恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「主幹!」

2024年03月01日 | 日記
 友人を亡くしました。10年以上会っていませんでしたが、友人です。

 彼は、私より20歳近く年上でした。私が永平寺を出た後、東京のある寺院のご理解の下、「サンガ」と称して修行グループを作った時、そこに参加してきたのです。

 一般在家の出身で、会社員を勤め上げ、還暦近くで出家したと言っていました。高齢の出家は難しいことが少なくないのですが、彼は違いました。

 何より、気持ちが若く柔軟で、当時の仲間がすべて自分よりはるかに年下なのに、みなを先輩として立て、敬語で話していました。当時私は「主幹」という肩書でしたが、私に話しかけるときは、必ず「主幹・・・」と呼びかけ、それは丁寧な言葉で接してくれました。

 頭もクリア、小柄で痩身でしたが、体力は誰にも劣らず、振る舞いも機敏で、見ていて気持ちがよかったです。
 
 このサンガは、私が望んだとおり、多様な修行者が集まりました。永平寺出身者、外国人、テラバーダ僧、女性、高齢者等々。最低限の基本的なルールと日課を決め、後は自分自身のテーマに従って自由に修行するというスタイルで、とても楽しかったです。彼も生き生きしていました。

 私が主幹するサンガは、不徳の致すところで、短期間で解散となりましたが、その後もメンバーとは、折に触れ交流がありました。

 彼は、サンガのメンバーでもあった私の弟子の紹介で、西日本の小さな寺の住職になりました。

 寺には檀家がありませんでした。彼は身一つで、そこに乗り込んでいったのです。ですが、私は心配しませんでした。今までの経験から、彼のような人が、志を大切に真面目に頑張れば、必ず道は開けると思っていたからです。

 そのとおりになりました。あっという間にファンができ、それが信者となり、周辺の住職の信頼を得て、寺は蘇ったのです。

 私は、年賀状をやり取りするばかりで、サンガ以後に会ったのは一度だけでしたが、弟子が様子を伝えてくれ、彼が持ち前の明るさと元気さで活躍していることを、嬉しく思っていました。

 ところが、10日ほど前、まったく突然、彼が病で、余命いくばくもないことを知らされたのです。正に青天の霹靂でした。

 本人にも自覚症状が皆無で、ちょっとした不調が続いたので、心配した家族の強い勧めに折れて、しぶしぶ受診した病院で、もはや末期で手の施しようのない状態であることがわかったのです。

 彼は元気過ぎたのです。周囲はそう思っていましたし、本人も自信を持っていました。それが仇になり、予兆を見逃すことになってしまいました。

 すでに治療が必要な段階は遠く過ぎ、彼は家族と弟子に付き添われ、寺を離れて、家族の住む自宅に戻ることになりました。

 その日、彼が乗り込む駅には、信者の方々が沢山集まって、お見送りしたそうです。

 私は「失敗した・・・」とつくづく思いました。折に触れ思い出し、また会いたいとは思っていたのですが、どうせいつか会えると考えていたからです。「諸行無常」と口では言いながら、身に染みていなかったのです。

 彼は、自宅の最寄り駅で降り、そこで介護タクシーに乗り換える段取りになっていました。私は、その駅で出迎えることにしました。そこで会わなければ、自宅で様子が落ち着くまでは、会う機会はないだろうと思ったからです。

 晴れていても寒い日でした。プラットフォームに電車が滑り込むと、駅員の方が車椅子で車両に入り、彼を乗せて出てきました。

 私は、降車の邪魔にならないように、脇に退いて立っていましたが、深々と毛糸の帽子を被り、マスクがやたら大きく見えるその顔は、降りて来た刹那、私を見て「主幹!」と大きな声で言いました。弟子や家族の方は、彼にあんなに大きな声が出せるとは思ってもいなかったそうです。

 サンガの主幹を辞して以来、いままで私を「主幹」と呼ぶ人は、当然ながら誰もいませんでした。ですが、彼は一目見て「主幹!」と言うのです。

 ああそうか、彼にとって、自分は今でも主幹なのか。今もそう呼んでくれるなら、自分は彼の人生にとって、何らかの意味のある存在だったのか・・・、そう思いました。

 翌日、彼は亡くなりました。無念です。


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