その頃、私は午後の4時に銭湯に行っていた。食べて寝て、本を読んで本屋に行くこと以外、ほとんど呆然としながら生きていたこの時期、銭湯で風呂に浸かるときだけ、自分をナマものだと感じたものである。
行きつけの銭湯には、かならず私より早くやって来るヤカン頭の爺さんがて、私が初めてそこに行った日、湯船の湯のあまりの熱さに水で埋めようとしたら、
「こらっ! 埋めるんじゃねェ!!」
と、ドスの利いた声で一喝された。
その後、とにかく毎日のように一緒になるので、おそろしく熱い湯に我慢して浸かっているうちに、四方山話などするようになった。
あの日は晩秋で、底冷えしていたので、私は多少急ぎ足で銭湯に向かった。すると、前の方から爺さんが首をすくめて歩いてきた。そしてすれ違いざまに短く、
「おい、今日はいけねェよ」
何がいけないのかテンでわからなかったが、私は聞き捨てて爺さんとすれ違い、銭湯の暖簾をくぐった。と、いきなり、いつもとはまったく違う、饐えたような、発酵したような、強烈な臭気が鼻を衝いてきた。
脱衣場の中央には、全身が黒と灰色とこげ茶色でまだらに見える男が立っていた。煮しめたように変色した背広らしき布の塊は、すでに足元の籠にあり、彼はいま袖口のあちこち切れたセーターを脱ぎにかかっていた。
ところがそれが、縄のれんのように太い束状になった、黒灰色の大量の髪の毛にからまり、容易に首が抜けないのである。
「あんた、今日はやめたら! 急に入ると風邪ひくよ! ねえ、よくないよ・・・」
胡麻塩頭で顎のがっちりした番台の店主が、真下に立っている私をチラチラ見ながら、彼が浴場に行くのを阻止しようとしていた。
男は、ゆっくりながらも確かな意志で服を脱ぎ続ける。それをなすすべなく見ながら、店主が独り言のように私に言った。
「よわったなあ・・・、にいさん、後で来た方がよくないかい? 湯が汚れるかもしれんし・・・」
男はついに全裸になった。蛍光灯を反射してところどころ光る、焦げ茶色の垢が全身をコーティングしていた。番台の店主は小さく息を吐いた。
男は、タオルも何も持たず、そのまま浴場の戸を開けた。そのころ私の鼻は臭いに馴れて何も感じない。彼に続いて私は服を脱ぎ、浴場に入った。
店主がいささか呆れたような顔で私を見ているのが、横の大鏡で見えた。
男は、一番湯船に近い場所に行き、直接タイルの床に胡坐ですわった。私は彼の斜め後ろに坐った。前の鏡に彼の背中が映っていた。
シャワーがあるのに、男はいきなり洗面器で頭から湯をかぶった。それから何度も何度も。繰り返して止まない。
話し声が聞こえ、浴場の入り口のガラスに人影が見えた。そして、離れていった。番台の店主に何か言われたのだろう。
男はひたすら頭から湯をかぶり続ける。
この男はいま、孤独なのだろうか? それとも、ただひとりであるだけなのだろうか。
背後に湯が落ちる音を聞きながら、私は髪の毛を洗い始めた。
本年もお読みいただき、ありがとうございました。皆様がよき新年をお迎えになりますよう、祈念申し上げます。
行きつけの銭湯には、かならず私より早くやって来るヤカン頭の爺さんがて、私が初めてそこに行った日、湯船の湯のあまりの熱さに水で埋めようとしたら、
「こらっ! 埋めるんじゃねェ!!」
と、ドスの利いた声で一喝された。
その後、とにかく毎日のように一緒になるので、おそろしく熱い湯に我慢して浸かっているうちに、四方山話などするようになった。
あの日は晩秋で、底冷えしていたので、私は多少急ぎ足で銭湯に向かった。すると、前の方から爺さんが首をすくめて歩いてきた。そしてすれ違いざまに短く、
「おい、今日はいけねェよ」
何がいけないのかテンでわからなかったが、私は聞き捨てて爺さんとすれ違い、銭湯の暖簾をくぐった。と、いきなり、いつもとはまったく違う、饐えたような、発酵したような、強烈な臭気が鼻を衝いてきた。
脱衣場の中央には、全身が黒と灰色とこげ茶色でまだらに見える男が立っていた。煮しめたように変色した背広らしき布の塊は、すでに足元の籠にあり、彼はいま袖口のあちこち切れたセーターを脱ぎにかかっていた。
ところがそれが、縄のれんのように太い束状になった、黒灰色の大量の髪の毛にからまり、容易に首が抜けないのである。
「あんた、今日はやめたら! 急に入ると風邪ひくよ! ねえ、よくないよ・・・」
胡麻塩頭で顎のがっちりした番台の店主が、真下に立っている私をチラチラ見ながら、彼が浴場に行くのを阻止しようとしていた。
男は、ゆっくりながらも確かな意志で服を脱ぎ続ける。それをなすすべなく見ながら、店主が独り言のように私に言った。
「よわったなあ・・・、にいさん、後で来た方がよくないかい? 湯が汚れるかもしれんし・・・」
男はついに全裸になった。蛍光灯を反射してところどころ光る、焦げ茶色の垢が全身をコーティングしていた。番台の店主は小さく息を吐いた。
男は、タオルも何も持たず、そのまま浴場の戸を開けた。そのころ私の鼻は臭いに馴れて何も感じない。彼に続いて私は服を脱ぎ、浴場に入った。
店主がいささか呆れたような顔で私を見ているのが、横の大鏡で見えた。
男は、一番湯船に近い場所に行き、直接タイルの床に胡坐ですわった。私は彼の斜め後ろに坐った。前の鏡に彼の背中が映っていた。
シャワーがあるのに、男はいきなり洗面器で頭から湯をかぶった。それから何度も何度も。繰り返して止まない。
話し声が聞こえ、浴場の入り口のガラスに人影が見えた。そして、離れていった。番台の店主に何か言われたのだろう。
男はひたすら頭から湯をかぶり続ける。
この男はいま、孤独なのだろうか? それとも、ただひとりであるだけなのだろうか。
背後に湯が落ちる音を聞きながら、私は髪の毛を洗い始めた。
本年もお読みいただき、ありがとうございました。皆様がよき新年をお迎えになりますよう、祈念申し上げます。
最後にユーモア溢れるお話、ありがとうございます。
お陰様で、孤独感から解放された気がします。
来年も、楽しいブログをお願いします。
来年は、どうぞ、インフルエンザにはお気をつけて下さい。
今年は、孤独のテーマが多かった気がしますが、最後も湯気な孤独話となりましたね。
「千と千尋の神隠し」の釜爺に、強力な薬の札を頼むシーンが、思い浮かびました。
私は冬至に柚子風呂に入りたかったのですが、風邪を引いてしまい、残念ながら入れない孤独を味わいました。
本年もありがとうございました。
来年も宜しくお願い致します。
風呂あっての俺、と言ってもいいくらいさ。
風呂で孤独なんか感じたことないさ。
だってさ、それって便所で孤独を感じるようなものだろ?
孤独なんてないさ、孤独なんて嘘さ。
スパなんかに行くと、露天風呂にある寝椅子で、ビニールカバーを付けて、真っ裸で、セレブのように、読んでいる人がいました。
私的には、風呂では半身浴派です。
南師は、本屋に行って本を読む、という順番ではないようですね。
1日2風呂。
趣味とも言える。
なのではないのでしょうか?
風呂を倣うとは、風呂を忘るるなり
と言いますか…
想像できませんが…
残りは、東京の「山谷」、大阪の「釜ヶ崎」である。
露上生活者ホームレスの人たちは風呂に入る事ができない。
そこで「銭湯の利用券」を支援で無料配布した。
全身垢で汚れているから、銭湯の湯を汚すだろう。
きっと、本人は、遠慮して、湯船には入らないだろう。
この横浜では「寿町」を拠点に、毎年、12月28日から1月3迄、夜9時から、夜間パトロールして、「毛布」と「豚汁野菜の雑多煮のスープ」とを「リヤカー」に乗せ、路上の一人ひとりを訪問し、健康状態を聞き、「生活保護の手続き」のお手伝いすることを伝えている。
4チーム程に分かれて行く。
横浜駅コース、横浜スタジアムコース、山下公園コース、…
路上生活者は段ボールで風よけを作っているが、寒波は容赦しない。
「野菜スープ」を飲みながら、そこでコミュニケーションを取り、しばし会話する。
こちらは目線を合わせるために、しゃがんでひたすら聞きに回る。
(風邪薬を要求される場合もあるが、体が弱っているので、強く作用が出る場合がある。医者に処方してもらうしかない。)
12月28日から1月3日の毎日回るのは、
この期間は「日雇いの仕事」がまったくなくなるからである。
毎月、神奈川県内のホームレス支援のヴォランティアが情報交換の会議を開くが、
路上生活者のリーダーめいた人々の隣に座ると、ぷーんと匂ってくる。
それはお風呂に入っていないから、体臭がどうしても臭うのだ。
「銭湯のサービス券」を無料支給されて、ようやく風呂に入るのだろう。
しかし、一人ひとりには、プライドがある。
私の場合は、職場が横浜市戸塚駅近くだったので、戸塚駅周辺の路上生活者の夜間パトロールをしていたが、生活保護を受けないで生きて行くプライドがあった。
しかし、横浜市が「空き缶条例」を制定し、ゴミ捨てから「空き缶を拾う事」を禁止したため、細々と生きてきた資金源を断たれて、
生活保護を受けざるを得なくなった。
自分で生きて行く、他人の税金では生きないというプライドが無残にも破壊された。
朝のオープン時間を狙っていくと、何人もの同好のじい様たちに出逢う。
それぞれ独りで来ていて、皆、まったくの無口で瞑想修行をしているが如くである。
たまに若い人を見かけるが、
彼等は必ず連れ立てで来ており、浴槽の中でもペチャクチャ話が止まらない。
この話が南さんの若い頃だとすると
さすがに「縦の孤独「」の達人ではある。