その頃、私は午後の4時に銭湯に行っていた。食べて寝て、本を読んで本屋に行くこと以外、ほとんど呆然としながら生きていたこの時期、銭湯で風呂に浸かるときだけ、自分をナマものだと感じたものである。
行きつけの銭湯には、かならず私より早くやって来るヤカン頭の爺さんがて、私が初めてそこに行った日、湯船の湯のあまりの熱さに水で埋めようとしたら、
「こらっ! 埋めるんじゃねェ!!」
と、ドスの利いた声で一喝された。
その後、とにかく毎日のように一緒になるので、おそろしく熱い湯に我慢して浸かっているうちに、四方山話などするようになった。
あの日は晩秋で、底冷えしていたので、私は多少急ぎ足で銭湯に向かった。すると、前の方から爺さんが首をすくめて歩いてきた。そしてすれ違いざまに短く、
「おい、今日はいけねェよ」
何がいけないのかテンでわからなかったが、私は聞き捨てて爺さんとすれ違い、銭湯の暖簾をくぐった。と、いきなり、いつもとはまったく違う、饐えたような、発酵したような、強烈な臭気が鼻を衝いてきた。
脱衣場の中央には、全身が黒と灰色とこげ茶色でまだらに見える男が立っていた。煮しめたように変色した背広らしき布の塊は、すでに足元の籠にあり、彼はいま袖口のあちこち切れたセーターを脱ぎにかかっていた。
ところがそれが、縄のれんのように太い束状になった、黒灰色の大量の髪の毛にからまり、容易に首が抜けないのである。
「あんた、今日はやめたら! 急に入ると風邪ひくよ! ねえ、よくないよ・・・」
胡麻塩頭で顎のがっちりした番台の店主が、真下に立っている私をチラチラ見ながら、彼が浴場に行くのを阻止しようとしていた。
男は、ゆっくりながらも確かな意志で服を脱ぎ続ける。それをなすすべなく見ながら、店主が独り言のように私に言った。
「よわったなあ・・・、にいさん、後で来た方がよくないかい? 湯が汚れるかもしれんし・・・」
男はついに全裸になった。蛍光灯を反射してところどころ光る、焦げ茶色の垢が全身をコーティングしていた。番台の店主は小さく息を吐いた。
男は、タオルも何も持たず、そのまま浴場の戸を開けた。そのころ私の鼻は臭いに馴れて何も感じない。彼に続いて私は服を脱ぎ、浴場に入った。
店主がいささか呆れたような顔で私を見ているのが、横の大鏡で見えた。
男は、一番湯船に近い場所に行き、直接タイルの床に胡坐ですわった。私は彼の斜め後ろに坐った。前の鏡に彼の背中が映っていた。
シャワーがあるのに、男はいきなり洗面器で頭から湯をかぶった。それから何度も何度も。繰り返して止まない。
話し声が聞こえ、浴場の入り口のガラスに人影が見えた。そして、離れていった。番台の店主に何か言われたのだろう。
男はひたすら頭から湯をかぶり続ける。
この男はいま、孤独なのだろうか? それとも、ただひとりであるだけなのだろうか。
背後に湯が落ちる音を聞きながら、私は髪の毛を洗い始めた。
本年もお読みいただき、ありがとうございました。皆様がよき新年をお迎えになりますよう、祈念申し上げます。
行きつけの銭湯には、かならず私より早くやって来るヤカン頭の爺さんがて、私が初めてそこに行った日、湯船の湯のあまりの熱さに水で埋めようとしたら、
「こらっ! 埋めるんじゃねェ!!」
と、ドスの利いた声で一喝された。
その後、とにかく毎日のように一緒になるので、おそろしく熱い湯に我慢して浸かっているうちに、四方山話などするようになった。
あの日は晩秋で、底冷えしていたので、私は多少急ぎ足で銭湯に向かった。すると、前の方から爺さんが首をすくめて歩いてきた。そしてすれ違いざまに短く、
「おい、今日はいけねェよ」
何がいけないのかテンでわからなかったが、私は聞き捨てて爺さんとすれ違い、銭湯の暖簾をくぐった。と、いきなり、いつもとはまったく違う、饐えたような、発酵したような、強烈な臭気が鼻を衝いてきた。
脱衣場の中央には、全身が黒と灰色とこげ茶色でまだらに見える男が立っていた。煮しめたように変色した背広らしき布の塊は、すでに足元の籠にあり、彼はいま袖口のあちこち切れたセーターを脱ぎにかかっていた。
ところがそれが、縄のれんのように太い束状になった、黒灰色の大量の髪の毛にからまり、容易に首が抜けないのである。
「あんた、今日はやめたら! 急に入ると風邪ひくよ! ねえ、よくないよ・・・」
胡麻塩頭で顎のがっちりした番台の店主が、真下に立っている私をチラチラ見ながら、彼が浴場に行くのを阻止しようとしていた。
男は、ゆっくりながらも確かな意志で服を脱ぎ続ける。それをなすすべなく見ながら、店主が独り言のように私に言った。
「よわったなあ・・・、にいさん、後で来た方がよくないかい? 湯が汚れるかもしれんし・・・」
男はついに全裸になった。蛍光灯を反射してところどころ光る、焦げ茶色の垢が全身をコーティングしていた。番台の店主は小さく息を吐いた。
男は、タオルも何も持たず、そのまま浴場の戸を開けた。そのころ私の鼻は臭いに馴れて何も感じない。彼に続いて私は服を脱ぎ、浴場に入った。
店主がいささか呆れたような顔で私を見ているのが、横の大鏡で見えた。
男は、一番湯船に近い場所に行き、直接タイルの床に胡坐ですわった。私は彼の斜め後ろに坐った。前の鏡に彼の背中が映っていた。
シャワーがあるのに、男はいきなり洗面器で頭から湯をかぶった。それから何度も何度も。繰り返して止まない。
話し声が聞こえ、浴場の入り口のガラスに人影が見えた。そして、離れていった。番台の店主に何か言われたのだろう。
男はひたすら頭から湯をかぶり続ける。
この男はいま、孤独なのだろうか? それとも、ただひとりであるだけなのだろうか。
背後に湯が落ちる音を聞きながら、私は髪の毛を洗い始めた。
本年もお読みいただき、ありがとうございました。皆様がよき新年をお迎えになりますよう、祈念申し上げます。
最後にユーモア溢れるお話、ありがとうございます。
お陰様で、孤独感から解放された気がします。
来年も、楽しいブログをお願いします。
来年は、どうぞ、インフルエンザにはお気をつけて下さい。
今年は、孤独のテーマが多かった気がしますが、最後も湯気な孤独話となりましたね。
「千と千尋の神隠し」の釜爺に、強力な薬の札を頼むシーンが、思い浮かびました。
私は冬至に柚子風呂に入りたかったのですが、風邪を引いてしまい、残念ながら入れない孤独を味わいました。
本年もありがとうございました。
来年も宜しくお願い致します。
風呂あっての俺、と言ってもいいくらいさ。
風呂で孤独なんか感じたことないさ。
だってさ、それって便所で孤独を感じるようなものだろ?
孤独なんてないさ、孤独なんて嘘さ。
スパなんかに行くと、露天風呂にある寝椅子で、ビニールカバーを付けて、真っ裸で、セレブのように、読んでいる人がいました。
私的には、風呂では半身浴派です。
南師は、本屋に行って本を読む、という順番ではないようですね。
1日2風呂。
趣味とも言える。
なのではないのでしょうか?
風呂を倣うとは、風呂を忘るるなり
と言いますか…
想像できませんが…
残りは、東京の「山谷」、大阪の「釜ヶ崎」である。
露上生活者ホームレスの人たちは風呂に入る事ができない。
そこで「銭湯の利用券」を支援で無料配布した。
全身垢で汚れているから、銭湯の湯を汚すだろう。
きっと、本人は、遠慮して、湯船には入らないだろう。
この横浜では「寿町」を拠点に、毎年、12月28日から1月3迄、夜9時から、夜間パトロールして、「毛布」と「豚汁野菜の雑多煮のスープ」とを「リヤカー」に乗せ、路上の一人ひとりを訪問し、健康状態を聞き、「生活保護の手続き」のお手伝いすることを伝えている。
4チーム程に分かれて行く。
横浜駅コース、横浜スタジアムコース、山下公園コース、…
路上生活者は段ボールで風よけを作っているが、寒波は容赦しない。
「野菜スープ」を飲みながら、そこでコミュニケーションを取り、しばし会話する。
こちらは目線を合わせるために、しゃがんでひたすら聞きに回る。
(風邪薬を要求される場合もあるが、体が弱っているので、強く作用が出る場合がある。医者に処方してもらうしかない。)
12月28日から1月3日の毎日回るのは、
この期間は「日雇いの仕事」がまったくなくなるからである。
毎月、神奈川県内のホームレス支援のヴォランティアが情報交換の会議を開くが、
路上生活者のリーダーめいた人々の隣に座ると、ぷーんと匂ってくる。
それはお風呂に入っていないから、体臭がどうしても臭うのだ。
「銭湯のサービス券」を無料支給されて、ようやく風呂に入るのだろう。
しかし、一人ひとりには、プライドがある。
私の場合は、職場が横浜市戸塚駅近くだったので、戸塚駅周辺の路上生活者の夜間パトロールをしていたが、生活保護を受けないで生きて行くプライドがあった。
しかし、横浜市が「空き缶条例」を制定し、ゴミ捨てから「空き缶を拾う事」を禁止したため、細々と生きてきた資金源を断たれて、
生活保護を受けざるを得なくなった。
自分で生きて行く、他人の税金では生きないというプライドが無残にも破壊された。
朝のオープン時間を狙っていくと、何人もの同好のじい様たちに出逢う。
それぞれ独りで来ていて、皆、まったくの無口で瞑想修行をしているが如くである。
たまに若い人を見かけるが、
彼等は必ず連れ立てで来ており、浴槽の中でもペチャクチャ話が止まらない。
この話が南さんの若い頃だとすると
さすがに「縦の孤独「」の達人ではある。
今年も後残すところ2日となりました。
銭湯の話しで。
春は花夏ほとときす秋は月冬雪さえてすずしかりけり
とはなかなか。すすしいどころか、やっぱり、銭湯に、、、
最低生活最高精神を目指すとききましたが、ネットで最低生活費っていくらぐらいかかるのか、調べてたら、生活保護自給不正やら、詐欺やら、自治体もテイタラク暴露やら、虐待、自殺闇だらけの世界に唖然。
しっかり大掃除して、新年を迎えられますように。
お互いのお湯を流す音が、コミュニケーションになっていたのではないかと思われます。
『この男はいま、孤独なのだろうか? それとも、ただひとりであるだけなのだろうか。』
仮に孤独であったとしても、お湯の音によるコミュニケーションで、孤独は少し和らいだのではないでしょうか。
よいお年をお迎えくださいますようお祈り申し上げます。
横浜市戸塚駅周辺チームは、夕方の6時以降に一人ひとり訪問していた。
それは、彼・彼女らは、みな昼は別の所に出ていて留守だからである。
風雨を避けるために、多くは樫尾川の「橋げた」に「小屋架け」して定住していた。
或る老人を長い間訪問し、高齢だから生活保護を受けるように説いたが聞いてくれなかった。
そして、ようやく受ける事を了承し、役所に手続きをしに連れて行って、
受給資格も私たちが保証して、手続きをしたが、
最後に役人の人が「一言」言った。
「この事を、娘さんに、連絡する」と。
この路上生活者は、「それで」需給を断念した。
娘さんには、知られたくなかったのである。
つまり「ホーム・レス」だったのである。
「住むべき、自分を受け入れてくれる家庭が、なかった」のである。
娘さんも自分の父親が「生活保護」を受けているとなったら「世間体が悪い」ことになる。
当然、父親を引き取るだろう。
そこには何か人には言えない事情があるのである。
安倍晋三氏は「法律」を作って、家族はお互いに養う「義務」があると、制定するつもりである。
生活保護は「個人の権利」である。
その権利を行使するのを妨害する「世間」がある。役所の「規則」がある。
日本は、「十分資格があっても」申請する率が低い。
ドイツなどは、100%に近い。
それは個人の権利だからである。
そして、生活保護を貰いながら、自動車をも所有できる。
「個人の尊厳」「プライド」
そこから、
「ベーシックインカム」の考え方を見直す必要がある。
最初の老人も、それまで一所懸命働いて、税金を支払ってきたのである。
職が無くなったら「生活保護」の権利を行使しても、悪くはない筈である。
そこに承認欲求の様なモノが働いているのか?
いや、待て。人をそう思う「私」に働いているのではないか?
来年も宜しくお願いします。
南和尚以外に居ないのではないか??
「あ~、いい湯だなァ~、ウッフン!!」とばかり、
「人生をあんまり深く考えすぎるな・・・楽観的に生きろ!!」という北野武氏のいう境地が銭湯にはある。
孤独の境地など銭湯には似合わない。
行き来し慣れるとどんな人がいるのか徐々に把握していきます。ある日、友達と2人で学校の話をしながらぶらついていると、突然大きな声がして振り返りました。聴きなれた大声ではなかったのです。そこには比較的若いであろう大柄の人がいました。いつもは寡黙な印象だったのに、棒立ちで空に向かって強い語気で何か言っているのです。いくら注意しても言葉は聞き取れません。ただ低く悲痛な響きでした。普段子供ながらに気を付けなくてはならない気配というものがあります。本当にどうしようもない時逃げ込もうと友達と決めていた人の一人でした。別に話した事がある訳でもなく、直感のようなものでした。当時その辺りは子供達がよく遊びにいく場所で、何か問題がある訳ではなく、それよりも逆方向にある繁華街の前の大通りは絶対に渡ってはいけないなど暗黙のルールはありました。ある程度危機感を持つ事が当たり前の環境であったのかも知れません。その人の声を聴いた時、何かと対峙しているように感じました。寡黙の中でも常に対峙していたのだと気付きました。数日後、住んでいた形跡がなくなってしまっているのを見て、なんて言葉にしていいのか分からない切なさと共に、きっとなんか新しい事があったんだよねと言う友達と相槌を打ち合いながらその場を後にしました。
本年も有難うございます。冬の朝は鐘の音が清しく聴こえますが、気温の低い日が続く折お身体にお気をつけ下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
南さん、学生の時に、おじさんに、今日はいけねえよ、て言われるのは、学生のような佇まいではなかったんでしょうねきっと笑。
確か、河合隼雄は、タクシーに乗るたびに、ドライバーによく会話されて、困ったて。相槌や表情なんでしょうね。
本年もありがとうございました。
店主がタオルを貸してやったらいいのになあ。
なんて言葉にしていいのか分からない「切なさ」と共に、
きっとなんか新しい事があったんだよねと言う友達と相槌を打ち合いながらその場を後にしました。』
新しい年の「東京オリンピック」が恐ろしい。
「都市の美化」という錦の御旗で、路上生活者を「排除して」いくから。
今までも横浜市の周辺では「大きな行事で」実際にあったから。
「汚いもの」は見ないようにする。
都市の小さな吹き溜まりの空間を見つけて住んでいるのを、強制立ち退きを迫る。
彼・彼女らに何らかの権利・人権と言うものはないのだろうか?
共存、共に生きる、許容することが、我慢できないのだろうか?
空き缶拾って金に換え、最低限の日常品を買って生きていた彼は、空き缶を拾う代わりに、そのゴミ捨て場をきれいに掃除していた。
その様な彼を許容できない社会は、
都市の美化は実現できても、少し寂しい。
出家者=非家者、乃至、不家者
ホームレス者が実存する「家」は、
自分だけという空間、世間と隔絶した空間。
自ら選ぶ場合もあるし、やむなくそうなったと言う場合もある。
日本社会からの落後者という宿命を背負うが
海外では趣味でする人も居る。
出家者の「出る家」の原義は
「世俗事からみずからを清くいさぎよく分別する」という意味である。
其れは好んで自らを隔離したいという嗜好性での行為である。
自分で孤独を選択するのであるから、みずからの孤独を嘆く権利はない。
孤独に入っては孤独に従い、
風呂に入っては風呂に従う。
そういえば宇多田ヒカルさんが、「孤独の反対は無知だ」と言っていたそうです。
孤独に反対語があったなんて!?
音んでる音んでく。
https://m.youtube.com/watch?v=bsa-W4ipcvM
兄事していた方丈さんが拙宅にお泊まりになった翌朝、洗面の折り頭部も剃っていらっしゃる手際の良さに感心したことを思い出しました。
若い頃は頭髪を洗ったのでしょうが剃髪した後は洗面と同じに頭部も同時に洗い済ませる合理性が
今回は「洗髪」の思い出なのでしょうか「孤独」への想いでしょうか
今年も大変お世話になりました!
パラサイト大学生がナマを感じる瞬間!!
なんか明治時代初期の高等遊民風情を感じますかな。
相方の髪の毛のモシャモシャぶりはさしずめ芥川龍之介・・・
さもなくば全共連のハグレ児辺りか?
孤独の二人が風呂で遭遇した。
キット無言の同類項に出逢った境地か?
其処に20歳辺りのパラサイトが他者に慈悲の原点を発揮するって???
何言ってんの??
そんな甘いもんじゃないでしょ!!
還暦に突入して、ますます孤独な自分に驚愕したのか?
孤独という「経歴」に形作られた己がある故に釈迦にさえその面影を探し当てる。
釈迦が悟りを開いた35歳が彼の花で、
その後、なんの楽しみも無いつまらない人生を、
ただただ生きるに賭けて来た釈迦・・・
と自らを二重写しにする。
孤独なのか一人なだけか、という問いは、当時のものなのか、今にして思えばそういう言葉になるというものなのか。
自分を重ね合わせてはいるんで、「この男」というのは、斜めに背中合わせの、鏡越しに背中が見える男のことか、見ている自分のことか。
と、上手に切り取っているんじゃないかと思います。
できれば温泉で、初風呂に入りたいですね。
正月のように、どこもかしこもピッカピカ!
ただ垢落としに銭湯行っただけで、孤独なのか一人なのかと思考を巡らす青年が傍にいたとは、その男には垢みたいなものだったかもしれませんね。
国道沿いに歩道橋があってそのすぐ側にどぶ川が流れてた。歩道橋の階段の裏側は暗くてすこしスペースがあった。犬のしょんべんのあとがあったりしたんだけど、そこにお婆さんがホームレスをしてて布団を引いて住んでた時期があった。小学生だったので集団登校しながらそのお婆さんをじろじろ見てた。色白なお婆さんは布団で寝ていてこちらを全く気にしていなかった。変なカタルシスを感じたのを覚えている。
心機一転して仏門に入って
今ではひとかどの一言僧士を遣ってる。
何処に二人の別れ道があったのか??
しかし今や、一言僧士として社会から一目置かれるようになったのは
時代の趨勢と
見かねたオヤジさんが南さんを友達の僧侶の元に連れて行ったから・・・
という事であろうか。
縁起の微妙さと、風が吹いてくるのを待ち構えていた機敏さが両者を分けたのかもしれない。
それにしてもくだんの男が何故銭湯に行ったのかは大いに謎である。
南さんと出会う為??、反面教師??
孤独のグルメ
釈迦曰く
「人生見極め孤独で歩め」と言ったとか?・・・どうとか?
すべてものは考え方次第。
正月気分で浮かれてんじゃね~よ、と喝を入れたとか?
凄いなあ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200102-00000051-kyodonews-soci
ただ、あと数十年もすれば、百歳超えが当たり前の時代になるのか。
教皇も大変ですね。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200102-60969979-bbcv-int
人は「丸くなる」のか「頑固になる」のか・・・
べつに誰さんの事だとは言っていませんが・・・
齢食うごとにますます偏屈!!
「おじいちゃんますます円熟したよねェ~」って云われたいけど、
直ぐカッとなって短気ぶりを発揮してしまいます。
どうしたらいいのでしょう。
ポープさんに訊きたかったんだけどなァ~。
アッ、ちなみにワタクスはリアル系の男子です。今では草食です。
でも今でも、むだなプライドを引っ提げて自負心高めです。
削除も快感となりました。
ダメでしょうか??
勇気と想像力と…少しのお金。
では
お釈迦様の御人格は如何に・・・
道元様の御詮議は如何に・・・
円熟さという基準で見ればどうなる??
思想の円熟さと人格の円熟さは同じか異なるか、どっちが良いのか??
明るい人柄と陰気な暗さ
孤独をかこつか孤高を満喫するか
ノー天気パーマンかクソ的生真面目マンか
大家族制か個人隔離型か
円満人?偏屈人?
日本に復讐するぞとレバノンから虎視眈々。
円満人?偏屈人?
勇気と想像力を働かせて、
少しの生活保護金を手にして
タイ・カンボジアあたりに脱出して
優雅に暮らすなんて言うアイデアは無かったのかしら・・・
或いはガンジス川に沿って流れ流れての
自在三昧の林住期・遊行期を経て道端での餓死を是とする。。。
「におい・臭い」と「小田急線」と「道元和尚」。
五感の内で「嗅覚」は大分「原始的な感覚」です。
だから、その「不快」には「現代人日本人」は耐えられない。
TVでは、しきりに「体臭」「トイレ」「室内」「洗濯物」…防臭のコマーシャルが氾濫してしまう。
「小田急線」で、或る時それなりに混んでいるのに、何んと「車両が半分も」人がいなかった。
「ラッキーと思って」その車両に飛び乗った。
すると、直ぐに解った。
ぷーんと臭うのである。
汚れた服装の「50・60代のおじさん」が、一人、車両の中央に坐っているのであった。
黙って「目を瞑って」端正に坐っていた。
彼から20m近く、半径には誰もいない。
当然、向かいの座席にも一人も坐っていない。
「一言も言わず」に「人々は」彼から離れて行った。
道元和尚は、中国に行って、耐えられないと、嘆いていらっしゃる。
それは「中国僧」の「口臭」の問題である。
禅問答だから、会話をしなければならない。
1200年代の方言のキツイ中国語を、日本人が聞き取るには、
近くに行かないと聞き取れない。
そこで、みんな「口臭」がきついのが問題となってくる。
道元和尚は勧める。
小枝を拾って、歯で端を噛んで「柔らかくし」て、
「歯ブラシ」として用いて、歯をきれいにしなさいと。
「におい・臭い」は「理性」で克服するしかない。
小田急線で、彼よりわたしは先に降りた。
だから、最後を見届けていない。
彼は「どこまで」乗って行ったのであろうか。
「何のために」乗ったのであろうか。
彼も、周りの人々の反応を、感じていたであろう。
それを「身動きもせずに」じっと耐えていた。
気圧の差が大きければそれだけ強い風が吹く
世界が「私」の主体性を剥ぎ取ろうとするならば、私は哀しみと憎悪と怒りに浸り、世界に相対しよう
怒りの唯一の利点が問題の所在を明らかにすることならば、
しかし、それがどうした?
気に入らない
それだけで十分だ。
あっちへ行き、こっちへ行き、あれやこれをして、コード化されたレジャーを楽しみ、結果、偽善的な模範解答的な道徳しか引き出すことのできぬ人々を配慮する必要があるだろうか?
南さんはダースベイダーじゃなかったのか?
「きょう楽しかった三つの事を毎日書いてください」(なかったら自分で探しに行きましょう・・・例えば美味しいラーメン屋に行ってみるとか…)
今回の記事の場合
1.1年一度の銭湯に行った
2.変チョコリンな若者と一緒にふろに浸かった
3.無言のコミュで魂の交流があった
ああ、今日は何ていい日であったのか。
ありがとよ若い兄ちゃん!!
いくらダースベーダーだって
今日出くわした、3つの楽しい事は何とか探してやって行けるさ・・・
1.午後四時に銭湯に行く
2.頭を徹底的に洗う
3.その後オイルを塗って後光を光らせる
①.生苦と真正面から向き合えた
②.老苦と真正面から向き合えた
③.病苦と真正面から向き合えた
④.死苦と真正面から向き合えた
・・・今日は此れで意味ある人生が送れたのであった。
わかったら、楽しいのか?
そうじゃないだろ?
分からないうちは楽しい。
好奇心は分かったら楽しい。
分からないと苦しい。
「いいえ違います」も
斬新なアイデアなら楽しい。
陳腐な説教なら苦しい。
苦を感じるのが楽しい人も居るようだ。
楽をする事が苦しいという人も居る。
そうじゃないだろ??
まあそんなものだよ、これ全てコトバのおあそびだし・・・
実存は無根拠で無価値で無意味だ!!
考え方しだいでどうにでもなる。
考える事「自体」に根拠がある訳でなし価値がある訳で無し意味が在る訳で無し・・・
冥土への行き先が不定な老人は
「考える事でヒマな人生をやり過ごしている」という事に成るのか?
道元和尚は、身を削って『正法眼蔵』を改訂し続けた。
そして未完のまま、長い病気の後で、亡くなった。
真筆の写真に接して、一字一字をたどりながら、
どのように思いながら、改訂、執筆執筆なさったのか
に思いをはせる。
長い文章だが、書き間違いがない。
思索に集中していらっしゃったのであろう。
(紙は貴重品である)
そこに道元和尚の明確な意思を感じる。
道元和尚の使命感を感じる。
ここには、決して「ニヒリズム」はない。
「言葉」の軽さはない。
「言葉」は無意味とも言っていない。
「言葉」に信頼を置いている。
この道元和尚に信頼する。
そして
「無常」「無我」「無記」である。
性格よければ、青年か胡麻塩アタマが、調達したであろうな。
そうであってほしい。実に。ナマに。
君もヒマやね。
批判があるなら反論してみたらいいんとちがう?
そんな陰口みたいなコメントじゃなくて。
性格が良さそう悪そうで判断できる人は、単純で能天気でええな
だからなんなの?
なにがいいたい?
性格が悪そうってコメントは頭が悪そうやなあ
そっかあ。それは困ったね。
性格よくする修行かと思っていたよ。
そっかあ。だからここの管理者も、、
以下省略!
だから中には、これの集大成でもあるようなセックスに、ナマのリアリティーを感じる人がいるんですね。
ナマとかね。
「性格が良い」ってどういうことを言ってるの?
あなたにとって「性格のいい人」が誰にとっても「性格が良い人」だっていう自信があるっていうの?何を根拠にした自信なの?
それとも悪いのだろうか?
愚禿親鸞
愚かなる吾 道元
己を見ろ
残るのは何か
そうだろ?
英語ではアクシデントという。
そうだろ?
ただただ只管打坐。
行住坐臥これ修行。
その本質は何か??
ズバリ一言・・・
『雑念を切り捨てて而今を生き切れ』
フロにいってはフロに倣う
自己にいっては自己に倣う
ナマにいってはナマに倣う
孤独にいっては孤独に倣う
生苦にいっては生苦に倣う
老苦にいっては老苦に倣う
病苦にいっては病苦を倣う
死苦にいっては死苦に倣う
・・・さて「倣う」とは??
雑念・邪念の断捨離なり・・・
而今を生き切る!!
一心不乱に自己を生き切る!!
雑念をすてて而今に没頭せよ!!
今を生き切るなり。。。
モンキービジネスだ。
頭の中に猿が居て、
何だかんだとがなり立てる。
頭の中はゴリラのおケツ
その時君は
正気を忘れて猿になる
・・・人間になる前の。
注;
モンキービジネス=ごまかし、いんちき
モンキービジネスの延長線。
(注、例外もあるが・・・
例えば生きる智慧を与える情報提供とか・・・)。
一番風呂の老人は孤独の修行の真っ最中。
後からモンキービジネス喧噪の若者グループが這入って来るものだ。
そこへいくと、学生時代の南さんは偉かった。風呂は修行の場であった。。。
とても気持ち良さそうにね。
湯治場修行中は文句を言わない(新格言!!)
そ~だそ~だ、
イエス君に湯三昧して貰ったらいいかもね。
南さんでも
朝湯昼湯夕湯夜湯寝湯して貰ったら、
作風もガラッと変わるかもね???
えええ、ひょっとして
釈迦・道元さんも湯三昧してたら
仏教なんて発生しなかったんだろうかね??
湯治修行するならば、
一切皆苦なんて雲散霧消。
一切皆楽のみ残る。
いい湯だなあ~ウッフン
此処は地獄の恐山温~~泉!!
一切皆楽も雲散霧消となる。
まあ多分、多くの苦と少しの楽とがあるだろう。
人はその少しの楽に希望を託して生きる、
・・・と、たしか、南さん自身でさえも言っていた筈。
要するにテイのよいスローガンだね。
みんな真っ青になって修行に励む事になるからね。
今年の曹洞宗発行のカレンダーの標語は
希望に満ち溢れた『五福祥来』だね。
永平寺貫主、福山禅師さまの御直筆でござりまする。
ただ、それだけのこと。
「苦」に不感症な人は、「仏教」を話す資格がないだけ。
ただ、それだけのこと。
「(自分の)思い通りに事が運ばない」という意味であったそうな。
其処で新たな疑問であるがイエス君の意図しているほんものの「苦」は釈迦時代のインド語では何と言うのだろうか。
どなたか知っている方は教えてください。
お願いします。
inconvenience(不都合)という単語が当てられていると聞く。
どうやら苦悩を意味する「pain」とか「agony」ではないようだ。
言葉は正しく用いましょう。。。
無我に一歩近付いてみましょうよ。苦と楽は、一つのコインの裏表。人は皆、表現は違うけど、何やら同じような思いを抱いているような気がするけどね。
高齢化なら、面白い老人が増えてもよいじゃないか!
そんな世の中にならないかな!
《一切皆苦だヒャ~~、コリャ絶望だァ~!!》って
沙門の奴らは騒ぐけど、
それってバーチャルだよ、バーチャル。
君には、わかるかな(いや、分かんめえ!!)。
いつわり・まやかし・・・モンキービジネスだって事ヨ!!
君は俺の教えた八正道を・・・
八正道を只ひたすらになされタシ!!
これがリアルを知る道だ。
そすれば涅槃寂静請け合いだ!!
<あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。>
「独居老人スタイル」
昨今は、孤独や、孤独死などを、悪いイメージでしか捉えようとしない傾向があるようだが、そうでもない人にとっては、甚だウザったい話ではなかろうか。
<まちがいさがしの間違いの方に、産まれてきた気がした。>
https://m.youtube.com/watch?v=7940nuwCEYA
その男も、間違いなんかじゃない!
青年にも艶っぽい話があれば、神田川のようなエピソードも書けたのかなぁ、なんて。(寂)
https://m.youtube.com/watch?v=OQYbhhZMOOc
「一切皆苦だァ~、一切皆苦だァ~」って喚きながら、
弁立つ自分をウットリと楽しんでいる感じ。
オイこら、一切皆苦しろ!!
幾らやめとけと言われても
俺はルンペンなんて怖くない
奴と一緒の銭湯でも
俺は全然怖くない・・・
臭いが湯船に混じっても
もつれた髪の毛が浴槽に浮かんでも
俺はルンペンなんて怖くない
俺は全然怖くない・・・
若かったあの頃は
なんの怖いモノも無かったぜ
ただ君の優しいことば
シック(死苦)な面影怖かった
銭湯でナマの俺は知る。
自身は下向いてしょんぼりと・・・
でも、
間違い探しの正解の方じゃ
きっと出会へて無かったよね、
仏教に・・・
俺って性格悪かったからね
しょうがないよね
仏教と出逢っちゃっても・・・
二人で裸体を見較べて
間違いの方に生まれて来たと
銭湯で二人はうなずきあうのだ
「五福祥来」などと聞けば、
書いた人が曹洞宗貫主でも、
「仏教を話す資格がねーぞ、おい貫主‼」
なんていいだすんやろね。
あ~、やだやだ!!
仏教の思想であると自負して書く。
シロウトに毛が生えただけの、
ろくろく修行もしてない頭でっかちが、
「いいえ違います。あなた(=永平寺管長)には仏教を語る資格がありません」と言ったと言うシチュエーションでの話。
諦法って名前、考えると凄い。
五福=
長寿・富裕・無病息災・道徳を楽しむ・天命を全うする。
祥来=祥が来る
祥とは、幸い・さち・めでたさ。
要するに
十牛図でいう第十図的仏教観。
あっちぶつかり
こっちぶつかりで
擦り傷だらけの
仏教者とは一線を画して、
よく練れて、
熟成、円熟した仏教者の姿
こういうことをしたり、言ったりするなら、イマイチじゃねえですか?
永平寺名古屋別院のブログから
令和元年報恩お授戒会
10月21日(月)~25日(金)
戒師 永平寺貫首 福山諦法禅師御親修
教授師 愛知県 弥勒寺住職 尾内俊文師
引請師 岐阜県 本覚寺住職 時田泰俊師
説戒師 岐阜県 洞雲寺住職 尾関幸憲師
戒金 正戒 三万円(五日間で戒名・血脈)
因戒 一万円(一日で血脈のみ)
亡戒 五千円(先祖供養のお血脈)
今生の幸せ、来世の安心。
私共、考えてみれば、お蔭で随分幸せな日を送らせて頂いております。此の幸せがいつまでも続くと有難いですね。
果たして来世でも
「人間に生まれ、仏様の教に値う」
ことができるのでしょうか。残念ながら全くもって保證の限りではありませんね、どうしたら良いのでしょうか。
今生で取りはづせば、来世の保證はないかも。
授戒会は、来世にも人間として生まれ、仏(お釈迦)様の教えに値う為の、御縁を頂く最勝最善の機会です。
私共、毎日の生活で実に沢山の殺生をし、多くの嘘いつわりを重ねています。勿論これは法律の問題ではありません。佛様の前で問題になるのは、道徳的・宗教的な罪過「ツミトガ」です。宗教的『ツミ』とは、心の中で悪事を思っただけ、考えただけでも罪の因が生じてしまうのですから大変なのです。
しかし『修證義』に、
彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて輕受せしむ、又 滅罪清浄ならしむるなり。
とあります。
授戒会では、此の教えにより、今世の幸せと来世の善生最勝を約束します。
心配はありません。案ずるよりは産むが易し
どんなことをするのか、させられるのか心配でしょうが、係の和尚様や参加している先輩方が、
手取り足取り教えて下さいますので大丈夫です。安心し思い切って参加してみましょう。
お互いに切磋琢磨しようぞ!
記事に関係ないコメントが残されてるとこを見ると、ただ「気に入らない」か、そんな「Hなこと」を、この神聖な場所で書くな!というお達しではないでしょうかね。
だけど「こういうの」の中に「下ネタ系」的なことは明言されてない。
んで、「関係ない」っていうなら、関係ないでしょーよっていうコメントが残ってるのは何なのかしらね?って感じだし。
言ってることとやってることがどうもリンクしづらい人だなって、そういうとこでも思うわ。
銭湯♨️のお話しからの妄想が捗りますな🌝
小学生がウンコ💩で喜ぶのと一緒でやんすな🤷🏻♂️
新入生は食事が怖いぐらいにこまごまうるさく厳しい作法が、実は道元さん的には「とりあえずこれにしとく」だった、って記事があったけど。
「とりあえず」でも決めちゃったらそうするってことなんでしょ。
とりあえずだからってあやふやなわけじゃないってことでしょ。
べつに、ここの削除の基準がどうだろうが南さんが好きにするだけのこと、ほんとそれだけのことだけどね。
だったら「管理者の判断でコメントを削除することがあります。異論反論は受け付けません。」でいいんじゃん?
そんなありきたりの文言ぐらい南さんなら知ってると思うけど。
なんで自分が思ってること・やろうとすることと言葉を、できるだけ一致させようとしないんだろう。
それなのに「言葉が言葉が」って、ほんとに変な人だなあって。
だから、よくないんでしょ。
異論反論ないと、つまらなくなるからね。
ああごめんね。
異論反論は「削除についての」ってことで。
ってことは、南さんの言ってることやってることに対しての異論反論を削除しても、もちろんその削除についての異論反論は認めないことになるけど、それも管理者の判断だもん。
南さんにとってコメントの面白さが重要かどうかも知らないし、何が面白いかも知らないし。
今残ってるコメントだって、面白いから残ってるのか?っていったらいろいろ疑問じゃない?
でも「管理者の判断」の結果ではあるんでしょ。
だから「言うならそれだけでいいんじゃないの」って思う。
と、スッタニパータ辺りだかで言っていたかしら??
非想非非想で、
「言葉がァ~、言葉がァ~」ってがなり立てなかった。
頭のいい君がそうだと言うんだから「うんうん、キッとそうだよね!!」と馬耳東風、無関心、関わらない・・・
これが釈迦家オリジナルの家風。
よく言えば、「全てオーライ!!」の他者受容性極めて高し!!
ーーーーーーー
それにしては釈迦家派出所である筈の此処では「いいえ、違います」が花盛り。
何でなの??偏屈人の集合場と化してるってこと??
でも南ちゃんのいい処は、
ただ単に、単なる自分の「好み」に合わせて物言うか、乃至、無言削除で終了で、
「他者はそう言いますけど、私は違って考えます」論調も、
単に「他者とは違う見解を持ってるぞ」との表現欲の発露に過ぎず、
「いいえ違います!!」と相手を断罪はしてないようだ・・・かな?
でもその個人的な基準ってものは、削除されない限り、こちら側からはわからないことだからね。完全なるノー削除コメントを求められてもムリな話かもね。
常識圧力みたいで、ヤな感じもするしね。
本を書く前のアンテナショップ。
刺さる言葉は頂戴し、次の本を書く。
刺さらないと自分が判断すれば、
あとで本を書く時に二重の読み時間を浪費するから、今のうちに無記化するぜよ・・・と。
がしかし、
仏の主張はしていた筈、それが「仏教」だから。
コメントを鏡越しに見ながら、頭を掻いている。
夜の頭は鉛の頭、
朝一番が金の頭。
何故か?
快眠あれば、雑念が無くなっており、
新鮮なアイデアが飛び出してくる。
(雑念で)満ちたコップには、新しい水は入らない。
快眠するとは、コップの水を一旦捨て去る事だ。
只管打坐で仏は何を主張したのか??
・・・という問題がある。
無言の主張が修証一等ならば、
言葉での主張はゴミの内。
・・・いや願望。
涅槃寂静したいなァ~!!
ニルバーナして苦の輪廻から消えちゃいたいよなァ~!!
で、その先の、
聖者(覚者)の死後の消息は、
「言葉で論議は出来ないのだよ君!!」と。。。。
大哉解脱服(だいさいげだっぷく)
無相福田衣(むそうふくでんえ)
披奉如来教(ひぶにょらいきょう)
広度諸衆生(こうどしょしゅじょう)
この偉大なるお袈裟は、人間のあらゆる執着心、煩悩を除く幸せの法衣である。これを肩にかけ、釈尊の教えを広め、生きとし生けるものを救おう。
道元禅師は正法眼蔵「伝衣」「袈裟功徳」巻において、その意義と功徳について丁寧に示されている。
https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/6f372f5b896d5d70da82bfa2e6eeda3e
つまりその男は、銭湯にて供養していたのである。
無常無我なのか常住有我なのか
詮議するすべがない・・・
(勿論、悟りが開けない君は、
輪廻の苦をやっちょれタシ・・・)
お坊さんって、こんなもの?
うんうん、コレも立派な仏教だよね。
信じるのです、信じているのです、信じたいのです・・・
菩薩様は常在常住で福田の源泉かけ流しの件!!
横浜市戸塚駅周辺・路上生活者・夜間パトロール隊は、中心は「3人の牧師」だった。
(なお、戸塚区内で「派を超えてクリスマス礼拝」を実行する打ち合わせ会議で参加をさそわれた)
一人はルカ福音書の研究で著名な牧師だった。新約聖書学の学者の生き方と、夜間パトロールの実践と両立させていた。
「野菜スープ」を準備するのは不可能だったので、カップラーメンと魔法瓶を持って、一人ひとり訪問して廻った。
カップラーメンにお湯を注ぎ、3分間待ちながら、そして出来たのを食べながら、いろいろと会話をした。
冷えた体が温まると、話も出てきやすくなった。
冬場は「新しい下着」もプレゼントした。
何よりも、教会のシャワー室を、路上生活者に無料で利用できるようにしていた。
駅から「歩いて10分の極く近い教会」だった。
(教会員の理解を得るのには苦労したかも)
世の中このように成ればよいのに…
その教会は、ルター派であった。
菩薩どころか如来さまを裏切ったと言う説もあるが、
菩薩や如来の代わりに自然(じねん)が主体(=超越)となって、この世を統治して行くという意味と同意になるのかも・・・
じねん(自然)は「常在常住」なりと・・・
兎に角、物語は無限に派生するものだ。
ひとそれぞれ、「信じるのです、信じているのです、信じたいのです」の世界。
言葉での主張はゴミの内。』
道元和尚は『正法眼蔵』を著作して、
全87巻を読み、理解しろと言う。
文章は下手だ拙いと言われようとも、
少しの「理」でも伝わる様に文章を工夫せよ、と教えている。
福山 諦法(ふくやま たいほう、1932年 - )は、曹洞宗管長・永平寺79世貫首。
道号法諱「絶学諦法」、慈航玄徳禅師。
・道号法諱とは、「両端」と「真ん中」とで、意味を、持たせます。作法。
道号は「あだ名」であり自分でつけます。
つまり
「絶法」:法を絶する。
「学諦?」:学を断念?する。
多分、同じ意味です。
東京都出身。11歳で愛知県新城市鳳来町に学童疎開。
愛知県豊川市の「妙厳寺(豊川稲荷)」の修行僧となる。
旧制豊川中学校を経て駒澤大学卒業。
40歳で豊川妙厳寺住職。
・どうも豊川稲荷も信仰しているようです。
狐に騙されないように。
2008年1月19日、「永平寺」第79代貫首に就任。
2016年1月22日より「曹洞宗管長」に就任(3度目)。
・大きな組織になると、どちらかというと「政治能力のある人」が出世に有利になります。
自分をハッと覚醒させる言葉を選んで、
あとは信じるのです、信じているのです、信じたいのです、の世界に突入する。
その後の経験の積み重なりによって、次々と選んだ言葉が変遷して行く。
彼は日本の法律なんて歯牙にも掛けていないんだね
法って何だろう
金の力が法の力を凌駕するんだ
金があれば愛を語ることができる
金があれば正義を語ることができる
金は神だ
金は力だ
おかしいなあ
おかしいなあ
https://kenshi-yonezu.com/米津玄師はうつ病だった!自閉症の過去や躁うつ/
色んな病名があるんだな。
悪い事を思い出して
千年恨み続けるよりも、
ラクダラクダと王子様気分で
楽だった事だけ覚えていて
千年楽しみ続ける方が
より上等な人生である。
そう言う人に五福祥来が訪れる。
彼には五福祥来は望むべきも無い。
反面教師を踏み台にして、
釈迦の教えとは、
「いかにリアルな世界で
快適に楽しく生きるかを説いた哲学である」と位置付けている。
「自然に存在する一つの動物として、
快楽は大いに求めて宜しい。
だだし人は飽く事を知らない生き物なのでので、
上手に快楽をコントロールしないと、
それがブーメランとなって苦として跳ね返って来る事になってしまうので要注意なり」というのが草薙さんの仏教論であるようだ。
仏陀の教えはいい気分!!
『反応しない練習』草薙龍瞬。
快楽を目いっぱい楽しむのは大いによろしい!!
釈迦も片目で知らぬがホトケ。
銭湯なんて御推奨の快楽項目だ。
例の気難しい和尚でさえも
「Hってそりゃーもう、素晴らしいモンですたい!!」って講演会で高らかに宣言してる・・・(とかだね??)
Hを苦と思ったら幸せにHできるか?
生を苦と思ったら幸せに生きられるか?
老を苦と思ったら幸せに老を生きれるか?
死を苦だと思ったら幸せに死ねるのか?
樺チャンネル『病気でも幸せに生きられる』
及び、武田鉄矢ポッドキャスト。
『ワタシの病を治さないで下さい』
(このいいことなんか何もない世の中で、治りません様に・・・)
「相手の立場」になって考える、しかない。
では、検証しよう。
『あの日は「晩秋で、底冷え」していたので、
私は多少急ぎ足で銭湯に向かった。
すると、前の方から「爺さんが首をすくめて」歩いてきた。
そしてすれ違いざまに短く、
「おい、今日は「いけねェ」よ」』
もう、排除が始まっている。
『「あんた、今日はやめたら! 急に入ると風邪ひくよ! ねえ、よくないよ・・・」
「胡麻塩頭で顎のがっちりした「番台の店主」が、
真下に立っている私を「チラチラ見ながら」、
彼が浴場に行くのを「阻止しよう」としていた。』
もう完全に、拒否であり、
誰も見ていないのなら、強制排除である。
『「店主が」独り言のように私に言った。
「よわったなあ・・・、にいさん、
「後で来た方がよくないかい?」
湯が汚れるかもしれんし・・・」』
多分、路上生活者であろう、「にいさん」も、排除には、反発している。
しかし、「湯船」には決して入らない。
『シャワーがあるのに、男はいきなり「洗面器で頭から」湯をかぶった。それから何度も何度も。繰り返して止まない。・・・
男は「ひたすら」頭から湯を「かぶり続ける」。』
「番台の店主」が相手の立場になって考えていたら、どうしたのだろうか?
「路上生活者のにいさん」が相手の立場になって考えていたら、どうなっていたろうか?
銭湯が「終わった」真夜中に、
「無料」で、体を洗うことを、提案したら、
この「にいさん」も受け入れたのだろうか?
「にいさん」はこの「番台の立場」に立てたであろうか?
そして、もしも、週に一度、お風呂に入る様になれば、
「臭いの強度」も下がってくる筈である。
また、南師が、話し掛けて、
コミュニケーションをとったなら、どうなっていたのであろうか?
この二人の仲裁ができたであろうか?
この二人の共存ができたであろうか?
ここには、
「コミュニケーションの不在」
しかない。
「銭湯の孤独」
これは造り出したものである。
「縁起・生」である。
「苦が好き」「苦がないとこまる」「生きてる気がしない」
って人がいてもそれはそれなんじゃん?
お互い黙って相手の異様さを眺めていると言う程度か?
相手だって、
不敵なツラして風呂場に入ってくる学生を、
偏屈な奴だなァ~って思っていたかもしれない。
まあそう言う縁だったって事で、
苦が無いと生きてる気がしない人達だったのかもしれない。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200108-00010003-nishinpc-soci
全国に先駆けて、ということは、今なお閉鎖的な状況だということだろう。恐らく、恥や偏見とされる事柄だから、嫌煙もされているのだろうが、保険適用外問題もあるのなら、「病」として取り扱うべき時期に来ていることを、社会も認知して受け止めていかないといけないのではなかろうか。
もういいじゃない、汚く悪臭を放つ人がいても、誰かがその隣や後ろや前にいてくれて、数十年経っても忘れずにこうやって教えてくれる。
辛い思いをしてる人、人を信用して生きていけよ、っていう。
垢だらけの人、今何をしてるのかな。南さんは変わらずここにいますよ。人間の実存を信じていると思う
Mr.ビーンとゴーン
ご住職 本年もご活躍祈念しております。
最近、カルメル会のシスターの手記を読みました。
自力を突き詰めると他力に行き着くのでしょうか。
今年で三十路になりますが、家内も私も徐々に
他者中心の生き方にシフトしつつあるように思います。
不思議なことに、多くを望まない様になればなるほど
経済的に豊かになっています。従業員も増えました。
なぜ、必要なものは手に入らないのに、諦めると手に入るにでしょうね。
バーチャルでなくリアルであったと言う根拠はあるのだろうか?・・・
書いた本人が知っている?…ブー。
学生が己の頬をつねって痛かった…ブー。
お互いが互いに相手の頬をつねり合ったら痛くて怒鳴り合った…正か~~い。これぞリアルの証拠なり・・・
問題はこの記事にはそれが書いて無い。よって真実なのか空想話なのか区別がつかない。
無常・無我をナマの体で知った。
では無常無我はリアルと言えるか?…ブ~‼
初転法輪で6人の沙門たちは輪になって
左右の奴の頬をつねり合ったか??
奴ら6人、一緒に痛さに悶えたか??
その記録はない。
よってリアルかバーチャルかは定かでない。
しかしながらバーチャルでも涅槃寂静は達成できる。リアルである必要はないのだ。
実存ってリアルなんだろうか??
それが分からない人は
存在不安症になっていく。
鬱病になる人の特徴だ。
己がリアルなのかバーチャル(=幻想)なのかはっきり知りたい。
永平寺の貫主の頬をペンチで思いっきりひねり潰してみたかった。
でもそれが出来なかったから
欲求不満に苛まれて
存在不安症だけが残った。
この俺は誰だ?!?
己がリアルかバーチャルか???
何てことで一生懸命悩む御仁が
「縦の孤独」に深く沈むものである(??)
正しく求めれば、正しい智慧に行き当たる。
もはや、リアルにはナマの師匠、ナマの正師も不要である。
ナマの個人から得度を受けねばならぬなど旧弊である。旧態依然なり。
みよ!!
現代の知能テストを100年前の人に施せば精神遅滞ギリギリのIQ70にしかならない。
100年前の知能検査を現代人がうければ、
超優等生レベルのIQ130を取れる。
全てはその当時に利用出来た情報量と
それにもとずいた考える量の差で決まる。
ということは・・・
俺の言いたい事わかるかな??
ヨシヨシできればよし!
「アッチー!!」と言いながら、男は湯をかぶり続けた。
とすると、記事の印象も変わるだろう。
釈迦は天才だった。
仏教を創設する為には
当時としては天才級のIQを持つ必要があった。
少ない情報量から
よくあそこ迄考え抜いたものだ・・・
ということですね。
バーチャルからリアルになる。
南さんいるし、私とか、ここにいる人って結局、悩んで優しい人なんじゃないのかな。
何となく、私も悪臭放つ実存だけど、生きてて大丈夫って思える何かをこの記事から安心させられる。
他者を疑ってブツかったら何かが開ける。
かな?
バーチャルからリアルになる。
かな?
浄化された気がした!
新年一発目の記事も楽しみ!
だかそれだけで、仏教は開けなかったはずでもある。
結構広くてきれい。入れ違いに一人出てて奥のほうに先客が一人。
よく暖まったからさて上がろうかと出口に向かう。扉に手を掛けるがビクともしない、押しても引いても叩いても足をかけて引いてもダメ。
胸はともかく頭がと通れば、、ダメか。猫は髭が通ればと言うではないか。
そこのお方、あ、泡だらけね、、
携帯、無いよね。おーい、届かないよね。ジタバタジタバタ
洋画であったよね。ひよぅたん型に鈴が付いていて通り抜けるナイスバーディ。
と、、足音が。「すみませ~ん動かないんで~す」
すっかり冷えてしまった横の孤独でした。
https://trilltrill.jp/articles/1327126
ソリタリー=友達不要?、という事でもないような。
今のライバルは、スタバらしい。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200112-00323585-toyo-bus_all&p=1
寺のライバルは?
母の帰郷先が商売をしていて風呂が無かったものですから、その時ばかりは銭湯に行くことができたわけです。
一人で男湯に入れるようになってから、背中に絵を描いている人を見るのが楽しみでした。
「今日は来るかな〜」なんてことを考えていたわけです。
子供のころ、なんとなく視線がいった先の湯舟から、色鮮やかな人の顔と魚の絵が描かれた背中が上がってきたときには「おおぉぉぉ」と思いましたわ。
親父の葬式の時に、従兄弟三人で銭湯ヘ行ったんですが、他人に対して一番気が効くガタイが大きくて人相の悪い一番上の従兄弟が備え付けのサウナに入ったんです。
1分も経たない内にサウナから他のお客さんが全員出てきて一人貸し切り状態になってしまったのを見て二人で湯船で大笑いしました。
(池田晶子)
P40
<とまあ、そんなふうに、孤独をネガティブなものだと感じることが、私にはありません。というより正確には、一般に人が言う「孤独」というその概念を怪しく思うのです。
だって、ここでハッと気がついてみませんか。存在しているのは「自分」なのですよ。「自分」だけなのですよ。「自分」というのは、言うまでもなく、この自分、他の誰かではないこの自分、自分でしかないこの自分のことです。
他の誰かではない、自分でしかないこの自分が、その意味で、孤独であるのは当たり前のことではないですか。自分と言うものが孤独であるのは、ネガティブ以前の、端的な事実ではないですか。
こんな当たり前なことに、どうして人はグズグズいっているものか、私は以前から疑問に思っていました。誰か、自分ではないような人が、はたして存在するのでしょうか。(略)
生きているのが自分なら、死ぬのだって自分です。自分の死を他人が死ぬことは不可能だ。人生は孤独なものである。何が問題なのでしょうか。>
それはその通り、と言いたいところですが、それを南さん流に解釈すると、「単に一人でいることだけでは、孤独とは言えないでしょう。」から始まる事柄なので、池田さんの言う孤独概念とは、根本的に何か違うようにも感じますかね。
何事かの追究の仕方が、仏教者のようでもありますが、実際には仏教者ではない(ニルヴァーナに言及しない)ので、哲学的な世界だけの行き詰まりを覚えますかね。