆き、マーラー、復活、ノット、東響、2017.7.15

2017-07-15 23:37:50 | コンサート

2017年7月15日(土) 6:00-8:30pm ミューザ川崎

細川俊夫 嘆き  3+5+3+7+2′
 メッゾ、藤村実穂子

Int

マーラー 交響曲第2番ハ短調 復活  21-p3-11+11+5+35
    ソプラノ、天羽明恵
    メッゾ、藤村実穂子
   合唱、東響コーラス

ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団


細川作品の嘆き、これがもし日本人の手による詩、日本語の歌だったらどうだったんだろう、と一瞬脳裏をかすめる。ザルツの委嘱物だからまぁそれは実現しそうも無い事なんだろうね。
地底に漂う曖昧模糊としたマグマのような低弦の鳴り、それがチェロに渡されて徐々に高弦に移っていく頃には楽器の音というよりもむしろ人間の声のように聴こえてくる。大勢の苦しそうな声、第1部前奏曲はそんな世界がいきなり滲み出る。細川得意のヒュ~ドロン的なサウンドは押しのけられて音は流れずドロドロと漂う。こんな感じで5部まで連続する。
2部手紙では朗読のように始まる一通目、歌が輪郭を表わす二通目、それぞれがちょっとふくよかになったようにみえる藤村のメッゾにより語られ歌われる。ダークだ。真っ暗だ。時間の推移、事象と結果がかすかに見える。藤村メッゾはより低いほうにかけて幅が広がりよく聴こえてくる。この作品にふさわしい色合いと力感、それに柔らかさだ。なによりも詩に気持ちが乗り移っている。
3部間奏曲。地底のマグマが少しうごめいているようだ。塗りこめられた不幸な出来事は嘆きに変わる。
4部嘆き。トラークルの詩は時間が止まったように思える。5部の後奏曲にかけて音はやや浄化されてくるがそれらピュアなものまでブラックホールに吸い込まれていくように終わる。

2週間ほど前に聴いた細川の2014年作品のフルス(jp)ではバックのブラスに一時代前の響きを感じたのだが、今回の2013年作品嘆きは細川流の音になっていると感じた。リアルに突き刺さる。

3.11哀悼歌である嘆き、後半にマーラーのリザレクション復活、このコンビネーション。ノットの秀逸なプログラムビルディングの妙。

ところで、こんなにいいプログラムなのにプログラム冊子はこれ以上なく見づらい。
今日の演奏会プログラムはどこに書いてあるのよ。という質問の答えを考えればいかに見づらいものかすぐにわかると思う。

日本式の冊子配列は「今日の演目」のあとにすぐ「出演者紹介」があって、「作品解説」は最後に記載。
今回はそれに2か月3回分の公演を一冊にまとめてしまっていて、かつ3回分を「今日の演目」「出演者紹介」「作品解説」枠にはめてしまっている。歌詞テクストはさらに別にくくるという離れ技でまぁ、最悪に近い。正規化というのは作成者の作成処理効率の話であって、読む者のことは二の次にしているという典型的な例です。
これだけ離ればなれになるとは解説を書いた方は思ってもいなくて、こんなアウトプットになるとは想像もしていないに違いない。離ればなれになることによって非常にわかりづらいものとなってしまった。特に現代音楽の解説はその内容も含め、わかりやすく書く義務があると思っています。


後半は大仕掛けの復活。
1楽章のあとポーズをとってコーラス、ソリスト入場。5分休憩のマーラー指示に近い。2楽章以降は連続演奏。でも、音楽的なフレームは、第1,2,3楽章の束。4+5楽章の束。この2部バランス構成とも思えるが。

大仕掛けの作品の冒頭の緊張感。これからデカい作品に立ち向かうという緊張感は聴く方も同じ雰囲気を味わうものだ。
第1部のオーケストラは慎重に過ぎた感があって、進行が少しぎこちない。ノットが指示を多く出す状況。セクションサウンドは素直に実力通り。どのセクションもそうなので音楽が克明で立体的。角張った表現の楽章だったが力感溢れるもので前進力を感じる。
ウィンド4セクションは荒さんを中心にアンサンブルをしている感じ。今年の春祭りでブリテンのソロ曲を吹いた時もよく動いていた。今日も彼女の動きが引っ張っていっているようだ。
全体に中庸なテンポ、ノット・フィーリング。

慎重に過ぎた第1楽章でしたが、ポーズをとった第2楽章以降はだいぶもみほぐされた。
2楽章は気持ちも少しゆったりした3拍子。硬めに角張っていた音がザラザラとした地の音の肌ざわりになってきてマーラーを楽しむ余裕が出てきた。この楽章のオケは美ニュアンスを極めたもので実に気持ちがよかった。この2楽章が再度の起点のようになりいい具合につながっていきました。
3楽章は大規模なスケルツォ。やや硬めなサウンドが戻ってきて今度は非常に流れが良い。シームレスな音さばきがいいですね。シンフォニックなオーケストラルサウンドがこの3楽章まで続いた。原光と巨大な終楽章に向けてしっかりとしたフォームが出来上がった感じ。ここまでくるとやや硬い音楽的表現はノットのものだろうという気にもなっている。また、ソナタならばこの3楽章までの構成感からいってフィナーレは大掛かりなものになるだろうと先を見据える。

原光はねっちりしたものではなくてノットテンポで進む。藤村の味わいは深い。声に幅があってかつ透って聴こえてくるので非常に聴きやすくて居心地もいいもの。それに嘆きでもそうであったように歌詞に気持ちが乗り移っている。このリアル感。
しっくりとしてきた音楽の表情。終楽章の爆発へ。ノットはこの楽章に35分かけた。コーラスが出てくるまで20分待たなければならないけれども、その前に音楽的感興の高まり、ドラマチックな筆の運び、てんこ盛りで飽かずに聴かせてくれる。東響の明るく輝かしいサウンドはさらに輝きを増し冴え渡る。燃え上がる炎のようで最初から聴いてここまで来て、感動的。力強く美しい。
再現部突入後コーラスとソプラノが座ったポジションのままで歌い始める。東響コーラスというのはなにやら東響と同じような色彩だ。これは力強い。静かで厳かな開始から徐々に高まり、スタンディングの歌唱となり、べき乗の音圧になって迫ってくる。オーケストラの咆哮がホールのあちこちにぶつかり合い凄まじい圧力。ノットフルオープン。激しい指揮。濃厚フレーバー全開、そして2か月ほど前のブル5で魅せたようにコーダは一気に登りつめる。ここの音型は下降形、ブル5も同じ。でも高揚感は圧倒的、ノットの技が思いっきり冴えを魅せた瞬間であった。壮絶を極めた演奏は華麗だった。復活。アンビリーバブル・オーマイノット。
おわり


2381- ベトソナ20、悲愴、ハンマークラヴィーア、児玉麻里、2017.7.15

2017-07-15 22:01:36 | リサイタル

2017年7月15日(土) 2:00pm 第一生命ホール

オール・ベートーヴェン・プログラム

ピアノ・ソナタ第20番ト長調  3-3′
ピアノ・ソナタ第8番ハ短調 悲愴  8-4-5′
Int
ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調ハンマークラヴィーア 11-3-16-12′

ピアノ、児玉麻里

(encore)
4手ピアノのためのソナタ ニ長調op.6 第1楽章アレグロ・モルト  3′
ピアノ1、假屋崎省吾
ピアノ2、児玉麻里

*曲間トーク、假屋崎省吾、児玉麻里


このホールにはお初でかがいました。サイズはコンパクトでリサイタルにはいいものと思う。ピアノの音はサントリー系で焦点合わずもやっとしていて埃っぽい。
この日のリサイタルは、年一回のお祭りイヴェントのような雰囲気。始まる前のスタッフ連の粛々とした振る舞いは敷居の高いものでしたけれども、終わった後のお土産売り、サイン会段取りなどの張り上げ声、ごった返し状態。前と後ではこんなにも変わるものかとびっくり。トークお目当ての様なかたもいたように思います。
はしたないなりでペットボトルを飲みながら自席に向かう、あっちの席がいいわとだだこね、演奏構わずしゃべる、手を上に振るおじいちゃん、等々おもしろい現象が色々とありました。品のない客が多い印象。
やるほうとしてはあまり仕事をしやすい場所ではなさそう。まぁ、見ないでプレイするのが一番かも。
プレイ前の二人トークも気になります。演奏への気持ちの切り替えはすぐに出来るのだろうか。客寄せトークなのだろうか。不要です。

ベトソナに集中できるコンディションではなかったがとりあえず聴く。

20番。大柄でアクションもデカい。鍵盤から両手を離し上に大きく上げ、クルッと決める仕草、指揮者でもあのようなアクションはなかなかしないと思う。メリハリが効いていて視覚効果あります。演奏もそうですね。この曲サイズは小さいものですけれども極めてダイナミック、装飾音の動きが速くて引っかかったように聴こえる時もある。ざっくりとした弾きながら後方席の客までうならせるものがある。まぁ、決然とした弾きですね。

悲愴。20番のカミソリが少し和らぎトロンとした雰囲気が出てきた。中間楽章は重くならず通過、これはこれでいいのかもしれない。

後半の29番は最初の20番の活力が戻って来た。内容的には本調子に非ず、完成度が高いものではなかった。この日のリサイタルのためにどれだけ練習をしたのかという思いが脳裏をかすめました。
1,2楽章は一気呵成。グイグイ押していく。両腕上げアクションもツボ状態。
アダージョ・ソステヌート楽章。強弱記号が現れるのは15小節目のデクレシェンドからのP、開始から強弱が今一つ定まらない。このホールのせいかもしれない。コンパクトと言いつつ横幅広で収容数は767人。天井が高く相応な叩きが要求される。一番弱めの音が比較的大きいので、それベースで音量増加をしていく感じ。大柄で叩きは申し分ない。弾きが均質でないところが散見、ムラがありこのミステリアスな世界にもう一歩安定感が欲しかった。終楽章は劇的なものではなくて流れを作りきれていない。

このシリーズ、今回が2回目で来年2018年7月1日に第3回目として30,31,32を弾くようです。落ち着いて仕事が出来る環境でじっくりと聴きたいものです。
おわり

 






2380- イベール寄港地、サン=サーンスpf協5エジプト風、ショーソン、シンフォニー、秋山和慶、新日フィル、2017.7.14

2017-07-14 23:24:46 | コンサート

2017年7月14日(金) 7:00pm トリフォニー

イベール 寄港地  7-3-5′

サン=サーンス ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 エジプト風  10-11+6′
 ピアノ、パスカル・ロジェ
(encore)
サティ ジムノペディ第1番 4′

Int

ショーソン 交響曲変ロ長調  12-8-13′

秋山和慶 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


一昨年2015年に新日フィルを40年ぶりに振りそれから2年。フレンチプログラムで再登場。

寄港地はローマから。ドビュッシー牧神の雰囲気が濃厚の開始、すぐにブラスセクションが活力を与え、情景が次から次へと展開していく。チュニスからネフタは妖しげな静けさが漂う。終曲バレンシアは跳ねるような音楽で色鮮やかに目まぐるしく変化。15分余りの佳作。秋山の絶妙なニュアンス、洒落た棒が光る。

エジプト風。たしかに言われればエジプト風かもしれない。フランス風味とのブレンド味が最高。噛みしめつつ味わい尽くす。香りが漂うようないいサウンド。
ロジェはどっかわるいのではないのかと心配したくなるほど見た目ストイックな表情。ガラスを撫でているような響きは独特。右左両方の指、真上から全てが均等な圧力で鍵盤を押しているような具合だ。フレーズもハーモニーも同じ強弱バランスで、ガラスを叩いているような感じで音楽というよりも音の響きを追って行っているようだ。見た目はかなり端正。
終楽章をはじめとしてオーケストラが大音量となるところが多いけれどもピアノは埋もれず、響きがきっちりと聴こえてくる。肩の力が抜けたあっさりプレイながら、フィナーレの登り坂はエキサイティング。淡々としたプレイから徐々に加熱、作品に語らせるものでジワッときました。
オーケストラ伴奏がこれまた素敵。イベールの美ニュアンスがエジプト風でも同じような表現で美しい。鮮やかな演奏でした。

後半のショーソン。規模が大きく深刻な作品。第1楽章の序奏は3分ほどの大掛かりなもの。提示部の1,2主題はメロディーラインにあまり魅力はないがハーモニーにフランク的なところが垣間見られる。3楽章スタイルでスケルツォに相当する部分が無いが形式が明確で飽きさせない。秋山棒は滑るように進行。起伏が自然で音楽的なうねりがよく出ている。メリハリつけたアタックが節々に出てきてフレーム感覚もありました。
このショーソン楽しめましたね。
気がつけばフレンチ3曲、全部おいしくいただけました。
ごちそうさまでした。
おわり





2379- ハイドン、ゲリエ、ベト7、鈴木秀美、読響、2017.7.12

2017-07-12 23:00:15 | コンサート

2017年7月12日(水) 7:00pm 東京芸術劇場

ハイドン 歌劇「真の貞節」序曲  5′
ハイドン ホルン協奏曲第1番ニ長調  5-6-3′
  ホルン、ダヴィッド・ゲリエ

ハイドン オラトリオ「トビアの帰還」序曲  5′
ハイドン トランペット協奏曲変ホ長調  6-3-4′
  トランペット、ダヴィッド・ゲリエ
(encore)
ハイドン トランペット協奏曲変ホ長調 第2楽章 3′

Int

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調  15+7-8-9′

鈴木秀美 指揮 読売日本交響楽団


最近指揮者としての活躍がめざましい、というのは首都圏のトップオケを振る機会が多くなったという話で良いと思う。
今日の前半はユニークなものでトランペット協奏曲とホルン協奏曲を一人で吹くという際物の伴奏。
その間に序曲を2曲。結構濃い。ハイドンの規模感、手応え満点、聴きごたえありました。
協奏曲のほうはそれほどインパクトあるものではなかった。トランペット協奏曲第3楽章の難しいパッセージは省略形で吹いていたと思いますし。

後半のベト7。
10-10-6-6-4対向、ノンヴィヴ。大型編成のダイナミックな機動力。深い切込み。ストレートな演奏で迫力ありました。が、
ホルンが最初から最後までずーっと不安定で、いつはずすか心配で楽しめませんでした。いつも、こう、というのがあるので、要対策物。一本化を図るとか。
おわり




2378- モーツァルトhr協4曲、Sym.17,33、シュテファン・ドール、アカデミッシェ・アンサンブル、2017.7.11

2017-07-11 23:24:29 | コンサート

2017年7月11日(火) 7:00pm 小ホール、武蔵野市民文化会館

オール・モーツァルト・プログラム

ホルン協奏曲第2番変ホ長調    6-3-3′
交響曲第17番ト長調      4-4-4′
ホルン協奏曲第4番変ホ長調  8-4-4′
Int
ホルン協奏曲第1番ニ長調   5-4′
交響曲第33番変ロ長調      6-5-3-8′
ホルン協奏曲第3番変ホ長調  6-3-4′
(encore)
ホルン協奏曲第4番第3楽章  4′

シュテファン・ドール、ホルン、指揮
アカデミッシェ・アンサンブル


ドールはここのところ日本巡りをしているのかしら。色々なところで演奏しているようですね。

小ホール429席、リサイタル等何度かここで聴く機会がありました。コンパクトで音も木目調で柔らかくて聴きやすい。ドールの音はソフトでシルクのよう。このホールによく合いますね。
アサガオをこちらに向けても音色は変わらないもので、やや幅があり暖かみがある。アタックは刺激的にならず、上から下まで滑らかに移動、音色も幅も同じ。全てが実に自然。それからピアニシモのニュアンスが細やかで美しさを極める。妙技、神技。結局のところ、どこが難しい曲なのかさっぱりわからなくなるという離れ技の連続。

プログラムはシンフォニーをコンチェルトでサンドウィッチする形で進行。ドールは指揮も兼ねている。コンチェルトではプレイ中はコンマスがオケを主導する。阿吽の呼吸でなかなかいいコンビ。シンフォニーではフルで指揮。休む間がありません。33番シンフォニーは規模有りますので結構大変そう。
4番コンチェルトの2楽章2,3小節吹いたあたりで一度ストップ。出が違っていたと思う。本人が指揮も兼ねているのでストップ、やり直しも自在ではある。弘法にも筆のなんとか。
まぁ、別に指揮者をたてるほどでもないといったところですかね。
それからオケ規模は大きなものではありませんが、この響きからご本人がはみ出るところが無い。ブレンド具合がものすごく良い。日常的にオケメンとして活躍をしているからなのだろうと推測。さすがのベルリンフィル猛者。

モーツァルトのコンチェルト存分に楽しめました。あらためて素晴らしい作品と再認識。それにとてもいい演奏で何もかも満足。
オーケストラには水野信行さんも加わっていました。これもラッキー。ドールのCDは持っていないが水野さんのはアルバム2,3枚持ってる(笑)。

演奏が済んでからサインをいただきました。静かな物腰の方で彼のホルンの音のような具合。ゆっくりとていねいにサインをする方でした。ありがとうございました。
おわり





2377- ハイドン102、ブルックナー3ノヴァークed v1、ミンコフスキ、都響、2017.7.10

2017-07-10 23:26:06 | コンサート

2017年7月10日(月) 7:00pm 東京文化会館

ハイドン 交響曲第102番変ロ長調 8-6-4+4′
Int
ブルックナー 交響曲第3番ニ短調 (ノヴァーク版第1稿) 21-17-6+14′

マルク・ミンコフスキ 指揮 東京都交響楽団


(duration of ab)

1st mvt. 4-2-2-6-2-2-1-2
2nd mvt. ABCBABCAcoda 2-2-2-1-2-2-1-4-1
3rd mvt. 2-2-2
4th mvt. 1-3-2-4-1-1-1-1


万年筆で文字を書いていると筆タッチが凄く良いときとまるでダメな時があって、ダメな時は考えもまとまっていない時が多くて全てが悪コンディション、ノリの良くない下手な字のものが出来上がる。この初稿を聴いているとそんな悪いときのことを思い出す。閃き無しで冴えも無しと思う。初演リハの際の演奏不能というのは技術的な話ではなくてやる方も聴く方ももたないという話だったのだろう。実際のところ初演時にもギヴアップが沢山出たようですから、タイムマシンがあれば作品よりもその惨状を見たかったというのがほんね。存在意義は最高峰の9番まで作った人の作品であることと3稿まであるうちの初稿だからという話だからだろうと疑いたくもなる。

ブルックナーポーズはほぼ無くて最初から最後まで割とせわしなく律動が繰り返される。演奏のほうもその律動を延々と繰り返す、それはそれで恐れ入る。
形式は崩壊しているのか成長段階なだけなのか、聴いていて辛うじてたどっていくのは可能だ。一番厳しいのはアダージョ楽章で、主題が3個なのは両端楽章からの伝染なんだろうか。ABCまで行きBAと逆に戻りそこからBとCを逆にしてBCAともう一度戻る。そのあとは付け足しのようなコーダ。3回目のAが一番濃くて長い。クライマックスの位置づけ。メロディーラインはABCと進むにつれて貧相になる。ブルックナーの筆のノリは良くない。
それから、両端楽章のソナタは第1主題の短さが耳につく。特に終楽章の第1主題はあっという間の出来事で第2主題が補てんしているような具合で長くなる。著しくバランスが取れていなくて名目上の形はあれどアンバランスといった造形的な部分でのノリの悪さも耳につく。構造美が感じられない。再現部のササっと切り上げにもあっけにとられる。
展開部はそれなりに十分展開されている。ツギハギのような主題羅列ながら相応な練りは入っていると感じる。後期作品でもこんなに展開部が長くなることはあまりありませんしね。
展開部に重心を感じるのでそこはスタティックな物腰、全体としては落ち着きのない作品、そのように感じました。
あと、終楽章コーダで前楽章主題がかすかに再帰するのは萌芽、と、一点の救いはあった。

ミンコフスキと都響の組み合わせを聴くのは3回目、最初がビゼー3作品を並べた短いプログラム。2回目がブル0を配したプログラム。今回が3回目。
ミンコフスキのプログラムビルディングにはむろんご本人の意思が良く入り込んだものだろうと推測される。今回のブル3初稿は奇を衒ったものなのか、遊び心なのか、発掘なのか、信念なのか。
ハイドンの序奏の入念さ、それとかい離した提示部以降の音楽作りは作為に過ぎるものでぎこちない。オケは殆ど揺れていない。著名指揮者の言うとおりに動いているだけ。シンフォニックなノリが出てきたのはメヌエット楽章あたりから。ここらへんから都響の硬くて明るめの音にさらに艶が入り美しい演奏となる。以前聴いたようなとろみのあるものではなくて比すと硬直さが前面にきていてどうもいまひとつしっくりしないというのはある。
このハイドンの指揮者の作為、やろうとしていることのオケの吸収度合い、それがブルックナーにも出ている。ハイドン後半滑り具合がよくなったのでブルックナーも比較的こなれた柔らかな雰囲気を醸し出しつつ進行していったのだけれども、揺れが無い。大野都響が田園で魅せたような全員歌う揺蕩うようなところがここでは見られない。ゆらゆらと揺れて歌うあの合奏があれば今日のブルックナーもなにかしらツボは感じられたように思う。
主題単位に堰止湖状態になる演奏は厳しい。作品がそのようなものなのでいたしかたないとはいえ、ここでは都響のオーケストラとしての機能美を総動員して大胆に歌い尽くす圧倒的な演奏、醍醐味を存分に味わいたかった。指揮者には抑えつけではなく開放がより必要だったと感じた演奏会。
おわり


2376- 魔笛、ラヴェル左手、バヴゼ、ツァラ、広上淳一、日フィル、2017.7.9

2017-07-09 23:11:51 | コンサート

2017年7月9日(日) 2:00pm 東京芸術劇場

モーツァルト 魔笛、序曲   7′

ラヴェル 左手のための協奏曲  18′
  ピアノ、ジャン=エフラム・バヴゼ
(encore)
ドビュッシー 亜麻色の髪の乙女  2′
G.ピエルネ 演奏会用練習曲  4′

int

シュトラウス ツァラトゥストラはかく語りき  33′

広上淳一 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


右手でピアノのヘリをつかんで左腕全部でパーカス風な激しい叩きを魅せたかと思うと、ウェットでドビュッシーのような色調の美ニュアンスを繰り広げたりと自在でビューティフルなバヴゼの左手。素晴らしい。ごもごもした音になりがちな曲、一点の曇りもなく弾かれるラヴェルには惚れ惚れ。やや太めでクリアなサウンド。大詰めカデンツァが静かに始まり次第に熱を帯び音のアヤここに極まれりの頂点までいき、圧倒的なオーケストラ伴奏の中、全員しなってフィニッシュ!これ以上長い曲には出来なかっただろうなと凝縮濃厚ラヴェルを満喫。なぜかドビュッシーのアトモスフィアに満たされる。
広上、日フィルの伴奏越えのパフォーマンスがこれまたえも言われぬ美しさ。柔らかいマッシヴサウンド、柔軟な筋肉は音楽の表情を広げて豊かにする。またときに飛び散るようなスプラッシュな音のシャワー。間近で浴びるブラス、ウィンド、弦、心地よい。
広上の棒は伴奏をはるかに越えて冴え渡った。

アンコール1曲目のドビュッシー、ラヴェルのあとのドビュッシーという感覚ではなくて、ドビュッシーのあとのドビュッシーという聴後感。なぜか予定調和的な響きを感じましたね。

前半冒頭のマジックフルート、これもいい演奏で、ラヴェルで魅せてくれたオーケストラルサウンドの色彩がのっけからよく出ていた。びっしり敷き詰められた弦を押し分けるとまた弦が出てくるといった演奏、素敵でしたね。ウィンドの扱いも絶妙。
スポンジのようなペイヴメントそんな感じの佳演。

後半のツァラ、最初から肩の余計な力が抜けている。広上棒はダイナミックレンジを弱のほうに殊更とることはない。ナチュラルなプレイを要求。それに各小節の頭の音に押しが効いていて、同じような強さで結構長めに押す。オーケストラは余裕のザッツ幅でアタックの揃う縦ラインは何個でもあるものだと言っているようだ。この幅がソフトでビューティフルなサウンドを醸し出す。マーヴェラス。
ブラスセクション、手前のウィンド、そしてストリングと、この奥行き感、たまりません。オーケストラを聴く醍醐味です。ホルン6人衆に名フィルの安土さん、柔らかみがさらに増す。
広上は用意周到な下ごしらえをしている。オケバランスと歌い口、滑らかで自然ですね。ミスタートロンボーンをはじめとして各プリンシパルには自由に吹かせつつ全体を丸く仕上げていく手腕にはうなるばかり。清加コンマスのソロは体躯からは思えぬ強靭な弾き。音色具合がオケに同色で溶けているのでとろみの効いた音はいくらとトロが並んでいるかのようだ。

プログラムとしては短いもので、ピアノアンコールを2曲入れてくれたのは良かった。
本日で退団する方に広上さんが一言添えてお花を渡していました。
おわり