河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

666-ブルックナー交響曲第9番 キャラガン版 世界初演1984.1.8当日

2008-09-03 00:10:00 | コンサート・オペラ





1983-1984シーズン聴いたコンサートから書いてます。



ブルックナーの交響曲第9番、キャラガン版第4楽章付全曲の世界初演は、1984年1月8日にカーネギーホールで行われました。

Sun, Jan 8, 1984 at 3:00p.m.
Carnegie Hall
Mozart Violin Concerto No.5
Bruckner Symphony No.9
(completed finale by William Carragan)
Violin,Ida Levin
Moshe Atzmon,conductor
American Symphony Orchestra

1984年1月8日(日)3:00pm
カーネギー・ホール

モーツアルト/ヴァイオリン協奏曲第5番
ブルックナー/交響曲第9番
(ウィリアム・キャラガンによる第4楽章付全曲)
.
ヴァイオリン、イダ・レヴィン
モーシェ・アッツモン指揮
アメリカ交響楽団

前半のモーツアルトは当初のヴァイオリン協奏曲第3番から変更になっている。
ソリストがCharles Tregerから変更になったためと思われる。
世界初演ではあったが、河童のレビューはいつになく、かなりきつめの評となっている。

このマンハッタンにおいては、いつどこで何がおこるかわからない。演奏会もまた然り。
マーラーの第10シンフォニー全曲を聴いた次の日にはこうしてブルックナーの第9番の全曲版を聴こうとは!それも世界初演らしい。
実はカーネギーホールでこの曲を今日やるということは全く知らなかったのだが、偶然とはよく出来ているもので、前の日にたまたま隣に座ったおじいさんがわざわざカリフォルニアから出てきた西部地区のアメリカ・ブルックナー協会の会長で、明日これこれでブルックナーの第9番の第4楽章つき世界初演をやるので、おたくもブルックナーが好きなら是非来てくれということでいったのです。
そして初演の前に彼がブルックナーについての講演をするからついでにそれも時間があったら聞いてくれといわれたが、これは1:00p.m.からで、前日遊び疲れており(演奏が終わったあと)、さすがに起きることが出来ず行けなかった。

さていよいよブルックナーの第9番です。
当然、第1楽章から始まるわけですが、まあ、なんとオーケストラのよく見える席であり、素晴らしい眺めではあった。
ホルンが9人(うちワグナーチューバ持ち替え4人)。左から右へずうっとならび、その見た目の派手さ。因みにこのホルン9人というのは、コントラバスの人数と同じ。
オーケストラはうまくなく、ニューヨーク・フィルなどと比べたら明らかにおちる。
興ざめするほどではないのだが、たまに音楽が隙間だらけになり穴だらけになるときがある。
これは指揮者についても言えていて、彼はこの曲をこなしていない。というかこなれていない。
普通には振れるのだが、その筋の専門家のような安定感を得ることが出来ない。
ブルックナーなどの場合、オーケストラ自身を安心させるような包容力がなければならないのだが、彼は振るのが精一杯のように見受けられる。
逆に言うと今まで聴いたことのない第4楽章が一番安心して聴いていられた。

あの寂しさが漂う第3楽章のあと、第4楽章が出てくるというのはなんとなく変な感じであるが、ブルックナー自身は基本的に第4楽章が完成して、ひとつのシンフォニーの世界と考えていたわけであるから、本当は第3楽章が終わって寂しげに拍手をしてはいけないのである。
途中で終わってしまうこと自体が何か感傷的なものにつながっていたわけだ。そのような意味においては、この版を完成させたキャラガンという人はブルックナーの意志をついでくれたといえるのかもしれない。

さてその第4楽章なのであるが、まず、最初に感じたことは、メロディーが無さ過ぎるということです。前の1~3楽章の豊かさに比べて、あまりにもメロディーが無さ過ぎる。まるで伴奏部分を聴いているようだ。素材に発展性がなくあまり美しくない。
従って、自然に次に感じることは、3つの主題が全く明確性を欠き、構成がよくわからない。どこから展開部になるのかわからず、また、どこにあったものがここに現れるのかよくわからないのです。再現部はさすがに第1楽章の主題らしきものが現れたりして、なんとなくクライマックスをむかえているようだというのはわかるのだが、これではあまりにもありきたりのような気がする。

一度聴いただけではわからない面もたくさんあると思うが、この版は成功とは言えないと思う。
世界で初めて、ということに意義を見出すべきなのかもしれない。それにブルックナーの意志を継いだということは大切なことです。

レヴィンの弾いたモーツアルトは代役のせいもあるかもしれないが、このごろの若い人には珍しく技術的にだめで、聴いていられなかった。
おしまい

こんな感じで、かなりボロクソに書いてしまっているが、実際のところこうだったのだ。
指揮とオケの出来が悪く、曲も足を引っ張られたというところか。
やはり、何事も最初が肝心で、白熱の演奏を繰り広げていれば、このあとの演奏史にも別の光があたっていたかもしれない。
それと、当時と違って今は、このような編曲版に対しても聴く方の間口が広がってきている。
宙に浮いたような独特の二短調が、最後に解決する音響を聴きたいものだ。

おわり