河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2068- イェヌーファ、新国立、プレミエ、2016.2.28

2016-02-28 23:27:25 | オペラ

2016年2月28日(日) 2:00-5:10pm オペラパレス、初台

新国立劇場プレゼンツ
レオス・ヤナーチェク 作曲
クリストフ・ロイ ニュー・プロダクション
Originally produced in Deutsche Oper Berlin at 2012

イェヌーファ

キャスト(in order of appearance(たぶん))
1.コステルニチカ、 ジェニファー・ラーモア(Ms)
2.イェーヌファ、 ミヒャエラ・カウネ(S)
3.ブリヤ家の女主人、 ハンナ・シュヴァルツ(Ms)
4.ラツァ・クレメニュ、 ヴィル・ハルトマン(T)
5.ヤノ、 吉原圭子(S)
6.バレナ、 小泉詠子(Ms)
7.粉屋の親方、 萩原潤(Br)
8.シュテヴァ・ブリヤ、 ジャンルカ・ザンピエーリ(T)
9.羊飼いの女、 鵜木絵里(S)
10.村長、 志村文彦(BsBr)
10.村長婦人、 与田朝子(Ms)
11.カロルカ、 針生美智子(S)
合唱、新国立劇場合唱団
管弦楽、東京交響楽団
指揮、トマーシュ・ハヌス

(duration)
ActⅠ 44′
Int
ActⅡ 50′
Int
ActⅢ 31′


男二人のことはよくわかりませんが、シュヴァルツはフリッカで、カウネはアラベラで、ラルモアはロッシーニ、という感じで、自分の記憶に刻まれているわけです、まぁ、よく揃いも揃いましたね。年齢シーケンスも幅にちょっと難あれど役どころの通りとなっていますね。

このプロダクションは2012年に同クリストフ・ロイがドイツ・オペラ・ベルリンでお初披露したもので、2014年再演、そして日本に持ってきて今回、初台での「新制作」となったものとのことです。新国立のプログラムでは「ニュー・プロダクション」と英訳していますけれど、それは新国立の中だけの話となりますので、誤解される可能性がありますね。ベルリンで見た人は今回初台で観て、ニュー・プロダクションとは思いませんし。
初台のキャスティングはシュテヴァ役のザンピエーリ以外はベルリンと同じとのことです。(5人についての話ですね。)
よく揃いました。


音の前に幕が開く。音楽が始まる前に動きがある。コステルニチカ役のラルモアがいきなり出てくる。音楽は始まっていないので声も無い。始まっても彼女の歌はしばらく無い。
イェヌーファとおばあさんの会話から始まる。この最初の一連のシーケンスではコステルニチカは影のような存在だろう。

おばあさん - お母さん - 娘

これを最初に強くイメージさせる見事な演出だと思いました。音楽の前に動きがあるというのは、また、昨今はやりの、過剰演出がちょっとだけ脳裏をよぎりましたけれども、構図を見ているとなるほどと納得しました。
また、このオペラには観るうえで理解必須の前史があります。原作のプライソヴァーさんの物語は読んだことがありませんので、プログラムのあらすじに、比較的濃く前史のことを載せてくれているのは大変に良いことと思いました。

上の方から観劇しましたが、舞台は全幕通してシンプルなもので、左右、横幅の移動はあるが、上下は無く、奥行きもない。高さはこの高い舞台の半分も使っていない。また、この深い奥行きのある舞台のうち手前10メートルぐらいも使っていないのではないか。それ以外は真っ黒です。
小さくてコンパクトな舞台、席位置により観づらいのではないかという話にもなりかねませんが、じゃ、観やすい席で何か見えるのかというと、それもないと思う。特に何もないのですから。要は部屋の中での出来事メインで、むしろ、その閉塞感を出すための演出効果であると思いました。スペース的にも色彩的にも閉塞感の強いものです。部屋は横に広がったり縮まったりして、また終始明るい色彩が強調されていますので部屋以外全部黒とのコントラストが目に焼き付き、目に残像がずっとある感じ。


発話旋律、旋律曲線とは何ぞや、全くの不勉強で何もわかりません。言葉の意味と発する人の心の動き、そのようなものを自分の音楽にとりこんだということでしょうか。オペラに当てはめるとどうゆう話になるのか。全くの不勉強で。
オーケストラの旋律は伴奏ではなくて、声と同じウエイトで主張しているようだとは思いました。音の調による陰影はなかなか認識できない。調はあるのかという感じ。音楽がそれ自身で陰陽を過度に表現するのではなくて、自然なアクセントの声、会話を主体とした声の流れに音を、音楽が会話をなぞっていく。でも、あわせて別の声としての主張をしていく。そちらの方が色濃く出ているように思えましたけれども。まぁ、伴奏の域は越えていて、このオペラが会話だけで成立するかと言えば、一度このようなものを観てしまえば、もう無理と感じてしまいます。調和としての調はあまり感じるものではありませんでしたが声としての音ですね、感じるのは。
歌の後に音が出る感じ。
あと、字幕でしかわかりませんけれども、会話の言葉の意味が深い。意味のある言葉が出てくるので、ここらへん、ひとつずつの言葉をしっかりと(字幕を見て)頭の中に入れていかないといけないと強く感じました。

伴奏を軽く超えた主張の音楽の響きは、細かな刻み、何種類も何層もある音の刻み、等価音符のものもあれば、符点のものもある。リズムは執拗で、これら刻みは心の動き、心理状態をよくあらわしている。登場人物が複数であれば一つの音楽表現でそれぞれの人の心の動きを表すのは難しい。状況、シーンを表現しているといえるところもあるわけで、その両方を見事に表現していると言えるのかもしれない。
細かなリズムに呼応するかのように、シームレスな音の流れが曲線ストリームで流れる。ドライなリズミック旋律の合間であればそれはただ流れているだけでなく対としての自然なウエット感を思わせてくれるとこともある。
リズムと流れ。
マルティヌーの作品は、これは昔から書いていますけれども自分としてはミニマル風味を感じるところが多々あってそのような聴き方をすると飽きないというところもあってか、またウエットなあたりのところも顔を出したりしてフィリップ・グラスの音楽をいつも思い出してしまうのですが、音楽語法的に根差しているものは別のところからのものと思うので、実現されたものは割と同じに聴こえたりするものもあるものだ、と、結果距離の近さを感じたりします。そのマルティヌーは比較的聴き込んでいて、今回、このヤナーチェクのオペラを聴いて、マルティヌーとの近似性を感じた。強調路線のあたりは、マルティヌー越えのグラス・モード的な部分も。


1幕でのラツァによるイェヌーファへのナイフ。オペラ台本としての物語の起点。
2幕での赤ん坊事件と解決。この幕が一番長い。
3幕は赤ん坊事件の真相と慎ましやかな結婚祝いと決意。

2幕は長くて、ラツァとイェヌーファは予定調和以上に解決モードになっているので、3幕での劇としてのドラマチックな部分は薄まっていて、コステルニチカを中心にした心の動き。
そのコステルニチカについてはその3幕よりも2幕での弁。イェヌーファに、シュテヴァが金でけりをつけたいとか、傷物は嫌だとか言っていると、それは1幕、2幕前半に出てきた事実の内容であるにしても、ストレートに言い過ぎで、事実をありのままに言うことによる責任回避と自己弁護を強く感じる。ましてしゃべっている相手が娘なのに、と。
こんなことを娘には言わないのが普通の姿だと思うし、やっぱり、コステルニチカはそのような女、と、ロイの演出でも彼女のウエイトが高いことを書いてあるので、それはそう感じる。
言葉で傷つけるのは思ったよりイージーに出来るのかもしれない、コステルニチカほど自己愛が強すぎなくても。娘に対しても。

ペトローナ(コステルニチカ) × トマ
イェヌーファ × シュテヴァ

この悪い流れをコステルニチカはデジャヴュとしてイェヌーファのシチュエーションに感じる、これは原作の構図でしょうし、ロイの演出のインタビューにある通り、やっぱり、コステルニチカのウエイトが高い演出ですね。第1幕、音が鳴る前に彼女が出てくるのはよくわかります。いろんなセリフ、彼女がいう言葉が一番重いですね、全幕にわたり。

この2幕の登場人物は4人だけ。

コステルニチカ
イェヌーファ  ×シュテヴァ   ○ラツァ

場面転換はないが、
・イェヌーファの赤ん坊生まれ、
・コステルニチカがシュテヴァを説得、
・コステルニチカの赤ん坊事件、
・イェヌーファの失意
・ラツァのイェヌーファへの求婚
・コステルニチカの苦悩

といった流れで4人による心理劇が50分にわたり展開される。このオペラの白眉。
聴きごたえあるのは、イェヌーファの独唱アリア。カウネの圧倒的な声量と寸分の狂いもないきれいな斉唱、彼女が歌えばそれだけでドラマチックなものとなる。歌詞内容に完全に同化した劇的な歌はお見事。何も言うことは無い。

終幕は、パウゼが効果的に緊張感を高める。特に、民衆がイェヌーファを赤ちゃん事件の犯人として攻撃する中、それをとめるラツァの一言、そしてパウゼ。長い空白でした。劇がぐっと緊張感をはらみました。
コステルニチカ役のラルモアがその透明感あふれる声で赤ちゃん事件の真相を告白。
そして、ラツァとイェヌーファのエンディング、カウネの圧倒的に劇的なリリコスピントが山を作り強烈にスーッとあっという間に高みへ、両名後ろ向きに進行しつつ、オーケストラはここにきてものすごい盛り上がりとなり頂点に達し、幕。
この幕は、劇、歌、ともにオペラティックなほうが勝っている幕。ドラマとしての劇性は2幕の方が頂点で、この3幕ではおさまりつつある劇性をオペラとしての音楽でカバーしていると感じる。


シュヴァルツは昔のように滑らかで声量も豊か、カウネはドラマティコの勢い。このお二方の声量は桁違いですね。
ラルモアは声量で聴かせるのではなく透明感。きれいに響く。この役どころにジャストフィットかどうか、ソプラノ役をメッゾが歌ったという部分もあります。役としては別の歌手でのコステルニチカも聴いてみたいとは思います。このオペラでは一番キャラクター的要素の濃い役ですからね。歌い手によるバリエーションも楽しめそうな役どころです。

男2人はどうか。
切り付け役のラツァは最初、白のアンダーシャツにサスペンダーといういかにも20世紀オペラ演出風味満載の格好で出てきました、これは演出ですので歌とは関係ありませんが、まぁ、男側の主役という感じはする。
このラツァ役、ヴィル・ハルトマン、本日一番の拍手でカウネ以上でした。自分としては女3人衆のことばかり聴いていたので、よく聴いてなかった、と思う。
シュテヴァ役のザンピエーリは身体の割には比較的俊敏に動く。息も切れていない。ジークフリートをたくさん歌っていますね。今回はちょい役レベルだと思われます。

新国立の合唱は強靭で、このオペラをグッと引き締めておりました。

指揮のハヌス、大柄です。もちろんこのオペラの専門家と思われます。
東響を鳴らしてドライブする指揮はあまりにも素晴らしくて、あの刻みとストリームの表現の多様性と正確な作り。ダイナミックにして滑らか。パワーとデリカシー。完全に応じるオーケストラ、いうことありません。秀逸な演奏となりました。

以上、このような、世界最高峰のキャストと内容の上演を、プロのレヴュアーが即日、英語で発信できる仕組み、システムが国内にあればいいですね。残り4回の上演。はせ参じる人も多くなるに違いないと。

本日は素晴らしいオペラをありがとうございました。
もう一回ぐらいは見たいですね。
おわり





 


2067- チャイコン、美歩、展覧会の絵、ブランギエ、N響、2016.2.26

2016-02-26 23:19:17 | コンサート

2016年2月26日(金) 7:00pm 東京芸術劇場

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調  19′、6+10′
 ヴァイオリン、アラベラ・美歩・シュタインバッハー

(encore)
イザイ 無伴奏ヴァイオリン‣ソナタ第2番第3楽章 4′

Int

ムソルグスキー=ラヴェル 展覧会の絵  33′

(encore)
ドヴォルザーク スラヴ舞曲第1番  4′

リオネル・ブランギエ 指揮 NHK交響楽団


美歩さんもブランギエさんもお初で聴きます。
都民芸術フェスティバル参加公演という出し物のひとつですね。都知事の弁によると今年48回目の祭典とのこと、知りませんでした。横聴きしません、縦聴きしかしなくて。このフェスティバルの名前もお初でしりました。チラシ見てますとこの前のイルトロもそうだったんですね。
色々なホールのサイトを眺めていると、主催公演とホール貸しを分けて書いてあって煩わしいことが多々ありますけれど、あれを思い出してしまいました。

チャイコンはコンパクトにまとまったものですきのない演奏。美歩さんのヴァイオリンというのは弾けば音が出るというようなところがあって、余計なものを付け加えない、きれいに奏でられたコンチェルト。音価レングスが少しまちまちなところもありました。
サポートするオーケストラもコンパクトな編成でこちらもきれいなハーモニーで聴かせますが音がでかい。ヴァイオリンソロには不向きのでかいホールですね。

展覧会の絵は、派手でなくシックな装い。
ブランギエさんは長身で身動きが軽そう。強引なところがなくてオーケストラのサウンドバランスを冷静に組み立てている。ダイナミズムを何層も持っていて、表現の厚みが段階的に変化するのを明瞭に聴き取れる。ナチュラル‣コントロールな棒。
オケをドライブするといった概念は別世界の話であって、三角錐の音場が見事に出来上がっていてハーモニーが美しく響く。ベースの主張が濃い、柔らかで言葉のような響き具合だったのが印象的。
きれいなハーモニーで聴かせてくれた展覧会でした。
さらに活躍の場が広がっていく指揮者でしょうね。
おわり


2066- フランク、ラヴェル、タロー、チャイ5、イェンセン、新日フィル、2016.2.25

2016-02-25 23:08:26 | コンサート

2016年2月25日(木) 7:15pm サントリー

フランク 交響的変容  15′
 ピアノ、アレクサンドル・タロー

ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調  8′9′4′
 ピアノ、アレクサンドル・タロー

(encore)
スカルラッティ ピアノ・ソナタ K141 、第1楽章  4′

Int

チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調  14′+13′+6′+11′


エイヴィン・グルベルク・イェンセン 指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団


タローさんはお初で聴きます。
前半2曲ピアノを聴けるというのはいいことですね。
フランクの作品はこの作曲家が自分の中に入っていってしまったようなもので、なかなか聴く機会がありません。ラヴェルの前にこうやって聴けるのはラッキーです。
この曲はオーケストラもピアノも線のイメージ。いつになく引き締まったオケの伴奏のもときれいなピアノが響く。細身長身のピアニストで、デリケートで細部強調型のように聴く前は感じましたけれど、そんなこともなくて、スタッカート風に音がスキッと切れ味鋭く、余計な残響を音楽としない。歌いだしが細やかに始まるといったわけでもなくて、続く音の響きと同じ厚さの音が最初から響いてきます。ホロヴィッツをちょっと思い出しました。音がつながっていって一つの線のように感じる。オケも同質な表現を魅せていて、それぞれの線が美しく響きました。
私の席は前のほうですが、以前ほかのピアニストの演奏の時も書いたのですけれど、近過ぎてオケは全部は見えませんが、ピアノの開けたふたの裏にピアニストの動く両手が映ってよく見えるのです。

ラヴェルは何度も聴いていて、でも何度聴いても面白い。飽きませんね。伴奏のオーケストラのトリッキーな面白さがありますし。
デリカシーに富んだピアノとは別。きわどい。すごく微妙なバランスで。一つバランスを崩すと全部壊れてしまう。一本の線の上に乗っているような演奏。壊れそうで壊れない、崩れそうで崩れない、スリルといいますか、ちょっと共感するところがあります。
両端楽章はオケとピアノがそろわないところがあって、これは両者の呼吸が違う、スリルのフィーリング具合がもう、違う、何度やってもそろわない気がした。それはそれとして、アダージョ楽章の淡々とした美しさ、フランクで感じたものがここにもある。フレーズの頭に特に籠めるわけではなくて、そのあとのフレーズと同じ感覚で最初から弾いていく。淡々と。
音の粒がポロリポロリと鳴り、一個ずつ独立していてそれでいて音楽がつながっていく。あまり聴いたことのない響きですね。余計な余韻の抑止。
ベートーヴェンのピアノ‣ソナタをこのような響きで聴いてみたら素敵だろうなという思いが湧いてきました。スキッとした奏法があるのかどうかわかりませんけれども、ペダルの多用とも違うような気もしまして。
ダイナミックレンジを無理やりとらなくても、線の中にひとりでに浮き上がってくるような演奏でした。素敵なピアノでした。
アンコールのスカルラッティ絶品でした。比較的長めな楽章で彼の得意な部分じっくりと聴かせてもらいました。


後半のチャイ5はテンポ揺らし過ぎで強弱つけ過ぎ、いわゆるデュナミークとアゴーギクを、それ自体を目指したような指揮ぶりで、どうなっちゃってんのかな、と思いつつ、でもこれだけユラユラなスタイルを表現したオーケストラも割とすごい。あの棒によくついていきましたね。ギクシャクなところはあまりありませんでしたし。まぁ、過激な棒で、シンフォニーの表現スタイルというよりも、棒一本によるオペラ振り。全4楽章つなげて振ってしまうあたりにもそんな感覚を感じます。面白い演奏でした。
イェンセンは昨年、新国立でトスカを振っていて、そのときはダイナミックレンジはやたらと濃いが、ユラユラ感はあまりなかった気がします。シンフォニーでなぎ倒そうとしたのかもしれない。別になぎ倒さなくてもいいのだが、オペラでできないことをやろうとしたのかもしれない。
おわり

(参考)
2016- トスカ、初日、新国立劇場、2015.11.17


2065- モーツァルトPfcon23、ブルックナー9番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.20

2016-02-20 20:12:55 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月20日(土) 2:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488  11′7′+7′
       (カデンツァ:モーツァルト)

(Encore)
モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番第2楽章ハ長調 K.330 5′
モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番第3楽章ハ長調 K.330 4′

Int

ブルックナー 交響曲第9番ニ短調WAB109  24′11′25′
       (ノヴァーク版)

ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


この日、千秋楽も完全空白実現。

アダージョ楽章の弦の湧き上がり方は類を見ない。今まで聴いたこともないような表現で、何もないところからすーーぅと音が出てきて、そして力を増してくる。忍び寄るような雰囲気でいつの間にか耳に入ってくる。バレンボイムの棒とこのオーケストラでしか成しえないようなもので、陳腐な言い方なれどライヴのあの場でしか味わえないものだと思う。角があるとかないとかといったレベルを越えていて、空気の波動が無から変化が、少しずつ揺らぎが発生していくといったフィール。言葉にならない響きの美しさ、比類の無いものだと思う。
1番から随所にこのような表現がまき散らされておりましたけれども、この9番のアダージョは、無からの音の出具合とシームレスな流れ、極上でした。声にならない。
当然、経過句の味わい深さは絶品で、それ自身、まるでワーグナーオペラの場面転換でも聴いているような錯覚に陥る。味わいが濃い。バレンボイムは、ほかの指揮者がすっと通過してしまうフレーズを丹念に振る、逆にジックリの聴かせどころをすぅっと済ませてしまう、みたいな話しはありますけれど、そういった事というのは、このような表現の受け手側の感じ方に起因した物言いのように思えるのです。今日みたいな演奏を聴くとその思いを強くします。ワーグナーでも同じですね。
こういった響きの移動は突き詰めますとフルトヴェングラーの後継という思いはあります。

1番から全部聴いて色々と書いてきましたので、もう書くことはありませんけれど、発見はいくらでもある感じ。文字通り発見です。そこにあるのに分かっていなかったことが自分の前に現れてくるのですからね。

ニ短調シンフォニーは3番と9番、9番のほうがはるかにやにっこくて、カオスをより強く感じる。9曲の中で一番カオスを感じる。多用される不協和音はそのようなことを増す要因になっているし、楽章の構成感はほれぼれするしバレンボイムの造形も見事なものでしたけれども、作品自体がどこに向かうのか混沌としている。第1楽章の弱音終止のインパクトは大きいですね。それに8番同様スケルツォを2楽章に据えた。3楽章がアダージョでよかったというのは未完成作品であることを念頭においたものでそれなりにわかりますけれど、それやこれや全部含めても、3楽章まで聴いて4楽章がまるで浮かんでこない。このカオスを解決できる第4楽章なんて書けるんだろうかという思い。
特に第3楽章の最後の清らかなコーダよりもむしろその前の混沌とした響きの世界がブルックナーがやりたかったことではないのかと、これまた、現場で強く感じた。清らかエンディングに話がいきやすいのはロマンティックに過ぎる。
バレンボイムのあまりの素晴らしすぎる天才棒に唖然とします。問題提起されて終わった気もします。巨人の作品を世界最高峰の指揮者とオーケストラが完ぺきに演奏し、それでもなお、放り出されたような感覚。
ブルックナーは頭の中に、急がない、答えを持っていたのだろうか。


バレンボイムのブルックナーはやればやるだけ奥が深くなり、ベルリン・フィルとの全集は今回のサイクルで完全に色あせたものとなった。あれを今更でも聴くのは今回の思い出確認のため、ぐらいのレベルかもしれない。

拍手は15分も続きました。完ぺきなエンディングと完ぺきな聴衆による空白。そして熱い拍手とブラボー、サイクルへの感謝もありますね。
一般参賀あり。

今回のサイクル中、聴衆の音楽への圧倒的な向き合い、指揮者とオーケストラも強く感じたと思います。なにしろ一度としてフラブラもフラ拍もありませんでしたから。
完全空白の実現。ブルックナーもこの日本の聴衆に大満足し天国で狂喜しているに違いない。

それから、このオーケストラは手兵ですから当然といえば当然ですが、メンバーによる指揮者への迎合足踏みがサイクル通して一度もありませんでした。そんなことはこっちも忘れていました。そんな世界ではないんですね。国内指揮者のにやけた笑い棒も含めて、彼らの爪の垢を煎じて飲んでほしいぐらいです。にやける前にすることは山積みなわけですから。

9番の保有音源は79個です。
初めて買ったのはロジェヴェン&モスクワRSOのLPでした。第2楽章途中でひっくり返さないといけないあれですね。A面からB面へ、あすこでの裏面セット、正解とは思いますが。


前半のモーツァルト絶品でした。美しい、きれいなピアノの音が次から次へと。バレンボイムもこのサイクル、最後の弾き振りと言うこともあり殊の外リラックス。終楽章へはアタッカではいり、弾みも増してくる。ファインな演奏。
サイクル中これまで無かったアンコールまで、2ピースをサービスで。生き生きしておりました。音楽が生きている。これですね。


バレンボイムの偉業を見るにつけ自分のさぼり具合をあらためて感じる日々がしばらく続くかもしれません。バレンボイムはこれからも進化を続けていくでしょうし、ここでまとめの話は無いですね。
素晴らしいサイクル、ありがとうございました。
おわり


2064- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.19

2016-02-19 23:36:28 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月19日(金) 7:00pm サントリー

ブルックナー  交響曲第8番ハ短調WAB108  16′15′26′23′
        (ハース版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


ああ、、なんというか、もう、確信に満ち溢れた音がホールに充満。言葉にならない。声が出ない。

コーダ、ハイテンポにチェンジ、思いっきりハイテンション。重戦車が軽々と前進前進。指揮者のオーラ全開。
チェロとベースは一体化し、強靭、強烈。圧倒するもの凄いサウンドでユラユラと揺れ動くさまは醍醐味どころの話ではない。高弦は水を切る美しさと束ねられた強靭な手応えでブラスをも押し黙らせる勢い。このバランス感覚。そしてウィンドの空中に弧を描くような冷静にして美しいハーモニー。
猛速コーダで全主題を絡めて奏するさまは驚天動地の作品だというのがよく分かった。音色同一のホルン軍がスケルツォのふしを奏でる中、トランペットとトロンボーンが刻み、そのあまりの速度に圧縮して極端に短くなったトランペットの瞬間高音2個はあっという間、コーダ頭の上昇フレーズはここで一気に下降ラインを描きはじめ、執拗な下降フレーズを繰り返しつつ、バレンボイムが足を広げ、両腕を前に垂らしながらブルブル震える。そして少しテンポを緩め圧倒的な沈黙へ。
光り輝くブラスセクション、磨かれたガラスのようにきれいな音で太く強く。ブルックナー狂喜のスペシャル・サウンド。全楽章の圧力がここにきて開放、極致です。

バレンボイムのうなり声は6番のときが一番でかかったが、この日も負けじと、アダージョ楽章後半、クライマックスに向けてうなる、うなる。響きバランス越えの重力マックス、そしてホルンの静寂コーダへ、どれもこれも美しすぎる音楽のため息が次から次へと現れてくる、もう、バレンボイムの神業か。
終楽章もよくうなった。第1、3主題のブラスの咆哮、圧倒的。弦の克明な刻み。核心を感じさせる力強さ。そんな中、ううーう、うなり音楽をさらに燃焼させていくさまは、これまた圧倒的。もう、やっぱり、言葉にならない。


この日の演奏は、前日の川崎の公演と比べると全体で約5分ほど速くなった。場所の響きとテンポの関係もあると思いますが、1番からずっとサントリーホールで聴いてきたので、この日の8番のほうが落ち着くし、指揮者やオーケストラも公演通してなじんでいると思う。昨日の今日、両方とも凄いもんですが、全集としての一体感ということではサントリー公演。

昨日との違いを感じたのは、即興性とまではいかないかもしれませんが、例えばこのオーケストラと長年リハ等でバレンボイムの出す信号、例えば唇に指をあてた時の静寂指示といったことが、メンバーの身体に皮膚感覚としてしみついていて、リハで無かった指示にも正確に反応できるということ。このようなことはどこのオケでも指揮者でも仕事上の保有スキルとしてあるものだとは思いますけれど、さすがに同曲で前の日と違ったりすると戸惑いの反応あってもおかしくないと思います。
アダージョ楽章でのバレンボイムのコントロールは濃淡を極めていて、前日以上にそうとうディープ。信号を完全に理解して奏するオーケストラの能力が大したもんです。指示が前の日と違っていても、まぁ、聴くほうはハッとするわけですが、何事も当たり前のように反応していく。音楽が生きていることを実感させる瞬間が多くありました。

あまりの素晴らしさに声にもならない。
ありがとうございました。
おわり


メモ
この日はほぼ満員の入り。一般参賀1回あり。パラパラは少しありましたがフライングは無し。強烈なブラボーは静寂のあとで。
8番の保有音源は95個です。


2063- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.18

2016-02-18 22:45:49 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月18日(木) 7:00pm ミューザ川崎

ブルックナー  交響曲第8番ハ短調WAB108  17′17′27′24′
        (ハース版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


ざっくり書くと、サイードとのトーク本にもありますが、バレンボイム9才の1952年にザルツブルクでマルケヴィッチによる指揮クラスを受けていて、クラスのコンサートでピアノを弾く、そして、フルトヴェングラーFのオーディションを受けたらどうというエドウィン・フィッシャーの言でFに会いテストされ、Fからベルリン・フィルと共演しないかと持ちかけられたが、戦後まもない時代で、ユダヤ人家族、共演困難で、Fは色々他の指揮者たちに手をまわしたし、1954年のカラー映画ドンジョのリハなども見ていて、バレンボイム自身、Fへの共感、理解は相当深い。
Fはその1954年に68才という若さで散ったが音楽シーンでは知る人たちが多くいたわけで、かなり詳しいし共鳴度も他を圧倒的に凌駕している。
平衡に至るにはパラドクスと極端さが必要、カタルシスを音楽で達成するには極端さがいる。テンポのゆらぎの意味、並外れた強弱。といったF哲学はFが書いた本を読むしかない、それと残された録音。Fが書いた本を丹念に読み進めていくうちに、録音を聴いていくうちに、あらゆる指揮者が行おうとしていることをFはすべて内包しているように思えてくる。換言すると、この指揮者はこうだ、別の指揮者はこうするといったスタイル、それはFが行っている表現の一つずつでしかないと思えてくる。
まぁ、見た目の指揮も含め過激で極端過ぎて叩かれやすい部分もあるわけですが、同じような指揮者にチエリビダッケなどもいて、またバレンボイム自身も同じ目にあったりと、でも彼は彼らと同じ範疇にはいることを誇りに思っていると語っているので、そもそもの同質性の高さがうかがわれるわけです。
ちょっと付け加えると、このサイードとのトーク本はほかにも面白いところが山盛りで、ワーグナーのアコースティック、ワーグナー自身が考えて実現したアコースティックですね、もちろんテンポや厚さも含んでの話になりますが、ここらあたりは面白さの白眉ですし、この部分にFの話は出てきませんが、F哲学を完全に理解し意識したトークのように感じる。
ワーグナーの上演に関しては「バイロイト」のパルジファルの話が、アコースティックも含め興味深いものです。

それで、沈黙から始まって沈黙に終わる一連の行為は一度しか現れない。同じ作品でも毎回異なるもの。そんな話が色々とあるわけですね。

8番フィナーレ弱音導入から爆発アウフタクトで始まるコーダ、全く肩の張らない気張らない何かするっと入っていく殊の外すんなりしたものでした。すんなりしたバレンボイム棒の通りにオーケストラがやったという感じ、この日は。
クライマックスのコーダはどこからかという話は、この前(2016.1.21)聴いたミスターSの同曲の演奏会感想にも書きましたけれど、終楽章のコーダはここのところからと思うのですが、全曲のコーダはその前、再現部最終の第3主題3sが奏している中、突然、第1楽章第1主題がフォルテッシモで中断炸裂する箇所、あすこではないかと思うわけです。全曲のコーダというのは妙な言い回しですが、バレンボイムの棒を観て聴いてその思いを改めて強くしました。
4楽章のコーダは7番同様ハイな速度でもっていきました。Fはこれをもっと過激にしたものですがスタイルとしては同質ですね。バレンボイムは最後少しテンポ緩めますが、このあたりは現代の聴衆の雰囲気を皮膚感覚で察していることによる配慮ではないかと感じます。1番からずっと聴いてきて最後の一音の念の入れよう、押しの強さはそれまでの音価レングスに比して計算に合わない長いものとなっているのは、だまらせる意味合いもあるのではないかと思えるふしがあります。まぁ、あの、なで斬りとなったミスターSの圧倒的短さはこれはこれでスタイルですね、十分な。


今回のブルックナー全集大体同じような音の入りです。どの楽章のどの主題でも一音目が柔らかい。アインザッツとかアタックといったことを思い起こさせるような世界とはかけ離れているもので、というよりもそのようなものを意識して排除しているように聴こえます。長年同じコンビでプレイしているし、指揮者、オケどちらがどうだということもないような気がしますけれど、両者同じベクトルであることは間違いない。非常に柔らかく入念にアンサンブルとしての周りの音を聴きながら入る、全員そうですからこのアンサンブルの凄さは帰結のように聴こえてくる。凄いもんです。経過句も同じように推移していくので、しびれっぱなしです。
ここらへん、前よりも入念さが増しました。全体的に極端にスローなテンポでもないのに、全曲にかかる時間が比較的長めなのは、この入りの入念さが増したからです。この一音目の大切さは、音楽は沈黙から始まり、そのことの連続、そしてまた沈黙がくる。バレンボイムの言を俟たずとも明確にわかるところでもありますね。
音楽はなにかの表明でも存在でもない、生成であって、どのようにしてそこに至り、どのように去るのか、あるいは、どのように次のステップにトランジットするのか、そういったものだ、Fの言葉の通りです。

音の浸透、と自分では感じています。十分な時間とか深さとか色々と思い浮かびます。


この日は、一連のブルックナー演奏をしているサントリーホールではなくミューザ川崎。とぐろを巻いたような妙なデザインの客席、3階の横位置で聴きました。観づらい席で失敗買いでした。音はきれいに、よく響いてきました。
客席は85~90パーセントぐらい。フライングではないが余韻を楽しめない早めの拍手、このせっかちな拍手、なんだか、感動の拍手というより、曲や演奏の中身に関係なくぞんざいな拍手のように聴こえました。これまでのサントリーでの拍手とは少し違っていました。

8番の保有音源は95個です。
おわり


2062- イル・トロヴァトーレ、二期会、バッティストーニ、都響、2016.2.18

2016-02-18 18:00:00 | オペラ

2015年2月18日(木) 2:00-4:50pm 東京文化会館

東京二期会プレゼンツ
ヴェルディ作曲
ロレンツォ・マリアーニ プロダクション

イル・トロヴァトーレ

キャスト(in order of appearance)
1.フェランド、清水那由太(Bs)
2.レオノーラ、松井敦子(S)
2.イネス、杣友恵子(Ms)
3.ルーナ伯爵、成田博之(Br)
4.マンリーコ、城宏憲(T)
5.アズチェーナ、中島郁子(Ms)
6.ルイス、大野光彦(T)

二期会合唱団
東京都交響楽団
指揮、アンドレア・バッティストーニ

 

(タイミング)
第1幕 28′
第2幕 41′
Int
第3幕 25′
第4幕 39′


やっぱり、前作のリゴレットに比べて物足りない作品。ドラマチックなものと静寂、悲哀、のあたりですね。
重唱、ソロ、聴きごたえありました。みなさん非常に大きく通る声でクリア。直前で2人ほど歌い手の変更があったようです。
舞台はシンプルです。緞帳を本来の役目としての幕とストーリーの上での役目と両方にあてているのが印象的。
指揮のバッティストーニは、終始舞台を観ながらの指揮でオペラ棒です。
歌い手たちのフレージングまでコントロール、オーケストラをドライヴする。ただ、歌わないオケで、バッティストーニは大きく腕を広げながら促すも反応がない。テンポのドライヴにはついていっているのにと少々残念。
おわり

 


2061- パーヴォ・ヤルヴィ、ブニアティシュヴィリ、N響、2016.2.17

2016-02-17 23:47:36 | コンサート

2016年2月17日(水) 7:00pm サントリー

シュトラウス  変容  25′

シューマン ピアノ協奏曲イ短調  15′5′9′

 ピアノ、カティア・ブニアティシュヴィリ

Int

シュトラウス ツァラトゥストラはかく語りき  33′


パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 NHK交響楽団


シューマンをシュトラウスでサンドイッチ。30分ロングのプログラム3作品。手応えありますね。
真ん中のシューマンは噛むほどに味が出るいい曲です。ピアノのカティアさんは、演技派で表情豊かすぎ胸ありすぎ髪ありすぎで、頻繁に顔全体がモップのような多量の髪で覆面のように覆い隠される。本人からはまわりが見えていると思いますが、周りから見るとどこに顔があるのかわからなくなる。あと、指揮者とのアイコンタクトありすぎ。
独奏部分のテンポを極端に落とすピアノで、オケパートとの協奏のテンポとは別物で別の曲みたいになる。これだけ違うと聴くほうも開き直りですが、やりすぎですね。
中身がどうなのかという話でいうと、なんでこうなるのかその根拠というか何に根ざしてこのような演奏となり何を表現したいのかいまひとつわからない。アルゲリッチを敬愛とありますから、なるほどそういう見方をするとそうかもしれないとは思いますが、そのようなことは皮相でなければいいなと少し杞憂しました。オケとはかみ合いわないのでリサイタルを聴いてみたいものです。

シュトラウス前半の変容。きっちり23人×2=46人での演奏。
ベースが6人、10+10+10+10+6の配置。
各パートも分離したりまとまったりで弾いていますので、強弱は見た目以上に濃い。オーケストラを聴く醍醐味ですね。
ヤルヴィは劇性を排しているというか、意識して排しているわけでもないと思いますが、そういったものは美学が違うのかどうか、かといって、すべるような角のとれた滑らかな演奏というわけでもなくて、音楽の表情はモノローグ、といった雰囲気。タクト弱起の4拍目ですぐに次のバーの準備にかかってしまうところが気になります。音楽の呼吸という点で。

ツァラは盛大な鳴りの曲の割にはしりつぼみで、まぁ、中身が透けて見えるということもあるし、しぼんでしまった。ホールの盛り上がりもいまいち。
ブラスセクションのソロパートは相応でしたが、アンサンブルで音が汚れているところがたびたびあって、フレーズが進むごとに、その次のフレーズもそうなるのかな、といった心配も出てきてしまいました。オーケストラ演奏というのは配置で分かるように奥行きのあるものですから、そういうことを意識した音の立体感、奥行き感がほしい。深彫りしていくタイプではないと思われるし、バランス感覚、平衡感覚の決まった演奏を聴いてみたいものです。
おわり


2060- ブルックナー7番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.16

2016-02-16 23:23:08 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月16日(火) 7:00pm  サントリー

ブルックナー 交響曲第7番ホ長調WAB107  21′21′10′13′
       (ノヴァーク版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


完全な空白、素晴らしい。
名状しがたい追い込み、そして完全空白。あまりの素晴らしさに頭がクラクラする。ブルックナーの神髄ここに極まれり。
しびれました。

フルトヴェングラーFもあのようなオーケストラ・ドライブで鳴らしたのだと思うと胸が熱くなった。
Fもバレンボイムも即興だとはいいません。あのような味付けは普段のリハーサルからしていて、本番でそれがさらに過激になるのだろうとは推測します。

終楽章フィナーレの再現部、バレンボイムはここからアクセルかけがらりと様相を変える。チリチリするスピードで追い上げそしてブレーキを少しだけおいてコーダへ突入。このテンポ。再現部よりさらに加速し続け乱れなく上昇エンド。Fを見ているような錯覚に陥ってしまった。両足を広げて指揮台の中央、両腕を斜め前下にぶらりと下げてぶるぶる振る姿、これはもはやFではないのか。Fが現れた。
コーダをあのような快速テンポの指定をする指揮者はほとんどおりませんですね。7番は5番や8番の下降音型エンドではなく、第1,4楽章ともに上昇音型で消える。第1楽章のコーダは天国的な装いで雲を突き抜け晴れ間を作って終わるのに対し、終楽章のコーダはそれに対するかのように運動を繰り返し、天国への階段をあっという間に登って行ってその高みに消えていく。唖然とする表現。この対の素晴らしさを最高の棒で聴かせてくれるのがFであり、そしてこの日のバレンボイム棒であったという話です。いやぁ、凄かった。声にならない。
駆け上がった階段音型はあっという間に抜けていってどこに行ってしまったのだろう、声にも拍手にもならない。ただ長い空白があるだけ。
しびれました。

7番にして初めて見せたバレンボイム屈指の表現。ワーグナーならもっとエキセントリックな表現が彼の場合、そこここに転がっているのですけれど、シンフォニストとしてもその神髄を垣間見せてくれたわけです。


第1楽章の第1主題1sと第2主題2sは、ほかの曲に比べて同質性が際立っている。1sが流麗なメロディーラインが主体になっているので、2sの他シンフォニー同様なしなやかな流れとの区別が律動という観点で見ればあまり変わりのあるものではないため、いつの間にか主題が推移進行している。この曲の場合むしろ2sのほうが少しだけ運動を感じさせてくれる部分もありますね。第3主題3sは前2主題分をまとめて反対にしたぐらいの激しいリズムとなっていて、これら対比は際立っています。
このオーケストラの弦の表現力というのは多彩なニュアンスと力強さ。それと、バレンボイムはにやけない指揮者ですけれど、このオーケストラは弦を中心に演奏でも出番がないところは隣と話ししたり、楽しそうな雰囲気の笑いとか比較的ありまして、バレンボイムに叱られないかこっちが心配になるぐらいですが、日本のオケだとにやける指揮者と笑わないプレイヤーみたいな感じで、それとは真逆の面白さがありまして、これが何に起因するのかわかりませんが、むしろ、結果であるような気がします。それで、そのようなプレイヤーたちの生きたサウンド、特に弦の芯の太さといいますか手応え感満載のグイーンとくる響きが1sと2sで違った色合いとなりその推移も含め鮮やかなんです。表情の違いがよくわかるオーケストラの響きです。
コーダ関連でいうと、第1楽章のコーダは同楽章1sのフレーズ、第4楽章は同楽章1sのフレーズをそれぞれ引用したメロディーラインですから、バレンボイムとFが魅せた最後の部分のエモーショナルな棒というのは、ここに起点があるわけです。生成時点で昇華が見える作品で、その配置を見事に表現した演奏行為だったわけです。ですので、両楽章の1sはしっかりと把握しないといけませんですね。
ちょっと話がそれてしまいましたが。

展開部における主題の混ざり具合もいいもので、提示部でのオーケストラの表現力がここでもよくわかります。本当に多彩なニュアンスが魅力的です。バレンボイム棒にぴったり反応するあたりも凄いです。
そのあとの再現部、コーダの進行も含め、この第1楽章の造形は完ぺきと感じます。流線形とリズム、2:1ぐらいの比でしょうか。これらも含め最高のバランスですね。バレンボイムの見事な棒です。

第2楽章も弦の歌は第1楽章と同じく濃いものです。ブルックナーのため息を聴いているようなおもむきで深い味わいです。バレンボイムは主題の滑らかな歌と経過句とも言えないぐらいの小さなフラグメントも見過ごすことなくじっくりと聴かせてくれて、これまでの演奏会でも聴かれた随所にあるピアニッシモからの息をのむような静かなクレシェンド、効果的です。
シンバルとトライアングルを含んだクライマックスは何が何だか分からなくなるような音響バランスを感じさせました。
前日6番で1番吹いていたホルンの方、この日はワーグナーチューバの1番。安定した吹きと、ホルン同様、この4人のワーグナーチューバの音の同質性も見事です。バレンボイムは綿々と葬送の深みにはまらず、このアダージョ楽章は第1楽章と同じぐらいの時間経過で終わりました。

スケルツォの機動性がこれまたいいです、ベースは腰掛に座ったままの弾きで、みなさん、まるでチェロでも抱えているような自在な弾きでぐいぐいきます。音量的なボリューム感はチェロとベースの一体感を強く感じさせるもので強烈なサウンドです。ブラスに絶対に負けない。トランペットがこの楽章ちょっとだけ不安定になりました。きれいな音ですのですぐにわかりますね。
スケルツォの分厚い滑らかさはシンフォニーを聴く醍醐味。

フィナーレ楽章についてはたびたび書いておりますが、他楽章にバランスしない短さです。これだけが難点ですねこの7番。
展開が足りないというのはありますが、そもそも提示部の各主題がどれも短くて、もうひとひねりほしいもの。あっという間の3主題なんです。
ということでそのへんの話はやめます。
この展開部以降の凄いところは、ブラス強奏の咆哮のあとすぐに弦のピアニシモがあったりして、それがこのオーケストラだと弦のニュアンスにすぐに耳を傾けたくなるモード切替で、バレンボイムのニュアンス棒がお見事というほかない。
あとは、最初に書いたとおりです。


この7番、忘れ難き演奏となりました。懐古趣味と言われそうなところもありますけれど、Fの音が生で聴けたような、たとえそれが錯覚の幻であっても、満足です。

この日は9割がた席が埋まっておりました。最初に書いたようにこの日も見事な空白、フライングなしの気持ちのいい演奏会でした。

7番の保有音源は91個です。ウィーン・フィルの演奏がシームレス感ありでいいですね。ベルリン・フィルのはFとバレンボイム、それにヨッフムぐらいでしょうか。
おわり


2059- モーツァルトPfcon22、ブルックナー6番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.15

2016-02-15 23:04:39 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月15日(月) 7:00pm  サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482  14′10′11′
       (カデンツァ:ダニエル・バレンボイム)

Int

ブルックナー 交響曲第6番イ長調WAB106  16′17′9′13′
       (ノヴァーク版)


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


前日の5番では概ね16型、倍管で、ウィンド、ブラス、ティンパニ、圧巻でした。今日の6番は通常に戻ったとは言うものの16型はそのままで、ステージに芯があるようにまとまった弦の配置で見た目だけでも十分な迫力。弦の圧倒的な存在感を感じます。
まぁ、その5番までで音響は空前絶後に行きつくところまでいってしまって、6番はどうなることかと余計な心配は杞憂と終わり、曲想通りの手応え、気持ちクールダウンの引き締めモードの緊張感も格別。

第1楽章は刻みのあるリズミックな伴奏に合わせ低弦がいきなり歌い尽くす。バレンボイムは大きくうなり声をあげ、グインとあげられたテンションは太くしなやかに進行、そしてもう一度大きく声を張り上げる。この入れ込みようは一体何なのか、と、こちらが驚く。
ハンカチ振り、汗ぬぐいも終楽章で少し見せただけで演奏中はありませんでしたし、だいぶ深く共感している模様。はたまた、あまり人気のない6番、ここでオーケストラを緩めてはいけないと大芝居かもしれない。出し入れ、無限の引き出し、自由自在な彼のことですから何でもできる。
第2主題2sは歌、前半ピチカート、後半流麗、5番の雰囲気と7番の先取りフィーリングの両方を感じ取れますね。まぁ、歌だが聴きようによっては縁(ふち)だけの旋律のような気もするが。
ブルックナーは実験というには大それた話ですけれど何かこう、新たなことを摸索しているように、この曲を聴くと感じます。
隙間無く第3主題3sに。ブラスの咆哮は上にめくれていくような感じで、ちょっと話が違いますが、全日本の吹コンに出てくるツワモノ校はこのような音出しますね。強奏が全くうるさくなくて、束で、かわら屋根のしなり、という感じ。

展開部は終楽章もそうですが、再現部と混ざっていて、これまでの雰囲気とは少し違う。聴き方変えないといけない。展開部の味わいはこの楽章、終楽章ともにいい雰囲気で、その雰囲気保ちながらストレートに再現部に行くので上昇進行のようなおもむきでこれまでの作品のような腰の据わった印象というのではなくて、まっすぐ。休止もあまりない楽章でなおさらそういう感じがします。

次のアダージョ楽章を聴きますと、バレンボイムのあの入れ込みようは本物と、深く感動的な楽章で演奏も実に味わい深い。主題が3個のソナタ形式のアダージョ楽章。ブルックナーの入れ込みようも半端ではない。
作品、演奏行為、その空気感を、音の粒を一つずつじっくり味わいたい楽章。強弱の激しさが突然襲ってくることのない楽想が延々と流れます。疲れているときの心のマッサージ、気持ちのデトックス、浄化、そんな言葉が次から次へと浮かんでくる。うちに帰ってから何度でもリピート聴きしたいと思わせてくれる楽章でした。
この楽章の色合いというのは濃いブルーで透明、そのまま沈み込んでいくような感じでもありゆっくり流れる純度の高い川の色彩、それを少し距離をおいて見ているようなところがありますね。バレンボイム棒はハイな濃度で陰影を作っていく。圧巻の棒。言い尽くせないニュアンス、するっとメロディーラインが浮かび上がり、主題の移動は落ち着いて心地よい。最高の表現となりました。素晴らしい楽章でした。美しいものは透明かもしれない、素晴らしい。

スケルツォは4本のホルンが活躍、モードとしてはアダージョ楽章を引き継いでいるようなところがあると思うのですが、トリオのあたりちょっとトリッキーと言いますか飛び跳ねが多いですね。1楽章のストレートさも出ていると思います。フィナーレ楽章へ収束していきそうなアトモスフィア出ている楽章と思います。
ホルンプリンシパルは4番の日のヤングガイ、この日も4人とも同じ音色サウンドで、スキッとする、オーケストラの伝統の一面を見ているような気にもなってくる。

フィナーレ楽章は最初に書いた第1楽章の進行をさらにストレートにしたもの。バレンボイムも上へ上へ振っていくスタイル。
展開部入りは明確ですが、この展開部で少しこんがらかってくるのはトリイゾを聴いていると思えば気持ちの整理がつくところがありますけれど、そうでないとなんだかよくわからない、と言われればそうかもしれない部分もありますね。振っているほうは完全把握でしょうが。
第1楽章同様、提示部+再現部のように聴こえてくるのは、この6番という作品、別の角度で聴いていかないといけないなぁ、と実感しました。
そのまま隙間なく準備なく派手に長調になってコーダエンド。すっきりと。
残響の少ないホール、ブルックナーの最終音の響きをそれなりに感じることが出来ます。1番から5番までもそうでした。気持ちいの良いエンディングです。


6番の保有音源は36個、うち第2楽章の時間が一番かかっているのはコリン・デイヴィス、同じく19分台にショルティ、パテルノストロ。
フルトヴェングラーのは第1楽章が欠けているのが痛恨の極み。


前半モーツァルト。22番はヘヴィーですね。2楽章長めのオーケストラから始まりますし。
バレンボイムの弾き振りはブルックナー1,2,3,4番の日、そしてこの日の6番。
27,20,24,26番と聴いてきて、この22番、手応え十分すぎる。
第1楽章の長さはどれも同じですが、2楽章はこの曲、長い。沈んでいくような楽章でバレンボイムのニュアンスの多彩さに耳を奪われます。3楽章はシンプルな感じで、バレンボイムもほとんど右手一本で済むところが多いらしく左手は指揮にあてている。シンプルな割に長い。中間部が結構なボリューム感。
肉厚のオーケストラと歯切れのいいピアノ、コンチェルトの醍醐味味わうことができました。
ありがとうございました。


この日は前日の5番より聴衆多め、85パーセントといったところか。一般参賀一回。やっぱりピアノがある日は多くはいる感じ。
前日まで最高峰だった聴衆の拍手とブラボー。この日はフライングこそないものの例のロングなブラボーが複数。7番あたりからフライング・コース始まりの予兆かしら。
おわり


2058- ブルックナー5番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.14

2016-02-14 18:03:11 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月14日(日) 2:00pm  サントリー

ブルックナー 交響曲第5番変ロ長調WAB105  20′16′13′22′
       (ノヴァーク版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


宇宙のビッグバンをいっぺんに3個ぐらい集めたような全ユニバース最高峰の奇跡的演奏でした。
1番2番3番では出番なく、前日の4番からはいるチューバ、今日の5番では2本。推して知るべしの、ウィンド、ブラスはオール倍管、ティンパニも。
奥の段まで取ったステージセッティングを見ただけでバレンボイムの意思表示が見て取れる。音響は宇宙的に広がり、フィナーレの空気圧力は草木もなぎ倒すスーパー大伽藍の巨大構築物となり、ブルックナーの望みはバレンボイムがかなえたということになろう。
ブルックナーも草葉の陰で蓋が開くぐらい狂喜していることだろう。

下降する音形、大地に突き刺さるような音形はエンディングも含め8番同様、垂直的な音の動きでブラックホールに吸い込まれてしまいそうな流れなのだが、自らの下降音型ライン重力と、それをバリバリとめくり、横に前進するちからとの一大勝負。その圧倒的ハーモニーの進行は音楽が必然的に持つ前進力と突き刺さるちからが拮抗、重戦車が重力に負けまいと前進していく姿。
ここのコーダの方針はフルトヴェングラーがもっと極端にやっているのですが、バレンボイムのテンポを緩めず進めるスタイルは圧倒的で、アチェルランドこそ控えめなれど斜め上に振っていく指揮棒はその進行方向への音のベクトル指針となっている。
フルトヴェングラーの過激な滑らかさは空間のひずみを感じなければ理解できないものだろう、バレンボイムを語るとき色々と引き合いに出されるフルトヴェングラーですけれど、バレンボイムと同じくワーグナー振り手のクナッパーツブッシュとの距離は無限と感じさせるフルトヴェングラーへの近さはあります。
プログラムにもフルトヴェングラーの言葉が載っています。この第4楽章について「世界の交響曲のうちでもっとも記念碑的な楽章」と。
5番は出直し1番みたいなもんですから、序奏付き回顧付きのこの完璧な3主題ソナタ形式とそのフィニッシュの圧倒的な力感。どのように振って作品の最良の形を聴衆の前に見せるか、再現芸術のひとつの頂点解釈を示す必要があるわけです。
フルトヴェングラーの場合、5番は過激な流線型でフォルムが揺れ動くが、聴後感というのは形式の見事さを感じさせるもので、ちょっと背反的になるかもしれませんが、空間のひずみの中に身を寄せて耳を傾ければ理解はできるのです。これもひとつの頂点解釈で、聴けばその凄さがわかる。
バレンボイムは作品のもともと持つ性格のようなもの、記号といったものを意識しながら利用しつくし、前面にだした解釈指揮で、これも今日のような行きつくところまでいった演奏であればこそもう一つの頂点解釈と言える。
むろん、オーケストラも重要で、フルトヴェングラーにはベルリン・フィルがあったし、バレンボイムにはこのシュターツカペレがある。これらオーケストラの能力があってこその頂点表現という面もある。バレンボイムを獲たシュターツカペレの表現力の多彩さは圧倒的で、阿吽の呼吸といったあたりのところははるかに越えてしまっていて、もはや、一体。オペラハウス付きのオーケストラでワーグナーの化身バレンボイムの棒のもと、毎晩振りつくしているわけですから、その一体感たるや想像以上だろうとは何度かの来日オペラ公演で垣間見ている。
音が空気の中から、無からいつの間にか出てくる。
第1楽章の序奏の出の見事さを聴けばすぐにわかる。何も無いところから何かが生成されていく。再創造とは思えぬ。もの凄い説得力にハッと声にもならない。スルッとはいります。
正座しているようなファンファーレによる第1主題1s。弦の威圧感、特にチェロとベースがほぼ同じような弾きぶりで力感十分、ブラスに負けない意思のサウンドです。強烈。ここのバレンボイム棒は非常に明確で正確。振らない場面も多々ある中、ポイントは絶対にはずさない。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、コンセントレーションを強く感じる指揮です。オーラ棒ですね。
ここの主題1sは上昇音形でコラール風、オーケストラの響きをいきなり満喫できる。
冒頭序奏からそのあと全般にわたりピチカート多用の曲で律動的な印象を持ちます。第2主題2sにピチカートというわけで、4番までの、弦がしなやかに歌う2sとは少し違う印象をもちますけれど、ピチカートと滑らかな歌が徐々に混ざり合っていく。この2sの味付けは素晴らしくニュアンスに富んでいて、特に第4楽章のほうの2sはクラクラするもの。音楽の呼吸を感じました。
2sの律動と流れがブリッジとなって第3主題3sの律動主体の咆哮となる。提示部のこの一連の流れは作品の見事さを強く感じさせます。ここまでで強固な形が出来上がる。序奏付きは正解と思います。コラール風1sはいきなりとはならず原始霧開始ととらえれば序奏も1sに含まれるような気もしますが。あと2sへの入りも見事ですね。呼吸を感じる。
くっきりと入る展開部はなにか解き放たれた様なおもむきで、テンポを緩めない進行の中、ブルックナーの多彩な音楽を楽しめます。3主題の混ざり具合もいいものですね。
再現部を経てコーダへ。まだ、爆発モードではないですが、ここまで4本で吹いていたホルンがコーダの強奏のところだけ8本のフル稼働となり、強烈なサウンドが独特なバランスとなってエンド。まぁ、昨晩難関4番のソロを吹いたソリストはおりませんでしたので、奏者のストックも余裕ありという話しかもしれない。
とにかく、5番1sの造形美、バランスの良さにはほれぼれする。バレンボイムのオーケストラ・コントロールもお見事でドライブしていく様が美しい。ここまであっという間。形が出来上がりました。

第2楽章緩徐楽章なれど、1sはこれまたピチカートが律動感を高めつつ、弦とウィンドの4拍子系と3拍子系が混在して妖しげ。バレンボイムはここ、全く振らなかったり、右手一本で6拍子と4拍子を振り分けたりで、あれは神業棒。すごいもんです。
2sはズシンと弦が大きく横に広がる。正三角形の底辺、構築物の地盤みたいな響き具合で抜群の安定感を示す。1sとの違いも他作品に比べてかなり明確なものですね。
バレンボイムは主題の切り替えをあまりテンポを変えずに、だけど念入りに独特の呼吸で推移。ワーグナーの呼吸を感じさせますね。場面転換で次に何が来るのかわからなくなるような話ですね、静寂もドラマチックという話。
この楽章の終結部に向かうクライマックスは、ブラスとそれに負けない弦の、むき出しのバランス合奏は自信のかたまりと集積された伝統の重みを感じさせますね。まぁ、なかなか出せるものではない。

スケルツォ楽章の波形は2楽章1sを速くしたもので、前楽章からアタッカでそのことを強く意識させる指揮者も多いですね。バレンボイムは作品のフォルム重視の指揮者で、ひとつずつの楽章をきっちり止めて全体構造に光が当たるようにしていますね。ムーティも同じスタイルですね。彼は若いときはポーディアムに乗るのがはやいか音が出てくるのがはやいかといった時代もありましたが、楽章間ポーズはじっくりとりますね。
ということでこの楽章あたりからブラスセクションがふつふつと固まった音形を吹き始める。トリオはもっと長くてもいいかなと思いますけれど、きれいな覚えやすいフレーズが、とっても素敵。これでもやっぱり男メロディーなのかな。たしかに男客が多いことは多いが。

昔、初めてこの曲を聴いたときフィナーレ楽章のところでLPをかけ違いしたのかなと錯覚したのをいつも思い出します。すぐに違いは判るのですけれど、第1楽章とモードがよく似ている楽章。序奏の後に回顧付き。
この楽章は展開部が圧巻。fffからpppまで1小節で変化すると言った吉田秀和の言葉は第4番の作品のことと記憶するが、この5番の展開部というのはそういうことの連続で、経過句なくパウゼで転調していく様と合わせ異様な面白さ。フーガで魅せるベースの動きはこれまた大迫力。この楽器はチェロではないのかと錯覚するようなベースコントロール、弾きっぷりが凄い。地響きたてて進行。バチがもげそうなティンパニの打撃に負けない、もちろんブラスの咆哮にも負けない、究極の強力布陣です。思えば、弦、全部、そうですね。
ここでもテンポ緩めず、かつ、アチェルランド控えめなバレンボイム棒というのは、中庸の極致と言えるかもしれない。音の重なりで迫ってくる。
あとは、一番冒頭に書いた通りで、再現部、コーダの大宇宙。そして興奮冷めやらぬ、2時間も経てばフォルムの完璧さが浮かんでくる実感。

ということで、ここに唯一無さそうなものと言えばそれは、かおりなのかもしれない。


いずれにしましても、空前絶後のブルックナー5番を体験できました。ありがとうございました。
客の入りはこの日は7,8割ぐらい。ピアノが無かった日ということが影響しているかもしれませんが、拍手とブラボーはこの日が一番熱狂的、一般参賀一回あり。
この5番であれほどの静寂空白は初めての経験。バレンボイムは振り終えて聴衆に向きを変える前にメンバーに色々と声をかけるのが癖のようですが、おい、どうだ、この静寂すごいだろ、この巨大ブル5でフラブラもしない、フラ拍もない、これが出来る世界一の聴衆がいる日本という国は凄いだろ、と、メンバーにしゃべっていましたね、想像ですけれど。

今のところ、1番3番の日が85パーセントぐらいの入り、2番4番が満員。バレンボイムのブルックナーを一目見てやろうという指揮者たちも日参ですね。
おわり

PS
5番の保有音源は77個です。

 


2057- モーツァルトPfcon26、ブルックナー4番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.13

2016-02-13 18:14:55 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月13日(土) 2:00pm  サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537  15′6′10′
       (カデンツァ:ワンダ・ランドフスカ)
Int

ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調WAB104  18′15′10′22′
       (ノヴァーク版第2稿(1878/80))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


一昨日までの1,2,3番でヘトヘトになっているなか、今日の4番も圧倒的な音響美に身体が蘇生させられました。よくもまぁこのようにとんでもない演奏が次から次と出てくるものですね。
今日はあまりの凄さに一般参賀が1回あり。

第1楽章の再現部は原始霧の提示部第1主題1sのソロホルンのふしがユニゾンで奏されるところから始まるわけですが、ピッタリ。
この4人のホルン奏者たち、音色とか特性がほとんど同じです。これも能力でしょうか。もの凄い一体感はこのホルンだけでなくインストゥルメント毎のアンサンブルがピッタリでどんなときでも合奏をしているという気構えを強く感じる。

この4番は生で観るとよくわかるのですけれどホルンコンチェルトなみで、そうとうに際どいフレーズのかたまりでこれを完璧にこなすにはかなりのハイレベルでないと出来そうもない。といつも思うわけです。まぁ、こんな曲、作る方も作る方ですよね。1時間越えのホルンさんたち大変でしょうね。
最初は少しポロしましたが、バレンボイムはこのプリンシパル奏者をだいぶ信用しているみたいで、彼のソロが出るところではほぼ指揮しない。以心伝心なのか。特に第4楽章のソロパートは全く振っていませんでした。それであの素晴らしい流線型のフレーズがホールに響くのですから、まぁ、どちらも神業ということで。

両端楽章の第2主題2sの美しさは格別で噛めば噛むほど味が出る。一音ずつかみしめて聴く。美色の音色に酔いしれるというのとはちょっと違っていて、ちょっとダークで光っている感じ。黒光りな感じ。バレンボイムの前、30年近く振っていたスイトナー時代、荒れた演奏の時もありましたけれど、音色が素晴らしくて、まるでビロードのような濃い目のサウンドが隙間無くつながっていくさまにオーケストラ個体としての魅力を強く感じたものでした。あの時代DENON等から出ていたLP、CDほぼ買い尽くしました。自分が一番最初に買ったCDというのがスイトナー&ベルリン国立歌劇場管によるエロイカで、日本製でアメリカに輸入されたもの。だいたいお昼時は壁通りからブロードウエイを少し北上してシティホールまではいきませんがそのちょっと手前にJ&Rというお店があって、そこで音源漁り、オーディオ機器も置いてあって2代目のオープン・リール・デッキはあすこで買いました。それも日本のTEAC製。電圧だけアメリカ仕様に変えたもの。
という話しで、脱線。
バレンボイムもそろそろスイトナーと同じぐらいの年数をこなしていることになる。音色は機能美がフレーバーされて変わりつつあると思います。ビロードのように流れる感より、黒光り感が上回り、合奏の弦の音も芯が強調されているように思います。
そんな思いの中聴く2sの美しさ。

第3主題3sの爆発、ブルックナーの音響を浴びる。生理的快感、富士山超えのスパー・エベレストみたいなそびえたつブラスと強烈な弦、横になびくウィンド、圧倒的。これも神業と。神業がたくさん出てきます。圧倒的なものの連続波状攻撃に、もう、しびれまくり。

この4番は提示部と再現部のバランス感覚、相応する展開部の手応え、やっぱり前作からぐんとアップしているように感じる。バレンボイム棒は展開部は殊の外スッキリ響き、速目の箇所も割とあって、ただ長ければいいみたいなところがまるで無い。彫を深めながらもすーすーと進んでいく。均整のとれた造形美を聴くことになります。

この日も3番同様、ピアニシモの聴かせどころありました。第4楽章の再現部、2sから3sに移るところ。あっと言わせるような演奏で、曲の中に必ずこのようなひらめきのフレーズが出てくる。彼の場合、Fのような即興性というよりもその場のひらめきのセンスが光るとでも言いますか。聴いている方が、あっと思う。

その第4楽章の冒頭の強烈な1sですが、あの振りはもはやオペラ棒、ワーグナーを振っているようなキューの入れ方で、要所は絶対にはずさない、あとはハンカチで汗を拭いたり頭を掻いたり、鼻をつまんだりしていても、特に影響はない感じで、それにしても強烈、あすこは、神主題が神出現とでも言いたくなる。
第4楽章の1s3s強烈ですね。弦とブラスのどちらが勝ってもおかしくないような圧倒的な強奏。ジークフリートのような嵐で。もう、全部、脱帽。

ということで、ブルックナー4番の音源は67個持っています。素晴らしい演奏が多いですね。


前半のモーツァルト。ここでもバレンボイムが、ハッと技、使いました。はっとさせるようなひらめき技ですね。第2楽章で演奏が一度止まったかと錯覚させておいて、まぁ、止めて聴衆の肝をぎゅっとしめてから演奏をつなげていく、あれは完全なひらめきオペレーションで、えもいわれぬ空白が見事な緊張感を醸し出す。オーケストラメンバーも軽く驚いていましたね、何が起こったのかと。

この曲は、グリッサンド風な曲想が次から次とつながっていって華麗、オルゴール風な曲想と対をなしていますね。この日で4回目となる弾き振り、あまりの見事さにほれぼれします。弾き振りの見事さは、初日二日目三日目までに書いた通りです。
モーツァルトはこの日までで、27番20番24番26番が演奏されました。

この日も素晴らしい演奏ありがとうございました。
おわり


2056- マーラー夜の歌、カンブルラン、読響、2016.2.12

2016-02-12 23:40:50 | コンサート

2012年2月12日(金) 7:00pm サントリー

モーツァルト セレナード第13番ト長調
アイネ・クライネ・ナハトムジーク  6′4′2′4′

Int

マーラー 交響曲第7番ホ短調 夜の歌  22′15′10′12′19′


シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団


バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリンのブルックナー全集の休息日にこうやってカンブルランのマーラー7番を聴けるというのは僥倖ですね、毎日が僥倖と、お天道様に感謝。
カンブルランはGM7初振りらしくて、おお、そうだったのかと軽い驚きを感じました。現音スペシャリストでオーソリティの彼がこれまでこの曲を振ってこなかったのはなぜ、神のみぞ知るということで。

DB/SKBのGM7を聴いたことがありますけれど、見た目はなんだか、似てましたね。滑るような演奏というのではなくて垂直進行とでも形容したくなる。でも、DBと同じようなアプローチながら全体的な印象は随分と異なる。


プログラムの配置が素敵で、小夜曲と夜の歌、ビルディングとしてはしゃれてますね。
この前半のモーツァルト、読響らしさとカンブルランらしさがうまくないまぜになって、筋肉質でぶ厚いという、オーケストラ演奏の醍醐味。ストリングオンリーの演奏でもプレイヤーにオケの鳴りがしみついているとでも言いましょうか。このような演奏は本当に、聴く醍醐味、大有りですね。気持ちよく聴けました。

後半のマーラーは指揮、奏者、聴くほう、みんなコンセントレーション高めて、ちょっと気張り過ぎなのかオケが若干ラフ気味なところもありましたが、冒頭のテナーホルンの自信に満ちた縁取り感覚に、つつがなく全てを包み隠さずやるというオーソリティ指揮者の面目躍如たるそのやる気を感じましたので、乱れよりもやる気の勝ち。

頭の序奏と提示部の第1、2主題のテンポがほぼ同じ。シューベルトのグレイトでも同じように持っていく指揮者がおりますがあれをふと思い出しました。ここらあたりに指揮者のスタイルというのがよくでると思います。
この進行でだいたい雰囲気をつかんでおいて、結局、曲全般にわたりほぼインテンポで進む。終楽章はすこし出入りありましたが概ねインテンポ進行で曲想毎の切り替えを妙にアチェルしたりリタルしたりしない。変なタメも無い。思いつかせない。
結果、垂直に進む。
この曲の音響を楽しむことができました。微細なアンサンブルのポーンポーンとはじいていくようなクリアさはカンブルランのものだし、響きがぶつかり合って別の響きを生んだり、逆にアンサンブルをインストゥルメント1本まで分解していったり、めまぐるしく変わる面白さ。
カンブルランは音楽を駆り立てるように進めていかない、情に流されないというか、曲の中身の響きを洗いざらい出すことに腐心していて、これがやはり現音スペシャリストのする耳と表現であって、ヘヴィーな縦の進行のように聴こえてくるのは、普段そのような聴き方や先入観、刷り込みなど無意識にしてしまっている自分のほうをチェンジしていかないといけないのかなと思いましたね。
2,4楽章の夜の歌は実に味わい深かった。崩さないスタイルで進めていくこれら楽章、音楽が印象として残ります。両楽章ホルンが踏ん張りどころです。腕達者なプリンシパル、踏ん張りどころね。
自分としてはここらあたりもっとビブラートかけて湯気の出る様な雰囲気が欲しいところですけれど、国内のホルニストはあまりビブラートかけませんからね。昔の、千葉馨のフィーリングが欲しいわ。

あと、夜の歌に挟まれたスケルツォ、指揮者によっては途中、ワルツみたいにねっとり感満載な濃い表現に脱線していったりしますけれど、カンブルランはインテンポで表現する音楽の極意的スタイルで、真ん中の楽章としての存在感、転換点といいますか折り返しの楽章、ミラーを感じさせてくれる節目楽章でした。

両端楽章、1楽章はブラックホールに吸い込まれていくような演奏で、ここらはDBに似てます。この短調の真っ暗さを最後まで貫き通す。夜明けはくるのだろうかという感じですね。圧倒的な存在感の第1楽章。
終楽章はこれまた滑らない。克明過ぎる部分もありですが、そういえば思い出した第1楽章の展開部の音楽づくりは出色の克明さでしたね、主題の練り具合がおもしろいように、手に取るようにわかる。理解には欠かせない棒、お見事。
それでこの終楽章、ロンドは曲想のめくるめく変化を浴びるように楽しむだけでいいですね。
この楽章の最後のところで第1楽章の主題が明確に出てきますが、あの部分の作曲技法といいますか、やりかたがあまり好きでなくて、書いているほうの気持ちはわからなくもないですが、それでなくても似た雰囲気の主題展開のフィナーレ楽章なわけですから、あすこまで裸でさらさなくても、わかる。ので、余計なことをしていると感じてしまう。
カンブルランさんはどう感じているのかわかりませんけれど、あすこらへん、ぜい肉の上塗りみたい、と思っているのかもしれませんね。と想像する。

いずれにしても、オーソリティらしい棒で、曲の響きの多様性を満喫できました。
読響の重心の低い特性を、そのまま保持させながら、駆けずり回らせることのできる指揮者はめったにおりませんですね。
いい演奏でした、ありがとうございました。
おわり


2055- モーツァルトPfcon24、ブルックナー3番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.11

2016-02-11 22:46:49 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月11日(木) 7:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491  14′8′10′
       (カデンツァ:バレンボイム)

Int

ブルックナー 交響曲第3番ニ短調WAB103  20′16′7′15′
       (エーザー版(1877))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


三日目、
1番2番では譜面を見ながらの指揮でしたが、この3番は譜面無し。このあとおそらく9番まで譜面はないと思われます。バレンボイムの場合、譜面無しの指揮のほうが躍動感あって、いいですね。

ということで、この3番は色々とワーグナー模様が、昨晩みたいにバレンボイムがたぶん意識的にワーグナーフレーヴァーを添加したと思われるようなことをしなくても楽想に現れてくるわけですけれども、この日の白眉はそこらへんよりも、アダージョ楽章の終結部ちょっと前、ワルキューレモードと言ってしまえばそれまでですが、ホントに終結する前の弦を中心にピアニシモから、バレンボイムが両腕を広げ、胸を突き出して表現した長いクレシェンドでした。あれは凄かった。聴こえないぐらいの弦の刻みが次第にキラキラと光り輝き、まるで光源がこちらに近づいてくるような錯覚に陥ってしまうほどの劇的と言っていいクレシェンド。ブルックナーの3番が本当に大きく大きく見えた。この表現の幅、バレンボイムのブルックナー、こう、なんというか、言葉にできない凄さが、さーーと現れるわけですよ。
どうしてこのような演奏が可能なのか、謎解きはあまり意味のあることとも思えず、その圧倒的な表現を受けとめることでいいのではないか。このような大きな表現が随所に聴かれました。細かいニュアンスから巨大なオルガンサウンドまでバレンボイムはやりつくす。
指揮する姿、キューをいれるタイミング、指示は、それ自体もはや芸術の域で、棒を動かさずとも音楽にあふれているし、片手の指揮棒さばきは唖然とする説得力、左手で空間を撫でるさまは滑らかな一拍子モードだったりしても、その指の先まで音楽を感じるし、両腕を上にあげ握りこぶしでオーケストラをドライヴしたり、もはや芸術。
弦の強奏でのシュッシュッという声の迫力もものすごい。
結果、3番は巨大化、大きなふくらみ、表現の幅、圧倒的でとんでもない造形の作品が出現した。

昨晩の2番同様、ゲネラルパウゼが多用された作品で、パウゼ自体が音楽のモードの切り替えをしているため各主題の速度をあまり変えなくても明確に各々の主題がくっきりと把握できるし、非常に整った造形美を感じ取ることができる。ダイナミックな音楽の中に美しい造形美を聴くことができる。
バレンボイムはリタルダンドは少しかけるが、アチェルランド無用の、ダイナミックな音楽が静止した印象を受けるのは、このことによる。
パウゼ静止で、フレーズが途切れがちになったりするところがあるが、それ自体も音楽よと、バレンボイムの棒さばきは細やかないところまで表現、至れり尽くせり。

弦とブラスの全奏は圧倒的なバランス感覚で、いくらブラスが叫ぼうともさらにその上をいく弦のチカラこぶし、強烈なアンサンブルがやたらと壮絶でもの凄い説得力、聴いている方の気持ちの入れ込みも本当に本気モードになってくる。まぁ、壮絶な演奏ですね。
ブルックナーの音響美を浴びる快感。

色々と挙げだすときりがなくなるわけですが、全体の印象としては、1番2番よりもかなり静止した作品であるということ。エーザー版はサウンドが少し牡丹雪のような味付けで前進していくように感じるのですが、曲自体の構成感としては垂直に進む感じで。
曲の尺度としてはこの3番あたりから少し頭でっかちスケルツォ短めといった雰囲気が出てきますが、フィナーレは堂々たるもので、そのフィナーレに関してもやっぱり流麗な7番だけが異色に短く、それ以外は1,2,3楽章に比して負けないいいバランスの作品が多数と思います。この3番もそれやこれや含め圧倒的な表現の幅、深彫り感。巨大なサウンド、1,2番同様バレンボイムは完成品として接し、その作品のレベルをさらに上に押し上げる様な演奏解釈で貢献したと感じました。

保有している音源は44種。一番最初に聴いたのはコンサートホールのマゼール&ベルリン放送響のものでしたね。当時、版の意識などというものは全くありませんでしたね。かれこれ40年以上前のお話で。


1番ハ短調、2番ハ短調ときて、この日の3番がニ短調で第九にインスパイアされたような冒頭、弦とトランペットは第九モードかなぁ、などと思いながら聴き始めた3番でしたが、前の晩は前半のモーツァルトがニ短調で後半そのハ短調、今晩は真逆でモーツァルトがハ短調で3番がニ短調と、連続して接してみると調のあやをすごく強く感じるものでした。

この日は結局、短調モードのプログラミングだったわけですが、前半のモーツァルトの24番は解決せず終わるというと語弊がありますが、短調のまま終わる。ストイックでブルーなアトモスフィアの世界を感じさせてくれます。バレンボイムのピアノはここでも第2楽章の端正な音楽作りが乱れずバランスしている。気持ちの安定を映し出したような演奏で、モーツァルトが筆をとったときの気持ちと相通じるものがあるのではないかと、毎度その心のシンクロを彼のピアノには感じる。
弾き振りはここでもさえわたり、史上最高のバトンテクニックだろう。こんな弾き振り誰も出来ない。オーケストラの反応も敏感で。昨晩も書いたソロピアノの時にさえプレイヤーを眺めつつ弾いている姿が印象的ですね。いい演奏でした。


前日、前々日と個人的に入れ込み過ぎかなとも思いましたが、上には上のブル3で、このあとの展開がさらに楽しみになりました。
この日も素晴らしい演奏、ありがとうございました。
おわり

 




2054- モーツァルトPfcon20、ブルックナー2番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.10

2016-02-10 23:28:15 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月10日(水) 7:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466  14′9′7′
       (カデンツァ:ベートーヴェン)
Int

ブルックナー 交響曲第2番ハ短調WAB102  17′13′7′15′
       (ノヴァーク版第2稿(1877、キャラガン校訂版))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


あまりの素晴らしさに声も出ない。
あまりに美しくあまりに激しい。ブルックナーその真髄の全てを魅せてくれました。こんな素晴らしい演奏聴いたことがない。生身のブルックナーが一気にその姿を現しました。

再現部のほうではなく提示部第1主題1s終わり際、第2主題2sにブリッジするティンパニの3個のピアニッシモ。まるでジークフリートの死の開始!、いきなりの音楽表現にカタルシスの真髄を魅せられて脳天に杭を打たれたようにしびれました。まさかバレンボイムの創作ではないのだろうかと思える様な、もうこの時点で既に神経麻痺。
2sではなくジークフリートの死が始まってもおかしくないような雰囲気の中、昨晩の1番とは異なり、その2sは1sと同じようなテンポで進んでいく。2番はパウゼが多用された作品で、その空白の意味合いが大きくて、空白イコール切り替えみたいなところがありその意味の大きさがあればこそ、テンポ感でメリハリをつける必要もない。ブルックナー作品の極意を極めたバレンボイム棒がいきなりその真価を魅せてくれる。
2sの音楽の美しさはこのオーケストラが全てを語ってくれる。静かで美しい。冷静な心の美しさ。それは束の間かもしれないけれどもブルックナーのもう一つの世界がよく見えてくる。
第3主題3sは1sの快活さをもっとストレートにした感じで、1sの原始霧から放射されるようなパースペクティヴに対し、リズミックな爽快感が場を支配。縦に刻まれたリズムが極めて前進性を示す中、怒涛のブラスときしむ弦。
もう、この提示部を聴いただけでギヴアップ。
展開部のあやは深く妖しい。3個の主題の混ぜ合わせ進行が味わい深い。バレンボイムの雄弁な指揮には唖然とする、ほれぼれする。それに微にいり細にいりすべてに生き物のように反応していくオーケストラ。アンサンブルの表現のふくらみ、絡まるような統合体としてのオーケストラサウンド、これぞムジツィーレンと掛け声のひとつでも発したくなる。見事な演奏だ。
そしてパウゼ切り替えで再現部へ。
提示部とは微妙に異なる手応えで、1番の爆発を思い出させるようなコーダの中、ここはまだ最初の楽章よと抑制の美学も魅せつつ打撃音静止。
1s、2s、3sの深さ、バレンボイムはこの作品も昨晩の1番同様、完成品として向き合っている。
美しくも激しい音楽が作品の巨大さを教えてくれた。すごい演奏。

次のアンダンテ楽章、二重変奏曲、明白な形式感はさらに顕在化する。澱みない清らかな美しいハーモニーが一音ずつかみしめるように進行する。この美しい音楽は祈りのようにも聴こえてくる。オーケストラの能力の高さが曲を押し上げてくれる。第1楽章でもそうだったがこの2番、あまりテンポで揺れを作っていくことのないバレンボイム棒、この2楽章でも各主題の平衡感覚がお見事ですね。いつまでも終わってほしくない楽章。ブルックナーの緩徐楽章に見られるコーダ前の爆発は無いに等しく、静かに静かに噛みしめながら美しいピアニシモエンド。清らかだ。

スケルツォ楽章、ここはなんといっても、判で押したスケルツォの再帰のあとにグッとパウゼでタメを作った後のスケルツォコーダが異色の盛り上がりを作ってくれます。
スケルツォのトランペットファンファーレはちょっとギクシャクした音楽な部分がありますけれどこのゴツゴツ感もブルックナーで、コーダですべてを解決させてくれる。
それと糸をひくような弦の響きが瞑想的で美しいトリオ、バレンボイムの切り替えの見事さが光ります。素晴らしいトリオ。

終楽章はリズミックさが際立った楽章で、ご近所の若者とその近くの初老のご婦人が二人そろって体を揺らしている姿が目障りにならない。
ホールを撫でる様なサウンド刻みで前進していく音楽。パウゼはさらに多用されてくる。切り替えの山のような楽章でもある。バレンボイムはそのパウゼをかなり強調した振りで、音楽をストップさせるような空白を生むが、終わってほしくない音楽がそれによって息を吹き返すみたいなところがあって、音楽の生成を何度も感じる。これも見事な棒と言える。
このような展開部を経て、これまた明確に区切られて再現部へ。昨晩に続きハ短調の交響曲、大詰めコーダではハ長調になりスキッと抜ける様な爽快感の中、強烈でしつこいぐらいの刻みが何度も波状攻撃のようにクラッシュする中、ヒート感満載になりながらエンディング。バレンボイム棒はメラメラと燃えるにはまだ早いのかもしれない。このコーダのギアチェンジは見事だけれども没我の音楽ではない。造形の美学がまさっている演奏と言えよう。

2番は自分が持っている19種の音源の中では、今日の演奏はホルスト・シュタイン&ウィーンフィルのを激しくしてアンプリチュードの幅を広げたような演奏であったかもしれない。
とにかく、この作品の巨大さをものの見事に表現してくれた素晴らしい演奏でした。すごいもんです。


バレンボイムの弾き振り、それに一体化したオーケストラの反応、モーツァルトさんを見たことは無いのでアレですが、さすがにこれは彼も真似が出来なかったのではないかと思える様な見事なアンサンブル演奏で。
思うにモーツァルトは色々とあったでしょうが作曲しているときの心というのは書道とまではいかなくても手紙でもなんでも文章、文字を心乱されずに書くときの平静な構え、それが出来ていたと思います。そうゆうことを深く感じさせてくれる演奏でした。第2楽章のポツポツと空白の中をたどる均整のとれた音の粒を聴いているとモーツァルトの内面の声を聴いているような気持になってきます。
バレンボイムは同じく空白をたどるようなオーケストラ・アンサンブルが自らのインストゥルメントを膝に置くときでさえ、弾きながらプレイヤーをよく凝視します。凝視しながら弾く。この音を聴け、モーツァルトの声だと思って。そう呟きながらの弾きのようで、美しくも平静な音楽が見事に奏でられて、世の中、これ以上は無い。
前日同様ホールの音響問題はありますけれど、この2楽章の静謐さは何物にもかえがたい。バレンボイムがモーツァルトの中に入り込み、内面の声を具現化したような演奏でした。

全楽章通じて最良で全く妥当なテンポ、決して乱れることなく、余計な動きをせず、裸の実力がもろに出てきますね、モーツァルトの恐さですか。
終楽章の快活な音の粒立ちの良さはバレンボイム自身のピアノが今も好調であることを示しているような気がしてきました。このニ短調の作品はバレンボイムの弾き振りでモーツァルトのストイックな一面、それに作曲するときの姿勢、そのようなことを大いに感じさせてくれた演奏でした。見事というほかない。

ということで、二日目。
この日も素晴らしい演奏、ありがとうございました。
おわり