ゴータマ・ブッダの言葉を遺す最も古いとされる経典『スッタニパータ』(岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳)には、次のような文章が出てきます。
「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」
ここでは、修行者がブッダに、修行の結果到達する心身状態(境地)について論争のあることを指摘し、その最高の状態についてのブッダの見解を求めているのでしょう。すると、ブッダは次のように言います。
「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。」
文中「霊の最上の清浄の境地」とは、霊魂のごとき形而上学的実体(アートマン)を認める語り口でしょう。逆に「断滅」を言い、「(精神も肉体も)残りなく消滅する」境地を言うなら、それはいわゆる「滅尽定」や「無余涅槃」を意味するでしょう。
前者は、仏教の「無常」「無我」の考え方からして排除されるでしょうし、後者については、いかなる言語表現もできません(語る主体が消滅しているのだから)。
それを無理に言おうとすると、要するに自分が主観的に獲得した心身状態を、「最上の境地」や「悟り」のごとき客観的・超越的価値として自画自賛する破目になります。
だから、ブッダは言います。
「 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。
したがって、「悟り」についての言説は、単に特殊体験をひけらかすのではなく、それをどのような文脈に乗せ、どのような方法で語るのかを明確に自覚して、「なぜ」「何を目的として」そのように自らの体験を語るのかを十分に説明しないなら、教説としてまるでナンセンスであり、結局は妄想や錯覚と区別できません。
遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年が皆様によい年でありますよう、祈念申し上げます。
「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」
ここでは、修行者がブッダに、修行の結果到達する心身状態(境地)について論争のあることを指摘し、その最高の状態についてのブッダの見解を求めているのでしょう。すると、ブッダは次のように言います。
「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。」
文中「霊の最上の清浄の境地」とは、霊魂のごとき形而上学的実体(アートマン)を認める語り口でしょう。逆に「断滅」を言い、「(精神も肉体も)残りなく消滅する」境地を言うなら、それはいわゆる「滅尽定」や「無余涅槃」を意味するでしょう。
前者は、仏教の「無常」「無我」の考え方からして排除されるでしょうし、後者については、いかなる言語表現もできません(語る主体が消滅しているのだから)。
それを無理に言おうとすると、要するに自分が主観的に獲得した心身状態を、「最上の境地」や「悟り」のごとき客観的・超越的価値として自画自賛する破目になります。
だから、ブッダは言います。
「 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。
したがって、「悟り」についての言説は、単に特殊体験をひけらかすのではなく、それをどのような文脈に乗せ、どのような方法で語るのかを明確に自覚して、「なぜ」「何を目的として」そのように自らの体験を語るのかを十分に説明しないなら、教説としてまるでナンセンスであり、結局は妄想や錯覚と区別できません。
遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年が皆様によい年でありますよう、祈念申し上げます。
今年は一念発起、もう少し勉強することにして「語る禅僧」から読み直しています。
南さんにも良いお年になりますように!
並ぶ応答
878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
明けましておめでとうございます。
今年も先行き難題!
どうぞ皆様、ナイスな年でありますように!
これは輪廻のこと?
もはや輪廻から解脱しているので、
今後の「種々なる変化的生存」を受ける事が無い・・・これ即ち悟った賢者だけの特権!!
という解釈が十分に成り立ちますよね。
それが当時の限られた情報量内での『修行の目標』だったと十分考えられる。
逆に言うと、
「悟っていない人は輪廻で苦しい変化的生存を繰り返すしかない・・・」という事に成ってしまう。
これが釈迦一流の説き方で、
このコンテクストでは、
無常無我は矛盾してないと思っても論理の整合性が有る???
無常…自明…変化を続ける。
無我…永遠不変という概念を取り外せば、
アートマンも輪廻環境の変化の中での揺れ動く存在だ・・・、で論理の整合性を保てる。
アートマン自身も固体間への移動によって、自ら変化し続けるモノだと考える事で論理が結着する。
人の魂は経験・経年的に変化し続けるものだ・・・としてよい。
ってのがあったな、どこかに。
その「境地」に至って「私は驕っていた」というのなら、信用度は高そうです(笑)
『ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。』
悟りの境地を「円」として表すことがありますが、円熟とかそういう「良いこと」を表しているのではないように思われます。
形而上学的「円環構造」を外れて、「私は今まで円をぐるぐると廻っていたに過ぎない」ことを表しているのではないかと思われます。
「円環構造」を外れなければ、それが円であることを知ることはできないでしょうから。
もちろん、これらは個人の偏見です(笑)
よい年となりますことを心より深くお祈り申し上げます。
「お前は禅定の第何弾に達したな」
と「よしよし」して呉れる場合はどうでしょう。
それもやっぱり
そんな教説はナンセンスで、結局は妄想や錯覚と区別できないのです・・・
という事なのでしょうか?
となるわけでしょうか。
日々の心が清らかになれば
人生それでよし・・・という事ですかね。
妄想や錯覚は不要ですと。