河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1266- 山下洋輔=4= スペシャル・イヴェント1985.8.27 ニューヨーク・タイムズの評

2011-06-30 00:10:00 | インポート

1263-1264-1265- の続きです。
1985年8月27日(火)に山下洋輔がスイート・ベイジルでピアノ・ソロ演奏会を行った時の評が、二日後29日のニューヨーク・タイムズに掲載されました。どうぞ。
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THE NEW YORK TIMES, THURSDAY, AUGUST 29, 1985
Music: Yamashita’s Jazz
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The piano at Sweet Basil (88 Seventh Avenue South, at Bleecker Street) quaked visibly Tuesday under the assault of Yousuke Yamashita’s solo concert. Mr. Yamashita performed in a Village Jazz Festival special free event; he is a leading Japanese jazz musician, and his concert was video-taped for documentary and recorded for live album.
Mr. Yamashita tore into a set of standards and classical adaptations ? among them “A Night in Tunisia” and Ravel’s “Bolero” ? by veering back and forth between tonal harmonies and percussive, dissonant extensions. The pressures of rhythm and harmony would build up, explode into atonal passages that still hinted at the original tune, then subside as Mr. Yamashita returned to ordinary chords.

Mr. Yamashita is clearly familiar with the styles of Art Tatum, Duke Ellington, Bud Powell and Thelonious Monk; he could slip in and out of stride rhythms or be-bop filigree at will. When he moved to atonal pummeling, some of his two-handed techniques derived from Cecil Taylor.
What made his set distinctive was the transitions- he knew just when he had established enough of tune to leave it behind. His wittiest interpretation was a version of “It Don’t Mean a Thing If It Ain’t Got That Swing” ; where the Ellington horn section played repeating, syncopated chords, Mr. Yamashita built thunderous, ever more weighty note clusters. It was aggressive playing tempered with just enough melodic finesse ? a bridge between old and new jazz piano

Jon Pareles
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ニューヨーク・タイムズ
1985年8月29日(木)
山下のジャズ
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山下洋輔のソロ・コンサートの急襲で、スイート・ベイジル(7番街南88番地、ブリーカー・ストリート)のピアノは明らかに震えて揺れた。山下氏はヴィレッジ・ジャズ・フェスティヴァル・特別無料イヴェントで演奏した。彼は優れた日本のジャズ音楽家で、今回の演奏はドキュメンタリーとして録画され、ライヴ・アルバム用に録音された。山下氏は“チュニジアの夜”、ラヴェルの“ボレロ”で、調性和音と打楽器的な不協和音展開の間をあっち行ったりこっち来たりしながら、規範と古典の融合といったものをぶち破った。リズムとハーモニーの圧力で、オリジナルの曲をかろうじて少しだけ感じさせる無調のパッセージを作り上げそして爆発させ、そして正調に回帰して静まり曲を終えた。

山下氏は、アート・テイタム、デューク・エリントン、バド・パウエル、セレニアス・モンクなどに明らかに造詣が深い。彼は意のままに大またぎのリズムやビーバップのフィグリーの出し入れをすることができる。無調のピアノ乱打に移ったときにわかったのは、彼の両手のテクニックはセシル・テイラーから得たものであるということ。
彼の解釈を異色なものにさせているのは、-置き去りにした音が十分に練り上げられたちょうどそのとき本人が認識する-推移や変化といったものである。彼のもっともウィットに富んだ解釈は、山下版“スイングしなけりゃ意味がない”で、エリントンのホルン・セクションがリピート、シンコペーションのコードを演奏するあたりにある。そこで山下氏は雷のような、さらには重量のある音符のクラスターを築けあげる。新旧ジャズ・ピアノの架け橋として、十分なメロディの作戦をもったアグレッシヴな演奏だった。
ジョン・ペアレス
(直訳+意訳、ここまで)
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字面づらからもわかるように非常にいい評価だったと思います。これを毎日続けないとマンハッタンではすぐに落ちていきます。イヴェントやツアーで演奏できる方が気が楽なのかもしれませんが、それはそれで、名前がリストアップされるまでが大変なわけで、どっちにしろ、実力と運とツキ、これがそろえば言うことなしです。山下さんはもちろん全部あったのかもしれませんが、やっぱり実力が段違い。
ここを起点としてこれまでの活躍に耳を傾けるのもよし、この起点前の昔のダイナミックで若々しい時代の破天荒な演奏に随喜するのもよし。「ラヴェルの肘打ち」ストーリーの原点探しなんかもいいかも。興味が尽きません。
おわり
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1265- 山下洋輔=3= スペシャル・イヴェント1985.8.27

2011-06-29 00:10:00 | インポート

1263‐1264-の続きです。
聴いたコンサート観たオペラより。
1263-、1264-の続きですので、聴いたのはクラシック演奏会ではなく、ジャズです。
かなりよれた駄文になってます。日本語を忘れかけたあたりの日本語ですけれど、かといって英語のほうもろくにしゃべれないというまっとうな日本人の感想メモです。ほぼそのまま書き写します。
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1985年8月27日(火)6:00-7:10pm
スイート・ベイジル、ヴィレッジ、ニューヨーク
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ラヴェル ボレロ

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ピアノ、山下洋輔
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ヴィレッジには仕事の帰りにたまたま行くが、今日はヴィレッジ・デュワーズ・ジャズ・フェスティヴァルのひとつとして、山下洋輔がスイート・ベイジルで演奏を行うというので行ってみた。夕方6時とちょっとはやかったが、日本人を中心にたくさんの人が聴きに来ていた。
彼のピアノは、いくら支離滅裂にやろうとしても、あるいはいくらジャズ風にやろうと音楽はヨーロッパに根ざしているように聴こえてくる。
彼の迫力はなにも強音のところのみにとどまることなくピアニシモも入念であり、彼のすごさはいたるところにあらわれてくる。
ヴィデオが3台セッティングされてあり、これを録画して日本で発売するらしい。
予定を10分オーバーしたが極めつきはラヴェルのボレロであった。
終わってからここでゆっくりと食事をし、10時からはじまるアート・ブレイキー・アンド・ジャズ・メッセンジャーの演奏に備えた。
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以上です。いたってシンプルながら、自分としては目の前に迫ってくるような郷愁があります。懐かしすぎて涙ものです。単語の羅列にしかすぎませんけど、これらはキーワードであって、この言葉がキーになり、昔の脳みそが掘り起こされます。
当時の感想メモはノートに万年筆で、(酔ったまま、もしくは、ハングオーヴァーで、)書いたもので、気が落ち着くのは唯一この時だけ、といった重度のワークホリック?でした。
ノートのアップも貼り付けておきます。
(因みに当ブログは昔の演奏会についてはこのように全てノートに書き留めておいたものをブログに書き写している作業行為です。)
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1264- 山下洋輔=2= スイート・ベイジル1985ヴィレッジ・ジャズ・フェスティヴァル

2011-06-28 00:10:00 | インポート

1263-の続きです。
1985年8月にニューヨークのスイートベイジルで山下洋輔が演奏したイヴェントはこれです。
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DEWAR’S VILLAGE JAZZ FESTIVAL
AUG.23-SEPT.2  ,1985
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つまりホワイト・レイブルで有名なデュワーズによるヴィレッジ・ジャズ・フェスティヴァル、それのスペシャル・イヴェントに出たわけです。
多くのジャズ・スポットでイヴェントが行われましたが、山下洋輔がでたのはスイート・ベイジルで行われました。紹介ではTrailblazerとなってますね、日本のフリージャズの先駆者というふれこみです。
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スペシャル・イヴェント
1985年8月27日(火)6-7pm
Yousuke Yamashita
A Trailblazer of Free Jazz in Japan and Winner of Many Outstanding Awards
At Sweet Basil
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実のところ10時からのアートブレイキー・アンド・ジャズメッセンジャーお目当てだったのだが、お祭りということもあり早めに席を確保し、結局6時から0時ぐらいまでの長丁場の座席占有となりました。
6時スタートの山下洋輔のピアノは約1時間、無料の公演、日本のテレビカメラが回っておりのちにレーザーディスクとかDVDで客としての自映像などもみたりしましたが、こんなこともあったんですね。夏だったのでクラシック演奏会はシーズンオフでヴィレッジにはその季節わりと行ってはいました。
10時からのアートブレイキーの公演では、メッセンジャーに若かりしテレンス・ブランチャードが吹きまくりしてました。ドラムと同じぐらい強烈なトランペット。忘れられません。この当時ブランチャードは超売れっ子だったのか、例えば別の日にブルーノートでディジー・ガレスピーのピアノ!の横でここでもやはり吹きまくりしていたのを聴いたことがあります。ガレスピーがブランチャードに自分のアンサンブル(たぶんトリオ)で吹かせるんですから、この度量もすごいと思ったものでした。
ヴィレッジ・ヴァンガードではマックス・ゴードンが自分の本にサインしてあげていた時代です。
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1985年このお祭りの写真をたくさんアップしておきます。会場というかジャズ・クラブ、たまりません。
ARTHER’S TAVERN
BLUE NOTE
BRADLEY’S
DISCOVER OF SOHO
FAT TUESDAY’S
JAZZ CENTER OF NEW YORK
SEVENTH AVENUE SOUTH
SWEET BASIL
VILLAGE CORNER
VILLAGE GATE
VILLAGE VANGUARD
ZINNO
55 BAR
GREEBWICH HOUSE
MUSIC ON AN OPEN SKY
JAZZ ART
BLEEKER STREET CINEMA
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イヴェント詳細は写真を拡大してください。
スイートベイジルのイヴェントのみ書いておきますね。
第1ステージが夜10時スタート、第3までありますので全部聴いたら朝になってしまいます。
1985.8.23-25
Art Farmer/Benny Golson Jazztet
1985.8.26
Gil Evans Orchestra
1985.8.27-9.1
Art Blakey and Jazz Messengers

入場券のおもてうら。(サインは消してます)

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ペーパーナプキン

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イヴェント・プログラム

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上記は山下さんのサイン

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1263- 山下洋輔=1= 日経「私の履歴書」2011年6月

2011-06-27 00:22:32 | インポート

今月の日経「私の履歴書」は山下洋輔。若いときの恐れを知らないダイナミックな活躍が、言葉が飛び跳ねるようにポンポンと躍動感あふれ出てくる。昔のことがまるで今起こっているかのように描写されていて、音楽家としての山下のみにとどまらず文筆の素晴らしさに唖然とするが、昔のことを決して忘れることなく次から次へと出てくるのは、つきあっていた連中も本当に才能ある切れ味鋭い人間たちだらけだったわけで、こんな面白い人間模様めったにあるものではない。
連載23の6月24日(金)あたりから、クラシックとの融合話がでてくる。
「クラシック乱入」~
「運命」の共演者 握手拒む
バッハに扮しフリージャズ
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ここらあたりから断然面白くなってくる。
この日の記事を読んで思い出したことがある。1985年の8月にアメリカに乱入旅を敢行したとあるが、ニューヨークのスイートベイジルでの演奏をたまたま生聴きした。
つづく
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1261- 辻井、カリニャーニ、読響2011.6.23

2011-06-24 23:36:05 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2010-2011シーズン
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2011年6月23日(木)7:00pm
サントリーホール
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ベートーヴェン フィデリオ、序曲
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番
 ピアノ、辻井信行
(アンコール)
ベートーヴェン テンペスト第3楽章
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ベートーヴェン 交響曲第6番
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パオロ・カリニャーニ 指揮
読売日本交響楽団
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アンコールも含めオール・ベートーヴェン・プロ。
この指揮者はお初にお目にかかります。長身で細身でスキンヘッド、非常に精力的な棒です。身振りが目につき、部分的に煩わしい個所あり。棒速が、とにかく、高速。別に悪い話ではありませんけど。冒頭のフィデリオからやたらと速く感じる。
エンペラーはこの指揮者に輪をかけて辻井も高速。両方とも速すぎて急ぎ過ぎてせわしなく感じる。また、決めたテンポというより途中からどんどん速くなってしまう。ベートーヴェンの起伏、ドラマ、などがない。かといって別の主張、たとえば垢を落とした、かぶったほこりを取り去った、といった形容も難しい。
聴衆側の辻井に対する初期のヒート感もあまりなくなってきているように思える。やらされているということでなけれないいのだが。少し疲弊、疲れではなく、業界の戦略みたいなものに流されているように思えました。こんなこと言っていいのかどうかわからないけれど、才能の消費ではなく育てるようなマネジメントが必要ということだろうか。本人の意思をこれからは大事にしないといけないと思います。
今日のようなスタイルの演奏だと、この日のベストは真に本当の意味で、テンペストでした。流れるベートーヴェン、自然な起伏、美しく滑らかな丘陵、広がり凋む、浮いては沈む、そのようなベートーヴェンの一つの表現になっていたと思います。ソロ・リサイタルで気を静め、心静かに、ベートーヴェンに対峙する。そのような音楽があっているような気がしました。最高のアンコールでしたよ。
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後半の田園。これまた快速。別に悪い話ではない。粒立ちの良さみたいなものがなく、譜面づらはよく見えていてそれなりに見通しはいいと思います。
ただ、ベートーヴェンは読響の得意とするところで、ツボを押さえているのはオーケストラのほうです。ベートーヴェン・サウンドを身をもってわかっている感じ。
まぁ、プログラム前半のエンペラーがメインディッシュのサントリー定期だったんでしょうが、前半後半あてがはずれ、結局、魅惑するテンペストが一番のコンサートでした。アンコール・ピースといったレベルで語るものではなくて、本当に起伏のあるいい演奏でした。
おわり

2
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1260- ニムロッド、マーラー5番、ダニエル・ハーディング、新日フィル2011.6.21

2011-06-22 23:53:57 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2010-2011シーズン
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2011年6月21日(火)7:15pm
サントリーホール
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エルガー エニグマよりニムロッド
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マーラー 交響曲第5番
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ダニエル・ハーディング指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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アンコールで割とやられているニムロッドは昔はニムロードと表記されていたような気がするのだが、このちょっとした違和感はまだぬぐえない。それはそれとして、謎の第9変奏という中間部のきわめて美しい音楽であることを全く横においても、この日この場でこの音楽が鳴り響いたとき、音楽それ自身のもつ感情への偉大な力をこれほど感じたことはない。
3月11日(金)当日、ハーディングは予定されていた定期公演を敢行した。聴衆は100人とも200人とも伝え聞く。この日、定期会員としていく予定であったのだが、会社が終わって一時間半かけて家まで歩いて帰るのが精一杯だった。定期は11日と12日の予定となっていたもののさすがに12日公演は無くなった。ほかのあまたの公演もほぼすべてキャンセル状態が約一か月ほど続いた。11日のチケットは妙な話だがしまっておいた。しばらくしてから新日フィルから、つまりハーディングからということになるのだと思うのだが、代替公演をするのでチケットを配る、という連絡があった。11日は公演自体は行われたので代替もなにもないと思っていたのだが、この日の公演も代替対象になっていると聴き、今回6月20日、21日、22日の3連続公演のうち中日のサントリーでの公演を分けてもらうことになりました。ありがとうございます。
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配られたプログラムは今回の公演のために作ったものではなく、3月11日、12日のときのもの、始まる前からリアルすぎる思いに胸が締めつけられる。当初プログラム前半はパルジファル第1幕への前奏曲となっている。
ハーディングが被災地日本国の為にわざわざ来訪して振った一曲目はパルジファルではなくニムロッド。プログラムに挟まれた綴じこみにはプログラム変更のこととニムロッドのあとの拍手を控えるように書いてある。当然すぎる話ではあるのだが一応書くに越したことはない。
先週ブルックナーの8番を振ったハーディングが大きくないがバランスのとれたこぎみのいいステップでポーディアムに登場。ニムロッド、アダージョ、なんて美しい音楽なのだろう。変奏でもなんでもない。ただ音楽の持つ強い力に揺さぶられた。
そして、5分続いた演奏が終わったときに、奇蹟は始まった。そのまま長い長い黙とうが哀悼が永久の静寂をホールに沁み渡らせた。なんという静かさだろう。隣席で涙を流しすすり泣く聴衆の音さえ静寂に支配されている。みんなそれぞれ思いはあるだろう。亡くなられた方の苦しさ、くやしさ、それがよぎる。一人ひとりそれぞれが、また、この音楽が一体化させてくれた聴衆の思いが、亡き人たちを本当に悼み、そしてみんな泣いた。ニムロッドという音楽はみんなの心に沁み渡り、それぞれの感情をほりおこし、そして心に作用した。音楽が動かした瞬間であったと思う。
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エニグマ自体はオケ編成が大きいのだが、マーラーではさらに増強される。リセットされたステージにあらわれたハーディングが棒を振ることもなく、トランペットのソロから輝かしくも哀しい葬送行進曲の音楽がはじまった。
この日のおおよそのタイミングを書いておく。
第1楽章:14分
第2楽章:15分
第3楽章:18分
第4楽章:10分
第5楽章:15分
ハーディングは先週のブルックナーの8番と基本的には同じ方針だと思う。ブルックナーのときはかなり唸り声をあげていたのだがこの日のマーラーでは全く聞かれなかった。そこに特別の違いを見出すわけではないがマーラーの方が圧倒的に譜めくりの忙しい曲ではある。
第3楽章でとりわけ感じたことは、この指揮者は独特の呼吸と冴えわたるバトン・テクニックで他の同年代指揮者を圧倒してますね。この楽章のギクシャク感を逆手に取るような解釈では全くない。意識されたパウゼを多用するわけでもない。続く音楽、流れる音楽、歌う音楽、それは棒をみれば明らかだ。
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第1楽章はかなりおそめのテンポ。スヴェトラーノフの棒を一瞬思いだしたがあんなにどす黒くて異様な感じはなく、音色バランスにも全く違和感がない。
ではなにがすごいのかというと、うねり、のような気がします。
弦とウィンドの力強く歌うさまはあまりの美しさ丁寧さに我を忘れるほどです。このパースペクティヴを表現するためには、テンポの出し入れは不要というかしてはいけない。飽くまでもインテンポで押しきり、音楽の彫りの深さを立体的パースペクティヴで仕立てあげなければならない。揺れるテンポは効果を半減する。
微細神経の先々までゆきとどいた、毛細血管のごときデリケートな音楽は、細かいところまで生き生きと生きており、音たちは弦がしなりウィンドはしゃくりあげてその充実ぶりには耳を見張る。とにかく歌が濃い。
音楽とは本来このようにうねりのあるものだったのではないだろうか?
第1楽章をきっちり切って呼吸を置いてから第2楽章にはいる。こういったところは奇を衒うところのないハーディング、好感。音楽の効果と本質の違いをわきまえている。爪の垢を煎じて飲ませたい日本人指揮者おりますよね。
動かない第1,2楽章、それでも第2楽章後半のファンファーレに向けて少しずつ音楽は自然加熱してきます。ブラスはもう少し湯気の立つような、ピッチのあった余裕のヴィヴラートが欲しいところですけれど二三日でどうなるものでもない。ブラスセクションは特に問題があるわけではないのですけれど、押しなべて普通。気張るところは気張っている。弱音系でのデリカシーはウィンドのような見事さはない。このファンファーレは細身で光り輝くサウンドが欲しいところ、横幅がありどちらかというとボテ系。歌うブラスになるには今後のハーディングのミュージック・パートナーとしての力量がものをいうところとなるでしょう。
第3楽章の独特な素晴らしさについては前述したとおりなのだが、それとともに印象に残るのはホルン・ソロの目立たなさ。ホルンの個人技があまり目立つこともなくマスな音楽進行となっている。早い話、ブラスはその音圧を除けば弦とウィンドの主体性の背景のようなものだ。タクトの指示もブラスへの指示は主体ではないし、音楽のうねりのメインテーマは今のハーディングにおいては、ブラスは視野にあるだけだ。
こんな感じで、第4楽章は綿々と歌いきるのかなと思ったがそうでもない。いやこれは間違った文章だ。極度にスローなテンポを持ち込むことなく歌の極意を聴かせてくれた。昔の指揮者でいうとバルビローリの方針と同じだと思う。マーラー9番などベルリン・フィルとの組み合わせで晩年数々の名演を聴かせてくれたバルビローリ、彼は綿々と歌うけれど超スローな人ではない。バーンスタインなんかとは完全に異なる。総じてゆっくりめのテンポではあるが、それは歌う音楽が必要としているからそうしている、つまり歌いきるベストのテンポ。彼は晩年に芸風がそうなったわけではなく最初からそうだったと思う。マンチェスターのフリートレードセンターでのハルレ等を振った演奏は、この角度から聴いてほとんどが名演奏であり、あくの強さではなく、流れ出るようなあふれ出るような演奏、そして大胆な解釈、それはきっとまねではなく自分で切り開いた独特の演奏表現スタイル、自信にあふれた押し、なんだと思う。バルビローリのニューヨーク・フィル時代は評判があまり良くなかったらしいが現場で聴いてみないとそんなことけっしてわからない。30代のバルビローリがニューヨーク・フィルの音楽監督にいかにしてなりえたのかじっくり音を聴いてみるしかない。(DUTTONがらみのCD多数)
話しは大幅にそれてしまったが、若かりし頃のバルビローリとハーディングがだぶるなあ。
弦のパースペクティヴはなかなか録音に収まりきれないと思う。その意味でこの第4楽章の震える弦の立体表現、現場で聴いたものの勝ちだろう。彼を生で、今、聴く大切さをかみしめなければいけないと思う。一つ一つの演奏が見事だ。
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コントラバスが生理的快感をもたらした後、ホルンとバスーンのきわどいソロで第5楽章に突入。この楽章の主題は第4楽章の速度を上げればそのままでてくるわけで、今度はこのロンドで飛び跳ねるような音楽となるところ、そうなんだろうがハーディングによると必要以上の快活さがあるわけではない。ワクワク感は弦、ウィンドのパースペクティヴな表現によるところが大きい。音の戯れというよりも、かみしめる美しさがあり、その美しさの中に音楽の戯れもあるといったところか。聴きようによっては非常にオーソドックスではある、しかしそれまでの楽章を踏まえたとき、音楽の美しさがここで解放され一層その美しさを増した。時間経過芸術のなかでこれは驚くべき説得力と言わねばなるまい。見事な音響構築物がここにきて完結をむかえた。完結とは解放なり。
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音も拍手も消え、熱狂は去る。動いた心はそのままだ。ハーディングのチャリティーの心意気に比べるのもおこがましいが、先週今週、公演後ハーディングの持つ義援金箱はいっぱいに満たされていた。自分でも出来ることを取るに足らなかったかもしれないがした。
おわり
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1259- 音源紹介、コルンゴルト 交響曲 嬰へ、付随音楽 から騒ぎ、マルク・アルブレヒト

2011-06-20 23:30:00 | 音源

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これは昨年2010年に買ったCDなんですが、なんだか昨年だけで2000枚ぐらい増えちまって全然消化できてませんでした。演奏会の方も忙しいので週末も時間とれず。この日曜の午後少し時間が空きましたので、ブロムシュテット&ゲヴァントハウスの尻つぼみ的なブルックナーの5番のSACDを聴いた後に、同じSACDつながりでこれを聴いてみました。
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コルンゴルト 交響曲 嬰へ
コルンゴルト 付随音楽 から騒ぎ
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マルク・アルブレヒト 指揮
ストラスブール・フィル
PentaTone Classics PTC5186 373
SACD ハイブリッド
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交響曲だけで50分です。コルンゴルトは妄想(?)がどんどん膨らんできて収集のつかないような大曲になっちまいます。ヴァイオリン協奏曲なんかもそうですね。映画のメージがどんどん大きくなっていくのでしょうか。
この交響曲はなんだかとっても迫力あり。内容は聴いてのお楽しみ。アルブレヒトの棒さばきがいいです。ほんとにさばいている感じ。みずみずしさがありますね。
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おまけのようについている、から騒ぎ。これとってもいいです。甘ったるくてめくれるような美しさ。ほれぼれする。
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1258- 蝶々夫人 マダム・バタフライ 新国立 千秋楽2011.6.18

2011-06-19 17:04:24 | インポート

2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2010-2011シーズン
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2011年6月19日(土)2:00-5:00pm
オペラパレス、新国立劇場
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プッチーニ 蝶々夫人
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演出、栗山民也
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蝶々夫人、オルガ・グリャコヴァ
ピンカートン、ゾラン・トドロヴィッチ
シャープレス、甲斐栄次郎
スズキ、大林智子
ゴロー、高橋淳

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イヴ・アベル 指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
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これだけウェットで艶々で綿々と流れる音楽、明日への勇気は出ないかもしれないが、一生オペラを観聴き続けて死んでいけるなら本望だわ、と思わせる力はある。唐突だがバルビローリがこのオペラを好きだったのはよくわかる。とにかく最初から最後まであふれ出るメロディー、川のように流れるフレーズが心のひだをきっちりと埋めていってくれる。棒のアベルはこのオペラが絶対に得意に違いない。オーケストラは前日のきちんと整理されたハーディング&新日フィルとは比べ物にならないぐらい粗かったが、それでも流れる音楽が美しい。オペラのツボはきっと別のところにあるに違いないと確信させる泣き節はオーケストラも含めて聴きごたえ、観ごたえがありました。
歌とオケが重なる部分の多いオペラですけれど、タイトルロールのグリャコヴァは、全部が彼女のためにあるような舞台でしたね。見栄え、しぐさ、それに目力(めじから)、なにもかもが日本人から見て違和感がなくそれにものすごい迫力。もちろんやや硬めの美しくて巨大な声が劇場全てを飲み込む感じ。イタオペ・ファンが第1幕1時間、第2幕1時間半、吸いつけられて微動だにせず観聴きしていました。そういう自分も全く同じ。吸い取り紙に全部持っていかれました。この綿々とした果てしもない美しさはたしかになにもかも忘れさせてくれる。プッチーニの中でも格別の美しさだ。
来日中のメトが演目としてもってきているラ・ボエーム、この美しさの中に交響曲のような構成感を感じさせる第1,2,3,4楽章。つまり第1,2,3,4幕。蝶々夫人とは大幅に趣を異にする。蝶々夫人の方は構成感なんかどこかへ行っちまって、とにかくひたすらウェットな音楽が流れ続けるだけだ。両方同時に観ようと思えばできるタイミング、ぜいたくすぎるか。
ちょっと話がそれるが、今回のメトのボエームのプロダクションはゼッフィレルリのものと聞きおよびちょっとめまいを感じる。それこそ四半世紀前に数知れず観たメトのボエーム。そのプロダクションがいまだいきている、当時、ゼッフィレルリは、とにかく舞台の上に乗せられるだけの人数を乗せようとした。それだけでは足りず動物も盛りだくさん。アタッカではいる第2幕の行進や2階建てなんかもなにもかも日本の舞台ではメトの再現は無理。どちらかというと声で勝負。現地にいれば声とプロダクションの双方が呼応し合って極度のエンターテイメントになっていることがよくわかる。メトの蝶々夫人の舞台も大きさを感じさせるが、場所設定が日本の昔の家、ということもありどこかコンパクトな感じはあった。メトの得意演目はワーグナーとともにイタオペ。オーケストラにその響きが身についてしまっている。誰が歌おうと歌うオーケストラに変わりはない。
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マダムバタフライのしなやかさ。一体この音楽はどこからきたのか。構造はないがストーリーだけがある。綿々と流れる音楽と儚いストーリー。食い入るように魅入る聴衆。観る者の心のひだ、隙間にまるで水のように浸み込んでくる。このものすごい説得力。第三者としてではなくまるで自分自身の出来事のように音楽が同化してくる。プッチーニの魅力の一つだな。
舞台は第1,2幕変わりばえしない。動きも最後の場面を除いて動きがない。何もないかというとそうでもなく、どちらかというと光、その陰影、そのようなもので色彩感覚をよく出している。これはこれで非常に美しいもの。シルエット舞台のハミングも美しかった。音楽と舞台の表情が一体化した瞬間で、聴衆は固唾をのんでみまもる。一発勝負ではないイタオペの真髄がここにもあります。
ストーリーはあまりにもやるせなくて男でも泣きたくなる。男泣きではなく、人間泣きです。このようなストーリーによくもこんな美しすぎる音楽をつけた。
歌は書いた通りグリャコヴァが圧倒的な声で安定感も抜群。細かいニュアンスもきっちりと表現できていて、この心理表現オペラの動きを的確に表現できてました。さらにスタイル、容姿のバランスの良さもさることながら、日本人的しぐさが自然で好感、そしてなんといっても大迫力の目力(めじから)、一途な切実さがぐっと伝わってくる。ものすごい迫力。
役的には割に合わないピンカートンですけれど、最後のカーテンコールでお子を抱いてあらわれてまずは憎まれずに済んだ。そのテノールはこのくらいの響きでちょうどいういのではないか。あまりに存在感がありすぎるとまるで正義を勝ち得たような雰囲気になってしまい、こらえきれず去る場でさえ正当化されるかもしれない。それでは悲劇の正義、そのようなものがあるのかどうか知れないが、薄くなってしまう。ケイトの前に自らを捨てる選択肢しかなかった蝶々、痛いほどよくわかる。逃げ場などというところを考えたこともない蝶々、自分の居場所というものをよく知っていた。ならばなぜ、最初から世のなかば常識化していた現地妻になってしまったのか、それを自分は変えれる、そこまでは思わなくても、アメリカ人の本当の心をつかみたかった。みてみたかった。それは己をみることでもある。己が作った悲劇ではある。悲劇はえてしてそういうものかもしれない。哀しくも美しすぎる音楽がホールを包み込む。ああ、なんというプッチーニの音楽。音楽でしか表現できないものだった。
自分を殺すところで子供が正面に対峙する。あれはどういう意味なのだろうか。やりすぎの演出だと思う。障子のシルエットであったならばもう少し違和感が緩和されていたかもしれない。舞台の光と影、花の美しさ、まぶしいほどの純白、それだけで十分な見事な舞台だっただけにこの部分だけは残念。その場では茫然唖然と観ているだけなのだが、あとあとに残る違和感。考えさせられるところは何もない。プッチーニが言いたい心のひだはこんなもんじゃないだろうと思う。
おわり

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1257- ブルックナー 交響曲第8番 ダニエル・ハーディング 新日フィル2011.6.17

2011-06-19 14:35:32 | インポート

2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2010-2011シーズン
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2011年6月17日(金)7:15pm
すみだトリフォニー
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ブルックナー 交響曲第8番(ノヴァーク版)
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ダニエル・ハーディング指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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熱気のこもった素晴らしい演奏でした。特に柔軟な歌が見事でこのように歌うブルックナーはあまり聴いたことがありません。
少し前、都内でやたらとこの曲ばかりやられたことがありましたけれどそのうち何個か聴きましたがあまり印象に残らず。翻ってこの日のブルックナーはいい演奏で好印象となりました。あまり大きくない体で思いっきり歌いまくるハーディングはすごい。
まずひとつ、彼自身はこの曲の構造をほとんど意識して振っていない。しかし結果は圧倒的な構築美となっていたということです。
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それはなぜかというと、ひとつとしあるのはテンポをほとんど動かさない。3個の主題の経過句では次の主題に持っていかなければならないので多少の動きは見られますがそれ以外は圧倒的なスローのインテンポ。でも、わが道を行く頑固なインテンポでは全くありません。第3楽章を聴けば一耳瞭然です。圧倒的に歌いまくる歌の連続です。本人の声の出具合もものすごいが、とにかく弦が分厚くむせび泣くというか、このような力感のある歌、節回し、もっというならインテンポのパースペクティヴ。音の出し入れがやや作為的なところがみられるものの、このような深彫りされた曲想をインテンポで突き進むには、歌いまくりしなければただの棒になってしまう。ハーディングの棒は圧倒的であり、特に弦とウィンドの見事なさまは指揮棒がボウイングのごとき動きで出てくる音もまさにその通り。
一方、室内楽的な美しさもお見事。ウィンドなどへの気配り、結尾部に至るまで微にいり細にいるまで入念な音のつくり、美しく透明。ブルックナーでははずせない巨大サウンドとは別の部分での妖しさ。この対比の明確化が自然に出てくるのでくっきりと縁取りされたブルックナー構築美となっている。力強い美しさといった言葉のレトリックではなく美しさが純粋に表現されていた。
このような流れと響きが充満している。第1楽章はハーディングに言わすと少し中途半端に空中浮遊する音楽だと言うことかもしれない。第2楽章の思わず軽やかなトリオの歌、第4楽章の蓄積主題の自然放出。これだけのものをプレイヤーから引き出す才に感服。
ブラス・サウンドに関してはどこに力点を置いて、どこに持っていけばいいのかそこらへんはこれから解決されるでしょう。ブラスも歌の方向にしていくのかどうかということですね。
今日のブラスに歯切れの良さは聴かれませんでしたけれど、プレイヤーのせいだけということもない。ワグナーチューバはじめあれだけの物量のブラスセクションです。コントロールは難しいでしょう、100パーセントの筋道とは言えませんでした。例えば第4楽章のコーダはどこからなんだろうといういつもの思いはちょっと横に置くとしても、再現部第3主題に覆いかぶさるように突如出現する第1楽章第1主題の炸裂音。ここをキメルのは簡単ではありません。とくにハーディングのこのような解釈だとより困難かもしれない、コーダ開始ととるか、予兆とするか、むろん予兆という時それはコーダ局面での全主題同時出現の予兆という意味合いを感じさせてくれるのかといったあたり。ブラスに響きの美しさがもっと磨かれていれば、第3主題とは別の歌、湯気の出るようなブラスの響きが聴かれたかもしれません。いずれにしてもここらへんこれからですね。
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第1楽章:16分
第2楽章:15分
第3楽章:30分
第4楽章:25分
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おわり

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1255- ≪祝≫第50回横手高校吹奏楽部定期演奏会

2011-06-14 22:00:54 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2010-2011シーズン
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ほぼ都内ばかりで聴いていますがこの日は今シーズン、昨年10月にびわ湖でのトリスタン以来2回目の旅路。
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【第50回横手高校吹奏楽部 定期演奏会】
2011年6月11日(土)6:00pm
横手市民会館大ホール
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校歌 斉奏
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【Stage1】Gratitude~音楽の贈り物
ショスタコーヴィッチ 祝典序曲
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佐藤博昭 天国の島
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グラズノフ アルトサクソフォーン協奏曲
 アルトサクソフォーン、成田 徹(OB)
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J.B.チャンス 呪文と踊り
 OB合同演奏、招聘指揮 石塚 保
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【Stage2】007~横手高校吹奏楽部オリジナルヴァージョン
James Bond Theme
Live And Let Die
For Your Eyes Only
(ステージドリル構成・演出)
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【Stage3】Cheers!
サム・スカンク・ファンク
The Beer Time~ビールCM曲メドレー
ハナミズキ
アイドル・ヒットナンバー・ア・ラ・カルト
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(アンコール)2曲
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指揮・顧問 高橋 直樹、他
演奏:横手高等学校吹奏楽部
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この学校の吹奏楽部は創部が昭和31年(1956)で本年55周年、第1回定期演奏会が昭和37年(1962)ですので今回で50回目の定期演奏会だそうです。現役生徒主体の学校行事ですので、「祝」の部分はありますが、浮足だった祝典では全くありません。校歌に続く一曲目に祝典序曲を置きあくまでも曲で、力で、祝いを表現する、この高校らしい。
半世紀以上の、陳腐な言葉でいえば伝統、それはそれで素晴らしい。継続も力なり。これだけやっていればいいときもわるいときもあったのでしょうか。
全日本吹奏楽コンクールは、1970年以前は順位制でした。今みたいに金・銀・銅といったファジーな世界ではありませんでした。参加校増加やスキルレベルの向上という言い訳もあるのでしょうが、審査員の進歩しない耳が優劣を峻別できない。それだけが今の普門館でも、なにもかわらず継承されている。伝統の遺伝子は生徒が変わっても脈々と波打っていながら時代の要求に柔軟に応えている、他方、なんだか場当たり的な選出による審査員は隔世遺伝子さえないのではないか。金銀銅なんかやめて順位をつけろ、コンクールなんだから。普門館での初日、金賞受賞校は翌日デスマッチで再度争い、1位から9位までつけるというのは以前このブログで提案しました。日取りの関係とか争いごとをしているわけではないなど、いろんな理由で実現できないでしょうね。話がそれました。
四半世紀を二回以上積み重ねてきている同部、いいときもわるいときもある。
昭和43年(1968)、京都での全国大会でカリンニコフの交響曲第1番の第4楽章を演奏して第3位になった。それは素晴らしい出来事。翌昭和44年(1969)は、後年全日本で名を轟かせるような高校ばかりが7校もそろった県大会で、シードされ、ふさわしくその日の有終の美を飾った演奏曲目はなんと、
「パルジファル前奏曲」
東北大会で2位に甘んじる結果となり全国大会は果たせなかった。
長らく名将の座にあった進藤史生先生の脳内を今でも覗き見たくなる。この曲を選曲するに至った経緯を。
ブラス主体のコンクールといったものとはもっとも遠いところにある曲に違いない。当時はやったもう一方のワーグナー、エルザの行進とはわけが違いすぎる。
パルジファルは2回の休憩を含め約6時間に迫ろうというロングなオペラだ。第3幕の聖金曜日の奇跡、そのカタルシスに浸るまでへたすると4時間半以上かかる。
また、第1幕の揺れが指揮者によりものすごく、最速で1時間半の人、レヴァイン系の棒だと2時間15分ぐらい。そもそも前奏曲は祈りのピアニシモからはじまり、ずっと弱音系の流れで、途中むき出しのトランペットなど一部あったりするが、静寂の音楽が一面に広がったままなのだ。レヴァインだと18分ぐらいかかる前奏曲が、メトの吊り上げられたシャンデリアが灯を落とし真っ暗闇の中、もがく音楽。その「パルジファル前奏曲」を編曲しながら演奏したのだろう。録音は残っていないのか。いてもいなくても個人的には音楽とはそのようなものを探す旅でもある。
ということで、話が完全にそれました。
この高校の栄光はどちらかというとコンクール黎明期の活躍が見事、そして今でもなにかストイックなまでの、音楽に捧げる雰囲気、音で表現しようというごまかしのない真摯なスタイルは部風というよりもむしろ校風によるものだと思う。
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校歌の吹奏からはじまりました。歌いたくなる人もいると思いますけれど、斉唱ではなく斉奏に耳を傾けましょう。アウフタクトから始まるダークブルーな校歌は君が代と同じぐらいユニークで妙に士気を鼓舞する。
部員は3年間、体育会系とかの壮行会いまではどうか知りませんが伴奏しなくてはいけないし、他のイベントでも同様。だから歌えない。OBになってはじめてまともに歌ったなんて言う人もいるかもしれません。
校歌をこうして公に演奏し、一般の人たちに聴いてもらえる幸せを感じて演奏していたことでしょう。音の響きが心と共鳴する。無駄な拍手をしないここの聴衆は昔からえらかったということです。聴く耳は心にある。
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露払いが終わり、第一曲目の祝典序曲。
この曲は昔から結構やっていて、演奏している方も聴いている方もスッキリする。ちょっと前にこのブログでとりあげましたけれど、そのときは華金の憂さ晴らしの前にどう?みたいな感じで書いてしまいました。
ここです→1247-
華金とアニバーサリーを一緒にして不謹慎極まりない。すみません。でもこの曲好きなんですよ。
オーケストラの演奏と吹奏楽では雰囲気がだいぶ異なります。弦パートをウィンドでこなさなければいけないので大変。でも一長一短で、ウィンド=弦のトリッキーな部分の音ののび具合は弦の勝ちですが、縮こまらないブラスの響きは吹奏楽の場馴れしているブラスセクションの方がのびやか。自由奔放にやっても崩れない。そんな感じ。
それでこの高校の演奏は、トリッキーさ、派手さ、といったものを表面(おもてづら)に求めない。音自体はベース4本そろえるなど低音充実ですが鈍重な感じがしないのは昔と異なるところです。グイッと全体に音場が持ち上げられたような響きになっていますけれど、音楽の内面を探るような響き、演奏スタイル、あえていうならばストイックな音のもっていきかたは好感が持てます。音楽と向き合っている。
超高速で押し通すスタイルもありますが、そうすると前述のブログに書いたような演奏になってしまう可能性が大。超高速でも悪いわけではありません、どのような指揮者が何をいかに表現するかです。心的余裕の感じられる演奏でした。
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二曲目の「天国の島」今年の全日本吹奏楽コンクールの課題曲の一つだそうです。クライマックスはどこなのか初めて聴くのでよくわかりません。どこかで盛り上げ部分を構築していってメリハリのあるストーリーを作っていかないと大会ではなかなか難しいと感じます。演奏自体はかなり練習を積んでいるとみましたが、流れで行くか山岳系でいくか、難しいところ。天国にある島はどういう島なのだろうか、興味が湧いてきます。
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演奏はたんたんと進みます。
学校の行事発表会です、これは確かに美入野祭のようなイベントとは一線を画すとはいえ、もう少しキャピキャピしててもいいと思うのですが、一切なし。心耳に聴かせる音楽で勝負する。昨今のテレビのようにうるさいだけの芸能学芸会ではありませんし、そのようなことを筆にするのもおこがましくなる、見事な進行にあらためて好感が持てます。練習の成果の披露です。
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三曲目はグラズノフのアルトサクソフォーン・コンチェルト。独奏はOBプロ成田氏。この曲もお初。そもそもこの楽器のコンチェルトなんてあまり聴くことがない。オケで独奏楽器としてたまに出てきますが、裸で聴くなんてことはめったにありません。
曲はよくわかりません。かおりがない、そのような曲なのか。尾をひく余韻に浸るような曲ではなく技を聴く曲なのか、調和を求めるのなら双方欲しい、表現の幅広さが今一つ感じられない曲ではあった。伴奏のほうはいつも一緒にやっている楽器の音だしメロウに包み込んでいる感じで、「聴きながら演奏する」、つまりアンサンブルの極意に達しているのは、吹奏楽コンクールだけではなくアンサンブル・コンテストなどのようなもので磨かれているからと思われる。第3楽章までこのテンションが続きづらいのは曲のせいもあるだろう。
ソリストの成田氏はOBなので同化するしかない(笑)。このあとStage3でも同化していました。そこにいて全く違和感がない。当然と言えば当然かな。ともかく、このようにコンチェルトで内面の場がさらに盛り上がる。
一曲目から徐々に音楽的感興が高まり、まわりの聴衆も中身をしっかり聴いておりました。絶対に自分の学校の大会出場の肥やしにしてやるという生徒から、人生の炎の核に音楽がまつわりついているだけになってしまった人たちまで、みんなくいいるように音楽の内面に近づいていこうとしてました。本当に素晴らしい聴衆だと思いました。
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Stage1の最後の曲「呪文と踊り」はOB合同演奏。棒は昭和45年(1970)から10年間同校で棒をとっていた石塚先生。同曲は全国大会のときの曲。
ちょっとゆるかったがツボを押さえているようで聴きごたえありました。めくるめく展開を求めずあくまでも曲を磨いていくそのように聴こえてきました。また幅広さがあり前方につんざく様な響きを要求しない。曲想に任せるスタイルだが一本調子にはならない。奥に並んだ見事なブラスがその数の比だけの音量増加として鳴ることはなく、あくまでも音楽を表現している。見事な演奏でした。自然にコントロールされていました。
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ここまで4曲。あっという間の出来事。
成果の発表、大拍手。
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Stage2はステージドリル。こちらちょっと苦手。
プログラムによると昨年、第38回マーチングバンド(小編成の部)で全国大会銀賞をとっているのでこちらも全国レベル。小編成といっても55人規模で、部員数を考えるとギリギリといったところか。個人的には吹奏楽コンクールで頑張ってほしい気もするが、弘法は筆を選ばず、か。
マーチングバンドは観に行ったりすることはないのでわからない。このすり足のステップが時流によるものなのか、マーチングスタイルなのか、それすら判然としない。まわりの生徒たちが目を皿にして観ていたのでお手本吸収がまじまじとありあり。いいね。文化はこのようにして育つ。
たしか、この高校のステージドリルは古くからあって、マーチ用の衣装がそろったのが石塚先生2年目の昭和46年(1971)と記憶する。定期演奏会の当日はお昼に市内をデモンストレーション行進演奏して盛り上げていたはずです。

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その当時とは比べるようなものではなく、あまりの洗練度、次元が違いすぎる。別物と理解。
ステージ後方のブラスはスペースの関係で音だけで迫ったのかしら。いずれにしてもマーチングバンドの面白さを認識しました。
第1回マーチングバンド全国大会は昭和48年(1973)ですので、結構昔からあったし、その2年前に制服(衣装?)をそろえたりしてますので、力の入れ具合によりますが歴史としてはそれぞれ長いものがありますね。
ショートプログラムでしたが内容が充実していて濃い分、観客も十分楽しめたと思います。
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だらだらと長く書いちまいました。
Stage3
リラックスできるのは聴いて観ているほうなんですが、演奏しているほうの喜びも別にあったと思います。3年生個人別ソリスト状態などあったりしましたけれど、ここの高校の力はトリッキーな名人芸を追及するのではなく、それらの力があってはじめて底上げされたアンサンブルになるには違いないのだけれど、そのアンサンブルの積み上げ、ストイックなまで音楽に向き合う姿勢、それが持ち味。
学校行事の発表会です。タイムスタンプ的なソロのライトアップはあってしかるべきだと思います。それはそれとして、
これはとりあえずすぐに忘れて本年の普門館目指して頑張ってほしいと思います。この日の音楽の喜びを忘れることなく大会に臨み、定期とは別の圧力を背に感じやらなければならない。でもそれは決して押されているのではなく、自らがこの日音楽する喜びを作り上げたように、普門館でもそのように自らが音楽をする喜びを表現してほしいと思います。心から心へ。
おわり
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≪お礼≫
当日券60枚のうち最後の2枚情報を段取りしてくださったスタッフの生徒諸君に感謝します。ありがとうございました。

≪付録(できればパソコンでみてください)≫
2008年全日本吹奏楽コンクールの感想。
ここに全部まとめてます。→ 704-

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1253- 商用オープンリールテープ。

2011-06-08 00:10:00 | インポート

前回ブログのバーンスタインのオープンリールテープのCD化つながりで、蔵に入りきらないであふれているオープンリールテープをスキャナーしてみました。

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まず、ソニーから昔の音源がさっぱりでないズービン・メータのリールテープ。

ベートーヴェンの5番8番。もちろんニューヨーク・フィルです。

1982年発売ですけれど、すでにパブリック・ドメインと記載されている。

理由は調べないとわかりません。

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次は、ウィリアム・スタインバークの棒、ピッツバーク響、

ラフマニノフの交響曲第2番です。

35ミリテープからおとされてます。コンディションに変わりがなければ今でも抜群のサウンドでしょう。

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今度は国内バージョン。

すみません。年季はいりすぎで。

バーンスタイン&ニューヨーク・フィルのエロイカです。

かなりぼろぼろですが、日本特有のタスキは、EP,LP,CDのみならず、リールテープでも健在ですな。

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次、

ワルター&コロンビア響のハイドンです。いやー、ぼろぼろですな。

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最後は、かなり気にいっていた録音です。

カール・ベーム指揮ウィーン・フィル

ブルックナーの交響曲第3番です。

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これはいい録音です。再生音場が、ぎゅーーんと上に持ち上げられるような感じで、締りけのあるサウンドがスピーカーの上部の方に定位し、そこから音が降り注がれる。そんな感じの素晴らしいサウンドで結構聴きましたね。楽章途中でのリバースがLPなみですけれど。

CDと違い聴けば聴くほどテープがすり減りますので、一回の集中力を高めて聴く必要がありますね。昔はLPでもやはり集中力を高め、まるで小説でも読むような感じでチリチリするような感情の高まりを感じながら聴いていたものです。

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1252- ショスタコーヴィッチ 交響曲第5番 レナード・バーンスタイン ニューヨーク・フィルハーモ

2011-06-06 22:00:00 | 音源

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平林さんが制作したCDで、ツートラサンパンチではなく、その半分の規格の4トラック19センチの昔の市販オープンリールテープをCDに焼き付けたもの。
ライナーに一言作成経緯などの記述があって然るべきだと思うのだが、ない。かわりに玉木さんの小文が載っている。平林さんの昨今の活躍から言ってこのような企画があって不思議ではないので違和感はないのだが、一言あればなおよかったと思う。
ソニーから出ている1959年録音の同曲と同じ演奏。最初にLPで発売され、次にリールテープが発売され、それを手に入れられオリジナルとして作成されたCDだろう。7号規格でフォワードとリバースでそんなに大きなものではない。銀紙フォイルセンサー無しのオートリバースなしなので第2楽章が終わったところでLPなみに裏返すか、リバース機能があれば少しは楽。曲の長さのバランスが悪いとこれまたLPなみに楽章の途中で操作が必要となる。といったところか。
なぜマスターテープからではなく市販リールテープからのダビングなのか。そこらへんの詳しい情報もほしかったですね。例えばフルトヴェングラーものならば、使用過多でオリジナル・マスターそのものが劣化して、、、といった話がよくあったりするが、この1959年当時のマスターテープについてはどうだったのだろうか。やはり使用過多のオリジナルよりも高性能市販リールテープの方が作りも含め丁寧だったということなのか。それはありうる。自分でもそのような経験があるから。見事な定位をもった4トラ19センチを何本か持っていて愛聴していた時代はそんな昔の話ではない。
再生は結局今は、TEACのX2000Rを持っているが、最近はあまり聴かない。配線もやめている。アメリカ120ボルト仕様。昇圧機をかませば問題なし。一度日本でオーバーホールしたことがある。7万ぐらいとられたから腕時計の分解掃除なみだった。動くことは動くがリールテープの磁気の粉とかを一回ずつヘッドから取り払わないと速度が緩んだり再生音が変になったりする。とにかく面倒くさい。それがいいという人もいますけれど。
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ということで今回の平林さんの製作はCDなので非常に楽。それで音はどうなんだろう。聴いてのお楽しみ。びっくりするぐらい分解されていて特に低音のクリアな響きがすごい。それに高音のヴァイオリンの音も美しく、演奏のおそらく一発勝負的な雰囲気がよく出ている。足音などもリアル感あり。書くのはここまで。
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