河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2477- ブルックナー全曲演奏 バレンボイム シュターツカペレ・ベルリン 2016年来日公演

2018-01-11 23:11:20 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月、日本で行われたダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリンによるブルックナー全曲演奏会のメモです。

2053- モーツァルトPfcon27、ブルックナー1番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.9

2054- モーツァルトPfcon20、ブルックナー2番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.10

2055- モーツァルトPfcon24、ブルックナー3番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.11

2057- モーツァルトPfcon26、ブルックナー4番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.13

2058- ブルックナー5番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.14

2059- モーツァルトPfcon22、ブルックナー6番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.15

2060- ブルックナー7番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.16

2063- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.18

2064- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.19

2065- モーツァルトPfcon23、ブルックナー9番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.20

以上




 


2065- モーツァルトPfcon23、ブルックナー9番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.20

2016-02-20 20:12:55 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月20日(土) 2:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488  11′7′+7′
       (カデンツァ:モーツァルト)

(Encore)
モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番第2楽章ハ長調 K.330 5′
モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番第3楽章ハ長調 K.330 4′

Int

ブルックナー 交響曲第9番ニ短調WAB109  24′11′25′
       (ノヴァーク版)

ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


この日、千秋楽も完全空白実現。

アダージョ楽章の弦の湧き上がり方は類を見ない。今まで聴いたこともないような表現で、何もないところからすーーぅと音が出てきて、そして力を増してくる。忍び寄るような雰囲気でいつの間にか耳に入ってくる。バレンボイムの棒とこのオーケストラでしか成しえないようなもので、陳腐な言い方なれどライヴのあの場でしか味わえないものだと思う。角があるとかないとかといったレベルを越えていて、空気の波動が無から変化が、少しずつ揺らぎが発生していくといったフィール。言葉にならない響きの美しさ、比類の無いものだと思う。
1番から随所にこのような表現がまき散らされておりましたけれども、この9番のアダージョは、無からの音の出具合とシームレスな流れ、極上でした。声にならない。
当然、経過句の味わい深さは絶品で、それ自身、まるでワーグナーオペラの場面転換でも聴いているような錯覚に陥る。味わいが濃い。バレンボイムは、ほかの指揮者がすっと通過してしまうフレーズを丹念に振る、逆にジックリの聴かせどころをすぅっと済ませてしまう、みたいな話しはありますけれど、そういった事というのは、このような表現の受け手側の感じ方に起因した物言いのように思えるのです。今日みたいな演奏を聴くとその思いを強くします。ワーグナーでも同じですね。
こういった響きの移動は突き詰めますとフルトヴェングラーの後継という思いはあります。

1番から全部聴いて色々と書いてきましたので、もう書くことはありませんけれど、発見はいくらでもある感じ。文字通り発見です。そこにあるのに分かっていなかったことが自分の前に現れてくるのですからね。

ニ短調シンフォニーは3番と9番、9番のほうがはるかにやにっこくて、カオスをより強く感じる。9曲の中で一番カオスを感じる。多用される不協和音はそのようなことを増す要因になっているし、楽章の構成感はほれぼれするしバレンボイムの造形も見事なものでしたけれども、作品自体がどこに向かうのか混沌としている。第1楽章の弱音終止のインパクトは大きいですね。それに8番同様スケルツォを2楽章に据えた。3楽章がアダージョでよかったというのは未完成作品であることを念頭においたものでそれなりにわかりますけれど、それやこれや全部含めても、3楽章まで聴いて4楽章がまるで浮かんでこない。このカオスを解決できる第4楽章なんて書けるんだろうかという思い。
特に第3楽章の最後の清らかなコーダよりもむしろその前の混沌とした響きの世界がブルックナーがやりたかったことではないのかと、これまた、現場で強く感じた。清らかエンディングに話がいきやすいのはロマンティックに過ぎる。
バレンボイムのあまりの素晴らしすぎる天才棒に唖然とします。問題提起されて終わった気もします。巨人の作品を世界最高峰の指揮者とオーケストラが完ぺきに演奏し、それでもなお、放り出されたような感覚。
ブルックナーは頭の中に、急がない、答えを持っていたのだろうか。


バレンボイムのブルックナーはやればやるだけ奥が深くなり、ベルリン・フィルとの全集は今回のサイクルで完全に色あせたものとなった。あれを今更でも聴くのは今回の思い出確認のため、ぐらいのレベルかもしれない。

拍手は15分も続きました。完ぺきなエンディングと完ぺきな聴衆による空白。そして熱い拍手とブラボー、サイクルへの感謝もありますね。
一般参賀あり。

今回のサイクル中、聴衆の音楽への圧倒的な向き合い、指揮者とオーケストラも強く感じたと思います。なにしろ一度としてフラブラもフラ拍もありませんでしたから。
完全空白の実現。ブルックナーもこの日本の聴衆に大満足し天国で狂喜しているに違いない。

それから、このオーケストラは手兵ですから当然といえば当然ですが、メンバーによる指揮者への迎合足踏みがサイクル通して一度もありませんでした。そんなことはこっちも忘れていました。そんな世界ではないんですね。国内指揮者のにやけた笑い棒も含めて、彼らの爪の垢を煎じて飲んでほしいぐらいです。にやける前にすることは山積みなわけですから。

9番の保有音源は79個です。
初めて買ったのはロジェヴェン&モスクワRSOのLPでした。第2楽章途中でひっくり返さないといけないあれですね。A面からB面へ、あすこでの裏面セット、正解とは思いますが。


前半のモーツァルト絶品でした。美しい、きれいなピアノの音が次から次へと。バレンボイムもこのサイクル、最後の弾き振りと言うこともあり殊の外リラックス。終楽章へはアタッカではいり、弾みも増してくる。ファインな演奏。
サイクル中これまで無かったアンコールまで、2ピースをサービスで。生き生きしておりました。音楽が生きている。これですね。


バレンボイムの偉業を見るにつけ自分のさぼり具合をあらためて感じる日々がしばらく続くかもしれません。バレンボイムはこれからも進化を続けていくでしょうし、ここでまとめの話は無いですね。
素晴らしいサイクル、ありがとうございました。
おわり


2064- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.19

2016-02-19 23:36:28 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月19日(金) 7:00pm サントリー

ブルックナー  交響曲第8番ハ短調WAB108  16′15′26′23′
        (ハース版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


ああ、、なんというか、もう、確信に満ち溢れた音がホールに充満。言葉にならない。声が出ない。

コーダ、ハイテンポにチェンジ、思いっきりハイテンション。重戦車が軽々と前進前進。指揮者のオーラ全開。
チェロとベースは一体化し、強靭、強烈。圧倒するもの凄いサウンドでユラユラと揺れ動くさまは醍醐味どころの話ではない。高弦は水を切る美しさと束ねられた強靭な手応えでブラスをも押し黙らせる勢い。このバランス感覚。そしてウィンドの空中に弧を描くような冷静にして美しいハーモニー。
猛速コーダで全主題を絡めて奏するさまは驚天動地の作品だというのがよく分かった。音色同一のホルン軍がスケルツォのふしを奏でる中、トランペットとトロンボーンが刻み、そのあまりの速度に圧縮して極端に短くなったトランペットの瞬間高音2個はあっという間、コーダ頭の上昇フレーズはここで一気に下降ラインを描きはじめ、執拗な下降フレーズを繰り返しつつ、バレンボイムが足を広げ、両腕を前に垂らしながらブルブル震える。そして少しテンポを緩め圧倒的な沈黙へ。
光り輝くブラスセクション、磨かれたガラスのようにきれいな音で太く強く。ブルックナー狂喜のスペシャル・サウンド。全楽章の圧力がここにきて開放、極致です。

バレンボイムのうなり声は6番のときが一番でかかったが、この日も負けじと、アダージョ楽章後半、クライマックスに向けてうなる、うなる。響きバランス越えの重力マックス、そしてホルンの静寂コーダへ、どれもこれも美しすぎる音楽のため息が次から次へと現れてくる、もう、バレンボイムの神業か。
終楽章もよくうなった。第1、3主題のブラスの咆哮、圧倒的。弦の克明な刻み。核心を感じさせる力強さ。そんな中、ううーう、うなり音楽をさらに燃焼させていくさまは、これまた圧倒的。もう、やっぱり、言葉にならない。


この日の演奏は、前日の川崎の公演と比べると全体で約5分ほど速くなった。場所の響きとテンポの関係もあると思いますが、1番からずっとサントリーホールで聴いてきたので、この日の8番のほうが落ち着くし、指揮者やオーケストラも公演通してなじんでいると思う。昨日の今日、両方とも凄いもんですが、全集としての一体感ということではサントリー公演。

昨日との違いを感じたのは、即興性とまではいかないかもしれませんが、例えばこのオーケストラと長年リハ等でバレンボイムの出す信号、例えば唇に指をあてた時の静寂指示といったことが、メンバーの身体に皮膚感覚としてしみついていて、リハで無かった指示にも正確に反応できるということ。このようなことはどこのオケでも指揮者でも仕事上の保有スキルとしてあるものだとは思いますけれど、さすがに同曲で前の日と違ったりすると戸惑いの反応あってもおかしくないと思います。
アダージョ楽章でのバレンボイムのコントロールは濃淡を極めていて、前日以上にそうとうディープ。信号を完全に理解して奏するオーケストラの能力が大したもんです。指示が前の日と違っていても、まぁ、聴くほうはハッとするわけですが、何事も当たり前のように反応していく。音楽が生きていることを実感させる瞬間が多くありました。

あまりの素晴らしさに声にもならない。
ありがとうございました。
おわり


メモ
この日はほぼ満員の入り。一般参賀1回あり。パラパラは少しありましたがフライングは無し。強烈なブラボーは静寂のあとで。
8番の保有音源は95個です。


2063- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.18

2016-02-18 22:45:49 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月18日(木) 7:00pm ミューザ川崎

ブルックナー  交響曲第8番ハ短調WAB108  17′17′27′24′
        (ハース版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


ざっくり書くと、サイードとのトーク本にもありますが、バレンボイム9才の1952年にザルツブルクでマルケヴィッチによる指揮クラスを受けていて、クラスのコンサートでピアノを弾く、そして、フルトヴェングラーFのオーディションを受けたらどうというエドウィン・フィッシャーの言でFに会いテストされ、Fからベルリン・フィルと共演しないかと持ちかけられたが、戦後まもない時代で、ユダヤ人家族、共演困難で、Fは色々他の指揮者たちに手をまわしたし、1954年のカラー映画ドンジョのリハなども見ていて、バレンボイム自身、Fへの共感、理解は相当深い。
Fはその1954年に68才という若さで散ったが音楽シーンでは知る人たちが多くいたわけで、かなり詳しいし共鳴度も他を圧倒的に凌駕している。
平衡に至るにはパラドクスと極端さが必要、カタルシスを音楽で達成するには極端さがいる。テンポのゆらぎの意味、並外れた強弱。といったF哲学はFが書いた本を読むしかない、それと残された録音。Fが書いた本を丹念に読み進めていくうちに、録音を聴いていくうちに、あらゆる指揮者が行おうとしていることをFはすべて内包しているように思えてくる。換言すると、この指揮者はこうだ、別の指揮者はこうするといったスタイル、それはFが行っている表現の一つずつでしかないと思えてくる。
まぁ、見た目の指揮も含め過激で極端過ぎて叩かれやすい部分もあるわけですが、同じような指揮者にチエリビダッケなどもいて、またバレンボイム自身も同じ目にあったりと、でも彼は彼らと同じ範疇にはいることを誇りに思っていると語っているので、そもそもの同質性の高さがうかがわれるわけです。
ちょっと付け加えると、このサイードとのトーク本はほかにも面白いところが山盛りで、ワーグナーのアコースティック、ワーグナー自身が考えて実現したアコースティックですね、もちろんテンポや厚さも含んでの話になりますが、ここらあたりは面白さの白眉ですし、この部分にFの話は出てきませんが、F哲学を完全に理解し意識したトークのように感じる。
ワーグナーの上演に関しては「バイロイト」のパルジファルの話が、アコースティックも含め興味深いものです。

それで、沈黙から始まって沈黙に終わる一連の行為は一度しか現れない。同じ作品でも毎回異なるもの。そんな話が色々とあるわけですね。

8番フィナーレ弱音導入から爆発アウフタクトで始まるコーダ、全く肩の張らない気張らない何かするっと入っていく殊の外すんなりしたものでした。すんなりしたバレンボイム棒の通りにオーケストラがやったという感じ、この日は。
クライマックスのコーダはどこからかという話は、この前(2016.1.21)聴いたミスターSの同曲の演奏会感想にも書きましたけれど、終楽章のコーダはここのところからと思うのですが、全曲のコーダはその前、再現部最終の第3主題3sが奏している中、突然、第1楽章第1主題がフォルテッシモで中断炸裂する箇所、あすこではないかと思うわけです。全曲のコーダというのは妙な言い回しですが、バレンボイムの棒を観て聴いてその思いを改めて強くしました。
4楽章のコーダは7番同様ハイな速度でもっていきました。Fはこれをもっと過激にしたものですがスタイルとしては同質ですね。バレンボイムは最後少しテンポ緩めますが、このあたりは現代の聴衆の雰囲気を皮膚感覚で察していることによる配慮ではないかと感じます。1番からずっと聴いてきて最後の一音の念の入れよう、押しの強さはそれまでの音価レングスに比して計算に合わない長いものとなっているのは、だまらせる意味合いもあるのではないかと思えるふしがあります。まぁ、あの、なで斬りとなったミスターSの圧倒的短さはこれはこれでスタイルですね、十分な。


今回のブルックナー全集大体同じような音の入りです。どの楽章のどの主題でも一音目が柔らかい。アインザッツとかアタックといったことを思い起こさせるような世界とはかけ離れているもので、というよりもそのようなものを意識して排除しているように聴こえます。長年同じコンビでプレイしているし、指揮者、オケどちらがどうだということもないような気がしますけれど、両者同じベクトルであることは間違いない。非常に柔らかく入念にアンサンブルとしての周りの音を聴きながら入る、全員そうですからこのアンサンブルの凄さは帰結のように聴こえてくる。凄いもんです。経過句も同じように推移していくので、しびれっぱなしです。
ここらへん、前よりも入念さが増しました。全体的に極端にスローなテンポでもないのに、全曲にかかる時間が比較的長めなのは、この入りの入念さが増したからです。この一音目の大切さは、音楽は沈黙から始まり、そのことの連続、そしてまた沈黙がくる。バレンボイムの言を俟たずとも明確にわかるところでもありますね。
音楽はなにかの表明でも存在でもない、生成であって、どのようにしてそこに至り、どのように去るのか、あるいは、どのように次のステップにトランジットするのか、そういったものだ、Fの言葉の通りです。

音の浸透、と自分では感じています。十分な時間とか深さとか色々と思い浮かびます。


この日は、一連のブルックナー演奏をしているサントリーホールではなくミューザ川崎。とぐろを巻いたような妙なデザインの客席、3階の横位置で聴きました。観づらい席で失敗買いでした。音はきれいに、よく響いてきました。
客席は85~90パーセントぐらい。フライングではないが余韻を楽しめない早めの拍手、このせっかちな拍手、なんだか、感動の拍手というより、曲や演奏の中身に関係なくぞんざいな拍手のように聴こえました。これまでのサントリーでの拍手とは少し違っていました。

8番の保有音源は95個です。
おわり


2060- ブルックナー7番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.16

2016-02-16 23:23:08 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月16日(火) 7:00pm  サントリー

ブルックナー 交響曲第7番ホ長調WAB107  21′21′10′13′
       (ノヴァーク版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


完全な空白、素晴らしい。
名状しがたい追い込み、そして完全空白。あまりの素晴らしさに頭がクラクラする。ブルックナーの神髄ここに極まれり。
しびれました。

フルトヴェングラーFもあのようなオーケストラ・ドライブで鳴らしたのだと思うと胸が熱くなった。
Fもバレンボイムも即興だとはいいません。あのような味付けは普段のリハーサルからしていて、本番でそれがさらに過激になるのだろうとは推測します。

終楽章フィナーレの再現部、バレンボイムはここからアクセルかけがらりと様相を変える。チリチリするスピードで追い上げそしてブレーキを少しだけおいてコーダへ突入。このテンポ。再現部よりさらに加速し続け乱れなく上昇エンド。Fを見ているような錯覚に陥ってしまった。両足を広げて指揮台の中央、両腕を斜め前下にぶらりと下げてぶるぶる振る姿、これはもはやFではないのか。Fが現れた。
コーダをあのような快速テンポの指定をする指揮者はほとんどおりませんですね。7番は5番や8番の下降音型エンドではなく、第1,4楽章ともに上昇音型で消える。第1楽章のコーダは天国的な装いで雲を突き抜け晴れ間を作って終わるのに対し、終楽章のコーダはそれに対するかのように運動を繰り返し、天国への階段をあっという間に登って行ってその高みに消えていく。唖然とする表現。この対の素晴らしさを最高の棒で聴かせてくれるのがFであり、そしてこの日のバレンボイム棒であったという話です。いやぁ、凄かった。声にならない。
駆け上がった階段音型はあっという間に抜けていってどこに行ってしまったのだろう、声にも拍手にもならない。ただ長い空白があるだけ。
しびれました。

7番にして初めて見せたバレンボイム屈指の表現。ワーグナーならもっとエキセントリックな表現が彼の場合、そこここに転がっているのですけれど、シンフォニストとしてもその神髄を垣間見せてくれたわけです。


第1楽章の第1主題1sと第2主題2sは、ほかの曲に比べて同質性が際立っている。1sが流麗なメロディーラインが主体になっているので、2sの他シンフォニー同様なしなやかな流れとの区別が律動という観点で見ればあまり変わりのあるものではないため、いつの間にか主題が推移進行している。この曲の場合むしろ2sのほうが少しだけ運動を感じさせてくれる部分もありますね。第3主題3sは前2主題分をまとめて反対にしたぐらいの激しいリズムとなっていて、これら対比は際立っています。
このオーケストラの弦の表現力というのは多彩なニュアンスと力強さ。それと、バレンボイムはにやけない指揮者ですけれど、このオーケストラは弦を中心に演奏でも出番がないところは隣と話ししたり、楽しそうな雰囲気の笑いとか比較的ありまして、バレンボイムに叱られないかこっちが心配になるぐらいですが、日本のオケだとにやける指揮者と笑わないプレイヤーみたいな感じで、それとは真逆の面白さがありまして、これが何に起因するのかわかりませんが、むしろ、結果であるような気がします。それで、そのようなプレイヤーたちの生きたサウンド、特に弦の芯の太さといいますか手応え感満載のグイーンとくる響きが1sと2sで違った色合いとなりその推移も含め鮮やかなんです。表情の違いがよくわかるオーケストラの響きです。
コーダ関連でいうと、第1楽章のコーダは同楽章1sのフレーズ、第4楽章は同楽章1sのフレーズをそれぞれ引用したメロディーラインですから、バレンボイムとFが魅せた最後の部分のエモーショナルな棒というのは、ここに起点があるわけです。生成時点で昇華が見える作品で、その配置を見事に表現した演奏行為だったわけです。ですので、両楽章の1sはしっかりと把握しないといけませんですね。
ちょっと話がそれてしまいましたが。

展開部における主題の混ざり具合もいいもので、提示部でのオーケストラの表現力がここでもよくわかります。本当に多彩なニュアンスが魅力的です。バレンボイム棒にぴったり反応するあたりも凄いです。
そのあとの再現部、コーダの進行も含め、この第1楽章の造形は完ぺきと感じます。流線形とリズム、2:1ぐらいの比でしょうか。これらも含め最高のバランスですね。バレンボイムの見事な棒です。

第2楽章も弦の歌は第1楽章と同じく濃いものです。ブルックナーのため息を聴いているようなおもむきで深い味わいです。バレンボイムは主題の滑らかな歌と経過句とも言えないぐらいの小さなフラグメントも見過ごすことなくじっくりと聴かせてくれて、これまでの演奏会でも聴かれた随所にあるピアニッシモからの息をのむような静かなクレシェンド、効果的です。
シンバルとトライアングルを含んだクライマックスは何が何だか分からなくなるような音響バランスを感じさせました。
前日6番で1番吹いていたホルンの方、この日はワーグナーチューバの1番。安定した吹きと、ホルン同様、この4人のワーグナーチューバの音の同質性も見事です。バレンボイムは綿々と葬送の深みにはまらず、このアダージョ楽章は第1楽章と同じぐらいの時間経過で終わりました。

スケルツォの機動性がこれまたいいです、ベースは腰掛に座ったままの弾きで、みなさん、まるでチェロでも抱えているような自在な弾きでぐいぐいきます。音量的なボリューム感はチェロとベースの一体感を強く感じさせるもので強烈なサウンドです。ブラスに絶対に負けない。トランペットがこの楽章ちょっとだけ不安定になりました。きれいな音ですのですぐにわかりますね。
スケルツォの分厚い滑らかさはシンフォニーを聴く醍醐味。

フィナーレ楽章についてはたびたび書いておりますが、他楽章にバランスしない短さです。これだけが難点ですねこの7番。
展開が足りないというのはありますが、そもそも提示部の各主題がどれも短くて、もうひとひねりほしいもの。あっという間の3主題なんです。
ということでそのへんの話はやめます。
この展開部以降の凄いところは、ブラス強奏の咆哮のあとすぐに弦のピアニシモがあったりして、それがこのオーケストラだと弦のニュアンスにすぐに耳を傾けたくなるモード切替で、バレンボイムのニュアンス棒がお見事というほかない。
あとは、最初に書いたとおりです。


この7番、忘れ難き演奏となりました。懐古趣味と言われそうなところもありますけれど、Fの音が生で聴けたような、たとえそれが錯覚の幻であっても、満足です。

この日は9割がた席が埋まっておりました。最初に書いたようにこの日も見事な空白、フライングなしの気持ちのいい演奏会でした。

7番の保有音源は91個です。ウィーン・フィルの演奏がシームレス感ありでいいですね。ベルリン・フィルのはFとバレンボイム、それにヨッフムぐらいでしょうか。
おわり


2059- モーツァルトPfcon22、ブルックナー6番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.15

2016-02-15 23:04:39 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月15日(月) 7:00pm  サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482  14′10′11′
       (カデンツァ:ダニエル・バレンボイム)

Int

ブルックナー 交響曲第6番イ長調WAB106  16′17′9′13′
       (ノヴァーク版)


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


前日の5番では概ね16型、倍管で、ウィンド、ブラス、ティンパニ、圧巻でした。今日の6番は通常に戻ったとは言うものの16型はそのままで、ステージに芯があるようにまとまった弦の配置で見た目だけでも十分な迫力。弦の圧倒的な存在感を感じます。
まぁ、その5番までで音響は空前絶後に行きつくところまでいってしまって、6番はどうなることかと余計な心配は杞憂と終わり、曲想通りの手応え、気持ちクールダウンの引き締めモードの緊張感も格別。

第1楽章は刻みのあるリズミックな伴奏に合わせ低弦がいきなり歌い尽くす。バレンボイムは大きくうなり声をあげ、グインとあげられたテンションは太くしなやかに進行、そしてもう一度大きく声を張り上げる。この入れ込みようは一体何なのか、と、こちらが驚く。
ハンカチ振り、汗ぬぐいも終楽章で少し見せただけで演奏中はありませんでしたし、だいぶ深く共感している模様。はたまた、あまり人気のない6番、ここでオーケストラを緩めてはいけないと大芝居かもしれない。出し入れ、無限の引き出し、自由自在な彼のことですから何でもできる。
第2主題2sは歌、前半ピチカート、後半流麗、5番の雰囲気と7番の先取りフィーリングの両方を感じ取れますね。まぁ、歌だが聴きようによっては縁(ふち)だけの旋律のような気もするが。
ブルックナーは実験というには大それた話ですけれど何かこう、新たなことを摸索しているように、この曲を聴くと感じます。
隙間無く第3主題3sに。ブラスの咆哮は上にめくれていくような感じで、ちょっと話が違いますが、全日本の吹コンに出てくるツワモノ校はこのような音出しますね。強奏が全くうるさくなくて、束で、かわら屋根のしなり、という感じ。

展開部は終楽章もそうですが、再現部と混ざっていて、これまでの雰囲気とは少し違う。聴き方変えないといけない。展開部の味わいはこの楽章、終楽章ともにいい雰囲気で、その雰囲気保ちながらストレートに再現部に行くので上昇進行のようなおもむきでこれまでの作品のような腰の据わった印象というのではなくて、まっすぐ。休止もあまりない楽章でなおさらそういう感じがします。

次のアダージョ楽章を聴きますと、バレンボイムのあの入れ込みようは本物と、深く感動的な楽章で演奏も実に味わい深い。主題が3個のソナタ形式のアダージョ楽章。ブルックナーの入れ込みようも半端ではない。
作品、演奏行為、その空気感を、音の粒を一つずつじっくり味わいたい楽章。強弱の激しさが突然襲ってくることのない楽想が延々と流れます。疲れているときの心のマッサージ、気持ちのデトックス、浄化、そんな言葉が次から次へと浮かんでくる。うちに帰ってから何度でもリピート聴きしたいと思わせてくれる楽章でした。
この楽章の色合いというのは濃いブルーで透明、そのまま沈み込んでいくような感じでもありゆっくり流れる純度の高い川の色彩、それを少し距離をおいて見ているようなところがありますね。バレンボイム棒はハイな濃度で陰影を作っていく。圧巻の棒。言い尽くせないニュアンス、するっとメロディーラインが浮かび上がり、主題の移動は落ち着いて心地よい。最高の表現となりました。素晴らしい楽章でした。美しいものは透明かもしれない、素晴らしい。

スケルツォは4本のホルンが活躍、モードとしてはアダージョ楽章を引き継いでいるようなところがあると思うのですが、トリオのあたりちょっとトリッキーと言いますか飛び跳ねが多いですね。1楽章のストレートさも出ていると思います。フィナーレ楽章へ収束していきそうなアトモスフィア出ている楽章と思います。
ホルンプリンシパルは4番の日のヤングガイ、この日も4人とも同じ音色サウンドで、スキッとする、オーケストラの伝統の一面を見ているような気にもなってくる。

フィナーレ楽章は最初に書いた第1楽章の進行をさらにストレートにしたもの。バレンボイムも上へ上へ振っていくスタイル。
展開部入りは明確ですが、この展開部で少しこんがらかってくるのはトリイゾを聴いていると思えば気持ちの整理がつくところがありますけれど、そうでないとなんだかよくわからない、と言われればそうかもしれない部分もありますね。振っているほうは完全把握でしょうが。
第1楽章同様、提示部+再現部のように聴こえてくるのは、この6番という作品、別の角度で聴いていかないといけないなぁ、と実感しました。
そのまま隙間なく準備なく派手に長調になってコーダエンド。すっきりと。
残響の少ないホール、ブルックナーの最終音の響きをそれなりに感じることが出来ます。1番から5番までもそうでした。気持ちいの良いエンディングです。


6番の保有音源は36個、うち第2楽章の時間が一番かかっているのはコリン・デイヴィス、同じく19分台にショルティ、パテルノストロ。
フルトヴェングラーのは第1楽章が欠けているのが痛恨の極み。


前半モーツァルト。22番はヘヴィーですね。2楽章長めのオーケストラから始まりますし。
バレンボイムの弾き振りはブルックナー1,2,3,4番の日、そしてこの日の6番。
27,20,24,26番と聴いてきて、この22番、手応え十分すぎる。
第1楽章の長さはどれも同じですが、2楽章はこの曲、長い。沈んでいくような楽章でバレンボイムのニュアンスの多彩さに耳を奪われます。3楽章はシンプルな感じで、バレンボイムもほとんど右手一本で済むところが多いらしく左手は指揮にあてている。シンプルな割に長い。中間部が結構なボリューム感。
肉厚のオーケストラと歯切れのいいピアノ、コンチェルトの醍醐味味わうことができました。
ありがとうございました。


この日は前日の5番より聴衆多め、85パーセントといったところか。一般参賀一回。やっぱりピアノがある日は多くはいる感じ。
前日まで最高峰だった聴衆の拍手とブラボー。この日はフライングこそないものの例のロングなブラボーが複数。7番あたりからフライング・コース始まりの予兆かしら。
おわり


2058- ブルックナー5番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.14

2016-02-14 18:03:11 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月14日(日) 2:00pm  サントリー

ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調WAB105  20′16′13′22′
       (ノヴァーク版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


宇宙のビッグバンをいっぺんに3個ぐらい集めたような全ユニバース最高峰の奇跡的演奏でした。
1番2番3番では出番なく、前日の4番からはいるチューバ、今日の5番では2本。推して知るべしの、ウィンド、ブラスはオール倍管、ティンパニも。
奥の段まで取ったステージセッティングを見ただけでバレンボイムの意思表示が見て取れる。音響は宇宙的に広がり、フィナーレの空気圧力は草木もなぎ倒すスーパー大伽藍の巨大構築物となり、ブルックナーの望みはバレンボイムがかなえたということになろう。
ブルックナーも草葉の陰で蓋が開くぐらい狂喜していることだろう。

下降する音形、大地に突き刺さるような音形はエンディングも含め8番同様、垂直的な音の動きでブラックホールに吸い込まれてしまいそうな流れなのだが、自らの下降音型ライン重力と、それをバリバリとめくり、横に前進するちからとの一大勝負。その圧倒的ハーモニーの進行は音楽が必然的に持つ前進力と突き刺さるちからが拮抗、重戦車が重力に負けまいと前進していく姿。
ここのコーダの方針はフルトヴェングラーがもっと極端にやっているのですが、バレンボイムのテンポを緩めず進めるスタイルは圧倒的で、アチェルランドこそ控えめなれど斜め上に振っていく指揮棒はその進行方向への音のベクトル指針となっている。
フルトヴェングラーの過激な滑らかさは空間のひずみを感じなければ理解できないものだろう、バレンボイムを語るとき色々と引き合いに出されるフルトヴェングラーですけれど、バレンボイムと同じくワーグナー振り手のクナッパーツブッシュとの距離は無限と感じさせるフルトヴェングラーへの近さはあります。
プログラムにもフルトヴェングラーの言葉が載っています。この第4楽章について「世界の交響曲のうちでもっとも記念碑的な楽章」と。
5番は出直し1番みたいなもんですから、序奏付き回顧付きのこの完璧な3主題ソナタ形式とそのフィニッシュの圧倒的な力感。どのように振って作品の最良の形を聴衆の前に見せるか、再現芸術のひとつの頂点解釈を示す必要があるわけです。
フルトヴェングラーの場合、5番は過激な流線型でフォルムが揺れ動くが、聴後感というのは形式の見事さを感じさせるもので、ちょっと背反的になるかもしれませんが、空間のひずみの中に身を寄せて耳を傾ければ理解はできるのです。これもひとつの頂点解釈で、聴けばその凄さがわかる。
バレンボイムは作品のもともと持つ性格のようなもの、記号といったものを意識しながら利用しつくし、前面にだした解釈指揮で、これも今日のような行きつくところまでいった演奏であればこそもう一つの頂点解釈と言える。
むろん、オーケストラも重要で、フルトヴェングラーにはベルリン・フィルがあったし、バレンボイムにはこのシュターツカペレがある。これらオーケストラの能力があってこその頂点表現という面もある。バレンボイムを獲たシュターツカペレの表現力の多彩さは圧倒的で、阿吽の呼吸といったあたりのところははるかに越えてしまっていて、もはや、一体。オペラハウス付きのオーケストラでワーグナーの化身バレンボイムの棒のもと、毎晩振りつくしているわけですから、その一体感たるや想像以上だろうとは何度かの来日オペラ公演で垣間見ている。
音が空気の中から、無からいつの間にか出てくる。
第1楽章の序奏の出の見事さを聴けばすぐにわかる。何も無いところから何かが生成されていく。再創造とは思えぬ。もの凄い説得力にハッと声にもならない。スルッとはいります。
正座しているようなファンファーレによる第1主題1s。弦の威圧感、特にチェロとベースがほぼ同じような弾きぶりで力感十分、ブラスに負けない意思のサウンドです。強烈。ここのバレンボイム棒は非常に明確で正確。振らない場面も多々ある中、ポイントは絶対にはずさない。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、コンセントレーションを強く感じる指揮です。オーラ棒ですね。
ここの主題1sは上昇音形でコラール風、オーケストラの響きをいきなり満喫できる。
冒頭序奏からそのあと全般にわたりピチカート多用の曲で律動的な印象を持ちます。第2主題2sにピチカートというわけで、4番までの、弦がしなやかに歌う2sとは少し違う印象をもちますけれど、ピチカートと滑らかな歌が徐々に混ざり合っていく。この2sの味付けは素晴らしくニュアンスに富んでいて、特に第4楽章のほうの2sはクラクラするもの。音楽の呼吸を感じました。
2sの律動と流れがブリッジとなって第3主題3sの律動主体の咆哮となる。提示部のこの一連の流れは作品の見事さを強く感じさせます。ここまでで強固な形が出来上がる。序奏付きは正解と思います。コラール風1sはいきなりとはならず原始霧開始ととらえれば序奏も1sに含まれるような気もしますが。あと2sへの入りも見事ですね。呼吸を感じる。
くっきりと入る展開部はなにか解き放たれた様なおもむきで、テンポを緩めない進行の中、ブルックナーの多彩な音楽を楽しめます。3主題の混ざり具合もいいものですね。
再現部を経てコーダへ。まだ、爆発モードではないですが、ここまで4本で吹いていたホルンがコーダの強奏のところだけ8本のフル稼働となり、強烈なサウンドが独特なバランスとなってエンド。まぁ、昨晩難関4番のソロを吹いたソリストはおりませんでしたので、奏者のストックも余裕ありという話しかもしれない。
とにかく、5番1sの造形美、バランスの良さにはほれぼれする。バレンボイムのオーケストラ・コントロールもお見事でドライブしていく様が美しい。ここまであっという間。形が出来上がりました。

第2楽章緩徐楽章なれど、1sはこれまたピチカートが律動感を高めつつ、弦とウィンドの4拍子系と3拍子系が混在して妖しげ。バレンボイムはここ、全く振らなかったり、右手一本で6拍子と4拍子を振り分けたりで、あれは神業棒。すごいもんです。
2sはズシンと弦が大きく横に広がる。正三角形の底辺、構築物の地盤みたいな響き具合で抜群の安定感を示す。1sとの違いも他作品に比べてかなり明確なものですね。
バレンボイムは主題の切り替えをあまりテンポを変えずに、だけど念入りに独特の呼吸で推移。ワーグナーの呼吸を感じさせますね。場面転換で次に何が来るのかわからなくなるような話ですね、静寂もドラマチックという話。
この楽章の終結部に向かうクライマックスは、ブラスとそれに負けない弦の、むき出しのバランス合奏は自信のかたまりと集積された伝統の重みを感じさせますね。まぁ、なかなか出せるものではない。

スケルツォ楽章の波形は2楽章1sを速くしたもので、前楽章からアタッカでそのことを強く意識させる指揮者も多いですね。バレンボイムは作品のフォルム重視の指揮者で、ひとつずつの楽章をきっちり止めて全体構造に光が当たるようにしていますね。ムーティも同じスタイルですね。彼は若いときはポーディアムに乗るのがはやいか音が出てくるのがはやいかといった時代もありましたが、楽章間ポーズはじっくりとりますね。
ということでこの楽章あたりからブラスセクションがふつふつと固まった音形を吹き始める。トリオはもっと長くてもいいかなと思いますけれど、きれいな覚えやすいフレーズが、とっても素敵。これでもやっぱり男メロディーなのかな。たしかに男客が多いことは多いが。

昔、初めてこの曲を聴いたときフィナーレ楽章のところでLPをかけ違いしたのかなと錯覚したのをいつも思い出します。すぐに違いは判るのですけれど、第1楽章とモードがよく似ている楽章。序奏の後に回顧付き。
この楽章は展開部が圧巻。fffからpppまで1小節で変化すると言った吉田秀和の言葉は第4番の作品のことと記憶するが、この5番の展開部というのはそういうことの連続で、経過句なくパウゼで転調していく様と合わせ異様な面白さ。フーガで魅せるベースの動きはこれまた大迫力。この楽器はチェロではないのかと錯覚するようなベースコントロール、弾きっぷりが凄い。地響きたてて進行。バチがもげそうなティンパニの打撃に負けない、もちろんブラスの咆哮にも負けない、究極の強力布陣です。思えば、弦、全部、そうですね。
ここでもテンポ緩めず、かつ、アチェルランド控えめなバレンボイム棒というのは、中庸の極致と言えるかもしれない。音の重なりで迫ってくる。
あとは、一番冒頭に書いた通りで、再現部、コーダの大宇宙。そして興奮冷めやらぬ、2時間も経てばフォルムの完璧さが浮かんでくる実感。

ということで、ここに唯一無さそうなものと言えばそれは、かおりなのかもしれない。


いずれにしましても、空前絶後のブルックナー5番を体験できました。ありがとうございました。
客の入りはこの日は7,8割ぐらい。ピアノが無かった日ということが影響しているかもしれませんが、拍手とブラボーはこの日が一番熱狂的、一般参賀一回あり。
この5番であれほどの静寂空白は初めての経験。バレンボイムは振り終えて聴衆に向きを変える前にメンバーに色々と声をかけるのが癖のようですが、おい、どうだ、この静寂すごいだろ、この巨大ブル5でフラブラもしない、フラ拍もない、これが出来る世界一の聴衆がいる日本という国は凄いだろ、と、メンバーにしゃべっていましたね、想像ですけれど。

今のところ、1番3番の日が85パーセントぐらいの入り、2番4番が満員。バレンボイムのブルックナーを一目見てやろうという指揮者たちも日参ですね。
おわり

PS
5番の保有音源は77個です。

 


2057- モーツァルトPfcon26、ブルックナー4番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.13

2016-02-13 18:14:55 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月13日(土) 2:00pm  サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537  15′6′10′
       (カデンツァ:ワンダ・ランドフスカ)
Int

ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調WAB104  18′15′10′22′
       (ノヴァーク版第2稿(1878/80))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


一昨日までの1,2,3番でヘトヘトになっているなか、今日の4番も圧倒的な音響美に身体が蘇生させられました。よくもまぁこのようにとんでもない演奏が次から次と出てくるものですね。
今日はあまりの凄さに一般参賀が1回あり。

第1楽章の再現部は原始霧の提示部第1主題1sのソロホルンのふしがユニゾンで奏されるところから始まるわけですが、ピッタリ。
この4人のホルン奏者たち、音色とか特性がほとんど同じです。これも能力でしょうか。もの凄い一体感はこのホルンだけでなくインストゥルメント毎のアンサンブルがピッタリでどんなときでも合奏をしているという気構えを強く感じる。

この4番は生で観るとよくわかるのですけれどホルンコンチェルトなみで、そうとうに際どいフレーズのかたまりでこれを完璧にこなすにはかなりのハイレベルでないと出来そうもない。といつも思うわけです。まぁ、こんな曲、作る方も作る方ですよね。1時間越えのホルンさんたち大変でしょうね。
最初は少しポロしましたが、バレンボイムはこのプリンシパル奏者をだいぶ信用しているみたいで、彼のソロが出るところではほぼ指揮しない。以心伝心なのか。特に第4楽章のソロパートは全く振っていませんでした。それであの素晴らしい流線型のフレーズがホールに響くのですから、まぁ、どちらも神業ということで。

両端楽章の第2主題2sの美しさは格別で噛めば噛むほど味が出る。一音ずつかみしめて聴く。美色の音色に酔いしれるというのとはちょっと違っていて、ちょっとダークで光っている感じ。黒光りな感じ。バレンボイムの前、30年近く振っていたスイトナー時代、荒れた演奏の時もありましたけれど、音色が素晴らしくて、まるでビロードのような濃い目のサウンドが隙間無くつながっていくさまにオーケストラ個体としての魅力を強く感じたものでした。あの時代DENON等から出ていたLP、CDほぼ買い尽くしました。自分が一番最初に買ったCDというのがスイトナー&ベルリン国立歌劇場管によるエロイカで、日本製でアメリカに輸入されたもの。だいたいお昼時は壁通りからブロードウエイを少し北上してシティホールまではいきませんがそのちょっと手前にJ&Rというお店があって、そこで音源漁り、オーディオ機器も置いてあって2代目のオープン・リール・デッキはあすこで買いました。それも日本のTEAC製。電圧だけアメリカ仕様に変えたもの。
という話しで、脱線。
バレンボイムもそろそろスイトナーと同じぐらいの年数をこなしていることになる。音色は機能美がフレーバーされて変わりつつあると思います。ビロードのように流れる感より、黒光り感が上回り、合奏の弦の音も芯が強調されているように思います。
そんな思いの中聴く2sの美しさ。

第3主題3sの爆発、ブルックナーの音響を浴びる。生理的快感、富士山超えのスパー・エベレストみたいなそびえたつブラスと強烈な弦、横になびくウィンド、圧倒的。これも神業と。神業がたくさん出てきます。圧倒的なものの連続波状攻撃に、もう、しびれまくり。

この4番は提示部と再現部のバランス感覚、相応する展開部の手応え、やっぱり前作からぐんとアップしているように感じる。バレンボイム棒は展開部は殊の外スッキリ響き、速目の箇所も割とあって、ただ長ければいいみたいなところがまるで無い。彫を深めながらもすーすーと進んでいく。均整のとれた造形美を聴くことになります。

この日も3番同様、ピアニシモの聴かせどころありました。第4楽章の再現部、2sから3sに移るところ。あっと言わせるような演奏で、曲の中に必ずこのようなひらめきのフレーズが出てくる。彼の場合、Fのような即興性というよりもその場のひらめきのセンスが光るとでも言いますか。聴いている方が、あっと思う。

その第4楽章の冒頭の強烈な1sですが、あの振りはもはやオペラ棒、ワーグナーを振っているようなキューの入れ方で、要所は絶対にはずさない、あとはハンカチで汗を拭いたり頭を掻いたり、鼻をつまんだりしていても、特に影響はない感じで、それにしても強烈、あすこは、神主題が神出現とでも言いたくなる。
第4楽章の1s3s強烈ですね。弦とブラスのどちらが勝ってもおかしくないような圧倒的な強奏。ジークフリートのような嵐で。もう、全部、脱帽。

ということで、ブルックナー4番の音源は67個持っています。素晴らしい演奏が多いですね。


前半のモーツァルト。ここでもバレンボイムが、ハッと技、使いました。はっとさせるようなひらめき技ですね。第2楽章で演奏が一度止まったかと錯覚させておいて、まぁ、止めて聴衆の肝をぎゅっとしめてから演奏をつなげていく、あれは完全なひらめきオペレーションで、えもいわれぬ空白が見事な緊張感を醸し出す。オーケストラメンバーも軽く驚いていましたね、何が起こったのかと。

この曲は、グリッサンド風な曲想が次から次とつながっていって華麗、オルゴール風な曲想と対をなしていますね。この日で4回目となる弾き振り、あまりの見事さにほれぼれします。弾き振りの見事さは、初日二日目三日目までに書いた通りです。
モーツァルトはこの日までで、27番20番24番26番が演奏されました。

この日も素晴らしい演奏ありがとうございました。
おわり


2055- モーツァルトPfcon24、ブルックナー3番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.11

2016-02-11 22:46:49 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月11日(木) 7:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491  14′8′10′
       (カデンツァ:バレンボイム)

Int

ブルックナー 交響曲第3番ニ短調WAB103  20′16′7′15′
       (エーザー版(1877))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


三日目、
1番2番では譜面を見ながらの指揮でしたが、この3番は譜面無し。このあとおそらく9番まで譜面はないと思われます。バレンボイムの場合、譜面無しの指揮のほうが躍動感あって、いいですね。

ということで、この3番は色々とワーグナー模様が、昨晩みたいにバレンボイムがたぶん意識的にワーグナーフレーヴァーを添加したと思われるようなことをしなくても楽想に現れてくるわけですけれども、この日の白眉はそこらへんよりも、アダージョ楽章の終結部ちょっと前、ワルキューレモードと言ってしまえばそれまでですが、ホントに終結する前の弦を中心にピアニシモから、バレンボイムが両腕を広げ、胸を突き出して表現した長いクレシェンドでした。あれは凄かった。聴こえないぐらいの弦の刻みが次第にキラキラと光り輝き、まるで光源がこちらに近づいてくるような錯覚に陥ってしまうほどの劇的と言っていいクレシェンド。ブルックナーの3番が本当に大きく大きく見えた。この表現の幅、バレンボイムのブルックナー、こう、なんというか、言葉にできない凄さが、さーーと現れるわけですよ。
どうしてこのような演奏が可能なのか、謎解きはあまり意味のあることとも思えず、その圧倒的な表現を受けとめることでいいのではないか。このような大きな表現が随所に聴かれました。細かいニュアンスから巨大なオルガンサウンドまでバレンボイムはやりつくす。
指揮する姿、キューをいれるタイミング、指示は、それ自体もはや芸術の域で、棒を動かさずとも音楽にあふれているし、片手の指揮棒さばきは唖然とする説得力、左手で空間を撫でるさまは滑らかな一拍子モードだったりしても、その指の先まで音楽を感じるし、両腕を上にあげ握りこぶしでオーケストラをドライヴしたり、もはや芸術。
弦の強奏でのシュッシュッという声の迫力もものすごい。
結果、3番は巨大化、大きなふくらみ、表現の幅、圧倒的でとんでもない造形の作品が出現した。

昨晩の2番同様、ゲネラルパウゼが多用された作品で、パウゼ自体が音楽のモードの切り替えをしているため各主題の速度をあまり変えなくても明確に各々の主題がくっきりと把握できるし、非常に整った造形美を感じ取ることができる。ダイナミックな音楽の中に美しい造形美を聴くことができる。
バレンボイムはリタルダンドは少しかけるが、アチェルランド無用の、ダイナミックな音楽が静止した印象を受けるのは、このことによる。
パウゼ静止で、フレーズが途切れがちになったりするところがあるが、それ自体も音楽よと、バレンボイムの棒さばきは細やかないところまで表現、至れり尽くせり。

弦とブラスの全奏は圧倒的なバランス感覚で、いくらブラスが叫ぼうともさらにその上をいく弦のチカラこぶし、強烈なアンサンブルがやたらと壮絶でもの凄い説得力、聴いている方の気持ちの入れ込みも本当に本気モードになってくる。まぁ、壮絶な演奏ですね。
ブルックナーの音響美を浴びる快感。

色々と挙げだすときりがなくなるわけですが、全体の印象としては、1番2番よりもかなり静止した作品であるということ。エーザー版はサウンドが少し牡丹雪のような味付けで前進していくように感じるのですが、曲自体の構成感としては垂直に進む感じで。
曲の尺度としてはこの3番あたりから少し頭でっかちスケルツォ短めといった雰囲気が出てきますが、フィナーレは堂々たるもので、そのフィナーレに関してもやっぱり流麗な7番だけが異色に短く、それ以外は1,2,3楽章に比して負けないいいバランスの作品が多数と思います。この3番もそれやこれや含め圧倒的な表現の幅、深彫り感。巨大なサウンド、1,2番同様バレンボイムは完成品として接し、その作品のレベルをさらに上に押し上げる様な演奏解釈で貢献したと感じました。

保有している音源は44種。一番最初に聴いたのはコンサートホールのマゼール&ベルリン放送響のものでしたね。当時、版の意識などというものは全くありませんでしたね。かれこれ40年以上前のお話で。


1番ハ短調、2番ハ短調ときて、この日の3番がニ短調で第九にインスパイアされたような冒頭、弦とトランペットは第九モードかなぁ、などと思いながら聴き始めた3番でしたが、前の晩は前半のモーツァルトがニ短調で後半そのハ短調、今晩は真逆でモーツァルトがハ短調で3番がニ短調と、連続して接してみると調のあやをすごく強く感じるものでした。

この日は結局、短調モードのプログラミングだったわけですが、前半のモーツァルトの24番は解決せず終わるというと語弊がありますが、短調のまま終わる。ストイックでブルーなアトモスフィアの世界を感じさせてくれます。バレンボイムのピアノはここでも第2楽章の端正な音楽作りが乱れずバランスしている。気持ちの安定を映し出したような演奏で、モーツァルトが筆をとったときの気持ちと相通じるものがあるのではないかと、毎度その心のシンクロを彼のピアノには感じる。
弾き振りはここでもさえわたり、史上最高のバトンテクニックだろう。こんな弾き振り誰も出来ない。オーケストラの反応も敏感で。昨晩も書いたソロピアノの時にさえプレイヤーを眺めつつ弾いている姿が印象的ですね。いい演奏でした。


前日、前々日と個人的に入れ込み過ぎかなとも思いましたが、上には上のブル3で、このあとの展開がさらに楽しみになりました。
この日も素晴らしい演奏、ありがとうございました。
おわり

 




2054- モーツァルトPfcon20、ブルックナー2番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.10

2016-02-10 23:28:15 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月10日(水) 7:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466  14′9′7′
       (カデンツァ:ベートーヴェン)
Int

ブルックナー 交響曲第2番ハ短調WAB102  17′13′7′15′
       (ノヴァーク版第2稿(1877、キャラガン校訂版))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


あまりの素晴らしさに声も出ない。
あまりに美しくあまりに激しい。ブルックナーその真髄の全てを魅せてくれました。こんな素晴らしい演奏聴いたことがない。生身のブルックナーが一気にその姿を現しました。

再現部のほうではなく提示部第1主題1s終わり際、第2主題2sにブリッジするティンパニの3個のピアニッシモ。まるでジークフリートの死の開始!、いきなりの音楽表現にカタルシスの真髄を魅せられて脳天に杭を打たれたようにしびれました。まさかバレンボイムの創作ではないのだろうかと思える様な、もうこの時点で既に神経麻痺。
2sではなくジークフリートの死が始まってもおかしくないような雰囲気の中、昨晩の1番とは異なり、その2sは1sと同じようなテンポで進んでいく。2番はパウゼが多用された作品で、その空白の意味合いが大きくて、空白イコール切り替えみたいなところがありその意味の大きさがあればこそ、テンポ感でメリハリをつける必要もない。ブルックナー作品の極意を極めたバレンボイム棒がいきなりその真価を魅せてくれる。
2sの音楽の美しさはこのオーケストラが全てを語ってくれる。静かで美しい。冷静な心の美しさ。それは束の間かもしれないけれどもブルックナーのもう一つの世界がよく見えてくる。
第3主題3sは1sの快活さをもっとストレートにした感じで、1sの原始霧から放射されるようなパースペクティヴに対し、リズミックな爽快感が場を支配。縦に刻まれたリズムが極めて前進性を示す中、怒涛のブラスときしむ弦。
もう、この提示部を聴いただけでギヴアップ。
展開部のあやは深く妖しい。3個の主題の混ぜ合わせ進行が味わい深い。バレンボイムの雄弁な指揮には唖然とする、ほれぼれする。それに微にいり細にいりすべてに生き物のように反応していくオーケストラ。アンサンブルの表現のふくらみ、絡まるような統合体としてのオーケストラサウンド、これぞムジツィーレンと掛け声のひとつでも発したくなる。見事な演奏だ。
そしてパウゼ切り替えで再現部へ。
提示部とは微妙に異なる手応えで、1番の爆発を思い出させるようなコーダの中、ここはまだ最初の楽章よと抑制の美学も魅せつつ打撃音静止。
1s、2s、3sの深さ、バレンボイムはこの作品も昨晩の1番同様、完成品として向き合っている。
美しくも激しい音楽が作品の巨大さを教えてくれた。すごい演奏。

次のアンダンテ楽章、二重変奏曲、明白な形式感はさらに顕在化する。澱みない清らかな美しいハーモニーが一音ずつかみしめるように進行する。この美しい音楽は祈りのようにも聴こえてくる。オーケストラの能力の高さが曲を押し上げてくれる。第1楽章でもそうだったがこの2番、あまりテンポで揺れを作っていくことのないバレンボイム棒、この2楽章でも各主題の平衡感覚がお見事ですね。いつまでも終わってほしくない楽章。ブルックナーの緩徐楽章に見られるコーダ前の爆発は無いに等しく、静かに静かに噛みしめながら美しいピアニシモエンド。清らかだ。

スケルツォ楽章、ここはなんといっても、判で押したスケルツォの再帰のあとにグッとパウゼでタメを作った後のスケルツォコーダが異色の盛り上がりを作ってくれます。
スケルツォのトランペットファンファーレはちょっとギクシャクした音楽な部分がありますけれどこのゴツゴツ感もブルックナーで、コーダですべてを解決させてくれる。
それと糸をひくような弦の響きが瞑想的で美しいトリオ、バレンボイムの切り替えの見事さが光ります。素晴らしいトリオ。

終楽章はリズミックさが際立った楽章で、ご近所の若者とその近くの初老のご婦人が二人そろって体を揺らしている姿が目障りにならない。
ホールを撫でる様なサウンド刻みで前進していく音楽。パウゼはさらに多用されてくる。切り替えの山のような楽章でもある。バレンボイムはそのパウゼをかなり強調した振りで、音楽をストップさせるような空白を生むが、終わってほしくない音楽がそれによって息を吹き返すみたいなところがあって、音楽の生成を何度も感じる。これも見事な棒と言える。
このような展開部を経て、これまた明確に区切られて再現部へ。昨晩に続きハ短調の交響曲、大詰めコーダではハ長調になりスキッと抜ける様な爽快感の中、強烈でしつこいぐらいの刻みが何度も波状攻撃のようにクラッシュする中、ヒート感満載になりながらエンディング。バレンボイム棒はメラメラと燃えるにはまだ早いのかもしれない。このコーダのギアチェンジは見事だけれども没我の音楽ではない。造形の美学がまさっている演奏と言えよう。

2番は自分が持っている19種の音源の中では、今日の演奏はホルスト・シュタイン&ウィーンフィルのを激しくしてアンプリチュードの幅を広げたような演奏であったかもしれない。
とにかく、この作品の巨大さをものの見事に表現してくれた素晴らしい演奏でした。すごいもんです。


バレンボイムの弾き振り、それに一体化したオーケストラの反応、モーツァルトさんを見たことは無いのでアレですが、さすがにこれは彼も真似が出来なかったのではないかと思える様な見事なアンサンブル演奏で。
思うにモーツァルトは色々とあったでしょうが作曲しているときの心というのは書道とまではいかなくても手紙でもなんでも文章、文字を心乱されずに書くときの平静な構え、それが出来ていたと思います。そうゆうことを深く感じさせてくれる演奏でした。第2楽章のポツポツと空白の中をたどる均整のとれた音の粒を聴いているとモーツァルトの内面の声を聴いているような気持になってきます。
バレンボイムは同じく空白をたどるようなオーケストラ・アンサンブルが自らのインストゥルメントを膝に置くときでさえ、弾きながらプレイヤーをよく凝視します。凝視しながら弾く。この音を聴け、モーツァルトの声だと思って。そう呟きながらの弾きのようで、美しくも平静な音楽が見事に奏でられて、世の中、これ以上は無い。
前日同様ホールの音響問題はありますけれど、この2楽章の静謐さは何物にもかえがたい。バレンボイムがモーツァルトの中に入り込み、内面の声を具現化したような演奏でした。

全楽章通じて最良で全く妥当なテンポ、決して乱れることなく、余計な動きをせず、裸の実力がもろに出てきますね、モーツァルトの恐さですか。
終楽章の快活な音の粒立ちの良さはバレンボイム自身のピアノが今も好調であることを示しているような気がしてきました。このニ短調の作品はバレンボイムの弾き振りでモーツァルトのストイックな一面、それに作曲するときの姿勢、そのようなことを大いに感じさせてくれた演奏でした。見事というほかない。

ということで、二日目。
この日も素晴らしい演奏、ありがとうございました。
おわり

 


2053- モーツァルトPfcon27、ブルックナー1番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.9

2016-02-09 23:57:30 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月9日(火) 7:00pm サントリー


モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595  14′8′9′
       (カデンツァ:モーツァルト)
Int

ブルックナー 交響曲第1番ハ短調WAB101  12′11′8′13′
       (ノヴァーク版第1稿(リンツ稿))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


久しぶりに観るバレンボイム&シュターツカペレ・ベルリンの味わいは深くて格別。
今回の来日公演は来日団体としては日本演奏史上初のブルックナー交響曲全集。弾き振りでモーツァルトのピアノコンチェルトが演奏会レングスに合わせ随所にフィッティングされており、プログラム・ビルディングを眺めるだけでもエポックメイキング的。と言っても彼の場合、来るときはリングサイクル×3回とか、だいたいエポックメイキングな集中攻撃なのですが。


バレンボイムが振る後半プロのブルックナー1番は完成品という印象が強い。既に確立した作品に独自のニュアンスを色々と加味していてさらに作品自体の偉大さを高めているようにさえ感じる。
3主題の切り分けが実に克明でクリア、主に主題毎のテンポの大幅な相違がまずそれを感じさせる。第1主題の快活さ、第2主題はぐっとテンポを落とし、しなやかさよりもハーモニーの清涼感、そしてうねり、部分的にワーグナーフレーバーを大いに感じさせつつ、過激ではないが相応なアチェルランドで第3主題のブラスの咆哮、ここらあたりまでくるとテンポのことよりも極端なダイナミズムによるパースペクティヴな世界に引き込まれクラクラする。完成された作品に対する色々な出し入れはショートな経過句でさえ味わい深く感じるようになってくる。まぁ、彫が深くてディープで濃い演奏。
ブルックナーでは譜をめくりながらの演奏だが前半のコンチェルトの時と同様撫でる様な棒捌きは独特で音楽との連動を強く感じさせつつオーケストラとの一体感を思わずにはいられないもの。
第2楽章の弦は聴きもので黒くて淀まない響きは独特、透明な沈殿物が川底に沈んでいるようなおもむき。また前記楽章第2主題との親近性を感じさせる解釈でベースの動きを中心にワーグナーモードになったかと思えば、高弦の繊細な歌わせ方、形式感の上に乗りつつ作品の深みを表現していく進行は味わい深い。そんななかウィンドのほのかな明るさとアンサンブルはブルックナーの安息を感じさせてくれる。コーダからしぼんでいく様は唯一、まだ1番なんだということを思わせてくれる素朴な作品と感じたところ。
この楽章はこの日のバレンボイム棒では、第1楽章よりショートなタイミングとなっており、自分が持っている22個のブル1音源には無いもの。4楽章全て相当飛ばした演奏でしたがこの楽章は特にスピーディー。あまりそういうことを感じさせない深彫り感に気持ちが集中していくような濃い演奏でした。

1,2楽章で既にワーグナーが顔を出しておりましたし、3楽章以降はもうそんなことはどうでもよくなってしまい、何も考えず音を浴びるフィーリングで。
この3楽章はプログラムの解説にもありますけれどモツ40やシュベ5のスケルツォ楽章と雰囲気似ています。もっともっと爆発系だとは思いますけれど。
撫でる様なバレンボイム棒のなかによく見るとリズムを刻みこんでいっているのがわかります。反応するオケの刻みは深くモツシュベのような快活さも確かに感じさせてくれますね、音楽をやっているという実感。
あっという間の出来事で簡素なトリオもスケルツォの再帰も終わってしまう。

終楽章は1,2,3楽章をまとめてさらに爆発させた演奏で、モードは1楽章と同様な表現、ゲネラルパウゼの強調がここでは印象的。初期の作品越えで完成品の体現とこうゆうところでも感じるわけです。ブラスのコントロールが凄いですね。
展開部は手応え実感、形式のバランスは相応にいいものだとふと思う。再現部への切り替えの見事さは指揮者が形式感を感じているのは明白で、コーダからアチェルランドしてGPを強調しつつ登り詰めていって爆発エンドまでのプロセスは冷静な中にチリチリするブルックナー表現となっている。
あっという間の出来事でしたけれど、静けさと爆発、呼吸と流れ、色々と感じさせてくれる素晴らしく多様性にとんだ演奏でした。
よく言われるFとの近似性については、Fがブル1を振ったことがあったのかどうかはわかりませんけれども、信念が上か音楽が上か、換言すると思い込みが上か音楽が上か、微妙なところですがバレンボイムにおいては音楽がバランスしているという思いは感じるところではあります。ここでは、まだ、ブル1だから、と。


後半がブルックナーの1番、前半はモーツァルト、ラストのピアノコンチェルト。番号絡みのオペレーションは無いと思います。
いい演奏でした。バレンボイムの心の落ち着きが見えてくるような表現でした。

弾き振りですのでプレイヤーたちが指揮を見やすいようにピアノの蓋をはずしているわけですが、このホールいたるところの位置で観聴きしてきた経験でいうと、あらためてこのホールはピアノにとっては風呂場サウンドでところによりガラスの割れたような響きがしたりで良くないということ。以前どなたかの演奏会でピッチがずれているように感じたことがありましたが、そのときは自分だけでなく他の方々も同じように感じたということがありました。どうも落ち着きのない音響で、そこだけとるとあまり魅力のある響きホールではない。この日みたいに蓋を取っているとそのようなことをさらに実感しました。

バレンボイムの弾き振りは手慣れたもの。かれこれ半世紀ぐらいこれやっているわけで。
ベートーヴェンのコンチェルトの弾き振りも聴いたことがありますが、ちからの入れ具合、加減などどれをとってもお見事。それにこのオケとの結びつきも四半世紀におよび、このスタイルの演奏会も板についたものでしょう。プレイヤーたちがバレンボイムの振りを凝視する姿は、オレにはあれは出来ないという思いもあるのかもしれませんね。才能にひれ伏すというか。N響なんかもそうですが、才能にひれ伏すといい演奏が出来る団体というものはあるもんです。

スッキリした作品でピアノの独白に耳を奪われます。音の粒がひとつずつわかる感じで、実にコクがあって味わい深い。

閑かさや耳にしみいる音の滴。
しずかさやみみにしみいるねのしずく。
(少し拝借)

ラルゲット楽章は静謐、心の落ち着きを音楽で体現している。ポツポツとぶれない音、隙間を感じさせない、音楽がつながっていく感じがいい。モーツァルト、シンプル・イズ・ザ・ベスト。Fが言った偉大なものは単純である、の順序逆。再創造する声とモーツァルトの創造する声の違いがここにはある。
Fはバレンボイム幼少時のピアノ演奏を聴いたことがあり、個人的にも殊の外、一連の歴史のつながり的なあたりのことは興味深いもの。
バレンボイムがズーンと左手を響かせると、それにしもてのベースがズシーンと応える。このシンクロされた演奏は、弾き、振り、オケ、三位一体の最良のコンビネーションを感じさせてくれる。
自分の中に27番が刻み込まれました。いい演奏でした。


モーツァルト、ブルックナー共通するのは遠いかなたの憧憬のようなものではなくて、リアルで現実感あふれた演奏であったというのが全体的な印象。
ゲルギエフやレヴァインなんかもそうですが、演奏会やオペラ上演が彼らの栄養源みたいなところがあり、リアルな現実感もそういったあたりから強く感じる。

あと、バレンボイムで思うのは、この指揮者はにやけない。日本の指揮者たちを観る機会が個人的に多くなりまして気になるのがニヤニヤにやけながら振る指揮者たち。そこ、いいね、満足よ、といった意味合いもあるかもしれませんが、バレンボイムの代弁でいうと、あなたがた満足するのは1000年早い、そう言っているかもしれませんですよ。ニヤケル前にすることたくさんあるでしょう、と。

今回の有料プログラムは1500円。内容的にはオリジナルな内容が割とあって、リーズナブルなものですね。冒頭にお偉いさんのごあいさつから始まるプログラムはあいかわらず日本的冊子物の順序で苦笑物ではありますが。
おわり