河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

992- 神々の黄昏 ワーグナー ウォーナー エッティンガー オペラパレス2010.3.27

2010-03-28 17:10:41 | インポート

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3月18日
3月21日
に続き連々投で神々の黄昏を観劇。
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2010年3月27日(土)14:00-20:20
新国立劇場、オペラパレス
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ワーグナー 神々の黄昏
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キース・ウォーナー演出
ダン・エッティンガー指揮
東京フィル
新国立劇場合唱団
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In order of appearance
ノルン
 1N 竹本節子
 2N 清水華澄
 3N 緑川まり
.
ジークフリート クリスティアン・フランツ
ブリュンヒルデ イレーネ・テオリン
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グンター アレクサンダー・マルコ=ブルメスター
ハーゲン ダニエル・スメギ
グートルーネ 横山恵子
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アルベリヒ 島村武男
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ヴァルトラウテ カティア・リッティング
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ヴォークリンデ 平井香織
ヴェルグンデ 池田香織
フロースヒルデ 大林智子
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2004年初演時は6回公演でそのうち3回観劇。今回の再演は5回公演で3回観劇。十分楽しみましたのであまり言うことも残っていない。
最近の公演では2006年のマリンスキー劇場の演出は動きのないものであまり印象のないものであったが、ウォーナーの演出は評価は横に置くとしても記憶に残る演出であることは間違いない。楽しめたプロダクションでした。
カミタソでは舞台の前景での歌の場面が多く、横の広がりの小ささとともに、客席側への窮屈感がある。舞台の奥行きを活用したいがためにかえって前方に詰め込んでしまった。第3幕でのジークフリートの背中を槍で刺すシーンも、その窮屈ななかで行われる。その後の葬送行進曲で奥までたどり着かなければいけないような演出なのでそうなってしまうのだろうが、装置が大掛かりな舞台ではあるが制約も大きいということか。
音楽は軽く感じる第3幕冒頭から、この葬送行進曲で急に重くなる。ヘヴィー級への転換はエッティンガーの棒でさらに限りなく重くなる。エッティンガーはすべてやりすぎの感があるのだが、この葬送行進曲のスローさはその最たるものだ。その時間的な長さと、このオペラ・パレスの奥行きの深さが見事に一致した局面ととらえることもできないではない。ジークフリートのフランツが間をはかりながら這っていく構図は不自然な速度ではない。この舞台と音楽が見事に一致したといえるかもしれない。演奏会コンサートであの速度でやられたら、もたない。
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最後のジグソーパズルが埋まったところで終わりと思いきや、奥手の扉が開き映写機による放映だったことを示唆する。このプロダクションが映画仕立てだったということをいっているのではないかと思う。過去現在未来といった時間軸的な示唆ではなく、単に今回、僕の演出は映画仕立てにしたんだよ、とウォーナーが言っているように思える。それ以下でも以上でもなく。ただ、
上の席だと見えないが、第3幕冒頭のライン川のシーン、舞台に向かって左上方には映写機があって、ライン川を映写している。ラインの乙女の動きとあわせフィルムを回したりとめたり。そうともとれるし、舞台全体が映画のように上演されていて聴衆はそれを観ているともとれる。さらにこの第1場では、三人のラインの乙女もハーゲンもフィルムを手に取り直接眺めている場面が頻発する。自分たちが映画上映されている中で眺めているフィルムの中身はなんなのだろうか。それこそ神々の歴史の一コマだったのではないか。今回のウォーナーの演出は映画仕立てではあるが、ときの流れ、権力の構造、遷移、出来事、事件、など映画仕立てのなかで出演者がみていたフィルムの中にこそ、それらが映し出されていたのだ。
映像、映画、テレビ、ビデオ、これらはこの演出のキーワード。
つまり、ラインゴールド冒頭における乙女とアルベリヒが映画館のようなところで上演されて観ていた映画、あれの中身ななんだったのだろうか。カミタソ第3幕の冒頭の動きと同じなのだ。
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その冒頭よりもっと前、本当の冒頭はヴォータンが客席に向かって映写機の強烈な光源のビームを放射するところから始まっている。ヴォータンがこれから始まる映画を観るためにあすこに座っていたのかもしれない。それがカミタソのラストシーンでは、現代の我々が上映を観ていた形で終わる。映画を観ていたヴォータンも映されたものだった。それともこの4夜の間にどこかで位相が変化したのだろうか。時間が、歴史が、ひとつ進行したのだろうか。最後のシーンは陳腐という人もいるけれど、意味は考えてみる必要がある。今回のようにこのキーワードが舞台の中に多発してあらわれる演出においては、もうひとひねり考えてみることも必要だ。
もう1、2世代まわると、リールが映画の上演の意味を示唆しているというキーワード自体が意味をなさなくなる。リールというハードとソフトの橋渡し役としての媒体、メディアがなくなってしまっているはずでこの演出自体、歴史に流されてしまうのは初めからわかっている。映写機のリールの意味が分かっている今だから成り立ったような演出。メディアがビデオデッキ、ハードディスクだったら、よくわけのわからないプロダクションになっていた。
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付け加えると、このプロダクションの冒頭の映写機のビームは、ハーリー・クプファーのプロダクションのラインゴールド冒頭で強烈なレーザー光線が動きをもって照射されるシーンからのイメージの連鎖であることは明白と感じる。その意味でも、陳腐ではないが、既に歴史の一コマとしてのトレンドの神棚行きも感じられたのだった。
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歌い手では群を抜くテオリン、フランツではあるのだが、近くで観てみるとわかるように今回の演出では小物、小道具から振付まで非常に細かいものでありそれを一番よく表現していたのはハーゲン役のダニエル・スメギだ。グートルーネの股を開いたり、脱ぎ捨てたジャケットの匂いをかいだり、ここらあたりは遠景でもわかるが、アルベリヒの殺害、自身に注射をして快感を感じるあたり、グンターの注射殺し、さがせばいろいろでてくるが顔の表現が目まぐるしく変わる。このヒール役になりきっているのがよくわかる。体躯のバランスもよく、シルエット的な場面もよくきまっている。黒に黒が映える。見事な演技だったと思う。
歌も素晴らしく、良く透る声で、第2幕家臣たちを集める場面のほぼ這っているような音符の流れがこんなに明確なかたちで聴けたのは初めてだ。
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テオリンは巨大な声で他を圧倒。でも心にひびくものが今一つだ。ブリュンヒルデの心の動きと歌の表現がマッチしているとは必ずしも言えない。なりきって歌えばもっと微妙で陰影がある深い歌、気持ちと連動したニュアンスが聴けたのではないかと思うところもある。技を越えた声量ということなのだろうか。
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フランツは見た目が縫いぐるみ的なところがあり、このプロダクションとつながってしまうあたり、観る方としては今後この印象を打ち消していかなければならないが、それはそれとして、ヘルデンというよりもパープルでピュアでソフトな歌声はなにものにも変えがたい。
第3幕におけるジークフリート第2幕鳥の歌のシーンの再現。困難なヘルデン・テノールのコロラトゥーラ真似。3回繰り返されるが、何度聴いても素晴らしい。
聴きたくない人たちにまで無理に聴かせようとするのではなく、聴く意思を持った人たちに語りかける歌声だ。英雄テノールなのかどうか、それはジークフリートの第1幕、第3幕で拝聴している。それ以外に、このような響きにも魅了されてしまう。大変に美しいテノールでした。
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21日に続き今日もエッティンガーがカーテンコールにあらわれたところで少しブーイングがあったが、何の意味もない。なにがブーイングをするぐらいダメだったのだろう。前のブログにも書いたが、不在の演出家キース・ウォーナーに対する意志表示であればそれはわからなくもない。でもそれはなにか古いものにブーイングしているようにさえ聞こえてくる。このカミタソのプロダクションは2004年の再演であり、トウキョウリングは2001年に始まっていて、リメイクではなく単なる再演。まして、初演が好評だったので再演されているわけで、いまさらブーイングもない。初めて観た人がしていたのかもしれないが、去年のラインゴールドはそのような騒ぎもなくいたって盛り上がりクラップでしたのに。
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エッティンガーの棒は振り姿がバレンボイムに酷似。何度かコンサートを観て聴いて、このブログでもなんどか取り上げたのであまり言わないが、ベルリンでのお弟子さんであり、ある部分しょうがないところもある。師匠のバイロイトの実績が偉大すぎるのだ。バレンボイムがついにタクトをとったリングの初年1988年のバイロイト、ラインゴールドでは音が閉じた瞬間、大ブーイングの絶叫の嵐であった。あれは演出に対するもの。
エッティンガーは音楽の作りもバレンボイムと似ている。加速減速、伸縮自在、ためを長めにつくる。ひじの動きが独特であれがためをつくるコツではないかと個人的には思っている。また、強弱も容赦ない。つまるところ劇的な表現が好きで得意。
ワーグナーに関しては、微妙な表現ながら、数々頻出するライトモチーフ、変容したライトモチーフ、出てきたところで気がついているような個所もあるような気がする。気がするだけかも。
また、彼はトレーナーではない。バレンボイムのように優秀なオーケストラがいつでも与えられていて、そこがスタート地点。このようになるまでにはもう少し修行を積まないといけないと思うが、それでもこれだけ見事にワーグナーを振れれば、結局のところ、今回のように一番肥やしになっているのはこの棒ふり自身であり、あとで振り返ってみれば、三大歌劇場とバイロイトでワーグナーを振る時が来た際、トウキョウリングのような下地があったからという話にはなるのだろう。
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オーケストラは今一つ。ブラスは鍛えなおす必要がある。たとえトラでも。
指揮者がかなり駆り立てているので抑えきれない部分もあるとは思うが、今回のような大人数はいらないかもしれない。交代で吹くならわかる。バテるので、幕間、長休止、交代で。
最初から最後まで鳴らしまくりというのはどうかと思う。ピッチの具合もどうもよくなく、それでなくても力んでいてうるさいだけの局面が多々あり。大キャパのホールでもないのであれだけがなりたてるのもどうか。たまに舞台の声が聴こえなくなるぐらいうるさい。
逆にコントラバスの響きが深く。音によるスケール感が絶大。オーディオからは絶対に出せない豊かな響きが空間を包み込む。ワーグナーを聴く醍醐味。素晴らしい。
チェロはあまり前面に出ていないような気がする。ブラスに打ち消されているのかもしれない。ヴィオラ、ヴァイオリンの響きは静かな場面にこそふさわしい。まとまってからまる‘つた’のような響きのアンサンブルが欲しいが、振る方もやってる方もそんなことはあまり考えてないのかもしれない。
アンサンブルで言えばウィンド、木管は肝心なソロパートをはずせないし、慎重な中にもきわめて技術的に高度な響き、バランスが見事であったと思います。
全体としては、ホール、ピットのせいなのか、たとえば、ハープの響きは?あとで思い出すとあまり明瞭ではない。それぞれの楽器、アンサンブルとしての楽器が個体として主張するような響きがあまり聴こえてこない。ブラスにかき消されただけなのか、それとも配置のせいなのか、ホールのせいなのか、よくわからない。アンサンブルをもっと聴きたかったというのが正直なところ。
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今回のトウキョウリング、河童メソッドとしては◎です。
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991- 土曜日にカミタソする人は華金はまっすぐ帰らナイト。夜桜見物の前はカミタソで。

2010-03-25 22:08:43 | インポート

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今週の華金めぐりは中止ですね。翌日午後2時から新国立で神々の黄昏を観ないといけませんから。体調、コンディションを整えて。

キース・ウォーナーのトウキョウリング、リングサイクルですね。2回観ましたがもう一回行きます。

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2010.3.18

2010.3.21

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今回は再演ですけど、前回2004年も3回観たのでちょうどいいかもです。深みにはまっているということですか。

このプロダクションですけど、カミタソに関しては、いろいろとありますけど第2幕がやっぱり秀逸ですね。

アルベリヒを枕で窒息死させる息子ハーゲンから始まって、花嫁の場で痙攣しまくるハーゲン子分。狂いまくりのブリュンヒルデ。そして悪だくみ三重唱。やっぱり見事な演出。

ところでこの第4場、ジークフリートが登場したところの場面ですが、ブリュンヒルデの尋常ではない怒りの場面です。ジークフリートの歌、そして同じセリフをブリュンヒルデが繰り返す個所があります。

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Helle Wehr!

Heilige Waffe!

Hilf meinem ewigen Eide!

ヘッレ ヴェール!

ハイリゲ ヴァッフェ!

ヒルフ マイネム イーヴィッヘン アイデ!

輝く武器よ!

聖なる刃よ!

おれの(あたしの)永遠の誓いに力を貸せ!

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これって、頭韻だけでなく、おしりも踏んでる感じで、両方の韻を踏んじゃってるんでしょうか。ワーグナーさん、大変なこってす。

3/27()の公演は2時スタート。終わりがだいたい815分頃。この時間、夜桜見物してそのあとお食事でもすれば、きれいさっぱりウィークデイの煩わしかった出来事はかなたにいってしまいますね。

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990- キース・ウォーナー 神々の黄昏 再演 オペラパレス2010.3.21

2010-03-22 23:08:10 | インポート

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3月18日の再演初日に続き連投で神々の黄昏を観劇。
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2010年3月21日(日)14:00-20:20
新国立劇場、オペラパレス
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ワーグナー 神々の黄昏
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キース・ウォーナー演出
ダン・エッティンガー指揮
東京フィル
新国立劇場合唱団
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In order of appearance
ノルン
 1N 竹本節子
 2N 清水華澄
 3N 緑川まり
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ジークフリート クリスティアン・フランツ
ブリュンヒルデ イレーネ・テオリン
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グンター アレクサンダー・マルコ=ブルメスター
ハーゲン ダニエル・スメギ
グートルーネ 横山恵子
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アルベリヒ 島村武男
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ヴァルトラウテ カティア・リッティング
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ヴォークリンデ 平井香織
ヴェルグンデ 池田香織
フロースヒルデ 大林智子
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開演1時間前にファミマでなんか買っているところを見かけたエッティンガーは、よもや終演の大ブーイングを予想はしてなかっただろう。日本では珍しい大ブーイングだったが、これは指揮者に対するものというより不在の演出家キース・ウォーナーのプロダクションに対するものと考えるべきだろう。オーケストラの演奏自体は初日にくらべ引き締まっており、また歌い手も同じく良好。
3連休の真ん中ということで、平日観るのが困難なワグネリアンが多数来ていたのだろうか。大ブーイングは演出に対するものとみたが、でもこの演出は2004年の再演だし、トウキョウリングは2001年のスタートだから、年数的には新しいものではない。いまさらブーイングするのも季節外れ?オペラとは全然関係ないが、昔聴いた録音を思い出してしまった。
リッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィル
スクリャービン/交響曲第3番
1987.5.31フィルハーモニー
NHK-FM1987.8.2

この曲に対する理解はその程度かと思われるようなブーイングだったのだが、あの味わいと同じような感触だった。
スクリャービン交響曲第3番河童ライブラリーはこちら
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神々の黄昏の方は、この大ブーイングはあったけれど、それを打ち消すような意識的な大拍手が見事で、叫びと連動しているのではないかとさえ思えた。それにもましてブリュンヒルデを歌ったテオリンへの絶叫がものすごく、メトなみにファミリーサークルの壁板を足で蹴り叩くのではないかと思えるほど、聴衆の何かあれば叩きかねない絶叫がやまなかった。

エッティンガーの棒は、あいかわらず見事だ。プロローグ+第1幕が初日18日より約5分ほど短かった。どこがそんなに早くなったのかわからない。2時間15分前後の解釈なのでその程度の出し入れは聴く方も想定の範囲内。
エッティンガーは伸縮自在というか、速度設定が極端で第3幕のジークフリートの死はやりすぎだ。あれだけ粘られると好き嫌いを越えた善し悪しの世界に足を踏み出しかねない。やれるだけやるそれでいいのではないかというのも一つのスタンスではあるのだろうが。舞台がなければ破たんしていた演奏ピースだったかもしれない。いくら指揮姿含め師のバレンボイムと、うり二つとはいえ、そこには遠くフルトヴェングラーのものものしさがエコーする。第1幕では1階の自分の席よりも前の方々、5人ほどタップしたがレフリーもいないことだし、自分でご退場なされた。個人の体調ももちろんあるが極度のピアニシモ、長大なゲネラル・パウゼ。演奏効果が精神と肉体に極度の緊張を強いているのかもしれない。ここはあまり考えずリラックスして聴くことだ。
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カミタソは聴きようによってはオーケストラ曲の宝庫で、これらモノローグ風な息の長~い魅力的なサウンド、聴いていてまるで飽きない。オーケストラがもっとうまければさらにいいのだが、初日よりは明らかに引き締まってきておりそれはそれで良しとしようと思います。

トウキョウリングのカミタソは初日と今日、それに2004年にも3回観たのでもうあまりどうだこうだということはない。ただ単に楽しむだけ。
プロローグ+第1幕は場面がたて込んでいてそれはそれで面白い。第3幕まで一貫しているのが小屋。ブリュンヒルデの小屋ですね。夫に強姦されるときは煙突の先が伸びるのはご愛嬌としても、第2幕では縄で引っ張られて出てくる花嫁小屋は秀逸。劇の連関をそちらの方向に角度する。そして第3幕ではジークフリートをくべるストーブのような火葬小屋として。
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カミタソの演出は前の三つの楽劇に比してどうもリアルすぎるというか落ち着いてきているような印象を全体として持つ。発想が、あっても不思議ではないようなものに傾斜してきているのではないだろうか。注射器とか毒血清のようなものも、現代においてはいかにもありそうなものでリアル。はずそうとしているが逆に妙に納得したりする。ジークフリートの死のシーンでは、奥に曲中立っているのがグートルーネでここは肩透かし。一回見てしまえばそのようなものかと思うことではある。第1幕でブリュンヒルデを犯す歌わないグンターは、漂白剤のような白い衣装だがこの場面、隠れ頭巾ジークフリートの影だ。
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.第2幕終場の悪だくみ三重唱は、スタンディング・ポジションが離れすぎ、それと動きすぎ。もう少し一点に集中してもよかったかもしれない。最後は悪魔的な三重唱でお見事ではあった。オーケストラのトレモロもものすごく、鬼の形相が音にまで乗り移っていた。
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歌い手は今日はみんな初日より決まっていた。フランツは第3幕音程困難な歌を見事に歌い切った。ソフトでパープルな響きはヘルデンというよりパルジファルのイメージに近く聴こえる。昔のペーター・ホフマンはもっと声が練られているというかグレーな粘土のようなおもむきがあったような気がする。だいぶ異なる。
それると、パヴァロッティやドミンゴ、特にパヴァロッティなんかは、直径1センチの光源からレーザービームのような声がホールに突き刺さる感じ。オペラと言ってもワーグナーとイタオペだとアナザー・ワールドの世界なんで比較するのもどうかということはありますけど。
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テオリンはカクテルパーティー効果に関係なく巨大な声で他を圧倒。ワルトラウト・マイヤーは録音からは決してわからない巨大な声、昔のシェリル・ミルンズなんかもそうで、録音だけ聴いているとぱっとしないが、生サウンドは巨大にして偉大。ミルンズなんかは巨大なメトにこそふさわしい歌い手。テオリンも生で聴いて初めてわかる。ご近所席の絶叫おじさんの気持ちもよくわかる。思い入れが思い込みに近くなっている様相ではあったが。
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はまり役はハーゲンのダニエル・スメギ。声、スタイルともにヒールとしてぴったり。シルエットのようなストップモーション、光と影。錯そうする心の闇。見事な表現でした。
グンターとあまりにも両極端すぎる性格演技ではあったものの、グンターの存在感はそれなりにあったので見事なバランスであったと思います。
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ところで第3幕最後の11小節。二分の二拍子になったところからですけど、あの印象的なシーンはどういう意味なんでしょうか。

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989- 神々の黄昏 ウォーナー・プロダクション 再演初日 オペラパレス2010.3.18

2010-03-21 10:01:40 | インポート

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今日は、トウキョウリングの再演、大詰め、神々の黄昏の初日です。
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2010年3月18日(木)16:00-22:25
新国立劇場、オペラパレス
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ワーグナー 神々の黄昏
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キース・ウォーナー演出
ダン・エッティンガー指揮
東京フィル
新国立劇場合唱団
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In order of appearance
ノルン
 1N 竹本節子
 2N 清水華澄
 3N 緑川まり
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ジークフリート クリスティアン・フランツ
ブリュンヒルデ イレーネ・テオリン
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グンター アレクサンダー・マルコ=ブルメスター
ハーゲン ダニエル・スメギ
グートルーネ 横山恵子
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アルベリヒ 島村武男
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ヴァルトラウテ カティア・リッティング
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ヴォークリンデ 平井香織
ヴェルグンデ 池田香織
フロースヒルデ 大林智子
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前月のジークフリートにおけるブラス・セクションの問題は個々には幾分解決されていたように思うが、でもやっぱりどうも問題だ。
バーの頭から合わせるフレーズの場合の縦線はそれなりなのだが、アウフタクトから始まる節のそのアウフタクトの一音目の不揃いもさることながら、2音目、つまりバー冒頭の不揃いが顕著で、どうしてこうなんだろうと。フレーズがふやけてしまっている。汚れも目立つ。
神々の黄昏は、オーケストラ間奏曲がたくさんあり、演奏会でも単独で奏される機会が多い。オーケストラのサウンド好きにはこたえられない息の長いワーグナーの魅力的なピースの山なのに。今思うと前回初演時のN響の能力はやはり飛びぬけていたのだろうと今になって思う。
それに、指揮者の問題もあるかもしれない。棒が明確不明確云々ではなく、耳もしくは伝える意思、さらには練習の量、いろいろあるのかもしれない。
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細かい描写はブログのみなさんがしっかり書いてますし、それにこの日は記録用とはいえ映像を撮っているようだし、機会があればいつかは観れるかもしれないので、基本的に省略。
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それで、
2004年のトウキョウリングのカミタソは6公演ありそのときは3回観てしまった。忘れかかっていたが最後の場面だけはしっかりと覚えている。かなり印象的だったので。
一体、最後から数えてわずか11小節目、二分の三拍子から二分の二拍子にかわり、ブラスが最後の動機を奏でるあたり、時間にしてラスト1分にも満たない部分で、舞台でいうと最後のジグソーパズルがしっかりはまったところで終わるのかと思いきや、舞台は片づき最奥から何人かの人たちがドアを開けてでてくる。はいってくる?どうも映画撮影の現場だったらしい。この物語は映画仕立てだったようだ。それこそ記録された映画の放映か撮影だったようなのだ。ということは今まで撮影されていた現場を我々は観ていたのだろうか。脳裏の気持ちがもがく中、唖然とぽかんと終る。
種明かしは映画仕立て?そんなシンプルな話でもない。だって、映画フィルム、リール、ヴィデオ、テレビ、このような映像、撮影にかかわるものは劇中繰り返しでてきたものだし、撮影されている連中がリールをみたり取り出したりはしない。それならば一体誰が何を撮影していたものを、どっちの誰がみていたことになるのかしら。誰かおしえて。
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神々の黄昏はヘヴィー級のオペラで、パルジファルと同様、マイスタージンガーと反対に、第1幕に2時間コースの長丁場。プロローグがあるとはいえこの長さ、いったん突き通ってしまうと、なんだか解脱状態になり、あとの2幕3幕なんて整理体操?そこまで極端ではないが流れで聴くことができる。序幕+第1幕が重い。ここで、はまるしかない。
ジークフリート第3幕のエルダの場面ではしごを昇り降りしていた頭が爆発したような格好のパンク爆発女たちはノルンだった。そうだった。
過去現在未来のノルン会話はリブレットだけでも面白いもので、舞台の歌はかえってすーっと進んでしまうようで味気なかったりする。今日みたいに。
クプファーの2回目のプロダクション、バレンボイム、ベルリン国立歌劇場の公演では、ノルンたちがビニールのようなパイプのようなものをこんがらかった、あらどうしようかしら、みたいな感じではあったが、重厚で、歴史の編纂と思わせるような歌、引き継がれていく歌、演出の妙と構えた歌があった。
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スーパーマンのBのジークフリートとSのブリュンヒルデは既に事後の着替えを済ませている。そんな感じで進む。
注射器は刺激的。血の交換。
すさんだアルベリヒは奇怪。第2幕の婚礼のシーン、指環唯一の合唱の場面で試験管の血を飲まされ痙攣しまくっていなければならない配役にはご苦労さんと言いたい。
行う行為はト書き通りだが手段、やりかたが尋常でないウォーナー・プロダクションの極みといったところかもしれない。
そんなこといったら、やわのグンターに犯されるブリュンヒルデの小屋の煙突はその瞬間、先が伸びる。これはあれのことで、面白いかもしれない。
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今回感じたのは、序幕第1幕、第2幕の重さに比べ、軽く感じた第3幕。ジークフリートの末路がある第3幕が一番軽く感じてしまうぐらいそれまでの内容が素晴らしすぎたのか、演出のせいなのか、こちらの聴きかた観きかたのせいなのか。今回はこのようなウェイト・バランスを強く感じた一夜。ジークフリートの死もブリュンヒルデの自己犠牲もなんだか劇が終わった後の出来事のように思えてしまった。
第2幕終結部の悪だくみ三重唱あたりまででこちらのエネルギーも使い果たしてしまったのかもしれない。
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席の位置関係のためなのか、歌っている人の喉のおかげなのか、講演会なんかでもそうだが、とおる声、とおらない声が、オペラの歌い手にもあるのかも。でも歌が職業なんだからそんなことはないだろうとは一方で思うけど。
ハーゲンのダニエル・スメギ。声が大きいといったことだけでなく、よく通る声なのではないだろうか。非常によく聴こえてくる。力んで歌っている風でもなくこのような声質が劇場を静まらせるんだね。悪役ハーゲンは歌もスタイルも決まっていたと思います。
反してグンターのブルメスターはなんだか、やわ。態度では押されっぱなしだったけれど、声の方はあまり前の方に出てこない感じはあるが、声が小さいのではなく位置関係のせいのような気もする。正面を見据えて歌う局面ではきっちりと出ていたようだし。
このブルメスターとヴァルトラウテのリッティングには、他のメンバーに比べて拍手の落差あり。リッティングは日本の聴衆の感度を今回、感じたかもしれない。ブルメスターはどうも反省するグンターといった感じ。最後は殺されてころがってしまう。陰惨な役、シーン。
黒のハーゲン、漂白剤をかけたような白のグンター。色彩で役を印象付けるウォーナー流のやりかたが成功してはいるけれど。
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ジークフリート役のフランツの声もよく聴こえた。柔らかで美しく、ヘルデンというよりもなにかパープルのような色あいの響きが良くとおる。透き通る。
第3幕の森の小鳥の会話想起のシーンはかなり困難な歌唱だと思われるが、お見事。ジークフリート第2幕におけるジークフリートに舞い戻ったような印象的な歌であった。
2004年の公演ではカミタソ6回公演はトレレーヴェンと歌い分けたが、今回は前月のジークフリートのジークフリートも含めて双方5回ずつ歌い切るわけだ。大変だ。
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ブリュンヒルデのテオリンは強じんな喉なんだろうが、透る声かというとそれほどでもないと思う。馬力というかもって生まれた、練習で増幅した大サウンドが素晴らしいのだろう。音程がどこにあるのかよくわからなくても大声で歌い切ってしまうみたいな。素足でもフランツを凌駕している大柄な女性で共鳴体もそれなりなんだろうね。
フランツのジークフリートをしまいにはくべてしまうあたり並みの女じゃない。これはウォーナーの演出か。でもここらへん煙突小屋のあたりから妙にリアリスティックで。
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ブリュンヒルデのテオリン、ジークフリートのフランツ、ハーゲンのスメギ。この三人の歌は素晴らしかった。とくにテオリンはご本人もかなり満足したようで。
録画取りがあったとは言え、燃え尽き症候群にならなければいいが。まだ4回残ってる。
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ところで、第3幕冒頭はラインゴールドの再帰なんでしょうが。
なんというか、歌は非常に良かったものの、声だけで良かったのかもしれない。それともウォーナー一流の。。
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おわり


988- とんでもシューマン ライン スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー 読売日響2010.3.19

2010-03-20 17:08:51 | インポート

順番からいったら前日の18日に観た神々の黄昏のことを書かないといけないのだが、中断。翌日19日のミスターSのトンデモ演奏にやられそっちを先にアップ。

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2010319()7:00pm

サントリー・ホール

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シュトラウス ドン・ファン

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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー Music for Winds

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シューマン 交響曲第3番 ライン

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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー指揮

読売日響

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シューマンがこの日のトンデモ演奏。昨晩観た新国立の神々の黄昏が吹き飛んだ。

一言でいうと「圧倒的操作」

ここまでなぎ倒してくれると指揮芸術の極みがこれ以上なく明確になり何も言うことはない。

冒頭第一打のいきなりのティンパニーの大強打で始まった87歳とは思えない高速演奏は、フルオーケストラを絞りつけながら、唸りを上げて悶絶演奏街道を突き進む。

シューマンのスコアもかなりなぎ倒しているとみた。輝かしすぎるブラスの光。それぞれのパートの主張が明確な弦。

ティンパニーから始まった曲の輪郭、縁どりは、構成感をこれ以上なく浮き彫りにさせる。完全なる交響的解釈。形式感を強く意識した解釈は、名状し難いものであるのだが自分には感覚として肌にじかによく理解できる。例えば以前聴いたブルックナーの7番。あれなんかは眼前にフルスコアと楽典が置かれているような形式音楽の完璧な表現であった。あれと同じだ。

それでシューマン。第1楽章終結部における光り輝く、それでいてこれは深い森の響きでしかありえないような底からのサウンド。単なる曲解釈を越えたミスターSサウンド。ソナタ形式のフィナーレを飾るコーダにふさわしいものなのだ。

そして、第2楽章も悶絶演奏は続く。ライン川が地響きをたてて唸るような音の太いあや。川の流れを超えてしまったような音、響きというのは、小編成のオーケストラからは決して出てこないもの。フルオーケストラのアンサンブルを整え、ぎゅっと絞り込んだサウンドは、はちきれて拡散してしまいそうな大編成を内側に集中させ、まるで蛇の悶絶状態さながら、あるいは抑え込むからこそでてくる唸るようなサウンド。見事なトレーナーというしかない。

前日聴いた新国立の神々の黄昏でピットに入っていたオーケストラとは明らかにレベルが違っているのですが、基本的能力の違いとともに、一因としてはこの鍛え指揮者のおかげでもある。

3楽章で一服感。ここでは曲の縁どりもさることながらハーモニー・バランス、音色バランスが味わい深い。団員の気持ちが高速状態になったままであり、ここではそのスピードを抑えようとするそちら方面の抑止感からくる別の微妙さが生まれたように思える。

4楽章は終楽章への序奏のようなものだが、シューマンの心情の一面が出ているような楽章で、「ふし」とかをさがしたらダメだ。曲尾にここでまたブラスのファンファーレが重くシューマンを表現する。大変に素晴らしいことこのうえない。

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人間の老いと反比例してしまったような高速で突き進む第5楽章こそこの日最大の聴き所。

右に左に上に下に間髪入れずに動き回る両腕。音楽は一聴するとやたらと軽くなった。ホップ、ステップ、ジャンプのような突き抜けるような曲想になるのだが、なんだかどんどん速くなる。神々の黄昏を演奏した東フィルのスキルのかなり上をいくこの読売日響なんだが、もつれてきた。もつれまくり、こんがらかってしまった。そこまではいかなかったが、とにかく突き進む。このスピード感そのものが音楽の気持ちの蓄積のようなポテンシャルを生み生理的快感に変わる。呼び起こす。再度言っておくと、小編成のオーケストラパートの演奏、サウンドではこうはならない。妙だが押さえつけることによって呼びさまされる音。漬物石がなければうまい漬物は食えない。そんな感じ。

テンポアップと形式感の保持バランスは難しいところだが、ミスターSは自身が一瞬たりとも曲の構造を放置しない、忘れることがない、だからうまくいく。次の一手が必ずそこに準備されていることをよくわかっている。彼が構造を意識して曲の構築をおこなっていることは強く感じる。

オーケストラは地響きをたてたまま高速に加速を重ね、圧倒的なブラスの響きがシューマン独特の降下音型を縁どり終わりきる。

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弦とブラスの重なり合いがあまり居心地のよくなかったりするシューマンが、この日の演奏では、それは棒振りのせいだよ、オタマジャクシを何も考えずに放置しているからだよ、とミスターSが言っているようでもある。

ミスターSの曲の明確な縁どりは自身の曲に対する構成感を表現するうえでの要請であり、意思そのもの。お見事。

それと、特に印象的だったはホルンの充実度。シューマンのホルンはこうでなくてはならない。トップの方の線は細いが、まとまったときの響きの充実感がすごい。ミスターSはブラスの出し入れをこまめに指示しており、響きのバランスを保つところと、開放させるところ、それぞれ濃く表現している。強打の連続となったティンパニーに対しては指示はなく一見無頓着。つまりデフォが大強打だ。そのような前提を練習で仕込んだと思われる。

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こんな感じで、太くて迫力があり造形に優れた素晴らしい表現のシューマンを聴くことができました。

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前半の一曲目はシュトラウスのドン・ファン。後半のシューマンの解釈を知ってから聴けばよかったと思われる個所も思い起こすとありそうだ。交響詩のたぐいはミスターSにとっては得手不得手の前に関心そのものに付点を置くべきものなのかもしれない。方針はシューマンと同じながら交響曲のような峻烈さは今一つ浮き彫りになってこない。音の濃淡、深堀度などで立体感はだしているものの、滴り落ちるようなシュトラウスは彼の頭の中にはあんまりないと思いますよ。

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前半二曲目。いわゆる自作自演。

タイトルはMusic for Winds となっているけれど、実際のところは「管楽器、木管楽器、パーカッションのための音楽」

要は弦を除いてピアノ、ハープ、チェレスタ、サキスフォンなどを含めた大規模編成の曲。

連続した4楽章形式。

馴染みのある管の響きには飽きないけれど、魅惑的なところまでは至っていない。しかし、相当快速なテンポの現代曲で、ミスターSの真骨頂といえなくもない。演奏の方が上回って快適な個所が何か所もある。閃きの曲か、そこが問題だ。

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今、読売日響の常任指揮者のミスターSは来週のブルックナー8番で有終の美を飾る。4月からはカンブルランが常任となる。以前、トゥーランガリラ交響曲で忘れがたい演奏を行ったのが印象深いがこの5月ハルサイを振るようだ。これも聴き逃せない

おわり

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987- ハイドン交響曲全集=デニス・ラッセル・デイヴィス 途中58-65

2010-03-17 22:59:00 | drd-haydn-complete syms

例の37枚組聴いている途中です。

今まで聴いた内容は以下にあります。

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ここ 

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番号順に聴いておりまして、58番から65番までまとめ聴きしました。

また、ちょっと軽い世界に戻ったような気が少ししますが、曲を知らなくても何楽章をやっているということがわかるこの形式感というか安心感。

59番第2楽章のマイナー調な陰影が素晴らしい。

60番は6楽章形式となっているが、おふざけがあったりして面白い。拍手の方は結構戸惑っているようではありますが。

こんな感じで65番まで行き着いたのですけれど、前回聴いた57番のような魅力的な曲はなかなかあらわれない。

続く。

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985- デニス・ラッセル・デイヴィス = ハイドン交響曲全集 途中48-57

2010-03-15 22:10:00 | drd-haydn-complete syms

例の37枚組聴いている途中です。

今まで聴いた内容は以下にあります。

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ここ

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番号順に聴いてます。

47番まで聴いてましたので48番から。まとめて57番まで聴きました。

48番はオーケストラの限界をちょっと感じました。曲が大規模になるにつれてなにか表現しきれないものがあるような気がします。

50番は曲が立派。冒頭の印象はベートーヴェン的な感じ。先が開けてきた。

51番は第2楽章アダージョのホルンが非常に印象的、ホルンの活躍が目覚ましい。腕達者揃いで聴いていて気持ちがいい。吹いている方も同じだろう。

56番、57番は両方とも30分を越える大曲になった。

序奏付の57番は、1番から聴いてきたうちで一番自分好みかもしれない。ベートーヴェンに近づいてきたような気がする。ハイドンがあってベートーヴェンがあるわけで、変な物言いではあるのだが、時代感覚的には共有されていたはずで、そこらあたりの空気感が同じような気がするのである。

続く

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984- レナード・バーンスタイン ニューヨーク・フィルハーモニック 第2回名古屋国際音楽祭1979.6.26

2010-03-14 00:10:00 | インポート

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昔聴いた演奏会のことを書いてます。

1979年聴いたコンサートはこちら

前回ブログのムラヴィンスキーに続き同じ名古屋国際音楽祭より。

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1979626()7:00pm

名古屋市民会館大ホール

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2回名古屋国際音楽祭

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シューマン 交響曲第1

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ショスタコーヴィッチ 交響曲第5

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レナード・バーンスタイン指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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それでは例によって当時のメモから。

バーンスタインは心から音楽を愛しているのだろう。音が弾みうねりをもつ。しかし、最終印象は‘静止’であった。

シューマンの非常にゆっくりした序奏から始まり、音が飛び跳ね、戯れる姿、そしてショスタコーヴィチの実にスケールの大きなフィナーレまで、音の戯れの虜となった。

ニューヨーク・フィルハーモニックは思ったより洗練されておらず、むしろ‘武骨な音’といった方が相応しいくらいであった。ピアニシモも極端なものではなく、強音はあのシカゴ交響楽団と似ている。つまりホルン1本で大ホール全体が鳴るといった感じである。音色バランスよりは、個々のメロディーの絡み合いを楽しむ雰囲気である。

シューマンはまず非常にゆっくりした序奏に始まった。一音一音をかみしめる指揮である。そしてあとは流体のように進行する。緩徐楽章は独特である。しなやかな旋律の上にハーモニーがそっと覆いかぶさるような感じである。

そして懐かしいショスタコーヴィッチの5番。こういうのを機能美とでもいうのだろうか。旋律よりは定規で引いたような音が縦、横、斜めと直線的に響いてくる。自分としてはこういうのも好きだった。

1楽章など有無を言わせぬ機能美、直線美、構築美があった。そういえば建築物が少しずつ立っていくような雰囲気であった。

この強烈な第1楽章に比べて、なんという第3楽章であったことか。冷たい美しさがそこにはあった。氷の上に炎のしずくが落ちるとでも言おうか。

バーンスタインの音色感覚はどういうものだろうか。第3楽章のこのひたすら直線的で冷たい、そして広い広原を感じさせる音をどのように表現したかというと!

まず、冷たい主旋律が直線的に流動する。そうするとそれをささえるハーモニーはその旋律に安定感を与えるような静かな、いわゆるオーソドックスな手法はとらないのである。ハーモニーが上から柔らかく主旋律に降り注ぐのである。実にきれいであった。実に具体的であった。このような音を奏でるニューヨーク・フィルハーモニックは実に冷的である。

そして高校で演奏して以来熟知している第4楽章。へたな演奏だと本当にありきたりにしか響かないこの音楽をバーンスタインは何もすることなく実に雄大に響かせた。なつかしさのあまり手が一瞬動きそうになった。フィナーレはふさわしい。

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メータが振ったらどうなるかわからないが、先日のレニングラード・フィルとはバランスそして高貴さの点において劣ることはたしか。しかし、バーンスタインはムラヴィンスキーとは別の音楽を所有している。実に面白かった。この2大国の明白な相違感。

こんな感じの感想でした。

なんだか、昔の方が音楽をよく聴いてとらえていたような気がしないでもない。

おわり

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983- ムラヴィンスキー レニングラード・フィル 第2回名古屋国際音楽祭1979.6.2

2010-03-08 21:27:00 | インポート

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聴いた演奏会より。

1979年聴いた演奏会一覧はこちら

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昔、幻のムラヴィンスキーを名古屋で聴いた。

田園の最初の一音、フェザータッチのようなサウンドを聴いて、ああこれは並みのオーケストラとはまるで力の違うオーケストラだ、と一瞬にしてわかったのを今の出来事のように思い出すことができる。オーケストラのレベルがほかのオーケストラと全然ちがっていた。

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2回名古屋国際音楽祭

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197962()7:00pm

名古屋市民会館大ホール

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ベートーヴェン 交響曲第6

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ワーグナー トリスタンとイゾルデ、

      前奏曲と愛の死

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ワーグナー ジークフリート、

      森のささやき

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ワーグナー ワルキューレ、

      第3幕への前奏曲

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エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮

レニングラード・フィル

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例によって当時のメモから

今回で4度目の来日だそうだが、僕にとっては幻の指揮者である。あの長身で(190センチもあろうか)やせみの、そして眉が白くて頭が禿げ上がった容姿、そして、その指揮台に向かう足どり、第一印象はフルトヴェングラーそのものであった。

僕はフルトヴェングラーが出てきたと思った。音の作りも世間で言われているようなフルトヴェングラーと正反対のものではなく、むしろ似ていると思った。

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指揮台にあがるや、やおら眼鏡をつけ左手に指揮棒をもったまま無造作に右手ではいる。いかにも手慣れた感じだ。

田園はその音の開始から微妙なクレシェンド、デクレシェンド、そしてめりはりのきいた伸縮自在な変化に呑み込まれてしまった。

手の動きは楽員が理解しうる最小の動きと言ってもよいだろう。余計な動きは何一つしない。またソ連のほかのオーケストラがやるようなブラスの必要以上の強奏もしない。(もっとも金管のばかさわぎは現在ではソ連だけではないが)

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音を出すこと自体が音楽となる完全な雰囲気はどうすれば醸し出すことができるのであろうか。音楽の途中でしばしばでてくるソロはほとんど音の楽しみである。

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ムラヴィンスキーは主旋律をあまり歌わせることはしない。音楽は古典の形式そのもののように進む。(オーケストラ配置はヴァイオリン、チェロ、コントラバスが左側、ブラスが全て右という配置)

この田園もまるでハーモニーのかたまりのように整然と進む。まるでバッハかモーツァルトを聴いているような錯覚に一度ならずおそわれた。また楽章の切れ目や最後の終わりの部分も本当に味があるというか、整然としているがものすごく素晴らしい。

とにかく音楽に対する異質感がまるで感じられないというのはムラヴィンスキーの音の作り、考え方が素晴らしいからなのだろう。

100人の演奏家がまとまって指揮者のもとで一緒になって音を出したら「田園」という音響が築かれた。

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とにかく超絶的なバランスである。このごろよく聴かれるようなブラスがうるさくて、弦が聴こえないというような現象はまるでみあたらない。

ぶ厚い弦、奥深い低音、節度をわきまえたブラス・セクション、どのパートをとっても申し分ない。指揮者の完全なコントロールなのだろうが、まるでその気配がない。

ムラヴィンスキーの指揮するベートーヴェンの交響曲を全て聴きたくなった。その、他を圧倒する力は筆舌に尽くしがたいと思われる。

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フルトヴェングラーとムラヴィンスキーがだぶってみえてしょうがない。

過去なのだろうか。

いや現在と共同している。

フルトヴェングラーもムラヴィンスキーも。

すばらしい音楽。

幻である。いまだ。

というメモでなにがなんだかよくわかない状態で、前半の田園で完全に打ちのめされ、後半の爆発的なワーグナーのことをなにも書いていない。後半のワーグナーを忘れてしまうぐらい田園が素晴らしかった。ムラヴィンスキーの魔法のタクトにやられたということだろう。

後半のトリスタンや森のささやきもワルキューレの騎行もとんでもない演奏だったはずなのに、ワルキューレの騎行のことをかすかに覚えているだけだ。フルパワー、全開のワルキューレは、当時当地でみた映画、地獄の黙示録とだぶる。どっちを先に観たのかおぼえていないということはあるけれど。

おわり

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982- ハイドン交響曲全集 デニス・ラッセル・デイヴィス シュトゥットガルト 途中37-47

2010-03-07 15:01:36 | drd-haydn-complete syms

37枚組の途中感想です。

今までの聴いた内容は以下にあります。

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ここ

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36番まで聴き終え、37番から聴き始めました。

作品番号順に聴いてますので、作風が入り乱れたりしてますが、それぞれの作品を一つの個体として聴くスタンス。とはいえその一つ一つがベートーヴェンのように忘れ難きものというわけでもないので多少つらいところも。

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聴きすすむにつれハイドンの特徴のようなものがなんとなく見えてきました。ソナタ形式音楽の音のつながり、保持、次への展開はなかなか困難なところもあるような気がします。材料がもっとほしい、新たな発想がそろそろ必要といったところでしょうか。

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演奏の方は、41番では強奏部分で少し濁りがある。とはいうものの全般にわたり腕達者で、録音、サウンドも引き締まっておりあいかわらず心地よい音楽が流れる。47番のホルンの響きには魅了される。

今まで1番から聴いてきて必ず拍手がはいっていたが、45番、46番には拍手がない。セッション録音のように静かではあるが、これだけセッションというわけでもないと思う。

45番が告別という副題にあるようにアダージョで終わるため拍手がないのかなと思ったが、続く46番も拍手ははいっていない。

続く

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981- バーログ

2010-03-05 00:10:00 | ブログ


クラキチさんがタベログにまた一軒バーをアップしたようです。

クラキチのレストランガイド

タベログのバー評価ってみんなだいたいよく書いてますよね。
自分の持っているイメージのままそのバーにいって、よかったと書く。

現実はそうみんないいわけではないと思います。
クラキチさんはわりとありのまま書いてますね。
手厳しいというほどのことはありませんが、良かったり悪かったりで。

昔は友達とお酒を飲むときはだいたい1時間ぐらいで場所を変えながらはしご。
意識はしご。
最近は腰に根が生えてしまって、同じ店に滞留。いろいろと細かいところまで見えてしまいますね。

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980- ハイドン交響曲全集 デニス・ラッセル・デイヴィス 途中32-36

2010-03-03 00:10:00 | drd-haydn-complete syms

37枚組の途中感想です。

今までの聴いた内容は以下にあります。

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ここ

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前回31番まで聴き終えました。

番号順に聴いている経緯については最初に書いてます。

それで今週は32番から36番まで聴いてみました。

4楽章のソナタ形式でますますすっきりさわやかに突き進む。曲を作る行為自体に意味があるとハイドンが言っているようだ。

ポーン、ポーン、とストレートな響きだらけでかなりアクセントの聴いた音楽であり交響曲のどぎつさはベートーヴェンが最初ではないということをあらためて感じさせてくれる。

なんだか音楽のしなやかさが欲しくなる、音楽がだんだんわけのわからぬ方向に進むのはもっと後の時代のことなので今はこのストレートなソナタ形式美を楽しみ続けることにしよう。

と、まとめるのは楽だが、これでまだ三分の一。先が見えない。。

続く。

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979- ジミー メト・デビュー40周年2010-2011シーズン

2010-03-02 00:10:00 | アート・文化

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メトロポリタン・オペラの2010-2011シーズンプログラムが発表されております。このシーズンも賑やかなものになるでしょう。

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【ニュー・プロダクション】

ラインゴールド

ボリス・ゴドゥノフ

ドン・カルロ

トラヴィアータ

中国のニクソン

オリー伯爵

ワルキューレ

【レパートリー・プロダクション】

ナクソス島のアリアドネ

アルミーダ

ボエーム

カプリッチョ

カルメン

ホフマン物語

コジ

ドン・パスクヮーレ

西部の娘

アウリスのイフィゲニア

ランメルモーアのルチア

魔笛

オルフェオとエウリディーチェ

ペレアスとメリザンド

スペードの女王

リゴレット

ロメオとジュリエット

シモン・ボッカネグラ

トスカ

トロヴァトーレ

ヴォツェック

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ジェイムズ・レヴァインがこのオペラハウスで最初に振ったオペラがトスカ。197165日のことです。それから長い年月を経て次シーズンで40年になるというわけです。音楽監督になったのは1976年ですがどちらにしても長い。これほどのオペラ人間もざらにはいないし、ニューヨークのオペラ好きから愛され続けた棒振りもいない。天性の抜けるような音楽、そしてずぶずぶにはまったワーグナーでさえいつでも抜け出せそうな清らかさ。

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このシーズンの注目はリング・サイクルのニュー・プロダクション。ロベール・レパージュの演出です。2010-2011シーズンはラインゴールドとワルキューレ、翌シーズンがジークフリートと神々の黄昏。前回のプロダクションはオットー・シェンクの演出で、1986922日の月曜日の夜8時に始まったオープニングナイトは85ドルのパルテール席に忍び込み何が何だかわからないまま消防車が待機していたというフィナーレの炎と煙だらけのハウス、そこに妙に清らかに鳴り響いた最後のピアニシモ。シェンクのプロダクションはこのワルキューレから始まって4シーズンかけてリング・サイクルしたのだった。

今回は時代の流れなのか、2シーズンでニュー・プロダクションを完成させるようだ。そしてそのあとは全部まとめて一気に敢行。

初台の新国立劇場でも再演とはいえ、2夜ずつ2シーズンでやるわけだからこれはこれですごい。初台の200120022003200420092010は記憶に残るリング・サイクルではある。このあと一気に4夜できれば、それこそ神々も降りて来よう。

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メトの方は、昔みたいにジミーが一週間に5回振るとか、土曜マチネーの昼夜振るとかといった無尽蔵のエネルギーも少しばかり枯れてきていてほかの実力者があらわれている。そこらへんはまた別の機会に。

それでもワーグナーは手放せない。彼が振るしかないのだ。バイロイトで閃きのパルジファルを何度か振るうちにワーグナーの経過時間はどんどん長くなり、カミタソのプロローグ+第1幕なんて2時間15分ぐらいまでいってしまったわけだが、味わい深くてこくのありすぎるワーグナーがレパージュのプロダクションとどう折り合っていくのか観所聴き所満載。

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グルックの演目が二つあるのも注目。

イフィゲニアでは、スーザン・グラハム、プラシード・ドミンゴなどがアナウンスされているが、ドミンゴは歌えるのか、ちょっと心配なところもあります。

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いずれにしても、エンタメのまちマンハッタン、それに流れそうないつものメト。山とあるエンタメの一つにしか過ぎないオペラ。娯楽の一つ。それにしても、この豊富なプログラム。1シーズン住めば極楽も天国になる。

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978- 新国立劇場、メト 2010-2011シーズンプログラム

2010-03-01 00:10:00 | アート・文化

初台の新国立劇場も、ニューヨークのメトロポリタン・オペラもそれぞれ2010-2011シーズンの演目が発表されました。

初台は新制作4演目を含む合計10演目。

マンハッタンの方はニュープロダクション7演目を含む28演目となっております。

初台の方はメトと規模が二回り違うとはいえ、昔のように来日公演がメインだった頃とは雲泥の差です。10数年でこのような充実感、根付きのための歴史、バックボーンはそれなりにあったということでしょう。

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初台

メト

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初台2010-2011

【新制作】

アラベラ

トリスタンとイゾルデ

マノン・レスコー

コジ

【再演】

フィガロ

アンドレア・シェニエ

夕鶴

トラヴィアータ

ローゼンカヴァリエ

マダム・バタフライ

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メト2010-2011

【ニュー・プロダクション】

ラインゴールド

ボリス・ゴドゥノフ

ドン・カルロ

トラヴィアータ

中国のニクソン

オリー伯爵

ワルキューレ

【レパートリー・プロダクション】

ナクソス島のアリアドネ

アルミーダ

ボエーム

カプリッチョ

カルメン

ホフマン物語

コジ

ドン・パスクヮーレ

西部の娘

アウリスのイフィゲニア

ランメルモーアのルチア

魔笛

オルフェオとエウリディーチェ

ペレアスとメリザンド

スペードの女王

リゴレット

ロメオとジュリエット

シモン・ボッカネグラ

トスカ

トロヴァトーレ

ヴォツェック

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ということでマンハッタンに1シーズン住めば初台3年分ぐらい住んだことになるかもしれない。

メトも初台もどれもこれも観逃せないものばかりだ。初台のキャストも充実しており、メトのオールスターキャストの方針とは異なるとは言えないだけに、数の力学では負けてしまうのだが、そのかわり、日本語の字幕が付く。

字幕の効果は抜群で、簡単に言うなら予習も何もいらない。映画と同じようにその日にその場でストーリーを追えばいいのだ。そのオペラを初めて観る人、オペラそのものを初めて観る人、どちらにもその効果は絶大。ワーグナーなんて、あるとないではまるで大違い、だ。

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初台も10数年の年月を重ねてきた。演目、歌、劇の充実度はもちろんのこと、バックステージで舞台やらなんやらの経験を積んできている人もたくさんいると思う。この人たちの積み重ねが今もこの後も大きくものをいう。

常設のオケがいて劇場付の歌い手がいて、メトのレヴァインのような存在があればなにもいうことはない。

おわり

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