河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1814- 沈黙、遠藤周作・原作、松村禎三・台本作曲、下野竜也、東フィル、新国立、2015.6.27

2015-06-27 20:50:06 | オペラ

2015年6月27日(土) 2:05-4:50pm オペラ・パレス、初台

遠藤周作 原作
松村禎三 台本、作曲
宮田慶子、演出

沈黙  63′、73′

キャスト in order of appearance  (たぶん)
1.キチジロー、星野淳、バリトン
2-1.ヴァリニャーノ、成田博之、バリトン
2-2.ロドリゴ、小餅谷哲男、テノール
3.モキチ、吉田浩之、テノール
3.じさま、大久保眞、バリトン
3.イチゾー、unknown
4.オハル、高橋薫子、ソプラノ
5-1.井上筑後守、島村武男、バリトン
5-2.通辞、吉川健一、バリトン
6.フェレイラ、黒田博、バリトン
7.おまつ、与田朝子、メッゾ
7.少年、山下牧子、メッゾ
7.老人、大久保光哉、バリトン
7.チョウキチ、加茂下稔、テノール

新国立劇場合唱団
世田谷ジュニア合唱団
下野竜也 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


ダブルキャストの初日公演。リヴァイヴァル公演です。
遠藤作品、松村オペラ。問題提起型オペラはひとつツボにはまると緊張感の持続が苦しくない。圧巻でした。
演劇的モード色濃く、ビジュアル的にも美しい。オペラ枠におさまりきらないものを感じました。キャストの決まり具合も最高でした。良い緊張感を味わいました。

最後のシーンに至るまでの長さには自己弁護的な色彩感も感じました。小説の最後の部分を丸ごとカットした松村オペラ。原作との力点の違いが出るところでもありますね。
絵を踏もうと足をあげたところで照明落とし、幕。と言うのが個人的には好みです。松村オペラの小説カット意味合いはどのような効果を狙ったものなのかわかりません。示唆に富むものである気はします。
望むときに現れるわけでない、心のテーマ、ですね。
このオペラ見逃してしまうと何か大切なものを見失っているような気にさせてくれます。

いわゆるオペラ節のない現代風味のオペラに見せる下野の理知的な締まった表現はもはや彼の生まれながらにしてのセンスとでもいうべき一体化境地であり、オペラというもののエッセンス、絞りきった後の果実からでもなにか出てきそうな気配さえ漂う。


冒頭はPA有りと思える音響バランスだったように感じました。
キャストみなさん概ねスタイリッシュな感じで良かったですね、わけてもキチジロー星野さん存在感ありました。
井上筑後守の衣装、カーテンコールでもまともに歩けないぐらいきまっていましたね、日本式の迫力を感じました。
子供たちの踊りの色彩感、別物色という感じでインパクトありました。
日本語の歌に日本語の字幕、これはこれで賛成です。外国人が見たらびっくりするかもしれませんが。

今回の千円プログラム、何場構成なのか書いてありません。それでいて「聴きどころ」解説は場を持ち出していて、妙な読み物になっています。全体を俯瞰できるチェッカーが必要です。募集していたら応募します。
おわり





1813- 火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典、秋山和慶、新日フィル、2015.6.19

2015-06-24 01:00:20 | コンサート・オペラ

2015年6月19日(金) 7:15pm トリフォニー

ストラヴィンスキー  火の鳥 (1919年版)  21′
ストラヴィンスキー  ペトルーシュカ (1947年版)  32′
Int
ストラヴィンスキー  春の祭典  16+18′

秋山和慶 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


このプログラムで思い出すのは、ゲルギエフ&マリインスキーの3曲全曲演奏会。秋山は火の鳥は短くなったものの意欲的なプログラムではある。このようなプログラムはいいものですね。昔はなかなか聴けなかった。

秋山棒はストレートなもので、それにオーケストラもよく応えておりました。合奏は非常にマッシヴなもので輝きもあり流麗。
反面、ストラヴィンスキーの難曲はその3連発ということでもあり個人の技量を丸裸にする。それはそれで悪い話でもない。
いい演奏会を楽しませてもらいました。
ありがとうございます。
おわり

(参考)
1693- 火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典、ヴァレリー・ゲルギエフ、マリインスキー歌劇場管弦楽団2014.10.15


1812- チャイコフスキーpfcon1、小山実稚恵、ラフマニノフ1番、尾高忠明、N響、2015.6.17

2015-06-18 01:26:01 | コンサート・オペラ

2015年6月17日(水) 7:00pm サントリー

チャイコフスキー  ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 21′8′7′
 ピアノ、小山実稚恵
(encore)
ラフマニノフ プレリュード ト長調 op.32-5  2′

Int

ラフマニノフ 交響曲第1番ニ短調 15′10′10′13′

尾高忠明  指揮  NHK交響楽団


コンチェルトは小山の王道に尾高が合わせて比較的ゆっくりした演奏。ちょっとほこりっぽいピアノ演奏でした。

後半のラフマニノフは曲の魅力よりも2番3番との成熟度の違いのほうが出てしまった。尾高はもっと聴かせる演奏をしなくてはいけないと思う。1番は未熟な曲というのがもろに出てしまった。

それから、棒を持って振ってほしい。無しで振る気持ちもわからなくはないが、棒を持って指示を出した方がオーケストラに、指示がより伝わると思います。そのメリットデメリットをいの一番に感じる。
おわり


1811- シェーンベルクpfcon、ウォルフラム、ラフマニノフ2番、アンドリュー・リットン、都響、2015.6.15

2015-06-16 21:05:58 | コンサート・オペラ

2015年6月15日(月) 7:00 サントリー

シェーンベルク ピアノ協奏曲  20′
 ピアノ、ウィリアム・ウォルフラム

Int

ラフマニノフ 交響曲第2番ホ短調 20′10′15′15′


アンドリュー・リットン 指揮 東京都交響楽団


P席最前列の客がトラブル退場になった演奏会。前半〆たところでステージを怒鳴り散らし、事務局のスタッフに追い出されたらしい。
それであってもなくても、前半のシェーンベルクにブーがでる理由など原因がなんなのかわからない。まるで演奏会が嫌いでブーしている感じ、これならいやがらせ目的での入場でしょうか。何か別のことで気分を害していたのかもしれないが、近くの席だったらたしなめて制止させる必ず。

シェーンベルクのコンチェルトは、丹念な演奏でこれ以上分解できないぐらいの因数分解。音の羅列が別の意図を感じさせる、12音階ルールをかき消すような素晴らしく明晰で美しいもの。伴奏のオーケストラがこれまた同列のピュアなサウンドで隙間なく流れていく。ハイレベルでハイテンションなサポートがお見事。リットンの合わせ技ですね。
先ほどのブーイングのことですが、それがこの曲の前衛的なことに対するものであれば、それは100年とは言わないが随分と遅れてきた話と言わざるを得ない。この曲を聴きこむしかない。
ピアノソロ、オーケストラ、指揮、3拍子揃って難曲を高みへ導きました。

後半のラフマニノフは巨大な演奏。各主題とともにその経過句までくまなく光をあてたもので、細部まで神経がゆきとどいている。時間を感じさせない大きな演奏でした。
終楽章のコーダ前のブラス主題のつまずいたような進め方ユニークでしたね。リットンも色々とこだわりのある曲なのでしょう。
ブラスの活躍は目覚ましいものでしたが、ホルンだけは冴えない。受け身というか楽譜をなぞっているだけの演奏で音楽が生きてこない。ここはちょっと残念。他はほぼパーフェクトなプレイでした。
リットンの作品への共感度の高さ、巧みなオーケストラコントロール、言うことなしです。
おわり


1810- バッハOb協、古部賢一、変容、エロイカ、飯守泰次郎、新日フィル、2015.6.14

2015-06-15 00:03:34 | コンサート・オペラ

2015年6月14日(日) 2:00pm サントリー

J.S.バッハ オーボエ協奏曲ヘ長調 BWV1053 8′5′7′
 オーボエ、古部賢一
(encore)
テレマン ファンタジー第2番から アダージョ 2′

シュトラウス メタモルフォーゼン 27′

Int

ベートーヴェン 交響曲第3番変ホ長調 15′16′6′12′

飯守泰次郎 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


つながりとしてはいいプログラム。
バッハはオーボエがほとんど吹きっぱなしで大変そうです。ヴァイオリンやチェンバロで弾かれたり、どれがオリジナルかわかりませんけれど、そのような楽器と同じ具合で演奏を強いられるのでかなりの難物ですね。ディテールのあや、ニュアンスがよくわかるいい演奏でした。定席が割と前方側ですのでこのような曲の場合、より理解が進みます。

2曲目のメタモルフォーゼンのエンディングからプログラム後半エロイカの葬送につながる含みのあるプログラム・ビルディング。
飯守さんの棒はオペラでたくさん接していますが、たまにこうやってコンサート指揮を見ることも。いつも思うことですが、わかりづらい指揮で、そんなこと関係ないでしょといわれればそれまでですが、オペラでの魔術も同じ具合なわけですね。

シュトラウスは徐々に熱し、大変にスピード感のあるものでその激しさにびっくり。終わってみればだいたい着地ポイントのタイミングです。全体フレームは、緩-急-緩、出し入れが極端で、中間部から後半への急の勢いに圧倒されました。最後は葬送のフレーズを強調しながら、休憩後のエロイカに残像をつなぐ意図が。

エロイカ第1楽章提示部はリピート無し。このような趣きはなんだか懐古風に昔を思い起こすような時代になってしまった。最近はほとんどリピートありですからね。
まぁ、それでも、共存して聴けるのが、過去の色々な時代の流行から遠くなりにけりの今の時代の良さでもあるわけです。
このエロイカの演奏はエネルギーが充満していると言いますか、カロリー満点、アドレナリンふつふつ、そしてフォルムがしっかりと出来ている。形が出来ていて潮の満ち引きも躍動感あるもので、音楽の呼吸を感じる。
骨太の葬送を経て、ダイナミックなスケルツォ、トリオ、そして変奏曲へと、迫力満点のエロイカでした。素晴らしい。
ありがとうございました。


この日、新日フィルのバッハの最初の音が出たのが2時2分。都響はオケの入場がこれに例えると2時5分で、音が出るのはそのもっとあと。
オケごとにタイムチャートのようなものがあると思いますが、それぞれの会社毎にこのような芸風も異なるということで。
おわり


1809- ブルッフVn協1、堀米ゆず子、ショスタコーヴィッチ8番、ラザレフ、日フィル2015.6.13

2015-06-13 18:34:10 | コンサート・オペラ

2015年6月13日(土) 2:00pm サントリー

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調  7′10′7′
  ヴァイオリン、堀米ゆず子
(encore)
バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番からアダージョ 4′

Int

ショスタコーヴィッチ  交響曲第8番ハ短調 Ⅰ21′Ⅱ6′ⅢⅣⅤ28′

アレクサンドル・ラザレフ  指揮  日本フィルハーモニー交響楽団


トーク・アフター・コンサート
アレクサンドル・ラザレフ&通訳 約15′


ラザレフ、8番の二日目。自分としてはこの二日目のほうが定期会員。
この日も終演のあとラザレフのトークがありました。前日と内容はダブっていたところもありましたが、とにかく面白かった。
作曲家だと生メシアン、生コープランド、生ウィリアム・シューマン等多数みておりますが、生ショスタコーヴィッチは残念ながら見たことが無い。このラザレフのトークでショスタコーヴィッチや息子のマキシムの話はリアルでしたね。

また、15番のウィリアム・テルのふし、最初はトランペットで、後半はオーボエにしたら難しすぎてオーボエさんが毎晩眠れなくなってしまったのでクラリネットに替えた。
この15番、当時はたいした曲ではないと吹聴したが、でも結局、「俺は若かった」、この短い会話の説得力、破格ものでした。自分がフリークだからというわけでだからというわけではありませんよ。
さらに、15番と4番のエンディングの相似性に言及しておりました。自分も以前からしゃべっていたところではあるし、おおいに納得しましたね。

この日の演奏、第1,2楽章は前日よりかなり速いもので、ギクシャク感は無くシームレスで振幅大きく美しいもの。
概ね前日同様で、良かったと思います。

前半のブルッフは音が均質でなくかなり厳しかった。
おわり




1808- ブルッフVn協1、堀米ゆず子、ショスタコーヴィッチ8番、ラザレフ、日フィル2015.6.12

2015-06-13 01:21:46 | コンサート・オペラ

2015年6月12日(金) 7:00pm サントリー

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調  7′9′7′
  ヴァイオリン、堀米ゆず子
(encore)
バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番からラルゴ 3′

Int

ショスタコーヴィッチ  交響曲第8番ハ短調 Ⅰ23′Ⅱ7′ⅢⅣⅤ27′

アレクサンドル・ラザレフ  指揮  日本フィルハーモニー交響楽団


トーク・アフター・コンサート
アレクサンドル・ラザレフ&通訳 約20′強


前日はテミルカーノフの棒で10番、この日はラザレフの棒で8番。
ラザレフ猛将は4番を振った時は、最後音が消えて、空気を振って、そのまま頭抱えて終わったが、この日の8番は同じような雰囲気で、かなり長く空白振って、頭抱え終止。フラブラのしようもない。こらえ性の無い客のデカイ継続咳払いが残念だったが、いずれにしてもこの種の手法、フライングのしようがないのでアイデア的にもいいのかもしれない。むろん近くで見ていると作為的なところは微塵も無く、シリアスな音楽表現に他ならないわけですが。

この日はコンサートの後にラザレフのトークがあったのですが、いろいろ話した中にショスタコーヴィッチの3楽章構成について言及したところがあり、図らずも納得することになったわけです。
もともと3楽章構成のシンフォニーは別にして、前日の10番、そしてこの日の8番、やっぱり感覚的には3楽章の束のように聴こえてくるわけです。そしてそのような聴き方をしていくと割と楽に聴き進められる。
7番の後、こんな8番を作るわけですからシンフォニストの面目躍如といったところで感服するしかない。そしてラザレフの棒にも感服するしかない。テミルカーノフのどちらかというとしなやかな感じとはまるで異なり、オーケストラからサウンドを引き出し、とにかく鳴らし切る。このグワッグワッとくるダイナミックレンジの広い彫の深い圧倒的な表現力、オーケストラの能力をフルに引き出し回転させる。この手腕の凄さ。
ラザレフがオーケストラに植え付けているのは自信であって、自信をもってプレイすれば良いということを確信を持って伝えることが出来ているのだろう。ラザレフの手腕は経験に裏打ちされたものでありそれがものすごい説得力をプレイヤーに植え付けているのだろう。強烈な8番が本当に巨大な8番として、曲のサイズとオーケストラの潜在能力の引き出されたサイズがまさしく対等なものとなり、圧倒的に巨大な演奏となり、有無を言わせない説得力を生む。凄いもんだ。8番らしい8番だ。
8番の深さを認識しました。

前半はブルッフ、なんでブルッフだったのかいまだにわからない。
ソリストはだいぶ年輪がきました。

8番の後、ラザレフのトークがあったわけですが、前述した3楽章構成の話、マキシムが棒を振った時の話、15番はたいしたことが無いと言ったのを後で反省した話、いろいろ面白いお話を聴くことが出来ました。ストーリーの持っていき方もうまい。
通訳さんがこれまたよくて、呼吸ぴったりで、ストレスの無い名通訳でした。
20分ほどのロングなトークでした。面白かったですね。



前日はテミルカーノフの棒で10番、この日は同じ台でラザレフが8番、そして翌日はテミルカーノフとラザレフが同じ時間帯に別の場所で10番と8番が同時に鳴る、メトロポリタン・トーキョーはすごいですね。
おわり




1807- プロコフィエフ、pf協3、マツーエフ、ショスタコーヴィッチ10番、テミルカーノフ、読響2015.6.11

2015-06-12 01:08:27 | コンサート・オペラ

2015年6月11日(木) 7:00pm サントリー

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番ハ長調  10′9′8′
  ピアノ、デニス・マツーエフ
(encore)
リャードフ 音楽の玉手箱 3′
ビリー・ストレイホーン(マツーエフ編曲) A列車で行こう 4′

Int

ショスタコーヴィ 交響曲第10番ホ短調 25′5′12′12′
(encore)
エルガー 謎よりニムロード 3′

ユーリ・テミルカーノフ 指揮 読売日本交響楽団


今年はプロコフィエフの3番コンチェルトを聴く機会が多い。この日はマツーエフの爆なピアノ。とにかく、全部が平易な作業に見えてくる。
ピアノを弾いているという感じではなくて、腕や手や指を鍵盤におけばそれがすべて正しい位置であるという妙な結果論的な話があらかじめ用意されていると思えるような演奏で、神がかり的と言えるかもしれない。
線は思いの外太くなく、ボテボテと不明瞭な響きは皆無、ボリボリと強弱を掘り起こすような雰囲気皆無、一人で何本もの線を同時に操っているように聴こえてくる。あちらが見えるようなジャングルジム的3番コンチェルト、レアな透明度でした。

アンコールも印象的。
1曲目の玉手箱はなんだかミニチュアのオルゴールをいじっているような感じで、いつの間にかそのピュアな響きに聴衆が耳をたてている。
2曲目のA列車では演奏後、自分の両腕の指を見て、オレの指どうなってんの、って。そんなしぐさ。


後半のショスタコーヴィッチは言葉のもつ良否の印象は横に置いて、ゆるい、締めない、余裕がある、音がつながっている、響きに膨らみがあり、空洞のような感触がある。
ダダッ、ダダッ、二つ目のダが空気がすぅと抜けるようなリラックスした味わいの響き。後打ちが自然で妙な強調を感じない。手綱を緩めた柔らかいシンコペーション。
この曲は第2楽章や終楽章のスネアドラムの鳴りはあるが、パーカッションの例えば音色旋律風な粗野で魅力的な進行と言ったものがあまりない曲で、弦の透明な響きとリズムが統一感を持って楽章をまたいでくる。分散していく弦の息が長くて美しいメロディーライン。聴くほどに味わいが出てくるものですね。年初に聴いたワシリー・ペトレンコ&リヴァプールの硬質ででかい馬力のサウンドとはだいぶ違いますね。
ギスギスしない演奏で、油が十分に塗られているのにつるつるすることなくスムーズに進んでいく、漕ぎ具合のいいチェーンの自転車そんな感じです。
あと、全体の構成感、バランスが非常に良い。長大な第1楽章はテミルカーノフの棒のもとさらに長大になったけれど、内容の噛み砕きが素晴らしくて飽きない。構造のバランスがいいです。このテンポで隙間が無いというのは凄い話ですね。
あわせたように、短い第2楽章も悠揚であり混乱しないオーケストラサウンド、いいうねりです。第3楽章は2楽章の連鎖になるわけですけれども、第1楽章のゆっくりしたテンポの陥せいにはまっていかない。第3楽章とほぼアタッカではいる第4楽章は同じ長さで、足すと第1楽章になる。ショスタコーヴィッチの3楽章的構成感の対比の妙をここでも感じないわけにはいかない。モードは全曲にわたり緊密ですしね。

アンコールのニムロード、お得意の曲ですね。このピースを振る時のテミルカーノフの顔はなぜか若々しい。いいですね。
この演奏でも構成感への配慮が大きいて凄い。あのスローさでピース後半にウエイトを置いてさらに突き詰めていくあたり、まぁ普通ではない凄さでした。
いい演奏会でした、ありがとうございました。

おわり




1806- アンドリュー・リットン、都響パーティー、2015.6.7

2015-06-08 23:03:11 | コンサート・オペラ

リットンの演奏会の後、都響のサポーターズ・パーティーにうかがいました。

2015年6月7日(日) 4:00pm ,two hours long レストラン「アル・テアトロ」
開会
理事長挨拶、乾杯
歓談
スペシャル・ライブ 弦楽四重奏
歓談、質問コーナー
閉会


リットンさんとつのる話を長々と300秒、思い出話に浸りました。
ダラス響掌握しまくり、光り輝いていた時代、その前、マンハッタンでふけていた時代があったのかどうか、そのガーシュインの心髄、ダイェットも必要よとは言わなかったが、コツコツと買ったCDは今でも神棚に飾ってますよと。
楽しいひとときをありがとうございました。

ひとつだけ、
途中、弦四のスペシャルライブなどもあり楽しい歓談でしたけれど、バーバーのアダージョを長々と演奏したのは何か特別な意図があったのかどうかわかりませんが、あの雰囲気には全くふさわしくないもので興ざめ。間断なき歓談を止める力は無かったし、そのようなことをする意味もない。まことに不思議なライブでした。
おわり


1805- バーバー、ガーシュウィン、コープランド、バーンスタイン、リットン、都響2015.6.7

2015-06-08 00:18:15 | コンサート・オペラ

2015年6月7日(日) 2:00pm 東京芸術劇場

バーバー  序曲「悪口学校」 8′

ガーシュウィン  ピアノ協奏曲へ調 12′11′7′
 ピアノ、アンドリュー・リットン
(encore)
オスカー・ピーターソン編曲  ラウンド・ミッドナイト 6′

Int

コープランド  クワイエット・シティー  9′

バーンスタイン  ディヴェルティメント  15′

(encore)
バーンスタイン  ディヴェルティメントより終曲の一部 20″

アンドリュー・リットン 指揮 東京都交響楽団


いやぁ、アメリカもの4曲、リットンの弾き振りあり、それにスモーキーなアンコール、全て満喫しました。楽しかった。格別です。

ガーシュウィンの各フレーズ後半の膨らみ、なでるような響き、それにギザギザと刺さるような刻み、そしてスモーキーなフレーバー、最高!
リットンは弾き振りでオケの分まで一人で全部表現してくれました。
ガーシュウィンの心を表現するリットン、ガーシュウィンが自身で弾いたであろうめくるめく鍵盤サウンド、音の行間の名状し難い雰囲気、最高!
たぶん、ダラスの前にマンハッタンでふけていた頃もあったかと、そのようなこともフツフツと伝わってきそうな具合で!

一度は生聴きしたいと思っていたリットンのピアノを聴けて良かった。それも、弾き振りとソロアンコールということで、最高!
ガーシュウィンのコンチェルトの弾き振りですけれど、電子楽譜がセットアップしてあり、手で譜めくりしなくて済むので、より正確な弾きが出来ると推測されます。いいものだと思います。最近は演奏会でそこそこ見かけますね。
左足で何か踏んでいましたのでそのタイミングで譜がめくれると思いますけれど、これはこれでペダルと兼務でややこしいということはないんですかね。

リットンのソロアンコール、ラウンド・ミッドナイト、これ昔見た同名タイトルの曲なのかな。そこらへんにことはよくわかりませんが、タバコの煙むんむんのあの映画ちょっと思い出しました。


小澤征爾ボストン響が世界初演したバーンスタインのディヴェルティメント。本当に面白い曲です。終曲「BSOよ永遠なれ」て、ピッコロが立つ前からスーザの星条旗よ永遠なれのパロディというかほとんど変奏曲みたいな感じ。

コープランドのクワイエット・シティーは当地で聴くのとはちょっと趣が異なる感じ。喧騒とその対になるものは個別の街の風景により色合いが様々でてくるのかもしれない。落ち着きました。

このオーケストラはスーツ姿見てると、出来るサラリーマンと言う雰囲気なのだが、この日の音楽のアトモスフィアはリットンのものであり、唯一満足できたのはトランペットのソロ。アメリカ音楽を真似することなく自分なりに噛み砕いた演奏が説得力ありました。
さっぱりだったのがホルン。存在感さえ危ぶまれるような感じで、表現したい何かが本当にあるのかさえわからない状態。
ほかはおしなべていつも通りの硬いサウンドで表面的にはアメリカミュージックには合っていると思う。


平成がはじまった頃のリットン&ダラス響は破竹の勢い(日本にいるとわからない)で、DORIANやDELOSレーベルでたくさん聴きました。ご本人の弾き振りCDも2枚ともよく聴きましたね。
この組み合わせのCDは30~40枚ほど持ってます。ほとんどが本屋のBarnes & Nobleから自分で直接取り寄せたもの。
演奏会後のパーティーでサインをいただいたCDをアップしておきます。
おわり





1804- 馬あぶ、パガニーニ・ラプソディ、火の鳥、ラザレフ、日フィル、2015.6.6

2015-06-07 11:55:23 | コンサート・オペラ

2015年6月6日(土) 6:00pm みなとみらい

ショスタコーヴィッチ 組曲「馬あぶ」Op.97a  42′

ラフマニノフ パガニーニの主題による狂詩曲  26′
  ピアノ、伊藤恵

Int

ストラヴィンスキー  火の鳥(1945年版) 29′

アレクサンドル・ラザレフ 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


馬あぶはお初で聴きましたが殊の外でかい曲で、結局、前半のプログラムだけで後半の倍以上という頭でっかちとなりました。
最初の馬あぶは解説にある通りの内容で、作曲家の描写音楽もその心的なものまで含めてよくきまっている。猛将ラザレフは闘士アーサーのごとき、激走、メランコリック、甘美、ぶ厚いサウンド、ストリングのシームレスなメロディー、印象的なサックス3重奏とハープの絡み、圧巻の終曲。ダイナミックで圧倒的な12曲42分でした。ショスタコーヴィッチの映画音楽を堪能したひと時でした。
日フィルはラザレフが振ると強靭なサウンドとなり、音が急に生き生きとしてくる。豹変と言えるほどの変わりよう。びっくりしますね。

前半2曲目の伊藤のパガニーニ狂詩曲。オーケストラは縦に炸裂、ピアノは横に流れていく感じなのだが、なぜか息がよくあっている。昨今の若手ソリスト、特にピアノでは、オーケストラ伴奏に乗せて弾くときと、カデンツァのようなソロ局面とで、あまりにテンポが違いすぎる演奏が多い。独りになると綿々と弾き始めるから、まぁ、こだわりは有っていいとは思いますが、テンポのちぐはぐさは曲の全体美に水を差すケースが多い。この点、伊藤はさすがと言いますか、ぶれないテンポで淡々と弾くさまは、自身の弾くピアノのあるべき姿を意識しつつ、それをわざとらしさ皆無で自然体で魅せてくれる。いいピアノでした。キュートな演奏でした。縁取り感覚はラザレフと似ているのかもしれない。


前半2曲でエネルギーを使い果たしたと思いましたが、後半の火の鳥、極太のサウンドが飛んできました。もうこうなると何も言うことは無い。1945年版はこれまで聴いたことがあるのかどうか覚えておりませんが、ここ2,3年で全曲演奏を何度か聴いているので余裕の受け入れ態勢です。10曲29分。

全部、満喫できました。ありがとうございました。
おわり


1803- サーリアホ、Cl協、ニールセン、Sym.No3、ダウスゴー、都響、2015.5.29

2015-06-02 01:26:03 | コンサート・オペラ

2015年5月29日(金) 7:00pm サントリー

サーリアホ クラリネット協奏曲 35′
  クラリネット、カリ・クリーク

Int

ニールセン 交響曲第3番 12′9′5′9′
  ソプラノ、半田美和子
  バリトン、加耒徹

トーマス・ダウスゴー 指揮 東京都交響楽団


クラリネットの動きから直感的に思い起こすのがブーレーズのドメーヌ。
サーリアホのクラリネット協奏曲は、管理された意識下の偶然性を追うようなところは無い、というよりもそのような範疇には属さない音楽のようですけれど、オーケストラ配置や動きを入れたクラリネット奏者などを見ていると表面(おもてづら)は真似のように見える。
音楽の表現手段や方法といったあたりのことではなくて、あくまでも物語からの霊感イメージの描写、ブーレーズの世界とはまるで異なるのですが見た目はそんなことも無い。
閃きが感じられないし、通り過ぎていく曲だと思います。

(コメント)
動き回るドラッカー ホライゾン-11- 1984.6.6

フランスものブーレーズ他の評 ホライゾン -12-


後半のニールセンは宇野功芳に言わせれば、表面的効果をねらった中身の無い、と言ったところだと思うが、それは指揮者やオーケストラの演奏のことを言っているのではなく、曲そのもののことと宇野さんのセリフを個人的に流用させてもらいます。本当に表面的効果を狙いすぎていて、中身が無いというのは、つまり、構造を作ろうとしている意思が見えるけれどもうまくいかない、そういう曲だということで、作曲者の限界が見える、演奏がこのように良ければ増して空虚な響きとなる。
構造が弱く、音が派手、という話で。
おわり