河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2213- ベト4、シュマ4、ヘンヒェン、新日フィル、2016.10.29

2016-10-29 19:41:22 | コンサート

2016年10月29日(土) 2:00pm サントリー

ベートーヴェン 交響曲第4番変ロ長調  10′10′6′7′
Int
シューマン 交響曲第4番ニ短調(1851 revised ver.) 10+5+5+7′

ハルトムート・ヘンヒェン 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


下ごしらえと下味がかなりよくわかるもので、先週のマリア様の名演から日にちがあったせいかどうか、きっちりと仕込んできた聴き応え十分の演奏でした。それに、せっかく手間ひまかけておいしく出来上がった料理に、生卵をぶちかましてすべて同じ味にしてしまうようなひどいものが世間ではよくありますけれど、そのようなぶちかましもなくて、見た目も中身も美しいもの。彫琢された解釈と演奏はヘンヒェン、前回来日時のモーツァルトを思い出させる素晴らしい演奏となりました。
前半のベートーヴェンは楽章を追うごとに活魚のような生きの良さになっていきましたね。埃っぽいアンサンブルが時として多いオーケストラですが、この日は水を得た魚、その水のようなウェットでありながらみずみずしいという、わりと離れ業的な変わりようにびっくり、感服。
私の席からはオーケストラの奥行き感が毎度よくわかるのですけれども、いつにもましてストリングの粒たちの良さと滑らかなシンコペーションが際立っていて、そして奥からは湧水のように鳴るブラスセクションが弦を壊さず品の良い響きとなって、コントロール、整理された音響が生理的快感みたいなものを強く感じさせるに至る、本格的な演奏でしたね。上岡さんになってから響きの思い起こしがこのオケに出てきたのかもしれませんですね。そのような良い作用も少し感じられました。

後半のシューマンは、前半プロで響いた本格的な鳴りのブラスが一筋の光のようで、柔らかい稲妻みたいな表現は、特にフィナーレ楽章への長いアタッカからのブリッジでは、ちょっとクラクラするようなサウンド、ピアニシモからフォルテへの自然な息吹のようなものを感じさせてくれました。このやにっこいニ短調が生き生きしている。
この版のせいかどうかはわかりませんが、弦の曇り空は晴れ、ブラスは節度ある輝きとハーモニー、シューマンライクなあたりを一歩踏み越えたような演奏だった。ヘンヒェン会心の棒。


という具合で演奏自体は大変に充実したものでした、が、
演奏会としては短すぎる。終わったのが3時半。彫琢にはこの2曲が限界だったのかとうがった見方をされかねない。昨今2時間半ロングの演奏会が頻繁にある中、これでは企画面での倒れ。前半頭にコリオラン、後半頭にマンフレッド、休憩は15分、これでお願いしますよ。
おわり


2212- Trick or Treat in Mnhttn nite (new-rev)

2016-10-29 01:40:24 | 静かな悪友S

河童
「日本人にはハロウィンなんて関係ないんじゃないか。」

静かな悪友S
「いやいや、日本人は西欧のありとあらゆるイヴェントを組み込まないと気が済まないのさ。彼らが右を向けば、右に行列をなすわけさ。その先になにがあるかわからんが、とりあえず並んでみようと。」

河童
「なんでかね。そうゆう特質なのか。河童界では理解できんな。」

S
「最近は商売便乗みたいなところもあるみたいだ。小金あまり、時間あまり、平和ボケ、無いのは、何だろう。パンプキンの中身みたいなもんだ。」

河童
「人間界だとこの前夜祭、外国かぶれした人間どもが余計な仮装をして暴れまくり地下鉄も時間によってはうようよしているな。ウィークデイの何でもない日でもおめでたいことだ。後先見ずに遊びまくりだろう、きっと。」

S
「そうだな。おめでたい。ところでアメリカあたりでもそんな騒ぎが大きかったのかね。」

河童
「どうかな。アメリカ人のすることはたまにわからないこともあるし。」

S
「河童さんが棲息していた摩天楼ではガキどもも入ってこれなかったんだろう。」

河童
「それがそうでもないんだ。ドアマンがいて、セキュリティも厳重で普段なら絶対に誰も侵入できないはずなのにだ、ドンドンとドアをたたく音がする。」

S
「それで。」

河童
「誰だ。不埒な闖入者は。といっても反応がない。誰だ誰だ。こんな21階まで上がってくる奴は。名を名乗れ。」

S
「マンハッタンでは何がおきても不思議はない。」

河童
「ドアの覗き穴から恐る恐る廊下をみても誰も視界にはいらない。それなのにドンドンたたく音だけはやまない。」

S
「なるほど。ガキども視界にはいらないはずだな。」

河童
「3~4人でドアの外でわめいている。なんかくれないとワルするぞ。ってね。はは、これは外で騒いでいる連中のガキどもが、ドアマンに言って催促にきてるんだな。というのはわかった。」

S
「でもあげるお菓子なんか部屋にないだろ。」

河童
「そうだ。毎晩飲みふけって皿にもアルコールが充満しているし、いま皿、何もない。」

S
「でも何かあげないとあの子たち帰らない。」

河童
「最後の手段さ。おかね。お小遣い気味のおかねを渡すと割とおとなしく退散するんだな。利口な子たちだよ。」

S
「毎年そんなことしてたのか。」

河童
「いや、運悪くニューヨーク・フィルの定期のない月曜とか水曜にあたると居留守を使うわけにもいかないが、それ以外は毎晩エイヴリーフィッシャーホールかメトロポリタンオペラハウスかはたまたカーネギーホールだな。だから、もぬけのからというわけさ。でも後で考えると、外からの侵入というのはやはり考えにくい。同じビルの他の住人の子供たちの悪ふざけということだったのかもしれない。」

S
「なるほどね。それはそうとお河童さんの21階のお部屋の番号はSuite何番だったんだい。」

河童
「#21BBだね。」

S
「そうか。それで、Best Boy だったのかね。Bad Boy だったのかね。」


2211- 西村朗、野平一朗、個展、杉山洋一、都響、2016.10.28

2016-10-28 23:26:33 | コンサート

2016年10月28日(金) 7:00pm サントリー

野平一朗 管弦楽のための「時の歪み」 (世界初演)  15′

西村朗 液状管弦楽のための協奏曲  (世界初演)   20′

Int

野平一朗&西村朗 ピアノ協奏曲「クロッシングA・I」 (世界初演) 11′9′11′
 ピアノ、野平一朗
第1楽章 ソロパート:西村作、オケ伴パート:野平作  11′
第2楽章 ソロパートのみ(野平作6ピース、西村作6ピース) 9′
第3楽章 ソロパート:野平作、オケ伴パート:西村作  11′

杉山洋一 指揮 東京都交響楽団


野平さんと西村さんの個展、初演もの3個。
ざっくり言って、点と線。
野平さんの短い音符で咆哮するような攻撃的なスタイルに対して、西村さんの高密度で息の長い流線形型フレーズ進行。端的に言って、点の野平、線の西村。

1曲目の野平作品「時の歪み」点。
2曲目の西村作品「液状」線。
3曲目
第1楽章、線の西村ソロパート、野平の点によるオケ伴。
第2楽章、ソロピアノによる点の野平6ピースと線の西村6ピースをシャッフル演奏。
第3楽章、点の野平ソロパート、西村の線によるオケ伴。

つまり、1曲目と2曲目でそれぞれの作品を展示し、3曲目のピアノコンチェルトで、合体させる。合体パターンは3種類。2人が均等になるように。

ということだと思います。
野平自身がピアノを受け持っているので彼に若干勝ち目にあるような気もする。個人的には西村の高密度な音の鳴りが好みなので、まぁ、五分五分。


1曲目の野平「時の歪み」、ブラスを中心に短い音符で咆哮を繰り返す。プログラムノートに書いてあることとはかけ離れている印象がある。
「音の全てのパラメーターに歪みが適用され、~」とノートにある。パラメーターとは変数と思うので、この説明は少しややこしい。変数が適用される本体があるはず。音が本体ならパラメーターとは何のことをさしているのか。パラメーターではなく、素材もしくはエレメントと置き換えた方がいいような気がします。あるいは音の構成要素ということかもしれない。
歪みは、素材の「展開」の代わり、であるとも書いている。この場合の素材というのは節やフレーズの事として理解していいのか、別の意味なのかわからない。等々、
色々書かれていますが全文にわたり理解できないところが多い文章。出てきた音とこのノートとは結び付かなく感じた音楽でした。時の歪みの正確な定義がまず必要と感じます。
また、この作品だけ、外国向けタイトルがフランス語なのはどうしてなのか。ご自身の身近な外国語だからでしょうか。

2曲目の西村の液状。息の長いフレーズ、それが全楽器にわたりびっしりと音に隙間なく敷き詰められながら進行していく。こちらのノートの内容はイメージであり、水のようなもの(水質)とイメージを書いていながら、実際に出てくる響きは、水滴であったり、もっとねっとりした液体であったり、まぁ、そこに色々と書いてある通りの液状のような具合なので、ストンと結びつく。この場合、ファジーと言っては何だが、そのような説明の方がよく理解できることもあるわけだ。

3曲目のクロッシングは、両端が合体。真ん中がシャッフル。均等にしたのだろう。この場合の共作とはそういう意味合いのものだったのでしょう。機会均等と言い換えてもいい。
点と線の区分けでいくと最初に書いた通り、全く分かりやすい音楽。
サブタイトルのクロッシング、それにお二方のイニシャルを取ったA・I。わかりやすいもの。作品の印象は、ごった煮。
点と線が音楽的シナジー効果をもたらせば言うことはない。実際のところはそれぞれの魅力が相殺されていたような気がする。点が線を打ち消し、線が点を打ち消してしまった。
共作で閃き系の作品を作るのは困難と思います。用意周到になればなるほど音楽のもつ自由さや躍動するものがなくなってしまうような気がしますね。それをはねのけるほどのものではなかった。


解像度の高い都響の演奏はこの種の演奏会にはもってこいですね。中身のよくわかる演奏でした。指揮の杉山さんは熱のこもったもので、音がうまく開放されていたと思います。
おわり




2210- ベトコン3、レオンスカヤ、新世界より、ソヒエフ、N響、2016.10.27

2016-10-27 23:10:51 | コンサート

2016年10月27日(木) 7:00pm サントリー

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番ハ短調  17′10′10′
  ピアノ、エリーザベト・レオンスカヤ
(encore)
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第17番ニ短調テンペスト 第3楽章  7′

Int

ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 新世界より  13′10′7′11′

トゥガン・ソヒエフ 指揮 NHK交響楽団


レオンスカヤさんを聴くのは、まさか、1990年ホルスト・シュタイン&バンベルク響によるブラームス全集のとき以来なのか、いやもっと最近聴いているはずだ、と自問自答しつつ、ベートーヴェンの3番コンチェルトを。ハ短調ですな。
提示部がやたらと長いこの作品、各主題をそれこそがメインよと言わんばかりにきっちりと振りつくす、もしかしてガチガチソナタ形式大好きなのかソヒエフさん。まぁ、几帳面、きっちり系はこのオケの望むところでもあり、息はぴったり。
大柄のレオンスカヤさんの横幅以上に手は左右に広がっている印象がない。(失礼)
肘より上はあまり動かさないタイプですかね。ご自分の視界に入るところで全て弾けている感じ。右左一気に視界を決めて、あとはその中で自在に弾いていく。押しはそれほどでもない。暗いハ短調から、モーツァルトのような輝きの弾きでスタート。音価レングスがちょっとまちまちなところを感じますけれども、やつすして弾くことはない。ごまかしのないプレイです。
このホールはピアノには過酷なホール、響きの輪郭がぼけてしまう。オケ伴あるとそのフレームさえ曇る。草木を分けて聴かないといいところは聴こえてこない。ピアノを十分に楽しめるところではなくて困ったものです。今度のオーバーホールではそういった問題点も直してほしいものです。
レオンスカヤさんはピアノメインとなるパッセージでもスピードを落とすことがない。指揮者との駆け引きもあるのでしょうけれども、ぐっと落とす人が多いですよね。最近特にそうなのかどうかはわかりません。若い人に多いような気がします。
ソナタ形式ソヒエフのスタンスだとそういうところがありません。スゥースゥーと進行していきます。音楽に自然の推進力、流れが出てきますね。息の切れない音楽が絶え間なく流れる具合で、なんだか、ヤングなさわやかな風が吹いてきた。
アンコールがテンペストの終楽章。柔らかでオルゴールのような小さな響きから魅惑的に始まり、繰り返す同じ主題が出てくるたびに何種類にも色合いを変えてくる。美ニュアンスがちりばめられたビューティフルな演奏。ダイアモンド演奏。


ソヒエフの棒を持たないときの指揮ぶりは非常に雄弁ですね。テミルカーノフのように手刀を切るようなときもあれば、おにぎりでも握っているのか、こねるようなアクションのときもある。ただ、けっして踊りはしない。
彼の振る新世界は形式好物表明のようでもあり、形式感が定まっているものをきっちりと振りぬくのが得意そう。このオケはこういったタイプの指揮者には服従することに快感をビビビッと感じ、従えば従うほど良い演奏になるというところが大いにある内部回路を持ったオケ。ソナタ形式のメリハリが完ぺき。主題のバランスも素晴らしい。またダイナミックなところ、パースペクティブもよく出る。バランスを崩さず彫りの深い演奏をするあたり指揮者とオケ、俄然一体ですな。
やりつくされている新世界、もう少し遊び心があってもいいような気がしますが。

ソヒエフは本分のオペラならどうなるのか。ボリスやホヴァンチナを手兵のボリショイともども観てみたいものです。
おわり


2209- ナクソス島のアリアドネ、ヤノフスキ、ウィーン国立歌劇場、2016.10.25

2016-10-25 23:26:44 | オペラ

2016年10月25日(火) 7:00-9:50pm 東京文化会館

NBS&日経 プレゼンツ
シュトラウス 作曲
スヴェン=エリック・ベヒトルフ プロダクション
ナクソス島のアリアドネ

キャスト(in order of appearance)  of prologue
1.作曲家、ステファニー・ハウツィール(Ms)
2.踊り子、ダニエラ・ファリー(S)
3.執事長、ハンス・ペーター・カンメラー(台詞)
4.音楽教師、マルクス・アイヒェ(Br)
5-1.プリマドンナ、グン=ブリット・バークミン(S)
5-2.テノール歌手、ステファン・グールド(T)

キャスト(in order of appearance)  of opera
1-1.水の精、マリア・ナザーロワ(S)
1-1.木の精、ウルリケ・ヘルツェル(Ms)
1-1.山びこ、ローレン・ミシェル(S)
1-2.アリアドネ、グン=ブリット・バークミン(S)
2.ツェルビネッタ、ダニエラ・ファリー(S)
3.作曲家、ステファニー・ハウツィール(黙役)
4.バッカス、ステファン・グールド(T)

マレク・ヤノフスキ 指揮 ウィーン国立歌劇場

(elapsed time)
プロローグ 39′
Int
序曲 4′
オペラ 75′ (オペラ・セリア15′、コンメディア・デラルテ30′、オペラ・セリア30′)





   





オペラのほうの第3シーン(オペラ・セリア)の30分におよぶ、アリアドネのバークミンとバッカスのグールド、圧巻。圧巻。
第2シーン(コンメディア・デラルテ)の30分、ほぼ独り舞台のツェルビネッタのファリー、こちらのコロラトゥーラのカラーリングが効いた歌いっぷり動きっぷりはこれまた、圧巻。

長丁場第3シーン、デュエットは大詰めまで待たなければならない。驚異的な厚みでホールに響き渡るソプラノのバークミン、あまりの声のデカさにメージャー・ドーモーが横にぶっ飛んでしまったヘルデンテノールのグールド。この場、中盤まではそれぞれ独唱で聴かせ、最後俄然一体となった二重唱、もはや、ぶったまげも頂点、筆舌に尽くし難いおそろしいまでの歌いっぷり。唖然。人間技とは思えない、アンビリーバブル。
オペラ、満喫。

それと、もう一人、ズボン役作曲家メッゾのハウツィール、プロローグは歌だけとるなら彼女の独り舞台、まぁ、舞台には粒ぞろいの方々たくさん出てきますので、動きではそちらに目がいく部分もあるのだが、ハウツィールはバークミンの極厚な声質をそのままメッゾに移したような感じで、デカい声しなやかサウンド、それにメロウなあたりも隠し味的にジワジワと。
オペラでは、3台のピアノ、蓋が空いたり斜めになったりの3台のピアノが舞台中央にあり、奥にこちらむきに劇中劇の聴衆が座っている。真ん中に手前から奥に通路。それら聴衆席の手前中央にセッティングした3台のピアノの一つを弾きツェルビネッタの伴奏付けをする。この黙役とプロローグ合わせ、お見事な活躍でした。

あと、第1、3シーン(オペラ・セリア)でアリアドネを取り巻く女3人衆、バランスがよくとれたソプラノ、メッゾで、やっぱり負けず声がデカい。なめし皮のような柔らかで強靭な歌唱が魅力的でしたね。

リングサイクルでバイロイトでも日本でも知らない人はいないヤノフスキ、2500円プログラムにキュッヒルの興味深いお話がちょこっと載っているそのヤノフスキの棒。個人的には最近になって彼の極意棒を少しわかってきたようなところはありますと他のブログのところでも書きました。
音の出が遅くなることを嫌う棒はオペラでもよく機能している。ウィーン歌劇場のオケを振るのは四半世紀ぶりと、それが宣伝文句になること自体理解できないものなんですが、実際のところ40人に満たない(36人編成か)オケを統率、あまり騒ぐような話でもない。
主催者は目くじら歯くじら立てて根掘り葉掘り色々な話を引っ張り出してきて何でもかんでもいい方向に宣伝しないとね、この6万3千円オペラ、値段つり上げの材料探しに躍起なんでしょう。
いずれにしても彼の真価はここにあるとは言えない。
演奏は豊かに満ち溢れている。打点通りに音の出を求めるヤノフスキ棒にたまにずれをみせながらも歌い切る。オペラの序曲は非常にゆっくりとした印象がありましたけれども、実際のところはそれほどでもない。双方の音楽性がマッチした瞬間だったと思います。
オペラ第3シーンではバークミンがそうとう舞台前方に乗り出してきて歌う個所があり、冷静沈着なヤノフスキとの別の水でも飲んでいるようなエキサイティングなところもありました。
引き締められたタクトは舞台に激しく向けられることはあまり多くは無い。


ベヒトルフのプロダクションは、まず、明るくてシック。ウィーンの舞台だなぁと感じる。天井へのスペースが大きくとられている。降りてくるシャンデリアの仕掛けの事もあると思います。
プロローグは人の出入りが多い割にごちゃごちゃしたところがまるで感じられない落ち着いたもので素晴らしい舞台です。オペラ部分でのセッティングは上に書いた通りです。ここは奥の聴衆席を暗くし、明かりがキーワードになっていそうですね。

オペラ第3場でアリアドネが、かみて寄りで仰向けになるシーンがありますね。あすこにはミレーのオフィーリアがダブりました。絵とは右左逆ですが、劇中劇の聴衆にとっては正しいポジションという話になりますね。
最後は、奥の聴衆席の真ん中に手前から奥にとられた通路をアリアドネとバッカスが走りながら奥に駆け上がり、アリアドネはかみて側に、バッカスはしもて側に、手でお互いを払いあい分かれていく。劇中劇一丁あがり、あんまりタイプじゃなかったんだけど劇だから一緒に歌ってあげたのさ、っていう感じのエンディング。まぁ、こちらの本当の聴衆も、ああ、劇だったとホットして終わる感じ。これはこれで。


オペラとコンメディア・デラルテ、俄然一体という文章が踊りますが、実際のところはそんなことはなくて、観ればわかるようにかなりはっきりと区切られる。音楽は流れ続けるが、場面は明確に変わる。この作品を俄然一体とべた褒めするのはどうかと思います。
第3シーンのアリアドネとバッカスによる圧倒的な二重唱のあと、ツェルビネッタの出は、演出の如何にかかわらず違和感の残るところではあります。

バークミンは昨年デュトワ&N響とオンステージで歌ったときのおかっぱが妙にエキセントリックさを誘うものでした。今日はオペラではロングな髪を束ねて顔がよく見える。エキセントリックな風味は演目あわせるような感じで少し遠慮。サロメのインパクト強いですよね。

グールドはこの10月前半、新国立でジークムントを6回歌ったばかり。今回は急逝したヨハン・ボーダの代役。
作曲家のカサロヴァを聴きたかったのですが、ハウツィールに変更。
両方ともに内容には満足しました。代役とは思えないぐらい。

あと、昔(プラザ合意の頃)メトで見た同作品、Bodo Igeszのプロダクションでは、ピットのオケが音出し、チューニングなどをおもいおもいやっているうちにそれがいつのまにかシュトラウスの音楽に変わって既に始まっている、指揮のアンドリュー・デイヴィスはジーパンなりのラフな格好でいつの間にかポーディアムで座って指揮を始めている。そのような記憶があります。あれはあれで面白かった。


以上、4年ぶりの来日となったウィーン国立歌劇場来日公演初日より。
おわり









2208- マーキュリー、ベト4、シュベ4、鈴木秀美、日フィル、2016.10.22

2016-10-22 18:01:00 | コンサート

2016年10月22日(土) 2:00pm サントリー

ハイドン 交響曲第43番変ホ長調 マーキュリー 9′7′3′6′

ベートーヴェン 交響曲第4番ハ短調 11′8′6′6′

Int

シューベルト 交響曲第4番ハ短調 9′9′3′7′

鈴木秀美 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


この指揮者と新日フィルの組み合わせは一度聴いている。(2016.3.26 朝11時)
きびきびした演奏で好感を持ちました。今日はシューベルトがフレッシュでした。
ノンビブ気味にキュッ、キュッと弦が持ち上がり、切れ味良い演奏。指揮も両腕でかなり動く。最初から最後までコントロールの効いたもので、これはかなり練習を積んだものと思いました。
半面、前半2曲目のベートーヴェン、ソロの目立つウィンドは相応でしたけれども、ストリングがブサブサと、ザッツが雑で、速いパッセージは不揃い。リハを積んでないのではないか。乱れというより、練習不足でタイミングがあってない。指揮ぶりは、左手はあまり使っていない。
要所を締めてあとは流れに任せるような感じで、うまく開放されればいいのだが、ブサブサですよ。後方上からブラボーコールがあったのでそちらのほうでは良い演奏のように聴こえたのでしょう。
1曲目のハイドンは殊の外、しなやかなものでしたね。
おわり


2207- ドヴォルザーク、スターバト・マーテル、ハルトムート・ヘンヒェン、新日フィル、2016.10.21

2016-10-21 23:06:54 | コンサート

2016年10月21日(金) 7:00pm トリフォニー

ドヴォルザーク スターバト・マーテルOp.58  20′10′6′9′5′5′6′5′5′9′

ソプラノ、松田奈緒美
アルト、池田香織
テノール、松原友
バス、久保和範
合唱、栗友会合唱団

ハルトムート・ヘンヒェン 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


この詩への共感というのは、読み始めてすぐにマリア様の立場になって出来事を感じることが出来るからなのではないかと思う。この詩のバックグラウンドは到底およびもつかないもので無学な自分には理解のおよばないものではあるのですが、それはそれとして、その人の立場というのは妙な言い方なれど、すぐに真剣にそこに立てる。なぜなのかわからない。わからないけれども、宗教性の無い自分でも読むほどによくわかる。その立場に自分をトランスファー出来る。幾百の作曲家が題材にしてきたのもよく理解できます。
最初の3行で脊髄を電気が走ります。

ドヴォルザークは3人の子を失うという悲しみ。インスパイアといえばこれまた妙な言い方になるけれども、悲しみを受け止め癒すには悲しみの創作しかないのではないか。悲しみを現実のものとして受け止め昇華させるには創るしかなかったのではあるまいか。悲しみが心に突き刺さるように沁みる。

いつも聴いているようなドヴォルザーク節はほとんどありません。ほぼ全くないと思いますね。ドヴォルザーク作品だと思って聴くから香るところは無いとは言いませんが。

第1曲、清らかな明るいテノールから幅広のソプラノに受け継がれてゆく最初の詩、悲しみの聖母は立っていた。一瞬にしてその世界にはいっていくことになります。これです。
この第1曲目が一番長い。ここに他者はいない。母と子だけの世界。
今年のバイロイト、ネルソンスがパルジファルをキャンセルし今日の指揮者ヘンヒェンが振ったという。その具合は知らないですけれど、この1曲目、指揮棒を持たず柔らかく振られた腕、なんという清らかで澄み切った合唱の透明さ。一瞬そのパルジファル終幕大詰めのコラールが天から奏でられたような錯覚に陥ってしまった。やっぱりビビビの電気。
この合唱と同色系のトーンで塗りこめられたオーケストラの角の無い滑らかでシームレスな進行と響き、そしてちりばめられた多彩なニュアンス、驚くべきヘンヒェンの棒。特に出し入れ豊かな音楽の表情は圧倒的。
第2曲でこのシーンを皆にうったえかける。ここは残酷なシーンなのだろうか、なにかリアルなものが背を走る。この2曲目が1曲目の次に長い。この2曲で全体の三分の一以上を占める。
合唱の第3曲、そしてバス独唱と合唱による第4曲。結局4曲までで45分と全ウエイトの半分以上。聴後感は、もうここまでで尽きた感がある。

あなたの苦難をわたしのものにと分けてください。ここらあたりは悲しみの平地であろう。
5曲の合唱、そして清らかでお見事なテノールと合唱、次のオンリー合唱、松田さんの日本人離れしたソプラノが極めて美しい8曲目の二重唱。のどの広さが見えるような横広なソプラノ、でかい声だ、繊細なピアニシモ、なき子を包むような声、神経細胞が見えるようなデリカシーが子を包み込む。

そして、第9曲、音楽は音の実感を伴って盛り上がる。池田さんのアルト独唱、この前別の役で聴いたばかりだが、それとは一変した歌いようで、もはや、火を吸い込んでくれるのではないのか、これなら火にくべられることもないだろう、その実感のような歌いっぷりで、あまりの素晴らしさに、当方、ギブアップ。ねじ伏せられました。

終曲、たとえ肉体は朽ちるとしても。このあとの詩は、人さまざまだろう。それでいい。
前曲から音楽はさらに圧倒的な盛り上がりをみせる。ものすごい心的盛り上がり。合唱のなんという厚さ、極美な歌が響き渡る。この日、合唱は明晰といえるキーワードで満たされていましたね。
そして心的もりあがりをもう一歩高みに持っていってくれたオーケストラの慎ましやかとさえいえる抑制美。音が流れ合唱が歌いソロが覆い尽す。悲しみの盛り上がりは最高潮をむかえたかと思うと静かに心鎮まれりとピアニシモエンド。ヘンヒェンは激しく動き高まり、自らをコントロールして終わりを締める。音楽に耽溺することの無い棒でこの終曲含め10曲ともに、すぅっと終止する。余韻は空白で感じるものなんだよ、そう言っている。大詰めフィニッシュもお見事なものでした。

ヘンヒェンは合唱にはタクトを使わず柔らかに腕を振る。的確な指示、右左横に腕を振るのが目立つ。川が流れるような具合の動き。
ソリスト、オーケストラのときはタクトを持ち比較的ピンポイントな振りですね。ソリスト連が指揮者に近く、ちらちら横目で指揮者を見ながらの歌の局面もありました。特に松田さん、池田さん女性のお二人がより近いのか、よく見ておりました。ということは目を動かし顔は正面を見て歌い切っているということです。身体がぶれないソロは歌だけでなく楽器の場合でも大切なことですね。最近はよく動くインストゥルメント・ソロ奏者多いですから、今日の歌いての身振りを煎じて飲んでほしいですゎ。
いずれにしも、指揮のヘンヒェン、絶妙な棒、彼がいればこそ出来た全員団結のマリア様。


空席がみえた演奏会でしたけれども、いつものぎゃあぎゃあいう声が無く、じわじわと拍手が少しずつ盛り上がり、何よりも、途切れず続く。西江コンマスが、終演おじぎしなかったら拍手はいつまでも続いていたと思いますよ。素晴らしい演奏の余韻があのやむことの無い拍手でしたからね。

オーケストラメンバーにトラが少なくなってきているような気がします。上岡さんが監督になったからかな。どちらにしても正規メンバーで出来るのはいいことだと思います。
今日はいい演奏会ありがとうございました。
おわり


2206- スラヴ行進曲、グラズノフVn協、グルズマン、花火、春の祭典、ヴェデルニコフ、N響、2016.10.15

2016-10-15 22:02:49 | コンサート

2016年10月15日(土) 6:00-7:45pm NHKホール

チャイコフスキー スラヴ行進曲  10′

グラズノフ ヴァイオリン協奏曲イ短調  19′
 ヴァイオリン、ワディム・グルズマン
(encore)
バッハ パルティータ第2番ニ短調 サラバンド 4′

Int

ストラヴィンスキー 花火  3′

ストラヴィンスキー 春の祭典  16′18′

アレクサンドル・ヴェデルニコフ 指揮 NHK交響楽団


かなり久しぶりに聴くスラヴ行進曲、前の席なのでよくわかるのですが、N響の音の出のあまりの遅さにヴェデルニコフが少し戸惑っているように見える。反応が単に鈍いだけの遅さではないだけにやりにくいなぁ、と思っているのかどうかはわかりませんけれども、これはこのオケの特性として自分のものとしていかないとダメなんだろうなぁ。そんな感じですね。
ブラスセクションのレスポンスの遅さは際立っており、とても行進曲とはいえない。シンフォニックな演奏。N響による行進曲はだいたいこんな感じで縦に進む。
このような味わいも悪くはないと、最後には思ってしまいます。

グラズノフのヴァイオリン協奏曲は波風が立たない作品で、自分としては今ひとつ良さがわからない。

後半のハルサイ、ヴェデルニコフはアルチザン風味があるのかしら。自然な振りで変則バーをまるで感じさせない。ロシアの指揮者はハルサイを特に変則拍子の曲とは思っておらず、自然の踊りなのだ、といった文章をどこかで読んだことがあるが、それを思い出しました。バレエ音楽にアルチザン的な一脈を多く感じさせてくれそうな気配はありますね。
たまに一心不乱になったり、ディテールの情感を出してくれたりと、まぁ、余裕の振りです。オケのほうも少し前に出るようになった気がします。ズがでてしばらくしてからシーン、ズ・シーンのスラヴ行進曲ではなくて、バシャバシャきてくれました。こちらのほうがはるかに活気のある演奏で聴き応えありました。
おわり


2205- エフゲニー・オネーギン、ゲルギエフ、マリインスキー、2016.10.15

2016-10-15 21:54:34 | オペラ

2016年10月15日(土) noon12:00-4:05pm 東京文化会館

野村グループ プレゼンツ
チャイコフスキー 作曲
アレクセイ・ステパニュク プロダクション
エフゲニー・オネーギン

キャスト(in order of appearance)
1-1.タチヤーナ、マリア・バヤンキナ(S)
1-2.オルガ、エカテリーナ・セルゲイエワ(Ms)
2-1.ラーリナ、スヴェトラーナ・フォルコヴァ()、
2-2.乳母、エレーナ・ヴィトマン()
3-1.レンスキー、エフゲニー・アフメドフ(T)
3-2.オネーギン、アレクセイ・マルコフ(Br)
4.トリケ、アレクサンドル・トロフィモフ()
5.中隊長、ユーリー・ブラソフ()
6.ザレツキー、アレクサンドル・ゲラシモフ()
7.グレーミン、ミハイル・ペトレンコ(Bs)

ワレリー・ゲルギエフ 指揮 マリインスキー・オペラ

ActⅠ 33′ sb1′ 33′ sb1′ 18′
Int
ActⅡ 25′ sb1′ 17′
Int
ActⅢ 20′ 15′


美しくちりばめられたカラフルなリンゴは5000個とは言わずとも、どこか哀しさを湛えた明るいシーン、それに練り上げられた人物の動き、ディテールの美しさはいたるところ目をみはるものがありました。
この前に上演されたドン・カルロ(2016.10.12)がロシア物風に突き抜けていたあれに呼応するかのように、チャイコフスキーはそのロシア物とはまるで異なる洗練の極みの様な音楽で、ゲルギエフ&マリインスキーが、神経細胞が見えるようなナイーブなデリカシーをもろに見せつけてくれた極限の抒情的情景でありました。
何から何までビューティフル。

第2幕の決闘に至る物語は、長い第1幕が無くても違和感なく成立する話だと思いますけれど、その長い第1幕は伏線になるのではなくて、むしろ第2幕こそドラマチックではありますがこちらのほうが伏線と思えてくるわけです。換言すると、第1幕と第3幕の起結ストーリーにはこの2幕の内容でなくてもいいというようなことです。このストーリーが選択されたのかどうか浮かんだのでしょうか、原作的には。
ここに共通するのは驚嘆すべき美しさ。綿々とウェットに、果てることのない美しさ。

プロダクションのステパニュクは、マリインスキー・アカデミーの若いソロたちに当時の慣習や言葉のイントネーション、それに動作など教えたとある。また第2幕のストップモーションやダンサーみたいな細やかな動きを表現する大勢の貴族連、あれはもしかして合唱団ではないよねと脳裏をよぎったりしたのだが、彼の弁ではコーラスの人間ひとりひとりに演技付けをしたとのこと、舞踏シーンも含め。
結局、一体化したシステム、統一感のあるもので、劇場そのものを観る醍醐味に浸りつくしました。ソリストのワンフレーズからコーラスひとりのつま先の動きまで、鍛えられたものだったわけですね。と後になって素晴らしさをさらに実感する羽目になってしまった。

舞台はシンプル、緞帳の先にもう一つ幕を縦横に作ることにより場面転換させ、幕の終わりは緞帳を下げる。舞台のシンプルな美しさもさることながら人物の動きが精緻で色々と意味ありげな個所が自然に出てくる感じ。
コーラスの動きは特筆すべきところが多々ありましたが、肝心の歌が今一つ、これは他の公演でも同じ。(2016.10.11、2016.10.12)
あと、粒ぞろいのソリスト。レンスキーのアフメドフは正面席でも声が少し小さく感じました。
ほぼ室内楽モードの演奏はウェットな泣き節にもゲルギエフの真骨頂があると認識させてくれるに十分でした。
カーテンコールにはステパニュクもあらわれました。

素晴らしい内容で満足しました。
おわり


2204- ベトソナ、1番、テレーゼ、テンペスト、ワルトシュタイン、32番、小菅優、2016.10.14

2016-10-14 23:17:04 | リサイタル

2016年10月14日(金) 7:00-9:25pm 紀尾井ホール

オール・ベートーヴェン・ピアノソナタ・プログラム

第1番ヘ短調Op.2-1   4′6′2+4′
第24番嬰ヘ短調Op.78テレーゼ  7+3′
第17番ニ短調Op.31-2テンペスト  10+8+7′
Int
第21番ハ長調Op.53ワルトシュタイン  11′4+10′
第32番ハ短調Op.111  10+17′

ピアノ、小菅優


SACDのベトソナ全集完結記念公演。SACDは2枚1組で5タイトル、計10枚セット。しばらく前に購入済みで既に愛聴盤。みずみずしくてクリアなタッチ、録音も素晴らしい。

今日のリサイタルは満を持してのものと思う。万全な状態でのリサイタルであったと思います。ベトソナ5曲、すべての曲、すみずみまで集中度が非常に高いもので緊張感もそうとうなもの。ピーンと張りつめた空気が最初から最後まで心地よかった。完成度の非常に高い演奏であったと思います。

駆け上がるように始まる1番。形式はほぼシンフォニー的なソナタ形式、小菅さんのピアノはその形式認識と、強弱、伸縮、絶妙なニュアンスをちりばめながらのきれいなサウンドでの進行、これら両方が見事に絡み合っている。完ぺきな演奏ではないか。
この1番の頭の波形はシンフォニックなもので、まぁ、何かに似ていると言えばそうかもしれないが、それよりもなによりも、抽象的ではあるがシンフォニーという存在そのものを感じさせてくれる。すぐにオーケストラ版に編曲できそうな具合。彼女のピアノだとそういったことがよくわかる。ベートーヴェンのみずみずしい感性をこれ以上なくうまく表現している。
スケルツォ楽章のトリオの沸き立つようなフレージング、技術的にも音楽のストリーム的にも自然な滑らかさが際立っていましたね。

テレーゼは2楽章のコンパクトサイズ。歌謡性と厳格さが両立している。多彩なニュアンスは驚くべきものがありました。居心地がよくなってきた。

3曲目のテンペスト。全3楽章、濃厚です。特に第1楽章のラプソディのような中に潜むラルゴ、それをなにかインスピ―レーションでも受けたかのように隙間の中を埋めていく美しい音。瞑想。極スローなテンポ。そして、嵐。丹念に進める。
このラルゴ部分は次の楽章への伏線みたいなものを感じさせてくれる。意味深いものでしたね。2楽章の瞑想。そしてアタッカで続く狂詩曲のようなフレージングと形式感の両立、ほれぼれする。音はすっと闇の中にあっという間に隠れてしまい終わりをむかえる。
32番なんかもそうだが、魅惑的な尻つぼみ的終止は生で聴いてはじめてベートーヴェンのフィーリングが理解できるのではあるまいか。

ここまで3曲、満足状態。

後半は、ワルトシュタインからスタート。オーケストラによるシンフォニーばかり聴いている方は、この曲を聴けばシンフォニックなベートーヴェンのピアノソナタに親近性を感じるに違いない。オーケストラゴアーズでピアノ聴きたいと思う人には、とっかかりとしてお勧めですね。
小菅さんのピアノは切れ味鋭く、きれいな水のような音で、激しい第1楽章が美しい。ベートーヴェンの突進よりも、激しい美しさのようなものを強く感じます。ここでも次の楽章が暗示されます。
第2楽章は、野に咲いた花のよう。短い楽章ですが味わい深い。ここでも次のフィナーレ楽章の響きが強く示されていて、そういうところは感性のバランスを保ちながら、丹念に注意深く弾いていますね。よくわかります。
アタッカで続くフィナーレ楽章は水切りのときのような輪が水面に次々に広がっていくような具合で、音楽の振動が大きく広がっていく。この楽章、ほれぼれするする美演でした。音楽が生きている、今生まれたばかりのように。ああ、スバラシイ。それに、この楽章のグリサンド風な指技しっかりと観させてもらいました。音価が均質で同じ長さで粒立ちが良いので、よくあっているなぁとここでも感心するしかない。
このワルトシュタインと前半のテンペスト、音楽が非常に大きく感じた。表現力の豊かさという話だろうと思いますよ。

最後の32番。巨大でした。最後のソナタとはなんぞや。ほかの作品と同じように弾くだけ。淡々と、激しく、自然に、小さい一歩から始める。そのようなものが徐々に積み重なっていき、心的インテグレーション効果をもたらす。
インスピレーションの塊のような曲。ベートーヴェン、よくもこんな離れ業のような曲を作れるもんだ、ホント、とんでもねぇ。開いた口が塞がらないとはこのことよ。
ベートーヴェンを強く感じさせてくれる小菅さんのピアノ技。第2楽章なんてぇのは命がけの演奏ですよね、尾根の上を歩く紙一重のバランス、なにか狂気に近い作品ではないのか。凄い作品、凄い演奏。アンビリーバブル。

おわりたくないリサイタル。いつまでも聴いていたい。
席は左2階席やや前方で、小菅さんの指使いがよく見えました。身体全体をかなりピアノに近づけて弾いている。ですので肘がときおり背中より後ろに突き出るようになる。腕を大きくブルブルすることはあることはあるのですが、そういったアクションがメインではなくて手と指で弾いていく。両手の交錯が自然で、音も一定している。終始、非常にきれいな響きのピアノ。そんなに強い押しではないと思いますが、音が出るぎりぎりのところから、手ごたえある響きを実感できるところまで、きっちりと押しこんでいるように見えます。また、タイ、スラーなどとスタッカート的な響きが明確に弾き分けられている。あれは見事でしたね。
なんだかピアノが弾けるような気がしてきた。
充実のリサイタル。渾身のプレイでした。お見事な演奏、ありがとうございました。
おわり

希望
小菅さんの生ベトソナ、全部聴きたい。


2203- ヴェルディ、ドン・カルロ、ゲルギエフ、マリインスキ―、2016.10.12

2016-10-12 23:41:27 | オペラ

2016年10月12日(水) 6:00-10:35pm 東京文化会館

野村グループ プレゼンツ
ヴェルディ作曲
ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ プロダクション
ドン・カルロ

キャスト(in order of appearance)
1.修道士、ユーリー・ヴォロビエフ(Bs)
2.ドン・カルロ、ヨンフン・リー(T)
3.ロドリーゴ、アレクセイ・マルコフ(Br)
4.エボリ公女、ユリア・マトーチュキナ(Ms)
5.エリザベッタ、イリーナ・チュリロワ(S)
6.フィリッポ2世、フェルッチョ・フルラネット(Bs)
6.アレンベルク伯爵夫人、不明(黙役)
6.レルマ伯爵、アレクサンドル・トロフィモフ()
6.テバルド、マリーナ・アレンショコワ()
7.宗教裁判長、ミハイル・ペトレンコ(Bs)

ワレリー・ゲルギエフ 指揮 マリインスキー・オペラ

(タイミング)
第1幕 18′ 45′
Int
第2幕 15′ sb2  20′
Int
第3幕 41′ sb1 14′
Sb2
第4幕 23′


この日も前日同様、開場したが席へのドアはしばらく開かない。リハ続いているのだろう。ということで、

ヴェルディの作品を聴いたはず観たはずなんだが、聴後感観後感はロシア物。なんだか圧倒的なロシア作品という残像感。
このオペラはヴェルディのゴツゴツボコボコ進む感じがもともと無く、シームレスな流れが美しい作品で、ロシアのオペラだと最後はほとんど長編小説の読後感のようなものがあるのだが、ゲルギエフがそのようなことを狙って意図したものなのか、はたまた、ヴェルディの他作品も多数振っているのか、そのあたりのことはよくわかりませんけれども、それなりのスポットをあてたものであるような気がします。途中からストーリーはほぼ横に置いて、歌そのものの美しさの饗宴になってくる。ダークな舞台にダークなストーリー、そして綺羅星のような独唱、重唱、撫でるようなフレージングが美しいオーケストラ伴奏。もう、そこらへんのことを、身を任せて浸る。第2幕2場、第3幕、第4幕、特に第3幕第1場、ここにタイトルロールは出てきませんが、揃った揃った5人衆、次々と繰り出される見事な歌唱がとめどなく溢れ出る。誰が主役かわからなくなるぐらい。

この作品は、たまたま割と集中した一昨年(2014年)、二期会で3回、オペラバンドで1回、計4回観ました。いずれも5幕版で、頭のところがあるかないかで随分と印象が違う。4幕版だとホルンの節のところから入るので序奏的な雰囲気からの出になるがどうも違和感がぬぐえない。すぐに物語に集中していけるところはあるのかな。まぁ、でも、1幕、2幕前半越えれば、ストーリー越えてドラマチックな歌の世界に入り込んでいく。

出番としては、1幕すぐに、ドン・カルロとロドリーゴ、そして、エボリ公女とエリザベッタが出てきて、これに、フィリッポ2世がからんでくる。あとは、3幕から宗教裁判長の出番。この6キャストによる構図。
演出はシンプルなもので、ストーリー展開に合わせてバックに映像を織り交ぜながら進める。大掛かりな仕掛はなく、人の動きでそこそこみせる。この演出の方はヴィデオグラフィクス(映像演出)をよく取り入れているようですね。シンプルで効果的。
第2幕2場の火刑の場では、火あぶりされた死にゆく人々が天上にいく様子が舞うように映し出される。リアルなものではないがなかなかいい。全体構図はコンパクトなんだが、同場面にはフルラネット扮する国王も登場していて、相乗的な効果を得ている。このコンパクトな中での劇を許容しようというか、なにか、枠組みの中での出来事として見ていられる部分があって、処刑の残酷さが浮き彫りにならない。これはこれでいいアイデアだと思いました。雰囲気、ムソルグスキーのホバンシチーナのフィナーレでも使えそうな気がしました。
2幕のこのシーンでグッと盛り上がる。
3幕は、フィリッポ2世フルラネットの超有名バスアリア(ひとり寂しく眠ろう)から、宗教裁判長との二重唱、そしてタイトルロール以外による四重奏、などなど次から次とこれ以上ない技が出てくる。2場からドン・カルロも絡み、最後はロドリーゴの圧唱。もはや、誰が主役なのか本当にわからなくなる。この3幕は全部圧巻。
そしてショートブリーフをはさんで終幕4幕はエリザベッタが舞台中央でアリアを絶唱。これも素晴らしかった。聴いているほうは息をつくまもない。

フルラネットは昔メトでよく聴いた(30年ほど昔)。ラ・ボエームのコルリーネ、セビリアの理髪師のドン・バジーリオ、リゴレットのスパラフチーレ、、昔は若かったはずなんだが、見た目の印象は今も昔もあまり変わらない。バスサウンドは隙間が無くザラザラせず、ややウエットで太くて大きい声。前によく出るもので迫力あり。どのシーンも印象的。
題名役のヨンフン・リーはもうひと抜けほしいですね。声の抜けはもちろんの事、演技も同じくもうすこし体当たりしてほしい。
エボリ公女のマトーチュキナは柔らかめで前によくとおるメッゾ。自らの美しさをねたみ、最後倒れるあたり白熱の演技。こういった没頭演技がリーにはほしかったですね。
ロドリーゴのマルコフは少しざらつきが感じられたが渾身のバリトン。題名役をくってしまいかねない、歌だけでなく仕草も。いい歌唱がいたるところに聴かれました。
宗教裁判長のペトレンコ。前日イーゴリ公でのコンチャーク汗のアリアを聴いていまして、毅然としたバス、見栄えのする姿、圧倒的でした。この宗教裁判長はキャラクター風味満載で、盲目役で顔は見せず、布っきれみたいなもので身を隠し、お化けのような長身。10センチ高のゴム靴のようなものを履いていて、ただでさえ高身長なのにこのハイヒール。空をさまよう裁判長。これはいかさまであってもおかしくないねぇと思わせるに十分。
4幕頭のアリアを見事に決めてくれたエリザベッタのチュリロワ。この4幕、舞台には何もない。奥に壁のようなものがあるだけ、種も仕掛けもない。舞台の真ん中に一人歩み出て、全聴衆が見守る中、ひとりで全てを決めなければならない。これって、なんだろう、もう、やるしかないっていう感じかな。ここまでくるとヴェルディのことはほとんど忘れてしまっていて、ロシア長編小説的オペラの締めくくりの終章が始まった。リリック、ドラマチック両方のソプラノがハイブリッドしたような絶妙なニュアンスがちりばめられた歌で、もう、ほれぼれ。歌い手の目線と同じ高さの位置で聴くオペラアリアの醍醐味は、何物にも代えがたい。ほれぼれする歌唱でした。

オーケストラは、前日はオン・ステージで今一つでしたけれども、今日は水を得た魚、ピットを得たオーケストラ。演奏が生きている。劇場型のオケとあらためて痛感。生き物のような見事な伴奏でした。
おわり



2202- ロメジュリ、オネーギン、イーゴリ公、十月革命、ゲルギエフ、マリインスキー、2016.10.11

2016-10-11 23:44:19 | コンサート

2016年10月11日(火) 7:00-9:30pm 東京文化会館

チャイコフスキー ロメオとジュリエット  21′

チャイコフスキー エフゲニー・オネーギンより
  わが青春の輝ける日々よ、レンスキー:エフゲニー・アフメドフ(T)  6′
  恋は年齢を問わぬもの、グレーミン侯爵:エドワルト・ツァンガ(BsBr)  5′
  たとえ死んでもいいの、タチアーナ:エカテリーナ・ゴンチャロワ(S)  13′

ボロディン イーゴリ公より
  コンチャーク汗のアリア、汗:ミハイル・ペトレンコ(Bs)  6′
  ダッタン人の踊り、合唱:マリインスキー歌劇場合唱団  11′

Int

プロコフィエフ 十月革命20周年のためのカンタータ (日本初演)
  合唱、マリインスキー歌劇場合唱団
                                         38 = 3+2+2+2+1+8+5+6+5+4

ワレリー・ゲルギエフ 指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団


プログラム前半に変更追加があり、彼らしくロングな演奏会となりました。夏に単独で来た時もそうでしたが相変わらず精力的。ちょっとスリムになった気がします。
ゲルギエフ、マリインスキーの来日スケジュールは毎度詰め込み過ぎ。彼ら流なのだろうが。

9日間で9公演。
10/8京都   オネーギン
10/9西宮   演奏会
10/10東京  ドン・カルロ
10/11東京  演奏会
10/12東京  ドン・カルロ
10/14東京  演奏会
10/15東京昼 オネーギン
10/15東京夜 演奏会
10/16東京  オネーギン

開場時刻に開場してもホールのドアは開けてくれない。リハーサルが終わらないのだろう。
彼らの来日公演はいつもバタバタしている印象がある。演奏が始まってしまえばその集中度の高さは凄くて、色々なことはすぐ忘れてしまうというところもあるにはあるが。

今回の聴きものは、日本初演になるらしいプロコフィエフの十月革命20周年記念カンタータ。
まず、前半のチャイコのロメジュリで楽器を温める。たぶんさっきまでリハしてたので余熱はありそうだ。でも演奏はさっぱりで何も燃えない。オーケストラの目線の位置と同じ高さの席に座って聴いていたのですが、音が前に来ない。やっぱり劇場のピットがあっているのかなぁ。音がやや薄くなった印象。
次のアリア。プログラム変更があり、チャイコフスキーは2曲だったのが3曲に。スペードの女王は取りやめ、全3曲オネーギンから。ここらあたりから格段に良くなった。伴奏に徹している感じ。自分たちの居場所にいる感じ。
それでアリア3個。良かったですねぇ。もう、そのシーンが浮かんでくる。
アフメドフのレンスキー、やや小ぶりな声質かなとも思いましたが滑らかな歌唱で、わが青春の輝ける日々よ、新鮮でした。
ツァンガによるグレーミン侯爵、この歌は歌い得といいますか、この短い歌でさらっていきますからね。ほどほどに深いバスバリトン。
そしてタチアーナの手紙のシーン、ゴンチャロワさんのやや細めの歌が美しい。
この3曲でだんだんおなかがいっぱいになってきた。気持ちよくなってきました。チャイコフスキーのしなやかなオネーギン節、満喫できました。
前半プロまだ終わりません。
ペトレンコMによるコンチャーク汗のアリア、さーと歌ってさぁーと消える。絵になる歌い手ですな。迫力あるバスが見事に歌い上げた。
さぁーと消えた後は、間髪入れずにダッタン人。音楽が激しくなるはずなんだが、でもやっぱりオケ、合唱、ちょっと消沈モード。でもここらあたりでようやく劇場型潤滑油が多少出てきた感はある。この日、オケはあまりよくありませんでしたな。
もう、8時半。これから一服して後半か。

十月革命は1917年、それの20周年記念のために作られたカンタータで1937年もの。日本初演らしきことはプログラムには書かれてなくて、盛り上がりに欠ける気配。ツイッターでは主催者が初演らしきことをはいていたように思います。
大規模編成で、ブラスは2群、国内組も参加しているようです。合唱も2群となってます。これは単に分けただけのように見えます。パーカスのあたりではなにやら足踏みで音を出している。これら以外にも色々とありそうだが、トータルの音響は、マーラー等で慣れてしまっていることもあるし、そんなに驚くようなものではない。
字幕付きで、内容は最初から、真っ赤。お国どころによるとは言えもはや時代錯誤としか見えない。芸術作品を見ているのだとあらためて自分に言いきかせる。歌詞への言及はあまり意味が無いように思える。
プログラム冊子には、爆裂とか炸裂とか凄まじいとか大団円といった言葉が並んでいますが、実際の音響はそれほどでもないことを付け加えておきます。
全体の印象としては、歌詞の赤さ加減は横に置いて、音楽の響きは現代的な様相を呈している。渋いというよりも前に進んできている感じ。編成楽器は多めだが、薄められている。響きの多様性を表現している。調は安定しておらずそれがモダンに感じるところもあるかと思う。全体で38分。10曲連続演奏される。10ピースに分かれているといったものではなくて、曲想が連続したまま次々と変化していく。
1.前奏曲 3
2. 哲学者たち 2
3. 間奏曲 2
4. 我らは固く団結して進む 2
5. 間奏曲  1
6. 革命 8
7. 勝利 5
8. 誓い 6
9. シンフォニー 5
10.憲法 4

5まではあっという間に終わる。音楽の充実度で言えば、6革命、7勝利、のあとの、8誓い、9シンフォニー、の部分。
8誓いでは暗いロシアの民謡風ではあるのだが、メロディアスな方向付けは意識して避けられている。その作為が自然。
9シンフォニーは純楽器による演奏、作曲者充実の技巧が随所に聴かれる。充実の音楽。
フィナーレの10憲法は、盛り上がりの伏線もなくあっけなく終わりをむかえる。

こんな感じで、プロコフィエフのやにっこい音楽が満載といえるかもしれない。やにっこすぎてとっつきづらいところがある。変化はあるが盛り上がりはいまひとつ。音楽的なアクセルとでもいえるドラマチックなあたりの流れもあるとは言えない。この曲に詳しくないので決めつけはよくありませんですが、以上が全体印象です。

この日のマリインスキーのオーケストラ、今一つ活力不足。来日公演は過密スケジュールですが、おそらく国内でもそうとうに過密なはず。演奏しながら身体を休める極意を彼らは会得していると思われますが、疲れはでますね。
あと、弦に一段と女性奏者が増えた気がする。

ちょっと思い出したんだが、プロコフィエフの戦争と平和やったのいつだっけ。あれはなにから何まではいったごった煮だった。全部入っていた気がする。
おわり


2201- リンツ、ブルックナー7番、メータ、ウイーン・フィル、2016.10.10

2016-10-10 23:02:52 | コンサート

2016年10月10日(月) 4:00pm サントリー

モーツァルト 交響曲第36番ハ長調 リンツ  10′6′5′5′

Int

ブルックナー 交響曲第7番ホ長調 (ノヴァーク版)  20′20′11′12′


ズービン・メータ 指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


10/7公演はこちら
10/9公演はこちら

一言で言うと豊饒な美しさ。このときのために特別なリハは積んでいないと思われますが、日常が垣間見えるような風景から豊かな音楽が満ち溢れる。第1楽章のコーダ、弦の全馬力、圧倒的な渾身のトレモロが、彼らが音楽の使者であること、そして献身の濃さを感じさせる。地響きをたてるような音で、ホルン含めたブラスセクションをヴェールに包み込む。驚天動地のコーダでした。
7番はこの楽章もフィナーレも最後の音型が上昇形で、明るい気配を漂わせながら締めくくってくれる曲。神々しいもので、なんだか、自分にも明るい未来はあるはずだと作曲者の自問自答が聞こえてくるようだ。フィナーレのコーダは何層もの音群が別々にスライドしていくような響きで、それは錯覚なのだろうが、悠然たるテンポで最後まで押し通したメータの演奏ではありました。

曲全般に経過句が目立つというのがあるが、第1楽章のソナタ形式は非常にクリアなものでわかりやすい。
メータの突然のブレーキ。提示部第3主題に入るところで第2主題から派生した経過句のブラスセクションの咆哮が突然、不揃いも顧みずスーパー・リタルダンド。その理由は当のメータのみぞ知る。まぁ、あれは、かけすぎかも。
歳を重ね手綱を緩めたメータ唯一のハードなポイントでした。異常事態は結果的にはそこだけで、あとは丸いもの。ブルックナーの音楽を堪能しました。

それからフィナーレ楽章が長さにおいてアンバランスであるという弱点はこの演奏では克服されていたように思います。以前何度か書いてますように、展開部から再現部への区切りが明確でなく、明確でないというよりもミックスしちまっているように思う。展開部と再現部がこのミックス部分とそれぞれ同じ長さだけあれば、持ちこたえられるとは思うんですが。
ところが、この日のビシビシと引き締まった演奏。ぶ厚い音の束が心地よく引き締まった具合のサウンドが、そういった形式感を忘れさせてくれる。ぶ厚い音の層が時間軸的感覚を緩めてくれる。縦の強調が横軸をゆがめる。
全楽章elapsed time、20-20-11-12の進行具合。頭でっかち感は否めませんが、このオーケストラの特色が生きた演奏で、こういった具合にうまく聴こえてきたのだろう。

アダージョ楽章、ため息楽章、オーケストラの美しさがよく出ました。第1主題の鬱感、第2主題の一筋の明るさ。絶妙のコンビネーション。ため息出ました。美しい。弦の美しい音色には脱帽ものですね。クライマックスにはスーッスーッといった具合で登りつめる。ドラマチックなものよりもアダージョの一点盛り上がり通過のような味わい。ワグナーチューバをはじめとしたブラスの咆哮、空虚な鳴りと思えるワーグナー葬送。まぁ、この楽章にこめるメータの思い、ウエイトはそんなに高くはない。美しさの表現はオーケストラのものだろう。この楽章、堪能しました。

全楽章通して、オーケストラの日常の美しさが前面に出たもので、これが能力というものかと、あらためて実感。


第1楽章7-5-6-2
提示部2-3-2
展開部5
再現部1-3-2
コーダ2

第2楽章5-2-5-2-3-3
A   5
B   2
A´  5
B´  2
A´´  3
葬送  3

第3楽章4-3-4
スケルツォ4
トリオ3
スケルツォ4

第4楽章5-6-1
提示部1-2-2
展開部×再現部(区別つかず、第2主題無し?)  6
コーダ1

以上、16型の猛烈な演奏のブルックナー。


前半のリンツ。
ちょっと眠くなりました。10型編成、ポーディアムのほうにプレイヤーが寄った圧縮合奏。なんだが、まだ、色々と温まっていない感じ。ちょっとぬるめの演奏。キンキンいうぐらいのほうが良かったような気がしましたが。

ということで、10/7、10/9、10/10、三日にわたりメータとウィーン・フィル、大いに楽しむことが出来ました。10/12の第九公演には行く予定がありません。
色々とありがとうございました。
おわり
 


2200- ドンジョ序、海、シュベ8、メータ、ウィーン・フィル、2016.10.9

2016-10-09 23:33:27 | コンサート

2016年10月9日(日) 6:00pm ミューザ川崎

モーツァルト ドン・ジョヴァンニ、序曲 8′

ドビュッシー 海   8′7′8′

Int

シューベルト 交響曲第8番ハ長調  13′14′11′12′

(encore)
ドヴォルザーク スラヴォニック・ダンスOp.46 8番  4′

ズービン・メータ 指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


一昨日に続き本日もメータを観に来ました。
今日の演目の編成。
・モーツァルト 10型対向
・ドビュッシー 16型対向
・シューベルト 14型対向
このシューベルトはユニークな配置。弦5部の前に指揮台を取り囲むようにウィンド8名が小さく半円に配列。メータの左側から右に、
fl2-fl1-ob1-ob2-fg2-fg1-cl1-cl2
ファゴットとクラリネットのプリンシパルは通常配置のときと右左が逆隣り。

ドン・ジョヴァンニは小編成ながら高濃度。かなりぶ厚い音が飛んでくる。特に中声部は音がぎっしりと充満している。それにベース、2本だが弾きっぷりが凄くて、チェロやヴァイオリン並みのアクションですな。大したもんです。
これだとオペラまるごと観たいという感覚にすぐなりますね。家に帰ったらドンジョだ。
通常と異なる編曲できっちりエンディングさせているのだが、ちょっと見え透いた予定調和的な編曲でした。違和感ありと思う人もいるかもしれません。誰の編曲なのかわかりませんです。
メータの鳴らし方はヘビーですな。

2曲目の海は一昨日聴いた。そのときより若干スピードアップ。1曲目のドンジョもこの曲も譜面を見ながらの棒で少し窮屈そう。
まぁ、それにしてもこのオーケストラによる海原表現の厚みと繊細さかつ大胆な響き、何度聴いても魅力的。高密濃度、圧巻です。

後半のシューベルト。
ウィンド8名が弦の前にポーディアムを取り囲むように座る。かなり窮屈な配置。どのような思考結果によるものなのかはわかりません。流れるような歌謡性の強調なのかしら。第3楽章のトリオの歌はこの配置でものの見事にきまっていましたね。晴れやかな歌でした。あすこのためにこのような策か、まぁほかの箇所でも似たようなパッセージはあるので色々と効果的ではある。8名によるトリオ吹奏、しびれました。
このシューベルトは前半プロの海にも勝るむき出しの音。手加減しない大胆な響き。高圧縮濃度。モロに音が出てくる具合なんだが、それが美しさの塊となって飛んでくる。メータの棒によるところも大きいと思います。この場合、大胆さを許容したものと考えた方がいいのかもしれない。
振りが小さくなり足で踏ん張る独特のアクションはなくなりましたメータ、方向づけや許容といった世界観になってきてもおかしくはないと思います。山のように振ってきたわけですしね。
珍しいアクションとしては、この独特な配置のせいか、フィナーレ楽章コーダ前、第1ヴァイオリンの角度から聴衆のほうに向き、第2ヴァイオリンのほうへ、くるりと1回転。ウィンドへの指示がたぶん、あの回転の方が指示しやすかったのだと思います。一昨日のところでも書きましたけれども、もう、3桁ぐらいメータみてますが、あれ、初めて見ました。80にして回転。なかなかおもしろかった。
あと、第1楽章提示部はリピートしていたと思います。

このオーケストラは指揮者にストンプしない。普通のことかもしれないが、今は指揮者に足踏み、拍手を満面の笑みでするオーケストラがたくさんある。当事者同志でなにやってるんだろうね、と思っちまいます。
おわり
 


2199- ワルキューレ、三日目、新国立劇場、2016.10.8

2016-10-08 22:10:00 | オペラ

2016年10月8日(土) 2:00-7:30pm Opera Palace、新国立劇場、初台

新国立劇場 プレゼンツ
ワーグナー 作曲
ゲッツ・フリードリッヒ プロダクション
New production for opera-palace originally based on Finnish National Opera 1996

ワルキューレ

キャスト(in order of appearance)
1. ジークリンデ、ジョセフィーネ・ウェーバー(S)
2. ジークムント、ステファン・グールド(T)
3. フンディング、アルベルト・ペーゼンドルファー(Bs)
3.フンディングの家来たち(5人)

4. ヴォータン、グリア・グリムスレイ(BsBr)
5. ブリュンヒルデ、イレーネ・テオリン(S)
6. フリッカ、エレナ・ツィトコーワ(Ms)

7. ゲルヒルデ、佐藤路子(S)
7.オルトリンデ、増田のり子(S)
7.ヴァルトラウテ、増田弥生(Ms)
7.シュヴェルトライテ、小野美咲(Ms)
7.ヘルムヴィーゲ、日比野幸(S)
7.ジークルーネ、松浦麗(Ms)
7.グリムゲルデ、金子美香(Ms)
7.ロスヴァイゼ、田村由貴恵(Ms)

飯守泰次郎 指揮
東京フィルハーモニー管弦楽団

(Duration)
ActⅠ  66′
Int
ActⅡ 97′
Int
ActⅢ 75′



初日

二日目


初日、二日目と観て、20年の歳月を感じさせるプロダクションかなと思いましたが、色々と印象に残るところもある。
第2幕5場の大詰め、フンディングにやられてしまったジークムント、立ちすくむフンディング、死をコントロールしたヴォータン。この二人は横に並ぶように立つ。フンディングはシルエットのように黒ずんで影になる。隣に立つヴォータンは顔が見えるほど明るい。このコントラスト、どのような仕掛けかわかりませんが印象的な構図。
それから、これは時間軸があるのですが、3幕冒頭ワルキューレたちが死の英雄たちの上にまたがる。それと、この3場の大詰め、ヴォータンがブリュンヒルデを眠らせ、上からまたいで歌う。このコントラスト。これも印象的。

第2幕2場、グリムスレイによる語りのシーンは、この三日目も素晴らしい。遡りの語りにはうんざりだ、という人たちもいると思いますけれど、やっぱりここは物語の転換点のような気がする。転換、物語を前進させるには必要悪、と。ここは聴き応えありましたね。
オーケストラは絶妙さに欠ける伴奏で、大部分は指揮の問題だとは思いますが、初日からどうもプロレベル未満のかたが入っているのではないかという気がしてしまっていまして、その耳から抜け出せないでいる自分もいる。
逆に3幕2場のヴォータンの激高な歌につけた全奏による単発音が連続するオーケストラ伴奏は、縦さえ合えば強烈な印象となる。ヴォータンとオケのぶつかり合い。迫力ありました。

以上、ここまで3回。あと3回あります。去年のラインの黄金は6回観ましたが、今年のワルキューレは今日の3回目までとする予定です。
おわり