恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

試験とスポーツ

2019年12月10日 | 日記
学校嫌いで虚弱児童だった者の偏見を二つ。

今まで本ブログで何度か、学校教育とオリンピックについて言及してきました。私は、世間はこの二つに妙な思い入れをしすぎるような気がするのです。

 だいたい、教育は試行錯誤を繰り返しながらしていくもので、この世に普遍的なモデルになるような「理想的人間」などいるはずもない(いたらそれは「神」でしょう)のですから、それをつくり出す一律のマニュアル的方法など、あるはずもありません。

 したがって、「道徳」を教科にして評価するなどという馬鹿げたことを考えるのは、自省する能力が欠如している人間だとしか思えませんでした。

 学校教育は、政治家と役人が「改革」名目で介入すればするほど、おかしくなっていきます。なぜなら、目の前に生徒がいないところで「教育」を論じるのですから、宿命的に「机上の空論」以外になりようがないのです。

 思うに、学校教育は、まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、何をどうするかについて極力任せて、裁量の自由を与え、彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を決めるべきです。

 公教育なら、その時の国家の基本法である憲法の枠組みに納まる条件で、この三者は何をしてもさせてもよいと思います。政治の役割は、教育に相応の人員と資金を配分するだけで十分です。

 今回の入試改革のお粗末さも、そもそも大学入試程度のことなら、現在の高卒認定(旧大検)を全受験者に義務化して、いわば資格試験化し、あとは各大学が自由に試験をすればいいだけです。

「考える力」だの「個性」だの「使える英語」だの、これらを一日二日の試験で一斉に判定しようなどということは、根本的に妄想です。

「使える英語」を言うなら、それを入試で判定する以前に、本気なら、当事者が学校教育における英語を全体として見直し、国が人と資金を投入する以外に、学校における「英語力の向上」など、あり得ません。

 必ずしも道徳的ではない人間が道徳教育を操作し、「偏差値」至上主義の入試を通過した連中が、今更「考える力」や「使える英語」を主導できると思うことなど、まさに倒錯としか言えないでしょう。

 邪な大義(「復興五輪」)と虚偽の勧誘(「温暖でアスリートに最適な気候」)で呼び込んだオリンピックに、無様な不手際が続くのは実に当然でしょうが、私はその背景に、世間の度の過ぎたスポーツ礼讃があると思うのです。

 同好の士が集まってすることなら誠に結構ですが、国家や自治体の資金を大々的に費やして入れ込むようなことではないと思います。

かつてのヒトラーのやり口に乗せられて、所詮は運動会に過ぎぬ興行でナショナリズムを煽り煽られるなど、子供じみている上、時代錯誤的です。

 テレビのニュース番組には必ずスポーツコーナーが確保され、新聞は国際面が多くて2面しかないのに、スポーツ面は少なくて3面、日によっては4面あります。どう見てもおかしいでしょう。「グローバル時代」と連呼しながら、メディアのこの扱いは、見識に欠けています。見識よりも売り上げなのでしょうが。

「健康増進」の宣伝は結構ですが、何をどうするかは個人の選択であり、その度に一緒くたにスポーツを持ち上げる必要はありません。

「健全な身体に健全な精神が宿る」というのは、世を見渡せば世迷言だとすぐわかることで、「スポーツはすばらしい」というご託宣は、何でもそうなように、そう思う人が思えばよいことで、誰もがそう思うべき「普遍的前提」のように語るのは、僭越な思い上がりでしょう(スポーツでは「勇気」を与えたりもらったりできるらしいですが、その程度のやり取り可能な「勇気」は、およそ無くても大丈夫です)。

 スポーツの根本には「闘争」があり、その過度の礼讃は結局、闘争と闘争精神、そして闘争のためのシステムを肯定し強化することに通じます。そこにコマーシャリズムが参入すれば、利害損得が根本の「闘争」を刺激し加速して、ついには個人と社会を蝕んでいくでしょう(「ドーピング問題」、「施設の維持費問題」、「体罰・ハラスメント問題」)

 良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることは、多くの場合は思慮が浅いか、勘違いです。反対意見を言う人間との十分な議論を通じて、頭を冷やしてからもう一度考えることが大切だと、ボランティア団体の指導者を長く務めた私の恩師が、その頃生意気な修行者だった私に教えてくれました。
 

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260 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (いったんもめん)
2019-12-10 00:18:53
南さん、オリンピック嫌いらしいので、私までオリンピック熱が冷めました。実はずっと東京オリンピックを楽しみにしていたんですけどね。チケットもバカ騒ぎで抽選だの何だのといって、結局買えなかったし。
このブログのお世話になっている者としては、すっぱりと諦めました。
恐山から足を伸ばして札幌まで観に行こうかなと思っていたンですけどねぇ。
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意訳。副題「思考停止状態」 (Unknown)
2019-12-10 03:03:45
「考える」という意味は

「普遍の真理」みたいな絶対的「正解」などは無く、
すべては時と場合と環境によって右往左往する限定的な正当化しかない、
全ての考えも諸行無常でしかない・・・

それ故に、人は常に頭を冷やして考え続けねばならないのです。

而今の自分が良かれと考えてする事と、
誰も文句を言わない筈だと考えてする事は、
多くの場合は思慮が浅いか勘違いです。

反対意見を言う人間を「いや違います、いや違います、いや違います、~~」と一方的に叫び続けて、断罪して、
他者が言う事を、頭を冷やしてもう一度考えようとしない、いわゆるその道の達人と自負する時は、
そのすべてが思慮が浅く、自分を神だと勘違いしているのです。
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さかさま問答集 (Unknown)
2019-12-10 03:10:37
質問者・・・君はなにさまだ。
回答者・・・俺はかみさまだ。
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ひ弱なワタシには考えられないが・・・ (Unknown)
2019-12-10 03:39:15
昨日、海外系テレビで、
『神聖な霊力の宿る聖所巡り』で、
達磨菩薩系禅宗の中国「少林寺」でのウォリアー・モンク(僧兵?、闘う僧?)の生きざまを描いていた。

習得しようと励む「少林寺拳法」は何の為??
自己を制する為、自己に打ち勝つ為、自我の滅失の為・・・
(ダルマさんが転ばない為‥‥ジョークです)

もしオリンピック選手の志がそこにあるなら、オリンピックも悪くはないだろう。
その感動はパラリンピックが如実に引き継いるようだ。
南さんもそれを見れば、
限定的な正当化が真逆になるかも知れない。頭を冷やしてもう一度考えるとそうなる可能性がおおいにありそうだ。
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考えないダースベーダーに万歳!! (Unknown)
2019-12-10 03:54:28
そう言う事なんだよね、キット。
永平寺の激しく厳しい儀式・式典・清規も、
すべて達磨さんが転ばない為・・・
たとえ宿命的に「机上の空論」であったとしてもね・・・

これに尽きるね。
考えてしまうと迷うけどね。
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補足 (Unknown)
2019-12-10 03:58:42
永平寺の
激しく厳しく、有無を言わせない、
考える事を許さない(異論を許さない)・・・
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Unknown (Unknown)
2019-12-10 04:14:06
心塵脱落すれば、本来人に備わっている「仏性」が現れる。
これを称して「悟ってみれば修証一等」という事だ。

さて身心脱落すれば仏道がなるか、仏性が現れるか、皆無を知るか?

『皆無三宝』
実存は根拠が「無」で、意味が「無」で、価値が「無」である。
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御意 (のら猫)
2019-12-10 04:19:07
自分が表現できずに悶々としていたことを、とても分かりやすく書いていただき、すっきりしました。ありがとうございます。
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人、それぞれ (Unknown)
2019-12-10 05:02:49
一切皆苦のこの世に在って

不屈の精神を持って闘い続ける人生と、
死を受容して涅槃寂静を請い願う人生と、
生老病死を自然の摂理と受け止めて平然と生きる人生と、
生きるとは楽しく朗らかに過ごすチャンスだと考える人生と・・・

これらは皆、
同位概念であるという事に過ぎない。
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「父兄参観」これはだめ (イエスちゃん)
2019-12-10 05:17:20
「父兄・参観」これはだめ。男権社会。
「保護者・授業参観」です。

休出や長時間労働でこどもの面倒をよく見ていなかったので、
授業参観にだけは、年休や早退をとり、出来るだけ行っていた。
父親はほとんどいない。母親が大部分。
これが現実です。

このため、教育に熱心な人物と「誤解」され、騙されてPTAに…
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