仏教のまとまった戒律として最も古い「パーリ律」を見ると、殺人について次のように述べています(「人体戒」)。
「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」
条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。
これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積極的に肯定しているようには思えません。
条文には自死の禁止が明文では見られませんが、殺人に自死が含まれていることは、戒律制定の機縁の話からして当然でしょう。それは次のようなものです。
釈尊が弟子たちに不浄観という修行を勧めます。この修行は、死体が腐敗していく様子をつぶさに観察して、自らの欲望を克服し、その虚しさを悟る、というものです。
釈尊の留守中、弟子たちは非常に熱心にこの修行をした結果、わが身を嫌悪して自死したり、お互いに殺しあったり、依頼して殺してもらうような者が続出したのです。帰ってきた釈尊は、この惨状を目の当たりにして、戒を定めたというわけです。
もう一つの制定理由は、ある修行僧たちが、病床にある在家信者の美しい妻を奪おうとして、死を賛美して信者に自死を勧めるという、とんでもない非行があったからです。
いずれにしろ、この戒においては、他殺と自死の教唆は明文の禁止、自死については、戒制定の機縁話からして、「故意に人体の生命を奪う」行為に含まれ、禁止でしょう。
ところが、初期経典には、修行僧の自死を釈尊が肯定的に評価するものが出てきます。いずれも釈尊の弟子で、チャンナ、ゴーディカ、ヴァッカリのケースです。
このうち、チャンナとヴァッカリは重篤の病苦から、ゴーディカはどんなに修行に励んでも解脱できないことに絶望して、自死してしまいます。
そのとき、釈尊は3人の自死をこう評価します。
チャンナについては「非難されるべきことなく」自死したのだと述べ、ゴーディカは「やすらぎに帰した」「ニルヴァーナに入った」「妄執を、根こそぎえぐり出して」「完全に消え失せた」とされます。ヴァッカリももまた、「パリニッパーナしたのだよ」と語られています。
これら初期経典の評価は、どう考えてもパーリ律の条文と矛盾するでしょう。そこには明らかに「揺れ」、ないしは「ブレ」があるのです。
しかし、私はこの「揺れ」「ブレ」はあって当たり前だと思います。と言うよりむしろ、ここにこそ仏教の思想的なユニークさを見ます。
仏教の究極の目的はニルヴァーナです。これについては、すでに何度も言及したように、どのような状態を言うのか、経典に一切具体的な記述がありません。とにかく、経典からわかるのは、少なくとも外形的には、あるいはブッダ以外の者にとっては、ニルヴァーナとは「ブッダの死」なのだということです。
すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。換言すれば、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者、です。
その死によってのみ肯定される生。このような桁外れなアイデアは、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。
「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」
条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。
これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積極的に肯定しているようには思えません。
条文には自死の禁止が明文では見られませんが、殺人に自死が含まれていることは、戒律制定の機縁の話からして当然でしょう。それは次のようなものです。
釈尊が弟子たちに不浄観という修行を勧めます。この修行は、死体が腐敗していく様子をつぶさに観察して、自らの欲望を克服し、その虚しさを悟る、というものです。
釈尊の留守中、弟子たちは非常に熱心にこの修行をした結果、わが身を嫌悪して自死したり、お互いに殺しあったり、依頼して殺してもらうような者が続出したのです。帰ってきた釈尊は、この惨状を目の当たりにして、戒を定めたというわけです。
もう一つの制定理由は、ある修行僧たちが、病床にある在家信者の美しい妻を奪おうとして、死を賛美して信者に自死を勧めるという、とんでもない非行があったからです。
いずれにしろ、この戒においては、他殺と自死の教唆は明文の禁止、自死については、戒制定の機縁話からして、「故意に人体の生命を奪う」行為に含まれ、禁止でしょう。
ところが、初期経典には、修行僧の自死を釈尊が肯定的に評価するものが出てきます。いずれも釈尊の弟子で、チャンナ、ゴーディカ、ヴァッカリのケースです。
このうち、チャンナとヴァッカリは重篤の病苦から、ゴーディカはどんなに修行に励んでも解脱できないことに絶望して、自死してしまいます。
そのとき、釈尊は3人の自死をこう評価します。
チャンナについては「非難されるべきことなく」自死したのだと述べ、ゴーディカは「やすらぎに帰した」「ニルヴァーナに入った」「妄執を、根こそぎえぐり出して」「完全に消え失せた」とされます。ヴァッカリももまた、「パリニッパーナしたのだよ」と語られています。
これら初期経典の評価は、どう考えてもパーリ律の条文と矛盾するでしょう。そこには明らかに「揺れ」、ないしは「ブレ」があるのです。
しかし、私はこの「揺れ」「ブレ」はあって当たり前だと思います。と言うよりむしろ、ここにこそ仏教の思想的なユニークさを見ます。
仏教の究極の目的はニルヴァーナです。これについては、すでに何度も言及したように、どのような状態を言うのか、経典に一切具体的な記述がありません。とにかく、経典からわかるのは、少なくとも外形的には、あるいはブッダ以外の者にとっては、ニルヴァーナとは「ブッダの死」なのだということです。
すると、ブッダとは「死をめざして生きる」者ということになります。換言すれば、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者、です。
その死によってのみ肯定される生。このような桁外れなアイデアは、およそ仏教以外の宗教や思想には見られません。私はここにこそ、「自己」という様式を持つ実存を凝視する、深く透徹した眼差しを感じます。
不眠症の私が更に眠れなくなりますねー。
ブッダは神格化されやすい存在ですが、神様でも超人でもないということですよね。
仏教のユニークさ????
それとも
南さんのユニークさ????
「釈迦の教えは【いい気分】」と読み取り、
また仏教は十牛図第9図・第10図だともいう。
道元さんの教えは十牛図よりさらに素晴らしい教えだという人も居る。
どっちみち涅槃なんてわからないのだから
現世での【寂静】もとめて心は透明。
死がどうとらこうとら気にしない。
釈迦にとって、
当たり前と言えば当たり前の話・・・かと。
なぜなら当時の思想として、
輪廻循環による苦の連鎖が、
今、今世に於いて悟りを開いて置けば・・・、
自分の死後には輪廻そのものから抜け出せる・・・
即ち苦からの永遠不変の脱出だ、
という訳でしょうから。
でも輪廻の存在を否定する仏教者にとっては、
「仏教者として今をどう生きるか」というテーマしか残らない。
死によって新しく生まれるモノなど何もない。
さて、
実存の根拠と価値と意味は何処にある??
死によって永遠のゼロという事に成れば、
無根拠で無価値で無意味な実存で
悩み苦しむ意味がない。
なら自死して
永遠のゼロを求めて何が悪いか?、と…
釈迦の意図した自死の禁止は、
悟ってもいない人が自死すれば、
輪廻での来る世で
君は畜生道に落ちちゃうぜ・・・
っていう脅し文句であったのかもしれない。
生きている間は「生きるをめざして生きる」
生と死は前後裁断(前後際断)
生(=而今)は生の法位、
死は死の法位!!
鬱病の兆候なんていう事はないでしょうね??