恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

試験とスポーツ

2019年12月10日 | 日記
学校嫌いで虚弱児童だった者の偏見を二つ。

今まで本ブログで何度か、学校教育とオリンピックについて言及してきました。私は、世間はこの二つに妙な思い入れをしすぎるような気がするのです。

 だいたい、教育は試行錯誤を繰り返しながらしていくもので、この世に普遍的なモデルになるような「理想的人間」などいるはずもない(いたらそれは「神」でしょう)のですから、それをつくり出す一律のマニュアル的方法など、あるはずもありません。

 したがって、「道徳」を教科にして評価するなどという馬鹿げたことを考えるのは、自省する能力が欠如している人間だとしか思えませんでした。

 学校教育は、政治家と役人が「改革」名目で介入すればするほど、おかしくなっていきます。なぜなら、目の前に生徒がいないところで「教育」を論じるのですから、宿命的に「机上の空論」以外になりようがないのです。

 思うに、学校教育は、まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、何をどうするかについて極力任せて、裁量の自由を与え、彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を決めるべきです。

 公教育なら、その時の国家の基本法である憲法の枠組みに納まる条件で、この三者は何をしてもさせてもよいと思います。政治の役割は、教育に相応の人員と資金を配分するだけで十分です。

 今回の入試改革のお粗末さも、そもそも大学入試程度のことなら、現在の高卒認定(旧大検)を全受験者に義務化して、いわば資格試験化し、あとは各大学が自由に試験をすればいいだけです。

「考える力」だの「個性」だの「使える英語」だの、これらを一日二日の試験で一斉に判定しようなどということは、根本的に妄想です。

「使える英語」を言うなら、それを入試で判定する以前に、本気なら、当事者が学校教育における英語を全体として見直し、国が人と資金を投入する以外に、学校における「英語力の向上」など、あり得ません。

 必ずしも道徳的ではない人間が道徳教育を操作し、「偏差値」至上主義の入試を通過した連中が、今更「考える力」や「使える英語」を主導できると思うことなど、まさに倒錯としか言えないでしょう。

 邪な大義(「復興五輪」)と虚偽の勧誘(「温暖でアスリートに最適な気候」)で呼び込んだオリンピックに、無様な不手際が続くのは実に当然でしょうが、私はその背景に、世間の度の過ぎたスポーツ礼讃があると思うのです。

 同好の士が集まってすることなら誠に結構ですが、国家や自治体の資金を大々的に費やして入れ込むようなことではないと思います。

かつてのヒトラーのやり口に乗せられて、所詮は運動会に過ぎぬ興行でナショナリズムを煽り煽られるなど、子供じみている上、時代錯誤的です。

 テレビのニュース番組には必ずスポーツコーナーが確保され、新聞は国際面が多くて2面しかないのに、スポーツ面は少なくて3面、日によっては4面あります。どう見てもおかしいでしょう。「グローバル時代」と連呼しながら、メディアのこの扱いは、見識に欠けています。見識よりも売り上げなのでしょうが。

「健康増進」の宣伝は結構ですが、何をどうするかは個人の選択であり、その度に一緒くたにスポーツを持ち上げる必要はありません。

「健全な身体に健全な精神が宿る」というのは、世を見渡せば世迷言だとすぐわかることで、「スポーツはすばらしい」というご託宣は、何でもそうなように、そう思う人が思えばよいことで、誰もがそう思うべき「普遍的前提」のように語るのは、僭越な思い上がりでしょう(スポーツでは「勇気」を与えたりもらったりできるらしいですが、その程度のやり取り可能な「勇気」は、およそ無くても大丈夫です)。

 スポーツの根本には「闘争」があり、その過度の礼讃は結局、闘争と闘争精神、そして闘争のためのシステムを肯定し強化することに通じます。そこにコマーシャリズムが参入すれば、利害損得が根本の「闘争」を刺激し加速して、ついには個人と社会を蝕んでいくでしょう(「ドーピング問題」、「施設の維持費問題」、「体罰・ハラスメント問題」)

 良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることは、多くの場合は思慮が浅いか、勘違いです。反対意見を言う人間との十分な議論を通じて、頭を冷やしてからもう一度考えることが大切だと、ボランティア団体の指導者を長く務めた私の恩師が、その頃生意気な修行者だった私に教えてくれました。
 

最新の画像もっと見る

260 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2020-01-13 10:56:34
いつのまにか「グローバル社会」ということ にさせられていた。そしてそこで生き残らなければならないことにさせられていた。教育にしてもスポーツにしても、そちらに目が向くように、大衆の意識が「動員」されているように感じる。旧態依然とした成長戦略で思考停止している政治家と、それを操る産業界の意向によるものだろう。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-01-09 01:28:40
富国強兵の名残とコマーシャリズムが根底にあるのでしょうね。
前者はグローバリズムの夢が覚めた今、形を変えてさらに苛烈になる可能性もあります。後者は資本主義社会が続く以上衰える事はないかもしれません。

お坊様の世界も多少の違いはあれ同様に見えますよ。
宗派の独自性を捻り出し、珍妙なパフォーマンスに従事する。
日本の仏教は輪廻の克服を目指すものではないようなので
それはそれで存在価値はあるとは思いますが、それでもご住職のような道を求める姿勢は世俗をいきる私達の光になります。
僭越ながら陰ながらご活躍お祈りしています。合掌
返信する
Unknown (izt)
2019-12-23 21:07:45
>良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることは、多くの場合は思慮が浅いか、勘違いです。

身に染みる言葉です。私は災害ボランティアや募金や山奥のゴミ拾いや福祉仕事で自分エラいんじゃないかと思ったりしてました。
何かしたいならばまず相手在ってであり、相手との差異を軽視していたかもしれません。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-20 00:08:10
実際の南師とは、偏見もだろうが、偏屈オヤジぽいです。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 23:43:49
キリストは単純に神に返れって言ってるだけなのに、
パリサイ人・サドカイ人は、
ただただ自分流の理屈を捏ねてるだけで、
真に神を信じていた訳ではなさそうだ。
だからかれらがキリストを重罪人として十字架に掛けたのだ。
全て自分流の理論と分析的思索をやって、結果、とんでもない間違いを犯したのである。

イエス君もご用心して下さいませ。
返信する
釈迦と同じ天才のイエス君よ。私は天才ではないけど仏教にきえしています。ダメですか? (Unknown)
2019-12-19 23:18:01
釈迦のテーマは苦の滅失であった。
まあ当時の時代情勢では輪廻からの解脱という意味であったが・・・
(注、これは南さんもどこかで言っていた事である)。

それで限りなく【天才】の釈迦は苦の因果関係を発見したのだ。
苦という果を引き起こすものは煩悩・執着に囚われる事であると。

だから煩悩・執着を捨てるベシなのだと。
出家して全ての煩悩・執着を捨てると涅槃寂静に到達出来るのだと。

南さんの仏教に賭けてみたテーマは「存在不安」からの解脱で在ろう。
少し天才の南さんは頭を盛んに使って論理的に分析的に思考して存在不安から解脱しようと必死である。しかしまだ存在不安からは解脱してない様だ。

だから釈迦が言ったのだよ。
理屈は要らないのだよ、只、煩悩・執着を捨てればいいのだよと。

…でもまあ現実的にはこれがなかなか難しい。
でも実践が難しいというのであって、
理屈が難しいという事ではないぜ。
仏教者であるために論理的で分析的な思索家である必要なんて無い。
天才の釈迦が発見してくれた道を、釈迦の言った事を信じて、
あとは、その道を素直に歩めばよいと言っているのだよ!!

それ以上でもそれ以下でもないのだよ。
理論的で分析的思考が必要だと言うのはイエス仏教であるに過ぎない。
それは釈迦仏教ではないのだよ。

以上失礼いたしました。オワリ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 19:05:48
あら、耶蘇っち、ナイーブなのね。

南さんがお釈迦さんに全部の札をかけ切ったかどうかは「本人がそう言ったからそうなんだ」って言うの?

これだから頭隠して尻隠さず系は困っちゃうのよね。
返信する
世界の宗教で「無常」「無我」「無記」などありますか? (イエスちゃん)
2019-12-19 18:46:54
世界の宗教で、
こんな「無常」「無我」「無記」が教えの中心など、ありますか?
無いでしょう。
「仏教」だけなのです。

何にも、みんなが「仏教」徒に、なる必要はありません。

他にたくさん別の宗教があるのですから。

「日本の宗教」でも、
「無常」「無我」「無記」ではありません。
返信する
選民意識丸出しの・・・ (イエスちゃん)
2019-12-19 18:36:22
『選民・意識丸出しの・・・』

「誰かが・民を・選ぶ」のではありません。

「仏教」には、そんな存在はありません。

「釈尊の教えの道」を歩むかどうかは、
「本人だけ」が「決定する」「決断する」のです。
だから、平等です。

「キリスト教」などの「神さまの力」などは、存在しません。
「自分の責任」です。

だから、南師は「賭けだ」と教える。

「自分は、賭け札を全部、釈尊にハッタ」と。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 18:17:41
このブログの汚点 自称救世主 
返信する
実際に『阿含経』「相応部」の短いお経を読んでみれば解る (イエスちゃん)
2019-12-19 18:01:01
客観的に「観察し、分析的に」思考する。
これは実際に『阿含経』「相応部」の「短いお経」群を読んでみれば解る。

「易しい言葉」で、何度も教えている。
だから、1000以上の多数の「お経・教え」が記録され残っている。

「客観的に、分析的に」思考するのは、自分の「こころ」の中の「働き」にも適用している。

五蘊(ごうん)
物質界と精神界との両面にわたる「一切の有為法」を示す。

人間の肉体と精神を「5つの集まり」に分けて示したもの。
色・受・想・行・識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)の5種である。
なお、五蘊と、「十二処」、「十八界」を並べて三科と称する。

「色」は物質的存在を示し、
「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す。
人間の心身の機構を羅列的に挙げ、
それによって人間の生存およびその環境の全てを表そうとしたものである 。


色  いろ、形あるもの。
認識の対象となる物質的存在の総称。
一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの。

受  感受作用。
肉体的、生理的な感覚。根(六根)と境(六境)と識(六識)の接触和合から生じる苦・楽・不苦不楽などの印象、感覚。

想 表象作用。
概念的な事柄の認識。事物の形象を心の中に思い浮かべること。

行 意識を生じる意志作用。
意志形成力。心がある方向に働くこと。

識 認識作用。
対象を得て、区別して知るもの。
ここでは「思想」も認識の対象になる。
(つまり「外界と直接にはつながらない、内界をも対象となる。
それを「法ダルマを認識の対象にする、とひょうげんする。)


原始仏教の段階で、このようなことを、実際に教えているのです。
だから、教育訓練を受けていない下層の階層からは、釈尊の弟子たちは存在しない。

「無常・無我」は「唱えるもの」ではありません。
「密教」の「真言」「呪文」ではありません。

「無常・無我」は「理解するもの」なのです。

その理解に至る道が「八正道」なのです。
「正師」に付いて「修行」することです。

なお「般若心経」でも最初に出てきます。

観自在菩薩
行深「般若波羅蜜多」時
照見「五蘊」皆空、度一切「苦厄」。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 12:25:36
>釈尊は「非常に分析的な思考をしています・・・」

論理的で分析的に「無常無我」を思考したので
釈尊は涅槃寂静を得たのである・・・
と言いたいのですか?

で、2500年前以来この方、
弟子たちは(まあ知恵者の龍樹さんを除いて)それ程、論理的で無く、分析的思索家では無かったので
誰一人涅槃寂静に達する如来になれなかった・・・と?

で、さらに現代人のお前さんも「論理的で分析的に思索しない奴には仏教なんて分かりっこないさ」・・と?

大学で論理学を学んで、分析家の僕ならばダイジョブなんですって言いたいのですか?

仏教ってそう言うモノですか?
選民(特権)意識丸出しの・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 08:57:31
八正道を実践すると言っても
どの様に認識するかは、
やはりお国柄、個人差、時間的流れの中での変化はあるのだろう。
人は主観的にしか物事を感じ取れないのだから・・・

自分が、今は正しいと思った事が
実は正しくなかったかも知れないとは、

今日の只管打坐では解らなくても、
他の経験が加わる事で、
明日の只管打坐の時節にてフト思い知るという事もあるだろう。
今日の変性意識と明日の変性意識は異なるもので在ろうから・・・

八正道の実践は左様な過程を経て、
ごく自然体で磨きがかかっていくだろう。

さてそう言う時でも
八正道の実践には、
「理論的で分析的な思考力」という知能が低い者には、
八正道の実践はケロンに終わると誰が言うのか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 07:41:04
何時も繰り返すが
何時も繰り返さずにはいられなくなる。
・・・これに耐える事は難しい・・・に1票!!

「論理的な、分析的な、思考」って要するに左側の頭で考えるって事で、
身体・生身で体感するという右脳事業とは違う範疇でしょうかしら・・・。
いってみれば「南流変性意識」対「左脳論理回路」の対決だ・・・とか。

無常無我は左側の頭(脳)で考えてはいけません。右脳の身体生身で体感せねばなりません、
と言ったのは何処のどなたでしたっけ??
返信する
おいらは只やるだけだ。。。 (Unknown)
2019-12-19 06:14:31
>何もせず、此れを耐える事は難しい

そういう時は「ありがとう念仏」を唱えるべし。

生を与えて呉れてありがとう
正見のありようを示して呉れてありがよう
正思惟を教えて呉れてありがとう
正語を語らせて呉れてありがとう
正業が在って呉れてありがとう
正命を生かして呉れてありがとう
正精進の力を与えて呉れてありがとう
正念を感じる事が出来てありがとう
正定でこころ静かでありがとう

自分の中が生命エネルギーで満たされるまで、この「ありがとう念仏」を唱えなされ。

これが唯一の不満解消法でR。
それを論理で考えるのではなく
身体と生身で行うのでR。
返信する
ブーメラン? (Unknown)
2019-12-19 05:58:19
えええ?
論理だ教様。

頭で考えるのでは無くて
身体と生身で感じるべしと言ったのは誰でしたっけ?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 05:55:29
休日に、何もせず、何も考えず、普段の習慣を拒否し、あたかも死んだように過ごしてみようと試してみると、何故だか怒りが沸き上がってくる。

この怒りはずっと私自身が抑圧していたものだろうと思う。

観察してみると、この怒りは収まらず、この怒りをぶつける対象を見つけようとする。

身の廻りに怒りをぶつける対象が見つからなければ、過去の記憶を遡ってまで、怒りをぶつける対象を見つけようとする。

この私自身の一連の心の動きを観察してみると、私自身が不幸を欲していることに気づく

何もせず、これに耐えることは難しい
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 05:49:20
一輪の花は論理的であるわけではない。
ありのままの自然の摂理を生きているだけだ。此れを称して仏性という。

仏性は石にもある。
石には論理は無い。ありのままの梵我一如だ。

さすれば
人の頭で考えた論理は一切がケロンである。
なぜなら人の論理では仏性が理解できないのだから・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-19 05:42:58
「論理学」を学べば → 是非とも自習されんことを願います。
イエス様も喜ばれることでしょう。
慎み深くあれと
返信する
無条件の行為 (Unknown)
2019-12-19 05:40:36
人は論理的である必要は無い。
身体と生身を使って、
八正道の美を体感しさえすればよい。
返信する
セイロン?ケロン? (Unknown)
2019-12-19 05:35:27
経典嫌いで虚弱脳の者の偏見を一つ。

存在不安症の病状は
実存の無根拠性、無価値性、無意味性。
無常無我で心が萎(な)える。
此処には善の根拠は生まれない。

八正道がこの世に有れば
それに邁進する事こそに善の根拠が生まれでる。

人はかく正しく生きる事によって
真の生きる目的が達せられるのである。仏教はヒューマニズムなのである。

返信する
「論理学」を学べば… (イエスちゃん)
2019-12-19 05:19:51
「論理学」を学べば…
思想の「混乱」が無くなります。

自分の「考え」を、正しく「整理」できます。

「仏教」と「非仏教」と区別できます。

「仏教」を「正確に理解」「正しく理解」できるようになります。

それが「正見」に繋がります。

「混乱した思考」は悲劇です。

釈尊は「非常に分析的に思考」しています。
そこには「曖昧性はない」。

要は「論理的」な思考が、その根底にあるのです。

結論が
「諸行無常」
「諸法無我」

これは「論理的な、分析的な、思考」が基盤です。

だから、他の宗教と、決定的に異なるのです。
だから「仏教」と「非仏教」とに、区別が存在するのです。
返信する
「無記」精神性 (Unknown)
2019-12-19 04:15:52
にっぽんメンタリティーに於ける
「無記」は「見ざる聞かざる言わざる」のおサルさん根性に堕するが・・・

釈迦にとってはひとえに、
「修行に邪魔になる事はすべて排除する」・・・と言う精神論であったのだ。
返信する
目標はあくまで崇高に!! (Unknown)
2019-12-19 04:07:46
う~ん、つまりこういう事に成るのかなァ~。
お国柄によって同じ言葉も持つ意味合いが全く異なって来るとすると・・・

にっぽんに於いては
「諸行無常・諸法無我」とは、
実存は無根拠で無価値で無意味で・・・あ~あ、実につまらない世の中だ・・・と。

う~む!!
だからね、
そんな言葉は忘れちゃおうよ、

その代わりに
「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」という力強い言葉を胸に抱いて、
おおしくたくましく、
正しい人の道を生きて抜いて行こうではないか、なあ、みなの衆!!・・・と。
返信する
ありがとう念仏で正しく生きましょう。 (Unknown)
2019-12-19 00:06:05
セロトニン最貧国ニッポンにおいては
「平家物語」に見られる様に、
諸行無常・諸法無我はサメザメと泣き入る観念だ。
もうスッカリ人生を捨てちゃって・・・生きる目標が見いだせない。
存在不安の格好の餌となる。

だが正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、と聞けば(唱えれば)
がぜんヤル気が起きて来る。
生命エネルギーが沸き起こる。
・・・生きる目標が示されるからだ。
返信する
「いいえ違います」の正しい使い方。 (Unknown)
2019-12-18 23:46:46
ワタシは
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定を、実践しているだろうか??

そう自省する時にのみ「いいえ違います」と言う言葉が豊かな果を産む。

自己オリンピック。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 23:36:04
仏教オリンピックで論理闘争に明け暮れるより、
将棋オリンピックで論理闘争する方がより健全な生き方に見える。
藤井翔太くんの方がより純朴にさえ見えてくる。

振り返ってみれば、
肉体闘争もそれに至る過程において、激しい克己・超越が要求されるから、
より単純明快な修行形態なのやもしれぬ。
返信する
ツ・・マ・・リ・・ (Unknown)
2019-12-18 23:14:59
東京オリンピックは単なる肉体闘争。
仏教オリンピックこそが価値ある論理闘争。

そんな風に思って、

俺の考えが正しいんだ、正しいんだ、~~、んだ・・・

で、

お前のは…いいえ違います、いいえ違います、~~、~~ます・・・
と他者に闘争を挑む。

論理主張の強さによって、
仏教オリンピックの優勝者が決まります。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 22:53:55
「論理学」を学べば無常、無我、無記、空を実感としてすんなり理解できるのですか?
「論理学」を知れば、台風の例えと同じように、自己は言語によって錯覚されたものと、納得できるのですね。
そうだとしたら、私は論理学を学びます。
南さん、記事とは関係のないコメントをしてすみません。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 17:02:06
「いだてん」の過去最悪視聴率を見ても、オリンピックや東京に寄せる思いは、世間とのズレを感じますし、かなり低迷しているのではないでしょうか。

返信する
釈迦に言われた通りする。 (Unknown)
2019-12-18 13:05:17
アッ、無常無我はどっちだっていいかな。
ただ単に只管打座して、
後は八正道だよね。

清く正しく美しく・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 12:04:19
答えは明白です。
座禅中は無常無我を唱えて、
日常生活中は八正道を実践すれば、
これで涅槃寂静は確実です。
その他の理論や講釈は一切不要です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 10:01:18
無常、無我、無記が理解できたら、どのような行動、行為、生き方になるのか、言葉ではいくらでもだませるが、その行為ではだませない。
まずは、我欲を捨ててみなはれ。このコメント欄を乗っ取るような行為がつづく限り、理解もしていなければ、修行にもなっていない。
無常、無我、無記から、どんな生き方を導きだすのか?
仏教における永遠に続く万人への問いかけだろう。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 09:14:26
そうそう、
まあゆっくりお茶でも飲みましょう。

こちらは元々、
無常・無我して
後は座禅一筋の無口(=無記)で充分だと思ってるのに、
ほとんどの言い出しっぺは苦い胃酸なんだよね。
反省。反応するな・・・ですね。

記事でもシロウトを刺激しないでくださいませ。
坐禅の邪魔になりますので。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-18 07:05:54
まず茶でも飲め
    旦〜⊂(´ー`)
返信する
Unknown (ウンザリだ)
2019-12-18 06:13:17
いいえ違います病の偏狭老人、独断と偏見に満ちたコぺピ文章、このブログの汚点、この老人のコメントがコメンターを減らす大元であり、削除の原因でもある。去れ自称救世主よ
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-18 04:47:34
『エホバの神』

これは、何度も指摘していますが、「誤り」です。

正しくは
「ヤハウェ」です。

ヘブライ語は「子音」だけで表記して「母音」は記述しません。

妄りに「神の名」を唱えてはならない、
という「十戒」から、
代わりに「ご主人様」と呼び続けました。

そのため、長い歴史で、どんな発音なのかが忘れられました。

「近代になって復元」したのが「エホバ」です。
苦肉の策で「元来の、子音」に「ご主人様の、母音」を合成しました。
当然、こんなのはインチキです。

正しくは「ヤハウェ」でした。

おまけです。
「ハレル・ヤ」の
「ヤ」はこの「ヤハウェ」です。
返信する
要は「仏教」と「非仏教」とが存在する (イエスちゃん)
2019-12-18 04:21:54


要は「仏教」と「非仏教」とが存在する。

「仏教」は「諸法無我」。

「非仏教」は「梵我一如」。
つまり「密教」「ヒンドゥー教」は「非仏教」。

ついでに、
キリスト校ならば「永遠のいのち」「霊魂」「たましい」…
キリスト教は「肉体と精神」の二元論です。
死ねば「たましい」は「肉体」から抜け出て「神の国」「天国」へいく。

つまり「霊魂」が「実体」「不変のもの」「アートマン」なのです。
ですから「非仏教」なのです。

「仏教」は「一元論」です。
「身心一如」「肉体と精神とはひとつである」。

別なのです。
もしも本物の「哲学者」ならば、この区別がつく筈です。
返信する
いいえ違います。今までの説明で理解できない人へ… (イエスちゃん)
2019-12-18 03:52:26
何度も「同じ説明を」しております。

「台風」なのです。
「台風」には「実体」などないのです。
「台風」は「現象」「物理運動」なのです。

だから、
「何か」が「過去の世」からヒリッピン沖で「生まれて」きて、
その「何か」が日本列島に上陸して、多大な被害を与えて、
その「何か」が北海道沖で「滅して」「来世に」いった。

そんな「何か」「自称」「不滅のもの」「我」「アートマン」「霊魂」…
つまり「実体」など存在しないのです。
「台風」は「現象」「物理運動」なのです。

だから
「仏教」は
「無常」「常なるものなどは無い」
    「実体」はない、みんな「現象」である。
    「縁で起きるだけ」「縁起の思想」
「無我」「我・アートマン・霊魂は無い」
「無記」「来世があるかどうかの議論はしない」


これで理解できなければ、永久に無理でしょうね。

貴方は「言葉」に騙されているだけです。
「論理学」の学びが必要です。

「頭脳の構造」で、必然的に「思考している」「一つの運動・働き」なのだから、
そこからの「錯覚」なのです。
返信する
水差しを蹴っ飛ばした修行僧の前世は龍樹さんだったの説!! (Unknown)
2019-12-17 23:15:42
二人ともトンチ者だったことは間違いない。

龍樹さんは、自性(実体)支持派の僧侶群の論理の弱点に付け込んで、キビュウ論法(背理法)をもちいて相手論法を打ち砕いた。

で、出て来たのが
「去る者は去らない」「歩く彼は歩かない」であった訳だ。
「自性する者は自性しない」…だから「すべてのものは無自性だ」となるわけだ。

キビュウ論法ではそうなるが・・・
プラグマティック仏教では如何なモノか?
去るものは去る、歩く者は歩く、生まれるものは生まれる、滅するものは滅する・・・
プラグマティズム仏教では其れで良い。
返信する
補足 (Unknown)
2019-12-17 17:16:12
申し立て内容

原告側;
我は正真正銘の不生不滅の「アル」というものである。

被告側;
何と申しましょうか、
古来から「生まれる者は生まれない、
滅する者は滅しない」と言うではありませんか・・・
ですからワタクシは「生滅」の事を「不生不滅」と呼ぶのでありまして・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 16:50:57
『不生不滅』商標権裁判

原告人 実体絶対神氏
    住所 天国

被告人 自省(自性)無し氏
    住所 イエス家気付
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 16:05:33
更にもう一度言うよ、
イエス君、聞いてるかな。

エホバの神曰く;
「我は永劫不変にアルのである。
或る時、生まれ出て来たのではなく、これからも滅びる事も無いものである。
われは不生不滅なのだ。
われは実体なのである!!
解るかなイエスよ!!」
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 11:59:01
もう一度言うよ!!

「不生不滅」=生まれもせず、滅びもしない。
これ即ち、自性そのもの、「実体」の属性じゃないか。

実体が無いから生滅するのであるのよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 11:54:20
@「言語」を使用して「言語」批判をしているのです。
「言語で認識している」とその「言語」に矛盾が出てくることを、鋭く暴露します。

イエスちゃんさん、
私はここのところがやっぱり分からない。
中論の「去るものは去らない」や「歩いてる彼は歩かない」の例えも、理解できますが、ピンとこないんです。

言語で全てのことを現すこととか、他者の全てが分かることなんて、人間は言語で認識したものの見方でしか存在出来ない以上、いつも仮のもので、不可能であると、そんなことは重々承知なんだけど、
じゃあどうするか?
言語は無明なんだけど、それでも言語を発して実存を生きていく、合ってますか?
違いますか?
返信する
イエス君曰く@12-17、07:48:12 (Unknown)
2019-12-17 11:52:19
>実体では無いのだから、この世に「生まれてくることはないのです」

オイオイ、ちょっと待ってくれたまえ!!(悲鳴)。

実体の方こそが「生まれてくることが無い」じゃないかえ??
どうぞ頭を冷やして考えてくれたまえ。

「生まれて来ない」という属性を持つのは、実体(自性)なのか、非実体(非自性)なのか?
返信する
三省堂の大辞林はどうですか?? (イエスちゃん)
2019-12-17 10:04:47
『じゃあ三省堂の大辞林はどうですか??

大辞林版『不生不滅』とは、
「生じもせず、滅もせず、「常住不変である」事。
「真如(=真理)の世界」の在り方。
また「此の世を真如の現われ」とみなす立場から、「此の世の真の姿」の在り方」。』


誤りです。
これこそが「密教」そのものであり「非仏教」です。

仏教は
「無常」
「無我」
「無記」
これです。

南師が、繰り返し教えているでしょう。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-17 09:52:27
『「非仏」と自説のみで他宗派を認めず…』

いいえ違います。

「哲学者」も、命題を捏造して、論理を曲げる。

???「非仏」と自説のみで他宗派を「認めず」???

「仏教」と「非仏教」の区別をしているだけなのです。

「密教」は「仏教」とは「別の宗教」だと言っているだけです。

もしも「キチンと論理的に考える事ができる」「哲学者」ならば、

「仏教」と「密教」とは、まったく異なっているという「事実」そのものは理解できる筈である。

と、思うのですが。違いますか?

私は、
現在の日本の「仏教」は「密教」「非仏教」に変質してしまった。
と考えるのです。

道元和尚が、当時中国で主流だった「三教一致」を痛烈に批判なさり、
「釈尊の仏教」に回帰して行ったことを、
「正しい道」と認識しているのです。
「正伝の仏法」と名付けていらっしゃいます。

現在でも「釈尊の仏教」に立ち返るべきと。
人間社会の本質には変わりがないから、そのまま有効であるから。
返信する
テーラワーダ仏教の根本仏教教義では「不生不滅」を何一つ言っていないのは何故ですか? (イエスちゃん)
2019-12-17 09:18:20
『テーラワーダ仏教の根本仏教教義では「不生不滅」を何一つ言っていないのは何故ですか?』

仏教の歴史は
1.「釈尊自身の教え」
2.「初期仏教の時代」
3.「部派仏教の時代」

「テーラワーダ仏教」これは「部派仏教の教え」です。

(なお、S長老は「スリランカ仏教」です。
スリランカでは仏教は滅びます。
イギリスの植民地支配になってから、キリスト教に対抗するために、「タイの仏教」を逆輸入したものです。)

部派仏教の「最大勢力」が「説一切有部」でした。

その根本仏教教義は、「観念論」でした。ギリシャ哲学者プラトンの「イデア論」であり、「存在の枠組み」は不変であり、「永久に変わらない真理である」と教えていました。

そこで、龍樹尊者は(最初は部派仏教を学んでいましたが)その誤りに気が付いて『中論』を著述しました。

そこでは、部派仏教を批判して、「不生不滅」を明確にしました。

だから『中論』の内容は「観念論」批判「人間の思考批判」であり、
具体的には「言語」批判になるのです。

「言語」を使用して「言語」批判をしているのです。
「言語で認識している」とその「言語」に矛盾が出てくることを、鋭く暴露します。

つまり「イデア」を「実体」「常」「不変なもの」と観ているのです。
これは言語を使用している人間の習性なのです。「脳の構造」がそうなっているのです。

「仏教」は「無常」です。
「諸行無常」です。
返信する
南師の見解では、 (イエスちゃん)
2019-12-17 08:48:25
『これは真言「密教」の「空海」の説法にあるのだが。』

南師の見解では、
「空海」は「非仏教」に分類されます。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 08:46:17
誰々はこう言った、別の誰々はアー言ったと、偉いさんの言葉だけを繋ぎ自分の主張のように語るのは虎の威を借る狐のような狡い人格がみてとれますよ、イエスちゃんにはね 
返信する
「仏性の巻」を読みなさい。 (イエスちゃん)
2019-12-17 08:43:50
先に「仏性の巻」を読みなさい。


『心が仏になったのちは(『即心是仏』の巻)…』

旧草『正法眼蔵』全75巻は、道元和尚自身が、それまでの著作から、取捨選択し、
(なぜ捨てたのかのが重要である!「生死の巻」!)

体系的にまとめたものです。
だから、「順番」が振られている。
「仏性の巻」は、重要だから、「第3」である。
この「仏性の巻」の理解の上で、
「即心是仏の巻」を理解しなければならない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 08:40:46
新定義。

コンピューターはゾンビです。
ソフトウェアもゾンビです。

したがって其れを遣ったとかいう
イエス君もゾンビです。

全ては実体が無いのだから
「生まれなかった」のであります。
返信する
幽霊世界観 (Unknown)
2019-12-17 08:25:56
>此の世には実体など無いが故に
生まれてくるものなど無いのだ・・・

要するにビッグバン否定派という事でいいですか?

原始星の誕生も嘘ですか?

南さんの大好きな「実存」も実在しないのですか?

バーチャルとかリアルとかの議論は成り立たないですか?
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-17 07:48:12
『悟りを開いた仏としては
「不生不滅の世界」に「這入る」のだ』

そもそも「自己」と呼ばれるものは、
「実体」ではないのだから、この世に「生まれてくる」ことはないのです。

これが「不生」なのです。

「不生」だから当然「不滅」なのです。

『「不生不滅の世界」に「這入る」のだ』

最初から「不生不滅」なのです。

「実体」などという「もの」は、ないのです。

「言語」が、「主語」として「虚構している」「もの」なのです。

しかしこれに気が付くのは非常にこんなんなのです。

だから
「只管打坐」と教えるのです。
返信する
南師の『実存と超越』と中国曹洞宗と道元和尚 (イエスちゃん)
2019-12-17 07:27:04
南師の『実存と超越』と
中国曹洞宗と
道元和尚。
この3つ。

南師の『実存と超越』の講義は、
中心は「個」と「普遍」との関係であった。

これは、中国「曹洞宗」でいうと
「我・自分」と「彼・仏」との関係である。

(臨済宗の方は「同一である」という方向に持って行った。
だから「見性成仏」であり、
白隠禅で「その修行階梯」が完成した。
これ以上の発展はなくなった。
秋月老師の路線である。
しかし、秋月老師は、しきりに、
「知恥」が大切であるとお話なさっていた。
 多分、臨済宗は「悟ると傲慢になるタイプが多い傾向」が感じれたの、かも知れない。
悟らないとだめという傾向も。)

元に戻って、
中国曹洞宗では、洞山禅師においては、
「個」と「普遍」との関係は、

(日本の僧侶ならば、毎日、唱える)
宝鏡三昧
 汝是非渠 渠正是汝
日本語訳すると、
汝「個」是れ渠(かれ)「普遍」に非ず、
渠「普遍」正に是れ汝「個」である。

更に
「仏向上事」
「仏である「その上」の事」
と教える。

これは、
「個」=「普遍」
「梵我一如」
「普遍と個とが一つである」
を否定しているのである。
「インド密教」の否定である。
(当然、日本の密教も)

道元和尚で言えば、
「悟った臨済宗の禅師方が、坐禅をしなくなった。」
である。
「仏」で満足し「向上事」を知っていないということである。

道元和尚では「永久修行論」となる。

「汝是非渠 渠正是汝」であり
「仏向上事」であり、
これは「只管打坐」となる。

だから、道元和尚は、如浄禅師を「正師」として仰いだ。

「正師」を先ず求める必要がある。
「凡夫」と自覚があるならば。

つたない「三題噺」でした。
返信する
論理の進展が認められる?? (Unknown)
2019-12-17 05:54:49
1900年前の龍樹さんが言う、
全ての存在は「空」だから「不生不滅」であるというのは論理の飛躍があり過ぎて焦点がボケてしまうが、

700年前の道元さんの言う「心が仏になったのちは(『即心是仏』の巻)、
輪廻から来る生死流転が無くなるので、
悟りを開いた仏としては不生不滅の世界に這入るのだ」という解釈の方がプラグマチックで分かりやすい。

違いますかな??

さて輪廻の無い現代仏教僧の論理は如何なるや??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 05:21:03
榮久さんに一票
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 05:17:08
あのご老人には自分の主張はなく紹介する文章をコぺピしているだけの暇潰しの無学な人です
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 04:48:58
或いは眼蔵『即心是仏』の巻では
心がそのまま仏である、と説き、

(本性が顕現したのちは?)「これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり・・・このほかは真実に非ず」
はどう解釈するのでしょう。

イエス君あたりの生身の解釈はどんなものかお聞かせください。
返信する
論理の光と闇 (Unknown)
2019-12-17 04:25:52
ところが厄介なことに、
道元さんは「無生法忍」(=不生なる真理)を唱えておられる。

「空」という実相(=真如、真実の本性)を知れば、「不生」を知るだろうと。

もともと「生」が無いんだったら、「滅する」何てことが起きる筈もない。
一切の存在には「生」が無いのだから必然的に「不生不滅」ということになるのだ。なぜなら一切は「空(くう)」であるからだ・・・と。

この思想の由来は、
「この世の全てのものごとは空であり実体がない、(縁起上)仮に和合したものだ」と言う処から来るようだ。

では「何が、誰が仮に和合するのか?」「誰・何とはナニモノなるや?」の言及が欠損している。
返信する
諸行無常の実相 (Unknown)
2019-12-17 04:00:44
色(しき)はやがては空(くう)となる。此れは正しい普遍の真理(=定理)だ。

空(くう)とは空(カラ)になるという意味だ(注、カラ=空っぽ)。
空(くう&カラ)とは「無くなる」という意味だ。
色(しき)はやがて「無くなる「」からだ。

色即是空のみが実相だ。
即ち「不滅」(=無くならない)では無くて「有滅」なのだ。

イエス君・・・
此れでいいですか?
「いいえ違います」ですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-17 03:47:08
素晴らしいです。ぜひ立憲か共産党から
選挙に出てください。
返信する
Unknown (榮久)
2019-12-17 03:38:39
排他性

自説に固執する排他的な傾向では理論の深化が望めない、
例えば多民族間での理解には、
各々の民族の持つ語彙表現や時間や性差、年齢等など
固有の感覚をも考慮する事で言語表現を
擦り合わせ翻訳しつつ理解するのが一般的な姿勢である。

自分自身の主張に対して「なぜそう言えるのか」を問う。
この問いかけが論証を支えてている。
「なぜ」と問うことがもととなる。

「非仏」と自説のみで他宗派を認めず
排除する思考には偏狭で深みに欠けるように感じる。

たとえば「文字の所在は、六塵、その體なり」とは、
「言葉・言語、それが何処にあるかといえば、
迷いの世界全体を、その当体とする」との意味で、
南さんの表現する「無明」と近いと考えるが、
これは真言密教の空海の説法にあるのだが。

排他より「なぜ」と問うことが先にあるだろう。
返信する
「般若心経」は「密教」、「非仏教」 (イエスちゃん)
2019-12-17 01:00:37
「般若心経」は「大分後期に」インド密教の初期の頃?、
著作され「密教思想」に汚染されています。

だから、「非仏教」で解釈されてしまっている。

「空」は常に、述語にすべきものです。
「空」を「主格」にするから「非仏教」になってしまう。


「色即「是」空」・・・これは正しい。
「空即「是」色」・・・これは誤り。

「両方向に等値」になっているのが間違い。
だから「梵我一如」と同値になっている。

しかし、「仏教」は違う。
唐時代の洞山良介禅師(807-869)の「過水偈」
(これの「核心」部分は、日本曹洞宗の僧侶ならば、「毎日」唱える)

(ただし、「裏側から」表現しているが…)
切(せつ)に忌(い)む、他に従ってもとむることを
 超超として我と疎なり

 我いま独り自ら往く 
 処処彼に逢うことを得

・・・次のこれが「核心」・・・
・・・決して、両方向「是」にならない・・・

 彼(仏)いままさにこれ「我」
 ⇒「是」
 「我」いまこれ彼(仏)にあらず
 ⇒「不是」
返信する
不十分でした。お詫びして説明のし直しです。 (イエスちゃん)
2019-12-17 00:30:07
『イギリス人のブリタニカ国際大百科は馬鹿だから…』

なぜ「とんでもない仏教の説明内容」になったのか?

推定ですが、
読者は、イギリス人・英語圏で、クリスチャンです。
クリスチャンに理解できる概念で、「英語」で表現します。
ここで、間違い・誤解が入ります。

次に日本語版を作成します。
すると、「英語は知っている」が、仏教を知らない人(多分、日本人)が、忠実に「日本語に翻訳する」。
この段階で、更に間違い・誤解が入る。

伝言ゲームで、内容が変質している。

要は、図書館に行って「仏教語辞典を読むべき」です。

その方が「仏教の専門家」による「正確な日本語による」説明です。

「日本語」版「ブリ…」は、仏教は間違いが混入する。利用するのは馬鹿な事です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 22:31:45
@ 南師は「無明」とは「言葉に騙されてしまっている」ということだ、と教える。

「言葉」によって「実体」が虚構されるから。

それが分からない、誰かが、言語は有明と、言ってましたが、人間同士、言語でしか伝わらないから、間違いながらも言語で伝える。そこに実存がある。
言語は無明かもしれないけど、言語を信じて自分の思いを伝えないと実存も縁起もないし、言語がないとお互いたぶんすれ違いう。イエスちゃんさんは、もっと、実存の言葉で話さないと人には伝わらないと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 14:48:55
だから1900年前に生まれた龍樹さんがどうこう言っているという事では無くて、
現代人のイエス君自身の身体と生身で体得した「不生不滅」とはどういう事に成るのか、御自分の言葉で説明してみてください。
誰・何が不生不滅で、しかも諸行無常・諸法無我で、無自性で、なぜ生まれもしなく滅しもしない事になるのか、

どの点がイギリス人がバカで、日本人がバカで、スリランカ人がバカなのか等々を・・・

ご自分の言葉でお願いしますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 12:32:18
テーラワーダ仏教の根本仏教教義では「不生不滅」を何一つ言っていないのは何故ですか?
テーラワーダ仏教のS長老がバカだからですか?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 12:08:25
現代風に無理にこじつければ、

宇宙に実存する素粒子とか宇宙エネルギーとかなりと、
人間(=生命物体)は単に存在の形状を循環するだけだから「不生不滅」なのだ・・・
という言い方は私としては却下します。
あまりにトッポク屁理屈っぽいから。

それよりか既存材料(素材)を利用して新しい「生」が産まれて、
その生はやがて「滅」して(死んで)朽ちて行く(=生滅!!)・・・
の方がよほどスッキリしていて、生命体の自然の姿をよく表現していると思うのです。

これを持って無常無我と呼び、
釈迦が悟って苦がなくなったと言ってるのではありませんか??

釈迦は「常住不変」の原理である「不生不滅」を知ったから
苦の滅失が起きたのではありますまい。
返信する
補足 (Unknown)
2019-12-16 11:47:03
常住不変の真如=真我=アートマン&ブラフマン
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 11:45:25
確かにイギリス人はバカですかね。

じゃあ三省堂の大辞林はどうですか??
大辞林版『不生不滅』とは、
「生じもせず、滅もせず、常住不変である事。真如(=真理)の世界の在り方。
また此の世を真如の現われとみなす立場から、此の世の真の姿の在り方」。

これを不生不滅というのである・・・
と説明してますね。

日本人もバカなのでしょうか??

龍樹さんが言ってるかどうかでなく、
現代でも通じる真理なのですかと聞いているのです。
大辞林の説明から、どうやったら「諸行無常」が出てくるのですか??
返信する
イギリス人のブリタニカ国際大百科は馬鹿だから… (イエスちゃん)
2019-12-16 09:56:49
「不生不滅」は、
竜樹菩薩の『中論』に出てきます。

『中論』冒頭の帰敬序にある「八不」である。

「不生不滅」
「不断不常」
「不一不異」
「不来不去」
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 09:13:33
要するに
不生不滅論と無常無我論の論理の整合性が納得出来かねる、という事に成りますかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 09:08:00
イエス君が此処のコメ欄で
道元さんの「不生不滅」(だ)と言う言葉を引っぱり出して来たので、
「アル」「ナイ」論議に発展したけれど、

ブリタニカ国際大百科の説明は・・・、

「不生不滅」とは仏教用語で、
「何も生ぜず、また滅びない」ということ。
輪廻の世界から解放された世界観に立つと(=立った場合は、輪廻から解放されてるあの世の新世界の内部では・・・か??)、
(そこには)「絶対的な実在は無い」(=ブラフマンや神はいない)という事を表現する時に用いる言葉である(=不生不滅とはそう言う意味だったと??)。

空の【観念】を補足するものであり、涅槃の在り方を『否定的‼』に説明する語法・・・

と書いて有りました。
とくに最後の文章が気になりました。

どう言う事でしょう、不生不滅論を持ち出すと、
涅槃寂静なんていう絶対的な「在り方」は実在(実存)しないと言っている事にもなるのでしょうか。

輪廻の世界から解放された時(解脱後)に存在する世界(=あの世)では、
『絶対的な実存』すなわちブラフマンとかアートマンが存在しないと言ってる様ですから、

輪廻観を初めから捨て去り、
否定してしまった仏教宗派の世界観では涅槃寂静が実存してしまう…という事になりますか。
(=輪廻が無ければ「不生不滅」案件は成立しない事になるとか???)

視点を変えて言い直して見るとみると、
輪廻など無関係な此の世(現世)に於いては、
不生不滅論みたいな「何ものも生まれず、また滅びない」みたいな事は無い(=この世では生まれ滅びるものである)と言えちゃうのでしょうか??


言い出しっぺのイエス君の
「いいえ違います」論をお願いします。
返信する
いいえ違います「蝋燭が燃えている」が問題なのです (イエスちゃん)
2019-12-16 07:35:12

「蝋燭が燃えている」が問題なのです。

南師は「無明」とは「言葉に騙されてしまっている」ということだ、と教える。

「蝋燭が燃えている」と「認識する思考構造」に問題があるのです。

本来そこには「炎」「酸化現象」が存在するだけです。

「ロウソク」という「実体」が「燃える」という「動作・行為」をしている。と、二分するから、
ここから「実体」が虚構されるのです。

「私が死ぬ」という認識も同じ事です。

「私」が、「実体」として、虚構されてくるのです。

道元和尚も、
「薪」が「燃えて」、「灰」と「成る」。
は誤りだと教える。

「何か」が「薪のすがた」であったのが、「燃えて」、
その「何か」が「灰のすがた」と「成る」。

という構造であり、その「何か」を「実体」と考えているのです。

これは「人間」が「言語を使用して、外界を認識している」から、
「必然的に」「全員に」起こる事なのです。


だから、道元和尚は、
「薪は、その法位にあり、絶対だ」
「灰は、その法位にあり、絶対だ」

「仏教」では、「薪」が「灰」に「成る」とは言わない、と教える。


南師は「無明」とは「言葉に騙されてしまっている」ということだ、と教える。

「言葉」によって「実体」が虚構されるから。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 07:32:09
あ~、そうかなァ~。
釈迦は実存的孤立があって・・・

鬱病になってしまった(perイエス君言)。

でも涅槃した後は、
弟子たちが実存的孤立をしない為に「サンガ」をつくって相互扶助のサポート体制を作り上げた。。。
返信する
「縦の孤独」余話 (Unknown)
2019-12-16 07:24:59
米国大学での心理学教室の調査によると、
「実存的孤立を強く感じる人ほど、死を連想する傾向が強い事が判明」したそうだ。
nazology.net/archives/44573

実存的孤立が不安バッファーを弱体化するからだとか・・・

実存的孤立とは
「自分の経験は自分だけのモノで、他の人には決して理解できない」と思う内的な経験の事。
いわゆる、南さんの唱える「縦の孤独」に等しい。

不安バッファーとは、
自尊心や宗教などのように、避けられない死への不安や人生の無意味さなどの実存的不安を和らげることが出来る緩衝材(バッファー)としての機能を持つものの事である。

宗教をやってれば、
実存的孤立から解脱できるという事に成りますかな。。。

( ,,`・ω・´)ンンン?
でも(小乗?)仏教僧が一番「死を恐れる」って言う調査結果はどうなんだろう??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 06:49:43
ウィキペディアで(仏教)「苦」と「苦痛」などが説明されてるようですね。
大雑把に区別化してみると、
「苦」は精神的・人間性全般的な葛藤概念から生じる「苦」観。
「苦痛」は肉体的なモノが原因で発生し感じる「苦しみ」観・・・
と理解して良いでしょうか??
(ただし、苦痛は苦の一部に過ぎない)

当然釈迦は生身の身体を持っていたのだから
病気・怪我の際には体の痛み(苦痛、苦しみ)を感じた訳でしょう。

しかし涅槃寂静ならば仏教「苦」を感じる事は無かったはずでしょう。
仏教「苦」(=四苦八苦)からは35歳での「悟り開眼」の際に
キッパリと卒業したって事に成りますかね。

何故イエス君は涅槃寂静にからめて
「死苦」だけに拘るのですか??
返信する
実体アレルギーのはざまにて (Unknown)
2019-12-16 06:01:43
昨日見た謎ロジー・ネットで初めてお目にかかった「概念的実体」という言葉に妙にいたく共感してしまったが、それが哲学用語で在るのかどうかは知らない。

しかし考えて見ると
物体的実体の是非が論じられると同等に
概念的実体というのも考察の価値がありそうだ。

たとえば南さんのお得意の「机」論議にしても、物体的実体でないというのには同意できても、
概念的実体でもないというのなら共感できない。
「机」という概念のありようは
机という言葉が生まれて以来、もはや何処へも行かず、
【永久に諸行無常しない】と思えるからだ。
返信する
「苦」と「苦痛」とは異なる (イエスちゃん)
2019-12-16 05:53:14
『涅槃寂静の定義って「死苦」からの解放って事だけですか?
涅槃寂静しても「生苦・老苦・病苦」と
あと4っつの苦はばっちり残っている??
それでも涅槃寂静なのですか??

イエス君に聞いてます。』

「涅槃寂静」です。

「老い」ても、自然に受け止め、
「苦」にしない、…ならない。
「病い」ても、自然に受け止め、
「苦」にしない、…ならない。

当然、「苦痛」は存在する。
それを「苦」にしないで、受け入れる。

良寛和尚が、「慰めの手紙」に書いています。

災難に逢う時節には「災難に逢うがよく」候
死ぬ時節には「死ぬがよく」候
これはこれ災難を「のがるる妙法」にて候

現代の人は、これでは「逃れていない」と思うでしょうね。
でも「慰められた」のです。
だから、現在まで大切に保存されてきたのです。
読んで「腹が立ったら」、手紙を捨てていたでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 05:43:01
①は実存さんであるが不生不滅とは相性が悪い感じ
②は何一つ起こっていないが、
それを不生不滅と称するのは全くカッコ悪い。
③、④は論理の破綻
⑤は常住さんの事、仏教からの嫌われ者
⑥は余りに自明の事で愚か者さん
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 05:32:03
>「不生不滅」
>どこから来て、どこへ行くのか?

誰が、あるいは何が、
どこから来て何処へ行くのかという、
主体は何かという問題も出てきますよね。

①.「アル」というモノが
「アル」と言う処から来て
「アル」と言う処へ行く

②.「ナイ」というモノが
「ナイ」と言う処から来て
「ナイ」と言う処へ行く

③.「アル」というモノが
「ナイ」と言う処から来て
「ナイ」という処へ行く

④.「ナイ」というモノが
「アル」と言う処から来て
「アル」と言う処へ行く。

⑤.何処からも来ず、
何処へも行かない「アル」さん

⑥.何処からも来ず、
何処へも行かない「ナイ」さん。

以上の6つの可能性の中で、
『不生不滅』に
ふさわしいケースはどれか、
ふさわしくないケースはどれか・・・
を考察する事で、

「不生不滅」と「アル」・「ナイ」の関係性が明らかにされるのかもしれませんよね。・・・さて!!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-16 02:38:30
政治の話題は御法度のようですな??
属国は消されてしまった、弾圧かも? 香港の若者に見習うべきか?
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-16 01:25:15
『現存の或る曹洞宗住職の法話では、

而今の「実存」は「現象」である。何故なら諸行無常するのだから・・・

しかし「色即是空」の「空」そのものは「諸行無常しない概念」だから、
「空は実体だ」と檀家衆に説話している。』

単純に解っていないだけ。
そして基礎的な「哲学的」訓練もされていない。
当然、自分からもしていない。

この状況は、「実は」深刻な問題です。

「南師の本」『実存と超越』を、何度も読むべきです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 22:44:06
「面倒だからちゃんと考えてない」っていうコメントされた方。すごく考えていると思う。日常生活を基盤にして発言されてて、分かりやすいです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 22:38:21
すごい人いますね。「みたいな」さん。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 18:57:29
「愚民には高いとこから言ってやるつもりしかないけどさ」ってんじゃあ、
気味の悪い変人、としか思ってもらえない、みたいな。

それでも「宗教家」っていう肩書があれば多少は「救いの手を差し伸べるつもりがあるんだろう」と勝手に勘違いしてもらえるかもね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 18:08:33
国民が国から資金を引き揚げると
国は国民の財産を接収する

んで、どうしよっかなー、みたいな。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 11:53:39
現存の或る曹洞宗住職の法話では、

而今の「実存」は「現象」である。何故なら諸行無常するのだから・・・

しかし「色即是空」の「空」そのものは諸行無常しない概念だから、
「空は実体だ」と檀家衆に説話している。
これなどは概念的【実体】を考えての結論だろう。

考えて見ると
1+1=2も概念的【実体】であるのだ。
概念としてのみ存在し、諸行無常する事が無い普遍の真理としての座を永遠に占めるからだ。

注。1+1=2という様な、
形而下学的実体(物質・物体)を取り出す事は出来ないのである。

この辺の論理が龍樹さん論理と背反するのかどうかはワタシは知らない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 11:06:44
虚数i(二乗するとマイナス1となるモノ)
などは典型的な概念的【実体】ですかね。

虚数を数式に使う事で
本来(=原理的に)解けない数式が見事に解けてしまって
多くの科学的な発見がなされた様ですね。

「死の方程式」に虚数を導入したらどうでしょう? 
解けるかしら??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 10:53:22
諸行無常も概念的【実体】??
諸法無我も概念的【実体】??

概念的【実体】と言う言葉が好きになりました。。。
返信する
実体の発見 (Unknown)
2019-12-15 10:48:15
同様に、
0(ゼロ)とは何かは概念的【実体】
1とは何かも、概念的【実体】
2も3も4も、概念的【実体】
~~、~~、
形而上学的な属性(思考の方向性)を持つモノは、
すべて概念的【実体】なのである。
何故ならば凡そ『概念』とは「諸行無常」でないからだ(常住、ないしバーチャル??)。

なんかだいぶ前、同じようなことを
Zさんがいってたような・・・
返信する
此の世には沢山の概念的【実体】がある。 (Unknown)
2019-12-15 10:34:03
同じ論理でいうと

哲学的には
「死とは何か」という問い自体に無理があるとし、「死」をひとつの概念的【実体】と考える・・・になりそうだ。
返信する
形而上学的思考法 (Unknown)
2019-12-15 10:29:14
同様に、
「不生不滅とは何なのか」は原理的に分からない・・・となるのかも。

人間が身体・生身で自分が生きてる間に「不生不滅」を体感できないからだ。

『我は不生不滅で【ある!!】というモノだ』と言ったのはエホバの神だけなのである。
神だけが「不生不滅」の実体験者なのだから、
不生不滅とは何なのか、
「アル」なのか「ナイ」なのかは、
エホバの神のみが答える資格があるという事に成る。

哲学的には、
そもそも「不生不滅とは何か」という問自体に無理があるとし、「不生不滅」を一つの概念的【実体】と考える(・・・のかもしれない?)。
返信する
「無とは何なのか」の謎 (Unknown)
2019-12-15 10:10:12
人は生きてる時は「無」という状態になれないから「無」を身体・生身で体感できない。
南さん流の「死とは何かは原理的に分からない」と全く同じで、
「無とは何かは原理的に分からない」となるのかも知れない。

哲学的には、
そもそも「無とは何か」という問自体に無理があるとし、「無」を一つの概念的【実体】と考える。

しかし、「無」という概念は学問的探究の土台であり、そこから新しい発見が誕生するものである。

参考
nazology.net/archives/23710
返信する
無根拠問答 (Unknown)
2019-12-15 06:32:49

「不生不滅」

どこから来て
どこへ行くのか

始めがなく
終わりなく

返信する
Unknown (浅野)
2019-12-15 05:44:56
石原慎太郎は、当時の復興五輪の決定経緯も忘れたようでした。 おまけにくっつけざるをえない、というような発言でしたね(まさにその程度でした)。
五輪のあとの世界恐慌の懸念をいう人もいましたね。
南さんも、恋愛は精神的コストが高くて、面倒て発言してたと思いますが、今の大学生もそのようですね。少し異なるのは、恋愛で実存に触れる前に、避けてるんですね。
さまざまなところで、格差が開いております。
地方創生が前より叫ばれなくなりました。生き方の転換がこの辺にあるのではないか勘ぐっています。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 04:25:39
「無から有は生まれない」と「因縁因果の法」と「無はナイという常住の属性」

面倒だからちゃんと考えてないけど、いくつかのことがごちゃ混ぜになってると思う。
一つの言葉をいくつもの意味で使いながら一つのものとみているというか。
または
**「無(ナイ)は永久に「無」で、この世に出現する事は無い。**
の無は有でしょ。「無」という属性を持った「有」。それをゼロというなら私の日常的な感覚と変わらないと思う。
無とは属性を持たないもののことだと思う。
属性を持つということは、カテゴライズできるということ・言語化できるということ・認識の結果だということ、でしょ。
有が無常しているに過ぎないのではなく、人間に認識できるものはそういうものだということなだけじゃん?変化するから認識できる。
「無」というものがあるわけじゃなく、仮に「無」と名付けてあるだけの「認識できないもの」でのことで、認識できないならその属性なんか考えようがないじゃん?でも「無」って、自分が仮に名前つけただけのものなのに、名前付いたらそういう名前のものがあると思っちゃうんでしょ。
なんか、宇宙物理?とかでダークマターとか?あれって、今までは「無(どういう「無」なんだろう?)」と思われてたところに実はなんかあるんじゃないか、って話なんでしょ?そういう意味(どういう意味?)じゃ、「無」も一定不変じゃないと言えるのかもしれない。
でも、無限から何か引いたら無限は減るのか?っていったらわかんない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-15 02:32:32
ワタシとは何か?自己とは?
無とは何か?
哲学者の語る分野ですよね。
栄久さん、御坊哲さん・・・

南さんの大好きな分野でもありますよね。

ワタシ的には
アルとはアルこと、ナイとはナイ事。
言葉はアル。言葉は無明でもアリ有明でもアリ、すべて言葉を発する人次第、という事で止まってます。

自己は因でもあり果とする事も出来そうな感じですがどうでしょう。縁起の無明説、何故そう思うか敷衍して下さい。
返信する
例えば (Unknown)
2019-12-14 23:29:07
自己は、因があって自己と解釈しがちですが、自己という果があって、因がアルということになるのではないのでしょうか。

返信する
無とは? (Unknown)
2019-12-14 23:19:41
縁起は、無明から発生することではないでしょうか。つまり、言語をアルとするのかナイとするのか?ですかね。

言語から有が生まれているのか、言語が無としているだけなのか、無は誰が何が生み出したのか。そもそも無とは?


返信する
縁起説=無から有は生まれない (Unknown)
2019-12-14 22:11:49
(結)果が有るのは(原)因があるからだ。因があれば果として生まれるものだ。

因が無ければ果も出ない筈だ(=神の否定でもある)・・・

アルとアル、ナイとナイ、が相関付けられた理論が縁起論であると理解しています。

だからナイからアルは生まれない事に成りますかね。
だから0が1に変化したら因縁因果が崩壊する事に成ると思うのです。

南理論で言うと、たしか、
因と果が一方向に進むのが世俗諦(不可逆性反応)、
双方向に進むのが勝義諦(可逆性反応、相依性縁起)ですみたいな・・・

何かしらの「因」的要素が有っても今の処「縁」が無ければ「果」が起きないが、

「縁」が生じた時(付け加わった時)に「果」が起きる・・・というのが『有無も因縁』と言える事情でしょうけど、その意味は、無の時は何も起き無いのはしょうがない…というコンテクストなのでしょう。
やはり無から有は生まれないという意味になるようですよね。

これが自性、無自性の論議となっていく訳でしょうかね。

「不生不滅だが我はアルというものだ」と言う理論とは相いれないのかもしれません。
しかし「不生不滅」とは何か「アル」というモノを示唆(暗示、前提)しており、

ナイのだから「不生不滅」だと言うのはインパクトが無くてつまらない言葉に感じますかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 19:16:51
有無も因縁なのでしょうから、因縁が生じて起きる、これ縁起、ではいけないんでしょうかね?

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:59:01
とか、今ここではゼロだけど、いつかどこかではゼロじゃないかもしれない、とかそういうのはどうなるの?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:55:10
無から有は生じない、とかいうの、今日か昨日かにどこかで見たな。
でも、それホント?
なんで0が1になったら因縁因果の法則が崩壊するの?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:51:32
数学とか全然わからないから、ゼロがどういう観念なのか知らない。
日常的には「なんかの属性を持ったものがある」と「それがない」の「ない」で、属性を持ったものをカウントしてるだけじゃん?て。
クロサイにも、ゼロについて何か書いてあった気がするんだけど、全く理解してないから忘れた。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:47:37
アッ、野球のスコアーボードの0が1に変る事を言ってる訳ではないですよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:45:18
インドで発明された0(ゼロ)という概念は
ゼロという属性を持っている…という事でどうですか??
ゼロ(無)は永遠にゼロであって、
ゼロが1に変ることは無いみたいな・・・

ゼロ(無)が1に変るなら
因縁因果の法則が崩壊する・・・
返信する
片片問答『無常が無常だ』 (Unknown)
2019-12-14 15:38:29
私流解釈。

もしこの世に、無常なモノと、有常(=常住)のものが存在するのだとしたら、
有常(常住)とは「神ないしアートマン」の事だろう。

常住を認めない仏教でも、そう主張する無条件の根拠は無い。身体と生身で知るという事も出来ない。だだ根拠なく「そうだ」と信じるしかない。

さように「無常」という概念は風前の灯なのだ。さらに強い風が吹けば「無常」なんて吹き消されてしまうかも知れない。
だから「無常が無常」なのだよ・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:34:21
「無はナイとして常住な属性を持っている」

いや、たぶん、「無」は属性を持つことはないでしょ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 15:08:41
通説となっている「無常」の(直接的)反対語は「常住」ですね。

「無常」の反対語を「死」というのは個性的な南流表現ですね。
死後、輪廻しないという前提が「実存!!」してれば、
「死とは常住」だから文脈は通じるわけですよね。

しかし輪廻を信じている人にとっては
「死」は「無常」の変化形と言う定義になりますよね。

じゃあ輪廻は信じていないが「魂(アートマン)を信じてる人にとっては・・・
「死」はやはり「常住」だから
「無常」の反対語は「死」でもいいですかね。

すべてレトリックの問題ですね。
返信する
言い換えると・・・ (Unknown)
2019-12-14 14:48:50
仏教では「果があれば必ず因が有る」
が基本思想だから、
「無から有(=果)は生まれない」と説いている事に成る。
つまり「無(ナイ)は永久に「無」で、この世に出現する事は無い。

つまり有(アル)のみが無常しているに過ぎない。

無はナイとして常住な属性を持っている。

注;お坊哲さん辺りは「ナイ」と「アル」とは同じ事、
とか言ってた事があるから彼の見解を聞く事も参考になりますかね。
返信する
言い換えると・・・ (Unknown)
2019-12-14 14:45:34
仏教では「果があれば必ず因が有る」
が基本思想だから、
「無から有(=果)は生まれない」と説いている事に成る。
つまり「無(ナイ)は永久に「無」で、この世に出現する事は無い。

つまり有(アル)のみが無常しているに過ぎない。

無はナイとして常住な属性を持っている。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 14:26:57
南さんが以前に、あえていうなら、「無常」の反対語は「死」と言われていたような。

死ぬことは確かなことなのに、それが皆目わからないことだと。

つまり、無常の反対はワカランことか。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 14:12:03
無常とは「アル」が前提となる。

「無常」の反対語である「常住」は
「ナイ」という言葉の中にその基本的属性を持っている・・・という意味ですね。

「ナイ」といった時の「ないモノ」は、
見る事も感じる事も出来ない絶対不変(普遍)の真理的なニュアンスを持った言語なので、必然的にそうなってしまう。

そんな程度での思考方式です。
返信する
現代思想? (青春)
2019-12-14 14:11:31
とは言っても、輪廻思想がどこから持ち出されたのかと言えば、人間の錯覚からでしょうからね。

返信する
環境とスタイルが問題? (燃焼)
2019-12-14 14:05:08
>世俗のままで成れるのなら出家する必要は無い訳だし・・

在家のままでも、悟ったというエピソードは一応ありはしますよね。

出家したからといって、釈迦のように沙羅双樹の下で6年間も坐れるかどうか?また、悟れるかどうかも不明ですよね。

まあそれだけ、煩悩を滅することなど簡単ではないことは明白ですかね。



返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 13:59:46
青春さんのコメントは現代思想ですね。
釈迦の時代は輪廻の恐怖で人々がオタオタしていた様ですよ。

なにせ2500年も前の環境では、
ワケ不明な幽霊がそこら中に、うじゃうじゃいると恐れまくっている感じですかね。

ちなみに古代インドでは
「森林」が幽霊の生息地として恐怖の対象で在った様で、死体も其処に放置した訳だから、
沙門たちがそこに住んで自己鍛錬に励んだ理由(気迫)もわかる気がしますね。
返信する
ここがポイントですよね。 (Unknown)
2019-12-14 13:54:03
>「無常」とは原理的に「アル(有る)」ものが「形を変化させる」という意味に成るしね。

何をもってアルとしているのか?
何をもってナシとしているのか?


私がアルとはどういうことか?

「問い」でしかないような。


返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 13:50:20
客観的には苦はこの世について回るが、
主観的には苦と思わなくなった・・・

なぜなら「苦」観の原因となる「煩悩・執着」を個人としてのワタシは
修行によって滅失させてしまったから・・・が実情かと。

世俗の誰もがそんな境地になれるといいわけですが、
世俗のままで成れるのなら出家する必要は無い訳だし・・・
返信する
引っかけ問答 (Unknown)
2019-12-14 13:48:13
「無常が無常だ」

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/204f6c4f202a769658f896d86de6de46

もう一度。

返信する
Unknown (青春)
2019-12-14 13:43:21
>世俗は出家にお布施という善行をして呉れれば、いい来世(輪廻)が有りますよと、説き

別に、いい来世とか言わなくても、布施した人は、各人の思い気ままに「いい気分」になったり、自由でよいのではないですかね。

神社で賽銭を投げるのも、そんな感じですよね。

それが向上するところに、慈悲喜捨が生まれてくるなら、なおヨシということで。


返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 13:35:36
う~ん・・・
而今に於ける「実存」とは
「常住」(=変化しないモノ)で無いことは自明の事実だから、
「実存=無常」は成立してますが、

「無常」とは原理的に「アル(有る)」ものが「形を変化させる」という意味に成るしね。

「ナイ(無い)」ものは「無い」という「常住」の形をとる訳だし、

この言葉(無常)を発した時点で
「アル」か「ナイ」かは
既にはっきり表明されているという事になりませんかね。
返信する
無理でも実践する、それが修行。 (Unknown)
2019-12-14 13:28:43

>俺が生きてる間に煩悩・執着を断ち切れなんて、ムリムリ!!、絶対に無理!!・・・

善なる道へ向かおうではないか。
返信する
決して思い通りにはならない無常 (Unknown)
2019-12-14 13:24:44
釈迦は、一切皆苦として生きていたのだから、生きている限り、苦がなくなるということではなく、苦とならなくなった、または苦としなくなった、が適切ではないですかね。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 13:18:38
釈迦の言い方では、

世俗は出家にお布施という善行をして呉れれば、
いい来世(輪廻)が有りますよと、説き

悟り終えた出家の涅槃では、
聖者が涅槃(火を吹き消された状態)したあとは
輪廻から解脱してしまったから、
その後の消息については
調べる手段がもはや無い…
とか言ったそうでしたよね。
返信する
Unknown (P)
2019-12-14 13:17:20
南さんの「実存」は、「無常」と言われていませんでしたかね。

言語内存在の人間は、どうしてもアルナシなどの二元論で考えてしまいがちですが、ハッキリさせないことが修行でもあるのかと。




返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 13:05:54
親鸞会の宣伝マンのいいぐさは、

幽霊とか霊魂、即ち、超越は
アルかナイか、(原理的に)分からないのだから、
どうせなら「有る」と想定しておいた方が気持ちがズズズっと楽になるんだぜ・・・、
「アル」んだったら信じていて得した訳だし、
「ナイ」んだったら、それで終わりという事で、失う(=損する)ものは何も無いんだから・・・
と、説きますね。
コメして下さった「ばあちゃん」と同じ観点からの言及ですよね。
返信する
幽霊と無常無我の相関性 (Unknown)
2019-12-14 12:49:47
天才の釈迦は
修行中の6年の間、考えに考えて、
周囲の事象をあれやこれやと観察し続けて、

アートマン(会話上、アートマン=幽霊とします)が実存するのか、実存しないのかを探求し続けたわけだから、

沙羅双樹の元での悟りの最終段階で、
無常無我に突然・突発的にヒラメイテ、感動のあまり、苦が無くなっちゃった・・・とは考えにくいですね。

そういう視点で考えると、
無常無我は後付けの論理で在ったように感じます。
悟りの最終瞑想で、幽霊がいない事が分かって恐怖が無くなったっていうシチュエーションを想定するのは無理がある感じですよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 12:27:11
「ありよう」という以上「有るサマ」という意味で、
「ないよう」(無いサマ)ではない訳ですね。

仏教僧の南さんとしては自分自身の体感としては、
「不生不滅」と言っても「ワタシはアルというものだ」というエホバの神の主張を支持してるんですかね。

「アル」のか「ナイ」のかさっぱり分からない「クウ」では無いんだぜと???
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 11:52:25
そいで。いまどき誰も幽霊なんか信じてないから枯れ尾花は枯れ尾花でしかないんだよ、ってのは。

やっぱ、いるよ。幽霊とか霊魂とかを、生活レベルで否定できない人って。
ばあちゃんが「死んだら家族葬にしてくれ」って言ってる、と(ばあちゃんの死期が迫ってるとかじゃない、年も年だから言っとくけど的な)。だけどもその人の、葬儀でかかわりが出る範囲の生活圏では家族葬が行われたことがない、と。
実際に家族葬でやるとしたら、集落の人たちには何て言えば良いんだろう?どう知らせるのか知らせないのか?もしもお香典とかお焼香とかで来てくれちゃったらどう対応しよう?対応にばらつきが出たらかどが立ったりするんだろうか?などなど考え始めると面倒だから、ばあちゃんには「わかったよ」って言っといて、身近な前例がないままなら普通のお葬式にしちゃおうか、みたいな話を家族でしてたりする、と。
「でもそしたらばあちゃん怒るかな、とかさあ」。もちろん怒るのは死んだ後での想定です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 11:43:31
3S政策なんて言葉もあるくらいだから、騙しやすいツールの一つなのでしょうね。

闘争は人間のかなり根深い所にあるモノではないでしょうか。その欲望の解消に役立つのであれば、少しはいいかな?と思いました。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 11:43:18
「在り様」説有難うございます。
これって一般的に認められた哲学的用法なんですかね。
それについては栄久さんとか、御坊哲さんの知見をお聞きしたいですね。

で、
「ありよう」って、
「実際」に、すなわち目の前に「現実」に、見える(或いは、感じ取れる)
「存在の在り方」って言う意味なんですかね。
人間としては、其処に、何かが確実に有ると
脳が感じ取って仕舞っているモノという事でしょうかね。

じゃあ(何も)「ナイ!!」と言ってる訳でなく、
(何かは確かに)「アル!!」のサイドですね。

それだと、それがバーチャルかリアルかは脳は区別がつかないわけだから、

精密に定義し直すと、
【実存】とは「実際に存在すると少なくとも脳が認知している事象」ということになりますかね。(続)
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 11:31:24
たかが玉遊びの達人がバカみたいに優遇されて崇拝されて、とかって、何のこと?って思ってたんだけど。

もしかして、ああいうのか?って思ったのが。
野球選手なんかの現役引退がーとか?カズの現役続行そして再びのJ1での雄姿がーとか?
そういうのってー、なんかー、坊さんにお布施して代わりに修行してもらって自分の来世のための積み立てにしようみたいなのと似てる気がする。
スポーツ選手が頑張る、人気や収入が上がる、それを自分が応援する、自分の(この場合現世での)生活が生き生きする、みたいな。
人間の考えることって基本的にあんまし変わんないってだけじゃん?みたいな。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 11:20:35
南さんの「実存」は「実際に存在する」とは違うような気がする。
なんか、前に「ありよう」だとか言ってた気がする。
ま、「ありよう」だとしたってわけわかんないけどね。
「ありよう」なんてどっから見るかでどうとでもなるじゃんね?って。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 07:59:36
イエス君の思考法は、
在りもしない絶対普遍的真理(=不言真如)を、
自分の身体・生身で感得した・・・というのと同類のモノかもしれませんね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 07:51:31
>幽霊だと恐怖していたが枯れ尾花だったので、恐怖が無くなった??

イエス君は一体いつの時代の話をしているのですか??
自分独りだけで無意味に盛り上がっているのではないですか?

今の時代ではだれも始めっから幽霊なんて信じていないから、初めっから幽霊に対して恐怖心なんて無いのです。

とくに仏教で諸行無常・諸法無我が世界的に明らかに示されているから、幽霊なんてある訳はなく、

2500年前に釈迦によって明らかにされてしまった無常無我を、
今になって、
君が頭で理解しようと、身体生身で分かろうと、何の違いも無いのですよ。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 07:17:26
どうなんでしょう???
仏教僧侶界において、長年の年功序列制を採用して来たので、
結局の処、だれも悟り何て目指そうとしなくなった・・・とか?

世襲制なんかも同じ類になりますかな?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 06:58:38
という事はあれかナァ~。

イエス君には悪いけど、
「死苦」なんてものは、世俗のシロウト筋でも簡単に滅失できるけど、

それ以外の苦は煩悩・執着を滅しなければ達っせられない大事業だから、
専門家の出家の方々に
人類を代表してやって見せていただきたい・・・と。
返信する
お願いしますね・・・ (Unknown)
2019-12-14 06:46:37
俺なんか、
在家信者でよかったなァ~って、
つくずく思うよね。
喜怒哀楽の世界でチンマリと生きるのが俺には似合っているしね。
だって、俺が生きてる間に煩悩・執着を断ち切れなんて、ムリムリ!!、絶対に無理!!・・・

出家の皆様はなんとか、頑張ってくださいませ!!・・・お願いしますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 06:33:23
イエス君曰くの、
釈迦が悟ったのは、「死苦」からの解放だけで、それを【涅槃寂静】と言うのだという偏見的見識は、
屁理屈としては分かりますけどね・・・

じゃあ仏教は「涅槃寂静なんて大袈裟な言葉を使うな、喝!!」ってワタシ的には言いたいですね。

「苦」の原義が「思い通りにならない事」という意味である以上、
生きて居る間の人生は、
常に自分の思い通りにならない事に満ち溢れているから、
これはもう生きている以上やむを得ない事になる訳です。

だから、せめて人生最後の死の局面の時くらいは
「苦」を感じずに死ねたらば
それだけで万々歳・・・

と、まあそれだけが仏教だということで、
涅槃寂静は其れしか意味を持たないという事に成る訳です…屁理屈ですけど。
ーーーーーーー

だがしかし、ちょっと待ってください。
釈迦が意図した事は其れだけじゃあ無いでしょう??
思い通りに何故ならないのかと釈迦は研究して、
人は煩悩・執着に固執するから「思い通りにならないと感じるのだ」というのが釈迦の発見であった訳です。

だから一切の煩悩・執着を断ち切ればいいんだ、が釈迦の結論で在ったわけです。
それこそがまさに「修行」の目的な訳です。

出家修行中の皆様、それが出来ますかな??…という訳ですね。。。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 03:50:16
何度質問しても知らんぷりされるだけだけど、
どうなんですか、
「不生不滅」と「諸行無常」は本質的に背反思想になるのでは無いのですか??
返信する
実存と意識はよく似てる。 (Unknown)
2019-12-14 03:01:00
「実存」とは「意識」の事なのかも知れない。

意識があるから実存を感じる。
意識さえなければ実存など分からない。
意識がなぜ存在するのかも原理的に分からない。
でも意識は不生不滅では無いのだ…身心一如なのだから。
返信する
迷答!!・・・人をクウ話。 (Unknown)
2019-12-14 02:30:08
「アル」もない。
「ナイ」もない。
すべては「クウ」だ。

「アル」はある。
「ナイ」もある。
それも「クウ」だ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-14 02:22:11
涅槃寂静の定義って「死苦」からの解放って事だけですか?
涅槃寂静しても「生苦・老苦・病苦」と
あと4っつの苦はばっちり残っている??
それでも涅槃寂静なのですか??

イエス君に聞いてます。
返信する
なんとかの一つ覚えではないのですか? (Unknown)
2019-12-14 02:15:08
イエス君に質問です。

君自身は
諸行無常・諸法無我を本当に解っているから「ワタシは涅槃寂静しているのだ」と言いたいのですか?

南さんは
涅槃寂静している様には見えないから、南さんは本当の諸行無常・諸法無我が解かっていないのだ、
と、君は言いたいのですか?

さらには道元さんの場合はどうですか?
言語録には彼が「涅槃寂静」しているようすが出ていますか?

返信する
質問です。 (Unknown)
2019-12-14 01:57:16
「不生不滅」とは「生まれもしない、死にもしない」という事だろう。
二通りの解釈ができる。

①.だが・・・
「不生不滅」でもワタシは「アル」というものだ。
そうエホバの神は言ったのだ。
基督教の立ち位置だ。

②.だから・・・
「不生不滅」ゆえ、ワタシは「ナイ」というものだ。
そう釈迦は言ったのですか?
それが仏教の立ち位置ですか?
ーーーー

では此処で新たな質問。
南さんが好きな「実存」って何ですか?
定義としては「実際に存在する」っていうことでしょうから、
「アル」が存在するんですか?
それとも
「ナイ」が存在するんですか?
返信する
幽霊の正体見たり枯れ尾花 (イエスちゃん)
2019-12-14 01:42:30
「幽霊」の「正体見た」り「枯れ尾花」


「怖くて怖くて」どうしようもなかった「幽霊」
しかし、
よくよく見ると「正体」を見ると「枯れ尾花」

「枯れ尾花」と発見した知った「瞬間に」
「と同時に」その時は「恐怖心はなくなっていた」

「諸行無常」「諸法無我」を本当に「解った」ら「発見した」ら、
「死苦」は「既に」なくなっていた。

「涅槃寂静」であった。
返信する
「実体」対「現象」 (イエスちゃん)
2019-12-14 01:18:35
『「不生不滅」とは、「諸行無常」のことを言ってると思ってましたが、違うんですかね?』

人間は「実体」「自己」が存在すると、思い込んでいるのに対して、
「実体」などない、「現象」のみである。

というのが「仏教」です。

「諸行無常」
つまり、
「因=直接原因」と「縁=間接原因」とによって「現象」として「起きる」
これが「縁・起の思想」です。

だから
「諸行は無常である」
変わらない、常である「実体」など存在しない。

「諸法無我」
すべてのものには、「我=アートマン=実体」というようなものはない。
変化する「現象」のみだ。


「不生不滅」
過去の世から、前世から「実体」が生まれて来る、ということはない。
そもそも「実体」でないのだから、
生まれてきていないのだから、
この世で「滅して」来世・あの世に行くのでもない。

要は、「自己」(我=アートマン)を、
「実体」と観るか、「現象」「縁起の生」と観るか、
この対立です。

「仏教」は「現象」

「キリスト教」は「実体」つまり「霊魂」
「インド密教」は「実体」つまり「梵我は一如」
返信する
ほんとにホント? (Unknown)
2019-12-13 22:10:48
>この世に普遍的なモデルになるような「理想的人間」などいるはずもない


「理想的」なら、ブッダやイエスかな?


よく知りませんが、、

返信する
「ニュースペーパー」 (Unknown)
2019-12-13 22:05:50
新聞の半面くらい、「仏教」を取り上げて頂きたいものですね。

返信する
「不生不滅」 (Unknown)
2019-12-13 19:39:44
「不生不滅」とは、「諸行無常」のことを言ってると思ってましたが、違うんですかね?

無常は不生だし、不滅みたいだし。

その中で縁起しているのかなと。


返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 16:32:51
所詮、輪廻も超越も概念の賜物でしょうから、それらを断ち切る涅槃の立場からは、やはり無用の産物ではないでしょうかね。

でもまあ、ナイとも言えないから(証明できないが故に)、釈迦は無記としたのでしょうが。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 15:15:02
釈迦が自分のサンガで出家した時間軸での「年功序列制」を律として設定したのは、

出家の誰もが、自分が納得いくまで(時間無制限の)「悟り修行」に集中できるような場を提供する意味と、

出家の誰もが、死ぬまで其処に属していても良く、
体力がダメになった先輩でも、
有能な後輩が先輩をサンガから追い出せないようにする為ですから(菩提心乃至慈悲心の育成!!)、
きわめてヒューマニズムに則った制度であるわけです。

現代日本の会社組織での年功序列と一緒くたに考えてはいけないと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 14:55:23
縁起が不生不滅と絡められるかどうかという命題についての私の見解は・・・

縁起とは原因が在って結果があるという因果応報・自業自得の思想の一環であるが、

誰一人として、これこれの「縁起」が前もって実存するから、
これこれの結果が必ず(=絶対的に)産まれる筈だと断定する事が出来ない抽象概念(観念)であると思います。

果を見て初めて、あれこれの因縁があったのだろうと後付けする事しか出来ない属性のものだとワタシには思えます。。

その視点からすると縁起は「不生不滅」との概念上の相関関係はないのかと・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 14:37:33
死は何かは原理的にワカラン・・・という意味は、
此の世の現世では、死は繰り返す事が出来ない一方向の出来事だから、生きてる人に未体験となる「死」は(原理的に)何かは分からない…という意味でしょう。

しかし人は死ぬ事で身体が崩壊する事実が有るのだから、

死が原理的に分からないという意味は、

死後(身心一如で無くて)アートマン(=超越、魂、真我)が別建てで残っているのか、
それともアートマンなどいない(=非超越)かのどちらかしかない訳です。

仏教的事実として「非超越だぞ!!」と言い切った場合は、
死というのは非超越性現象だと仏教が定義する…となってしまうと思うのです。

分からないとか言っても仏教視点では分っている訳です。

ワタシは自分の自由意志でそう解釈しています。

さらに考えられる事は、
輪廻転生をした人なら、
ワタシは過って死んだことが有ると言える訳だから、その人にとっては死とは何かは事実的に知っている事に成るから、

南さんが死は原理的に分からないと言い切る理由は、
輪廻など信じていない、即ち超越など無いというのと同じ事だと、ワタシには思えます。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 13:55:00
年功序列の悪いところは、バカな大人が増える、いえ考えなくなるか、いえいえ子供達に皺寄せが来ることですかね。

年功序列世代の子供、つまりオウム幹部がその一例かと。

なので私的には手放しに、年功序列を「礼賛」などしない。できない。



返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 13:44:25

「不生不滅」を「縁起」に捉え直してみては如何でしょうね。

返信する
だいたい年功序列 (Unknown)
2019-12-13 13:40:53
おじいさんは孫には成れないし、孫はおじいさんには成れないんですから、諸行無常に逆らうことなどできませんぬ。


返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 13:29:13
死をワカラナイと前提にするのですから、「(非)超越」と絡めること自体ナンセンスかと。

返信する
Unknown (ラクダ)
2019-12-13 13:22:47
私的には、1+1=ムガ(空)の発見を、教えてもらえたことが、ハッと感動を覚えたように思います。

学校では、空+空=2と教えるから、てんでツマラナイ「教育」でしたね。

返信する
補足 (Unknown)
2019-12-13 12:42:16
「業(ごう)」を「不生不滅」と絡(から)める事は可能だけど、

南流「業」解釈は、
自分の過去を自省(懺悔)する時のみ
思考ツールとしての存在意味が発生し(=すなわち、方便)、

それ以外の時は
「端的に言って無い!!」という訳だから、業は実存では無い訳です。
だから「業」をもって「不生不滅」を言う事は出来ないでしょう。

実際の処「不生不滅」思想は実体の存在を前提にしているのでは無いですか。
修行無常とも合わないし・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 12:29:19
「不生不滅」についての補足。

イエス君が輪廻論者という事であれば、
「不生不滅」を仏教的事実としてよいでしょう。
返信する
偉大な新発見こそノーベル賞に値する。 (Unknown)
2019-12-13 12:19:40
南さんの場合で言えば
「死とは何か?」は【原理的】に分からないと言っているのだから、

南さん自身に「1人称の死」が訪れてきたら、
「超越の南さん」だったら【大発見】をする事に成る。これは南さんにとってはノーベル賞ものですね。

しかし残念なことに「非超越の南さん」だったら、自らの「死」を体感できないのだから
南さんは【大発見】をする事が出来なくて、ノーベル賞を手にする事が出来ませんね。

まあそんな訳だけど
『無常無我』は既に仏教的事実として広く世に知れ渡ってしまっている、原理的に明白な周知事項だから、
自らの生身の身体でThe【発見!!】などと言う感動の物語りは成立しない訳です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 11:42:41
釈迦の場合は
いままで「無常無我」という概念が無かった世界環境に於いて(=そういう概念が流布されていなかったので)、
世界初の発見をしたからこそハッと知った(感動した)でいいですね。
ノーベル賞を差し上げてもいいでしょう。

1+1=2が分からなかった児童が、自力でハッと解った(体得した)みたいな時は大変な感動があるでしょう。

でも学校で1+1=2と予め習ってしまえば、
誰も後で自分の「身体と生身」で1+1=2を再発見し直さなくても、それを前提に
直ちに次の段階に進んだらいいのだという意味ですね。
だからイエス君の説明方式を却下します。

なお「不生不滅」についてもイエス君流に従って行く事を却下します。
「非超越」論理と合わないからです。
また「身心一如」思想とも会いません。

「意識」の無い素粒子群が太陽のエネルギーを受けて集合して、意識の有る「生」が合成されたのは、
「生」が生まれたという事であり、

生命エネルギーが尽きて「死」に至ったという事は、
死(=【意識】の滅)が有るという事であり、

どう考えても意識を持つ生命体は「不生不滅」定義に該当しないからです。
返信する
年功序列 (御坊哲)
2019-12-13 11:15:12
年功序列のいいところは順位が逆転しないところでしょうね。組織や社会を安定させるためには、たぶん順位が必要なのだと思います。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-13 09:31:03
『「無常・無我」自体を「体感した」とて、涅槃寂静に「なれる」筈がな…』

数学で難しい問題を考え続けていて、
或る時、突然「分かった」となることが多い。そして論理的に辿ってみるとそこに筋道があるのです。

ソフトウエアの開発でいろいろ考えていて、
或る時、独身寮の「二段ベット」の階段を登りかけて、
突然その解決法が「解った」経験もあります。
(会社の独身寮は、二人部屋だった)

「解った」という直感と、後から「筋道を付け乍ら」解法まで辿り着いて、確認する訳です。

釈尊に解ったという「直感」が起こったのです。

「諸行無常」だから「諸法無我」。

これを菩提樹に下で、何度も、「外の全ての事」に適用して、確認していったのです。
これは、「何日も」かかった。
それによって「正しいと後から論理的に再確認」する訳です。

しかし、
ここで「諸法無我」を発見した「瞬間に、同時に」、
そのままが「涅槃寂静」の状態なのです。
そこでは「死苦」が消えているのです。

これが「本当に解った」ということです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 08:01:45
12-11, 22-09-18コメでの訂正
X・・・自己不二などあり得ない。
〇・・・自他不二などあり得ない。

こんな誤記もあり得ない!!
返信する
釈迦の悟りは総合的なモノ (Unknown)
2019-12-13 07:27:55
イエス君の過っての言葉によると
28歳辺りの釈迦は鬱病になって出家してしまったけど、

さすが釈迦は天才だから、
身体・生身で無常無我を知って、涅槃寂静状態になった・・・がイエス君流な訳で在る。

が、天才釈迦は
縁起因果応報の仕組みや、12支縁起の無明のカラクリや、七覚支など37道品の原型が既に見えていた筈になるから、

『無常無我』が涅槃寂静の唯一直接の原因だとはいいがたい(と思います)。

なぜなら「苦集滅道」の「道」(=八正道)の部が欠損していたら、幾ら「無常無我」自体を体感したとて、涅槃寂静になれる筈がないじゃァ、ありませんか?
返信する
高潔人物の養成法 (Unknown)
2019-12-13 06:40:17
だいたいが処、イエス君の思考方式に100歩譲って、
身体・生身で無常・無我を念じたら(観じたら)「苦の滅失」という涅槃寂静が得られたとしても、
それ自体は単なる個人的妄想(=深い思い込み)かも知れず、

好意的な人(他者)からは「よかったね!!」って褒め言葉を貰えるかもだけど、
「単なる変性意識に過ぎぬ派」の南流では到底同意できない思考法だと思われますね。

更には、苦の滅失法(涅槃寂静達成法)は『八正道全般』(=37菩提分法)を実践する事と
釈迦は言っているのであって「無常無我」を念仏みたい唱える事を言ってる訳では無いのだから、
なんかイエス君の言う事には矛盾を感じるわけでありますね。

「八正道の全般」を実践する事が修行の要諦ならば、それにより個人が「正しい人(善人)」になれるのは明白で、
他者からもその真実性(信憑性)が容易に認められる事でありましょう。
返信する
深く思い込んでしまう人 (Unknown)
2019-12-13 04:21:45
イエス君流論理では
確信の問題だとなる。

確信こそが果を産むのだと言いたいらしい。

しかし「確信」とは「思い込みすぎ」の代名詞にすぎない。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 04:13:38
知る=考える=身心一如
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 04:09:42
S長老とイエス君は似ている。
曰く・・・
悟った天才人の無常無我と
無明凡人の無常無我は
全く別なモノである。

頭で考えた無常無我と
身体・生身で知った無常無我は
「いいえ違います!!」
返信する
GPS音痴 (Unknown)
2019-12-13 03:35:04
愚かですね、
どこかずれているのでは無いでしょうか?

自分の身体・生身で相対性理論を修証一等させる必要は無いのです。
それを受け容れてGPSに適用すれば自分のいる場所が正確に解るのです。
返信する
自灯明法灯明は天才にふさわしい (Unknown)
2019-12-13 03:16:43
独行独歩
犀の角
無師迷悟。

永平寺で正師を取るのを断り
みずからを正師としますと言った人はどうなりますか。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 03:09:56
老いの円熟がバーチャル
老醜がリアル

愚かですね、早く消えてなくなりたいですね。。。。。
返信する
KとCはよく似てる (Unknown)
2019-12-13 02:57:17
20万人はバーチャルの世界。
勿論30万人もバーチャルの世界。
政治的忖度(そんたく)!!
返信する
話の真偽性 (Unknown)
2019-12-13 02:52:14
バーチャルかリアルかの見分け方。

戦争体験をした山本七平書店の山本七平氏曰く、

天皇勅語(軍紀)をウットリと聞く兵隊たちはバーチャル兵隊。

集められた広場の地面が漏尿で濡れてしまうのがリアル兵隊。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-13 02:39:44
『「釈迦みたいに」「無師・単独で」修行に専念した方がマシだとか言ってる出家尼僧もいたような・・・』

愚かですね。
「諸行無常」「諸法無我」の発見は、
人類史上「釈尊」が「釈尊」だけが、発見できたのです。
それは「釈尊が「天才だから」できた」のです。
それを、普通の人が「無師・単独で」修行で、達成できる訳がない。

「無師・単独で」修行で「造り上げた」のが、「日本達磨宗」です。
(外から、その「正統性」にクレームがついたので、自分の悟りの境地を「漢詩」にして弟子に中国に持って行ってもらい、「中国の臨済宗の看話禅の禅師」にその「漢詩」を見て貰い、「臨済宗の印可状を手に入れた」のです。当然、多額のお礼はする。
これは「車の運転免許証を金で買った」のと同じ行為です。)


そして「三祖」が「その中国臨済宗の印可状」を大切に「継承し」ました。
だから「道元和尚の印可状」と「日本達磨宗の印可状」の「二つを」「同時に」継承するように「なってしまった」のです。

『「釈迦みたいに」「無師・単独で」修行に専念した方がマシだと』

これは「日本達磨宗に戻りたい」と言っているのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 02:19:37
そういえばヒンズー教のマハトマ ガンジーなんかはいつも自分専用の携帯便器を持ち歩いていたとか・・・
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 02:10:14
修行道場って言っても年功序列が泥沼化しているからちょっとねェ~。。。。
ほんとに悟りたかったら、釈迦みたいに無師単独で修行に専念した方がマシだとか言ってる出家尼僧もいたような・・・
返信する
実態はどうですか?? (Unknown)
2019-12-13 01:49:56
僧侶内人事も世俗並みにドロドロしたりして??
返信する
適材適所 (Unknown)
2019-12-13 01:45:54
しかし永平寺でも
序列的役柄は能力主義点数制なのでは??
それとも上役のお気に入り制?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-13 01:41:29
時間差攻撃のコメでしたね。
永平寺では最も古い先輩順で貫主が決まるのですか??
返信する
永平寺はどうですか?? (Unknown)
2019-12-13 01:37:36
能力主義・・・道元禅師?、悟り認可状?
年功序列・・・儒教哲学?
世襲制・・・日本寺の一般風景?


そいえばさる禅寺では、水差しを蹴っ飛ばした新参出家僧が跡を継いだとか
返信する
Unknown (いったんもめん)
2019-12-13 01:27:12
たしか、名古屋の公演でそんな事をおっしゃっていましたね。年功序列は、高度経済成長期では、良かった。また、永平寺では少しでも早く入門した人が先輩だったと。
思い出しました。私も、そんな組織もいいな!と思って聞いていました。
このコメント欄を読んで下さるのは嬉しいですが、
いつお休みになるのでしょう?南さんもお若くはないのですから、早くお休み下さい。
返信する
年功序列とは便所掃除の事である!! (Unknown)
2019-12-12 23:56:20
ネルケさんなんかが言ってたよね。
安泰寺での修行僧時代、自分より後輩がいないから、何年も自分が便所掃除をしてたけど、
数年後にやっと後輩修行者が這入って来たので、キャツに便所掃除を押し付けられる・・・的な事を。

そこへいくと釈迦サンガでは野愚祖だったから、便所掃除の清規は不要だったのかも???
(うろ覚えだから違うかもしれません…)
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 23:19:02
年功序列って何?

だから?

それで苦がなくなるとでも?


返信する
年功序列ねぇ (Unknown)
2019-12-12 23:07:42
私も属したことありますが、自己中の多いこと多いこと。自分の懐を増やす「安定」にしか思えませんでしたがねぇ。

面は真面目っぽいが、蓋開けるとロクな連中いないというかねぇ。


返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 22:54:25
そうですよね。

内部で、下らない競争をしていても、疲れるだけですしね。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 22:47:21
パンの食べ方を教えること。

それが教育や。

そやろ?

返信する
捕捉 (院代)
2019-12-12 22:46:11
「年功序列」についてコメントがありましたので、かつて講演で述べたことを捕捉しておきます。
全体のパイ(分け前)が年々増大していくような集団(たとえば、消費需要が自然拡大していた高度成長期のカイシャ)や、競争が無意味な組織(たとえば、誰が先に悟ったかなどという問いが全くナンセンスな修行道場)などは、年功序列が一番組織を安定させる人事方法だと思います。
返信する
現場至上主義も危険 (Unknown)
2019-12-12 22:45:12
所詮、人間ですからね。
ロクでないことも、しかねない訳です。

第三者は必要かと。


では、第三者とは?

そこに、宗教者の出番がある訳です。


返信する
そやそや!! (Unknown)
2019-12-12 22:16:17
人はパンだけでは生きられないが…
パンも無ければ生きられない。

「出家に必要なモノ。
それは勇気と想像力と…少しのお金だ
(by チャプリンちゃん)
返信する
釈迦が死を間際にして定めた弟子内での序列の意味(律)。 (Unknown)
2019-12-12 22:07:09
>いいえ違います~~
>ただ釈尊のサンガでは(=サンガ内の【序列】では出家した日にちでの)機械的な時間の順序だった・・・
ーーーーーーー

(解説)
釈迦が生きて居た時は序列など全く無い出家集団(サンガ)だった。
しかし、釈迦自身が無余涅槃を悟った時に、
サンガに属する出家達が今後どうやったら一生をそのサンガの中で生き続けて寿命を終えていけるかを保証する方法論(律)を考えたのが「時間の順序」による序列だった。

つまり出家したサンガのメンバー全てが安心して「悟りの修行」一筋に打ち込める為の方策としての、
相互扶助の為の仮託の序列であるわけだ。

有能で弁舌さわやかな後輩の出家僧が、
無能なボンクラ出家僧をサンガから追い出して路頭に迷わせない為に講じた窮余の一策である救命装置だったわけだ。

この律で、
悟りの遅い出家僧もサンガ内に留まって安心して修行に励める・・・
これが臨終間際の釈迦がサンガ内で律として定めた兄弟子・弟弟子関係の助け合いのシステムなのである。

まあ、今でいう、社会保障制度であったわけだ。
現代の意味での会社内での年功序列とは意味が全然違う、権力の力関係の存在しない序列システムなのである。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 15:41:14
>教育?
飢えなくてすむように教えること。それが教育や。違うか。違う思うんなら、ナニか言うてみてや


人はパンだけでは生きられない。

そやろ?

返信する
ノーベル賞は、成果の出ない研究を認めるから (イエスちゃん)
2019-12-12 15:39:09
『南師も、会社組織では「年功序列」が、一番うまくいくよう』

「成果主義」評価では、ノーベル賞は出ません。

「年功序列」は「長年、成果がでない人」も認めるシステムです。

成果の出ない人も「努力をしている人」なのです。

仏教は、成果ではなく、プロセスを重視します。
そこに意味があるからです。

法華経の「永久に菩薩の修行を続ける」と
道元和尚の「見性成仏」を批判するのと、
同じことだと思います
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 14:29:40
南師も、会社組織では年功序列が、一番うまくいくように言われていましたね。

返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-12 13:49:31
『なぜなら「序列化」が起こらないシステム構成だからです。』

人間集団ならば、「どこか」で「序列」は必要になる。

ただ、釈尊のサンガでは、
機械的に「出家」の「時間の順序」だった。
返信する
水は、零度で、相がガラッと変わる (イエスちゃん)
2019-12-12 06:06:41
水は、零度で、相がガラッと変わる!
水は、百度で、相がガラッと変わる!

「若い女と老婆」という絵がある。
同じ絵、一つの絵なのだが、
「若い女」か「老婆」か、どちらか「一方に」だけ見える。
同時に、両方には見えない。

それが「正見」である。
佐々木閑さんが間違っているのです。
「正師」でないのです。

「諸法無我」と「観えた」のです。
そして、それからは、それ以降は、
「諸法無我」以外には、「観る」事ができなくなった。

「不生不滅」と実際に「観える」のです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 04:39:11
在家信者のままでも涅槃寂静が得られるのかどうかはわからない。
八正道は出家修行者にしか出来ないモノなのかどうかわからない。

イエス君当たりの見解は如何??
お聞かせください。
返信する
んー? (Unknown)
2019-12-12 04:22:48
>世間の度の過ぎたスポーツ礼讃があると思うのです。


今回ばかりは、度や礼賛以前に、呼び込まれた感がありますよね。

世間は、震災で疲弊していましたから、その隙を狙われたというか。

あの状況下で、オリンピックを呼び込む程の馬鹿げた気持ちは、なかったように思います。

一般市民の殆どは、これほど盛り上がらないオリンピックもない、と呆れているのが本音ではないでしょうか。

それもまた、東京というゴチャゴチャした場所と、熱中症が多発する真夏下という選択は、無謀すぎるでしょう。

それでも、そこまで本気でスポーツ礼賛しているとするなら、もはや病気です。


見えない世間に、見えないウイルスを撒き散らす病原菌を、国民は肌で感じているのではないでしょうか。

返信する
補足 (Unknown)
2019-12-12 03:58:14
出家僧侶(出家修行者)の出家する目的(修行の目的・目標)はタダタダ、涅槃寂静に入る事であった。
出家修行者が八正道を行い現法涅槃にはいるのだ・・・これが出家修行者の生き甲斐なのである。
(涅槃に達した僧侶こそ師匠・正師と名乗るにふさわしい。)
返信する
信じる者こそ救われる (Unknown)
2019-12-12 03:48:58
佐々木閑さん解説からすると、
釈迦仏教には常住の普遍なる『絶対的真理』というものがあるらしい。
釈迦仏教でいう「八正道」がそうである。
八正道をおこなえば必ず悟りに達し涅槃寂静を得て、苦の滅失がなされるということになる。当然、この世での出来事での定義である。

で、此処で言う「正」とはいかなる定義かと言えば、
『自分の煩悩が消えて、苦しみが無くなる方向に向かうその方向性を【正】と言うのである』ということだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 03:38:48
例えば南さまが、健康優良児で学生好き好き人間だったとしても、やはり仏教に来たのではないですかね。

釈尊は、健康でスポーツマンで優等生でも苦しみ、嫌悪しまくっていたのでしょうから。


返信する
理想のシステム (Unknown)
2019-12-12 01:33:34
仏法僧。
釈迦のシステム(=サンガ、僧)の制度のみは排除を前提としないのである。
なぜなら序列化が起こらないシステム構成だからです。

参考:100分de名著『ブッダ最後のことば(涅槃経)』
youtube.com/watch?v=Lbw-AnzrjdY
佐々木閑さん解説
返信する
仏教のヒューマニズム (Unknown)
2019-12-12 01:20:51
>仏教に癒しを求めているならお門違いですね(12-11,21:21:59)

佐々木閑さんの「仏教とは」の定義によれば、

仏教は「心の病院」ナリ!!
生きる事に苦を感じている人が、其処に入院して癒される場所である。

学校が嫌い(=学校へ行く事に苦を感じる)で、虚弱児童なら、何が何でも仏教病院に入院すべしナリ。
入院すれば癒される!!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-12 00:23:46
スポーツにせよ教育にせよ、システムが機能するということは、システムの内側で差異を差異として区別し、それを秩序化することで成り立つわけです。
平等なルールや均質な教育の下で生じる差異を区別し序列化する為の正当性が道徳やスポーツマンシップであり、それこそ排除を前提とした理論に過ぎないわけです。
排除が前提であるからには排除される犠牲者が常に必要とされるわけです。
システムの原理はほぼどれもが同じであり、似たようなものにならざるを得ないわけです。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 22:39:10
虚弱故に学校に行けなかった。
プラス親の転勤につられての数々の転校もあったのかも??
一定の他児童との交わりが希薄だった。

よって他児童とは異なる己の正義で生きていた。
正義は偏見となって現れる。
全ては因果応報である。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 22:32:17
南さんは、虚弱だろうが健康だろうが、学校嫌いには変わりなかったのだろうから、虚弱だったことをイチイチ持ち出さずとも、只の学校嫌いでよいのである。

虚弱だったことを、ややウリにし過ぎ。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 22:09:18
学校嫌いで虚弱児童君A男はA風偏見を因果応報する。
学校好きで健康児童さんB子はB式偏見を因果応報する。

自己不二などあり得ない。
実存Aと実存Bは別々な縁起と業を背負うから、自己不二で無い事は明らかだ。

自己不二は自未得度先度他を正当化するための限定的言い回しに過ぎない。

道元「他はこれ我にあらず」(坐禅儀)
返信する
病院も似たような状況 (Unknown)
2019-12-11 21:38:28

医療現場は、政治家と役人が「改革」名目で介入すればするほど、おかしくなっていきます。なぜなら、目の前に患者がいないところで「医療」を論じるのですから、宿命的に「机上の空論」以外になりようがないのです。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 21:27:52
学生に求め過ぎ!
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 21:26:05
釈迦や道元さんが居なくなって、困っちゃいますよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 21:21:59
仏教に癒しを求めているのならお門違いですね
癒されたいならママに甘えて膝枕でもしてもらったらいいですよ
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 21:19:00
みなさん、他人のことになると、とても饒舌ですね
自分のことは棚に上げて
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 21:14:57
私が現役の学生なら、不登校間違いなし。

返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 19:28:46
>正直お坊さんが居なくても、明日から困るということはない、ということになっていないだろうか?

もちろん困りませんけど、日本のお坊さんって、一部アスリートがごとく不自然な程に礼賛されてましたっけ?
少なくとも、例えばただの「ボール遊び」の達人が、資本主義、商業主義と結び付くことで、どう考えても分不相応な社会的経済的待遇を受けているということについて感じるような矛盾を、私は世の(一般的、良心的な)お坊さんがたには感じていません。
(これは別に、日本仏教に矛盾がないと言っているわけではありませんよ。)
返信する
仏道修行は? ()
2019-12-11 13:44:26

良かれと思ってすることと、誰も文句は言えないだろうと思ってすることなのだろうか?、なっているだろうか?、ならないといけないことだろうか?



>正直、アスリートが居なくても別に明日から困るということはないですけど、自衛官や介護士さんが居なくなったら明日からすぐに困りますし。


正直お坊さんが居なくても、明日から困るということはない、ということになっていないだろうか?


問う。


返信する
岩手では、先生は素晴らしかった (イエスちゃん)
2019-12-11 12:31:43

中学1年の時、「若い」「新人?」女性の先生だったが、中に、不良っぽい生徒がいて、突っ張って授業で従わなくて反抗していたが、

教室の黒板の前に呼び出して、注意していたが、思わず平手でぴしゃりと叩いた。

すると叩いた女性の先生の顔がみるみると真っ赤になっていった。
先生自体が固まってしまったのです。

勿論、教室は、ピーンとなり、静まった。

先生は真剣だったのである。
当該生徒は、それ以後、変わった。

素晴らしい、先生の思い出だけである。
高校でも。

なお、その時の中学校の「私の学年だけ」で、「14学級」もあり「700名」だった。体育館までもベニヤ板で仕切って、教室に変質していた。
返信する
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』 (イエスちゃん)
2019-12-11 12:13:00
ロジェ・カイヨワ(Roger Caillois、1913年3月3日 - 1978年12月21日)

著書としてはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて執筆した
『遊びと人間』が有名で、カイヨワはその中で「遊び」を
〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉、
〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉、
〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉、
〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉
の4種類に分類して考察している。
返信する
あまのじゃく (賢坊)
2019-12-11 11:52:10
小学生高学年の頃から、大人を信用していなかったし、世の中の大勢の価値観に疑問や矛盾を感じていた。そもそも、他人から、ああせい、こうせいと言われるのが大嫌いだった。学校は友人達と遊んだり、いたずらしたりと楽しかったが、先生は嫌いだった。様々な先生がいたが、皆、俗物的で、いわゆる物語に出てくるような尊敬できる先生には出会わなかった。そこで、知ったのは、「先生、生徒の成れの果て」「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」「親はなくとも、子は育つ」とかいうものですね。学校や先生に期待するのはいわゆる基本的な知識の伝授のみ。
南さんが、学校のあり方やマスコミのスポーツの取り上げ方に忸怩たる思いがあるのも解るような気もします。学校やマスコミに大きな期待はしない方がよいと思っています。
戦争に負けただけで、学校やマスコミは国民を置き去りにして、短期間で価値観を大転換させたでしょ。私なんかはそんな経験がないけど、両親は置き去りにされ、最後まで付いていけなかったですよ。
学校もマスコミも、過去50年を振り返ってみると、ゆっくりではありますが、結構変化してきてますよね。まさに、常ならずです。どのような価値観をもって、どのような生き方をして、後悔のより少ない人生を送っていくのかは、それらに流されずに、まさに自分で考えて判断していかないといけないのだろうなあと思っています。学校やマスコミは自分では変えられないわけだから、自分はどう受け止めて、それらとどの程度の距離を保っていくかを冷静に見つめていきたいものですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 10:30:54
教育?
飢えなくてすむように教えること。それが教育や。違うか。違う思うんなら、ナニか言うてみてや
返信する
日本の神さまは、「スポーツを見て」楽しんだ (イエスちゃん)
2019-12-11 08:37:03
日本の神さまは、「スポーツを見て」楽しんだ!
日本の神さまは、「音楽を聴いて」楽しんだ!

「相撲」は「神事」だった。
だから、力士は、「しめ縄」を腰に巻く。
だから、力士は、「塩」を撒く。
だから、女性は、「土俵に」上がれない。
「御神楽」も「神事」である。

そもそも「オリンピック」も、
オリンポス山の神々に捧げる神事だった。

西洋の或る哲学者は、
人間とは「遊ぶ人」だ、
と定義した。

「スポーツ」は遊びである。


勿論『源氏物語』も遊びである。

バッハは、「神に捧げる」音楽を創造した。
(決して、人間を楽しませるものではなかった)

しかし『マタイ受難曲』は素晴らしい。
何度でも聞きたくなる。
生で2回聞いた。
ドイツ文学の小塩節先生が説明した時は、目が覚めた。

「今からの演奏は「神に捧げている」のです。
貴方方の音楽鑑賞のためではありません。」
といって、なんと10分間近くも、
『新約聖書』の「マタイの福音書」の内容の説明を行ったのだ。
これこそバッハの目的に沿ったものだった。

この時の生演奏は、それまでと「違って」聞こえてきた。
返信する
オリンピックは、大切だ、重要だ、… (イエスちゃん)
2019-12-11 07:40:49


要は「根無し草」になってはならない。
国を大切にして、絆を深めよう。
象徴天皇制も、非常に長い歴史を共有している証しを示している。
だから、非常に大切だ、重要だ。

『学校嫌いで虚弱児童だった者の偏見』の限界である。

自分の国に誇りを持つと、相手の国を尊敬するようになる。

返信する
言葉は無明なだけで無い。 (Unknown)
2019-12-11 06:17:00
誰かが悟りを開いたからとて自分には何の関係も無く、他自不二だなんて全くの寝言だが、
悟った人の言う言葉が自分の人生に役に立つなら、その言葉こそ有明である。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 05:13:10
スポーツは人間本来の争闘意識の消化であろう。肉体的疲労と精神的達成感が付いてくるから精神安定化につながるという側面もある。

虚弱児童には虚弱児童なりの生きようがあり文化・思考方面での活躍が行なわれるが、

体力的エネルギーが溢れている児童にはそれを発散させてやらないと、反社会的な暴発を起こすものである。
スポーツは非社会性行動の防止のための緩衝剤の価値がある。
返信する
試案(思案) (Unknown)
2019-12-11 04:57:48
今回は仏教が番外編になってるけど、
ここの本質は仏教論であるわけだから
まあ削除にはならないと想定してコメして見る。俺が頭を冷やして考えた結果でR。

南直哉師の(坐禅・瞑想という生身の身体操作で得るものは)【変性意識!!】(それ以上でも無く、それ以下でも無い)という論理の整合性を推し進めて見る。

釈迦は瞑想によって35歳の時に「涅槃寂静(=現法涅槃)」というバーチャルを体感した。当然自分では「リアル」を知った(悟った)と思った訳だ。
すると今まで感情のバーチャル作用だった「死苦・四苦八苦」をバーチャルに過ぎなかったのだと気が付いて、
それを捨て去る事が出来、「苦の滅失」がリアルとなった。
左様な脳内思考上の変換で「涅槃寂静!!」がリアルに達せられたわけだ。

ただし、『涅槃』と言う言葉の原義は「宿命的な来世での輪廻の苦サイクルから抜け出す永久的寂静」という意味であったというから、
釈迦は自らの身体操作による「変性意識」でそれを解脱体得した故に
涅槃境地になって「苦の滅失」を完了したとみる事も出来る。
彼が当時言い交されていた『あの世での輪廻(バーチャル)からの解脱』を前提にしていたかどうかは定かでないが、
それも全て含めてリアルな「苦の滅失」感が釈迦に一挙に起こったとみる事が出来る。
これは釈迦という個人に於いてそうなった、という限定的な出来事である。

さて現代の修行という只管打座・瞑想で同じ事が起こるか??
これはまったく別の話であろう。
ただし釈迦のコピーをしなければならないという事でもないだろう。

煩悩・執着の解除(乃至、減ずる)(=少欲知足を知る事)を自分の志とし、
八正道を日々行えば、より良い人間として生きれるし、それが心の平安を得る道である・・・

という教訓は現在でも活きているし、
現在にこそ必要なのだ。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 02:55:15
そりゃそうだ、違いない!…とゲラゲラ笑いながら読ませて頂きました。
日本に限らず、スポーツエンタメがコマーシャリズムと結びついて、メディアを始め、社会が不気味なほどアスリートを礼賛してますよね。
私はイチローさんを尊敬してますけど、国の平和、街の治安を守る現場の自衛官や警察官、老人の下の世話までする介護士さん、小さい命を預かる保育士さん…こういう名も無い人たちを、もっと尊敬しています。
正直、アスリートが居なくても別に明日から困るということはないですけど、自衛官や介護士さんが居なくなったら明日からすぐに困りますし。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 01:46:42
別にスポーツが盛り上がるのは全然いい。しかし、バランスだよなー。南さんの言いたいのは結局そこだと思う。エンターテイメントもスポーツも最新技術も常に進化して世代交代していくから実に面白い。そこには人の努力と試行錯誤が満載。でももっと大事なことがあるよ、メディアはバランスが悪い。スポーツ番組はどんどんやればいい。でもそれ以上に大事なものもちゃんと提供しないと。南さんのブログはそう言う意味で非常に非常に稀な貴重な内容だ。全く違うと言われるかもしれないけど、自分が物凄く影響受けたのは橋下徹さんと南さん。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 01:14:47
なるほど。
アウトプットの問題なんだなきっと。
養老孟子は「アウトプットは筋肉だ」って言ってた気がする。
それぞれの「われわれ」の筋肉は何か。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 01:12:38
あ。
「僕は大衆としてマスメディアを利用しているわけではない」みたいな?

マスメディアなだけに動かせるのは大衆だ、みたいな話だったような…?
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-11 01:03:44
たぶん。
南さん的には「テレビや新聞でこんなにもスポーツの情報が優遇されているのはどーだこーだ」っていうマスメディアに対する期待・信頼(してるからこその「スポーツばっかでどういうつもり?!」感なんでしょ?)の方が「マスメディアが大衆を動かしていた時代は終わって」よりもリアルなんだろうなと思うんだ。

で、そういう自分のリアルを棚に上げて(?)何か考察して(前回の記事とかみたいな)、話のための話って他に何かいいことがあるんだろうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 22:28:04
スポーツが生き甲斐で生きて居る人は
どうしますか??
ダメですか??
人間的にペケですか??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 22:24:54
君が居るから俺も生きる勇気が出るぜ…って言う相思相愛型の勇気なら
およそ無くてもダイジョブですか?

無くてはならない勇気って言うのもありますか?
たとえば、縦の孤独に耐える勇気?? 
返信する
その程度の幽鬼(勇気)ってどの程度?? (Unknown)
2019-12-10 22:18:43
南さんの言葉が生きる勇気をあたえたり、
読む人が生きる勇気をもらったりの、
幽鬼の遣り取りとどう違う??
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 21:47:23
「見ている方に勇気と感動を」って言っててもいいけど、要はパフォーマンスがどうなんだって話なだけだな。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 21:44:09
そーだねー、オリンピックっていかがわしいよね―。

でも。
机上の空論で実存をうんぬんしてるよりかは、採点基準に大いに疑問を感じる採点競技とかであったとしても、そっちのほうが刺さっちゃったりは、するんだよなあ。
陸上競技とか水泳とか、強い人の動きはほんとにすごい。例え薬漬けで作られた体であっても。
八村塁ガンバレー。ちがうか。
ああそうだ。バスケとかサッカーとかラグビーとかテニスとか、そういう、オリンピックより格上の大会のある競技はもうオリンピックから抜いてください。アマチュアを建前にしなくちゃだからってセコイ設定変更重ねてもガチのプロ集団に勝てないものは勝てないんだから。

テレビのニュース番組でスポーツニュースがどうだこうだなんてあなた、日本のニュース番組全体がスポーツニュース&芸能ニュースのお茶の間設定(何時代なんだ?昭和か?)みたいなもんじゃないですか。
前回のブログじゃあ「マスメディアが大衆を動かしていた時代は過ぎ」みたいなこと言ってたみたいですけど、また時代は戻っちゃったんですかね?
スポーツ信仰がなんだかんだ言うなら、わたしなら、オリンピックより国体だな。いる?あれ?
返信する
同感 (御坊哲)
2019-12-10 21:22:07
>スポーツでは「勇気」を与えたりもらったりできるらしいですが、その程度のやり取り可能な「勇気」は、およそ無くても大丈夫です

同感です。スポーツ選手自ら「見る人に勇気を‥‥」などという御託を言う必要はない。とことん自分のために頑張ればよい。それを見る人が勝手に勇気をもらうでしょう。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 21:04:00
唯一無二の絶対的真理は何かと言えば、
人の肉体は「生まれて来て死んで行く」という事実である。

「身心一如」は仏教的事実の範疇であるので肉体が滅びれば、心も滅びると「信じる」わけだ。

ちなみに「不生不滅」は脳の虚構する哲学的概念の範疇であるに過ぎないだろう。
不滅の素粒子が生命エネルギーを得て凝縮した時、人間が生まれ、やがて生命エネルギーが尽きて崩壊していくサマを「不生不滅」となずけるのは「身心一如」という原理とからは論理の飛躍があり過ぎる思考法であろう(と思う)。
返信する
That is the problem!!(ハムレット) (Unknown)
2019-12-10 20:41:00
哲学の英語はPhilosophyであり、
語源はギリシャ語の「智慧(sophia,sofia)を愛する(Philo)」」の合成語である。
哲学者とは智慧を愛する人の事で、
要するに「考える」ことの好きな人の事をさす。
(ちなみに「知る」も「信じる」もその『考える』という知的活動の事で脳科学的には差はないだろう)。

で、哲学の祖がソクラテスであったとして哲学は多くの哲学者を産み続け、時代・土地柄で様々に諸行無常して来た。唯一絶対的で比類ない普遍的真理などあり得いからだ。
「考える」とは要するにそう言う事になる訳だ。

釈迦が身体・生身を使って「悟った」のは釈迦は智慧を愛する人であったが故に、瞑想を通して考えついた一つの結論であったという事であろう。

という事は、それ自体では
南さんのお気に入りの常套句である「時と場合と自分が置かれた状況下での限定的な正当化」の範疇に収まらざるを得ない。これを称して南さん流用語の【変性意識】の「物語り化」と呼んでいいだろう。

で釈迦の発見した智慧の中で、
現在にも通じる思想(考え方)とは何なのかを解き明かし世に知ろ示すのが現代に生きる仏教僧侶の責務で在ろう・・・たぶん??

返信する
補足 (Unknown)
2019-12-10 14:50:24
4.仏教の本質とは何なのか?
返信する
誰かの見解をお聞きしたいです。 (Unknown)
2019-12-10 14:43:06
釈迦仏教に戻ると言っても
釈迦の生きざまをモデルとしてそのままコピーする事は現在では不可能だし、
全ての事は時と場合と場所と環境によって変化するとすれば、
仏教論理自体も変化してもしょうがないという事になる訳であるが・・・

仏教論理を整理しておくために頭を冷やして考えておきたいことは
1.釈迦仏教において常住である普遍の真理とされなければいけない事があるのか? 
あったとしたらそれは何で、何故故、普遍の真理なのか?

2.その釈迦仏教が「正しい」という根拠は何なのか?

3.その仏教の目指すスローガンが達成されるためには釈迦仏教方式しか無いのか?

御存じの方は、どなたか答えて下さい。
返信する
記事の根拠。 (Unknown)
2019-12-10 10:36:02
昔の釈迦時代では武力行使が社会を変える時代だから、釈迦は社会(制度)を変える事を目標とせず、
もっぱら自己(個人の心)のみを変える事に精力を集中した。

しかし民主主義の現代では其れではいけないのだ。出家とてもドンドン社会に出て大きな声を出さなければ、自未得度先度他がなされないのだ・・・
なぜなら自他不二だからだと???
返信する
そもそも大勢の「先生だった」方々でさえ動かない。ましてや保護者・市民も (イエスちゃん)
2019-12-10 09:08:52
横浜市が職場だったので現在「隣の市」に住んでいる。人口40万人を超えている規模の市である。(なお中国の昆明市と姉妹都市である。昆明市の人口は10倍の400万人以上である。)

現在「ウヨクの歴史教科書」を採択し使用している。
有名な「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書である。
ここでは、
「東京裁判を否定する」ために「1ページの特別枠」をもうけて、
インドのパル判事に「東条英機は無罪だ」と言わせ、連合軍の裁判が不当であった内容を「詳しく」教えている。
(なお、東条英機はA級戦犯の罪で死刑になったのではない。タイメン鉄道に、英国兵とオランダ兵の捕虜を投入して、7万人以上殺した罪、B級戦犯で死刑にされた。)

東条英機が「無罪」はありえない!。

この様な「偏った内容」では、世界と歴史を共有する・国際人を育てるのにふさわしくない。

これは、松下政経塾の市長が「市教育委員会」を乗っ取り、教育委員会の委員をウヨクの歴史思想の人物に入れ変えて、「つくる会の歴史教科書」に変えてしまった。(東京都の杉並区の区長も松下政経塾で、この手法で「つくる会の歴史教科書」に変えてしまったのを、そっくりまねたのである)

それを「ノーマルな歴史教科書」に戻そうと、現在、8年近く、鋭意運動を進めている。

しかし、
教育現場の責任者「先生だった方々」が、少しも動かない。(「現役」の先生方は、政治的中立という立場から運動ができない。これは仕方がないが。)

この「定年退職した先生方」は、実際は大勢いる。「戦後のベビーブームだった世代」であり、60年安保・70年安保で学生時代だった「定年退職した」先生方が、
「ウヨクの歴史教科書」が採択されているのに、「少しも」動かない。

ましてや「市民」も、つまり、子供たちの保護者も、一向に関心がない。

これが現状である。
そこでは、「…すべき論」には「違う」と言いたい。

『思うに、学校教育は、
まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、
何をどうするかについて極力任せて、
裁量の自由を与え、彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を「決めるべき」です。』
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 07:12:42
学校嫌いで虚弱児童のカルマ(Karman)が偏見を産んだ??

Karman thus happens.
[Weak body child around,
Go to no school around.]

そしてカルマは
1人の仏教僧侶を産み出した。


返信する
豆知識 (Unknown)
2019-12-10 06:13:08
因果応報(カーマ)の英訳が
「Go around, Come around」であるのだそうだ。
プラグマチックで面白い。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 05:49:06
反対意見を言う人間を「いや違います、いや違います、いや違います、~~」と一方的に叫び続けて、断罪して、
他者が言う事を、頭を冷やしてもう一度考えようとしない、いわゆるその道の達人と自負する時は、
そのすべてが思慮が浅く、自分を神だと勘違いしているのです。
返信する
いいえ違います (イエスちゃん)
2019-12-10 05:27:58
『思うに、学校教育は、
まずは教師と児童・生徒・学生と保護者に、
何をどうするかについて極力任せて、裁量の自由を与え、
彼らは当事者として考え、自分たちのやり方を決めるべきです。』

かつて、イギリスは「それで」失敗していたのです。

教師の質のレベルがまちまちで、保護者のレベルがまちまちで、結果として、全体の水準が劣化した。
教科書もなしでの授業もざらだった。
手作りで良質の教科書など普通はできない。

イギリスはれっきとした階級社会であり、エリート層は、私立で…オックスフォード大学を目指す様なもので


労働者の階層は労働者で甘んじる「社会の壁」を作っていたのです。

「公立学校の質の劣化・不均一」の為、イギリスは、国家が介入して、「自由に任せる」を廃止した。

そもそも「普通の20代の両親」が、教育がどうあるべきかを、喧々諤々と議論する訳がない。
経験も、知見もない。
そんな暇はない。
父兄参観の関心度でもそれが解かる。

自分の子供の道徳教育ですらできない。

三男が小学校の時に、PTAの副会長(つまり会長見習い期間)1年、翌年には会長1年、この2年間の経験で、いろいろと実際を知りました。
返信する
「父兄参観」これはだめ (イエスちゃん)
2019-12-10 05:17:20
「父兄・参観」これはだめ。男権社会。
「保護者・授業参観」です。

休出や長時間労働でこどもの面倒をよく見ていなかったので、
授業参観にだけは、年休や早退をとり、出来るだけ行っていた。
父親はほとんどいない。母親が大部分。
これが現実です。

このため、教育に熱心な人物と「誤解」され、騙されてPTAに…
返信する
人、それぞれ (Unknown)
2019-12-10 05:02:49
一切皆苦のこの世に在って

不屈の精神を持って闘い続ける人生と、
死を受容して涅槃寂静を請い願う人生と、
生老病死を自然の摂理と受け止めて平然と生きる人生と、
生きるとは楽しく朗らかに過ごすチャンスだと考える人生と・・・

これらは皆、
同位概念であるという事に過ぎない。
返信する
御意 (のら猫)
2019-12-10 04:19:07
自分が表現できずに悶々としていたことを、とても分かりやすく書いていただき、すっきりしました。ありがとうございます。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-12-10 04:14:06
心塵脱落すれば、本来人に備わっている「仏性」が現れる。
これを称して「悟ってみれば修証一等」という事だ。

さて身心脱落すれば仏道がなるか、仏性が現れるか、皆無を知るか?

『皆無三宝』
実存は根拠が「無」で、意味が「無」で、価値が「無」である。
返信する
補足 (Unknown)
2019-12-10 03:58:42
永平寺の
激しく厳しく、有無を言わせない、
考える事を許さない(異論を許さない)・・・
返信する
考えないダースベーダーに万歳!! (Unknown)
2019-12-10 03:54:28
そう言う事なんだよね、キット。
永平寺の激しく厳しい儀式・式典・清規も、
すべて達磨さんが転ばない為・・・
たとえ宿命的に「机上の空論」であったとしてもね・・・

これに尽きるね。
考えてしまうと迷うけどね。
返信する
ひ弱なワタシには考えられないが・・・ (Unknown)
2019-12-10 03:39:15
昨日、海外系テレビで、
『神聖な霊力の宿る聖所巡り』で、
達磨菩薩系禅宗の中国「少林寺」でのウォリアー・モンク(僧兵?、闘う僧?)の生きざまを描いていた。

習得しようと励む「少林寺拳法」は何の為??
自己を制する為、自己に打ち勝つ為、自我の滅失の為・・・
(ダルマさんが転ばない為‥‥ジョークです)

もしオリンピック選手の志がそこにあるなら、オリンピックも悪くはないだろう。
その感動はパラリンピックが如実に引き継いるようだ。
南さんもそれを見れば、
限定的な正当化が真逆になるかも知れない。頭を冷やしてもう一度考えるとそうなる可能性がおおいにありそうだ。
返信する
さかさま問答集 (Unknown)
2019-12-10 03:10:37
質問者・・・君はなにさまだ。
回答者・・・俺はかみさまだ。
返信する
意訳。副題「思考停止状態」 (Unknown)
2019-12-10 03:03:45
「考える」という意味は

「普遍の真理」みたいな絶対的「正解」などは無く、
すべては時と場合と環境によって右往左往する限定的な正当化しかない、
全ての考えも諸行無常でしかない・・・

それ故に、人は常に頭を冷やして考え続けねばならないのです。

而今の自分が良かれと考えてする事と、
誰も文句を言わない筈だと考えてする事は、
多くの場合は思慮が浅いか勘違いです。

反対意見を言う人間を「いや違います、いや違います、いや違います、~~」と一方的に叫び続けて、断罪して、
他者が言う事を、頭を冷やしてもう一度考えようとしない、いわゆるその道の達人と自負する時は、
そのすべてが思慮が浅く、自分を神だと勘違いしているのです。
返信する
Unknown (いったんもめん)
2019-12-10 00:18:53
南さん、オリンピック嫌いらしいので、私までオリンピック熱が冷めました。実はずっと東京オリンピックを楽しみにしていたんですけどね。チケットもバカ騒ぎで抽選だの何だのといって、結局買えなかったし。
このブログのお世話になっている者としては、すっぱりと諦めました。
恐山から足を伸ばして札幌まで観に行こうかなと思っていたンですけどねぇ。
返信する