ゴータマ・ブッダの言葉を遺す最も古いとされる経典『スッタニパータ』(岩波文庫『ブッダのことば』中村元訳)には、次のような文章が出てきます。
「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」
ここでは、修行者がブッダに、修行の結果到達する心身状態(境地)について論争のあることを指摘し、その最高の状態についてのブッダの見解を求めているのでしょう。すると、ブッダは次のように言います。
「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。」
文中「霊の最上の清浄の境地」とは、霊魂のごとき形而上学的実体(アートマン)を認める語り口でしょう。逆に「断滅」を言い、「(精神も肉体も)残りなく消滅する」境地を言うなら、それはいわゆる「滅尽定」や「無余涅槃」を意味するでしょう。
前者は、仏教の「無常」「無我」の考え方からして排除されるでしょうし、後者については、いかなる言語表現もできません(語る主体が消滅しているのだから)。
それを無理に言おうとすると、要するに自分が主観的に獲得した心身状態を、「最上の境地」や「悟り」のごとき客観的・超越的価値として自画自賛する破目になります。
だから、ブッダは言います。
「 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。
したがって、「悟り」についての言説は、単に特殊体験をひけらかすのではなく、それをどのような文脈に乗せ、どのような方法で語るのかを明確に自覚して、「なぜ」「何を目的として」そのように自らの体験を語るのかを十分に説明しないなら、教説としてまるでナンセンスであり、結局は妄想や錯覚と区別できません。
遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年が皆様によい年でありますよう、祈念申し上げます。
「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」
ここでは、修行者がブッダに、修行の結果到達する心身状態(境地)について論争のあることを指摘し、その最高の状態についてのブッダの見解を求めているのでしょう。すると、ブッダは次のように言います。
「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。」
文中「霊の最上の清浄の境地」とは、霊魂のごとき形而上学的実体(アートマン)を認める語り口でしょう。逆に「断滅」を言い、「(精神も肉体も)残りなく消滅する」境地を言うなら、それはいわゆる「滅尽定」や「無余涅槃」を意味するでしょう。
前者は、仏教の「無常」「無我」の考え方からして排除されるでしょうし、後者については、いかなる言語表現もできません(語る主体が消滅しているのだから)。
それを無理に言おうとすると、要するに自分が主観的に獲得した心身状態を、「最上の境地」や「悟り」のごとき客観的・超越的価値として自画自賛する破目になります。
だから、ブッダは言います。
「 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。
したがって、「悟り」についての言説は、単に特殊体験をひけらかすのではなく、それをどのような文脈に乗せ、どのような方法で語るのかを明確に自覚して、「なぜ」「何を目的として」そのように自らの体験を語るのかを十分に説明しないなら、教説としてまるでナンセンスであり、結局は妄想や錯覚と区別できません。
遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年が皆様によい年でありますよう、祈念申し上げます。
災難だったね。
でも、あなたのご先祖は幸せだ。
あなたみたいな子孫がいて。
祈願を聞き届けて呉れる主体がいるといいけどね・・・
アッ、お釈迦様はダメだよ。
君の祈願を聞き届けて呉れるなんて事は無いよ。
もうすでに身体は滅して、永遠のゼロになってる筈だからね。
自灯明&法灯明あるのみだね!!
申込用紙を提出する。横になにやらきれいなお札が大中小と並んでいる。見るともなしに見ていると
受付僧「祈願もなさいますか?」
私 「いえ、今回は供養のみで」
受付僧「祈願と供養の違いがわかり ますか?」
私 「えっ、チ・ガ・イ・ガ・ ワ・カ・ル・カ?わ・わか りません」
受付僧「チラ・・・・・・」
おつりを受け取り社務所を出る。
暮れなずむ宇曽利湖に向かって「違いなんてないんだよ~
面識0のお地蔵様に祈願をするより孫を可愛がってくれたご先祖様に祈願も供養もするんだよ~っ」
と叫びたかった・・
叫ばなかったけど。
どの様に批判したのでしょうか、その出典を示して下さい。
悟りだけじゃない
幸福なんてものも無意味
幸福な人はいない
絶対的な幸福なんてない
あるのは相対的な幸福だけ
他人の人生と比較して、まだ自分はマシな方だと、内面の不満をなだめるだけの鎮痛薬
幸福な人はいない
できるのは幸福なように装うことだけ
神さまってものが存在してて、
自分が作った天国に
人間が這入る為には
「あーせい、こーせい、今のお前は間違ってるぞ!!」って言う話が出て来るんだろうけど、
所詮いつも間違った事を言う人間が、
俺の考えこそ正しくて絶対的だなんて言える根拠が何処にあるって言うんだ・・・
充実して幸せなんだが・・・
お前さんは「いいえそれは間違いです」って
この俺をお前さん流に変えたいって事なのかえ?
その根拠と価値と意味とはなんだね?
一体、俺が誰に迷惑を掛けたって言うんだ??
君は要するに、
自分だけが正しいって言い張りたいのかな??
もともとそれは言葉の届かない領域での体験だ。
主に坐禅という身体技術と、公案という問いに一体化することで実現される。
いわば「覚知する主体」と「される対象」が「一つになる」
ことで、「それまで「自己」と思い込んでいたもの」が溶解するのだろう。
多くは歓びを伴い、著者が五段階に分析したように体験は深まっていく。』
所詮、ここで「本当の自己」が出現するだけ!
その内容は、「新種」の「梵我一如」の世界になっている。
人間は、この罠に嵌まってしまう。
つまり、南師の説く「非仏教」である。
『「井筒俊彦」氏は『意識と本質』において最深層の無意識である阿頼耶識を「言語阿頼耶識」と名付け、その払拭の可能性を疑っている。』
「井筒俊彦」は所詮「大乗起信論」に嵌まってしまっている。
道元和尚が批判する所以である。
(南師のように)「実際に修行」して「悟った」のでしょうか?
1974年、岐阜県生まれ。筑波大学卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科修了。
博士(文学)。京都大学人文科学研究所非常勤講師、花園大学非常勤講師などを経て、
2019年11月現在、仏典翻訳家。
著書に、『「唯識説」を中心とした初期華厳教学の研究』
『元魏漢訳「ヴァスバンドゥ釈経論」群の研究』(以上、大蔵出版)、
『「大乗起信論」成立問題の研究』
「大乗起信論」は中国で作成され、問題な書物ですね。
道元和尚とは、これは対立するものです。
まあ、これがいいというのなら、どうぞ。
「いいえ違います!!」って叫んでも
「クソくらえ!!」なのである、
「まず自分が悟ってからモノを言え!!」
なのである。
つまりこういう事なんだろうとワタシ的には直感します。
ーーーーーーーー
悟り体験とは、
悟りたい人の件(境地)なり。
ジルボルトテーラーの左脳損傷による右脳世界の世界観に同じ。
南さんのいう「変性意識」に同じ・・・。
それが「悟り」の境地であり
それ以上でもそれ以下でもないが、
その境地が個人的主観で妄想、乃至、偏見であっても一向構わない。
その境地の意味は・・・
その人の人生観をガラッと変え、
その人の生き方を変え、
全く新しい人としての人生を、
確信を持って歩む事、
に成ると言う事であろう。
確固たる、自分内に定着した
自己洗脳の世界で生き切るという意味であろう。
誰からも邪魔されない、真の幸せ者になるのである。
南さんが幾ら「境地の無意味」と叫んだとて彼等には全く通じない・・・
フン、それが何か??
当人の俺が幸せなんだから、
他人のお前さんが四の五の言う事はあるめえよ!!
お前さんはお前さんで
苦悩の深淵で悶えていたらいいだろさ!!
・・・これが結論である。
「悟り体験」を読む
大乗仏教で覚醒した人々
大竹 晋(新潮選書)
https://www.shinchosha.co.jp/sp/book/603849/
目くるめく境地かぁ
玄侑さんも推薦、流石は臨済宗!
やっぱり性問題がありますかね
男女の差って大いにありそう
はい削除。
深く境地に浸っている人は
至福感に溢れるのですが・・・
う~む、其れではダメですか??
無明ゆえの妄想だと・・・
喉に詰めないように
餅を食べてみて下さい。
という事は
境地の無意味に頭を悩まして
疑惑の火宅に居る人は、
いつまでたっても涅槃寂静に
達する事が出来ない??
境地とは無意味であっても構わない。
個人的主観だとか、
妄想・錯覚であっても構わない。
なぜなら、
いつでもどこでもすこしでも・・・
自分の中に涅槃寂静を感じるからだ。
そうで無けりゃいかんぜよ!!
とかと
七面倒くさい駄々をこねずに、
あっさり「人間禅」をするのはいかが??
ーーーーーーーー
「人間禅」福岡座禅会;
この混迷の時代を颯爽(さっそう)と生きていくために坐禅をします。
姿勢を整えて坐すれば呼吸が整い、心が整ってきます。清々しさに浸る一瞬です。
私っていったい何ものだ、と自分の心に問い続ける人もいます。
生きる意味は?
永遠のテーマに坐禅で挑む人達です。
ーーーーーーー
何処から来て、何処に行くのか?
問う姿勢自体に意味が有るのでしょう。
なぜなら分からないという事が分かり、
リアルの自分に気付かされるからです。
十牛図第9・第10図の境地に達するでしょう。
「修証一等」論にはおかしなところもあるよね。道元さんの思い違いって言う可能性もあるよね。
道元さんだって人間だもんね(むつを・・・いや、みつを)
「証」とは涅槃寂静という意味でもある筈だから、
今、一生懸命、必死に、
30年以上も「修」してる南さんは、
修証一等ならば、
30年前から「涅槃寂静」現象が起きてる筈だった。
でも???
30年たった今でも???
何故に、相変わらず、
『悟りは開かない』なんていう本を書いているのかなァ~???
(中略)
<当然に、「画に描いた餅」なのだから、「画餅」をいくら食べても飢えを充たすことはない。しかしながら、そうであっても、「餅」を食べなければ、飢えを充たすことはあり得ない。例えば、道元禅師の修行とは、悟りを目的に行われるものではない。むしろ、修行が悟りであるという「修証一等」だとしており、或いは修行とは、そのまま仏の行為であるという「仏行」だというのである。
ー此の坐禅、仏仏相伝し、祖祖直指し、独り嫡嗣なる者なり。余の者は其の名を聞くと雖も、仏祖の坐禅と同じからず。所以は何となれば、諸宗の坐禅は、悟を待つことを則と為す。譬えば船筏を仮りて大海を度り、将に海を度れば船を抛つべしと謂うが如し。吾が仏祖の坐禅は然らず、是れ乃ち仏行なり。所謂、仏家の為体は、宗説行一等なり、一如なり。『永平広録』ー
それを食べて、飢えを充たしてしまうただの「餅」は、ここで道元禅師が否定した「船筏」と同じである。この「船筏」とは、河を渡るための船のことであり、以前から、迷いの世界である「此岸」から、悟りの世界である「彼岸(=波羅密)」に渡るための「修行」に譬えられたものである。
しかし、道元禅師は、仏祖の坐禅とは「船筏」ではないとしているということは、船に乗るとすれば、船の行き先・目的地がその船の他のどこかにあるのではなく、今ここで進んでいるという事実が肝心だという意味になり、或いは、餅もそれを食べているという事実が重要であり、飢えが充たされるかどうかが問題なのではない。飢えを充たさない「餅」それが「画餅」であるとすれば、道元禅師の修行観と一致するのである。
ーしかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず、画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を、身心に究尽するなり。この功徳、いまだ現前せざるがごときは、学道の力量、いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり。ー
そして、「画」「餅」「飢」「充」といった事象を明らかにすることが「学道の力量」である。「転物物転」という言葉がある。物を転じ、物が転じるということであり、我々自身に於いて現象が現象するとき、そこにどのように「物」が関わるかを、自らの身心によって明らかにすることである。坐禅人の修行とは、坐禅によって仏を見るようなことはない。坐禅は、我々自身を明らかにするのである。道元禅師はそれをという言葉の解釈から理解を進められた。>
寒中お見舞い申し上げます。
今年のお正月も、有り難いことにお餅を頂くことができました。
ですが上記を読み、恥ずかしい気持ちになりました。
それは、絵に描いた境地ということだろう。
https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/476f037eae250b7e62a0e6eedb2039bd
これは見性ではなく、特殊体験のことでしょ?
http://www.ningenzen.jp/bousou/modules/d3blog/details.php?bid=392&uid=1
別に、意味があろうがなかろうが、やりたければやってみればいいじゃん。
その問いに何かの答えが出てきたとして、そいでその答えが、例えば 耶蘇っちや南さんに「いいえ違います」だの「無理筋なだけでなく有害」だの言われたところで、言われるだけなんてどうってことないしね。
無我系世界の時節では「生もなく、滅も無い」
釈迦の仏法の時節では「生が有り、滅がある」
しかしどちらにしたところで、
どこから来て、どこへ行くのかは分からない。いくら考えてもわからない・・・
しかし何処にいても涅槃寂静である。
どこから来て、どこへ行こうと・・・
涅槃寂静である。
それを目指して修行するしかない!!
「不生の佛心」と。
しかし、その結論を知っても、そのようにはならない。
やはり、白隠禅のように、猛烈な修行が必要になってくる。
そうで、無かったので法灯が途絶えた。
アイロニーである。
道元和尚は「只管打坐」
つまり、最初から、終わりはない。
生きて来るとか、死んで行くなんてナンセンスだし、
境地の無意味がまかり通るのだ!!
どこから来て、どこへ行くのか?と問うのも、無意味なことだろうか?
誤魔化す、狡いイエス様
0113 イエス様 01
臨済禅宗では「禅修行の境地」を『十牛図』で表現する。
0113 イエス様 02
当然です。
臨済宗の『十牛図』は道元和尚が批判しているから。
南師も同じ立場です。
これに対する案能様の質問
仏教は虚無主義ではないと言う証拠として十牛図を持ち出し、
第9、第10図が『仏教の境地』だって言ったんじゃあ無いんでしたっけ???
それをいまさら・・・どゆことですか。
第9、第10の【境地の無意味】だとでも・・・
0115 イエス様 の話題転換
言い逃れが始まる
「修証一等」とは、第1図から、全部です。
ザット見ても
論拠を持たず三流週刊誌的な思い付きで書いている騙り部ですね
追求するのも無駄です、言い逃れするだけです。
このブログの汚点なのです。
境地とは
単に我なるおのれの
個人的主観ないし妄想・偏見に過ぎないのである。
我が没して無我になったのに
或る境地に到達したなんて言えば、
著しく論理の正当性を欠くのである。
迷うという事も無く、
悟るという事も無く、
無我ゆえに仏、衆生の区別も一切無く、
無我なんだから
生きて来るとか、死んで行くなんてナンセンスだし、
境地の無意味がまかり通るのだ!!
『萬法ともにわれにあらざる時節(では)』、
【迷悟無く、仏なく衆生なく、生はなく死もない】
・・・(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪、
これは「諸法無我」界における原理的世界観であろう。バーチャル世界観と言える。
其れに相反する
『萬法われにあるの時節』なら、
「諸法の仏法なる時節」と同意で、
釈迦の教えに従って
この世をありのままに見る時には、天地万物が少しも歪められる事無しに、
あるがままに見えてくる。
そういうリアルの世界には、
【迷悟あり、修行有り、生があり死が有り、諸仏あり、衆生もいる】・・・
そう言うコンテクストとしても読める。
『萬法(存在)、」とも(共)に、われ(我)にあらざる(非我)時節、』
全ての存在が共に「非我」ならば、「無我と同値」である。
そして「諸法無我」だから「涅槃寂静」である…
『萬法ともにわれにあらざる時節、
「まどひなく、さとりなく」、佛なく衆生なく、「生なく、滅なし」。』
「生なく、滅なし」
つまり、「不生、不滅」である。
だから、
盤珪禅は、只「不生の仏心」に「居続ける」ことを教える。
「修行」のことは言わない。
だから、
法灯が途絶えた。
他方、修行を中心に据えた、白隠禅の方は残り、現在の臨済宗は、白隠禅だけになってしまった。
相田みつを
相田むつを
相田めつを
相田もつを
マnnがね、ミごとにね、ムらmmと、
メnnをもとめて、モうたいへん‼
此処には「見「性」、成仏」の体験などはない。
「仏向上事」「永久修行論」なのです。
論拠を示して下さいね
ですが、間違う者なんだもの!は、「みつを」さんです。
境地などとは所詮、個人的主観に過ぎず、
妄想・偏見と変わりが無いのである。
人は【神】では無いのだから、
ただひたすら、
「人間だもの‼」(むつを)の原理に即すべし。
所詮人間の出来る事は、
限定的な「正「」を見つめて、しかもそれが間違いかも知れない事を前提として
柔軟的に、かつ、臨機応変に自らを処するべきなのである。
釈迦でも道元師でも南師でも、如何なる聖人でも、皆、人間である以上、
間違いを起こし、考え違いを起こし、思い違いを起こし、勘違いを起こす、
とんでもないトンチンカン様だと観ずべし。
人はすべて個人的主観と妄想・偏見に憑りつかれてしまうのだ。
生き抜くための要諦は、ただただ
「柔軟的に‼」、「臨機応変に‼」なのである。
只管打坐にて心塵脱落すれば、身心脱落も叶うのだ。
すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、佛あり、衆生あり。
萬法ともにわれにあらざる時節、
まどひなくさとりなく、佛なく衆生なく、生なく滅なし。
佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、
生滅あり、迷悟あり、生佛あり。
しかもかくのごとくなりといへども、
花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
迷を大悟するは佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。
さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
佛のまさしく佛なるときは、自己は佛なりと覺知することをもちゐず。
しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
諸法の仏法なる時節,
すなはち「迷・悟」あり,「修行あり」,生あり死あり,諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節,
「まどひなくさとりなく」,「諸仏なく衆生なく」,生なく滅なし。
諸法の仏法なる時節,
すなはち迷悟あり,修行あり,生あり死あり,諸仏あり衆生あり。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに,生滅あり,「迷・悟あり」,「生・仏あり」。
しかもかくのごとくなりといへども,
花は愛惜にちり,草は棄嫌におふるのみなり。
・白隠禅
・盤珪禅
そして、
・道元禅
そして、臨済宗の中で法灯の絶えていた、
・盤珪禅を、発掘して広めた。
しかし、
・道元禅には、触れなかった。
それは理解できないからである。
(鈴木大拙は臨済宗で修行した)
秋月老師は、この白隠禅の「二つの流れ」の両方とも極めた。
なので、道元禅も、その二つの「流れの差異の様なもの」とお考えになったのだろう、
『正法眼蔵』を95巻本で、提唱を始めた。
(これは、体系的ではなく、残っている「全部の仮名本」を、単純に執筆順に並べたもの。
しかし、道元和尚は晩年に、仮名本を「取捨選択」して、体系化して「読むべき順序を決定し」、旧草75巻、新草12巻、全87巻として、その全体を『正法眼蔵』と命名した。)
秋月老師は、この95巻本を用いて、執筆した順序に沿って、「海印三昧の巻」に至って、道元禅は白隠禅と全く異なると気が付いて、自分には理解不可能として、それ以後提唱を止めた。
「十牛図」は臨済宗における「修行の境地」の説明なのです。
道元和尚は、この「十牛図」を超えている。
それが「修証一等」なのである。
また、南師は「修証一等」のお立場なのです。
此処には「見「性」、成仏」の体験などはない。
「仏向上事」「永久修行論」なのです。
「修行と悟りとは、一つであり等しい」
「悟りは修行であり、修行は悟りである」
「十牛図」の全部において、最初の境地から、「修証一等」なのです。
『「境地」の無意味』なのです。
悟りは悟り。
http://nakano-zenjuku.com/?p=46
私的には、こう考えません。
https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/b701292838beea523828f1ddd2b7cb4e
色即色、空即空。
悟りも修行も現象?
例題1
犬は動物である。
しかし動物はすべて犬ではない。
犬も動物は実体視、つまり本質
だが、犬も動物も属性であり、つまり現象であろう。
であるからして、その例題の問い方に無理がある。つまり、本質としているもの同士で、問うているのであろう。
例題2(薪は薪問題)
私は私である。人間は人間である。
私を実体視しているか?現象としているか?
人間を本質としているか?人間を属性としているか?
考え方そのものが正しいかどうか、
正しいことはその場合に限られるのではないでしょうか。
論理学の対象は「考え方」即ち「問い」ということですから、問うた内容によって質問者のレベルが判るわけです。
「この人大丈夫か」と私が思うことには正当性があるわけです。
無意味化しています。
無意味化したいです。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/1f9fd199004a61b613762d3b116cd78e
南先生どうぞお元気で冬をお過ごしください。
今年もよろしくお願いします。
AとBの関係の、逆・裏・対偶で、
修証一等を論じて見て下さい。
「修」と「証」。
命題;
修で無ければ証で無い
逆;(は必ずしも真ならず!!)
証で無ければ修で無い
対偶;
(命題が正しければ常に正しい。)
証であれば修である。
裏関係
修であれば証である。
さて修証一等の論理学上の正当性は如何に??
◯か×かを、
判断できて喜劇になるのですよね?
私はまだ論理学というものを身につけてません
思考の混乱は悲劇なんですよね
「色」と「空」間では、
色Aは下位概念、空Bが上位概念だから
A=B は成り立つが、B=Aは成り立たない。
(例、犬は動物である。しかし動物はすべて犬ではない)
修行Aと悟りBの間ではどうなんでしょうか?
「修行が無ければ悟りは無い」という必要条件が成り立っており、
「悟りが有れば修行は三昧」の境地となってる訳で、
それを修証一等という言葉で括っていいものやら、判断しかねている状態というところですかね。
もう少し時間を懸けて考えて見ます。
修行即是悟りと悟り即是修行の違いと同じような感じでしょうか。
そこには、ただ仏陀に少しでも近付きたいという果てのない思いが漂う。
『修行即是悟り』という解釈が出来る境地とは如何に…という命題も出てくる。
『修行して悟りつつある』境地という解釈ならまた別の定義となる。
『修行しても悟りは開けない』という言説は異次元の命題となる。
旅も立派な修行のうちですね。
出家の専門用語でも
「遊行」って言うんじゃなかったんでしたっけ。
牛が来たとか来ないとか、牛と手を繋いで仲良くなったとかいう友情の証を、話しているのではないの?
悟りは既に開いていると言う事ではないのか?
勿論、十牛図第9、第10も達成されているだろう。
いいえ違いますなら
何故いいえ違いますのか、
その弁護を聞きたい。
南さん著作の
『悟りは開かない』の境地ならば
「修証一等」を否定した論理なのではないか。
勿論、十牛図第9、第10は気に食わない無意味の発想だろう。
同じ人が両方説くのか?
その辺の論理の整合性が気になる。
いいえ違いますなら
何故いいえ違いますなのか
その根拠を聞きたい。
0113 イエス様 01
臨済禅宗では「禅修行の境地」を『十牛図』で表現する。
0113 イエス様 02
当然です。
臨済宗の『十牛図』は道元和尚が批判しているから。
南師も同じ立場です。
これに対する案能様の質問
仏教は虚無主義ではないと言う証拠として十牛図を持ち出し、
第9、第10図が『仏教の境地』だって言ったんじゃあ無いんでしたっけ???
それをいまさら・・・どゆことですか。
第9、第10の【境地の無意味】だとでも・・・
0115 イエス様 の話題転換
言い逃れが始まる
「修証一等」とは、第1図から、全部です。
ザット見ても
論拠を持たず三流週刊誌的な思い付きで書いている騙り部ですね
追求するのも無駄です、言い逃れするだけです。
このブログの汚点なのです。
マタマタ意外!!
修証一等とは(十牛図の)第1図から・・・、なんていうと、
道元さんや南さんが十牛図を批判(=排斥)してるというイエス君の話と合わないんじゃあないでしょうかね。
なんか論旨の道筋が見えないですねェ~。
たんなる臨済宗への対抗意識(=てきがい心)って事ですか?
「第9、第10になってから」の話だよ。』
「修証一等」とは、第1図から、全部です。
網を振って虫を捉える。
なーんだ、何も捕まえられなかった。
否。
お、立派な虫を捕まえた。
否。
心が空騒ぎしているだけ。
悟りが、有る、無い。も同じこと。
厳密な検証が不可能であり、再現性が保証されない、ましてや見ることが出来ないという観察不可能なものを、あえて不立文字というのであれば、それこそ妄想以外のなにものでもないわけです。
目指すのは勝手ですが、理解されるとはとても思えないわけです。
そのように思うことは決して否定はしませんがあくまでご自身の内々に留めておくべきことではないでしょうか。
言葉ではわからないけど、生き方、行動、行為の様で観てみれば。
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いいえ、違いますか?
しかし、私達にとっては、冬は特にぬくぬくして気持ちいいよなあ。それだけで、幸せな気分になるわ。今日も、太陽さんには、輝いてほしいわ。
見る人が見ればわかる。意味が分かる。
見る目の無い人には「境地」は無意味である。
大悟の「境地」になると、
長い間探し求めていたモノが今、
此処に有ると言う、
紛れもない最終到達感がある。
残念ながら本人だけが分る境地である。
妄想だ、錯覚だと言いたければ言えばよい。私自身には確信があるのだ。
僧侶は悟りを開くべし‼
太陽が昇ってきたぞ
そーいや
太陽って誰の為に明るく暖かく照らしてくれるんだろね?
毎日、きちんと座禅しているなら、それだけでお釈迦様に数歩近付いていると思う。バカにするどころか、尊敬に値するよ。途中で投げ出さず、生涯続けてほしい。他人の評価など気にすることなく、頑張りましょう。
今の俺が坐禅をしてるから
修証一等状態だなんていえば、
人は俺を気が狂ったかってバカにするだけだね。
修証一等とは十牛図第9、第10になってからの話だよ。
パラリンピックも終わってから、9月の初め頃を予定にしてるみたいだけど。これじゃあ、オリンピックで遣り逃げ、と言われるだけのことか?でも次は、という人がいない国って・・・
私という形態でいか生きれない我と言われる自己
がんばれ
君自身が仏教は虚無主義ではないと言う証拠として十牛図を持ち出し、
第9、第10図が『仏教の境地』だって言ったんじゃあ無いんでしたっけ???
それをいまさら・・・どゆことですか。
第9、第10の【境地の無意味】だとでも・・・
当然です。
臨済宗の『十牛図』は道元和尚が批判しているから。
南師も同じ立場です。
悟りは開かないという境地、
境地は無意味と断ずれば
十牛図第9第10無きに等しい。
然れども、
第9、第10奉ずれば、
釈迦の教えはいい気分(ウッフン‼)
五福祥来が訪れる
ワタスはもともと第九・十図が好きで
これが仏教の本質だとさえ思っていたのですが、
実存は無根拠で無価値で無意味だと言ったのは南さん。
なぜ彼は言葉をそこで止めてしまって、
十牛図第9図、第10図には言及しなかったのですか?
いいですね。
『宝慶記』は大変重要です。
そもそも、道元和尚は、他人に見せる意思はなかった。
自分の為に、記録を残した。
死後、二祖によって、発見された。
南師は(残念だが)如浄禅師を「高くは」評価していない。
「しかし」運命の不思議さであり、
「只管打坐」の人物が「実際に」存在する。
彼を師と仰ぐ「修行集団」が、存在する。
これは「日本国にないもの」だった。
感激したであろう。
「お袈裟」の作法も「釈尊からそのまま伝わった」と考えている。
その如浄禅師が、
「参禅は、身心脱落だ」とズバリ教えた。
「参学の大事」をここで得た。
「道元和尚にとって」は「正師」だった。
だからこそ『宝慶記』で自分の為に記録を残した。
なお、『私は、『宝慶記』を読み進めようかと思います。』
いいですね。
『宝慶記』は大変重要です。
そもそも、道元和尚は、他人に見せる意思はなかった。
自分の為に、記録を残した。
死後、二祖によって、発見された。
南師は(残念だが)如浄禅師を「高くは」評価していない。
「しかし」運命の不思議さであり、
「只管打坐」の人物が「実際に」存在する。
彼を師と仰ぐ「修行集団」が、存在する。
これは「日本国にないもの」だった。
感激したであろう。
「お袈裟」の作法も「釈尊からそのまま伝わった」と考えている。
その如浄禅師が、
「参禅は、身心脱落だ」とズバリ教えた。
「参学の大事」をここで得た。
「道元和尚にとって」は「正師」だった。
だからこそ『宝慶記』で自分の為に記録を残した。
なお、『宝慶記』は飽く迄も、道元和尚に見えた如浄禅師であり、実際の人物と同じとは限らない。
如浄禅師は「心塵脱落だ」と教えたのだから。
眼蔵87巻読んで
実存の無「根拠」性・無「価値」性、無「意味」性をジックリ味わい給え』
「仏教」は「虚無主義」ではない。
上記の様な重傷な「空病」は「治す方法」がない。
そもそも、この「宇宙の存在」に、人間が「それの価値」「それの意味」「それの目的」を、「言葉」を用いて与える事はできない。
だから、
このことを「仏教」では、
無「価値」と言い、無「意味」と言い、無「目的」と言うのである。
しかし「仏教」は、「この境地」には留まらない。
臨済禅宗では「禅修行の境地」を『十牛図』で表現する。
無「価値」無「意味」無「目的」の境地は、「第ハ段階の境地」に過ぎない。
1-尋牛(じんぎゅう)
2-見跡(けんぜき/けんせき)
3-見牛(けんぎゅう)
4-得牛(とくぎゅう)
5-牧牛(ぼくぎゅう)
6-騎牛帰家(きぎゅうきか)
7-忘牛・存人(ぼうぎゅうぞんじん)
8-人牛・倶忘(じんぎゅうぐぼう)
「白紙状態」-すべての「意味」が存在しなくなった。
これが「無分別の境地」
更に、二つの境地が待っている。
9-返本・還源(へんぽんかんげん)
10-入鄽・垂手(にってんすいしゅ)
これが「無分別を体験した後の分別の境地」
『眼蔵87巻読んで』
道元和尚の主著『正法眼蔵』旧草75巻+新草12巻を読むと、
更に、この『十牛図』を超えている。
「釈尊の仏教」に回帰している。
「只管打坐」
そのほかにも
>形而上学的実体(アートマン)を認める語り口
>「断滅」を言い、「(精神も肉体も)残りなく消滅する」境地を言うなら、それはいわゆる「滅尽定」や「無余涅槃」を意味する
>いかなる言語表現もできません(語る主体が消滅しているのだから)。
>無理に言おうとすると、(略)自画自賛する破目になります
「境地」を言葉のこととして話を進めてると思うよ。
行いのことを言ってるの?
いずれにしても「無意味」、と言いたい話なの?
これ、間違いだね。
了解されてるってことはそれで通じてるってことだから推定にしなくていいんだね。
そうなのかな。
私は、「言葉を担保するのは行い」なんじゃないかな、みたいな気がする。
「行い」なんていうとなんか面倒だけど、どうやって生きてるか、っていうか。
教説が完成度高かったとして、それが何なの?
言ってる人がそれやってないなら宗教として説得力ないと思う。
だから「境地」が高かったら何なの?みたいな。
でもそれだって、ある集団の中では「言ってる通りに生きてる」と了解されてればそこではそれで通じるんだろうし。
それに、南さんが言ってることが「俺は言葉だけで(行い抜きに)俺自身の存在を確立してやろうと思っている」てことなら、「言ってる通りにやってる」と言えるのかもしれないしね。
プラグマチック仏教には似合わない。
修証一等の意味付けが生まれてくる(・・・らしい?)
では不生不滅論は
その境地に如何なる心理的効果をもたらすものであろうか。
片方で「死の練習」を説き
相反するように「不生不滅」を説く。
う~む、その意図が分からない。
修行の結果到達する心身状態、即ち禅定という境地は、要するに、
個人的経験の吐露か、タダの「偏見」の披露に過ぎないのだから、そんなものは無意味である・・・という南さんの主張であろうか。
問題は何処にあるかと言えば、
仏教での公式重大行事として
あたかも認定資格試験にパスするが如きに、
禅定を吐露・披露して他者との差別化を図り、
己を自慢する雰囲気のある、
従来の仏教者の選民意識・見せびらかし・承認欲求が問題であるという事であろうか。
修行によって
人が己の感情をコントロール出来るようになり、
心が落ち着いて、寂静・安寧・喜びをもって人生を歩んで行ければ其れで良い訳である。其処に「境地」の意味が在る訳である。
修行によってもたらされる効果、
即ち、或る心身状態に達するという
重要な修行の目標があるのであろう。
無意味だと思ってる人に無意味だって言うだけの事で、
有意味だって思ってる人は有意味である訳で、
「此の世には無意味な事は一つもない」派と、
「一切皆《無意味》」派の覇権争いをしている如くであるみたい。
所詮実存は無根拠で無価値で無意味だから、
君が生きてる間に出来る事と言えば、
セッセと死の練習を予行演習することぐらいしかないぜよ!!
なんかそう言いたがってるのかなァ~??
例え、そんな見解に同調する賛成者がいても
ヤッパリ個人的経験の披露に過ぎない。
俺に賛同するなら
君の脳内は「お花畑になるぜよ」って言ってるに過ぎない。
う~ん、
でもお花畑の中で「死の練習」が出来れば、
まあ君も幸せもんじゃあないかな。
もともと実存は無根拠で無価値で無意味なんだからさ・・・
眼蔵87巻読んで
実存の無根拠性・無価値性、無意味性をジックリ味わい給え、☆☆☆君。
言葉選びが下手くそな人が無明って事だね。
八正道での「正語」が使い切れてないというか・・・
自分の吐き出す言葉が恣意的だというか強弁的だというか・・・
だから言う事全てがケロンになっちゃう。
>それをどのような文脈に乗せ、どのような方法で語るのかを明確に自覚して、「なぜ」「何を目的として」そのように自らの体験を語るのかを十分に説明
これなあ。
やっぱり、説得力感じない。
ただ言葉に裏切られてるだけに思える。
南さんは「言葉で言葉を裏切る」って言うんだっけ?
でも「到達できない」のが言葉の性分なら、裏切ってるのは南さんじゃなくて言葉でしょ?
で、言葉の性分を裏切りたいなら、それは言葉で言葉を担保したいんだろうなって思う。
南さんの言うことを「ああ、ほんとにありがたい」と思う人にとっては南さんの言うことはちゃんとした教説で、私なんかにとってはそうでもなかったりする。
仲間内で妄想や錯覚を共有できてるかどうか、でしかないかもしれないじゃん。
南さんが「ナイーブ」と切り捨てるものが、どこかの集団にとってはちゃんとした教説なのかもしれなくて、それは南さんの言ってることがちゃんとした教説として流通する世界があることと変わらないんじゃないの?
南さんはたぶん言葉で言葉を裏付けよう(担保しよう)としてるんでしょ?
言葉はお金みたいなもんだよね。
涅槃は常住なり。
とすれば、此岸の諸行無常の世から、
彼岸の常住の世へ入るのが
仏教者の目指すべき修行道という事になるのであろうか。
単なる錯覚としての心理状態とするか、
それがリアルの世界なんだと見做すか?
>いかなる言語表現も出来ません(語る主体の実存証明が出来ないからです)。
新大乗ー本来の仏教を考える会
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/mugenjo-gensi.htm
これも本来という境地、なのだろうか?
単行本は手軽ではあるのですが、字が小さ過ぎるので、最近の新聞くらい、もう少し大きくしてほしいですね。
私は、『宝慶記』を読み進めようかと思います。
若い頃読んだ、「原始仏教の研究書」の中で、増谷文雄先生が教えてくれたのです。
「インドの古典文学の手法」の一つであり、
「自分の心理描写」「心理で葛藤している場面」に使用されるのが、
「梵天勧請」である、
との研究結果でした。
これで納得できました。
実際に「梵天」が存在しないのだから、そこには「別の存在理由があるはず」です。
現在、ドストエフスキーの
『カラマーゾフの兄弟』を読み直ししています。
(大学の時代に、彼の五大小説を、熱病のように読みましたが、それとはまったく違い新鮮です。
作家・椎名麟三のNHKのFM放送の『悪霊』の紹介があって…
最初が『悪霊』次に『白痴』、
『カラマーゾフの兄弟』、『未成年』、
最後が『罪と罰』)
次男のイワンの前に、サタンが登場して、二人は延々と議論を始めるのです。
勿論、サタンは実在する訳がないので、
イワンの内部での、心理的葛藤を表現しているのです。
「サタン」は、現代版の「梵天」なのです。
なお、原始仏教の経典で、
『悪魔との対話』のものもありますが面白いです。
岩波文庫に入っている。
<テーラワーダ仏教の世界では古くから重要な護経(paritta)のひとつとされ、幸福を願い危険から身を護るために唱えられました。仏法僧の限りない徳を、美しい比喩をつかって賞賛した経典です。>
ヤーニーダブーターニ サマーガターニ ブッマーニ ワー ヤーニ ワ アンタリッケー
サッベーワ ブーター スマナー バワントゥ アトーピ サッカッチャ スナントゥ バースィタン
ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む者たちも、一切の精霊は、心喜ぶがよい。そして、我が語るところを謹しんで聞くがよい。
タスマーヒ ブーター ニサーメータ サッベー メッタン カロータ マーヌスィヤー パジャーヤ
ディワー チャ ラットー チャ ハランティ イェー バリン タスマーヒ ネー ラッカタ アッパマッター
それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ。人間に慈しみを垂れるがよい。昼夜に供物を持ち来る人々を、怠ることなく護るがよい。
ヤン キンチヴィッタン イダ ワー フラン ワー サッゲース ワー ヤン ラタナン パニータン
ナ ノー サマン アッティ タターガテーナ
イダン ピ ブッデー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
此の世、あるいは来世における如何なる富も、また天上にある如何なる妙宝も、我らの如来に等しきものあらず。此は仏陀が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
カヤン ヴィラーガン アマタン パニータン ヤダッジャガー サキャムニー サマーヒトー
ナ テーナ ダンメーナ サマッティ キンチ
イダン ピ ダンメー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
釈迦牟尼が到達されし禅定は、煩悩の滅尽、離貪、不死の境地で、優れたるものなり。その法(禅定)に等しきものあらず。此は法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
ヤン ブッダ セットー パリワンナイー スチン サマーディマー ナンタリカンニャマーフ
サマーディナー テーナ サモー ナ ヴィッジャティ
イダン ピ ダンメー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
最勝たる仏陀が、清浄なりと賛嘆せし禅定は「無間」と呼ばれる。彼の禅定に等しきものは存せず。此は法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
イェー プッガラー アッタ サタン パサッター チャッターリ エーターニ ユガーニ ホンティ
テー ダッキネッヤー スガタッサ サーワカー エーテース ディンナーニ マハッパラーニ
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
仙人たちが賞讃せし者は、彼の八輩即ち四双の者たちなり。彼ら善逝(ブッダ)の弟子たちは、布施供養を受くに値す。彼らに施されしものには大果あり。此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
イェー スッパユッター マナサー ダルヘーナ ニッカーミノー ゴータマ サーサナンヒ
テー パッティパッター アマタン ヴィガイハ ラッダー ムダー ニッブティン ブンジャマーナー
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
堅く決意し、ゴータマ(ブッダ)の教えに基づきよく励み、欲から離れている彼らは達すべき境地に達して、不死なる境地を体得し、その涅槃を余すところなく享受せり。此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
ヤティンダキーロー パタヴィン スィトー スィヤー チャトゥッビ ワーテービ アサンパ カンピヨー
タトゥーパマン サップリサン ワダーミ ヨー アリヤ サッチャーニ アヴェッチャ パッサティ
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
[城の]主柱が地に立ちてあるならば、四方の風に揺らぐことはない。[四]聖諦を如実に観ぜし仙人[預流果の者]は、是の如く喩えらるると我は言う。此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
イェー アリヤ サッチャーニ ヴィバーワヤンティ ガンビーラ パンニェーナ スデースィターニ
キンチャーピ テー ホンティ ブサッパマッター ナ テー バワン アッタマン アーディヤンティ
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
深き智慧により正しく説かれたる[四]聖諦を実践する者たちはたとい(後に)大いに放逸になろうとも、八回目の[転]生を引き寄せること有らず。此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
サハーワッサ ダッサナ サンパダーヤ タヤッス ダンマー ジャヒター バワンティ
サッカーヤ ディッティ ヴィチキッチタン チャ スィーラッバタン ワーピ ヤダッティ キンチ
チャトゥーハパーイェーヒ チャ ヴィッパムットー チャ チャービターナーニ アバッボー カートゥン
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
知見[四聖諦の明知]の成就と共に、以下の三つのもの(煩悩は捨て去られる。有身見、疑、あらゆる戒禁取なり。また四悪趣に陥ることを離脱し、六重罪を為すことは能わず。此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
キンチャー ピ ソー カンマン カローティ パーパカン カーイェーナ ワーチャー ウダ チェータサー ワー
アバッボー ソー タッサ パティッチャーダーヤ アバッバター ディッタパダッサ ヴッター
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
身、口、意にて悪を犯すことになりても、彼はそれを隠蔽すること能わず。知見に達した者は隠蔽すること能わずと言わるるなり。此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
ワナッパグンベー ヤター プッスィタッゲー ギンハーナ マーセー パタマスミン ギンヘー
タトゥーパマン ダンマ ワラン アデーサイー ニッバーナ ガーミン パラマン ヒターヤ
イダン ピ ブッデー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
夏の最初の月(春)、叢林の枝先に花咲き満てるが如く、その如く、最高の利益となる涅槃に導く尊き教法を説き給いし。此は仏陀が勝宝たる由縁なり此の真実により、幸いがあらんことを。
ワロー ワランニュー ワラドー ワラーハロー アヌッタロー ダンマ ワラン アデーサイー
イダン ピ ブッデー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
至善にして至善を知り、至善を与え至善へ導く無上士は、最上の至善たる教法を説き給いし。 此は仏陀が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。
キーナン プラーナン ナワン ナッティ サンバワン ヴィラッタ チッター アーヤティケー バワスミン
t
テー キーナ ビージャー アヴィルーリッチャンダー ニッバンティ ディーラー ヤター ヤン パディーポー
イダン ピ サンゲー ラタナン パニータン エーテーナ サッチェーナ スワッティ ホートゥ
「古き[業]は尽き、新しき[業]は生ぜず」。再び生まるることに未練はない。種子[業]が尽きた。貪欲を根絶やしにした。彼の賢者たちは、灯明の如く寂滅す。 此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを
ヤーニーダブーターニサマーガターニ ブッマーニ ワーヤーニ ワ アンタリッケー
タターガタン デーワ マヌッサ プージタン ブッダン ナマッサーマ スワッティ ホートゥ
(以下は精霊たちの仏陀に対する応答の言葉である)ここに集いし諸々の精霊は、地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。仏陀に礼拝奉る。幸いがあらんことを。
ヤーニーダブーターニサマーガターニ ブッマーニ ワーヤーニ ワ アンタリッケー
タターガタン デーワ マヌッサ プージタン ダンマン ナマッサーマ スワッティ ホートゥ
ここに集いし諸々の精霊は、地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。法(ダンマ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。
ヤーニーダブーターニサマーガターニ ブッマーニ ワーヤーニ ワ アンタリッケー
タターガタン デーワ マヌッサ プージタン サンガン ナマッサーマ スワッティ ホートゥ
ここに集いし諸々の精霊は、地に棲む、あるいは虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。僧(サンガ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。
皆様に、幸多からんことを!
それでも語った釈迦ってすごい。なにを目的にして語ったんだろう。
他者を信じたんだろうか。
南さん著書の「超越と実存」の親鸞の自然ほうにの解釈に通づるような気配があります。
対象も自己も消滅した現象
そもそも「梵天」「ブラフマン」なんて、実在する訳がない。
釈尊自身が、少し迷っただけ。
そして、自分が決断した。
餓死はしない!
最小限の食欲を満たしながら、
「正定」「禅定」で生き続けると、決心した。
質問1.
ジャイナ教では悟りを開いた者のみは、そのまま坐禅を続けて餓死する事が許された。実は釈迦もそうしようと思ったが、梵天に邪魔された。
餓死は自然死ですか??
質問2.自死しない事が修行の目的だっていうのは正気ですか?
中学中退後、16歳で家出して上京。
高校へは通わず、大検(高認)を経て東京大学法学部卒業。
37歳でインド仏教指導者、佐々井秀嶺の下で得度出家。
インド、ミャンマー、タイに仏教留学、ミャンマー国立国際上座仏教大学専修課程修了。
宗派、伝統に属さない独立系出家僧として各地のイベント、講演会・研修に出張も行う。
それとも
冗談としか思えないことが起きているのか?
いずれにしても「やれやれ」といったところではないでしょうか。
オメデタイ人そうな顔してるけど、
そう言うコメを書いた人より
頭は良さそうですね・・・・
向きになって怒るのはエネルギーの損失ですね。
《反応しない練習》」草薙龍瞬著
「いい気分だな、ウッフン!!」ってなるよね。
なるのですか?
ご自身が実戦なさってから、語られてみて下さい。それでもウッフンとなるのなら、それこそ自画自賛というものでしょう。
また、ウッフンしてる僧侶など、気色悪いでしょう。
(無我と言っても絶対的無我では無いの巻‼)。
常見とは、「我」が有って、死んでも
固定不変の自己が永久に続くと言う思考法。
断見とは、我が無くて(=無我で)、死んだら無(絶対的無)になるという思考法。
釈迦の見解は、
A.悟りを得てないお前の場合は、
生まれ変わりを繰り返す(これ即ち輪廻で、苦の循環説の源泉かけ流し)、
B.悟りを得た私は、輪廻から解脱したので、
>種々なる変化的生存(=輪廻)を受ける事は無い。
C.では解脱した(輪廻から脱した)先輩覚者達は、
無余涅槃した後どうしているかという消息は・・・
>如何なる言語表現も出来ません。語る主体が(この世から)消滅しているのだから・・・・
ではイエス君に質問。
無我とは何か?
涅槃寂静は、釈尊の個人的「正見」。
というより「そんなこと」、説けないことでしょう。まあだから釈尊も当初は、そんなこと話しても「わかるまい、やっぱり辞めよっかな」と、お悩みになられたのでしょう。
かなしい哉。意味好きな人には、わかりますまい。
単なる個人的偏見だと??』
「涅槃寂静」は
それまでの「死苦」の呪縛から解放されたという自覚の点から推測ができます。
だから、釈尊は「自分と同じ悩みの他者」の為に、
具体的には「かつて一緒に修行していた仲間」の5人に対して、
わざわざ何百kmも離れたところから歩いて行って、
「教え」を説いたのです。
自分が「涅槃寂静」に到達したから、だから、
「教え」を説いたのです。
しかし「境地」の内容そのものは説かなかった。
「正見」:「諸行無常」「諸法無我」
それと、「涅槃寂静」に「至る方法」を説いた。
「八正道」
最後が「正定」つまり「只管打坐」
「境地」の説明は、成仏すれば、知る事ができるから不要。
「いい気分だな、ウッフン!!」ってなるよね。
八正道して「心が清らかになる」わけだ。
じゃあ眼蔵87巻は何の為??
いいえ違いますかな??
死ぬ練習、死の受容・・・
生きる練習、生の受容じゃね~のかッちゅう問題。
草薙某なんかは同じ仏教でも
「いい気分だな、ウッフン!!」って言ってるじゃね~のか。
ここはネクラの同窓会か、っちゅうの!!
>これを批判なされた・・・
その批判書が眼蔵87巻なのである。
?????
つまり、どう批判したの?
何が悪いというの?
坐禅(瞑想)で得た体験は
個人的主観の思い込みで、所詮ただの偏見に過ぎないのだから、
坐禅しても心が清らかなんかにはならんよ・・・
と眼蔵が言っているってことなのかな?
一体、人にどうせよと?
ナマ身の身体を使って無常無我を知れってさけぶ君は、
そうすれば「悟り」、「涅槃寂静」を達成できる、と言いたいんだろうけど、
それがタダの個人的思い込みで、タダの偏見だという此処の和尚さんの意見と、
君の見解は合わないよね。
どうなんだ???
ちゃんと自分の言葉で答えて呉れたまえ。
所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません
では『涅槃寂静』は
単なる個人的偏見だと??
仏教を真実、会得したいのです。
悟りを開いてしまった賢者』
禅定で、頭脳の働きを、徐々に「弱め」て、
「進化の新しい部分」「高度なこころ」から、次々と「停止させ」ていく。
最後は、一番「原始的」な脳の部分、「小脳」や「延髄」の働きだけに、鎮める。
「肺」の呼吸と「心臓」の鼓動だけに、低下させる。
そこから、徐々に、「自己認識機能」の活動まで回復していく。
「浅い禅定」と「深い禅定」との間を「何度も」往復している。
すると「自己」が消滅して行き、
再び「自己」が回復して来る。
これは身体訓練だから「修練を積む」だけで、
知能指数とは、何も関係しない。
だから、薬山禅師は「非思量」、
「思量することではない」と教える。
「自己」が「自己認識機能」から構築される、
これに気が付いたのは、人類史上、釈尊が「初めて」だった。
南師が
「無明」とは「言語認識機能」の世界を「実体」と観ることだ
と、お示しになる所以である。
つまり「自己」も「言語認識機能の虚構」「蜃気楼」なのです。
日々の「心が清らか」に「なれ」ば
「人生」それで「よし」・・・という事ですかね。』
だったら、道元和尚は『正法眼蔵』全87巻を執筆なさらなかった。
只管に「打坐」して、
日々の「心が清らか」に「なろ」う、
これを批判なされた。
日々の心が清らかになれば
人生それでよし・・・という事ですかね。
妄想や錯覚は不要ですと。
「お前は禅定の第何弾に達したな」
と「よしよし」して呉れる場合はどうでしょう。
それもやっぱり
そんな教説はナンセンスで、結局は妄想や錯覚と区別できないのです・・・
という事なのでしょうか?
となるわけでしょうか。
その「境地」に至って「私は驕っていた」というのなら、信用度は高そうです(笑)
『ということは、ブッダが自分の「悟り」の境地に直接言及していない以上、上座部だろうが大乗だろうが、「悟り」「涅槃」について語られたナイーブな言葉は、所詮個人的経験の吐露か、ただの「偏見」の披露にしかなりません。』
悟りの境地を「円」として表すことがありますが、円熟とかそういう「良いこと」を表しているのではないように思われます。
形而上学的「円環構造」を外れて、「私は今まで円をぐるぐると廻っていたに過ぎない」ことを表しているのではないかと思われます。
「円環構造」を外れなければ、それが円であることを知ることはできないでしょうから。
もちろん、これらは個人の偏見です(笑)
よい年となりますことを心より深くお祈り申し上げます。
ってのがあったな、どこかに。
人の魂は経験・経年的に変化し続けるものだ・・・としてよい。
もはや輪廻から解脱しているので、
今後の「種々なる変化的生存」を受ける事が無い・・・これ即ち悟った賢者だけの特権!!
という解釈が十分に成り立ちますよね。
それが当時の限られた情報量内での『修行の目標』だったと十分考えられる。
逆に言うと、
「悟っていない人は輪廻で苦しい変化的生存を繰り返すしかない・・・」という事に成ってしまう。
これが釈迦一流の説き方で、
このコンテクストでは、
無常無我は矛盾してないと思っても論理の整合性が有る???
無常…自明…変化を続ける。
無我…永遠不変という概念を取り外せば、
アートマンも輪廻環境の変化の中での揺れ動く存在だ・・・、で論理の整合性を保てる。
アートマン自身も固体間への移動によって、自ら変化し続けるモノだと考える事で論理が結着する。
これは輪廻のこと?
並ぶ応答
878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
明けましておめでとうございます。
今年も先行き難題!
どうぞ皆様、ナイスな年でありますように!
今年は一念発起、もう少し勉強することにして「語る禅僧」から読み直しています。
南さんにも良いお年になりますように!