河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

457‐フルトヴェングラー現る

2007-10-31 22:39:00 | 音楽

昨日一昨日と、日本F協会の変なスタンスをちょっと話題にしたが、今日はついでと言っては失礼だが、当のフルトヴェングラーについて、散文乱文を。

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今、フルトヴェングラーが現われて、あの解釈で棒を振ったらどうなるのだろうか。

今、というのはまさに今。フルトヴェングラーと時代が違うが、別の今ということではなくて、今の今のことである。

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大いなる時代錯誤、まちがいないだろう。

時代の指揮者というのは現代の音楽トレンドの中にいるわけであり、昔より明らかにレベルの上がったオーケストラ、きれいな音、丁寧な音楽、整理整頓され見通しがよくなった音楽、埃の立たない音、くまなく詳細な縁取りまで克明に表現される音楽、そのようなことが一般的である現代において、そこからはずれた音楽表現は出来ない。しても、苦笑されるだけ。

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今のように、個々人の技術があがり、音楽が指揮者により思うように表現することができ、細部まで克明にしかも一点の曇りもなく表現することが可能というのがまず基本にある時代において、フルトヴェングラーといえども、それをはずすことはできない。

なぜなら、はずすということは、ピッチをはずしたり、アインザッツをずらしたり、バランスを崩したりすることであり、レベルダウンなことをすることになるからだ。

第九のコーダのことを想像するとよくわかる。

今フルトヴェングラーがこの時代に生きていたら、第九のコーダのスピードはあれでよい。ただ、しかも、完璧なフレージング、アンサンブルをしなければならない。というか、そんなこと、今の時代、当たり前で出来る。

腕も昔よりたつし、即興ではなく練習の成果であるわけだから、間違いなんてありえない。

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フルトヴェングラーが今でも聴かれるのは、エキセントリックな音楽表現が、耳にあまりにも明確に響いてくるから。

彼の時代においても、あんな変な、というか、妙な、というか、普通ではない音楽解釈をする指揮者なんていなかった。

今、メディアを通して音楽を聴くとき、誰が振っているか明確にわかるのは、彼フルトヴェングラーをおいてほかにはいない。

CDプレイヤーで指揮者のあてっこしたら、フルトヴェングラーはすぐわかるけど、ほかの指揮者なんて評論家でもめったに当たらないと思うよ。

それぐらい異常な棒であったフルトヴェングラーが、現代において、フルトヴェングラーの刻印を残して、なおかつ、現代の聴衆に訴えかけることができる解釈というのはいったいどのようなものなのか。

実は、これは、無い、のである。

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今の音楽愛好家は、彼が過去の人だから聴くことができるのである。

今の時代の指揮者として現れることを望んでいるわけではない。

出てきたとしても、指揮者の楽器であるオーケストラもカリスマでなければならないし、そんなオケ、ない。

オペラも彼の条件を満たすようなカリスマ歌劇場はないだろう。

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フルトヴェングラーは、聴衆を共同体としてとらえることにより、解釈者、演奏者、そして曲そのものの方向性と、聴衆の意識を同じ方向のベクトルに向かわせることにより、音楽の高まりをより効果的にすることができた。一種の儀式とした。儀式というのは、それに関係のある人たちのものである。神聖なものであり、極度のイベント性をもつ。フルトヴェングラーの指揮はそのような性格をだんだん帯びてきたようだ。

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今の時代に置き換えてみれば、ほぼありえない。

同じような演奏会が、同じようなきれいな音で、今日も明日も、何の問題意識もなく、なげかけもなく、ただ次から次へと消耗していくだけの音楽。消費社会の消費音楽。フルトヴェングラーは三日で自分の時代へ帰るであろう。

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そんなむなしい時代です。今は。。

オーケストラの腕は上がったが、今度はみんな同じような音に聴こえてしまい、特色が全くなくなってしまった。文化の平板化、です。

どこへいってもみんな同じような音でやっている。わざわざ外国からオーケストラが山のように来る必要もない。そんな時代がもうすぐ来る。世界中で同じようなことをするようになる。だからどこへも行かなくていい。

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解釈の時代は終わった。のかもしれない。もうすぐ終わるのかもしれない。

そんなとき、メディアであとあとまで残るのは、やはり超エキセントリックな解釈であったフルトヴェングラーのものですよ。

クーベリックの今日のマーラーの1番の演奏は空前絶後であった。なんていっても、あ、そう、という感じで、あとあとまでなにかメルクマールとなるようなものではないだろう。

バレンボイムの今日のパルジファルは歴史的な演奏であった、などといっても、この雰囲気、現場でしかわかりません。

聴衆を共同体としたフルトヴェングラーの強みは何ものにも変えられません。

今の時代、誰かそのような共同体としての音楽を体験させてくれる人おりますか。

今、いないのはそれでいい。そんなことを求めていない時代なのだから。

しかし、演奏解釈の時代が終わったとき、昔、音楽は解釈がメインの頃があったのだ、といったときにメディアに音として残り、聴かれるのはフルトヴェングラー以外におりません。

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456‐ 終わりそうで終わらない日本F協会

2007-10-30 22:38:00 | 音楽

昨日に続いて、日本フルトヴェングラー協会のこと。

昨日のブログでも書きましたが、会長の問題点は、自分の趣味(宇宿さんという人への

私淑)を、何の関係もない会員に勝手に広めていること。

さらに悪いことに、その人がフルトヴェングラーと同業であるということ。

なんでこんなふうになってしまったんだろう?

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現在、日本におけるフルトヴェングラー・ファンクラブは3つほどある。

日本フルトヴェングラー協会、

フルトヴェングラーセンター、

東京フルトヴェングラー研究会、

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フルトヴェングラーセンターはついこのあいだ、バイロイトの第九で話題をさらった。

また、東京フルトヴェングラー研究会は、オーケストラ演奏等で直に耳にフルトヴェングラーの音を聴かせてくれる。

それに比べ、1969年創立の日本フルトヴェングラー協会は、最初に書いたような感じ。昨日のブログに書いたような感じ。

他の二つのファンクラブに比べて見劣りがし、その歴史的使命は終焉をむかえつつあり、もうやめたほうがいいのではないか。

3者が営利目的の会社なら、日本フルトヴェングラー協会は、明らかに負けて今頃退場していてもおかしくない。

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でも、そうはならないだろうね。

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日本フルトヴェングラー協会会員というのは筋金入り、ということは全くありませんが、かなりそこそこファンではあるが、別にカネさえ払っていれば適当な時期にブツが送られてくるからそれでいい、という感じなんですね。

昔から値は張っていましたがそんな小金にはあまり興味のない職業の人が多く、はっきり言って、たいしたお金ではないんです。彼らにとっては。。

そんな人たちが多いわけです。

だから誰が会長が、誰を宣伝しようが、無頓着に、フルトヴェングラーのブツだけ注文していればいいわけです。

この前あたりから取りはじめた年会費なんかもたかがしれてるし、別にどうってことはなく、ほかのファンクラブよりだめじゃないか、なんて文句をいうような小物たちはあまりいないんです。

大物というわけではありませんが、どうでもいいというか、無関心なんです。そんなことには。。

だから、この日本フルトヴェングラー協会、まだ当分の間、淘汰されないでこのままいくでしょうね。

話が完全に拡散してしまいましたが、でもそういうことなんです。

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河童は昨日のブログにも書きましたが昭和48年、1973年に会員になりました。

あの頃のヒートな感覚はなくなりました。

もう、惰性で注文です。

何度でも同じものが出てきます。

あまり考えずに注文。

会員歴が長いことが、とどまっている唯一の理由になりつつあります。

完全に、本末転倒状態です。

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そんなところに、宇宿さんが、クナやワルターやチェリなどど同列で斡旋品となっている。

このどうしようもない違和感。

別に彼は悪くありません。全く。。

とうの昔に死んでしまった歴史的な人物たちにまじって、現存する日本の指揮者のことが、声高らかに宣伝されているのです。彼は悪くありません。。

でも、この斡旋指揮者たちは、日本フルトヴェングラー協会ではなく、彼らのファンクラブがあるわけだからそこで騒げばいい。

この協会だけなんでこんなふうによれてしまったの?

どうしようもない終焉の寂寥感を感じます。

でも、書いたとおり、しばらくはつぶれません。

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455‐ 五里霧中にさせてくれる日本F協会

2007-10-29 22:37:00 | 音楽

日本フルトヴェングラー協会の次回の頒布品、斡旋品はこれ

(「資料頒布斡旋品案内」からはいって「企画#21027の資料頒布・斡旋の概要(次回)」のリンク)

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今回が初めてではないが、なんで他の棒振りのものがあるの?

頒布ではなく、斡旋品だから、まっ、いいではないか、っていうこと?

でもこの宇宿という棒振りのCDはたしか頒布品でも出したことあるよね。

なんで、フルトヴェングラー協会なのに宇宿?

宇宿は別に悪くない。

フルトヴェングラー協会なのになんで彼のお品をすすめるの?川上さん。

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川上さんへのインタビューは長すぎて全文読むのに疲れる。けど、ここにある。

世界トップと同レベルの指揮者のような話であり、かなり違和感あり。

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で。

なんであなたの趣味を、日本フルトヴェングラー協会に持ち込むの?

あなた、会長でしょ。

近衛秀麿の名前を出して宇宿を図式化していくあたり、目をつむっていてもわかるよ。

屁理屈にもほどがあるぜ。

早い話、自分だけが両方知っている、といったあたりに落ち着くんだろうね。

やっぱり、趣味だ。

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それに、

たしか、この前あたりから、年会費かなんか、とるようになったんだよね。

なおさらちゃんと説明しないといけないじゃないか。

日本フルトヴェングラー協会の会員に向かって説明しないといけないじゃないか。

カネとって自分の趣味を押しつけてはいかんよ。

会員の許可をえたのかね?

君の趣味をカネ払って押しつけられる筋合いはないんだ。

協会を私物化してさらにカネまでとるってどういうことかね。

企画がずれてるよ。

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宇宿という指揮者は聴いたことがないけれども、もし極度に素晴らしかったとしても、こちらの意見はかわらない。

いっそ、ネタ切れ、タマなしが現状のフルヴェン協会、もう解散したらどう?

頒布品、斡旋品、苦肉の策、悲しく笑えるよ。

悲哀な世界になってきてしまったなぁ。

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昭和48年からメンバーの河童も潮時かなぁ。

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454‐ 目黒、縁日、シルバー

2007-10-28 22:15:00 | 音楽

今日は目黒不動の縁日でした。

ひところ、81828日といったぐあいで8のつく日が縁日だったが、最近は以前のパターンの28日オンリーとなっているようだ。

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10月の28日は日曜日なので人出がいつにもまして多い。

それもおじいさんおばあさんダラケ。

巣鴨などもそうだが、マスコミが、なんとか銀座、なんとかの原宿などと騒ぎたてると、こなくてもいいお年寄りまで来る。

まだ若いのに年寄りのしぐさまでまねしたがるおじさん連中なども寄ってくる。

はっきりいって見苦しい。

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こんな年寄り連中と一緒に参拝なんかしたくない。

明日は我が身といわれようがいやなものはいやだ。

じゃぁ、いかなければいいではないか。たしかにそうだ。

でも、ごりやくだけはほしい。

ああ、あさましい。

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それにしてもだ、

別に目黒不動は年寄りだけアクセプトするといったルールがあるわけではないと思うが、これだけ多いと完全な集団行動。気持が悪い。

学校の修学旅行の集団行動などと違い、見ず知らずのお年寄りがうじゃうじゃと集まってくるのである。なんだか普通に楽しめない。

お年寄り自身言いたいことはあるのだろうが、やっぱりかんべんだなぁ。

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マスコミはこの連中を餌に取材するんだろう。

何か本末転倒というか、軽薄というか、息の短い仕事を生業にしているというか、どうでもいいというか。

考察、歴史感、使命、ニュースの意義、などなにも考えてませんよね。

その日にこうゆう話題があるから取材しようかということでしょ。

事前に日取りの決まっていることを取材するからこのように副次的な話題の方にピントがそれてしまうんです。

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ということで、あまりおもしろくありませんでした。

ただ、まわりのおじいさんおばあさん、昔の苦労のせいかずいぶんとちいさいので、自分が巨人になったように見下ろすかんじで、これはこれで変な気持ちになりました。

おわり

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453‐ 三十一日目

2007-10-27 23:14:00 | ?ムーヴィング日記

ムーヴィングして以来、初めてというわけではありませんが来訪者がありました。

この先一週間ほどは、来訪者の対応のため時間がさかれそうです。

突然の台風で大変でしたが、どっちしろ土曜日は弛緩しているので問題はありません。コンサートがない日は。。

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たまにはいいですね。頭をからっぽにして何も考えず何もしない日があっても。

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でも、ほったらかしにすると、頭の方は、ただでさえどこに何を置いていたのかすっかり忘れかかっているのに、ますますわからなくなります。

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荷物の整理も、

いらないものはすてる、

すこしいるものも捨てる、

かなりいるものでも、今手に入るようなものは捨てる、

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じゃぁ、とっておくものはなに?

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452- 本棚 三十日目

2007-10-26 23:13:00 | ?ムーヴィング日記

整理が進まないなか、本棚が届きました。

1メートル80センチの大物で、横幅もかなりあるすぐれもので、たくさんの本が収納できるようになりました。

基本的には音楽関係のものですぐにいっぱいになってしまいました。

段ボールのほうは残り10個ほどに激減しました。

本はいるものいらないもの仕分けして、

置いておくもの、

誰かさんにあげるもの、

河童蔵へ転送するもの、

捨てるもの、

いずれかだと思います。

決めたら早いですね。

捨てられないものは、やはり、シリーズもの。

ブライアン・フリーマントルの小説は捨てがたいですね。

というか、ほとんど全部持っているので、いまさら捨てられません。

フリーマントルの日本語訳のタイトルは、チャーリー・マフィンのシリーズものについては、同じようなタイトルが多く、どれがどれで、読んでしまったか未読なのか、自分でもわからなくなるときがあります。

一度読んだものでも、時がたつと忘れているので、ごちゃごちゃになってしまってます。

冷戦時代のスパイものが多いですから、今となっては時代遅れ、当時の緊張感など今は昔ですから、同時代の人たちしか理解できない代物なのかも知れませんね。

日本の本屋さんだと、彼の本は必ずありますが、今一つ盛り上がりに欠けるところではあります。

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最新本は、11月に出るこの本。

「殺人にうってつけの日」

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タイトルからしてマフィンものではないようですが、なんだかフリーマントルらしからぬタイトルですね。どうせ日本訳ですから、早く本を買って原題をチェックしなければなりません。

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451- 二十九日目

2007-10-25 23:12:00 | ?ムーヴィング日記

芸術の秋、嵐の20日間ほどが過ぎ、ちょっと一服つきました。

また、11月から大変な日々が続きます。

11月はオペラではなく、オーケストラをメインで聴く予定です。

各国のオープニングが一通り終わり、11-12月に日本をはじめとする国々を訪れるわけです。

楽しみですね。

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450- 銀座はイベントが似合わない街

2007-10-24 23:12:00 | 銀座にて

Scan10003_2 

このマップ、おもしろい角度です。

上が有楽町で、下が築地方面。

ありそうであまり見かけない角度の地図です。

普通は、これを90度回転したものが多いですね。

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この地図は、このパンフ。

PROMENADE GINZA 2007

プロムナード銀座2007

10.2111.4

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いろいろとイベントがあるようですが、こんなのはどうですか。

10.2110.29

美味しい銀座の9DAYS

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ださいタイトルですが、内容的には興味ありますね。

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「銀座は、安全で美味しい国産野菜・果物を応援しています」をテーマに、銀座のレストランや老舗料理店などが、それぞれの個性をいかして“おもてなし”を実施いたします。

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といったうたい文句です。

銀座をぶらぶらすれば、参加店がすぐに見つかるかもしれません。

このパンフ持って歩けば、ボラレナイですむかも。

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ほかにもいろいろあるようです。

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銀茶会

銀座八丁神社めぐり

ジャズ・フェスティバル

シンポジウム

スクリーンのなかの銀座

シャンソン・ライブ

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ううーーん。

最初から手詰まりのような気がしないでもないが、努力は買おう。

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449- トンデモ焼肉

2007-10-23 23:11:00 | 銀座にて

この前、ステーキと焼肉を勘違いし、ステーキを喰らうつもりで銀座にでたのだが、良く聞いてみると、ステーキのことを冗談で焼肉と言ったのではなく、本当に焼き肉が食いたかったのだそうだ。

ここらへん、携帯メールではいま一つ微妙なニュアンスの受け答えがすれ違いになることがある。いくら親しい人間でも。。

気をつけなければならない。昔それで失敗してるしね。。

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それで銀座で待ち合わせてステーキではなく焼肉を喰らうことになったのだが、銀座にはろくな焼肉屋が無い。焼き肉の街ではないのであたりまえだ。

それでも全然ないということではなくて、選べない数少ないお店が点在以下で存在している。

焼肉を食いたい、といったら絶対焼肉なわけで、ほかのものは受けつけないし、なにしろ食べるイメージが出来上がっているので、その変更はかなわぬものらしい。

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ということで、並木通り8丁目あたりにあるここに行ってみた。

飲み物メニューを見ても見なくてもビールがスタートとなるわけだが、次に焼肉のアラカルト・メニューを見てみた。

深遠すぎる淵をのぞき見る。

見なければよかった。

牛タン3700円ぐらい、

上カルビ3500円ぐらい、・・・・

ぐらい、というのは目がクラクラして値段のことを忘れてしまったから。

それでこの3700円の牛タン。7枚なんですね。カルビは6個なんですね。この値段で。。

さすが銀座、とは全く思わなかった。びっくりもしなかった。あきれ返ることもなかった。

ただ単に、場がしらけた。。

いわゆる、馬鹿くさい、という感覚。

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喰らってみたら確かにいい味ではあったのだが、牛のベロのコマ切れ7枚になんで3700円も払わなければならないのか。シラケドリも飛ばない。。

こんなものになんでこんな金額を払わなければいけないのか。全く理解できない。

ものにはものそれぞれにふさわしい限界値というものがある。

1500円の鉛筆が12本はいっている鉛筆ケースは買わんだろう。

それに、焼肉というのはガツガツとたくさん喰らうからうまいという面もある。

食いまくるからうまいのだ。

それがこの値段をみると胃が縮んでしまう。

ほんと、しらける値段。

カネを払って喰らっている方がスタッフに含み笑いでもされているような感じだ。

「こいつら、こんなものに、よく払うよ。」などと、顔には書いているような気がする。

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昔、六本木に防衛庁があったころ、その近くの行きつけの焼肉屋にボトルまでキープして夜な夜な肉ばかり喰らっていたりしたものだ。

それで22皿ということがあった。

22皿というのは、河童の皿ではなく、タン塩22皿平らげたということになるわけだが、牛のベロの薄造りなんてぇのは22皿ぐらいたいしたことない。

あんまり毎晩喰らうのでいつも半額だったが、とにかく焼肉というのはこのようなスケール感で喰らうものなのだ。

値段もそのような喰らい方にふさわしい価格でなければならない。

7枚で3700円ではほとんど話にならない。

なんでこんな値段設定がまかり通るのかわからないが、金を出す客連中もいるのだろう。

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それで、銀座のお勘定はたまに変なことがある。

ちょっと前に日本料理屋さんに行った時のこと、例の如くアラカルトで頼んでいたのだが、値段表からして、絶対5万円超えるよね。などとひきつった笑いを絞りだしながらお勘定を待っていた。そしたらきた請求額が3万円もしなかった。

どのような計算方式なのか訊ねてみようと思ったのだが、変に訂正されるとやばいので黙っていた。二人ともびっくりしないのがコツなんですね。

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焼肉もそんな感じの請求だった。皿数は10枚以上いったはずだが、飲み物含め合計で3万円割れだった。全く理解できない値段だったが、これって気のせい?

銀座で飯を喰らうときの矜持としては、自分で使うと思われる最大金額を持ち、覚悟をきめて、飲み食いすれば、案外安くすむかもしれないということだ。

ただ鮨屋では通用しない。2人で5万は必ずいる。これおいしいですね、などと調子づかせると、6万円越えなどもあるから気をつけなければならない。

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それで、と。

焼肉のあとは歯が抜けそうなガムではなく、場変えしてバーでうがいをして帰るのがよい。

こくのあるラガブーやイタ系のグラッパなど、妙にマッチしたりするから不思議な飲み物だ。

おわり

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448- 反省のタンホイザー

2007-10-22 23:10:00 | 音楽

昨日のブログで、タンホイザーを作曲したワーグナーをひどくでもないが非難した。
ちょっとむきになった面もある。こんな場合、タンホイザーを自分に重ねているからなのだろう。きっと。。
タンホイザーはあまりに人間的。普通の人間ならこうだろう。救うエリザベートがいるだけいい。
このようなタンホイザーを観たことがある。

1987年1月19日(月)7:30pm
メトロポリタン・オペラハウス

ワーグナー/タンホイザー

演出オットー・シェンク
指揮ジェイムス・レヴァイン
メトロポリタン・オペラハウス

エリザベート/ジェシー・ノーマン
ヴィーナス/エヴァ・ランドーヴァ
タンホイザー/リチャード・キャシリー
牧童/ドーン・アプショー
ヴォルフラム/ハーケン・ハーゲゴード
ワルター/ゲイリー・レイクス
ヘルマン/ヤン・ヘンドリック・ローテリング
ビテロルフ/リチャード・J・クラーク
ハインリッヒ/トマス・ブース
ラインマール/テリー・クック

この感想もいつか書くことになるはずだが、それは今後のお楽しみ。
それよりも、この肉厚のリチャード・キャシリーがすごい。
ヴィデオなんかも出ているので、その人間的なタンホイザーがよくわかる。
すさまじい。


447- 贖罪のタンホイザー 2007.10.21オペラパレス

2007-10-21 22:30:00 | オペラ

昨日はダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン2007年来日公演の千秋楽。
シェーンベルクのモーゼとアロン。
めったに観れないものを観ました。
興味のある方は昨日のブログをご覧くださいませ。

それで、きょうは、新国立劇場改名してオペラパレスでのタンホイザー。
こんな感じ。

2007年10月21日(日)2:00pm
新国立劇場、初台

ワーグナー/タンホイザー

演出/ハンス=ペーター・レーマン
指揮/フィリップ・オーギャン

ヘルマン/ハンス・チャマー
タンホイザー/アルベルト・ボンネマ
ヴォルフラム/マーティン・ガントナー
ヴァルター/リチャード・ブルンナー
ビーテロルフ/大島幾雄
ハインリッヒ/高橋淳
ラインマル/小鉄和広
エリザベート/リカルダ・メルベート
ヴェーヌス/リンダ・ワトソン
牧童/吉原圭子

牧阿佐美バレエ団
新国立劇場バレエ団

新国立劇場合唱団
東京フィル


たしかに、パルジファルに比べればオペレッタみたいなもんだ。
でも音の鳴りはいい。
音楽の流れも豪放磊落とまではいかないが、無造作能天気とさえ思えるような箇所もある。
これはこれで、昔、くさるほど、でもないが、わりと観ている。

それでと、
第2幕で、いざ、ローマへ、旅立ったわけであるが、第3幕では失意のうちに戻る。
もうタンホイザーに価値はなくなっていると思われるのだが、早い話、ヴェーヌスがもう一度出てきて誘惑するに値する人間的価値、商品的価値がなくなっていると思われるのに、なぜわざわざ誘惑の舞台となるのだろうか。
それは、ひとえに40日も祈りをささげたリズ、エリザベートがそこにいるからであり、彼女リズにより高められたタンホイザーの価値なのである。
だから、リズが力尽きて死ぬのは何となくわかるが、タンホイザーまで死んでしまったら、もともこもなくなってしまう。
なんでこうなるのだろうか。
贖罪が死ならそれはむしろ楽である。
タンホイザーはこの後生き続け、ヴェーヌスとリズの間を一生さまよい続けるべき。
煩悩にとらわれの身となったタンホイザーは生きて地獄の苦しみを味わい続けなければならないのだ。
しかし、このプロダクションではリズの死は見えない。
タンホイザーの死だけである。これは逆だろう。
いずれにしろ、
ワーグナーのタンホイザーは、
終わる、
のである。

タンホイザーは歌が出てくるまでがやたらと長い。
第1幕序曲、バッカナールからはじめて見事なバレエの踊りをへて、約25分たたないと声がでてこない。
ここまでで第1幕の三分の一を使ってしまう。だからそれは演出の腕の見せ所でもあるわけだ。
メトでは40年前からある舞台の上下運動を新国立ではいま実現したわけで、それを効果的に使う。最初だけであるが。。
あとは静止に近い舞台。
バレエの振り付けは快楽の踊りであり、いやらしい。
タンホイザーはこんなところで夜な夜ないやらしくも安穏な日々をおくっているのだ。
これは罪で、なぜそこから逃れなければならないのか。
これはこれでわからないもうひとつの?だ。
いったいこのエロスな世界に浸ることの何が悪いのか、何が罪なのか、ワーグナー自身わかっていないのではないか。

ということで、いつもよくわからないタンホイザーではあるが、次のローエングリンなどとは違った脂ぎった面白さがあり、これはこれで真正面から向き合う価値のあるオペラである。


第1幕は歌が出るまで時間がかかるが、出てきてしまえばあっという間に終わる感じ。結構時間はかかっているのだが、ストーリー展開としてはしりつぼみの感があり、ヴェーヌスな世界のあと、ヴォルフラムが、リズのところへ、などと言っても、それはそれでいいなりになるタンホイザーではあるが、聴衆を説得させる力には至っていない。
きっとまた快楽の世界に浸るよね、思わずそう感じさせる。わりと浅はかな世界なのだ。

第2幕の歌合戦は、マイスタージンガーを思い浮かべてはいけない。
あれほど深みのある歌、音楽ではない。
エキサイトして切れてしまったタンホイザーは歌合戦の場を冒涜したが、それが罪なのではない。
ヴェーヌスの世界を賛美したのがいけなかったのだ。
あすこに自分は行っていた、としゃべってしまったことの何が問題なのだろうか。
劇的な舞台はワーグナーの面白さがよく出てはいる。

第3幕はもっと枯れた味わいが欲しい。
第1,2幕と同じ舞台だとどうも、心象風景のようなものがうまく表現できず、全幕のイメージがモノトーン的であり、もう少し変化が欲しい。

歌い手は、充実。
新国立劇場ではどこの席でもいい音で聴けるが、それにしても、みんな素晴らしい声をしている。
タンホイザーのボンネマは、芯のあるテノールだが、まだ少し固い気がする。
もっと歌いこんで、もっと素晴らしい歌い手になってもらいたいものだ。
リズのメルベートはでかい声、それと見事な安定感。歌が強すぎてややもすると陰影がなくなることもあるが、そんなことはこれからなおしていけばいい。
総じていい舞台。8重奏も素晴らしかった。

指揮のオーギャンは確信犯的伸縮解釈で、リズミックなところはやたらと早く、スローな所はさらにスローにしディテールを分解して見せる。
スロー部分は最近の流行であるからいいとしても、アップな箇所は音楽が硬直しておりこなれていない。
オケとの練習が少なかったのか、ほかに問題があったのか、いずれにしてもちょっと硬かったなぁ。
おわり


446- モーゼとアロン 本日千秋楽2007.10.20 DB/SKB

2007-10-20 22:30:00 | オペラ

 

約一か月に及んだダニエル・バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン来日公演も本日が最後となりました。
その最後の日のオペラはとっておきのものでした。

 

2007年10月20日

 

シェーンベルク モーゼとアロン

 

指揮/ダニエル・バレンボイム
演出・美術/ペーター・ムスバッハ
衣裳/アンドレア・シュミット=フッテラー

 

モーゼ/ジークフリート・フォーゲル
アロン/トマス・モーザー
若い娘/カロラ・ヘーン
病人/シモーヌ・シュレーダー
若い男、裸の男/フロリアン・ホフマン
もう一人の男、男、エフライム/
  ハンノ・ミューラー=ブラッハマン
僧/クリストフ/フィシェッサー

 

 

シュターツカペレ・ベルリン
ベルリン国立歌劇場合唱団

 


面白過ぎる。
面白過ぎる理由は簡単で、濃いプロダクションのせいであることは明白。
1974年のブーレーズ/BBCso.でも1984-85シーズンのショルティ/シカゴso.でも1994年の秋山/東京so.でも、わからなかったことが、オペラで具現化され、さらにそれが劇性の非常に濃いプロダクションによって完全に明確になる。オペラの恐ろしさ。

 

それにこのモーゼとアロンの圧倒的存在感。
この二人以外ありえないような巨人族の大巨体だ。
モーゼのジークフリート・フォーゲルは1937年生まれというから70歳だ。
アロンのトマス・モーザーは1945年生まれだから60歳前半。
とにかく大合唱団の中あってもすぐにこの兄弟役たちがどこにいるのかすぐにわかるのだからその存在のものすごさがわかるというもの。

 

この演出は衣裳がかなり凝っている。全員、男も女も、サングラスに黒スーツスタイル。
さらに頭はそりこみがはいったようになっており、おでこの髪が後退している。
男声合唱団員、女声合唱団員ともに全部同じなのでかつらでの対応だろう。
非常にユニークだ。
映画「メイトリックス」のサングラスのワル連中とよく似ている。

 

舞台全体はなにかモノトーンの工場を下から見上げたようになっているのは、なにも前から2列目中央席から観ていたからという理由だけではないと思う。
その白黒なイメージが主体ななかにあってともすれば没個性、時として誰が誰だかわからなくなってしまうなか、モーゼとアロンだけは抜きんでている。

それでと、第1幕が始まったわけであるが、ああ思い出した。
モーゼは語り、アロンは歌う。
語るモーゼは言葉が足りないという。
逆ならわかるが、とにかく滑らかに歌うアロンに語る言葉を託すわけだから設定としては逆説的だ。
それとも、聴く方がいつも音楽というものを主体として考えてしまっているからそう思うのだろうか。

 

進むにつれ焦点は見えない神であるのは明白だが、答がないままわりとストレスがたまりそうになるぐらい神にウェイトがかかった状態になる。
二人の観念論は同時に歌い語るので、字幕はどっちが誰のセリフか一瞬わからなくなるぐらい混乱してくるとはいえ、観念を具体化できないモーゼ、リアリスティックになってくるアロン、それぞれのポテンシャリティーが別々のところにあるのが次第に明白になってくる。
神は見える民衆、見えない民衆がいる、と、ますます想像的な世界にはまりこんでいく。

 

形式の前にやるべきことがある。
というのはシェーンベルクその人の言葉だろう。
テキストがないのでよくわからないが、そのようなせりふはわりとしつこかったが、音楽の流れの中ではあまり気をとめることもなく過ぎ去る。
ただ、このセリフだけは妙に印象に残った。
十二音セリーを作って今演奏しているのに形式からは抜け出せなかったシェーンベルクの心の縛り、みたいなものを感じる。

 

最近になって、1950年だから70年代のいわゆる現代音楽というものを比較的抵抗なく聴けるようになった。
80年代以降はネオな世界になってきてしまい一聴すると昔のクラシックへの回帰現象のように言われたりするけれど、どちらかというとムード音楽に近くなってきているように感じる。
それで、50年代からさかのぼっていく聴き方も楽しくなりつつあるのだ。ちょっとウェットなウェーベルンなんか好きなのだが、曲数が多くないので残念なところもある。
それやこれやでシェーンベルクまで今では気持ちに抵抗なくさかのぼって聴くことができるようになりつつある。昔はただ単にいきりたって聴いていただけだが、それでもモノは残っているので、昔のメディアを河童の蔵から掘り起こすのも楽しい。

 

それで、シェーンベルクのこの未完のオペラであるが、演劇性の非常に強い演出。
最後の局面で全員が小型テレビモニターを持ち、置いて去っていくがあれがどうゆう意味なのかわからないが、ハーリー・クプファーやキース・ウォーナーの演出の常とう手段のようなものを思い浮かべる。
とにかく、オペラの演出は昔とは比べものにならないほど演劇性がテーマであり、これは一時的なものではなく続くものだと思う。
見聴きする方にしてもなにかひとつ音楽を理解、楽しむその方法が一つ増えたようにも思え、演出する方もやりがいがあると思う。
あらたに手に入れたものを葬り去る必要はない。
そのような観点でいえば、モーゼとアロンなんか、演出に光をあててこそのオペラであり、それではじめて国境を越える。
その意味では字幕の貢献度も無視できない。
字幕があれば、事前準備、事前知識なくはいっていけるわけで、オペラにとって絶大な効果だ。
フォーゲルが語るモーゼの言葉はもちろんドイツ語なのだが、なんだかとても深くて美しくさえ感じる。
この巨体にして70歳ともなれば歌だと辛いところもあるかもしれない。
語りが決して楽だとは思わないが、ある部分経験、技術でカバーできるところもあるのではないか。
この語りの調子がこのオペラの十二音階セリーに合わせているものなのかどうかはわからない。
劇的要素を強くするための独自の抑揚が許されているのなら、そうでなくても、深い声が観念論を吐くにはマッチしたものであり、個別にはアクションを求められているわけではなさそうなので、それだけに集中できることもあり、さすがと思わせた。

 

トマス・モーザーによるアロンの歌はどれだけ難しいのだろうか。
楽譜なしで、単一の基本音型とはいえ、どうやって正確に歌うのだろうか。単に機械的な暗譜なのだろうか、それとも別の手段があるのだろうか。もちろん練習は熾烈だろうとは思うのだが。
モーザーは高音から低音までよくでる。高音では昔の活躍の面影がある。
大変に素晴らしい声が出ていると思われるのだが、聴衆の方はそれどころではなく、ストーリーを追い、舞台を観なければならないので、彼の努力は半分しか報われていない。

 

第2幕第3場黄金の仔牛と祭壇の乱痴気騒ぎでは、歌なしの局面がかなり長く続く場面がある。あれはシェーンベルク音楽の真骨頂のように思えるのだが、舞台の動きが曲想とマッチしており、印象的。
アロンが舞台奥で指揮棒無しで指揮しぐさをはじめるのだがあれは一体なんなのだろう。

 

ところで、バレンボイムが鼻のすぐ先で棒を振っているのだが、難しそう、熱をこめるのが難しい。
まずはわきをかためてというところだろうが、彼はこの曲に意義を感じてはいるのだが、その表現はオペラでしか具現化できないと思っているに違いない。
演奏会形式などの公演では、面白さ半減だし、なによりもバレンボイム自身がそれを望まない。舞台の説得力はものすごい。
以前の来日公演でパルジファルを演奏会形式で行ったことがあるは、パルは舞台ではなくイメージであり、そのイメージがあれば演奏会形式で十分だと思ったに違いない。
パルのイメージを持っていない人たちがあの公演にくる可能性はわずかだし許せたのかもしれない。聴いた方も十分すぎるものであったし。

 

モーゼとアロンでは、合唱が印象的。
大変に動きの多い歌なのだが、バレンボイムがうまくコントロールしている。
合唱の方も一番信用できる誰かを始終見ていないと歌いそびれるばかりか、動きもままならなくなる。
中心点がバレンボイムであった。

 

ところで、演奏後、演出のムスバッハが出てきたのだが、一人の聴衆がさかんにブーイングをはじめた。
このような現象はべつにどうってことないが、ただ、そんなにみることのないこのオペラ、十二音階の音楽とはいえ50年前のもの、現代の音楽の多様性などを考えるとき、このブーイングの人物にそれを叫ぶ論拠があるのか是非訊いてみたいと思う。

 


今日は今回の来日公演の千秋楽であるため、恒例のさよならセレモニー付き。
演奏者歌い手合唱団指揮者など全員舞台に上がり、かがみ割り。花吹雪が舞い、はでな幕切れとなった。
おわり

 


445- 芸術の秋すぎる

2007-10-19 22:29:00 | 音楽

すぎる、は過去形ではありません。

過剰なんです。

すぎたるはおよばざるがごとし、

に使う、すぎる、です。

Too muchということです。

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週末土曜日はモーゼとアロン。

来日中のバレンボイムとシュターツカペレの千秋楽です。

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日曜日はタンホイザー。

こちらは初台の新国立劇場、改名して、オペラパレスでの秋シーズンもの。

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夜な夜な、と言いたいところだが、日本の場合、オペラの場合、週末は午後の公演が多い。

土曜日のモーゼとアロンは3時スタート。上野。

日曜日のタンホイザーは2時。初台。

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だから金曜日は、華金はダメ。

ウィークデイの憂さ晴らしも、金曜とはいっても夜11時まで。

静かに帰り、翌日の公演を良好なコンディションでむかえたい。

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10月も中盤が過ぎたが、来月11月も大変。

11月はオペラではなくコンサート中心で通わなければならない。

サントリーホールだけでも大変だよね。このラインナップ

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444- サメの夜は

2007-10-18 22:27:00 | 六本木にて

昨日まで三日間、堅めのブログになってしまったので、今日は、雨の夜は、サメバーで鮫を見ながらカクテルを。
六本木スタジオのところにある水槽ドアを開けると、ウィスキーボトルが並んでいるはずのところに水槽がある。
水槽ではコバンザメ、もとい、小型の鮫が窮屈そうに水中遊泳をしている。
これはゲテ、と思い、できた時は絶対に三日でつぶれると思ったが、なぜかいまだ健在。
スタッフが全員女性だしね。
ウィスキーの味はどこでも同じだが、カクテルはちょっと違う。ここのは気のせいかだいぶストロング。
早めに酔わせて早めに帰らせる魂胆だ。女性のスタッフの前でナガナガといても嫌われるだけだもんね。速い回転のほうが効率もいいし。

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日本食屋のカウンターの前に水槽があったりして、泳ぐ魚をみながら刺身を食ったりさせられることがあるが、あれ、最悪だね。
ダメなんだ、気持ちが悪くなる。
サメバーで鮫をみながらお酒を飲むのは少しは許せる。鮫を食うわけではないので。
でも、やっぱり、ゲテ、かなぁ。

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みなさんも一度どうですか。
サメチャージを取っているかどうかは不明だけれども。

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443‐ ドンキ、ベト5 2007.10.03 DB/SKB

2007-10-17 22:28:00 | 音楽

今来日中のバレンボイム、シュターツカペレ・ベルリンの公演から思いつくまま、バラバラと書いてます。

今日はオペラではなく、これ。

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2007103()7:00pm

サントリーホール

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シュトラウス/ドン・キホーテ

ベートーヴェン/交響曲第5

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ダニエル・バレンボイム指揮

シュターツカペレ・ベルリン

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結果的に、というよりも、バレンボイムにとっては初めから、プログラム前半のドン・キホーテがメイン。

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バレンボイムもごたぶんにもれず、演奏後はソロ・奏者を一人ずつ立たせ労をねぎらう。

そこではじめてわかったのだが、なんといろいろな楽器が鳴っていたことか。

スコアをもっていないので詳細はわからない。

Wikiによるとこんな感じ。

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ピッコロ1、フルート2、オーボエ2

コールアングレ1

クラリネット(B)2(小クラリネット持替1)

バスクラリネット(B)

ファゴット3、コントラファゴット1

ホルン6、ドランペット(D,F)3

トロンボーン3、テノール・チューバ1

バス・チューバ1

ティンパニ、バスドラム、スネアドラム、

トライアングル、シンバル、ウィンドマシーン、

グロッケン、タンバリン、ハープ、

5部、

ヴィオラ独奏、チェロ独奏

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もっといたような気もする。

テノール・チューバは、雰囲気、ユーフォニウムという感じで、向かって左側に一人たたずんでソロを吹いていた。演奏後かなり喝采をあびていた。

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それでこんなに楽器が多くて編成も大きいのに、出てくる音楽は室内楽だ。

まるで、今年日本初演を行った同じシュトラウスのダフネなどと似ている。

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