河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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662-マーラー10番 必殺6連発 クルト・ザンデルリンクNYP1984.1.5 その2

2008-08-28 23:15:03 | インポート

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前回のブログでザンデルリンクのマーラー10番の演奏会の模様を書いたが、その翌日、ニューヨーク・タイムズに限りなくわかりにくい文章を得意とするドナル・ヘナハンの評がさっそく載った。

ニューヨーク・タイムズ
1984年1月6日(金)
ドナル・ヘナハン
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 もし、かつて、作曲家が自身の肩をつかむ冷たい手を感じたら、そして、死への試みについての不安を音楽にしたのなら、グスタフ・マーラーがその人であった。仕事で、仕事のあとで彼がそうであった真のロマンティックのようなものを反映しているように見える最終の出来事をかなり早くに予想し始めていた。しかし、1911年の彼の死に未完成で残した交響曲第10番において明白に、観客が見えるようなところはどこにもない。スコアはただ単に、”O Lord ,why hast Thou forsaken me”といった絶望的なフレーズに満たされているだけではない。かなり力の弱まった陶酔した二つのスケルツオでさえ、音楽の雰囲気は緩和されない残酷さである。
 クルト・ザンデルリンク指揮ニューヨーク・フィルハーモニックによる昨晩の演奏は、決して霊感をあたえ、高揚させるものではなかったが、重要な局面において、本質的に活気がなく淋しく孤独な性格を反映した。昔、レニングラード・フィルの指揮者、そしてごく最近ベルリン交響楽団の指揮者になったザンデルリンクは、自身のプログラムを5楽章70分で満たした。作品は荒涼としており不吉に孤立しなければならなかったといった考えに基づいているのは疑いの余地がない。それはサウンドについても同じ考えであった。第10交響曲にとって、マーラーの苦悩した精神プシケに慣れさせた誰かが、ある晩、我慢して耐えるということが全てである。
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スコアは1972年にあのイギリスの音楽学者デリック・クックによって拡張、編集された有名な演奏版によっていた。マーラーの未亡人アルマによって着想に第1の反対があったあと、1964年に初演されたオリジナル・クック版は、ニューヨークで演奏された。その前にユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア・オーケストラが2回演奏した。マーラー自身が部分的に完成させたスコアと草稿から、クックが完全版を書き上げるまでは、コンサート好きによって知られていた楽章は、最初のアダージョとマーラーがプルガトリオと呼んだ短い謎の楽章のみであった。これら二つの楽章がマーラーが完成させた全てあったので、マーラーの交響曲第10番などというものはない、と多くの音楽家は当然のごとく反抗した。たしかに議論すべきことはある。しかし私は告白しなければならない。クックがつなぎ合わせたハイブリット作品を聴くと、病的な魅力にとりつかれることを。
作曲家は全然違うことをしたのかもしれないし、またいたるところびっくりさせるようなことをしたかったのかもしれない、と聴き手が考える気持ちはいつもどこかに潜んでいるけれども、オーケストレーションはだいたいマーラーの音のように聴こえる。初期の交響曲と比べてみるとよい。ザンデルリンクの単刀直入でしばしば歩行者のような解釈は、偽るようなことはほとんどないという事実から、10番が真に活気があり独特であると、特に言えるわけではない。
大きな伸縮自在の拍をもった信頼できる音楽家、彼はフィルハーモニックから音符のよい読みを引き出した。しかし、なにが彼らの間、彼らのもとに横たわっているのかということにはわずかなヒントしか与えなかった。
 少なくとも、最終楽章には残酷な種類のエネルギーがあった、マーラーが、第3番や第9番のゆっくりした最終楽章の方法で、少しも諦めたような哀愁を帯びるように試みたことはなかったという冷酷な試合終了。覆われたバスドラムの10回の衝撃的な爆発によって区切られることによって、ベートーベンの5番の”運命が扉をたたく”といったことを暗示することはなかった。たとえあったとしても、打撃の衝撃とともに戸を通ってくる死であった、おだてて丸め込まれるとか否定するといったことではない。虚勢をはることはなかったし、誤った推論でもなかった、ただ恐れることは、絶望と空虚。ここに、最終的に、演奏は想像をつかみホールドした。
 作品を与えられ、未完成で混合された著作者の歴史を与えられ、注目すべき鮮やかさと慇懃さの演奏をだれも期待することは出来なかった。オーケストラ・セクションは、たいてい、金管が弦と木管を越え、バランスを崩していた。ザンデルリンクはそのような細かいことや、みんなが後期マーラーに期待するような超自然的有頂天を成し遂げようとすることを、あまり考えていなかった。オーケストラによって正確に演奏された巨大でなじみのない作品を簡単に得るには、始めに十分に成し遂げるようにみえるようにしなければならなかった。

と言った感じで、ほとんどわけのわからない迷訳であるが、これは全てヘナハンが悪い。
新聞の評だからいいようなものの、言葉を発しての同時通訳ならかなり高度な人でも困難を伴うこと間違いなし。
でも、読み進めるうちになんだか味わいが出てきて面白いところもある。評の内容に一部の隙もない、確信に満ちたものが感じられてくるのだ。音楽への愛着みたいなものが見えてきて、不思議で魅惑的な文章だ。彼はこのような文の感じ、構造の頭で音楽を聴いているのかもしれない。
おわり

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