The New York Philharmonic on stage
in Carnegie Hall, c 1930
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ドットを落としてます。壁紙としてなら問題ないレベルだと思います。
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年末年始はあまり書くこともありませんので、とりあえず写真をアップしてます。
今日は、バースタインのヤング・ピープルズ・コンサート。
絵はドットを薄めてます。日付はご想像。
良き時代のもの。写真左上の立ったままの紳士たちはバンダですかね?
それとも立って聴いていたのか。
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バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督だったのは、1957年から1969年まで。
1957年から1969年までと記述したくなりますが、紛らわしい。
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シーズン制ですので、通常はこのように書くのが正しいと思います。
1957-1958シーズンから1968-1969シーズンまで。
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下記の●が音楽監督時代の振った回数です。
○は前後の監督時代に振った回数です。
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≪バーンスタイン指揮回数(音楽監督時代)≫
○ミトプーシーズン1956-1957 指揮21回 ピアノ2回
●1S 1957-1958ミトプー兼 61回 16回
●2S 1958-1959 127回 36回(*1)
●3S 1959-1960 115回 35回
●4S 1960-1961 82回 12回
●5S 1961-1962 56回 0回
●6S 1962-1963 94回 5回
●7S 1963-1964 63回 0回
●8S 1964-1965 10回 0回
●9S 1965-1966 82回 0回
●10S 1966-1967 89回 0回
●11S 1967-1968 84回 10回
●12S 1968-1969 47回 6回
○セル顧問S1969-1970 30回 0回
○不在S1970-1971 23回 0回
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(*1)36回中9回はハープシコード
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すさまじい回数です。定期、ヤングピープルのヴィデオ、国内外ツアー、などアンビリーバブルな回数。
さらに驚くべきは、この時代ものすごいセッション録音をしているわけで、それらは今でも衰えを知らぬラインナップで、合わせてみてみると、ほとんど人間業とは思えない。
彼の本を読んでいると、カーネギーホールの定期を終えてからそのままメンバーとマンハッタンセンターでセッション録音とか、ザラ、だったらしい。
神様、仏様、バーンスタイン様。
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時代や契約などが昔とは違うとはいえ、例えばN響に音楽監督、何回振ったっけ?という話で。文字通り桁が違う。
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それに注目すべきはピアノの弾きぶり。ハープシコードと合わせ最初の4シーズンで99回。
ミトプーもすごかったらしいが天才の後任にふさわしい。
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とにかくこの12シーズンと前後1~2シーズンは、ニューヨーク・フィルとの完全蜜月時代。オケとけんかしている暇があったらレコーディングをしよう、みたいな雰囲気だったと思います。双方、栄光の時代でした。
おわり
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(注)このカウントは1シーズンを、シーズン・オープニング・ナイトから、次のシーズン・オープニング・ナイトの前日までとした合計です。
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昔の関係でメトに少額寄付をしていて、ちょっとやめるとわりとしつこく郵便がきます。
この12月またありましたが、来年2013年のカレンダーがはいっておりました。そんなに大きなものではないのですが、アメリカ
的というか、裏面全部がマグネットになっていて、結構強烈。ためしに冷蔵庫の扉に貼りつけました。はがれそうもありません
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コピーしてご利用ください。
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なんでアメリカのオペラハウスなんかに寄付するんだよと、いうことになりますね。
日本のオーケストラとかに寄付するのが先だろうと、確かにそうですゎ。
まぁ、残像を追いかける、あいかわらずの夢追い人、そのつなぎの代金みたいなもんですゎ。
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メトの寄付金ランクは以下です。
・100ドル
・250ドル
・500ドル
・1000ドル
・好きなだけ
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2012年12月、本日選挙につき、三折坂を越えて投票にいってきました。4つ記入しないといけないので大変。
お不動さんはご覧のとおりお正月モード、近くの和菓子「だるま」は日曜だけどがんばってます。うなぎのにしむらもお店開いてますね。ほかにもちらほら。
だいたい日曜はお休み。28日が日曜のときは営業する店もあります。
目黒不動商店街のことです。
和菓子のだるま、レシートには「だる満」となってます。
投票の帰りちょっと寄ってみました。
おはぎ160
豆大福130
あんだんご100
大きくて柔らかくて新鮮でいいお味でした。
甘いもの好きなのでつい寄りたくなります。
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もう一個買いました。
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焼きたて直送、よろこんでいただきたくてササニシキ100%
厳選した原料と、永年培った職人の技術が練りあげた。
純粋せんべい、今だから本格派 370
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長い名前のおせんべいでした。
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オペラは生もの、舞台の時代を共有していないのであまり胃の底にズシリとくるものはないのですが、ニューヨークタイムズの追悼記事は長いものでした。
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ニューヨークタイムズ記事URL
http://www.nytimes.com/2012/12/13/arts/music/lisa-della-casa-opera-singer-dies-at-93.html?ref=music&_r=0
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NYT2012.12.12記事意訳.
Lisa Della Casa, Soprano, Dies at 93
By JONATHAN KANDELL
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リヒャルト・シュトラウスの主要なオペラの歌い手で、とびぬけた声、美貌、ずば抜けた舞台度胸を併せ持っていたスイス生まれのソプラノ、リザ・デラ・カーサがこの月曜日(*河童注2012.12.10)にスイスのミュンスターリンゲンで亡くなった。93歳でした。
彼女の死は、生前頻繁に出演していたウィーン国立歌劇場からアナウンスされました。
デラ・カーサは、ヨーロッパ1940年代の戦争世代に見いだされたソプラノの一人です。
シュトラウスのアラベラで、深い気品と熱い情熱を兼ね備えていたデラ・カーサは「やさしくて、行儀作法がないといったある種、弱な部分を魅せつけた」と、音楽学者のJ.B.スティーンは自著「The Grand Tradition: 70 Years of Singing on Record」に書いている。(*河童注:マクミラン出版1974/6)
同じくモーツァルトのオペラでの役も絶賛された。
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彼女自身が数えたところによると、こんくらい歌った。
200回以上歌ったのは、
アラベラ、
ドンナ・エルヴィラ、
アルマヴィーヴァ伯爵夫人、
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100回以上歌ったのは、
アリアドネ
フィオルディリージ
パミーナ
マルシャリン
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ヨーロッパの主要オペラハウスにおけるデラ・カーサの美貌とカリスマ性は、カラヤンのような著名指揮者でさえ、彼女の声を越えた魅力にやられてしまった。
「カラヤンはあたしをマルシャリンと思っていたし、信じて!彼の棒のもと、タンホイザーに出てくれないか頼み込んできたわ。」こんな感じで、たとえヴェーヌスのようにドラマチックソプラノか高声域のメゾのような彼女に相応しいとは思えないものまで。と、彼女は、ランフランコ・ラスポーニの著「The Last Prima Donnas」のインタビューに答えている。
「カラヤンはこう言ったのよ。カーサ、愛の素晴らしき女神たる正しきセクシーさをあなたは持っている。」
彼女は断りました。
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メトロポリタン・オペラでは別の不満を持っていたのよ、と彼女は話している。
総監督のルドルフ・ビングは彼女に同じ役をつけた。
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アルマヴィーヴァ伯爵夫人
ドンナ・エルヴィラ
マルシャリン
アラベラ
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メトでの147回の出演のうち114回がこれら4つの役だった。
「メトで歌っていた15シーズンは幸せではなかったわ。」デラ・カーサはラスポーニに語っている。
「だって、ビングさんはモーツァルトとシュトラウスのオペラに不可欠なものをあたしが繰り返し歌う、それ以外何かできることは無かったのよ。イタリアものフランスものは事足りていたしね。」
でも、彼女はめったに口論はしなかったし、オフステージでの約束もしなかった。
エゴやライバル意識むき出しで悪名高きオペラ界において、彼女の仲間たちはこのような彼女の行動を称賛した。
1940年代、アラベラ役で有名だったルーマニアの美貌のソプラノ、マリア・チェボターリは、若いデラ・カーサにズデンカの役を歌わせるよう宣伝してくれた。
「あたしがおせっかいやきますわ」チェボターリは、まだあまり知られていないデラ・カーサの才能に懐疑的だったウィーン国立歌劇場の総監督に言った。
デラ・カーサは、また魅惑的な美貌でもみんなのあこがれのまと。ドイツのソプラノ、アンネリーゼ・ローテンベルガーなんか、彼女をエリザベス・テーラーと比べた。
それにもかかわらず、彼女はその経歴の頂点55歳、1974年のウィーン国立歌劇場でアラベラを歌い終わったところで突然引退を発表した。
その後、彼女はスイスのコンスタンス湖の近くの城に、夫のDragan Debeljevicと健康に問題があった娘Vesnaとともに退きました。公に説明することもなくまた、リサイタルやマスタークラスも行うこともありませんでした。
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リサ・デラ・カーサは1919年2月2日にベルンの近くのブルグドルフで生まれた。父はイタリア・スイス人で眼科医、母はバイエルン生まれでレストランを経営していた。両親は音楽になじみ、オペラの経歴を積み重ねるよう彼女を応援した。
15歳の時、マルガレーテ・ヒーザーのもとチューリッヒの音楽院で声楽を学んだ。ヒーザーは彼女の唯一の先生で、ベルカントとシュトラウスの融合ということを教えた。
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デラ・カーサは1941年、スイスのSolothurn-Biel Municipal Theaterで蝶々夫人のタイトルロールでデビューした。それからほんの2年後、チューリッヒ市オペラハウスのメンバーとなりそこでは、メゾ役のばらの騎士のアンニーナでデビューした。
チューリッヒ・オペラでは魔笛の夜の女王とコジ・ファン・トゥッティのドラベッラを多く歌った。
第二次世界大戦後、彼女の活躍はオーストリアのオペラ舞台に移っていった。1947年にザルツブルク音楽祭にアラベラのズデンカ役で初登場した。彼女の初登場を聴いたリヒャルト・シュトラウスは「この小さなデラ・カーサはいつかアラベラを歌うなぁ。」
1947年の秋に、彼女は、これから27年アンサンブル・メンバーとなるウィーン国立歌劇場でリゴレットのジルダを歌いデビューした。
最初の結婚は短く終わったが、ユーゴスラビアのジャーナリストでヴァイオリニストのDebeljevicにあう。彼はカーサの仕事を管理し、さらに唯一の娘Vesnaの世話をすることに専念した。
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1953年にデラ・カーサはメトロポリタン・オペラにアルマヴィーヴァ伯爵夫人でデビューした。メトでは1968年まで歌い続けることになる。
最初の頃はドンナ・エルヴィラや蝶々夫人を歌っていたが、ニューヨークの批評家を惹きつけることはなかった。しかしアラベラ役で能力発揮。
「ウィーンの雰囲気ワイルドなものを感じさせるような彼女の登場、そこには感動と美貌のなかに若さがあった。」と、1957年、ニューヨークタイムズのハワード・トーブマンは書いた。「そして、その歌唱はいつも美しく正確で、よく歌いこまれ、フレーズも敏感に表現されていた。」
1960年代後半、デラ・カーサは出演を減らし始めた。特に彼女の娘が1970年にかろうじて致命傷をまぬがれた動脈瘤にかかった後は、さらに減っていった。
しかし、4年後引退を宣言した時はオペラ界は茫然とした。彼女は、お城とスペインの地中海の海岸の別荘とで、家族と過ごしました。
「歌手の運命に関する奇妙なもの」、彼女はラスポーニに言っている。「目的のためにすべてを捨て去らなければならないということなの、そしてそれは閃光の中ですべて終わるんですわ。」
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意訳おわり
以上、拙訳で申し訳ございません。だいたいの輪郭をつかんでいただければと思います。
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愛聴CDで追悼
HISTORIC
LISA DELLA CASA SINGS RICHARD STRAUSS
1990年頃買ったものです。だいぶ古くなりました。どこで買ったものか、六本木WAVEの輸入盤はロゴ入りの値段シールが付いているのでわかるので、これはそうではないですね。おそらく東急本店通りのビルの一角にあったころのHMVかも。
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4つの最後の歌
アラベラから3曲
アリアドネから1曲
カプリッチォ
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オペラは断片を聴いてしまうと全部聴きたくなる。
4つの最後の歌を聴いてみました。
1953年録音
カール・ベーム指揮ウィーン・フィル
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3.「眠りにつくとき」 Beim Schlafengehen
1.「春」 Fruhling
2.「九月」 September
4.「夕映えの中で」 Im Abendrot
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通常の並びを数字で示しましたが、このCDの収録順は上記のとおりで、「眠りにつくとき」が一番最初に歌われます。中間部の極めて美しいヴァイオリン・ソロが一曲目で、なんとなくもったいないというか、味わうには冒頭すぎる雰囲気もある。
これを聴きながら追悼します。
もちろん、アラベラ、アリアドネ、カプリッチォ、聴きます。
おわり
2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2012年12月14日(金)7:00pm
サントリーホール
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マーラー 交響曲第9番
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尾高忠明 指揮
読売日本交響楽団
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第1楽章27分
第2楽章16分
第3楽章13分
第4楽章27分
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この曲の情念とか、ドロドロしたもの、手垢にまみれたもの、といったあたりは横に置いといて、尾高流の比較的さわやかマーラーであり、一発公演ゆえの機能的要素の優先、結果、純音楽的に響いた。ということになると思います。
つきつめていうと結局、尾高らしさが前面にでた演奏内容になっていたと思います。
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練習不足があったと感じました。以前のブルックナー8番もそうでしたが、シーズン予定されているとはいえどちらかというと唐突感がある。シーズンプログラムの流れや指揮者の配置などを考えると、分断されるような雰囲気。シーズン中、この日は例外的なイベントの日なのだ、という雰囲気もない。
マーラーのオーソリティーではないし、一発だと練習も限られていると思うし、曲解釈の日常的な意思疎通や、解釈の移植をしにきたということもない。
だから、よりどころは、両者ともにスコアが第一義です。楽譜の中からのみ音楽が湧き出てこざるをえない。つまりスキル的な機能優先でありそれで曲は出来上がる。練習不足というのは、そのスキルレベルの流れの中で、勘どころを今ひとつとらえていない。指揮ぶりは、ロボコップ風にギク、シャク、昔と変わらない、そんな感じで流れも少し引っかかったりするようなところがあり、それが練習不足によるものと思えました。
ただ、十分な時間があり尾高の解釈がこのオーケストラに浸透したとしても、情念やギトギトした演奏になるかといったら、そうではない。この日の演奏スタイルが研ぎ澄まされる方向に進むのであって、結局、尾高さんの方向感覚だったんですね。深刻さからはかなりの距離がある。
専門家でないのでよくわかりませんけれど、例えば低弦とヴァイオリンが同時にでるフレーズで、よく聴かれるマーラー演奏だと、低弦がまず先にしっかり音を出して、ちょっとおくれて高弦がはいるといったことがたびたび聴かれます。スコアに「ん、パー」というところもあるにはあるのですが、尾高だとこうはならず、上も下もなくバーンと一斉に音を出す。こうゆうことがドロドロ感とかモヤモヤ感を無くしていく。純器楽的でピュアな響きになるんですね。
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プレイヤーは今、曲がどこらへんのあたりにいて、だからここはこうゆうふうに表現しなければならない、といったありのことまで深く考えて演奏するのは難しいと思います。それは指揮者の仕事。全部指揮者にゆだねて思いっきり演奏すればいいとおもうのですが、そこまで達していたかというと、なにか、冷たいときのN響みたいな感じで、気持ちの一体感より両者の乖離を少し感じました。純音楽的、器楽的に響かざるをえない。確信棒、確信演奏ではない。例えば、第1楽章終結部の奇妙なホルンのソロ、線細く、もともとあのような空虚な響きなうえに、奏者と指揮者の間にはクレバス的な歴史の断絶があるように思いました。
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尾高の棒はわりとドライに流れる。接ぎ木のようなところはなく、線がすれすれのところでつながって進んでいる。もしかして指揮する回数が減っているのかなぁ。
もしかしてブルックナーもマーラーもあまり得意ではないのかも。
おわり
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ご参考
2010年5月15日 ブルックナー7番 N響
1978年5月20日 N響定期
エルガーとかはまた別途。書くのが追いついていないので。
2012-2013シーズン聴いた演奏会観たオペラはこちらから
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2012年12月8日(土)4:00pm
サントリーホール
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ジョン・アダムス アダムス
主席は踊る~オーケストラのためのフォックス・トロット
(オペラ《中国のニクソン》より)
ブリテン シンフォニア・ダ・レクイエム
チャイコフスキー 交響曲第4番
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マイケル・フランシス指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
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後半のチャイコフスキーは流れが自然で、かつ折り目正しい演奏で好感が持てました。押すところはどんどん押していき、ピアニシモで歌うところは静寂が訪れる。細部耽溺型ではなく、ピアニシモの歌心も全体の流れの中でとらえている。このようなバランス感覚はいまどきの指揮者はあまりうまく表現できる人がいないと思うのだが、フランシスは流れが止まることなく蛇腹のように流れる。第2主題が第1主題とうまくバランスしていていい演奏と思います。個人的にはこのような演奏が好みです。短い静けさのなかに折り目正しい表現がみえる。
換言すると、端正と言えるかもしれない。
前半2曲目のブリテンにおける強烈なティンパニの導入、そして最後尻つぼみ的に終わる曲ですが、この最後部分にいたるまでうまく流れをとらえ、最後は端正を越えてむしろ素朴さの表現とでもいえるような結末。うまく流れました。味わい深い。
このブリテンの曲は得意とかそういったものを越えた使命感や、共感しまくっている、まさしくそのような演奏で、たとえどこの国のオケであろうが、技術的な問題があろうがなかろうが、やる。愛着みたいなものかな。そう感じました。
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チャイ4とレクイエムの話しが混ざってしまいましたけれど、スタンスはこのように同じだと思いました。チャイ4とレクイエムが同じぐらい印象深い演奏でした。
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チャイ4、演奏会2題。
40年の時を経て、
新日フィル/ハーディング
日フィル/フランシス
同時期に聴いたことになります。
どっちがうまいとか下手といった下衆の勘繰りはせず、両方楽しめました。双方、新たな歴史を刻み続けることと思います。
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一曲目のアダムス。この作曲家の作り出す音楽の本流はミニマルなんかではないと思っているんです。じゃなにかと問われるとわからない。
嫌いな作曲家ではありませんので、ことあるごとに聴くように努めている、のだが、どうもどの曲も、「ひらめき」のようなものを感じない。やにっこさがある。残尿感ではないけれど思いっきり吹っ切ることがなかなかできないもどかしさを感じる。音楽の本質とか考え方とか響きの癖のようなあたり、自分と少し違うのかもしれない。こちらも同時代の作曲家としての共感を今一つとらえきれていない。そんな感じ。
おわり
すいません、7年ぶりの寄港ですw
あれは2005年冬の夜の出来事、いつものように俳優座の隅の方あたりで待ち合わせをして、仕事のせいかご機嫌斜め、じゃいつも話していたあのお店に行こうかと電話をいれたら、たまたま空席があり、それでタクシーを拾い、西麻布の交差点を左折し共同石油をさらに左折し、左のビルで降りた。
最初は機嫌が悪かったが、カパオの聴き上手もあり、少しずついつものカパコに戻ってきた。ドンペリを2本チェイサーにしてワインを飲むという前代未聞の試行錯誤をしながら、もう記憶にないディナー「ふたサラ」を食べ終わり、ドルチェでたくさんケーキが出てきて、こちらはグラッパだけでいいのであまり関心が無かったのですが、カパコがケーキを全部食べたいというか全種類食べたいという荒唐無稽のリクエストをテレパシーで伝えてきたので、年の功のカパオのわがままなら片岡氏もきいてくれるだろうということで、あらぬリクエストをしたら、たしか12種、12スライスにしてくれておサラに出してくれました。カパコの喜びようはなかったですね。
そのあと、その夜はいつ果てるともなく、メラメラ、と。
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と、ここらへんで目が覚めました。
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今回は2012年11月の日曜日、渋谷でワルキューレ第1幕をみた後、うかがいました。この日は第2幕のジークリンデの涙雨を思わせる、あいにくの雨模様。スタジオパーク前でタクシーを拾うにもあてがない。入り口にドアマン風に4人!の若者スタッフがいたのでタクシーのことを尋ねてみたら4人ともボットw状態、よくみるとイヤホンをしている。こいつら何のためにここに立ってるんだよ、と心の奥底で思いながら、機嫌悪くなりつつ雨に濡れながら外でタクシーを拾ってアルポルトに向かいました。
西麻布の小道を進んだところで、お店の方が傘をさして傘を持って待っててくれてました。ありがとうございます。これだけで悪くなりつつあった機嫌も帳消し。
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この日は、相棒が食事の後仕事が残っていたので、長居をせずで駆けつけスプマンテと軽めの7980円のコース、それにワイン一瓶、をお願いしました。結論からいいますと結局3時間オーバーの滞在になりましたがw
ダメなものありますかときかれたのでイールはダメ、といったら、お客さんそのコースにウナギはついてませんよ、って言われましたw
肉サラ、魚サラをそれぞれ食しましたが、この日一番印象にあるのはパスタのソース。おそらく下ごしらえ、下味にものすごく時間をかけた感じでコッテリでおいしかったなぁ。
〆て3万1千円也。日曜の夜、悪天候にもかかわらず盛況でした。
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アルポルトは7年ぶりに入りましたが、1983年からですからもう30年。こんなに長いと、いいところはどんどん伸び、売り売り、定番定番の世界にはいってくるんでしょうね。
相棒の感想としては、お店のセンスとか時代感覚は、10月にいった恵比寿のマンサルヴァのほうが好みって言ってました。まぁ、あすこで食べたジビエのせいもあるとは思うのですが。.
次回訪問時もよろしくお願いします。
おわり
こちらのWebページを見てくださいませ。
(パソコンで確認くださいませ)
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河童メソッド3
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http://kappamethod.blog.ocn.ne.jp/kappa3/metprankingasof201207.html