河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

821- 昔のモーストリー・モーツァルト 1984.7.9-1984.8.25

2009-04-29 22:39:41 | 音楽

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昔の聴いたコンサート、観たオペラをしばらく書いてませんでしたが、ちょっと落ち着きそうですのでまた再開です。

この前まで、1983-1984シーズンの聴いたコンサート観たオペラのことを書いていたのですが、ニューヨーク・フィルハーモニックの同シーズンの終了、そしてそのあとのホライゾンの企画ものあたりまで書きました。だいたいこのへんで音楽シーズン終了なのですが、あと一つ夏のイベントが残ってました。

次回から、その夏イベント、

モーストリー・モーツァルト1984

のことを書いていきます。

アメリカのいわゆるビックファイブのオーケストラはニューヨーク・フィルハーモニックを除いて夏はフェスティバルがあります。

ニューヨーク・フィルハーモニックは夏イベントはありませんが、モーストリー・モーツァルトのフェスティバルでも軽くかいつまんでみることにしましょう。

1984年の同フェスティバルは

1984.7.91984.8.25

という約一ヶ月半の長丁場となっております。

何回か聴きましたので次回から書きます。

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聴いたコンサート観たオペラの全体像はこのブログの左サイドにある各年別、もしくはシーズン別のリンク先が一覧になってます。その一覧から本文を参照できます。

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820- 札響を聴きに北海道へ行こう

2009-04-27 00:30:00 | アート・文化

2009426日の日経新聞日曜版のアート探究欄にエリシュカ指揮の札響のことがデカデカと半面使い掲載されている。共感の美文だ。

個人的には札響を生で聴いたことがない。ずーと昔、音楽雑誌で付録にEPがついている月刊誌みたいなもの(たしか学校経由で買った?)に札響の演奏もあったような記憶がかすかにある。

指揮者のエリシュカは名前を最近聴いたような気がするだけで、その前は全く知らなかった。

今日のこの掲載記事を読む限りにおいては、飛んで札幌まで行く必要があるようだ。幸い今回の演奏はライブCDが出るようなので、出来上がったらまず買って聴いてみよう。

月に2度の定期というから5月か6月には日が合えば行って聴いてみたい。

日経の文を書いている編集委員ですが、いつもは短い中にそつなく手際よくまとめている。今日の記事は長い。問題もある。ゲネプロを聴いて、本番を聴いた後で書いた文章なのだ。いくらでも美文に出来る。予定調和ではなく結果調和で書ける。

ゲネプロを聴いて本番前に新聞で紹介するとかならまだわかるが、あまり言ってもしょうがない、仕事だと思うのでそれはそれで良しとしよう。でも、この新聞記事を見てからでは聴きにいけない。

ゲネプロではチェコのローカル色を前面に押し出した練習のように見受けられるが、本当にそうだったのだろうか。そうだったのだろう。そこにいた人が一番よくわかる。

言葉を換えてこう言ってもいいのではないか。チェコの曲の解釈を移植しに日本まで来た。のだと。

その昔、ギュンター・ヴァントは一人で何回もNHKso.を振りにきた。彼がブルックナーを振るたびに思ったこと、それは、真っ白なオーケストラにブルックナーというものの在りかを教えてくれた。その一言に尽きる。すさまじい安定感があった。そしてヴァントの素晴らしいところは、そのブルックナーがローカルなものではなく、普遍性をもった曲として聴かせてくれたこと。これからブルックナーの世界が日本にもやってくるのだと示してくれた。そしてその通りになった。同じくNHKso.を振っていたミヒャエル・ギーレンのマーラー。あれも同じようなものだったように思う。

この記事で得たものは結果であり情報としてはとくに何もない。

それと、Vのサウンドの表記までは言わないが、コシュレルはコシュラーの読みでいいと思う。

おわり

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819- バルシャイ ショスタコーヴィッチ

2009-04-26 13:33:29 | 音源

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バルシャイの棒によるショスタコ全集をようやく聴き終えた。

収録時間の長短はあるものの1番から順番に収められていて、何を聴いていいかわからないときこれを順番にとりあえず手にとると言った感じで聴き進められる。

と思っていたのだが、そんな生半可な姿勢で聴いてはいけないと有無を言わせない反省を促された内容でした。

そもそも何でこれを買ったかというと11枚組で価格破壊的に安かったからだと思う。Brilliantレーベルというのは、ちょっとあやしいと以前は思っていたし、バルシャイという棒振り自体ぱっとしないというか、日本人にはあまり受けないというか、昔ならたしかショスタコの交響曲ではない部分でLPがあったような気がするが、小曲を小者が振っていると言った勝手な印象しか残っていなかった。

Brilliantレーベルは何点か持っているが、今回のような束ものが多く、その束の作りが粗末でライナーノーツなども少しあやしかったりする。Scribendumと似てるなぁ。

まぁ、それでも全曲だし、みたいな。

11枚組で外箱付き、邪魔なのでプラケースは全部捨て、外箱は小物入れにしておいた。

そんな感じで聴きはじめたが、第2番第3番で打ちのめされた。

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ショスタコーヴィッチ 作曲 交響曲

1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15

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ルドルフ・バルシャイ 指揮

ケルン放送交響楽団、同合唱団

2番のサイレンは人によりでかかったり小さかったりだが、昔ロジェストヴェンスキー指揮ウィーン交響楽団によるサイレンはやたらとでかかったような気がする。

バルシャイは普通の棒なのだが、サイレンの後歌われる合唱の響きが素晴らしい。レーニン共感というよりも音楽への共感なんだろうと思う。そもそもこの曲自体、かなりあやしい響きの曲で、分解的に聴かせてくれるケルン放送交響楽団のデッドで埃っぽい音色も方向感としては悪くないし、同合唱団の響きもドライではあるが曲の本質をとらえた見事な響きと感ずる。この2番にいたってバルシャイのショスタコにぐっと引き寄せられた。前半のウルトラ・ポリフォニー27声部は自耳で聴くしかないけれど。。

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3番も曲としては同じ方針。これも最後の合唱の慟哭がいい。第2番第3番は生では演奏される機会がほぼないが、森の歌とかいろいろと組み合わせれば一夜の合唱団を有効活用できると思うのだが。

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それで飛びますが、第12番ですが、これは4番などよりもずっと爆な曲なわけですが、ここらへん4712番などになると結局生で聴かなければ本質がわからないような鳴りの曲なわけで、そんなこと言ったらショスタコは全部生で聴かないとわけがわからないというか、生で聴くとその、わけのわからなさ度、が増すだけなのだがそれでもいい。

バルシャイは穏やかではないけれど踏み外しはしない。曲自体録音の限界を試しているような曲ばかりなのでそのからみでいうと判断は難しいが、少なくともがなりたてるだけの棒では決してない。いい演奏だと思う。個人的にはこの3曲のうち一つ選べと言われたら、シュワちゃんのチチンプイプイの7番レニングラードか。

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15番ですが、河童蔵の24種類の15番とつい比べてしまいますが、バルシャイの方向は一言で言うと、1915番という流れであり、1番と9番で少しおどけた曲想がそのまま第15番での方針となっている。そういう意味では後ろ向きというか、少なくとも前を向いている解釈とはなかなか思えない。ムラヴィンスキーなども同じだと思う。

ここは、やっぱり、ザンデルリンクさんに出てもらうしかないでしょう。執拗なまでに演奏会で繰り返したタコ15、そして、マーラー10番全曲。あの熱意は異常としても、15番の先の音楽の広々とした視野を感じさせてくれるのはザンデルリンクの解釈であり、バルシャイではない。ウィリアム・テルから指環の動機まで、そして自作を内在させた、早い話、引用だらけの曲なのだが、なんだか、また新しいことが始まるんだよ、といったピアニッシモによる壮大なパーカッション音響が、この先の音楽歴史の空洞を示してくれているようでもあり、先の人たちはその空洞に響きを満たしていく義務があると感じる。

バルシャイの限界というか、方向性の違いというか、それに替わる魅力があるのか、いろいろとあるのだろうけれど、それはいったん横に置いてもこのBrilliant盤、非常に良いセットでした。

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818- 突然ですが、

2009-04-23 00:11:09 | ニュース

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すみません。突然ですが、二日続けて寝違えてしまいました。
首が上下左右動きません。
かろうじて真下方向に少し動くようですが、ブログどころではありあません。
仕事のほうは首より上は使わない性質のものなので、してますが。。
とにかく、体全体にひねりを入れると右左を見ることは出来ますが、上は無理です。
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寝違えるのは英語でスティッフ・ネックだとばかり思っていたのですが、スティッフ・ネックというのは肩こりのようですね。
ちょっと現場で間違った英語覚えちゃいました。昔は辞書を引きませんでしたからね。
でも、この昔、デートのキャンセルのいいわけが、
「朝起きたらスティッフ・ネックで身動きができず、ヘリコプターでカイロプラクティックに行っていた。」
というものだったので、これってやっぱり肩こりではなく寝違えだと思うんですけどね。
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まぁ、どっちにしろ作り笑いもできないほどで、くしゃみなんかしたら脳震盪おこして皿が割れてしまいそうです。
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今日寝違えたら三日連続というこになるのかしら。
もとにもどるといいけど。。

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817- 浄められた夜 エッティンガー 東フィル2009.4.17

2009-04-20 23:15:36 | 音楽

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2009417()7:00pm

サントリー・ホール

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シェーンベルク/浄められた夜

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シュトラウス/祝典前奏曲

シュトラウス/ツァラトゥストラはかく語りき

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ダン・エッティンガー指揮

東京フィルハーモニー交響楽団

この前まで初台の新国立劇場で、ラインゴールド、ワルキューレを振りまくっていたエッティンガーだが、4/15のワルキューレ千秋楽を終え、同じ東京フィルとの3回公演を開始。本人にとっては整理体操みたいなもんだろうが、それでも聴く価値はあり。

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前半のシェーンベルクは、リングサイクル前半2演目の興奮をそのまま持ってきたような感じで、全く素晴らしいの一語に尽きる。

敷き詰められた弦、この鳴りに隙間はない。どす黒い重油のように重く流れる充実の響き。

今日の演奏は33分かかったが、そもそも30分もかかるこの曲ではあるのだが、それでなくても睡魔を排除できない演奏が多い中、弦楽器そのものの響きの美しさと鳴りきる弦の充実度、そして合奏という行為、それを感じた一夜であった。

弦楽7部のこの編成に響きの多様性をあまり求めてはいけない。それよりもむしろ細やかなニュアンスや音楽の情緒性がどのように醸し出されてくるのかを感じた方がいい。

シェーンベルクのインスピレーションはデーメルあってのものかもしれないが、それは音楽を書きたくしょうがなかった時に、それがそこにあったのだろう。一筆書きのような曲なのだ。天才の光りがある。重く暗く始まる曲ではあるが、それは月夜。そしてはらんだ子供はあなたの子ではない。テキストを読み進めながら聴くと格別なものがある。字幕的説明付きでの進行もありだったかもしれない。

東フィルの奏者の充実度は明白。この若い棒振りの棒を渾身の力で表現。まったく共感以外の何ものでもない。信頼度の強さから音楽の共感へ。こうなったら鬼に金棒。棒と音が一体化している。

バレンボイムとの相似性はもうあまり言わないことにする。自分探しの旅であり、それはそんなに先にならず見つかるであろう。

ひとつ、音楽の間について言うと、振り方はやっぱりバレンボイムと瓜二つ以上(いまのとこ)だが、オペラのピットだとわからないことがオンステージだとよく観える。両肘を直角に折り曲げて、一度、拍を作り次のフレーズにはいる。劇的な箇所でよく見せるしぐさだが、本来、その拍はスコア上にはないものだ。この間の作り方が劇的な表現をさらに強めている。演奏者の精神集中も並大抵のものではないだろう。ここで縦の線をあわせて奏するのは彼の棒を知らなかったら困難なものがあるかもしれない。合ったら今夜のようになる。

このような棒なので、静かな局面では伸縮の伸のような表現になってバランスを保っていると言ったところもあるのかもしれない。

全体にごり押しの棒ではなく、オーケストラから出てくる響きは共感の自発性から出てくるものであり、そうでなければあのような音の芯がそろった演奏とならない。

それから、この棒振りですが、こういった雰囲気に聴衆も引きずり込ませる能力があるのか、フライング拍手をさせない雰囲気をもっている。最後の音のあとの空白は見事な間であった。

後半のシュトラウス。祝典前奏曲は聴けば聴くほど駄作だと感じる。節はひとつだけ。塗りこめられた弦と、どうも寸詰まり状態のブラス。チャイコフスキーなら鼻で笑うかもしれない。指揮者もまともにやろうとすればするほど曲の駄作性があらわれるだけで、彼ももう振らないのではないか。聴衆の方もわかったもので、左右後方と一本ずつのバンダを配置した100人以上の規模の曲だが、そのわりに肩すかしのパラパラ拍手。

2曲目のツァラトゥストラも同じような傾向の曲だけに2曲並べたのは不正解。指揮者の強い希望で曲順を入れ替えたとのことであったが、入れ替え失敗です。

そのツァラトゥストラですが、方針はシェーンベルクと一緒です。ですから指揮者の方針、曲の解釈、それと、音楽の表現方法が確立されているのだろう。フルトヴェングラーが何を振ってもフルトヴェングラーになってしまう、そこまで極端ではなくても、エッティンガーの刻印がどの演奏にも克明にあり。

最初の節は万人の知るところであるが、そのあとまだ30分以上続くのかしらなどと余計な心配のしたくなる曲ではある。最後のコーダ部分では案の定5分ぐらいかけた濃い演奏となっていた。ここでも拍手を排除させる力を持っている指揮者の力量は昨今の棒振りに比べると一つ上をいっていると感じる。

おわり

エッティンガーの演奏

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322-ファルスタッフ 2007.6.13

621- 2万パーセント・バレンボイム エッティンガー ファウスト交響曲 2008.6.13

785-WALHALL ラインの黄金 オペラパレス初日 2009.3.7

790-エッティンガー ラインの黄金 オペラパレス2009.3.15

816-ワルキューレ再演 千秋楽 オペラパレス、新国立2009.4.15

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816- ワルキューレ再演 千秋楽 オペラパレス、新国立2009.4.15

2009-04-18 21:47:40 | 音楽

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2008-2009シーズン観たオペラ聴いたコンサートはこちら

ラインの黄金の感想は、785-790-

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2009415()2:00-7:35pm

オペラパレス、新国立劇場

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キース・ウォーナー プロダクション

ワーグナー/ワルキューレ全曲

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指揮:ダン・エッティンガー

東京フィルハーモニー交響楽団

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(in order of appearance)

ヴォータン/ユッカ・ラジライネン

ジークリンデ/マルティーナ・セラフィン

ジークムント/エンドリック・ヴォトリッヒ

フンディング/クルト・リドル

ブリュンヒルデ/ユディット・ネーメット

フリッカ/エレナ・ツィトコーワ

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ワルキューレたち

ゲルヒルデ/高橋知子

オルトリンデ/増田のり子

ヴァルトラウテ/大林智子

シュヴェルトライテ/三輪陽子

ヘルムヴィーゲ/平井香織

ジークルーネ/増田弥生

グリムゲルデ/清水華澄

ロスヴァイゼ/山下牧子

人間技とも思えないエネルギーの必要なそして動きの多いジークフリートにあって、第3幕の目覚めの動機はトワイライトの方向に突き出ていると思うのだが、そのもとになる対とでも言うべきワルキューレのファイナル・ファイヤー・シーンは舞台が一度閉じられるというかなり異例の演出であった。といっても同プロダクション初演2002年のことを忘れてしまっただけのことかもしれない。

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死者の病棟が見事な遠近法的ズームアウトで30メートルの奥に消え去り、ぽっかり空いた奈落から、第2幕でブリュンヒルデに足蹴にされたグラーネが巨大化して立ち現れる。

しかしそれもこれもファイナルシーンで一度場が閉まる。

ワルキューレ最終局面で場はいったん閉じ、ドアが右と左にあらわれる。下手のドアから客席に向かって出てきたヴォータンはもう一方の上手の赤い火のドアの方に向かう。そして、その閉じた壁をこぶしで3度叩く。これ自体異例だが、最終局面でいったん場が閉じると言うのも異例。

場があがると大きなベットに目覚まし時計を枕もともにおいて横たわるブリュンヒルデ。

なにもかもがゆがんでいる。ものがゆがんでいるのか空間がゆがんでいるのか時もゆがんでいるのか。ダリのような世界の現出。

ラインゴールドからずっとその感じはあるし、ワルキューレ第1幕の巨大テーブルにはじまっていろいろとサイズや角度の崩壊があるので、極端な違和感はない。

それで、この火の岩ならぬベットに飛び込んでいくのは、人間なのか神なのかそれは来年のお楽しみと。。

今メトでもリング・サイクルをやっている。

788-,789-

例のオットー・シェンクのプロダクションの最終公演。

このプロダクションは1985-1986シーズンのワルキューレからはじまったのですが、当時この火の岩シーンだけで毎晩たしか10万ドルとぶと言われていたような記憶があります。道具仕立て以外に屋内での火のため保険とかいろいろかかったのでしょう。ムソルグスキーのホヴァンシチーナも燃え盛る火で終わるのですが同じぐらいお金がかかっていたことでしょう。

今回のオペラパスの火は小ぶりとは言いながらアイデアの奇抜さからいってずっと面白いものですね。話が例によって飛びました。

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死者の病棟はすでに第2 -->


815- 華金もコンサートのあとは音楽談義

2009-04-17 00:34:52 | グルメ

華金がやってまいりました。

金曜日にコンサートに行くのはいま一つな心持ではあるのだが、ダン・エッティンガー指揮東京フィルを聴きにサントリーホールまでいきます。

おととい4/15は、オペラパレスのワルキューレ千秋楽でしたが、それについては週末にでもアップします。この日は、午後2時からはじまり終わったのが8時ちょっと前。どうせ6時間コースだろうと思っていたので、家をちょっと早めに出て、新宿で昼飯を物色した。

はいったのが、新宿とんかつ「さぼてん」、つまり物色するまでもなかったわけですが、

6時間の長丁場に備え、ご飯と味噌汁をおかわりして、いつ冬眠してもいい腹構えで臨む意気込み。

それで、ここのさぼてんですが、すりごまソースというのがあります。小すりばちにごまがはいっていてすってソースをたらし、それにカツをまぶして食べるわけなんですが、見てると店員が客に必ず訊きます。「この使い方はわかってますでしょうか。」変な日本語ではあるがそれは横に置いて、客の回答が老いも若きも「はいわかります。」というもの。

でも、見ていると老いも若きも連中、ごまをすっているのではなく潰しているんですね。つまりすり方を知らないんです。出世しそうもない雰囲気の連中ばかりなのはごまをすれないから?そんなことはないと思うが、とにかく見てられない。

日本人特有のひじをテーブルに立てる最悪のスタイルで、ごまを潰している。これじゃ、やっぱり日本は終わる。。

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それで、ワルキューレが終わったのが8時頃で、新宿は好きではないので、初台から銀座に向かった。鮨を食いに行ったのだが、8時半9時頃フリではいった鮨屋ははずれ。タネがない。河童好物のヒカリモノシリーズは無残。断片だけ。

酒を飲んでごまかした。この日の締めくくりとしては久しぶりの不発であった。

やっぱり夜中やっている鮨屋というのはそれなりのものをちゃんとそろえているのだろう。

夜中の飲み食べ紹介はこれなんかどうですか。

クラキチのレストランガイド

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814- 真のマーラー・サイクル まだ間に合うカーネギー

2009-04-16 00:10:00 | 音楽

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マーラー・サイクル

GUSTAV MAHLER

THE SYMPHONIES IN SEQUENCE

カーネギーホールで、シュターツカペレ・ベルリンがマーラー・サイクルを行う。

なんと作曲の順番に、たった12日の間に全部敢行。

指揮者はダニエル・バレンボイムとピエール・ブーレーズ。

これぞ真のサイクル。

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カーネギー・ホール

ダニエル・バレンボイム指揮

ピエール・ブーレーズ指揮

シュターツカペレ・ベルリン

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200952()12:30-6:30pm

Discovery Day:Gustav Mhaler

この日は前夜祭みたいなもの。

ギルバート・カプランによる12:30からのレクチュアにはじまって、いろいろえんえんと6:30まで。

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200956()8:00pm

亡き子をしのぶ歌

  トマス・クヴァストホフ

交響曲第1

ダニエル・バレンボイム指揮

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200957()8:00pm

交響曲第2番 復活

  ドロテア・レシュマン、ミッシェレ・デヤング

ピエール・ブーレーズ指揮

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200958()8:00pm

交響曲第3

  ミッシェレ・デヤング

ピエール・ブーレーズ指揮

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200959()8:00pm

子供の不思議な角笛

  ドロテア・レシュマン

交響曲第4

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813- バルビローリの唸り声 マーラーライブ

2009-04-14 00:10:00 | 音源

マーラー6

バルビローリ/ベルリン・フィル

1966.1.13 ライブ(MONO

1_2

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マーラー2

バルビローリ/ベルリン・フィル

1965.6.3 ライブ(MONO

2_2

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マーラー3

バルビローリ/ベルリン・フィル

1969.3.8 ライブ(STEREO

3_2

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ベルリン・フィルを振ったマーラーだが、バルビローリの泣き節全開。主題のエンディング、各フレーズの終息のしかた、事切れそうな滴るおそさまでヒタヒタともっていき、聴衆に緊張をしいる。6番なんか泣き終わりだ。第2楽章にアンダンテをもってきていて、ここもいい。ベルリン・フィルの表現能力のキャパの大きさもたいしたもの。

それにもまして、だ。

指揮者の声がやたらとよく聴こえる。声と言っても、うなる、うなる。最初から最後までうなりっぱなし。マイクの位置のせいなのだろうが、これはかけ声ではなく、一緒になって演唱しているようなもんだ。

この623番は聴けば聴くほどいい味がでてくる。バルビローリの刻印が明確にある。

録音は62番はモノフォニックだが3番ともども同じようなレベルだ。バルビローリのマーラーを聴くには問題ない。

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3番の第6楽章に関して、昨今の演奏は傾向として非常にスローな解釈が多く、その速度はこの楽章の最初のテンポが最後までほぼ保持される。途中多少の変化はあるが、基本はそのスローさなのだが、このバルビローリの演奏は最後に明瞭にテンポを入れ替え、ティンパニを叩きまくり、明るく明瞭にクリアに天上に昇天する。この交響曲にふさわしいのではないだろうか。このような解釈をする指揮者は今は皆無。

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演奏の出来具合、腕ではなく、気持ちのノリ具合は、写真の順番と一緒。

623番といったところか。

3番は、BBC放送からでているハレ管弦楽団との演奏の方がいい。ベルリン・フィルと腕が違う部分もあるが、ノリ具合はこちらが上。最後の快速テンポも完全にきまっている。

おわり。

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811- NYPホライゾンズのまとめHorizon’s 1984 Festival HF-10.1

2009-04-11 21:20:44 | 音楽

1983-1984シーズン聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら

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ニューヨーク・フィルハーモニック

ホライゾンズ1984年

1984530日~68

10日間 全15話をまとめました。

こちらからどうぞ。

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実際にはもっと充実した内容のプログラム・ノートがありますが、訳の関係で割愛しました。

音楽監督のズービン・メータのメッセージ。

芸術監督のジェイコブ・ドラックマン。

リンダ・サンダースさん。

ウィリアム・シューマン。

ミルトン・バビット。

グレゴリー・サンドウ。

ポール・グリフィス。

リチャード・ムーア。

チャールズ・ウォリネン。

ロジャー・レイノルズ。

上記の人たちによるプログラム・ノートがあります。

また今回演奏された曲の作曲者の紹介が全員写真付きででております。

また、機会があればアップします。

おわり

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810- ホライゾン1984千秋楽Horizon’s 1984 Festival 1984.6.8 HF-10

2009-04-10 00:10:00 | 音楽

1983-1984シーズン聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら

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気の遠くなるような10年のように感じた10日間がようやく最終日をむかえた。

締めくくりはこんな感じ。

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198468()

エイヴリー・フィッシャー・ホール

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6:45PM

What’s Score?

Meet the Composers

楽譜ってなに?

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8:00PM

ANTHONY DAVIS/Still Waters

James Newton, flute

Abdul Wadud, cello

Anthony Newton, piano

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HARRISON BIRTWISTLE/

Down by the Greenwood Side’

(ニューヨーク初演)

 Susan Belling, soprano

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PETER SCULTHORPE/Mangrove

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IRWIN BAZELON/Churchill Downs

  Henry Estrin, saxophone

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LARRY NEWLAND, conductor

NEW YORK PHILHARMONIC

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最後の最後で、またわけがわからなくなってしまった。

とりあえず作曲家の名前だけでもカタカナで。

アンソニー・デイヴィス

ハリソン・バートビストゥル

ピーター・スカルソープ

アーヴィン・ベイゼロン

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ラリー・ニューランド指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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ということで、作曲者の名前が、曲目のように見えてくる。

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聴く方の混乱状態も最高潮をむかえた。

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HORIZONS‘84 は、

ニューヨーク・フィルハーモニック主催によるもので、

1984年当時の現代音楽について、

新ロマン主義、という副題をつけて開催されたイヴェントでした。

20年以上前のイヴェントですが、今となってみればなんだかとても新鮮。

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その後、

活躍が継続しているもの、

消滅したもの、

ゆく川の流れは絶えずあるものの、

決してもとの流れではない。

先に進むしかないのが音楽。

現われては消える陽炎のようなもの。

瞬間芸術であるがゆえ、

それを刻印するのは脳裏、

でも、

それでは、かたておち、

脳裏に刻み、文章に刻む。

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これら現代音楽作曲者たちは、

その瞬間を十分な充実感をもって、

作曲し、

演奏し、

表現した。

.

前半が現代音楽。

後半が古典音楽。

というのも演奏会としては納得できるプログラム・ビルディングであるが、現代音楽で固める勇気も必要だ。

同時代の共同体の実感を得るために。

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そういえば、普通の定期でこんなのありました。

勇気のいるプログラムです。

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198610

べリオ作曲

ヴィオラと管弦楽のための

Voci(folk songs )

 (ニューヨーク初演)

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ハイドン作曲交響曲第80

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べリオ作曲2台のピアノのための協奏曲

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アルド・ベニッチ、チェロ

カティア・マリエッラ・ラベック姉妹ピアノ・デュオ

ルチアーノ・べリオ指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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ラベック姉妹が左右で全身エクスタシー状態で体を震えさせながらピアノを弾いている最中、何人の聴衆が席を立ち、

背をむき、

通路をわざとらしく音を立てながら、

帰って行ったことか。

.

曲目の並びが、

ハイドン

べリオ

ハイドン

であれば、聴衆も最後まで我慢できたかもしれない。

おわり


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809- ヘナハンの評 クラムとナッセンHorizon’s 1984 Festival 1984.6.7 HF-9.1

2009-04-09 00:10:00 | 音楽

1983-1984シーズン聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら

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前日のホライゾン1984の評が日をおかずさっそくニューヨーク・タイムズに載った。

言葉も内容も恐ろしいへナハンさんの評。

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198468()

ニューヨーク・タイムズ

ドナル・ヘナハン

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質はいつでも量を打ち負かす。悪いことに、プログラム・ビルダーにとって、わかりきったことを認識する、あるいはとにかく行動を起こすというのは難しいものだ。

エイヴリー・フィッシャー・ホールにおける昨晩のニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会は、演奏時間を合計しても約1時間のものであったが、全ての瞬間が重要なものであった。

オーケストラによる‘ホライゾン1984’シリーズ第8回目のプログラムは、世界初演となるジョージ・クラムの‘魅入られた情景’と、オリバー・ナッセンの合衆国初となる完全演奏会版のオペラ‘ワイルドなもののあるところ’。

両曲とも注目にあたいする作品で、おそらく、繰り返し聴くのに耐えられるだけのものがある。

ズービン・メータが、肘の手術から戻ってきてナッセンの曲を振った。その指揮ぶりは休みの間、あたかも電池を充電していたようなものであった。そして、納得。グラインドボーンその他で演奏されているモーリス・センダクのリブレットによる子供たちのファンタジー1幕物オペラは、メータ氏がいつも大いに楽しんでいるようなある種技術的挑戦に富んだものであった。

ナッセン氏の音楽は、いつも人を安心させるようなシンプルなものである。しかしそれはとんでもない。たくさんのパーカッションを伴った輝かしいスコア、それは、ムソルグスキー(‘ボリス’や‘子供部屋’サイクル(河童注:合唱曲))やラヴェル(‘子供と魔法’)やドビュッシー(‘おもちゃ箱’)による子供たちについてのほかの作品への言及を伴って重なるものだ。普通目立たない方法で。

舞台の効果なしで、オペラの魅力や不思議な雰囲気を全て表わすことはできないけれども、ナッセン氏の音楽は良い作品であることを証明していた。それは行儀の悪い子供たちのことに関係しているので、当然ながらいつも騒々しいものであり、抒情的な瞬間に不足している。その点において、それは当然の如くその時間の子供たちのことだ。

カレン・バーズレイによって突進するおてんば娘の役割を演じたこのオペラの悪がきマックスのように、ナッセンは大騒ぎすることで子供たちの喜びをあらわした。そしてそれはうまくいった。この成果を大いに助けたのが、キンボール・ホィーラー、ウィリアム.・シャープ、ケヴィン・ディーズ、クレイグ・ニム、ケニス・ベルらにより歌われた気難しくて文句をいうような感じの‘ワイルドなもの’彼ら自身であった。声は全てアンプを通している。スコアは舞台バージョンではそのようなリクエストを何も示唆していないが。

バーズレイ女史は魅力的なマックスであった。自分を崇拝し、‘ボリス’の戴冠式音楽の緊張感のように王に王冠をのせるような、恐ろしくワイルドなものを支配する幻想的な国に航海する子供のようだ。彼女のコスチュームはみごとに男のようだ、役の割には少しフォーマル(ディナー・ジャケットに赤いタイ)であるけれども。しかし、気にすることはない。彼女は笑われる様にはみえないソプラノの声をもった印象的な女優である。この役は彼女の才能のために書かれたように思える。

クラム氏の‘魅入られた情景’、不吉な予感で満たされた18分の作品は、バルトークの‘野外にて’組曲、の手法で夜想曲風に作られたものである。それは過去の作品でかなりしばしば彼が奮いおこしたムードの音楽である。作曲者によるプログラム・ノートによると、曲のタイトルは、地上の特定の場所がミステリーのオーラで満たされている、という感覚を反映しているものだそうだ。

(訳途中)

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008


808- クラムとナッセンHorizon’s 1984 Festival 1984.6.7 HF-9

2009-04-08 00:10:00 | 音楽

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1983-1984シーズン聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら

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1984年のホライゾンもこの日を入れて残すところ二日間。

この日は、指揮者二人の登場である。

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198467()

エイヴリー・フィッシャー・ホール

6:45PM

What’s Score?

Meet the Composer

楽譜ってなに?

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8:00PM

NEW YORK PHILHARMONIC

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GEORGE CRUMB

  A Haunted Landscape(world premiere)

ARTHUR WEISBERG, conductor

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OLIVER KNUSSEN

  Where the Wild Things Are,

  Libretto by Maurice Sendak

  (U.S. premiere, complete concert version)

  Karen Beardsley, soprano

  Kimball Wheeler, mezzo

ZUBIN MEHTA, conductor

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ジョージ・クラム作曲

 魅入られた情景(世界初演)

アーサー・ワイズバーク指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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オリバー・ナッセン作曲

 ワイルドなもののいるところ

 (アメリカ初演、完全演奏会版)

 カレン・バーズレイ、ソプラノ

 キンボール・ホィーラー、メゾ

ズービン・メータ指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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近年における現代音楽の傾向かどうか知らないが、とにかくパーカッション・セクションがすごい。

巨大に膨れ上がった楽器とその数。

ただし、全てのパーカッションが同時に演奏されることはないので音量まで巨大になることはめったになく、むしろ音色の変化を求めているようだ。

クラムの曲は低音にある種のライト・モティーフのようなものをもたせ全体として、かなり統一がとれた作品である。

パーカッションの華やかさが、軽薄さにつながることなく、落ち着いた曲である。

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ナッセンの曲はいわゆる舞台形式のオペラである。これも膨大に膨れ上がったパーカッションに対抗するためかどうかは知らないが、歌い手の声は全てマイクを通してある。

いわゆる印象主義的な音楽傾向をもう少し推し進めたようなフレーズのかたまりであり、その歌の明確さとともに聴衆にはかなりうけた。

やはり声がはいり、そのせりふが聴きやすいということは聴衆の音楽に対する理解の第一歩となる。

現代の音楽で40分という時間を少しも飽きさせることなく聴かせるというのはかなり難しい作業だと思うのだが、ひじの手術後はじめて棒を振るメータ()も快調であり、音楽が引き締まっており、一瞬たりともだらけるようなところはなかった。

ナッセンは1952年生まれの大巨漢であった。

おわり

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注:ズービン・メータのテニスひじ

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807- フランスものブーレーズ他の評Horizon’s 1984 Festival 1984.6.6 HF-8.1

2009-04-07 00:10:00 | 音楽

1983-1984シーズン聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら

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1984.6.6のホライゾンの評が翌々日のニューヨーク・タイムズに載った。

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1984.6.8

Concert: Horizons 1984

By ALLEN HUGHES

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198468()

ニューヨーク・タイムズ

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アレンさんの評

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水曜日夜、エイヴリー・フィッシャー・ホールで、ニューヨーク・フィルハーモニックによるホライゾン1984にフランスが立ちはだかった。この日の4人の作曲家のうち3人がフランス人であり、そのうちの一人ギルバート・アーミーが棒をとった。この日の大勝利は、既にある種‘古典’として成功している16年前のフランスの新作である。それはピエール・ブーレーズの‘Domaines’である。しかし、それに先立って演奏された曲もまた重要なものであった。それらは、ベッツィー・ジョラスの‘Quatre Plages’、アーミー氏の‘Shin’anim Sha’ananim(玉座の天使)、ジョージ・ウォーカーの‘Serenata’である。ウォーカー氏は、もちろんアメリカ人であるが、去年から手掛けた彼の作品は、この中では一番新しいものである。

Domaines’は、真に創造的な才能が、最も因習にとらわれない虚飾のテクニックとスタイルを通して感じたもうひとつのことを提示してくれる。この作品では、ブーレーズ氏は6つの楽器群を作った。それは、あるときは歩きまわるソロ・クラリネット(このコンサートではスタンリー・ドラッカー)を伴い、ステージに散らばったりペアになったりする。さらにブーレーズ氏は、ソリストと指揮者にオプションを与えた。そのオプションというのは、ソリストとそれぞれのグループが演奏する順序を決めるというものである。数学的確率は、‘Domaines’の二つの演奏に対して、正しく同じものとして響く。

Domaines’全演奏者にとって、書かれたパートは異なるものである。しかし、もちろん、それらは、多種の混乱した音の特別な強調を伴ったある種メモ書きのように、普段着の聴衆の心には聴こえる。これがだいたい30分継続する。それはつまらなく退屈であると思われたかもしれない。しかしとんでもない。そんなことはなく、時間が経過し音楽が進むにつれ、聴衆はだんだんと理解が深くなり、音色、リズム、メロディーの意図するところにだんだんと反応をみせてきた。さらに、ついには、最後の部分においては、魅力的な家族の訪問が、予定し望んでいたよりも少し早く断ち切られたような感覚を味わうに至った。

ウォーカー氏の‘Serenata’は、何かリヒャルト・シュトラウスに負うところがありながら、それにもかかわらずやはり同じようにロマンティック気味な観点で、よく練られたしっかりしたオーケストラ作品である。ウォーカー氏の比較的保守的な音楽が、より冒険的なブーレーズ、ジョラス、アーミーの作品と並べてみると耳障りなところがなく受け入れられやすい、というのがこの演奏会で一つ良かったことである。

アーミー氏の音楽はこの日、最もエキゾティックで官能的なものであった。それは、11世紀のスペインユダヤ神秘主義者のSolomon Ibn Garirolによるヘブライの詩を伴ったもので、1979年に書き始められたものである。3人のソリストは、メゾソプラノのダンナ・フォーチュネイト、チェリストのエリック・バートレット、クラリネットのアナンド・デヴェンドラ、それにアンサンブルはSpeculum Musicaeであった。ヴォーカル・ラインは自由にベルクの雰囲気をもち(もちろん、アルバン・ベルクのこと)、それでいて、チェロとクラリネット・ソロは両方とも、しばし、恍惚状態になる。多々の結びつきの良くない器楽編成にもかかわらず、そのスコアは基本的に複雑にはみえない。どのような場合も聴きやすいものであった。

1968年に書かれたジョラス女史の作品は、明らかにこの日一番アカデミックなものであり、

最も魅力的でなかった。‘plage’というのは普通、フランス語で‘beach’を意味している。しかしここにおいてはそのようなことは意味していない。プログラム・ノートによると、それは‘特定な型の音響構築によって占有された時間の一部を指示すること’らしい。この作曲家は新鮮なソノリティーを達成するために弦楽器をグループに分割した。女史は自身のしたいことを成功させたかもしれない。しかし、結果はコンサート作品としてはアピールが足りないものだった。

おわり

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