河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1452- 耳で聴こう本格派指揮、ネゼ・セガン、ロッテルダム・フィル、庄司紗矢香、2013.1.31

2013-01-31 22:26:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちら
2012-2013シーズン
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2013年1月31日(木)7:00pm
サントリーホール
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シューマン ゲノヴェーヴァ、序曲
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プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第2番
 ヴァイオリン、庄司紗矢香
(アンコール)
バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番から、アダージョ
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ブラームス 交響曲第4番
(アンコール)
ブラームス セレナード第1番から、スケルツォ
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庄司さんちょっと元気無いような気がしたがきのせいかな。
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お初にお目にかかる指揮者です。NYTの記事を2回ほど拙訳したのでそれなりに馴染みはあります。NYTの拙訳リンクは一番下に書いてあります。
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まず素晴らしかったのはゲノヴェーヴァとブラ4。何が素晴らしかったかというと、音楽の造形が崩れない、奇を衒うことがない、構造をデフォルメしない。真っ向勝負で勝ちにいける。まずこれがしっかりしてれば作曲者当地の人たちも納得する。という話はどこかで聞いたことがある。ともすると、奇を衒い、構造を変形させる、といったことを、本質の核心からそらすために行なう指揮者がいる。全て理解したあとの表現であるならばわからなくもないが、表面(おもてづら)の理解が済み、「それだけだと何か足りないから」といった理由でいびつな変形解釈が今、割とまかり通っている。例えば、インバルなんかは、この真逆である。彼の時代とともにあった音楽を今でも熱く、そしていつまでもストレートに表現している。彼の時代共有音楽は今も生き生きしている。音楽の本質をとらえる作業を若い時からしてきたのだろう。一方、誰とは言わないが変形して力なく構造物が自然崩壊してしまうような演奏も多々ある。こちらは、時代を通して聴き手も含め、振り過ぎ、聴き過ぎ、その経験だけは過多、いろんな演奏パターンを演奏者と聴衆ともに共有化されてきており、それを前提にした変形解釈がみられるということ。別にこれだけなら悪くもないが、ダメなのは本質の理解と表現が全く足りないということです。
その意味でこの日の指揮者はドイツの構造音楽に真正面から取り組んでいるいまどきあまりいない若い指揮者であると思います。表現はオーソドックスだと思います。
ここではっと気がつかなければいけないのは、日本国内で聴いて消費している音楽やその解釈はもしかして井戸の中で聴いているのかもしれない。ブラームスの形式音楽をこのように正しく解釈し、聴衆が称賛する、聴く耳をもって。アメリカ、ヨーロッパで受けているのは、このような本質の共有がレベル高くあるからではないか。と思ってしまうぐらい、セガンのオーソドックス・スタイルでの説得力はたいしたもんでした。
それからもうひとつ、フレーズ出だしの角を滑らかにするのが彼流の音楽ストリームの作り方だと思う。角を滑らかにしたからといって音楽が流麗に流れるかどうかは別の話しであって、まぁ、セガンの今を聴きましょう。角は滑らかだが、音楽は流れるというよりどちらかというと垂直的だ。線が細くなることが無く太めで大きくなる。コントラバスを底辺にした正三角形の響きを志向しているように聴こえる。ウィンドが若干弱い(音量ではなく)、うまかったり濁ったり。セガンも現代の指揮者らしくオーケストラの機嫌をとりつつ自分の表現も行ないたい。相手がフィラデルフィアなら、このようなあたりは全く杞憂で頭をかすめもしないだろう。
セガンの指示は明確であるのだが、あるべきものがあるべきところで鳴る場合、あたりまえすぎて見向きもしないし指示もしない。やっぱり一歩先をいっているような気がする。
たまにオペラ振りになったりするが、音楽の縁取りを明確にするうえでは非常に有効な棒でありとらえどころがよくわかる。またブラームス的経過句については響きを重視、へんに道草ズブズブしないのが好感を持てる。
師と仰ぐカルロ・マリア・ジュリーニの、枯れて隙間から構造が見えてくるようなブラ4に到達するには長い年月を要すると思うが、真っ向勝負のブラ4、いい演奏でした。この曲最後の音、伸ばすか伸ばさないか。意識された短さは第4楽章の理解をより深く彫ることが出来ました。厚い響きが熱く鳴りました。
前半一曲目のゲノヴェーヴァ、これがブラ4に負けず劣らずよかった、順序が逆なので変な表現ですが、ゲノヴェーヴァの本格的な鳴りを聴いていたら、ブラームスもつい期待してしまう。早く聴きたい。そんな感じになりましたね。
セガンの棒で聴きたくなるのは、ベートーヴェンならエロイカ、エグモント、ブルックナーなら6番、ミサ曲、あたり聴きたいですね。マーラーは今いりません。
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プロコフィエフの2番は有名な曲でしょうが、ホント、やにっこいですね。作為的過ぎる、当たり前に作っていたらこんな曲出来るわけないだろうな、とついつい思ってしまう。庄司さんの音から始まります。ちょっとボーイングが弱いような気もしますが、均質な響きがずっと継続するので、音楽に集中できる。個人的には、演奏がどうだったというより、この曲がどういう曲だった。その理解を深めるのが先。何度聴いても今のところ深まりません。
庄司さんはアンコールも含めあんまり元気が無いような気がしました。前回の時の印象と随分と異なる。
曲の解釈の方針としては、指揮者も含めもっとドライな演奏が好みです。
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ロッテルダム・フィルは、アメリカ式の入場ですね。始まる20分ぐらい前から奏者がばらばらに入ってきて、いつの間にかまとまってチューニング開始。アメリカ方式はどこでもこうなんですが、最近はヨーロッパでもこの日のようなスタイルが流行ってきてるのかしら。
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記事リンク
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1448- Maestro With the Turtle Tattoo!! もうすぐ来日、絶好調男、ヤニック・ネゼ・セガン
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1449- A Foot-Stomping Night at Carnegie Hall ヤニック・ネゼ・セガン、フィラデルフィア管、カーネギー・ホール公演2013.1.17

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1451- 日本のBAR 74選、TO THE BAR

2013-01-29 22:01:26 | インポート

Scan10741

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某所で手に入れました。
単行本の方ではなく、文庫本ですので、切り絵がページ跨りになっているものがありますけれど、この白黒の切り絵、バーカウンター、マスターやスタッフのさりげない雰囲気、文章はそれぞれ短い紹介ですが、この切り絵を見ながら読めば格別な趣き。
カウンターに溶ける客でありたい。
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成田一徹 wiki
(昨年2012年亡くなりました)

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本は手に入りにくいと思います。amazon

Scan10742
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1449- A Foot-Stomping Night at Carnegie Hall ヤニック・ネゼ=セガン、フィラデルフィア管弦楽団、カーネギーホール、2013.1.17

2013-01-24 19:49:00 | NYT

 Photo_2


そろそろ来日公演を行なうネゼ・セガン&ロッテルダム・フィル。注目の指揮者。
今日のブログはロッテルダムの話しではなくフィラデルフィア管のこと。前ブログの続きのようなものです。
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ネゼ・セガンは、音楽監督を務めるフィラデルフィア管とニューヨーク公演を行いました。
ちょっと昔話にそれますが、アメリカのビックファイブのうち、シカゴ響以外はニューヨークでも定期を行なっている。フィラデルフィア管、ボストン響、クリーヴランド管、ですね。
ニューヨーク・フィルは地元なのでエイヴリーフィッシャーで週4回の定期。シカゴ響は自分たちの特別意識があり、イベント的にニューヨークにくる感じ。
マンハッタンでこれらビッグファイブを聴いた場合、チケットが一番高かったのがシカゴ響、次が地元のニューヨーク・フィル、他3オケは結構安い。
それで今はどうか知りませんが、フィラデルフィア管はカーネギー・ホールで定期を行なった後、前にバスが待っていてそのバスで帰っていくのを何度かみたことがあります。ハードスケジュールというのもあるかもしれませんが、割と近い。
近いと言ってもそれは距離の話で、前ブログに書いたように、なんといってもカーネギー・ホールで指揮をする、それもこの光り輝くフィラデルフィア管を振って。これがほぼ究極の夢でなかったら何を夢というのだろうか。道のりは遠く、また、気の遠くなるような勉強と練習。
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1月18日(金)のニューヨーク・タイムズNYTに、前日のカーネギー・ホール定期の評が載りました。
携帯が鳴ったようです。
それから日本だと最近は全く普通になってしまったオケ連中による指揮者への足の踏み鳴らし。NYTの評では、学生オケを振った指揮者に対する感謝みたいなことを、このカーネギー・ホールで見たと書いています。Foot-Stomping
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オリジナル記事はここ
ここにもおいてあります。
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以下、河童の意訳
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ニューヨーク・タイムズ
2013年1月18日(金)版
カーネギー・ホールで足の踏み鳴らしが起きた夜。
アンソニー・トンマシーニ 記
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優秀な学生オーケストラ・メンバーが、霊感を与えてくれた指揮者に対し、コンサートの終わりに特別に敬意を払いたいとき、オベーションで足を踏み鳴らします。
木曜(2013.1.17)のカーネギー・ホールでのコンサートでそれと同じことが起きたが、相手は優秀な学生オーケストラではなく、フィラデルフィア管のベテラン・プレイヤーからであった。フィラデルフィア管の音楽監督1シーズン目のヤニック・ネゼ・セガン、この37才のカナダ指揮者に対する踏み鳴らしであった。
昨年10月(2012.10)にカーネギー・ホール・デビューをした際、大喝采を受けた演奏会は異常ともいえるものだったから、驚く様な話ではない。しかし、強烈な弦、均質で豊かなアンサンブルは決していいとは言えなかった。
この日、ネゼ・セガンが選んだプログラムは、ラヴェル、シマノフスキー、ショスタコーヴィッチ。1919年から1937年の作品で、騒然とした音楽の時代に、モダニズムへの取り組みを示すもの。ネゼ・セガンはまばゆいラ・ヴァルスから始めた。しかし実際はその冒頭部分を2回演奏するはめとなった。指揮者のキューで低弦がまさに演奏を行なおうとしたとき、携帯の着メロが鳴り響いた。着メロはヴァイオリンの演奏だった。ネゼ・セガンは演奏をとめた。一呼吸あり軽い笑いが起き、再度棒を振りなおした。しかし荒々しくステージから消えた彼を誰が責めることができるというのか?
ラヴェルはこの曲を「ウィンナ・ワルツの神格化」と見なし、雲がちりじりになるまで踊ろうとするカップルが、最初に「渦巻く雲」を見るように始めると書いている。ネゼ・セガンは、この日の演奏ではその雲はワルツを踊るようなカップルのものではなく、まるで「春の祭典」でさまようダンサーが踊るような、音楽の原始的なものを引き出した。ラジカルな破壊とバックで起こる不吉な出来事、その両方をラヴェルは表現しようとしている。演奏はスコアの華麗さと奇妙さその両方を鮮明に表現していた。
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ポーランドの作曲家カロル・シマノフスキーの作品は近年、一流どころの演奏家がますます庇護している。この日演奏された1933年作のヴァイオリン協奏曲第2番を弾いたレオニダス・カヴァコスのような優れた演奏家もそうである。シマノフスキーのほかの作品と同じように切れ目のない音楽が20分の間続く。フランス印象主義、ストラヴィンスキーのモダニズム、スクリャービンの神秘主義といった異なった音楽の趣向を誘う。そこにはポーランドの民族音楽の跡だけではなく、東洋の異国風なものへのヒントもある。
甘い音と暗い色彩の素晴らしいコンビネーションで弾くカヴァコスは、秋のような温かみと絶え間ないエネルギー双方をうまく表現した。
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休憩の後はショスタコーヴィッチの5番。この大胆で曖昧な作品は「長調の主題の提示(注)」を叫び続ける。だから一般的に指揮者はそれについて何か言うべきものを持っておいた方がよい。ネゼ・セガンはそうした。
第1楽章では、ネオクラシック風な構造の中に悲しみの感情を与えた。しかしそれはほぼ表現主義的に見える音楽から強力なものを引き出すことであった。第2楽章スケルツォは重い靴を履いて威嚇するような踊り。第3楽章では葬式のようなラルゴを表現、フィラデルフィアの弦はその墓のような美しさをコラールのハーモニーであらわした。第4楽章フィナーレは容赦ない鋭利な力と波打つようなリズミカルな強さをもってオーケストラを猛然と引っ張った。最後の誇らしげな(極端に誇らしげな?)エピソードは、ショスタコーヴィッチの音楽を退廃的なモダニズムと非難したソ連の政府当局に対する皮肉な回答であったのか?この日の演奏は非常にドライブされていてかつ壮麗であり、そんなことは気にするようなことではなかった。
ものすごいオベーション。オーケストラは財政危機、リーダー不在という苦難の時代を切り抜けた。フィラデルフィア管は今、理想的な音楽監督を見つけたところだが、ネゼ・セガンは国際的な野心とフィラデルフィアに対するコミットメントをバランス取りしなければならなくなるでしょう。
ヤニック・ネゼ・セガン&フィラデルフィア管のカーネギー・ホール次回公演は2月22日です。
終わり
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(注)英文では、major statementとなっている。音楽的には「長調の主題提示」とでもなるのだろうが、政治的色彩を配慮すると「おおっぴらな声明」とでもなるのかもしれない。もしかすると、洒落かもしれない。よくわからず。
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1448- Maestro With the Turtle Tattoo!! もうすぐ来日、絶好調男、ヤニック・ネゼ・セガン

2013-01-24 01:00:00 | NYT

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2013年1月31日からロッテルダム・フィルと日本公演を行なうヤニック・ネゼ・セガン。
フィラデルフィア管に軸足を移しつつ二股三股と引っ張りだこの絶好調男。

1月11日のニューヨーク・タイムズに記事が掲載されました。長すぎる熱文ですが、なんといってもタイトルから面白く読めます。生まれたモントリオールでの出来事からその熱文が始まってます。
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オリジナル記事はNYTのここ
翻訳用にここにもあります。
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以下、河童、意訳。
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2013年1月11日
亀の入れ墨をしたマエストロ
ダニエル・J・ウォキン 記
モントリオールから
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先月(2012.12)、マエストロはモントリオール郊外のブルーカラーが多い地区の文化センターで聴衆を前にブルックナーを演奏した。ホールはコンクリートの壁で乾いて埃っぽい音響の地元高校の講堂。それにもかかわらず、400の席は家族やカップル、それに定年退職連中などでいっぱいだった。
マエストロ、ヤニック・ネゼ・セガンはマイクを持ち、英語から流暢にフランス語に変え、聴衆に話しかけた。当日の最初の曲バッハの組曲のときステージ上の椅子にまだ誰も座っていないことについて、彼は後半のブルックナーでは「全ての椅子に人が座るよ。」と約束した。
そしてその通りになった。
均整のとれたバッハの管弦楽組曲第2番とブルックナーの6番にすぐにスタンディング・オベーションが起こった。彼ら聴衆は、12年間モントリオールのメトロポリタン管弦楽団のアンサンブルの舵取りをしてきた地元の指揮者ネゼ・セガンが来たことを非常に喜んだ。
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そのような12月の出来事は、この木曜日(2013.1.10)にカーネギー・ホールでネゼ・セガンが体験するであろうことからすれば、遠くの叫び声のようなものだった。
なぜって?舞台はカーネギー・ホール、オーケストラは超有名なフィラデルフィア管弦楽団の音楽家集団。1900年の創立来、もっとも荒い対応(破産処理)の後、昨年2012年の秋に彼が音楽監督になったオーケストラなんだから。
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ネザ・セガンはオーケストラ・ゲームのトップに立った。(彼の名前の発音は、ネイ・ゼイ セイ・ゲン)
フィラデルフィア管に加えて、オランダのロッテルダム・フィルの音楽監督、それにロンドン・フィルの客演指揮者。
世界中の一流どころのオーケストラが彼を客演指揮者として招いている。同時に地元ではオケピットで活躍。さらにメトとの長期的な関係もある。レヴァインが彼を次期音楽監督として推した話もある。
そのような推測について訊かれたとき、ネザ・セガンはいつか一流のオペラハウスの音楽監督になることができたら、と言っている。
彼は続けてこう言っている。「今はまだ早すぎる、俺はまだ37だよ。今は何でもうまく進むし、この瞬間を大切にしたいんだ。」
ネザ・セガンは、普段オーケストラ界が絶望視している若くて、カリスマ的な指揮者なのだ。オーケストラの白髪のベテランからさえ称賛を勝ち取り、聴衆の熱狂を得る、そしてちょっと有頂天気味の批評家のお褒めも勝ち取っている。そんな指揮者なんだ。
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タヒチで休暇を取ったときに右肩に亀の入れ墨をし、皮のジーンズと深いVネックのセーターが気に入っているネザ・セガン、彼は完成されたマエストロとして技術的な表現や音楽的知識を持っている。
さらに普通では考えられないようなたくさんのエネルギーを自由自在に使いこなす。破けそうなぐらいの力でスコアをめくるとか、長時間にわたるリハーサルのあとでさえ湧き立つような感情を保っているとか、セッションとの写真取り、インタビュー、音楽業界連中とのミーティングのあとでも同じようにすごい。10月(2012.10)にはフィラデルフィア管を率い強烈なカーネギー・ホール・デビューをしたが、翌日、フィラデルフィアに戻りブラームスの4番の初演奏のリハーサル、でも椅子から飛び跳ねてました。
「俺は今はそうゆうことに釘づけ状態になっているべきなんだよ。」と彼は言う。
ネザ・セガンは音楽の流れに自分の型を押し付けていく指揮者のようには見えない。彼の動きは上半身の広がりが大きく、ときに背を曲げて獲物を待つピューマのように見える。
身長は5フィート5インチ(165センチぐらい)、鍛え抜かれた上半身。ソプラノのジョイス・ディドナートは彼のことをマイティー・マウスとよんでいる。
ネザ・セガンは大きな力で明確に、確実にオーケストラをリードする。また曲のクライマックスや終結部における鋭いセンス。しっかりと掌握し、のがれられない雰囲気を作り出す。オーケストラから不要なものは一掃し柔軟性を引き出す。
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また歌い手との仕事もこなす。
最近DGにドン・ジョバンニのドンナ・エルヴィラをネザ・セガンの棒で録音したディドナートはこう言っている。「彼は歌い手にうまく調和することと、オーケストラの指揮者として自分のビジョンを貫くこと、その双方をうまく両立することができるんだわ。確信、安心、その二つを両立できるっていうことよ。」
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2004年にヨーロッパで指揮デビュー、2009年のモーストリー・モーツァルトでニューヨーク・デビューした昔の少年聖歌隊員だったネザ・セガンにとって、当然とはいえ目の覚めるような成長がある。
しかし世界的に注目されるようになる前に、ネザ・セガンはカナダのいろんなところで年季奉公をしていた。マニトバのウィニペグ、オンタリオのキッチナー、それにヴィクトリア、ブリティッシュ・コロンビアといったあたりで。とりわけ、彼が今あるのは地元ケベックにおいてクラシック音楽への限りなく豊かな体験があったから。
彼が住んでいるモントリオールの家族、友達と過ごした時間は、彼の力強い解釈や、ケベックの音楽家たちのために1981年に創設されたメトロポリタン管弦楽団との長い結びつきのルーツであった。20年の間ここの首席オーボエ奏者をつとめているリーゼ・ボーシャンの言葉「スリッパをはく」これは「私たちは家族のようなもんなのよ」、それはオーケストラとともにいるということである。
ネザ・セガンは音楽学校時代一緒だったメンバーもよく知っている。16年間このオーケストラの準首席に座るヴァイオリニストのピエール・トゥルヴィル。オーケストラ付きピアニストで最も古くからの親しい友、ジェニファー・ボデージ。もちろん、核心となるマーラー、ベートーヴェン、ブルックナーなどのシンフォニック・レパートリーをこつこつとやってきたメトロポリタン管弦楽団の団員全て。
26才になるまでにマーラーの復活やヴェルレクのようなでかい作品を振っているし、このコンビで13のレコーディングをしている。
ネザ・セガンの経歴はもはや国際レベルである今、どっかほかのところに就任しないのか繰り返しきかれる。そのたんびに彼はこう言う。「どっかほかのところに行ってほしいわけ?」
あるとき、オーケストラ委員会が同じ質問を彼にした。爆発しました。
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ケベック州のとびぬけて豊かなクラシック音楽文化は、芸術それに教会の合唱やオルガニストらの強い要求による強固なローマンカトリックの伝統、それらに対する財政支出があるからである。
ここには800万人の人々が住み、12のオーケストラ、7つの音楽学校(それに音楽クラスがある大学もある)、それにクラシック音楽メディアの売上も大変なもの。
「ケベックでは、ヨーロッパとフランスの精神が近くにあり過ぎなんだ、」とネゼ・セガンは言う。同時にケベック州民は「この旧世代の負担」から開放されているとも言う。二つの文化と二つの言葉は「沸き立つるつぼを作るんだ。我らがここにいていつでもその存在の証明をする根源的なエネルギーだけではなくね。」「二つのことが同時にあること、生産的で、創造的だとおもうよ。」
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ネザ・セガンは、国際的な音楽シーンにあるケベック州の小さな流れをくむ指揮者です。ケベック市のLes Violons du Roy(フランス-カナダ室内管弦楽団)の創設者バーナード・ラバディーや、ニュージャージー交響楽団の音楽監督ジャック・ラコンブ、それに、オハイオ州にあるコロンバス交響楽団の音楽監督ジーン・マリー・ザイトーニ、などと同じように。
「うちら、今、あきらかに、黄金時代にいるよな。」オーストラリア、メルボルン交響楽団の最高責任者であるアンドレ・グレミルはeメールでつぶやいた。彼自身ケベック生まれで、ニュージャージー交響楽団の代表で最高経営責任者。ランコンブは2010年そこで音楽監督になった。(雇われた)
ケベックで一番有名な指揮者ネザ・セガンが、ケベックのトップアンサンブル、カナダで一番のオーケストラ、モントリオール交響楽団を振らないのは一見奇妙だが、メトロポリタン管弦楽団との対抗意識があるせいかもしれない。彼が若い頃は客演指揮をしていたが、2004年が最後のお招きだったらしい。
恩着せがましい音のように思えると断った。「俺がこのオケを必要としてるわけじゃあるまいし。」普通の外交的感覚ではなかったかもしれないけれど。
モントリオール交響楽団の最高経営責任者マドレーヌ・カルーは毎年彼を招待したけれど、拒否されるのであきらめた。「たぶん、このもう一個のモントリオールのオーケストラ(モントリオール交響楽団)は振りたくないんだわ。どうしても彼が欲しいのに。」
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メトロポリタン管弦楽団を振るためにモントリオールに戻ることはネゼ・セガンにとって、今でもとっても大事なこと。12月(2012.12)にはメイソン・シンフォニーク及びその近隣で二つのプログラムを振った。一つは、バッハとブルックナー、もう一つはバッハのカンタータとマーラーの4番でした。
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ネゼ・セガンは1975年、モントリオール生まれで、三人兄弟の末っ子。両親は大学で教鞭をとっていた。5才の時にピアノをはじめ、すぐにレパートリーを拡大、9才の時には有名なモントリオール・ポリフォニック合唱に参加。10才のときに指揮者になりたいと言った。「息子の遊び仲間は木の枝でヴァイオリンを弾く真似をしてたわ、でもうちの息子はステッキで指揮の真似をしてたの。」母親クロード・ネゼはそう言う。そして今は息子の個人秘書。
12才になり、ケベック音楽院で音楽理論の勉強を開始。一年後リハーサル等で合唱指揮を始めた。18才のときにモントリオール・チャペルというオーケストラと合唱を創設し、指揮者となった。
その頃、彼はヒーロー(ジュリーニのこと)に手紙を書いた。少年ヤニックはレコード店に出没し、教会の歌い手として、CDのほこり取りのアルバイトをしていた。あるときたまたまブラームスの1番をピックアップ、それはジュリーニが指揮しているもので、彼はその演奏にぶちのめされ、ジュリーニの録音をたくさん買った。
「それは音楽の創造の明確さだった。」彼は言う。「俺はスコアを見ているように感じたのさ。すべてのものがあるべきところにあったっていうわけ。それで結局、精神性や人間性の理解ということが俺の中で形成されていったんだ。」
音楽の高僧のような雰囲気がある尊敬すべきイタリアのマエストロ、ジュリーニに会いたいと2度手紙を書いた。そしてついに1997年の夏、トリエステでの4手のピアノ・コンペティションの間に、マエストロ(ジュリーニ)とともにこのコンペの聴衆としてミラノでどう?と言われました。
二人は結局、ジュリーニが最後に指揮をした年まで6回会いました。ネザ・セガンは、師のリハーサルに参加し、コンサートを聴きに行きました。ジュリーニは決して彼を見ることはなく、また棒の動きに関するレッスンもしませんでした。しかし、ネザ・セガンは重要なレッスンを受けたと言っている。
「ジュリーニは全ての人たちに敬意をもって接している。」と彼は言う。「ジュリーニは、俺自身のアイデアをさらに確信が持てるように自分に感じさせてくれるキャパを持っていたんだ。結果、それが、指揮することの最高のレッスンだった。俺が彼に尋ねたどのような質問に対しても全てこう戻ってくるのさ。『私がどう感じたかだって?私がどのように歌うかだって?あなたがどのように物事をシンプルにしているかだって?』」
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ネザ・セガンはほかにもう二人、個人的に影響を受ける出会いがあった。一人はアルフレッド・コルトーの弟子で、音楽院でピアノの先生だったアニシア・カンポス、もう一人はニュージャージーのウエストミンスター・コアー・カレッジで夏のセミナーで一週間にわたる指揮をしたジョゼフ・フラマーフェルト。ネザ・セガンがこの二人に教えてもらったのは10代のとき。
ネザ・セガンに最初にでかいアポイントがあったのは2000年、メトロポリタン管弦楽団の音楽監督。当時、状況は良くなかったが、いかなる腐敗も退けた。彼の前任者でニューヨークから来ていたジョゼフ・レシーニョはネザ・セガンを客演指揮者として迎え入れた。そして、オーケストラのチェアマンと前の大臣ジャン・ピエール・ガヴァーは不意に、レシーニョの後任としてネザ・セガンを指名する、と宣言。
レシーニョはその後、契約違反であるとして損害賠償を勝ち取った。
レシーニョはインタビューに応えて言っている。「ネザ・セガンが陰謀に気づいていたとは俺は思っていないぜ。」
ネザ・セガンは自身のアポイントを「完全な驚きとして受けとめた。」と言っている。
(ガヴァーは2011年に死んだ。)
彼が言っているもう一つのサプライズ、それは2008年12月、チャイコフスキー悲愴を振ってフィラデルフィア管のオーケストラ・デビューをした1年半後に音楽監督の話があったとき。
彼は最初のリハーサルのときフィラデルフィア管のメンバーに、パーフェクト・ピッチでw、こう伝えた。自分は何度もユージン・オーマンディ、フィラデルフィア管の録音を聴いてきている。それは彼がしばしば見せる音楽の伝統に関する類いのものであった。ネザ・セガンは言う。「最初の出会いのときから、我々は前世からお互い知っていたかのようだった。」
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長年モントリオール交響楽団の音楽監督をしていたシャルル・デュトワの暫定的なリーダーシップにより掌握されていたフィラデルフィア管はその時、漂流気味。
フィラデルフィア管は昨年、破産手続きから抜け出したアメリカの最初のメジャーオーケストラだし。
ネザ・セガンは、フィラデルフィア管の俺自身のゴールは、「フィラデルフィア市がこのオーケストラに、もっともっと前向きなプライドや真の情熱、そして自分たちのものという感覚、こういったものを示してくれるようにすること、フィラデルフィアをもう一度つかみとることなんだ。」
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10月にカーネギー・ホールでヴェルレクをやったとき、最後の音の後、20秒の間、腕を上げたまま。そしてようやく腕をおろした。彼はオベーションに茫然としているようだった。
人だかりの楽屋で仲間内の拍手を受けた。彼らはシャンパンをあけた。ネザ・セガンはトゥルヴィルを抱きかかえ目を見て「ウィ?」と言った。
「ウィ」トゥルヴィルは応えた。
戴冠式のような空気の中、オーケストラとカーネギー・ホール役員たちはネザ・セガンに乾杯をした。
「ここカーネギー・ホールで指揮をすることが私の最も望みあこがれていたものでした。」ネザ・セガンは「それがかなった。」

おわり
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1447- 未完に宿る男の浪漫、未完成、ブルックナー9番、インゴ・メッツマッハー、新日フィル2013.1.19

2013-01-23 22:00:00 | インポート

2012-2013シーズン、聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2012-2013シーズン
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2013年1月19日(土)3:00pm
サントリーホール
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シューベルト 未完成
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ブルックナー 交響曲第9番 (ノヴァーク版)
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インゴ・メッツマッハ― 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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未完成 14分(繰り返しあり)、11分
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ブルックナー 25分、13分、23分
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一回公演。オーケストラのレパートリーだと思うので、指揮者スタイルに合わせる練習がメインでしょうか。
ゴツゴツとした感じのメッツマッハ―ですけれど、よく観ると、弱起の歌をかなり強調している。アウフタクトに力をこめた振り姿、左腕を外側下から上にグインと持ってきて強調。小節の時間配分も弱起がやや長めにとられ、ウィンドのきわめて美しい歌が心地よい。ハーモニーのバランスの良さと響きの美しさ。ウエットさはない。
力強くバシッときまるのは強拍に力をこめるのと、全体的にメロディーラインに変に耽溺せず、あとくされなくサッと引きあげられるから。ここらあたりは当節流行の伸びきった歌いまわしの指揮者連とは異なる。昨日聴いたエッティンガーも一昨日のジンマンもこの点に関しては同じ。この点、普通のことを普通にできる指揮者たち。
メッツマッハ―は柔らかさと剛直さがうまく混ざり合った解釈、ちょっと強引な柔らかさ的なところもあるが、乾いた歌、ありだな。
この公演のお題「未完に宿る男の浪漫」にはふいてしまったがあながち間違いでも無いような。男の浪漫というより、この指揮者のロマンティックな解釈、とかなり大幅に変更を加えて換言出来る。
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未完成は聴けば聴くほど味わい深い曲。いまだにムラヴィンスキー&レニングラードを越える演奏解釈は聴いたことが無い。特に第2楽章、例のフォルテをメゾピアノで始める主題あたり、透明で冷たくて背筋がゾクゾクする、シューベルトの未完成の答えはどうしてもこっちなんだろうなと思ってしまう。
新日フィルはもっと横に広くフラットな感じだ。編成が大きすぎるとオケの解像度が落ちる、ムラヴィンスキー&レニングラード以外は。
メッツマッハ―のドライな歌は現代に生きる未完成のありようとしては、一つの主張であり魅力的ではある。
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ブルックナーのニ短調はやにっこい曲で、さらに第1楽章の第1主題の中で一つのクライマックスを作ってしまう曲想なので、第2主題、第3主題のウエイトがどうしても落ちるというかアンバランス。第3楽章終結部も8番に比べたらあっけないが、その前のウィンドによる不協和音の刻み、メッツマッハ―はクレンペラー並みのスローテンポで分解して見せた。やっぱりここらあたり主張しているんだろうね、自分は時代の旗手だと。
こうゆう感性が魅力的だと思います。
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メッツマッハ―の十八番はなんだろう?特にないのかな。
おわり
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1446- ロッシーニ、小荘厳ミサ曲、ダン・エッティンガー、東京フィル、新国立合唱2013.1.18

2013-01-21 21:00:00 | インポート

130118_184101
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2012-2013シーズン、聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2012-2013シーズン
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2013年1月18日(金)7:00pm
サントリーホール
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ロッシーニ 小荘厳ミサ曲 オーケストラ版
 第1~7曲
 休憩
 第8~14曲
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ソプラノ、ミシェル・クライダー
アルト、エドナ・プロフニック
テノール、ハビエル・モレノ
バス、堀内 康雄
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ダン・エッティンガー 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団

あいかわらず、下は右足首つま先立てて、上は左手の小指の伸びまで、そして口先をとんがらせて、両腕をリヤカーでも引くみたいにウカンムリ状態のしぐさでフルオケを鳴らすしぐさはバレンボイム瓜二つ状態なのだが、自分らしさも出てきたようだ。真似止まりなら表面的と言われようが、彼はそんなもんではないということは、トーキョーリング再演の偉業の前からわかりきっているわけで、マンハイムの次の位置が勝負どころになるとは思うが、いずれバイロイトに顔を出すであろうこの指揮者は今のうちにたくさん聴いておかなければならない。
自分らしさ、譜面台に譜面はあるのだがほぼ暗譜状態、消化しきっているのだろう。14曲100分のミサ曲をわがものとしている。それだけで素晴らしいと思います。ときたまジャンプします。ツボを心得ているような。
エッティンガーの、らしさというのは、楽器の扱いやコントロールと、歌のそれが同じということ。波や流れが同じで単調になると思いきや、そうではなく、合唱とオーケストラを合せて一個の個体という扱いにしているように聴こえる。換言すると、合唱曲やオペラの声をときにシンフォニックな扱いをみせながら、オーケストラの響きと相互に補完していくスタイルの棒。私にはそのように観えるし聴こえます。
エッティンガーの棒は基本的にシンフォニックなもので、歌をオーケストラという楽器の中で歌わせるきらいがあった。そのこと自体どうのこうのということではないのですが、この日の演奏ではそのように抑え込むことはみせず、それぞれを主張させ、結果、一体化して、よりふくよかな音楽表現を楽しむことが出来ました。
もっと端的に言うと、彼の棒でドイツものとは違うイタリアものを聴いた。
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合唱の能力は息さえ音楽にしてしまう余裕の素晴らしさであった。日常的なオペラハウスの存在が大きい。
オーケストラは前日のN響レベルには及ばず切れ味が甘い。オペラの魅力が沁みついているからだといわれれば、わかりましたというレベルではあるが。
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スターバト・マーテルほどのとっつきやすさがなくて、ミサにも縁のない人間で、リブレットを見ながら聴いても、はいそうですね。どまり。
そんな感じですので、この日のプログラム解説は1曲ずつ楽器、歌、緩急、強弱、響きといったあたりのことを簡素ながら的確に書いており、リブレットではなく、この説明を見ながら聴いていても進行が非常に良くわかるもので、個人的にも充実していた。
オルガンの第11曲、つづくアカペラ、長さバランスが逆ではないのかと思いましたが、ロッシーニの音楽、印象的なものでした。
エッティンガーにとって4人は物足りなかったと思います。表現を引き出せないもどかしさ、流れをつくれないもどかしさ。歌い手には積極性が欲しかった。歌い手のうち誰か一人でも自発的にあおってくれればみんな、なびくと思う。それがオペラ。
ミサ曲はオペラではありませんでしたね。
今節、メトでトゥーランドットを振った後、東京フィルでこのロッシーニ等、そのあとイスラエルにはいり、そしてマンハイムでは、継続しているリングサイクルをぐるぐる回転させていくタイトなスケジュール。リングの最中に6月にはウィーン国立歌劇場でトスカ、7月にはバイエルン国立歌劇場で椿姫、マンハイムではほかにもヘビー級のレパートリーが間髪入れずあるわけで、ああ、なんか半分うらやましい。
バイロイトへの試金石はマンハイムの次かな。先を焦らず、試金石はマンハイムなんだろう。
ところで、ダンってダニエルのことかな?
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1.キリエ7分
2.グロリア4分
3.グラティアス4分
4.ドミス・デウス5分
5.クイ・トリス7分
6.クオニアム9分
7.クム・サンクト・スピリトゥ5分
休憩
8.クレド4分
9.クルチフィクスス4分
10.エト・レズレクシット9分
11.宗教的前奏曲10分
12.サンクトゥス-ベネディクトゥス5分
13.オー・サルタリス6分
14.アニュス・デイ8分


過去ログから
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621‐ 2万パーセント・バレンボイム エッティンガー ファウスト交響曲 2008.6.13
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785- WALHALL ラインの黄金 オペラパレス初日 2009.3.7
790- エッティンガー ラインの黄金 オペラパレス2009.3.15
816- ワルキューレ再演 千秋楽 オペラパレス、新国立2009.4.15
976- ウォーナー・プロダクション再演 ジークフリート 新国立2010.2.17
977- 新国立劇場 ジークフリート キース・ウォーナー・プロダクション再演2010.2.20
989- 神々の黄昏 ウォーナー・プロダクション 再演初日 オペラパレス2010.3.18
990- キース・ウォーナー 神々の黄昏 再演 オペラパレス2010.3.21
992- 神々の黄昏 ワーグナー ウォーナー エッティンガー オペラパレス2010.3.27
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エッティンガー指揮、他省略。
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1445- 悲しき子守歌、浄夜、ブラ2協、エレーヌ・グリモー、ジンマン、2013.1.17

2013-01-21 20:10:00 | コンサート

2013年1月17日(木)7:00pm
サントリーホール

ブゾーニ 悲しき子守歌
シェーンベルク 浄められた夜

ブラームス ピアノ協奏曲第2番
  ピアノ、エレーヌ・グイモー

デイヴィッド・ジンマン 指揮
NHK交響楽団


指揮のジンマンは、先週のマーラー7番は評判が良くなかったけれど、この日のコントロールは良かったと思います。思うにでかいブラスまで手がまわらないというか、あまり深い関心がないというか、この日の演奏のような編成がしっくりすると思えました。
浄夜では棒の動きが音楽を引きだしており、それは見た目にもわかるたぐいのもの。久しぶりに一睡もしない30分を味わえました。
音楽は滑らかすぎることなく流れ、やや硬めのN響の弦の響きが縁取りを明確にし、主題構成、形式もクリアにわかり、また弦楽器のセパレートされた響きのバランスがほどよくて明晰、情感的味わいとは少し異なる自然な流れ。そのような演奏であったように感じました。
中規模編成N響の弦の響きは素晴らしく、筋肉質と呼んでもいいような引き締まった演奏でお見事。ジンマンが曲の魅力を存分に引き出してくれたと思います。ロマンチックに傾かないジンマン、彼の特徴だと思います。この日のプログラムの一週間後にマーラー7番をやった方がもうすこしコントロールとか意志が浸透していただろうなという気はします。
ただ、N響トップ連中がころころと毎週入れ替わり立ち代りで、オーケストラとして一貫性があるとは思えず、良くないことだと思います。事情はあると思いますが、見てて、オーケストラという個体の自負を感じない。
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ブゾーニのこの曲は初めて聴きました。全くわかりませんでした。点が線のようでもあるし、綱渡り的に進行する音楽。形式を感情の中に溶かし込むことができた、ということのようだが、聴き手もかなり深層心理にはいりこまないと理解は困難な気がする。
シェーンベルクもブゾーニもジンマンの十八番のように思え、それでアルテ・ノヴァからでて一躍名をはせたベートーヴェン・サイクルも理解できる。チューリッヒ・トーンハレなら動かせる。より高性能のN響相手では、特色の重さが一二度の客演で拭い去るには、人並み以上の能力がいるのも確かなことだろう。ブラスを取り去ったこのような曲ではジンマンとN響双方のいいところがでた。シナジー効果かも。
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後半のブラームスも、ウィンド(含むホルン)までの編成で、2本あるトランペットは最初のおさわり程度ですから、基本的にはプログラム前半と同じ方針でジンマンは進行出来たと思います。
N響の引き締まった弦は、バスまで行き届いており、メタリックとは言わないがボテ系の重さや妙な埃っぽさがなく、良い伴奏でした。
グリモーさんの録音はひところ新譜がでるたんびに買って聴いていた。その印象と概ね同じ。硬めでスキニー。彼女の引き出しに感情表現という移入箱はいまのところ無いようだ。一番大きい引き出しは、響き。
感情移入とかではなく、音の響き、響きで形式音楽の伽藍を作っていく。二人ともスローさが重たさを弁解するような表現はありえず、緩徐楽章でも飛ばす。
硬くてスキニーで明快な響きはボテボテしてなくて気持ちがいい。ですので結局、ジンマンとグリモーの共演が多いのもうなずける。
前週のマーラー7番のゴタゴタしたブラスの演奏より、この日の演奏の方がはるかに素晴らしい出来で満足しました。
おわり
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ブゾーニに関する本は、10年以上前に読みましたものですが硬派ながらお奨め。その中に、悲しき子守歌のことが書いてあったかどうか、今手元にないのでわかりませんが。
.「ブゾーニ ~オペラの未来」著者: 長木誠司
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●.

 


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1444- マーラー 7番 デイヴィッド・ジンマン N響2013.01.12

2013-01-14 00:45:00 | インポート

2012-2013シーズン 聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2012-2013シーズン
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2013年1月12日(土)3:00pm
NHKホール
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マーラー 交響曲第7番
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デイヴィッド・ジンマン 指揮 NHK交響楽団
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第1楽章 22分
第2楽章 16分
第3楽章 10分
第4楽章 13分
第5楽章 19分
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30年40年前なら生で聴けるだけで幸せな時代だった。
今では曲よりも演奏解釈に焦点をあてるのがあたりまえになった。
だから今でこそ、
フラットで流れず、跳ねないで歌わない、そういう演奏でした。などと言えるのかもしれない。
でも、ジンマンのそういう解釈なのかもしれない。
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ジンマンは個々の楽器にあまり指示を出さない。ブラスは全く揺れない。ウィンドは少しだけ右左にたまに動く程度。
また、第1主題と第2主題の区別をあまりつけていないようにみうけられ平板な流れとなる。静かでアダージョな気分の方にウエイトをおいているようにも聴こえる。
第3楽章を中心とした対象型というより、第4楽章は終楽章の雰囲気を醸し出している感が強い。
インストゥルメントは不揃いというより、個別に正確に奏されていないところが散見。
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結局、例えば、昔、ヴァントがN響にブルックナーの演奏を植え付けに来たあの雰囲気。遠い過去のものだけれども、あれの全く逆のような演奏。
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マーラー解釈に確信があればプレイヤーに練習でなにか植え付けれたと思うのだが、N響のほうも楽器によっては、めったにやらない曲を練習不足気味というか、感覚を忘れたもしくは知らない、そのような感じだった。
もちろん、一流プレイヤーが多いので譜面面(ふめんづら)さえわかれば立派な演奏になるのだからその部分は恐れ入る。
しかし、それ以上のものはなかった。
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個人的には、もっとパースペクティブをつけて、楽器がしゃくりあげるような演奏が好み。
それか、方向が違うが、切った刺身をまな板に乗せて魚を作っていくような冷えた逆進性みたいな演奏でもいいかもしれない。クレンペラーのような。
クレンペラーには時代共有のような共感があると思うのだが、ジンマンのマーラーに関するスタンスは、わかりません。
おわり
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【参考】

マーラー 夜の歌 ミヒャエル・ギーレン N響 1977.4.8

マーラー 夜の歌 ミヒャエル・ギーレン N響 1977.4.9
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マーラー 夜の歌 音源 河童ライブラリー

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1443- 【本】ヴァーグナー試論

2013-01-13 12:35:53 | 本と雑誌

20120429

ヴァーグナー試論
テオドール・W・アドルノ著
高橋順一訳
作品社・4000円

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評>音楽学者 岡田暁生

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起爆力を秘めた現代社会批判
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待望の訳書である。日本では意外に隠れ人気があるのか、アドルノの主要著書のほとんどは訳されている。だが彼の著作の中でもとりわけ難解で知られるこの記念碑的なワーグナー論だけは、なかなか翻訳が出なかった。ワーグナーのスコアと台本のあらゆる細部に通じつつ、同時にマルクスやフロイトやベンヤミンの思想にも明るい――そんな途轍(とてつ)もなく高いハードルを訳者/読者に課してくるのが、本書なのである。
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これはワーグナーを切り口にした19/20世紀社会論である。ワーグナーをハイアートと思うな。むしろ彼こそは近現代のあらゆるマスカルチャーの源流であり、独裁者とそれに吸い寄せられる大衆、プロパガンダ芸術、映像を駆使した広告産業などのルーツは、すべてワーグナーに遡ることが出来る。アドルノはそう考える。1930年代後半に書かれたこのワーグナー論は、暗黙の激越なファシズム批判でもある。
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本書における最も重要な概念は「ファンタスマゴリー」だろう。幻灯機のことである。これは映画の前身ともいうべき光学装置で、19世紀に大変人気があった。どこにも実体がない不可思議な光景が、光の戯れによって幕の上に虚構され、人々の目を眩(くら)ませ、脳髄の中で次第に実体となっていき、無意識の欲望を自在にコントロールしていく。ショーウィンドーの商品や映画やCMがそうであるのと同じように、ワーグナーの音楽もまた、ハイテクによって演出される現代の魔術の一つである。
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簡単に読める本ではない。だが、これだけ強烈な起爆力を秘める現代社会批判は、ざらにあるものではない。頭が割れそうな文章を、それでも何度も反芻(はんすう)して読んでいるうちに、突如として眩暈(めまい)がするような啓示が降ってくるだろう。訳文は極めて手堅く明瞭。これ以上分かりやすくしてしまったら、それはもうアドルノではなくなる。
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ちなみに舌を巻くアドルノのワーグナー通ぶりから察するに、本当のところ彼は熱狂的なワグネリアンだったのだろう。
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1442- 【本】音楽と感情

2013-01-13 12:35:05 | 本と雑誌

20120205

音楽と感情
チャールズ・ローゼン著

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出版:みすず書房
価格:2,940円(税込み)

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評>音楽学者 岡田暁生
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豊富な作品例と緻密な楽曲分析
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「音楽と感情」といえば多くの人は次のように考えるだろう。まず作曲家には何か表現したい気持ちがある。それを彼は音楽に託す。これが音楽を通して私たちに伝わる。聴き手も作曲家と同じ気持ちに染められる。従って作曲家がどんな感情を表現しようとしたかを知れば、もっと深く音楽に感動することが出来る、と。対するにこの種の「音楽における感情崇拝」を、素朴すぎるアマチュアリズムとして退ける人々も、もちろんいるだろう。音楽は何の感情も表現しない、作曲家がどんな気持ちを曲に込めたかなど、そもそも誰にも分からないし、分かる必要もない……。
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 本書の著者チャールズ・ローゼンは、どちらの立場にも少し距離を置く。まずセンチメンタルな感情移入型に対して、彼は実に素っ気無い。感動だの作曲家の苦悩だのといった話は、ここにはまったく出てこない。ただし彼は、感情がそれでもなお音楽の理解にとって必須だという立場を、決して譲りはしない。ローゼンが本書で追求するのは、いわば音楽作品における「感情の力学」とでもいうべきものである。
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 文芸批評家が詩の内容に分け入ろうとし、対するに言語学者が特定の感情がどのような言語構造によって生み出されるかに注目するとする。ローゼンの立場は間違いなく後者である。その作品において表現されている感情は単一か、それとも複数の感情の対立が問題になっているのか。感情の強度レベルは時代によってどう違うか。一つの感情がどれくらい持続するか。ある感情を表現するために、どのような構造が用いられているか。次々に譜例が登場し、緻密な楽曲分析が繰り広げられる。
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 決して読みやすい本ではない。だが感情に距離をとり、しかし決して感情を否定はせず、それに構造的にアプローチするという点にこそ、ローゼンの意図はあったはずだ。恐らく名の知れたピアニストでもあるローゼンは、多数の譜例を自分で弾いてみせたかったに違いない。いつかローゼン自身による譜例演奏のCDが発売されたらどんなにいいだろう。
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1441- 【本】隠れた音楽家たち: イングランドの町の音楽作り

2013-01-13 12:33:59 | 本と雑誌

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隠れた音楽家たち: イングランドの町の音楽作り
ルース・フィネガン著
湯川新訳、法政大学出版局・6600円
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評>音楽学者 岡田暁生

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英国にみる市民生活の豊かさ
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学生時代は別として、どれだけ音楽が好きでも、社会人になってなお音楽活動を継続するのは難しい。もはや音楽といえば、CDやコンサートを聴くばかり。高校時代に使っていた楽器は埃(ほこり)をかぶり、自分でする音楽はせいぜいカラオケ。こんな人は少なくあるまい。またサラリーマンなどをやりながら、頑張ってアマチュア・オーケストラでヴァイオリンを弾き続けていたとしても、自らの活動を「所詮素人芸ですから……」と謙遜する人は多かろう。それに対して本書の著者は、「プロの演奏を聴く」のではない、「アマチュアが自分でする」形にこそ、音楽の本来のありようを見出(みいだ)そうとする。
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もともとルース・フィネガンはアフリカをフィールドとする社会人類学者である。だが彼女がこの本でフィールドワークの対象とするのは、ロンドン近くの新興都市の音楽活動だ。例えばロンドンと比べるなら、こんな小さな町のコンサートライフは、取るに足らないものとも見えよう。クラシックのメジャー・オーケストラの来演もなければ、ポップスのスターがやってくることもない。そういうものが聴きたいなら、ロンドンに出かけていかねばならない……。だが目を凝らせば、そんな地方都市でも、決して大都会に遜色ない音楽活動が繰り広げられている。パブで行われるポップスやジャズのライブ、アマチュアの合唱団やオーケストラ、ブラスバンドや教会音楽。中には精肉店をやりながらプロよりうまい歌手がいたりする。しかし彼らの本業は、ミュージシャンではないのだ。
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こうした豊穣(ほうじょう)なるアマチュアの音楽文化は恐らく、19世紀以来のイギリスにおける「アソシエーション」の伝統と無関係ではあるまい。普段の職業とは関係なく、サッカーや合唱や詩の朗読やアンティークなどあらゆる趣味の領域で、大人のためのクラブともいうべき社交組織が活動してきたのである。音楽論というにとどまらず、豊かな市民生活とは一体何か考えるうえでも、とても示唆に富んだ本である。
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1440- 【本】ホロコーストの音楽

2013-01-13 11:09:47 | 本と雑誌

20121021

ホロコーストの音楽
シルリ・ギルバート著
二階宗人訳、みすず書房・4500円

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評>音楽学者 岡田暁生

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収容所の極限状態での歌と演奏

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「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、アドルノの有名な言葉である。あらゆる表象=「思いやること」を拒絶する地獄絵。そういうものを「歌う」空虚と欺瞞(ぎまん)。このような世界は、それを体験しなかった者に対して、詩や音楽を厳しく禁じる。深海のような音のない世界としてしか、私たちはそれを思い描くことが出来ない。にもかかわらず――実際のアウシュヴィッツにはいつも音楽があった。絶対の沈黙としてしか表象できないはずのものが、本当は様々な響きで彩られていた。恐ろしいことだ。収容所の中の音楽生活を描く本書が突きつけるのは、この二重に反転した逆説である。
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 アウシュヴィッツにはいくつもオーケストラがあった。収容所には当然ながらユダヤ人が圧倒的に多く、その中には優秀な職業音楽家も稀(まれ)ではなかった。グスタフ・マーラーの姪(めい)のヴァイオリニストもまた、アウシュヴィッツの指揮者をしていた(彼女はそこで病死した)。ナチス親衛隊の中には洗練された音楽趣味を持つ人もいて、彼らは収容者たちのオーケストラに耳を傾け、そのメンバーと室内楽に興じたりもした。そんなとき親衛隊員は意外にも「人間らしく」なることが出来た。また新たな収容者が列車で到着すると、怯(おび)えきっている彼らを落ち着かせるために、ここでも音楽が演奏された。そしてガス室送りになることが決まった人々が、誰に言われることもなく声を合わせて歌を歌い始めることすらあった。彼らは激しく親衛隊員に殴りつけられた……。
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 本書の淡々とした記述を前にしては、ただ絶句するしかない。極限状態にあってなお人は、収容者も親衛隊員も等しく、音楽を求める。それはきっと人間的な感情の最後の砦(とりで)なのである。絶対の沈黙に耐えられる人はいない。だが同時にアウシュヴィッツにおいて音楽は、本書の著者いわく、極めて合理的に「絶滅の工程に利用された」。本書を読んだ後ではもはや、「人々を音楽で癒(いや)す」などと軽々しく口には出来ない。音楽がもたらすものの美しさは、通常の世界でのみ許されている贅沢(ぜいたく)品なのである。
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1439- 【本】モーツァルトとナチス

2013-01-13 10:54:41 | 本と雑誌

Mozart20130113

モーツァルトとナチス

エリック・リーヴィー著
高橋宣也訳、白水社・4000円

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評>音楽学者 岡田暁生

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戦中・戦後の音楽の政治利用
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ナチス・ドイツによるワーグナーの政治利用はよく知られている。そもそもマッチョなヒロイズムを果てしなく煽(あお)るワーグナーの音楽こそ、ナチズムの原型そのものですらあるだろう。だがモーツァルトはどうか? そのロココ風の優美と官能と戯れとコスモポリタニズムは、一見ナチス的なものの対極にあると見える。そもそもザルツブルク生まれの彼はドイツ人ですらない。本来なら不道徳かつ不健全な退廃芸術の烙印(らくいん)を押されて上演禁止になっても不思議ではないところだ。だがナチスはなぜかモーツァルトを発禁処分にはしなかった。それどころか戦中の彼は、まるで「名誉ナチ党員のように持ち上げられた」。
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 モーツァルトのゲルマン化に嬉々(きき)と馳(は)せ参じたのが音楽学者たちである。大研究者たちの名前が次々に出てくる。彼らは戦中、至極真面目に「モーツァルトの音楽におけるドイツ性」を立証しようとした。またオペラの上演においては、ユダヤ人であるダ・ポンテのイタリア語の歌詞は、すべてドイツ語に翻訳されて歌われた。モーツァルト映画も作られた。とはいえベートーヴェンやワーグナーと違いモーツァルトは、どう小細工しようが、愛国心高揚には利用しようのないところがある。ナチスによるモーツァルトのアーリア化は、どことなく中途半端に終わった印象だ。
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 興味深いのはむしろ、戦後オーストリアによるモーツァルトの、ほとんど恥知らずな政治利用である。戦後のオーストリアが、あたかも自分たちはナチスの被害者であったような顔をし、戦後決算を曖昧なままにしてきたことは、よく知られている。ザルツブルクも含めオーストリアの多くの都市が、実際はナチズムの巣窟であったにもかかわらず、である。そしてモーツァルトの音楽は、まさにそのコスモポリタニズムの故に、戦後オーストリアが「自分たちはナチスとは違う」というポーズをとるための金看板として、利用された。国境を超えたオーストリア的友愛のシンボルへと、奉られ始めたのである。まったく政治による文化利用ほど度し難いものはない。
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1438- シリアスなカリスマ棒、大野和士、小山実稚恵、読響、ラフマニノフ3番コンチェルト、アルプス

2013-01-11 01:00:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2013年1月9日(水)7:00pm
サントリーホール
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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
 ピアノ、小山実稚恵
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シュトラウス アルプス交響曲
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大野和士 指揮 読売日本交響楽団
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やっぱり世界レベル棒は観た目も中身も、ちがうなぁとあらためて実感。小沢が若かった頃の八面六臂の活躍時代の棒も世界棒だった。そんなことを思い出した。
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大野は少し太ったような気がするが動きは冴えている。
自分の胸の前でガチッガチッときめていくあたりは若い頃のジュリーニの雰囲気、あすこまで過激な振りまわし棒ではないが、似てなくもない。また棒を持った右腕の押し出しはカラヤンやノイマンに似ている。ノイマンは少し硬かった。
左腕はフレーズにメリハリをつけるときに雄弁な動きとなる。ブーレーズのチョップのようだ。ときに交通整理的な気配もある。たとえどんなにこんがらかっても次のフレーズからきれいにスタートできる。等々。
一言で言うとオペラ棒。
克明な拍子取りは、リズムをとるための正確な拍子振りというよりも音楽を駆り立てる為の一要素でもありそうだ。ムーティなどと同じスタイル。
リズム取りをやめて滑らかなフレージング表現や、ときに棒を震わす感情表現はレヴァインなどもやる。音の流れに間を作っていくというより、頂点に向けて、ためを作っていきながら大きな流れを表現、圧巻。
アルプスの頂点で、腕と棒を下に押し下げていく、観た目の棒さばきに屈服する。
それと、節まわし的なフレーズの入りに微妙に腕で「こぶし」をつけていく。これなどオペラの振り。
同じオペラ振りでも、昨年の来日指揮者で言うと、ティーレマンの釘を抜く様な下から上への硬い動きとは正反対。ゲルギエフはもっと柔らかいが、釘を抜いてもう一度打ち込むあたりでようやくマリンスキーの第一音目がでてくる。これなどとも明らかに正反対。
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それから、笑わない、にやけない。オケにこびない。迎合しない。音楽だけに集中していくので、ステージに乗ったオーケストラに緊張感が降り注がれる。明らかに空気感が変わる。このオーケストラは古くはチェリビダッケや、現在のミスターSのように空気が変わることの意味を経験してきているのでよくわかっていることと思う。
空気が変わるというのはオーラが出るということかもしれない。
いずれにしてもシリアスなカリスマ棒であって世界レベルのオーケストラもこれなら納得でついてくるだろう。オーケストラを一瞬で掌握できる力を持っている。


アルプス交響曲というのは、チューバ2本揃えた、あとは推して知るべしの巨大編成。吹奏楽コンクールの自由曲約8分間の編曲にも耐える。
登るときも下るときも主旋律が下降音型という不思議な曲で、スペクタクルでありながらどことなく物憂げなところがある。標題音楽の中に心象風景を感じる。
大野の前にスコアはない。50分の間、いたるところ完全に指示が行き届いておりました。彼の演奏ヒストリーは知らないが、十八番なのは間違いないところ。さきざきのオーケストラで振っているのではないか。
縦を揃えてパーンとやるのではなく流れを作っていく演奏。聴く方としても一音一音味わいながら聴くことができる。ウィンドの中心的なソロ、ホルンの高音フレーズ、すそ野の草花の味わい。融けた氷のしずく。
弦の雄弁な表現。大海の波のようでもある。曲は山関係だが。
ブラスの圧倒的吹奏はなにかアイスバーン的だ。フレージングは滑らかだが粘着質にならず。ためを意識的に明確に作って劇的な表現となるが、変にねばりっけのある演奏とはならない。先に進んでいく。
表面的なパースペクティブ効果は曲から自然に出てくるので、流れを大野が作る。弦がうねりを作る。響きは大野の棒の先から見事に出てくる。これまで十分に消化したものの再構築。素晴らしい。尋常でない指示を見ているとこれまで胃袋4個分ぐらい消化してきているのではないか。
後半、終曲「夜」に至る前のオルガン・サウンドにはお尻が振動したが、なにか祈りのようでもある。大標題音楽の終曲はアルプス壁画を観るシュトラウスの心象風景であり静かな感動とともに終わる。大野の両てのひらが5センチほど動き曲は消える。ここで初めて長いゲネラル・パウゼが現われました。
お見事。
.

前半はラフマニノフの3番コンチェルト。
自分でイメージする理想の一夜プログラムビルディングはこんな感じ。
ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 pf、ホロヴィッツ
ラフマニノフ 交響曲第3番
.
この協奏曲はよく聴くと冒頭のゆれる小舟のような序奏に続いて出てくるピアノの主題が全てであとはそれの変奏のように聴こえる。
ピアノは最初から最後まで弾きっぱなしで緊張感の保持が大変だと思う。
ホロヴィッツはこの曲を何度も演奏、録音していて、そのみずみずしさと駆り立てで際立っている。手の大きさが見えてくるような演奏ですから。
この日の小山の演奏もみずみずしい。深く鍵盤を彫り、ときに水平に流れていく。表現が多彩で息をつかせない。
第1楽章後半少し緊張の糸が弛緩したような気がしたが気のせいだろう。この曲は緩んだら持ち直すのが大変だ。こっちのせいだな。第1楽章が終わればあとは終わった様なものだ。流れに身をまかせることができる。
第3楽章の終わりの前の、祈りのコラールのような響きが魅惑的で何度も聴いた曲だ。ここを小山さんはきめてくれました。
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大野はスコアめくりまくり。でも味わい深い。要所を締めるというか、ツボを心得ているというか、なんとも言えない曲との一体感。そしてピアニストとの呼吸。やっぱり棒が素晴らしい説得力を持って迫ってくる。
ラフマニノフ特有の最後の丸め込むようなエンディングをものの見事にきめて、音が終わっても腕と棒が振るえているあたり、演技ではない音楽感情の高揚感の押しとどめを自分でやっているようにも見え、この集中力、打ち込みがすごいですね。巨匠の芸風。
実力の指揮者だなぁ。
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ということでこの日は大野の棒を、お初のP席から隈なく観ました。
終わり


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