河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1391- クラキチのレストランガイド、さぼり続けで先週の総アクセス数が139でしたw

2012-09-30 16:38:40 | グルメ

食べログの

クラキチのレストランガイド

そんなりっぱもんじゃありませんけど、

少し追加しました。

クラシックの演奏会のあとのエンタメ談議をする場所を想定してます、が、

最近はいたるところいれはじめました。

たまにながめてくださいませ。


ところで、こうゆうお店は食べログでは投入できないんですかね。

銀座バー 六丁目13.5

たまにどうですか。ふふ。


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1390- シーズン別、聴いたコンサート観たオペラ

2012-09-28 01:40:49 | インポート

はじまったばかりの今シーズン一覧

2012-2013シーズンhttp://kappamethod.blog.ocn.ne.jp/kappa2/2012/09/20122013_d0ff.html


昨シーズン
2011-2012シーズン
http://kappamethod.blog.ocn.ne.jp/kappa2/2011/09/20112012_a2dd.html

その前

2010-2011シーズンhttp://kappamethod.blog.ocn.ne.jp/kappa2/2010/09/20102011_ec40.html


ブログ本体の方にリンクをたくさんぶら下げてますので、あとはよろしくお願いします。

未入力シーズンもたくさんあります。これからいれます。



1389- アンドレ・プレヴィン、モーツァルト1番41番、ハイドン102番、N響2012.9.26

2012-09-26 21:42:09 | インポート

2012年9月26日(水)7:00pm
サントリーホール
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モーツァルト 交響曲第1番
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モーツァルト 交響曲第41番
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ハイドン 交響曲第102番
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アンドレ・プレヴィン 指揮
NHK交響楽団
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介添人付き、ステッキ付き、椅子座り、昨年の車押し入場よりはいいが、大変なことにかわりありません。でも音楽の出処は別。
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スモールな編成でコンパクト、艶やかで潤いのある好演でした。プレヴィンはあまり動けないので拍手の盛り上げやタイミングにいささか窮するが、雑味なしで音楽を聴けるのは割としあわせ。聴衆の意識された雄叫びや拍手がなく、そのクラップまでいいフレージングを醸し出しておりました。
一曲ずつ拾い上げれば彼の棒でなくてもいいのかもしれませんが、コンサートのワン・ナイト・プログラム、やはりこのようにして聴きたいものです。
.
後半の一番規模の大きいハイドンでこの編成。
8-8-6-4-3, ob2, fl2, fg2, hrn2, tp2, timp.
モーツァルト41番ではもっと絞られ、1番ではさらに小編成となります。そうではあるのですが、基本的に同じ方針で、椅子は予めセッティングされ、曲ごとの椅子のポジショニング移動はありません。すぐに次の曲にはいれます。1番のあと、聴衆側を振り向くのも大変そうで振り向かず。ひとしきり拍手がおさまったところでプレイヤーが少し増え41番が始まりました。
第3,4楽章が比較的スローで第1楽章と同じような感じ。だから右上がりの過熱感はありません。どちらかというと同じようなものを4つ置いたといったところ。第2楽章も運命フィナーレ楽章のファンファーレ主題後半部のホルンに酷似した節(ベートーヴェンがあとか)が、ウィンド、弦ともにせかすことなく優美に奏されておりました。バランスのいい演奏でした。
41番の前の1番はなんだか無理に長くした曲のように聴こえてきます。もう少し素直に作っていればよかったのにね。
プレヴィンのプログラミングも端と端の曲の選曲は奇を衒ったように感じる。1番ではなく別の番号を聴きたかった。
.
ハイドンはみずみずしくて艶があり、また変に変形することなくバランス感覚に優れていたと思います。なにげなく入った第1楽章の序奏はまるで一つの線でもあるかのように、見事な流れになっておりました。
ここしばらく、DRD デニス・ラッセル・デイヴィスのハイドン交響曲全集を1番から番号順に聴いていて、あれはあれで素晴らしいのですけれど、オケがちょっと埃っぽい。ハイドンの全てのソナタ形式は潤いのある艶やかなものでなければならない。判で押した形であればあるほど音の響きが大切。この日のN響は一曲でしたけれど、そんな感じ。
DRDは方針が異なると思うので比較はできませんけれど、あちらの鋭角的な表現とプレヴィンのような表現、いろいろあってハイドンも振幅が大きい。
潤いのあるハイドン、久しぶりに聴きました。
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あと、
20~30年前に聴いたプレヴィンはこんな感じ。
1991.9.28ロイヤル・フィル
1991.9.29ロイヤル・フィル

1984.5.23ピッツバーグ響
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おまけ
プレヴィン&ウィーン・フィル おすすめの1枚
.
おわり


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1387- ウェーバー魔弾の射手、S/クラリネット協奏曲、ストルツマン、フリーヘル編曲トリスタンとイゾルデ、ミスターS、読響2012.9.23

2012-09-23 21:21:12 | コンサート

2012年9月23日(日)6:00pm
サントリーホール
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ウェーバー 魔弾の射手、序曲
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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
クラリネット協奏曲 (日本初演)
クラリネット、リチャード・ストルツマン
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ワーグナー(フリーヘル編曲)
トリスタンとイゾルデ
-オーケストラル・パッション-
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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ 指揮
読売日本交響楽団

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私が聴くミスターSの選曲いつもと毛色が異なる。ソナタ形式系とちょっとちがう。明快なテンポで主題毎メリハリつけて進む具合の曲と少し異なる。このようなプログラミングのミスターSを聴くのは初めてかもしれない。
明快なテンポといっても近年は音楽の呼吸が大きくなり、その分少しテンポが落ちてきているように思えますが、音楽の大きさはますます増すばかり。この日の選曲も期待できそうです。
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フライシュッツの最後の音を導入するバスのサウンド、グワーンと底から遠近法的に鳴りました。素晴らしい表現!このような表現は偶然ではなくて練習のたまもの、指揮と体の動きと音のパースペクティブがコンサート全般にわたって一体化しており、練習なしには、ありえない。
序奏の奥行きと入念に行き届いたフレージング、濃いホルン重奏。レガートの効いた展開部からコーダに移る部分のピチカートによる明快な区切り。久しぶりにきいた同曲、いい演奏でした。かなり巨大な雰囲気が一曲目から醸し出されました。
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二曲目は自作自演のクラリネット協奏曲、プログラム解説によると頭はニ音ということで、一瞬だけ、ブルックナーの9番の冒頭イメージ。
第1,2楽章は弱音系の流れでかなり深刻、瞑想的な音楽。ストルツマンの奏するクラリネットは、どのあたりから奏されはじめているのかわからないぐらい切れ目がない。空気がいつのまにか音楽に変わるような演奏でお見事。非常に緊張感に満ちたものでした。
第3楽章は一転してパーカッションが活躍しながら速い動きの中、どちらかというと唐突に終わる。こうゆうのもある。日本初演ですし聴く方もゼロからのスタートということで。
ミスターSの曲には何回か接している。たぶんほとんど自作自演だと思います。堅苦しいところもありますけれど、オーケストラを結構鳴らしてくれるし、全集がもしあればそろえてもいいなと思っているところもありますね。
1980年代の曲とかいっても、1923年生まれのミスターSにとっては既に50歳代。若気の至りといった曲でもない。来年2013年は90!
歩くのは少し不便しているようなところも見受けられますが、太っていないので動きはいい。腕が疲れたからスローテンポになるといったこともない。音楽だけが大きくなる。素晴らしいことです。
ストルツマンは1942年生まれということだからバレンボイムなんかと同じ。お茶目でカーテンコールではミスターSが持て余し気味、敬意を表してのしぐさや態度だからいいですけれど、ちょっとね。
でも近年、写真なんかでみるよりもずっとスキニーで健康的そう。年齢による不摂生で脂ぎっている人たちが多い中、ストルツマンは健康維持管理してそうです。そうでないとあのようなピアニシモでないでしょ。指もよく動いていると思います。インストゥルメントと体が一体化している。
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プログラム後半はフリーヘル編曲のトリスタンとイゾルデ。ミスターSの意欲的な選曲ととらえましょう。
まずタイミング実測値は以下ですが、切れ目がなく第1幕に第3幕分が混ざったりしているように聴こえたところもあったので、飽くまでも目安、耳安的な参考値です。
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前奏曲:12分
第1幕より:5分
第2幕より:18分
第3幕より:19分
愛の死:7分
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場面転換推移のところで、つなぎ的にかなり編曲モードになるが、それ以外のところはいたって、そのままのように聴こえてきました。前奏曲から第1幕に入るところはもやもやっと編曲されておりましたが、愛の死はそのまま。ですので、前奏曲と愛の死はいわゆるコンサートバージョンとだいたい同じ。あとは第1,2,3幕がサンドウィッチされている感じ。
前奏曲の入念さ、よかったですね。フレーズが極丁寧に奏され、呼吸をするパウゼがまた深い。かみしめる味わい深さ、ミスターSのトリスタンはこうだったのか。コンサートスタイルの冒頭から緊張感にあふれるいい演奏でした。
読響のトリスタンと言えば、思い起こします。1978年チェリビダッケが前年の復習で来日の折のまさしく「筆舌に尽くしがたい、空前絶後の、透明な狂気。」→ 1978.3.17
聴く方のテンションが完全に上ずっていて、生唾ゴクリッの音までホールに響く中、チェリがあらわれるまでの時間の長かったこと。
ミスターSはあすこまで極端ではありませんが、両指揮者ともに方針としてはコンサートのスタイルの演奏だと思います。入念な入りから空白に意味を持たせ、広がっていく。オペラの曲想展開というよりも純音楽的な響きの積み重ねのようです。結果、折り目正しく丁寧、音楽のふくよかさは自然ににじみ出てくる。右肩を上げ、上半身が広がれば音は大きくうねり、両肩を臥せれば音楽はピアニシモの世界に。左手の甲が見えれば音は抑制され、掌が見えれば燃え上がる。練習でのコントロールとさらに上をいく即興的な音楽の高まり。オーケストラビルダーと読響の見事な一体感というしかない。特に、愛の死における、ミスターSの体の動きとオーケストラの響きのニュアンスは、もはや圧倒的というしかなく、棒から音が出ている。恍惚感に近いもの。
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このトリスタンの音がやたらとぶ厚い。第2幕の長い夜など編曲部分のいわゆるつなぎの個所が軽いつなぎではなくて相当にぶ厚いもので、これはこれでどうしちゃったのかななどと思いつつ浸っておりました。
タイミングの実測値にあるような長さバランスですが、前奏曲を第1幕に含め、愛の死を第3幕に含めるとちょっとバランスがどうかなというところではあります。全体を俯瞰したときに、このオペラをあまり聴いたことが無い聴衆にどう響くのか、曲を知らなくても形式で追えるような代物でないだけに、どうなんだろうという気持ちにはなりました。声もありませんしね。
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いずれにしましても、折り目正しくてメロウな演奏を満喫できました。
おわり

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1386- リャードフ、8つのロシア民謡、ショスタコーヴィッチ、レニングラード、スラットキン、N響2012.9.21

2012-09-22 00:30:58 | インポート

2012年9月21日(金)7:00pm
NHKホール
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リャードフ 8つのロシア民謡
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ショスタコーヴィッチ 交響曲第7番レニングラード
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レナード・スラットキン 指揮 NHK交響楽団
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作風にもよると思いますけれどロシア民謡って本当にこんなに息の短い曲が多いのだろうか、と思ってしまうぐらいのもの。一曲がだいたい一二分長くて三分。チャイコフスキーやショスタコーヴィッチの原型のような響きもありそれなりに楽しめた。大曲の前の準備体操。
ここのところ読響によるメロウなパルジファルを立て続けに4回ほど観劇したせいか、N響の音の硬いこと。響きは透明なのでガラスのような出来具合だ。国内最高水準ではあるのだが、各国一流どころはさらに何かがあるんですよね。
このホールでステージがこのように聴衆から見て大きく手前にセッティングされるようになったのはいつ頃だったのかしら。昔の話ではなく今世紀になってからだと思うのですが記憶が定かではない。
前に出た分だけ聴く方にとっては音源が近くになり、ただの多目的ホールよりは少しましになったと思うけれど、やたら音がデッド。ホールのもう一つの本質がでたということなのか。それとも読響パルジファルのせいなのか?
ガラス細工のようなこの日のリャードフ良かったと思います。ラヴェルなんかもいいと思いますね。ストラヴィンスキーの無調ものなんかこのホールに適しているかも。一方、ウェットな曲はどうなのかな。夏の風の中で、とか。
ということで、
高スキル集団ですので余計なお世話なんでしょうけど、素晴らしく分解された響きは求心力をどこに求めるのかなんとなく彷徨っているような気がしないでもない。
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シュワちゃんのCMが頭から離れない年代の人も多いと思います。私も同じ。
レニングラード第1楽章の形式はよくわかりません、提示部の素材を使わない展開部があるということなのかな。また冒頭、威勢がいい割には尻つぼみ、第2楽章も同じくクシュンと終わる。第3楽章はアタッカで終楽章につながるものの、ショスタコーヴィッチの美しいピアニシモの世界が展開。この第3楽章が個人的には一番好き。特に最後、調が戻るあたり。
終楽章も形式的にはわからない。どのように頭をめぐらせばあのような形になるのかわからないということです。
この第4楽章のベートーヴェンの運命的な、頭短く尻長くのリズムはどうも脳神経細胞を直接触られているような感じであまり居心地のいいものではない。意識覚醒の為のモールス信号サウンド、たしかにそんな感じですね。
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第1楽章26分
第2楽章11分
第3楽章18分
第4楽章15分
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奥に右から左まで一列にバンダを配した大規模曲のわりには時間経過的には弱音系が7割がたを占めている。この観点で聴くのもいい。静かさは第5番の第3楽章に見られるような一貫したものではなくて散文的。もっとも曲自体、散文的ととらえて聴いた方が楽かもしれません。
スラットキンは弦をあまり切り刻まずに埋めていっているが全体的に音がドライに感じるので、濡れた艶のようなものはなく機能美の世界。情念のような入れ込みはない。ゲルギエフの棒によるN響、キーロフ合同演奏のときのようなびっしりと敷き詰められた動きでもない。
とにかく力点が絞りづらい、力点不要。演奏はシャープだが、フラットな解釈で、普通の演奏でした。そつなく。
スラットキンは現代音楽が好きで、あっちのほうに熱がこもっているのかも。
7番のブラスやウィンドに裸の綱渡り的な際どさを求めるのはないものねだりか。一本のインストゥルメントの露骨さが欲しいところでした。
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スラットキンとかリットンといったアメリカの一流どころの指揮者というのは、自分の前に一流のオーケストラがいてあたりまえ、と思っている。技術は空気みたいなものなんです。客演であっても常任であってもオーケストラ・ビルダーではないでしょう。体を揺らせば音も揺れる、などといったことにあまり関心がない。ように見受けられる。
その上で好きにする。そのような人もいるし何もしない人もいる。
まぁ、今となってみればそうなんでしょうが、セントルイス当時オーケストラのポストにうまくはまった。セントルイスはもともと下地があり、そこにやる気のある指揮者が来た。若いときの可能性ですね。レコーディングもしていて、箱に入ったLPセットも何点か買った記憶があります。
カーネギーホールでスラットキン&セントルイスのコンビでショスタコーヴィッチの11番を聴いたことがあります(ブログ未アップ)。定期の曲を持ってきたと思われるのですけれど、一発勝負のゴングみたいな感じでたしかに溌剌としてました。体浮いてましたからね。
あと、ニューヨーク・フィルの現代音楽フェスティヴァルで振ったこともあります。もちろん全部現代音楽で、音色にプリズムの色を配したような実験音楽もあったと記憶します。
1984.6.2

1984.6.2のNYT評

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あともう一個同じくnyp公演より。
1983.12.13
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他にもあるかもしれませんが、整理中。
おわり


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1385- パルジファル千秋楽、二期会、飯守泰次郎 読売日響、クラウス・グート・プロダクション2012.9.17

2012-09-17 23:23:53 | コンサート・オペラ

パルジファル初日の感想はここ
パルジファル二日目の感想はここ
パルジファル三日目の感想はここ


2012年9月17日(月)2:00-7:15pm
東京文化会館
クラウス・グート プロダクション

ワーグナー パルジファル

ティトゥレル 大塚 博章
アムフォルタス 大沼 徹
クリングゾル 友清 崇
グルネマンツ 山下 浩司
クンドリ 田崎 尚美
パルジファル 片寄 純也
以上in order of appearance

2人の聖杯守護の騎士 (略)
4人の小姓 (略)
6人の花の乙女たち(略)

二期会合唱団
飯守泰次郎 指揮 読売日本交響楽団


実測値
第1幕:1時間53分
第2幕:1時間12分
第3幕:1時間18分

4日目千秋楽です。オーケストラはこの日が一番粗かった。また、飯守の指揮は大胆になっている。音の彫りが濃くなって味わい深い。トランペット一本でブリッジして終わるところも前日あたりから濃厚な味付け。
彫りの深さと粗さが同時に出てくるようなところが長丁場のオペラの痛し痒しの部分ではある。

昔のレヴァインみたいに1週間に7本中5本振って日曜はリサイタルで歌い手のピアノ伴奏、そんな環境が日本でもあれば才能ある指揮者はあっという間に頭角を現すと思う。
新国立が出来ても、あっちの団体でオペラ、こっちの団体でもオペラ、アマ、半プロ、年一回の学芸的催し、レアオペラならどれが正式な国内初演なのかわからないようなものも、新国立もこの前はあのオーケストラ、今度はこのオーケストラ、猫の目で、専属オケが無いから落ち着かない。ましてレパートリー形式なんて無理。(目指しているのかどうかは知りませんけど)
やっていることが悪いなんて言ってません、でも、
誰かが、現場で、オペラの鉄火場修羅場を潜り抜けさせ引っ張っていく才覚指揮者が必要ですよ。
総花的なのも悪くはありませんが、なにかこうもう一つ一貫したものが欲しいような気もします。今のままだと日本のオペラの歴史ってあとからみてもたぶん散文的。

それでもこのパルジファル、5日間で4公演、集中的に楽しめました。総合芸術のだいご味を十分に味わい尽くすことが出来ました。飯守さんが当公演の芸術監督風に全てをコントロールしていたかどうかはわかりませんけれど、みんなそれぞれの役割をしっかりと果たし結果、それらの積み重ねで素晴らしい果実が出来上がったのだと思います。バックステージ・ストーリーは好きでないので憶測ですけれど、昔に比べ舞台の運びなど、システマティックで機能的で効率的になっていて、コントロールタワーがそれなりにできあがりつつあるのかな、とも思えました。オペラの内容は別にしても運営、現場でのリーダシップ、このようなことはひとつの流れが確立してきているのではと。
ただこの総合芸術は、手順書なんか作ってもそんなにうまくいくものではなく、やっぱり現場での経験の量と質、これが勝負であることは言を俟たない。飯守はその点、みんなの精神的な支えでもあったような気がします。


暗い中、幕のタイミングを実測してみました。第1幕に関してはこの日が一番長かったですね。もとが長いから長くなるのは相応ではないかという話もありますが、それは伸び縮みを考慮した物言いではないので一理でしかない。
舞台に集中しているとよくわかりませんけど、アゴーギクが結構出てきていて、それが、物語の展開と滑らかに一致してきているのはやっぱり4日目だからです。これ、たとえばレヴァインが4日間別のオペラA,B,C,Dを振った場合、4日目のDオペラもA,B,Cのなんというか経験的蓄積物を効果的に発揮できるんですね。それぞれ別のオペラなのに。
音楽と演出の展開の一致が滑らかに出せるんですよ。説明しにくいですが、それが経験なんですね。
この4日目に初めてそのようなことを遠い昔の記憶の中なら思い出すことが出来ました。
.
この日はあまり考えず身を任せる感じで、それになぜかセンター右左誰もおらず、連れと二人で一ライン占領。わけあるようですけどよくわからないので、ここでは触れずティトゥレルの棺桶に入れておきます。
かなりリラックスして楽しめました。内容については前三日で書いてますし、特に書くことはありません。


今回4日間集中して観たのですが、個人的にこのような追っかけスタイルをたまにとります。極端だったのが、
2002年にバレンボイムとベルリン国立歌劇場が約一ケ月日本に居座り、日本史上初のリング・サイクル3回転(笑)というのを敢行しましたが、あれ全部観ました。4×3=12ですね。
オーケストラの公演も二つあり(ブラレク、第九)、それも全部追っかけましたので、財布が重力あるなしにかかわらず、吹く前に飛んでいきましたけど。体にも良くはない。
バレンボイムはあるテーマの公演を集中的にする、聴く方もその癖がついてしまってます。彼の演奏はずっと昔から聴いてますが、バイロイトや他オペラハウスでの鉄火場修羅場を潜り抜けてきた人間にとって、例えば、シカゴ時代のブルックナーの8番なんて、余興です。聴きに行ってホテルまで追っかけ、サインもらいましたけど。

あと、どちらかというと音楽の形式なんかがあったほうが追い易くて好き(楽)、だけどオペラに一度はまっちまうと、こうなる。
イタオペ、ドイオペ、ロシオペ、みんな好きです。
ロシオペのオールジャパニーズキャストというのは観たことがありませんけど、そのうち観てみたいですね。ボリス、ホヴァンシチーナ、オネーギン。
おわり


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1384- パルジファル三日目 二期会、飯守泰次郎、読響、クラウス・グート・プロダクション2012.9.16

2012-09-16 20:33:54 | コンサート・オペラ

初日の公演の感想はここ
二日目の公演の感想はここ


2012年9月16日(日)2:00-7:15pm
東京文化会館

クラウス・グート プロダクション

ワーグナー パルジファル

ティトゥレル 小田川 哲也
アムフォルタス  黒田 博
クリングゾル 泉 良平
グルネマンツ 小鉄 和広
クンドリー 橋爪 ゆか
パルジファル  福井 敬
以上in order of appearance

2人の聖杯守護の騎士 (略)
4人の小姓 (略)
6人の花の乙女たち(略)

二期会合唱団
飯守泰次郎 指揮 読売日本交響楽団


実測値
第1幕:1時間50分
第2幕:1時間13分
第3幕:1時間21分

初日と同じキャスト。やっている方にとっては、感覚的には二回目というよりもけいこも含めて、+1回目という感じではないのかなと思う。演技・歌ともにこなれてきてぎこちなさが消え、次の動きのことを考える余裕があり、聴衆としても内面の本質に、より集中できるようになった。つまり演出が濃くないと最後まで持続して観れなくなってしまった自分。それがここ20年の自分の内面。
ワーグナーが後世、濃い演出の時代が来ると思っていたかどうか知る由もありませんけど、それはあっても不思議はないなあと。
その濃淡の話しとは別なところで、よみかえ、趣向凝らし、顛末が変わってしまうような解釈、小道具の多様性と可能性、可能性の広がりと言えば聞こえがいいが、作曲者ご本人はあまり考えていなかったこともたくさん出てきているのではないかと思う。プロダクションにはプロダクションなりの歴史があるので不勉強なままで書いてはいけないと思うのだが、演出の強調というのは、自分史的には、字幕が付き始めた頃とだいたい重なる。字幕といっても初期の頃は、正面舞台に向かって真上に横についていた。前10列目ぐらいまでは、口をパカッとあけて見上げる感じ。そのあと現在のように両側に、これは日本語は縦書きなので、本当に素晴らしい字幕文化だと思います。
字幕があると無いではオペラへの距離がだいぶ異なる。字幕があれば極端な話、あらかじめ勉強不要。映画と同じように観れますからね。この圧倒的な便利さ。観る方はこれで、予習行為から解放されました。
演じている方は特に変わるところはないかもしれませんが、演出に関しては、内容理解済みを前提に物事を進められるようになったので、自由度とか可能性が一気に広がったと思います。字幕が先か演出が先かなんて言う話ではありませんけどね。
あと、崩壊前、東ドイツの公演出し物を観る機会がありましたが、演劇性の強い演出にびっくりしたのをおぼえています。クプファーなどにつながっていく歴史だったのかなとあらためて感じます。当時、演出の時代が既に動いていたんですね。
内容の変化はあれ、演劇性の強い演出は流行しまくっているわけです。これ、もう、すたることは無いと思いますね。音だけだと間が持たない時代になっちまってますしね。
そのうち、演奏はオケがするから聴衆はスマホでゲームをせよ、なんていうオペラが出てくるかもしれませんね。

それでこの日、三日目の公演の話しなんですが、
第1幕の治療ベッドでのアムフォルタスの血抜き、かなりなまぐさい演出で思わず押し黙って見入ってしまいます。
ここでの音楽はプレリュードが回帰するところです。インストゥルメントに合唱が加わり、なまぐささと神聖さが同時進行する、絶妙なリアリティ。
プレリュードが回帰というのは変ですね、この場面での鳴りを前奏曲の冒頭の響きとした、というところでしょうか。
音楽的演出的な閃きがうまく合体し見事だと思いました。ここ以降の厳かな推移が大変に素晴らしい。やっぱり無知だったと終わるところまでの持っていき方が最高の緊張感で表現されていると思いました。
飯守の指揮はこれまた三日目、流れよりも音のふくらみを重視したもので、それは棒を見ていてもよくわかる。せかす流れはなく、流れはもとにある、あとは音に膨らみをつけ濃淡アンサンブルする、微妙なニュアンスがちりばめられており、演出の妙とあいまって一瞬の光の透過を長く見ているような錯覚に陥ったシーンでした。

初日のところでも書きましたが、パルジファルの声は二日目と千秋楽の方が好みです。初日とこの三日目では、パルジファルとアムフォルタスの声質が多少似通ってしまうところがあり、明確な声での区別も欲しいところです。

第2幕では、オーケストラの荒々しさはいまだありません、きれいすぎるのですが、多少なりともウェット、ドライの振幅は広がってきたように思いました。一部疲れが出ているのか緊張感がほぐれたのか、怪しい部分もありましたけれど概ねよかったと思います。
それに、槍止まりの演技もなかなかきまってきて、空中静止しなくてもそれなりに見事ではありました。ハープのグリサンドにうまく合わせて動いていましたね。

第3幕は音楽がもっと止まってほしい気がします。音楽に動きがありすぎると感じました。答えに向かって進むのでそのようななりゆきでいいわけですけれど、漂う音楽を、ノー・アゴーギクでやられたらたまらんかったでしょうね。音楽の底力みたいなものをもっと感じることができたかもしれません。クナは静止する閃きだったのかも。
あと、この幕では前奏曲が始まって少し進んでからティンパニの二つの音を聴くことが出来ます。ここの響き、聖金曜日を導入する5連発ティンパニがすぐにイメージされますね。ティンパニの響きは本当に効果的。演出の妙以上ではないでしょうか。
音楽も演出も先にどんどん進んでいくもの、何度もみききすると演出は陳腐化し、音楽は溌剌となる。これはこちらの感性ですけどね。演出はそこに留まるべきものなのかもしれません。
おわり


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1383- パルジファル二日目、二期会、飯守泰次郎 読売日響、クラウス・グート・プロダクション2012.9.15

2012-09-15 20:45:39 | コンサート・オペラ

パルジファル初日の感想はここ


2012年9月15日(土)2:00-7:15pm
東京文化会館
クラウス・グート プロダクション

ワーグナー パルジファル

ティトゥレル 大塚 博章
アムフォルタス 大沼 徹
クリングゾル 友清 崇
グルネマンツ 山下 浩司
クンドリ 田崎 尚美
パルジファル 片寄 純也
以上in order of appearance

2人の聖杯守護の騎士 (略)
4人の小姓 (略)
6人の花の乙女たち(略)

二期会合唱団
飯守泰次郎 指揮 読売日本交響楽団


実測値
第1幕:1時間50分
第2幕:1時間12分
第3幕:1時間18分

自分の好みで言うと、声に関してはタイトルロールとクンドリはこちらの二日目のキャストの方が好み。特にパルジファルに関しては、自分の持っているイメージにより近い。艶のあるテノールでヘルデンのイメージ。クンドリはもっと冷徹になればさらに良いと感ずる。
この二日目、これらのキャストに加え、合唱ソリストたちの水準も高く、底上げをはかればはかるほどさらに全部上に押し上げられそうな可能性を感じました。
パルジファルの楽曲はとにかくシンコペーションの山だと思うのですが、男声合唱の角が甘くなるのが少し気になりました。シンコペがドロンとしてしまっていて、オーケストラほどの音楽の律動が感じられない。リズムを体で感じながらの歌であれば、より鋭角的でリズミックな表現ができていたと思います。


第3幕の前奏曲で大きくクリングゾルの動機が副主題的に出てくるのには驚きました。今までこのような聴き方をしたことがありません。隠れていたのかな。強調がすごいと思いました。思えばこの主題は第1幕から第3幕までかなりたくさん出てきますね。クリングゾルご本人は「通常」第2幕だけの番ですから、ワーグナーの執拗さに驚きます。物語の原因を作っている魔術師ですから当然といえるかもしれませんが。
演出に関してはこのクリングゾルの力点が大きく、物語全体を予め俯瞰できていないと、理解できないというか、伏線が長すぎて緊張の糸が切れてしまう危うさがある。
第1幕前奏曲中にクリングゾルがあらわれるが声はないし、この幕ではもうでない。
第3幕では、最終局面の回り舞台で、舞台1階、ティトゥレルが亡くなったと思われるベッドにさわり親ティトゥレルの死を悲しむシーンが少しだけあり、その斜め上2階ではアムフォルタスが苦しんでいる。クリングゾルを最後のシーンでアムフォルタスと並ばせるにはあまりに唐突で、ここのクリングゾルの動機のところで予め一度出しておくのは長丁場であるため、効果的ではある。が、クリングゾルが出てこない部分の伏線がそれでも、時間経過的にあまりに長すぎて、最後に長椅子に座るクリングゾルに近づくアムフォルタスの演出は作為にすぎると言われてもおかしくない。そもそもわかりづらい。5時間の緊張を強いるのがワーグナーのオペラなのだ、と言うことですね。
初日の公演ではこの兄弟、なんだか仲良くひそひそ話風に終わったのですが、2日目ではそんなこともなく、申し訳なさそうなクリングゾルに近づいたアムフォルタスがその肩に手をやり和解とする、そう見えました。マイナーチェンジなのか、この日は初日とキャストが異なりますのでそのせいなのかどうかわかりません。マイナーチェンジはどんなオペラでもそこかしこありますので。


ひねり演出はまだありました。クンドリが旅行バックのようなものをぶら下げて、兵隊の隊長のようになってしまったパルジファルを見上げて、オサラバ、してしまう。同じ幕で、自髪でパルジファルの足を拭いて、水儀式まで行ってもらった彼女は、それこそ髪の乾く間もなくオサラバしてしまうという構図。救世主ではなくなんだか権力志向の隊長さんになってしまったパルジファルに愛想をつかしたのかな。第3幕は第1次世界大戦が済んでヒットラーの時代に向かう設定ですから、映像あわせ、演出の意思は明確であると思います。演出者の思想吐露なのかどうかはわかりません。おもしろい演出ですが、この段になって、ある地域(戦争行為に関連のあるヨーロッパ、アメリカ、日本)に限定されたストーリー性を感じ、急にせまい展開に感じてしまいました。現実的であると言える。この現実さがワーグナーをコンパクトなものにしているように思えました。聴く方としては、これでかえってリラックスというか、身近な音楽として緊張感が解けていった、これは不思議な話かもしれないが、でも実際そうでした。
ティンパニ5連発に導入される聖金曜日の音楽の鳴りは、この読響、大変に素晴らしくここからの一連の流れは毎日オケピットに入ってほしいぐらいでした。この聖金曜日の音楽が生かされた演出であったとは思えません、残念ながら。


第1幕から読響の響きの美しさは非常に素晴らしいもので、それが最後まで持続したのは称賛の極みです。特に第3幕のお花畑あたりからのウィンドを中心としたサウンドは最良のもの。メロウでさえありました。この響きの中にずっと埋もれていたい、そんな感じですね。第2幕にドロドロ感を求めるのはもはや場違いであり、全ては美しく響く、憎しみ恨みさえ美しさのなかで表現できる、そんなところでしょうか。満足のいく響きでした。
飯守の棒だとみんな演奏しやすいのかしら、音色にウエイトを置き、強弱のバランスのニュアンスを最大限生かした演奏で、指揮しぐさにもそのような意図が結構見てとれました。比較的静かな指揮姿ですから、彼がちょっとコントロールのしぐさをするとオーケストラは敏感に反応する。初日よりも双方、余裕が出てきて表現が深くなりました。時間も長めです。
ということで2日目おわり


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1382- パルジファル初日、二期会、飯守泰次郎 読売日響、クラウス・グート・プロダクション2012.9.13

2012-09-14 02:00:02 | コンサート・オペラ

2012年9月13日(木)5:00-10:15pm
東京文化会館
クラウス・グート プロダクション

ワーグナー パルジファル

ティトゥレル 小田川 哲也
アムフォルタス  黒田 博
クリングゾル 泉 良平
グルネマンツ 小鉄 和広
クンドリー 橋爪 ゆか
パルジファル  福井 敬
以上in order of appearance

2人の聖杯守護の騎士 (略)
4人の小姓 (略)
6人の花の乙女たち(略)

二期会合唱団
飯守泰次郎 指揮 読売日本交響楽団


実測値
第1幕:1時間48分
第2幕:1時間10分
第3幕:1時間16分

オールジャパニーズキャストによる極めてハイ水準なパフォーマンスであったと思います。プロダクションのみドイツ人、クラウス・グート。演出がもし日本人であったならば、第1次世界大戦の時代設定の発想はあったかなかったか微妙なところです。

第1幕、長い前奏曲が終わる5分ぐらい前に舞台が出現、横長テーブルで3人の男が晩餐をしている。
真ん中にティトゥレル。テーブル左にはアムフォルタス、右にクリングゾル。
ティトゥレルが立ち上がりアムフォルタスに近づき、いい子だねと溺愛のパフォーマンス、それを見たクリングゾルはむくれて出ていってしまう。
そして第3幕エンディング少し前に出てくるクリングゾルの動機のところでそのクリングゾルが実際に見え隠れし、舞台転換したラストでは長椅子に座るクリングゾルにわき腹が癒えたアムフォルタスが近づき、二人並んで座り、クリングゾルがひそひそと耳打ちのような仲のいいしぐさでまるで兄弟のようなシーンで終わる。
つまり二人ともティトゥレルの子。ワーグナーのオペラにおける家族レベルのストーリー展開がグートの読みではこうなったのだろう、今回は。

舞台に直接映像が重なる。第3幕での映像が極めて重要な内容を含んでいて、それが一つのアクセントとなりラスト20分に向かうのだが、どうもアクセントにはなるがそれ止まりというか、映像後の展開では時代設定のことは忘れ去られているというか、あまり配慮が感じられない。過剰演出ワーグナー・プロダクションにありがちな策を弄してそれが当節流行りなのだからと。

最後の20分ぐらいでよくわからないことがたくさん出てきました。
一階の合唱を二階で指揮する奇妙な振付。(オケピットの指揮者との位置を考えると理にかなっているともいえる)
回り舞台がわりとめまぐるしく回ります。
第1幕で痙攣していた患者が、独り舞台で痙攣演技。
使わないでただあるだけの傷口治療ベッド。(第1幕では使った)
そもそもアムフォルタスの傷口に槍をあてることは無い。槍を持ったパルジファルがアムフォルタスを抱擁するだけ。
例のクリングゾルの動機で実際にクリングゾルが回り舞台で見え隠れする。
そして最後に、クリングゾルとアムフォルタスのひそひそ話で終わる。そこにパルジファルはいない。
なんだか、2001年宇宙の旅の最後の場面でわけのわからないことがたくさん出てくる。あれを思い出しました。一コマ一コマはあまり動かない場面、それらの回り舞台が連鎖して一つのストーリーを作り上げていく、そんな感じ。
但し、この舞台をしっかり眺めるにはセンター席に座るのが必須かな。
回り舞台は360度を大きく3つのパーツに分けている、さらに1階2階の設定があるので、雰囲気、6つの場面を見れる。それが隣同士、上下同士、連関している。構造物としてのつながりだけでなく、心理的な要素も醸し出している。例えば2階のクリングゾルが床下のクンドリーをコントロールする。
ついでに言うと、第2幕ではブランコ小道具が空中から降りてきたりするが、そのわりにクリングゾルの槍は浮遊停止しないでもったまま。ハープのグリサンドとともに浮いて止まって欲しかった。贅沢な願望かな。

演出者により時代設定が語られている。それによると、
第1幕が1914年つまり第一次世界大戦の勃発年
第2幕は第1次世界大戦後の復興期へ
第3幕ではナチによる権力獲得
舞台上には映像も付き、第1,2幕では歩く両足のみが紗幕や舞台装置そのものに映し出されパルジファルを想起させる。第3幕後半では戦争行為と傷ついた人々が映し出される。第3幕の時代設定と映像のミスマッチがあるような気がしないでもないが、戦争開始からの全体的な流れととらえればいいと思う。

第1幕の前奏曲はパルジファル全曲の長さにふさわしく十分長い。前奏曲終了の5分ぐらい前に前述した舞台が出現。このやりかたはワーグナーだけでなく、イタリアものでもやる。もったいぶったやり方で既に陳腐になりつつあるが、プロダクション自体初めて見るので新鮮味はある。家族レベルの含みであり、その意味では二つ目のストーリーの方が先に出てきてしまっている感がある。
前奏曲が済んで最初の声はグルネマンツである。第1幕で一番重要な声が、いろいろなことの語り部」兼、対話相手となる。
このグルネマンツの一声でこの日の成功は決まったようなものだと思いました。大きな声で前に出る声、なめらかで聴きやすい。グルネマンツという役はもしかすると歌いやすい帯域なのかもしれない。これだけ安心して身を任せられる歌もめったにない。秀逸。
グルネマンツのみならず舞台の2階で歌うケースが多く、聴いている方も席的には2階3階4階あたりのセンターがベストだと思います。

建物は病院であろうか、負傷兵隊がベッドに多数寝ている。痙攣人間は注射を打たれるまで痙攣。
シチェーションとしては、トーキョー・リングを思い出してしまいました。あちらはあちらでリアリスティックな場面が多々ありましたけど、このパルジファルの第1幕も「血」が結構生々しくなまぐさい。
第1幕におけるパルジファルの声は無いようなもので、第2幕でクンドリーに名前を呼ばれて目覚めるまではこんな感じで、透明人間のように儀式を情景のように眺めている。また、儀式だけではなく、ティトゥレルとアムフォルタスの親子会話でも透明人間化している。パルジファルを通してこちらに語りかけてくる構成で、聴衆とパルジファルは双方同じことを理解するという構図。
これだけだとよくわかりませんが、パルジファルの声は個人的には好みではなく、のどが横に開きすぎのように聴こえパルジファルテノールの黒い艶のようなものがあまり感じられない。第2幕のクンドリーとの熱唱でもやっぱり、自分の持っているパルジファルイメージと異なりました。絶賛の嵐の中、不謹慎かもしれませんけど。
第1幕の映像はパルジファルの足、気配を感じさせるには効果的。

第2幕
色仕掛けの幕をはるかに越え、クンドリーの形相はクリングゾルのそれをはるかに越え、目玉が飛び出そうな体当り的演技はもはや演技を越えている。圧倒的な熱演でした。
クリングゾルもパルジファルもいましたけど、束になってもかなわないでしょうね。ど迫力の絶唱でした。
彼女はドラマチックでしたが、しっとりとした情緒性も素晴らしかった。何故か空中からブランコが下りてきて、母憧憬のシーン。歌詞だけみていたい。
しっとりとしたシーンの表現はいいものでした。全幕同じ舞台ですが、ここだけ床に緑の人工芝のようなものを敷き、昔の演出を垣間見た。
最後に槍が止まるぐらいの仕掛けもやろうと思えばできたのではないか。止まらないで本人が止まってしまうので印象としてはあまり動かない演出が冗長されただけでものすごいインパクトというのはない。ハープのグリサンドとともに(同じタイミングで)、なにかもう一工夫欲しかったですね。だって、観てる方もわかっているのでそれなりに期待してるんです。
オーケストラは第1幕は慎重だったと思います。それが良い方向に働いて、集中力が高く、素晴らしいハーモニーとなっておりました。第2幕もその流れ、柔らかく美しい。荒々しさがもう少しあればさらに表現に幅が出たと感じました。

第3幕
思ってもいない日にパルジファルが奪還した槍をもってくる。グルネマンツはなぜか、メモと鉛筆を取り出し、パルジファルの話の内容を書きとるしぐさ。あとでなにかに使うのだろうか。このタイトルロールは、外様の雰囲気モードです。あとで思えばここらあたりからなのかなと思います。ラスト10分でわけのわからないことがいろいろ出てきますけど、クンドリーは合唱のさなか、旅行バックをもって去ってしまう。そして、ラストシーンにパルジファルはおらず、兄弟会話で終わるわけですから。
みんな救済されたけど、元に戻った雰囲気になる。パルジファルがいつか主ではなくなったときに、歴史は繰り返される。そんなあやうさを感じました。
ラストシーンでクリングゾルに近寄るアムフォルタスは通常の大人の歩みで傷は癒えている。でもパルジファルがその槍を彼のわき腹にあてるシーンはありません。軽いハグだけです。象徴的な行為なのだからいいではないかと言われればそれまでですが、そうではないと思います。
時代設定をここで強く感じました。


2002年11月にアルブレヒト&読響はパルジファル公演を行いました。あのときはやたらと速かった。第1幕なんて1時間32分(たしか)ぐらいでしたから。それで、
飯守の棒はスローな感じは無く、棒をみていると呼吸を大事にしている。流れよりも流れへのはいり方への気配りがウエイト高い。第3幕聖金曜日やその後の最高の盛り上がりの部分でもこぶしを振り上げて赤く燃える感じは多少あるものの、彼の観点は別のところにある。入り重視でハーモニーが異様に丁寧で美しく響く。プレイヤーの初日の緊張感も良い方向に作用していたと思います。
フレーズ、メロディーラインの頭のバーが若干長めに感じる。響きを確認しあってから次に進むようなところがある。これは現代の機能的なスタイルとは一線を画す。
とはいえ、コクのある表現は味わい深く、彼の経歴から、バイロイトの空気を持ってきていると感じながら聴いているようなところもなくはない。

拍手は第1幕ザックリバランとしたもので、聖でもなんでもない。日本初演の頃とは隔世の感でしょうね。

第2幕もこれまたザックリバラン。両幕ともカーテンコールはありませんし、さっさと外の空気へといったところ。
思いはそれぞれの楽しみ方で。
おわり


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1381- フランツ・シュミット/歌劇「ノートル・ダム」より、モーツァルト/パリ、ドビュッシー/イマ

2012-09-13 23:58:00 | インポート

2012年9月7日(金)7:15pm
サントリーホール
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フランツ・シュミット 歌劇「ノートル・ダム」Op2より
 第1幕:序奏、間奏曲、謝肉祭の音楽
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モーツァルト 交響曲第31番パリ
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ドビュッシー イマージュ
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クリスティアン・アルミンク 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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アルミンクは今シーズンを限りとするようですけれど、彼の業績はなんと言ってもプログラムの幅を大きく広げたこと。ワンパターンのプログラムが多い東京のなかにあって、たくさんの曲の生音に接する機会を作ってくれたことに感謝しなければいけない。
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この日のプログラムも意欲的。
シュミットのノートル・ダムはもちろん初めて聴く。CDでも聴いたことがない。
弦のピッチが今一つでしたが、豊饒な鳴り具合で音がうねる。オペラの音楽ですからまさに場面をあらわしていて饒舌。初めてかじる音楽はいい。気持ちよく音を浴びました。
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二曲目のパリ、このややメタリックな響きも好きです。生だと聴けそうでなかなか聴けないだけに新鮮。だいたい他の指揮者、ここらあたりやらないんですよね、なぜなんだろう。
ウィンドが美しい、ニュアンスをたくさん作っていて、わざとらしさがなく生き生きしている。これも好演。
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プログラム後半のドビュッシーは、ジーグ、イベリア、春のロンド。イベリアがなかぶくれでこれだけで3部構成。バランスがあまりいいとは言えませんが、全部合わせるとそれなりの規模の曲。
ドビュッシーにはウェットな曲が多いけれど、イマージュはわりとドライな響きが多いと思います。新日フィルのウィンドは奥ゆきがありそれだけで多様なバランスを作ってくれる。このように響きで勝負の曲はオーケストラのもつサウンドに魅力がなければ面白さも半減してしまう。このオーケストラはその点クリアされていて、多様な響きを作ってくれて楽しめます。
哲学とか情念といった言葉のあやは横に置いて、純粋に多彩なプログラムを楽しめました。
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個人的に、この日が2012~2013シーズン初日でした。
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1380- 松平頼暁/コンフィギュレーションⅠ、Ⅱ、螺旋、ベリオ/エコーイング・カーヴ、高関健/都響

2012-09-13 23:50:00 | インポート

2012年9月3日(月)7:00pm
東京文化会館
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松平頼暁 コンフィギュレーションⅠ
松平頼暁 コンフィギュレーションⅡ
松平頼暁 螺旋
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ベリオ 協奏曲第2番エコーイング・カーヴ
  ピアノ、岡田博美
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高関健 指揮 東京都交響楽団
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コンフィギュレーションは室内オーケストラの為の作品。Ⅱは本人が忘れていたというものを後に発見ということらしい。
松平の曲はシステマティックで機械的、数学的。良く止まる。
パーカッションの鳴りは日本的。
Ⅰはクラスター音楽。
螺旋は説明を読む限り、もろに数学的なもの。緻密なはずなのに、数式で作ってみたら、結果、こうゆうふうになった、ということであれば、聴く方としてはその時はなるほどとは思うが、末永く心にとめるものでもないと思う。
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ベリオの曲が充実している。一段レベルが違うような気がする。音楽がある。
自分が持っているベリオ・サウンドより艶々している感じ。
ピアノは最初慎重だったがだんだんと火がついてきて音楽の心が現れてきた。
音をこれだけ解体して分解して再創造させて、いろんなことを駆使しているのに、結局作曲家は形式の呪縛から逃れられない。タイトルを見ればそれは明らかだ。
おわり


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1379- ジョン・ケージ/エトセトラ2、一柳とし/ピアノ協奏曲第5番フィンランド/交響曲第8番Re

2012-09-13 22:22:00 | インポート

2012年8月28日(火)7:00pm
サントリーホール
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ケージ エトセトラ2
    (4群のオーケストラとテープのための)約30分
指揮:
下野竜也
大河内雅彦
松村秀明
沖澤のどか
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一柳とし
ピアノ協奏曲第5番「フィンランディア」-左手のための(世界初演)
約18分
  ピアノ、舘野泉
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一柳とし
交響曲第8番「リヴェレーション2011」(管弦楽版初演)
約33分
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下野竜也 指揮 東京都交響楽団
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最後の「リヴェレーション2011」はプログラムには23分と書いてあったが実際は33分。
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それで、一曲目のケージ。
143発のトゥッティ、これはこれでわかりやすい。
4つのオーケストラとはいいながら、そのオケからなにやらプレイヤーが前の方に歩んできてそこで演奏してまた元の席に戻っていく。これの繰り返し。4群+アンサンブル群という状況になる。
全体は音楽というよりも律動に近い。テープは隙間つなぎ。
何故音楽から音楽が離れていくのか、30分の緊張感を続けるのはすごいと思うけれど、音楽とはなんなのか、これでは意味が解らない。
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フィンランディアはオケ伴が乾いたサウンド。ピアノもそれなりに駆使してますが、全体的にあまりに作為的で、ひらめきのようなものは皆無。
最後の交響曲、これもヒット作にはならないだろう。一部面白いところもありますが、時代との一体感も、問題提起もない。何に根差した音楽なのか、副題がかろうじて3.11を想起させるが、曲とどう結びついているのかわかりませんでした。
おわり


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1378- クセナキス/ホロス、シャリーノ/シャドウ・オブ・サウンド、ラッヘンマン/書 秋山和慶/東

2012-09-13 15:01:03 | インポート

2012年8月27日(月)7:00pm
サントリーホール
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サントリー芸術財団サマーフェスティバル2012<MUSIC TODAY21>
「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」
再演特集<細川俊夫セレクション>
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ヤニス・クセナキス:ホロス(1986) 約11分
サルヴァトーレ・シャリーノ:
シャドウ・オブ・サウンド~オーケストラのための(2005)

約17分
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ラッヘンマンと細川俊夫のトーク 約20分
ヘルムート・ラッヘンマン:書(2003) 約24分
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指揮 秋山和慶
演奏 東京交響楽団

後半あたまのトークがなければ非常に短いコンサート。長身のラッヘンマンが登場して場はもったが、このような演奏会ピースの限界が見え隠れするものではある。
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クセナキスのホロスは音の密度が高く聴きごたえがある。メシアンからスコアのバーを取り払ったような動きのうねりがあり興味深い音楽。
シャリーノのピースは、これは音楽の流れではなく響きの羅列とそのつながり、音楽とは呼べない代物だと思う。タイトル通り。
ラッヘンマンの曲についてはその前のトークで説明されているので、その分だけわかりやすさはある。なるほどそうか、と思って聴けばそれなりにうなずくところもあります。
おわり

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1377- ツイン・スカイスクレイパー  (改・再)

2012-09-11 19:46:25 | マンハッタン

この日は、静かな悪友S君と渋谷道玄坂、中腹右まがる百軒店の奥の今は駐車場になっている郷土料理磐梯山のカウンターでいつものとおりお酒を飲みながらクラシック音楽界の今後について談義をしていた。
まだ週初であるしここであまり盛り上がってしまうと週末に向けて調子を落としてしまうし、なにしろ仕事がはかどらなくなる。それに9月といえば、そろそろ芸術の秋、例年通り9月後半から海外演奏団体の来日ラッシュとなるわけだし体力温存ということでいつになく早めの21時頃切り上げた。
帰宅しテレビのスイッチをいれたらテレ朝のニュースステーションにかぶるようなかたちで速報の衝撃的な映像が映っていた。最初はなんのことかわからず、ワートレということは姿かたちでわかったのだが、CGのはめ込みフィクション番組でもやっているのだろうと感じた。しかしだんだん事態が飲み込めてくると今晩のお酒は冷めてきて目も醒めてきた。
そして呆然として放心しているさなかもう一つもやられた。唖然呆然から少し落ち着いてきて、あの高い階の壁に出来た飛行機の穴をどうやって修復工事するのか見ものだ。と変に冷静にクールになってきた。
しかし、その考えは打ち消された。ワートレは幾何学的に垂直に、あまりにも見事というほか言いようがないような瓦解が始まったのだ。まるで瓦解の形まで計算しつくしたような設計、鳥かご設計があだとなり完膚なきまで6000度のプレスが全てをブラックホール的圧力の中に押し込めた。
ジップコード10048のワンワールドが先にやられ、ツーにもすぐに突っ込まれた。先に突っ込まれたワンワールドのほうが衝突階が90階よりも上のほうであり、ツーの80階前後よりも高かった為か、あとで崩壊した。ファーストイン・ラストクラッシュ。
このあとのことは、マンハッタンは心象的にも夕暮感、ひなびた感が力なく漂うような気が今でもする。

静かな悪友S
「あのお酒のあと大変なことになってたなぁ。」
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河童
「そうだね。いくら他国のこととはいえ、象徴的なものを失うというのは相手の意思があまりにも明確に感じられるし。それに崩壊の仕方が幾何学的すぎで作為的でさえある。」
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「お河童さんの事務所もあすこらあたりにあったのではないのかね。」
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河童
「そうだ。先に突っ込まれあとで崩壊した方の79階あたりだ。でも今は必衰のことわりどおり撤退していたから問題ない。というよりもそれ以前にカンパニー自体が盛者に食われ崩壊していたのだよ。時の流れ方が運命を変えたのかもしれない。」
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「そういうことか。でもそれなりの思い入れはあったわけだし、ショックではあっただろうね。」
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河童
「そうだね。ある部分、過去が消え去ったような感じかもしれない。マンハッタンのスカイラインはワートレが出来るときその景観に問題を呈した人もいたが、こうやって典型的なスカイスクレイパーがなくなってしまうと元に戻ったというよりも、落ち着きのないアンバランス感を感じる。最近はポスト・モダンの建築物に興味を抱くようになってしまった。みんなそれなりに心の平衡感覚をとりもどそうとしているのかもしれない。」
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「消し去れるもの、そうではないもの、いろいろとあるわけだね。」
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河童
「この写真は、その事務所から撮ったものらしい。ブルックリンブリッジもヘリにでも乗らない限りこの角度からは見れなくなってしまったわけだ。」

イーストリバーを泳ぐ河童がブルックリンブリッジにたどり着いたところ。

1


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北方向を望む。左がハドソンリバー。雲のじゅうたんに乗る河童。

2


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おまけ。河童ハウスの47階から南方向の蒸し蒸し感。

3


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