河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

電気河童の夢 6

2006-09-30 23:33:43 | 音楽

僕はいきつけの茶色の小瓶でいつもの、あまり透き通らないぐらい厚いステンドグラスのような味のブローラを飲みながら、小石で割れたガラスのようなのどごしを楽しんでいた。

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カパコ「やっぱりここにいたのね。」

河童「どうしたんだい。」

カパコ「ただなんとなく。」

河童「何か飲む。」

カパコ「うん。あまりドライじゃないマティーニでも。」

河童「OK。作ってもらおう。カパコは美人だからあのバーテンダーもきいてくれると思うよ。」

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カパコ「おいしいわ。」

河童「今日のカパコ少し元気ないみたいだな。なにかあったのか。」

カパコ「ちょっと仕事で面白くないことがあったの。でもこうやってあなたと飲んでいると少しずつ気が紛れてきた。やっぱり、あたしあなたがいないと生きてゆけないみたい。」

河童「なんだ、もう酔ってるのか。」

カパコ「あなたはあたしの気持ちの隙間をうめてくれるだいじな河童よ。」

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河童「ところで少し前一緒にカラオケ行ったけど、カパコ、歌ものすごぐうまかったよね。トレーニングしてたの。」

カパコ「んんん。そんなことないわ。人間音楽学校で少し歌ってたから。でも専門はピアノよ。」

河童「そうだね。ピアノのことは塔レコでのCD選びでわかってるよ。僕の一番好きな曲はベートーヴェンのテンペストだ。」

カパコ「そうなの。あたしそれなら少し弾けるわ。今度あなたのために弾いてあげる。」

河童「あの曲のうねり、もつれる糸、ほぐれるわけでもなく、解決は聴くほうまかせ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタはどれもこれも素晴らしいね。」

カパコ「あたし、本当はあなたと連弾したいぐらいだわ。」

河童「ユニゾンでね。僕らはいつも一緒だ。」

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カパコ「あたし、昔のことは覚えてないの。今が大事。」

河童「昔のことは話したくないんだろ。」

カパコ「そうかもしれない。でもなぜわかるの。」

河童「僕がわかるのはそこまで。あとはカパコの気持ちしだい。」

カパコ「そうね。あたしの心は閉ざされている。」

河童「カパコには夢や希望はあっても、それはなんのため。」

カパコ「わからない。」

河童「力は余っているけど、なににどうやって使っていいかわからない。」

カパコ「そうかもしれない。」

河童「でもなぜそうなってしまったの。」

カパコ「この話しはもうやめましょ。あたし自分で自分のことを見つめるのが怖いの。」

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カパコ「きょうは送って。」

河童「いいよ。もうおそいからタクシーで送るよ。」

カパコ「少し歩きたいの。」

河童「ちょっと寒くなってきたね。」

カパコ「あたしの左手握って。」

河童「わかった。」

カパコ「あたたかくて気持ちがいいわ。」

カパコの手は思いのほか小さくピアノのオクターブがぎりぎりかもしれない。でもそんなカパコがいとおしく、しっかり握りしめ、深夜の街並を気持の通じるまま歩き果てた。

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ベートーヴェン

ピアノ・ソナタ第17番ニ短調「テンペスト」

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コリン・デイヴィス バイエルン 1988

2006-09-29 00:01:00 | 音楽

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コリン・デイヴィスは基本的にオペラ指揮者のはずだ。ショルティのあとのコヴェント・ガーデンを仕切ってきた。なのに日本では誰もオペラ指揮者だとは思っていないと思う。

オペラ指揮者というのは、普通のオケの演奏会というのは簡単でしょうがないはずだ。オペラのように全神経をいたるところ放射し続けなければならない舞台芸術と異なり、オケだけに神経を放射し続けるだけでよい。古典・ロマン・近代・現代、となんであれオペラの修羅場人間にとっては軽いもの。どうってことはない。

それでも、真の解釈・感動に行き着きたければ、そのような安易なスタンスではやはりだめ。深堀ができないとちょっとませた聴衆にはすぐにそのヴェールの薄さがわかってしまうもの。それも事実。

バイエルン放送交響楽団はクーべリックの印象が強すぎてなかなか抜けない。ヘラクレス・ザールでの名演の数々。サウンドの素晴らしさ。DGのメタリックながらどす黒い見事な音色録音の数々。クーべリックとバイエルン、そしてクーべリックとベルリン・フィルのこれまた名演の数々。二つのオケを振り分けたクーべリックのDGコレクションはいまだに光を失っていない。

バイエルンはひところベルリン・フィルと並び称されたこともあったが、金管が少し弱い、というのがもっぱらの世評であった記憶がある。ベルリン・フィル自体、アメリカのオケなどに比べると金管は決してうまいとは言えない。不安定要素があった。

だからかどうか、こちらがその印象で聴いているからか、バイエルンの金管は、いま二つ自信なげに聴こえたものだ。

それはそれとして、この組み合わせ。マッチしているのか、アンマッチなのかよくわからないまま時は過ぎた。そして、1988年の来日公演は11回公演。初日の公演はこんな感じ。

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1988513()19:00上野

シュトラウス/ドン・ファン

ハイドン/交響曲第99

ベートーヴェン/交響曲第5

(アンコール)

ワーグナー/マイスタージンガー、前奏曲

ブラームス/ハンガリアン舞曲

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ルーチン・ワークである。でもルーチン・ワークこそ尺度。

限りなくオーソドックスな指揮姿。そしてサウンド。

奇をてらわない、曲と対峙した棒である。不眠症の人が、覚悟を決めて仰向けに、深夜と対峙して眠りにつく覚悟。その姿に似てなくもない。なんであれ一度は真正面から取り組んでみなければ中身は見えてこないもの。

そんな気持ちにさせてくれる演奏会であった。

コリン・デイヴィスは背中だけ見ている我々にとってはそんなに華のある指揮とは思えない。オーバー・アクションに感動も釣られてしまうことがたまにあるが、彼はそのような現象の対極の人間。紳士然とした棒である。

オケにとって彼の棒はどうだろう。それは我々聴衆がオケから出てくるサウンドから判断するしかない。

コリン・デイヴィスのあと、つい3年前まで10年間もロリン・マゼールがシェフであった。なんてもう既に忘れかかっている。デイヴィス時代のバイエルン・サウンドをあらためて聴きたくなった。ミュンヘンでバス・ビールなんてよかったかも。

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ベルティーニ ケルン 1988

2006-09-28 00:01:00 | コンサート
またマーラーだ。バブル真っ盛りのころ、マーラー演奏も真っ盛り。
1980年、1983年と若杉のもと来日を果たしたケルン放送交響楽団は、1988年今度はベルティーニのもと来日した。このときは大阪国際フェスティヴァル30周年の記念公演。
8回公演で、マーラーは1番、4番、9番、そして「子供の不思議な角笛」より。

1988年4月2日(土) 19:00 サントリー・ホール

マーラー 交響曲第9番

ゲイリー・ベルティーニ 指揮 ケルン放送交響楽団

まず、音がドライ、というよりも、埃っぽく、艶がない。ありのままの音がそのまま出てくる感じ。技術的にはいま一つ。放送交響楽団にありがちな温室栽培ではあるが、解析回路に技術的な不純物抵抗があり電流が流れきらない。
ベルティーニの解釈もさっぱりしているというか、深刻ぶらない9番であり、高いお金を払って聴く大曲には必ず感動しなければならない日本人に背を向けているようでもある。
全体印象としては若杉の時よりも希薄。

それにしても、日本人がいろいろといるオケだった。
オーボエ・トップはもちろん宮本文昭さん。コントラバスはお河童頭の河原泰則さん。第1ヴァイオリンには四方恭子さん。そして4番の日にはソプラノは白井光子さん。ほかにも何人かいてすごく多いような印象。
おわり

インバル フランクフルト 初来日

2006-09-27 00:01:00 | 音楽

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1980年代後半、マーラー演奏でブレークしあっという間に時代の寵児となったインバルが、初来日となるフランクフルト放送交響楽団とともにやってきた。それは1987年。

さぞかしマーラーづくしになるかと思いきや、12回のコンサートのうちマーラーは1番と5番だけ。肩すかしのようでもある。

そして、千秋楽のただ一回のプログラムがこれだった。

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19871117()19:00上野

ブルックナー/交響曲第5

エリアフ・インバル指揮

フランクフルト放送交響楽団

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透明無色。バランスがよく、へヴィーなブルックナーまみれの世界を一掃してくれたクリアな演奏であった。ホルンのトップはノイネッカー。

「まるで録音みたい。」とそのときは思ったものだ。

「録音」といっているのは、1970年代後半、NHK-FMから多量に放送されたヘッセン放送オリジナルのフランクフルト放送交響楽団のサウンドのこと。その「録音」のサウンドそのものだったのである。

当時多量に放送された内容については別の機会に書く。ヘッセン放送協会の録音が非常に良い音であったためかNHKで毎週流していた。

1962年にカンテルリ・コンクールで一位となったインバルは、1974年にディーン・ディクソンの後を襲い同オケに就任した。それは栄光というよりも前半は下積みの続きだったのかもしれない。伝統的に現代音楽に積極的なオケであるが、こんな日もあった。

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ゲルハルト作曲ペスト

語り手:カール・ハインツ・ベーム

エリアフ・インバル指揮

フランクフルト放送交響楽団

北ドイツ放送合唱団

19751025,26

ヘッセン放送大ホール

(NHK-FM1976.7.5)

以下を参照してください。

2006.09.08

2006.09.09

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現代音楽推進オケとはいえ渋い。当時河童もどんな気持ちで耳を傾けたのか忘却のかなただ。

このようなことを繰り返し、世評は高まり特にマーラー演奏では秀でたものがあった。

彼は日本に単独で来たときも日フィルかどっかを振ってマーラーの一番を演奏した記憶がある。

しかし1987年日本公演では、マーラーが、やがて自分の時代が来る、といったように、インバルも自分の時代が来る、と言い残して去ったようだ。

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フィルハーモニック散歩

2006-09-26 00:01:00 | 音楽

Noseda

マゼール/NYPOが今年も11月に来日するが、旧神童も76才。あと2シーズンでNYPOを去る予定のようだ。

新たな常任指揮者はフレッシュな人材が欲しい。マズア、マゼールと続いた高齢時代はいったん終わりにして、1978年メータのときのような血肉が騒ぐような指揮者が欲しい。

イタリアのジャナンドレア・ノセダなんかどうだろう。彼のジャンピング・エルボー、キックドロップ、オケが根こそぎなぎ倒されるバックドロップ、ブレンバスターなど、見た目のはでさでは超一流。しかし彼のすごいところは音楽が全て伴っているところ。日本人にありがちな意識されたタコ踊りとは一線を画す。そのノセダも1964年生まれだから早めにゲットしておきたいものだ。

いずれにしてもメジャー・オケの常任になるということは才能に加え体力も必要だ。メジャー中のメジャーであるNYPO2006-2007年シーズンの定期公演数は120-130回ほど。これ以外に催し物・国内外の演奏旅行をいれるとざっと200回前後。それに拘束される練習日をいれると大変な数だ。

そのうち、常任指揮者が全てを振るわけではないが、N響のように有って無いような音楽監督制とは状況が異なる。N響のアシュケナージは定期を何回振るのであろうか。今シーズンも多分少ないと思うが先シーズンも、「N響が音楽監督の色に染まるのを拒んでいる」、ような回数であったかと思う。レコーディングなどではそれなりに存在感を示しているようでもあるが、このシステムはN響にはむかない。いかにも中途半端なシステム。精神集中も中途半端になりがちではないかと思う。チャイコフスキー全集、ベートーヴェン全集、のCDが出来上がったら、もういいのでは。。

オペラの存在を否定し続けるアシュケナージは、N響の、ふところ大きく、やさしい定期会員に包まれて、これからも指揮を続けていけるのだろう。がそろそろお互いの将来のことを真剣に考える時期にきている。

ところでNYPO

1回目のシーズンから今年で164年ほど経ったわけであるが、いまでこそ年間200回におよぶ公演数などといっているが、昔からこんなに多かったわけではない。

120年前の1886-1887シーズンはこんな感じ。

1886.11.13

1886.12.04

1887.01.15

1887.02.19

1887.03.19

1887.04.09

ざっと6回。定期公演のほかにもさまざまな催しものがあったかと思うが、200回とは大違い。

1887.02.19の拡大図はこんな感じ。

・ベートーヴェン/交響曲第4

・ブラームス/ピアノ協奏曲第2

 ピアノ、ラファエル・ジョゼフィ

・サン=サーンス/交響曲第3番 (新作(副題ではなく))

テオドール・トーマス指揮

メトロポリタン・オペラ・ハウス

ほかの日は何をやっていたのかしら。

河童はこの演奏を見逃してしまった。

デジタル機器全盛の昨今とは異なり、当時、録音再生といったものはないわけだから、河童の皿力で想像をたくましくするか、はたまたタイムマシーンを作り続けるか。はたまた、昔のことは忘れ先のことだけ考えようか。消費社会にふさわしい聴き方に徹するべきか。迷うところもたまにはある。

この日のプログラムは3曲であるが、現代であればどのような組み合わせになっても2曲で一夜。つまり三分の二。内容の濃度はどうであれコンサート時間は短くなり、コンパクトにシステム化された。その突き詰めた現代究極のコンサートがカラヤンの晩年にあった。

・プロコフィエフ/交響曲第1番「古典」

・ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ベルリン・フィルハーモニカー

休憩を除くと、合計50分未満。CD1枚にもならない。内容は濃かったか?

晩年の指揮者を盛り上げた聴衆は偉かった。音楽の楽しみ方を知っている。でもその聴衆は氷のように限りなく冷たい存在でもある。演奏家が死ねばすぐに忘れる。やはり今生きている演奏家からしか生の音は出てこない、ということをよく知っている。

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オールドPIC

2006-09-23 23:57:16 | NY pics

河童の洞窟からセントラルパークに歩く河童(133才頃)

絵の真ん中がコロンバス・サークル。上がウエスタン・ガルフ。右端がセントラルパーク南西の入口。

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仕事場からトリニティーチャーチを見る河童(133才頃)

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ヤンキース地区優勝 往年のスタープレイヤーPIC

2006-09-21 00:01:00 | 音楽

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seagullを撃ち落としたデイヴ・ウィンフィールドのバットを眺める河童

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バタバタと両足で土を掘ってから打席に立つ安打製造機ドン・マティッグリーを見る河童

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静かにたたずむ寸前のレジー・ジャクソンを眺めながらたたずむ河童

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061- スクリャービン 交響曲第3番 ムーティ音源

2006-09-19 00:01:00 | 音楽夜話

 

ムーティはこの曲がかなり好きだ。河童が保有している音源と生体験を列記。

 

フィラデルフィアo.  1984.2.22 Avery Fisher Hall
ベルリン・フィル     1987.5.31 NHK-FM1987.8.2
フィラデルフィアo.  1988 4.29,30 EMI
ウィーン・フィル    1990.10.21 NHK-FM1991.7.1
ウィーン・フィル    2005.5.2

 

これ以外にも当然フィラデルフィアとの定期での公演もあろう。3番という曲の音源がこれだけ出回っているというのは珍しいと思う。ここにある何倍も振っているはずだ。
1987ベルリン・フィルと1990ウィーン・フィルの聴き比べは大変に興味深い。1987ベルリン・フィルでは演奏後、巨大な時代遅れブーイングがあり、いまだに怪しげな曲であったのだろうと推測される。
1987ベルリン・フィルのやや固めで折り目正しい初物の雰囲気を醸し出している演奏に比べ、1990ウィーン・フィルのきらびやかな、特に木管楽器が光をちりばめるようにキラキラと輝くさまは色彩の作曲者の意図するところであったはずだ。しなやかな弦、そしてビロードのようなブラス・セクションの響き。極めて美しい演奏だ。
1987ベルリン・フィルはハーモニーがバランスしており、旋律の途中で強弱をつけることはあまりない。あったとしてもアンサンブル奏者が同じニュアンスであり意識された美しさ、機能的な美しさであると思う。1990ウィーン・フィルはアンサンブルが一つの楽器のような響きになり、織りなす音の彩が和服の生地の様に怪しく美しく響く。
2005ウィーン・フィルはさらに達観した雰囲気となり、3拍子の主題が軽やかにウィンナ・ワルツのエコーさえ想起させる。ニュアンスの細やかさは果てしもない。そしてクライマックスの打撃音三つのうち最初の一つは最後の曲想に重なっているのだが、この演奏では打撃音は全く聴こえてこない。フィナーレの曲想の最後の音の残音が自然に最初の打撃音の響きと想像上一緒になってしまっているような極めてユニークな響きとなっている。
そして残響のハーモニーがエコーとなって、それが消え去るまで決して奏されない第2打撃音までの異様に長い休止。ようやく二つ目が奏され、さらに長い休止のあと、最後の音が神秘的に天上のかなたまで我々河童族を運んでくれる。ビューティフルな演奏。ムーティのつぼここにあり。
おわり

 

 

 

 


060- スクリャービン 交響曲第3番 ムーティ フィラデルフィア、NYT評

2006-09-18 18:06:38 | コンサート

1984年2月22日(水) 8:00p.m. エイヴリー・フィッシャー・ホール

ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、アイザック・スターン

スクリャービン/交響曲第3番 神聖な詩

リッカルド・ムーティ指揮 フィラデルフィアO.

切れ目のない音楽を一気に聴かせてくれた緊張度の高い演奏であった。最後の打撃音に挟まれた二つの休符でホールが揺れ動いた。圧倒的な密度。ムーティの情念が50分間地響きをたてて唸る。
スクリャービンの第3番は偉大な変奏曲であり、構造はシンプル。だが、オケの色彩、絶え間なく変化する音色の素晴らしさ、ウィンドとブラスがもたらすハーモニーの美しさが圧倒的に素晴らしい。輪をかけてフィラデルフィア・サウンドが聴衆を魅了してやまない。
百万ドルの楽器などと揶揄され、日本ではブラスがうるさくて明るすぎるティピカルなアメリカ・サウンドなどと、どこからか借りてきたような評をするのが昔からの慣わしであった。ヨーロッパ偏向の音楽評からは今でもまったく脱却していなくて、アメリカ音楽はおろか、演奏会の現状なども20-30年前となんら変わるところがない知識しか持っていない。というよりも関心がないと思える。大部分の評論家は。
年季のはいった評論家が「今日の来日公演は、ヨーロッパ音楽を理解してないチャラチャラした違和感のあるものだった。」といえばそれで終わりである。アカデミックな評論家というのはもっと生きた演奏史を理解するべき。高邁になればなるほど自分で周りはおろか自分のことが見えない。一番見えないのは自分。アメリカ音楽史は宝の山である。
それで、河童の持論は「フィラデルフィア・サウンドは中心に集中する。」である。フィラデルフィアの音は、オケが上がっているステージのどこか真ん中あたりに中心点がありそこに音が吸い込まれていく。なにか中心点を持っている。ニューヨーク・フィルのような拡散傾向の音とはずいぶんと異なる。基本的にアンサンブルの仕方が異なるようだ。
フィラデルフィアは内側に響きが向かっていくようなベクトルであり心情的にも内面的。音色は少し埃っぽい感じがするが、これは指揮者により水分の与え方が異なるのかもしれない。ムーティは艶重視ではなくオケの表現力を出し切る方向だ。従って、ムーティが振るオケはいつでもフル装備の一流以上の腕が前提だ。
中心点を持っていてそこに向かっていく音と、マス・サウンドとして本来持つ放射力。それらがバランスされた最高のオーケストラ。
派手なムーティの棒であるが、その棒の先から音が湧き出てくるような一体感。
一曲目のベトコンでは最初不調気味のアイザック・スターンであったが、ムーティの端正な音楽づくりともども調子を取り戻し、静かに熱を帯びてきた。ムーティのオペラ経験から発するサポートのうまさは明らかであり、後半の派手な動きとは別の自己抑制力を感じる。

それで例によってニューヨーク・タイムズの評はどうだったのか。翌々日の評。



The New York Times Fri ,Feb 24 1984
Scriabin by Muti and Philadelphians
By EDWARD ROTHSTEIN

スクリャービンは交響曲第3番について、「芸術というものは、新たな福音書を作るために不可分な統一体の哲学と宗教を結合させなければならない。」と言っている。
水曜夜、エイヴリー・フィッシャー・ホールにおいてリッカルド・ムーティは、その交響曲的な福音書、つまり神秘主義的ロシア作曲家が命名した“神聖な詩”のまれな説法としてフィラデルフィア・オーケストラを指揮した。
スクリャービンはひとつの舞台で一度に、自分の神学を見せようとした。“闘争”で始まり、“官能の喜び”を通し、“神聖な遊戯”の出現。これらはニーチェの超越論における三つの楽章のタイトルである。
この作品はうめき唸り、単調であり、機械の連続音であり、夢見ており、クライマックスにクラマックスの山を築くように脈打ち、砂糖のような甘いメロディーとホルンの響きで味付けされている。
そのような福音書の説法をしているとき、それは信仰者自身でいることに役立つ。この点において、改宗しない聴衆はムーティについてある疑いを持った。ムーティはたしかに奏者から素晴らしい音を引き出した。フィラデルフィアはオーマンディーのもと育んだ音色の温かさをいまだ保持している。ムーティもドラマティックで精力的であった。しかし、それはほとんど信じるに足らないものであった。

一つの問題は、ムーティが過度に夢中にはならない、自己中心にならない、行き過ぎた表現はとらない、ということである。しかし、この交響曲は福音書的な“プロダクション・ナンバー(河童注:全員出演のフィナーレ)”である。それは、バトン・トワラー・ガールと水中バレエの音楽哲学的同等さを持つべきであった。

演奏は、スクリャービンの神聖な神秘主義からはずれた少なくとも一つのスケッチを残したことになった。ムーティは宇宙の歴史と神秘についての多くの福音の隆盛をみた宗教について、後期ロマン主義の音楽のことについて以上に考えているということはない。
そしてムーティは、ベートーヴェンのようなより扱いやすい自己中心的な作曲家を喚起させた。それはプログラム前半、アイザック・スターンがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏をしたときである。
スターンはその音楽的宇宙をヴィルトゥオーゾの信仰者として扱った。すべてのフレーズを高度な議論のなかに折り込んでしまうのではなく、信念や芸術性、それらのメッセージが明確であるという確実さということを表現していた。
おわり

*****
この評論家の話の持って行き方は、後半があり前半があったようなストーリー的に無理なところがあるが、それにもまして、冒頭のスクリャービンの御言葉が頭にこびりついて離れない為、先入観をもって聴いてしまったことにより、この曲=宗教、といった聴き方になってしまったことが評の違和感となってあらわれてしまっている。

 


電気河童の夢 5

2006-09-17 20:55:02 | 音楽

1_48

カパコ「この前のリズ子の結婚式楽しかったわね。」

河童「うん。出来ることならアナザー・ワンも早めに実現したいものだね。」

カパコ「でも一つだけ残念だったことがあるわ。」

河童「なに。」

カパコ「お料理おいしかったけど、パスタがなかったの。」

河童「そういえばそうだった。はしゃぎすぎて他の事に頭がまわらなかった。皿も。」

カパコ「だから、まだおなかがなんとなく落ち着かないの。」

河童「そうか、じゃぁ、久しぶりに行くか。どこか行きたいところある?」

カパコ「そうね。高いとこ。」

河童「......」

カパコ「高いとこ。」

河童「(カパコはこんな露骨な表現するはずがない。)」

カパコ「ねぇ。」

河童「わかった。見晴らしのいい高いところだね。」

カパコ「......」

河童「見晴らしもいいところだね。」

カパコ「そう。両方高いとこ。」

河童「(最近少しずつ自己表現が大胆になってきた。)」

カパコ「どこかいいところないかしら。」

河童「知らないこともないけど。オフィスが多いところだけどいいかな。丸の内あたりで。」

カパコ「待ち合わせが中央郵便局でなければいいわよ。あすこの切手見るとお皿に張り付いたら取れそうもなくて気持ち悪いの。」

河童「待ち合わせは丸ビルだよ。最近、丸ビルが新装開店したみたいだから行ってみるか。昔は地下のカツ丼とかいい食堂があったけど、最近の人間界のワンパターンのビルディングの形にはまいるな。進歩がないというか想像力がないというか、アクセントをつけてもせいぜい吹き抜けぐらいで、ほんと退化してると感じるときさえある。」

カパコ「そんなことどうでもいいから、早く、行くところ教えて。」

河童「うん。36階にある絶景のアンティカ・オステリア・デル・ポンテ。」

カパコ「長い名前だけど、高いとこ好き。いつ行く?」

河童「そうだね。カパコは週末になると忙しくなるお仕事だから、金曜日あたりにしようか。今回は初めてなので夜景ではなく太陽のもと東京の風景でも見ようよ。僕は仕事サボるから。」

カパコ「わかったわ。ランチね。でもランチ・コースはいや。ランチもアラカルトでね。ね、いいでしょ。」

河童「そうだね。カパコのドルチェは別腹だしね。」

カパコ「楽しみだわ。じゃぁ、シーユースーン。」

河童「わぅ、絶景だぁ。」

カパコ「素晴らしい眺め。」

河童「前面、側面から眺めが見れるとはすごいね。」

カパコ「なんだか、このままどこまでも飛んでいってしまいたい。」

河童「(まだ早いぞ)」

カパコ「なんだか、まわりのバンクとかもみんな低く見えるわね。」

河童「そうだね。昔はそれなりに高層だと思ったんだけど、今こうしてみると時代の流れを感じる。でも110階はいらないけど80階ぐらいの迫力あるビルも欲しいな。」

カパコ「さ、メニュー見よう。」

河童「わぅ。」

カパコ「ホワット?」

河童「いやちょっと目から皿がでた。」

カパコ「今日はランチだからワインはやめましょ。スパークリングで乾杯。ね。」

ワイン以外はいつものようにアラカルト。値段だけのおいしさはある。パスタも素晴らしかったが、羊には悪いがタスマニアのラムのうまさといったら、塩が少々きつめではあったが、極めつくしの美味だった。英伊語に覚えがあればスタッフとのコミュニケーションがさらによくなりいい感じ。お土産もゲット。

ドルチェまで遠慮気味に全て食べ尽くし絶景も見尽くし、あとはフライデー・ナイトに突入するだけ。

河童「そろそろ2時だね。おなかもいっぱいになったし、でようか。」

カパコ「うん。とってもいい気持ち。もう100パーセント満足。」

河童「(うんうん)」

カパコ「でも、カパコ、120パーセントはいらないの。100パーセントでいいの。」

河童「これからどうする?」

カパコ「今晩のこと?それともこれから先のこと?」

河童「(ちょっとカパコ酔ってるのかなぁ)今日このあとどこいこうか。」

カパコ「そうね。ちょっと横になりたい。」

河童「ミートゥー。」

カパコ「丸の内まできたんだから、山手線外回りに乗って居眠りして、二人とも目が覚めた駅で降りましょ。」

河童「いい考えだね。きっと僕ら同じ駅で目が覚めると思うよ。」

カパコ「カパコもそう思う。」

河童「じゃぁ、乗ろうか。」

カパコ「うん。(私たちこのあともきっとうまくいくわ。カタストロフィさえなければ。)」

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ニューヨーク・フィル2006-2007シーズン 来日公演予定

2006-09-16 16:10:02 | 音楽

ロリン・マゼール指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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2006

115()15:00東京オペラシティ

ドヴォルザーク 序曲謝肉祭

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲

 ヴァイオリン、リディア・バイチ

ベルリオーズ 幻想交響曲

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116()19:00大分iichikoグランシアタ

プログラム:同115

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118()19:00東京オペラシティ

ウェーバー オベロン序曲

ベートーベン ピアノ協奏曲第3

 ピアノ、ジャン・フレデリック

ラヴェル スペイン狂詩曲

ストラヴィンスキー 火の鳥 組曲(1919)

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119()19:00東京オペラシティ

ブラームス ハイドン・ヴァリエーション

エルガー チェロ協奏曲

 チェロ、アリッサ・ワイラースタイン

シュトラウス ドン・ファン

チャイコフスキー フランチェスカ・ダ・リミニ

.

1110()19:00東京オペラシティ

コダーイ ガランタ舞曲

リスト ピアノ協奏曲第1

 ピアノ、ユージャ・ワン

ベートーヴェン 交響曲第3番エロイカ

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1111()18:00東京オペラシティ

ヴェルディ シチリア島の夕べの祈り 序曲

チャイコフスキー ロココ・ヴァリエーション

 チェロ、ヨハネス・モーザー

ショスタコーヴィッチ 交響曲第5

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1113()19:00兵庫県立芸術文化センター

ドヴォルザーク 序曲謝肉祭

ストラヴィンスキー 火の鳥 組曲(1919)

ショスタコーヴィッチ 交響曲第5

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今年の来日公演プログラムは、エロイカ以外は、前後の定期からの流用も無く比較的多彩で盛りだくさん。細切れ感もあるが、同オケの多くの曲を聴きたい人にとっては割りとラッキーだと思う。

エロイカとフランチェスカと幻想はしっかりと聴いてみたい。この組合せによるエロイカはなんとなく想像がつくが、あっと言わせるのがマゼール。楽しみ。もう客席まで振り向いて指揮するパフォーマンスは歳が歳なだけにありえないと思うが。

フランチェスカはマゼールの得意曲。一気の盛り上がりに期待しよう。

幻想は、メータがデッカにいれている非常に素晴らしい、きめ細やかなニューヨーク・フィル・サウンドのCDがあるのだが、俗世間からは忘れ去られている。この曲も期待。第4,5楽章のブラスの咆哮もさることながら、前半楽章のビロード・サウンドもきっと素晴らしいはず。みんなあまりにもうますぎて、一人ずつ勝手にやっていてもアンサンブルが成立してしまう水準の高さに脱帽するはずだ。

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ニューヨーク・フィル2006-2007オープニング・ナイト

2006-09-13 00:01:00 | 音楽

2006913()はニューヨーク・フィル2006-2007シーズンの幕開け。オープニング・ナイトである。昔はシーズンをうらなうような曲目・演奏が多かったが最近は単に、その日のイヴェント、みたいな感じになってしまい、あまり期待感が高まらない。

それでも数年前のN響のように音楽監督とは全然ちがう誰かもあまりわからないような指揮者に、ひどい演奏をさせた初日のような事態には陥らない。N響は初日とかといったような節目、そのシーズンの生死を占う、みたいな気持ちは全く持ち合わせいないらしく、だいたい9月は盛り上がらない。シーズン制の意識が希薄なせいもあるかもしれない。9月頃から翌5,6月までの長丁場なのに、2006年度の最高演奏投票などというどうでも良いような投票では対象期間が20061月から同12月までであり、2シーズンを半分ずつに分けて合体し、ごちゃまぜにしておきながら2006年度の最高演奏はこれ、などとわけのわからないことをしている。

それと音楽監督制にしたのに出演回数の圧倒的少なさはかなり問題で、このままでは制度の有名無実化が進んでいくであろう。

このオケはいい指揮者が振るとシーズンなんか関係無くいい演奏を行うので初日中日千秋楽といった言葉に惑わされないで聴くのがよいかもしれない。

それで、ニューヨーク・フィル今シーズンのオープニング・ナイトのプログラムは。

2006913()7:30p.m.

エイヴリー・フィッシャー・ホール

・ベートーヴェン/エグモント序曲

・モーツァルト/2台のピアノの為の協奏曲K.365

 ピアノ、エマニュエル・アックス

 ピアノ、イェフィム・ブロンフムマン

・ベートーヴェン/交響曲第3番エロイカ

音楽監督ロリン・マゼール指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

このオープニング・ナイトのプログラムはこの晩だけ。翌日からはいつもどおり、一週間に4日間同じプログラムを演奏する。大体、木金土火。その繰り返し。

今シーズン特に聴きたいのは、

2007222,23,24

・モーツァルト/フルート協奏曲

・シューマン/4つのホルンの為のコンツェルト・シュトゥック

・メリンダ・ワーグナー/トロンボーン協奏曲(世界初演)

・ガーシュウィン/パリのアメリカ人

ソリストは全部オケのメンバー。誰がどれを吹くのかわかりますね。

この週は変則で228日は前音楽監督のクルト・マズアが別のプログラムを振る。

4日目の火曜日は前日までの木金土とは曜日が離れている為、招聘ソリストなどが立つ場合は、そのソリストが多忙で木金土だけでて、翌火曜日までは待てなくて、はいさようなら、というケースがわりとある。それで聴き損したり得したりと。いろいろある。

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ニューヨーク・フィル2005-2006シーズン 秀逸定期公演

2006-09-12 00:01:00 | 音楽

2006-2007シーズンがもうすぐ始まろうとしているが、ラスト・シーズンを振り返ってみて、河童の想像聴きで秀逸定期を一つだけあげておく。

200653()

・モーツァルト/皇帝ティトの慈悲 序曲

・モーツァルト/レシタティーヴォ「どうしてあなたが忘れられましょう」とアリア「心配しないで、愛する人よ」

 ソプラノ、ソイレ・イソコスキ

・モーツアルト/ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」

 ピアノ、内田光子

・シベリウス/大気の精ルオンノタル

 ソプラノ、ソイレ・イソコスキ

・シベリウス/交響曲第3

コリン・デイヴィス指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

シベリウスの第3番の第1,2楽章における丁寧なアンサンブルとハーモニーが素晴らしかった。フィナーレ第3楽章はぶ厚い弦でありながら一糸乱れぬ音楽を構築していくあたりさすがにトップワンである。また、このシンプルにして偉大なメロディーを緩急自在に操る指揮者もさすがにシベリウスのスペシャリスト。譜面的にはとりたてて盛り上がりのあまりないフィナーレであるが、線のぶ厚さとスピード感を高めることによりコーダ感をだしうまく締めくくった。久しぶりに第3番の巨大演奏に接した。

戴冠式は内田のこれまたオケに負けぬぐらいの太めサウンド。そしていいたいことは全部いいつくすといった過去の経験を自由自在に生かし切ることがひとつの楽しみにとなった偉大な人物がいる。彼女は日本語でも英語でもしゃべりたいこと書きたいことを話しまくる書きまくると言った感じで、その場で考えているような雰囲気がなく、頭の中に全部はいっておりあとは吐き出すだけ。やっぱし超一流はちがうなぁ。

イソコスキは特別柔らかいサウンドの声と言うこともないが、その均質性が手堅さ以上のものを感じさせる。1986年ヘルシンキでコンサート・デビューしたということだから、今が脂の乗り切った年齢であろう。

前半がモーツァルト、後半がシベリウスとプログラム・ビルディングとしては明確なものを感じるが、イソコスキが歌うルオンノタルもいいが、何か別の曲を聴きたかった。

彼女の歌はオンディーヌ・レーベルからでているシュトラウスの「4つの最後の歌」がいい。

このオンディーヌ・レーベル。シベリウスの曲など非常にいい感じのCDがポツポツとでていて好感が持てる。

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