昨日一昨日と、日本F協会の変なスタンスをちょっと話題にしたが、今日はついでと言っては失礼だが、当のフルトヴェングラーについて、散文乱文を。
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今、フルトヴェングラーが現われて、あの解釈で棒を振ったらどうなるのだろうか。
今、というのはまさに今。フルトヴェングラーと時代が違うが、別の今ということではなくて、今の今のことである。
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大いなる時代錯誤、まちがいないだろう。
時代の指揮者というのは現代の音楽トレンドの中にいるわけであり、昔より明らかにレベルの上がったオーケストラ、きれいな音、丁寧な音楽、整理整頓され見通しがよくなった音楽、埃の立たない音、くまなく詳細な縁取りまで克明に表現される音楽、そのようなことが一般的である現代において、そこからはずれた音楽表現は出来ない。しても、苦笑されるだけ。
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今のように、個々人の技術があがり、音楽が指揮者により思うように表現することができ、細部まで克明にしかも一点の曇りもなく表現することが可能というのがまず基本にある時代において、フルトヴェングラーといえども、それをはずすことはできない。
なぜなら、はずすということは、ピッチをはずしたり、アインザッツをずらしたり、バランスを崩したりすることであり、レベルダウンなことをすることになるからだ。
第九のコーダのことを想像するとよくわかる。
今フルトヴェングラーがこの時代に生きていたら、第九のコーダのスピードはあれでよい。ただ、しかも、完璧なフレージング、アンサンブルをしなければならない。というか、そんなこと、今の時代、当たり前で出来る。
腕も昔よりたつし、即興ではなく練習の成果であるわけだから、間違いなんてありえない。
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フルトヴェングラーが今でも聴かれるのは、エキセントリックな音楽表現が、耳にあまりにも明確に響いてくるから。
彼の時代においても、あんな変な、というか、妙な、というか、普通ではない音楽解釈をする指揮者なんていなかった。
今、メディアを通して音楽を聴くとき、誰が振っているか明確にわかるのは、彼フルトヴェングラーをおいてほかにはいない。
CDプレイヤーで指揮者のあてっこしたら、フルトヴェングラーはすぐわかるけど、ほかの指揮者なんて評論家でもめったに当たらないと思うよ。
それぐらい異常な棒であったフルトヴェングラーが、現代において、フルトヴェングラーの刻印を残して、なおかつ、現代の聴衆に訴えかけることができる解釈というのはいったいどのようなものなのか。
実は、これは、無い、のである。
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今の音楽愛好家は、彼が過去の人だから聴くことができるのである。
今の時代の指揮者として現れることを望んでいるわけではない。
出てきたとしても、指揮者の楽器であるオーケストラもカリスマでなければならないし、そんなオケ、ない。
オペラも彼の条件を満たすようなカリスマ歌劇場はないだろう。
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フルトヴェングラーは、聴衆を共同体としてとらえることにより、解釈者、演奏者、そして曲そのものの方向性と、聴衆の意識を同じ方向のベクトルに向かわせることにより、音楽の高まりをより効果的にすることができた。一種の儀式とした。儀式というのは、それに関係のある人たちのものである。神聖なものであり、極度のイベント性をもつ。フルトヴェングラーの指揮はそのような性格をだんだん帯びてきたようだ。
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今の時代に置き換えてみれば、ほぼありえない。
同じような演奏会が、同じようなきれいな音で、今日も明日も、何の問題意識もなく、なげかけもなく、ただ次から次へと消耗していくだけの音楽。消費社会の消費音楽。フルトヴェングラーは三日で自分の時代へ帰るであろう。
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そんなむなしい時代です。今は。。
オーケストラの腕は上がったが、今度はみんな同じような音に聴こえてしまい、特色が全くなくなってしまった。文化の平板化、です。
どこへいってもみんな同じような音でやっている。わざわざ外国からオーケストラが山のように来る必要もない。そんな時代がもうすぐ来る。世界中で同じようなことをするようになる。だからどこへも行かなくていい。
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解釈の時代は終わった。のかもしれない。もうすぐ終わるのかもしれない。
そんなとき、メディアであとあとまで残るのは、やはり超エキセントリックな解釈であったフルトヴェングラーのものですよ。
クーベリックの今日のマーラーの1番の演奏は空前絶後であった。なんていっても、あ、そう、という感じで、あとあとまでなにかメルクマールとなるようなものではないだろう。
バレンボイムの今日のパルジファルは歴史的な演奏であった、などといっても、この雰囲気、現場でしかわかりません。
聴衆を共同体としたフルトヴェングラーの強みは何ものにも変えられません。
今の時代、誰かそのような共同体としての音楽を体験させてくれる人おりますか。
今、いないのはそれでいい。そんなことを求めていない時代なのだから。
しかし、演奏解釈の時代が終わったとき、昔、音楽は解釈がメインの頃があったのだ、といったときにメディアに音として残り、聴かれるのはフルトヴェングラー以外におりません。
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