仏教で言う「因果」(原因ー結果関係、因果律)は、それ自体が実在する、たとえば「宇宙の原理」ごときものではありません。要は、明確な言語と意識を持つ実存、すなわち主として人間が「考える」時に使用する最も重要な方法、とはいえ、所詮は道具にすぎません。
まず第一に、「考える」実存とは別に、因果がそれ自体として存在しないことについて。
そもそも、「結果」と「認定」される事象が起きてから、遡って「原因」を「発見」するのだから、「考える」人間がこの世にいなければ、因果は存在のしようがありません。
第二に、因果が人間にとって最も重要な「考える」方法である事実。
因果を使用しないかぎり、我々は「権利」と「責任」の概念を持ちようがなく、目的を定め、経験を反省し、今なすべきことを決断することもできません。すなわち、因果という道具なしに人間は「主体性」を構築できず、一貫したアイデンティティーを持つ「自己」を設定できません。
『正法眼蔵』は、このあたりの事情を「大修行」の巻と「深信因果」の巻で説明しています。
このうち、因果の非実体性は、「大修行」の巻で、ある公案(禅問答)を題材に解説されています。
もし因果を実体だと考えると、原因と結果をつなぐ何ものかも、必然的に実体と考えざるを得ず、「自業自得」のアイデアからすれば、「霊魂」的存在を呼び込むことになります。これは「無常」「無我」の考え方と決して相容れません。
このように、因果という考え方の意味と正当性を自らの修行において徹底的に問うこと、それを「大修行」と言うのです。
「大修行」の巻は、いわゆる75巻本『正法眼蔵』の中にあります。75巻本は、主として著者独自の仏教思想が大規模に展開され、それは今で言う存在論や認識論、果ては倫理観におよび、時に「日本思想史上最高の哲学書」と称されたりします。
これに対して、因果の方法としての重要性と必要性は、「深信因果」の巻で説かれます。この巻は、著者晩年に書かれた未完の12巻本『正法眼蔵』にあります。
12巻本は、75巻本と明らかにテーマと構想が違います。そのテーマは、仏教において修行する主体をどう構築するのか、その主体性をどう確立し維持するのか、まさにこの点にあります(最終的には、12巻本の構想に従い、75巻本は適宜修訂され、全100巻の『正法眼蔵』が予定されていた)。
「深信因果」の巻では、修行主体を構成する方法としての因果の重要性が強調されます。それと言うのも、「大修行」の巻で主張された因果の非実体性が拡大解釈されて、未熟な修行者が、修行主体を構築する方法としての重要性と必要性を無視し、因果そのものを一挙に否定し去るような錯誤を、徹底的に排除するためです。
このとき、「深信因果」の巻は「大修行」の巻が用いたのと同じ公案を取り上げ、因果に関するまったく逆の結論を導きます。この相違は、因果の非実体性と修行主体構築の方法的重要性という、議論のテーマの違いを際立たせるものです。
方法としての因果を否定すれば、「修行して成仏する」という実践は無意味かつ不可能になり、それでも「成仏」を説くなら、「人は本来悟っている」という話にせざるを得ず、その肉体はどうであれ「悟っている心」こそが人間の本質だと主張することになるでしょう。
『正法眼蔵』はそう述べた上で、この「悟っている心」は実体視されて、最終的に「絶対的な真理の世界(「性海」)に帰入するのだという、「大修行」の巻とは別の意味の実体論的ストーリーが語られることになると、厳しく批判するわけです。
ところで、因果が思考の方法、道具であるとすると、道具の道具たる由縁、すなわちその存在の「正当性」は、使用目的と使用効果に規定されます。紙を切ろうとしてハサミを用い、それが切れれば、ハサミとして正当性を持つでしょう。
因果も同じです。科学理論の完成を目的に因果(律)を使用する場合には、数式によるそれなりの論述スタイルがあり、効果は実験で検証されます。
これが仏教なら、修行主体を構築し、彼らの修行を可能にするために因果が用いられます。それ以外に仏教が因果を使用する必要はないし、この目的外で使用することは、仏教として正しくありません(かつての「親の因果が子に報い」的説教の犯罪性)。
問題は、道具の効果です。仏教における因果の使用効果は、どう検証されるのか。
たとえば、仏教の説く「善因善果」「悪因悪果」の理屈はどう検証されるのでしょうか。
現に生きている個人の経験の範囲内で、これを検証できることもあります。しかし、世の中には、善行が報われず、悪行が多大の利益を生むことがあります。それも、そう例外的なことではなく、むしろ、こちらの方が往々にして世間でリアルに感じられたりします。
さらに、「善因」や「悪因」がすぐに「善果」「悪果」を引き起こすとは限りません。その間隔が極めて長く、場合によっては個人の寿命さえ超えたら、因果による認識の正当性は検証できません。
つまり、仏教の因果、その道具の効果は検証が難しく、少なからぬ疑問がつきまといます。だから、「深信因果」なのです。因果それ自体が実在するなら、それを「理解」すればよいだけです。ですが、それが方法であり、効果の検証が困難なら、検証抜きの「効果」を「深信」するしかありません。
そこで、12巻本には「深信因果」の巻に続いて「三時業」の巻が出てくるわけです。
「三時」とは前世・現世・来世のことで、「三時業」の巻は、この三世にわたって「善業(行)によって天上界に生まれ、悪業(行)によって地獄に堕ちる」という因果(関係)が作動することを、経典からサンプルになるエピソードを引用して強力に主張しています。つまり、道具の「効果」を証明しようとしているのです。
すると、この巻は、そうとは直接言及していませんが、「輪廻」を説いているように見えます。サンプルは「生まれ変わり死に変わり」の話だからです。
ところが、ここで主題になっているのは、個人の特定の道徳的行為による「生まれ変わり死に変わり」の話(これが輪廻の話。それ以外の輪廻論は無意味。それについては後述)ではありません。
「三時業」の巻において「善業」と「悪業」を分けている基準は一つだけ、因果を信じるか否か、認めるか否かです。ある個人が道徳的に何をしたらどうなるかなどは、まったく眼中にありません。因果が三世に及んで方法として有効に機能することを「信じる」ことこそ、我々の修行の第一要件だと、そう説いているわけです。
ここから先は、僭越ながら、自著『「正法眼蔵」を読む』から引用させていただきます。
(引用はじめ)
この「三時業」の巻を読むと、『眼蔵』が因果や業、さらに前世や来世など、それ自体で存在する実体だと考えているように思えるであろう。「中有」などというものまで出てきては、なおさらである(ブログ主註:輪廻も)。
しかし、修行を可能にする因果の道理を、直接体験で検証できない状況で(ブログ主註:ゴータマ・ブッダ以後、修行して「成仏」した者は確認されていないし、確認は不可能)、方法として信じ続けなければならないとき、まさに前世や来世、三時業のような概念は、不可避的に要請されることになる。それは修行者が、自らの修行の限界を自覚したときに、是非とも必要なものなのだ。
修行の最中に自分の力の限界が自覚されればされるほど、その(ブログ主註:修行者の)発心と志は未来を求めるだろう。つまり、未完の修行の継続を願う意志が来世をリアルに要請する。
そして、力の限界の自覚が、なぜかという問いになったとき、それは過去の反省に向かう。そして自分の修行の妨げになるものの原因がわからないとすれば、修行への意志が切実であればあるほど、自ら原因を知りえない過去に求めざるを得ない。ここに前世が現前する。
すなわち、前世も来世も、地獄も天界も、修行への意志と教えへの確信がなければ無意味な概念なのである。『眼蔵』が因果や業を論じて問題にしているのは、修行の持続それ自体なのだ。修行こそすなわち仏法だというなら(ブログ主註:『眼蔵』はそう言っていると思う)、問題は、因果の道理が可能にする仏法の存続という業なのである。仏法においては、修行者が誰かはどうでもよいことであり、修行者が個人的にどういう生涯を送り、来世でどうなるかは、まったく問題ではない(ブログ主註:それを問題にするのが「輪廻」である)。現世の誰の修行が来世の誰の果報となろうと構わないのだ(ブログ主註:そうでなければ、要するに話は世間の取引である)。このとき、「自業自得」の「自」が単に人格的個人を意味するなら、その「自己」は脱落されなければならない。
仏法においては、人間は修行や信仰の主体としてしか意味はない。すなわち、仏教の「自己」は修行と信仰という業の器にすぎない。
だから、自己は忘れられて縁起的次元から再構成され(ブログ主註:坐禅を土台とする修行)、修行する業的実存として、未来と過去へと切り開かれなければならないのである。少なくとも、『眼蔵』はそう述べているだろうと、私は思う。
(引用おわり)
かくのごとく、『正法眼蔵』は因果と業は主題的に論じていますが、「輪廻」の巻はありません。主題になっていないのです。
言葉としては出てきますが、その回数はわずかであり、内容的にも乏しいものです。「三時業」の巻に引用されている「生まれ変わり死に変わり」のエピソードは、ほぼ輪廻と同じ意味で、これが最も詳しい記述でしょう。
その上で言うなら、『正法眼蔵』から「輪廻についての教示」と「輪廻を意味する記述」を全て切除しても、『正法眼蔵』の思想体系全体に何の影響もありません。さらに言うなら、ゴータマ・ブッダの言葉を記録したという「初期経典」から輪廻を語る全ての記述を抹消しても、思想的にも実践的にも、何の問題もないでしょう。
私が思うに、ブッダの思想の核心は「無常」「無我」「縁起」「無記」であり、『正法眼蔵』の土台には「観無常」があります。ならば、これらと「輪廻」が理論的に折り合うはずがありませんから、邪魔なだけです。
当ブログでも過去の記事で説明したとおり、輪廻は、「生まれ変わり死に変わりする」実体的存在(自己同一性を保持する霊魂のごときもの)を輪廻の主体として設定しない限り、意味をなさない概念です。
これに対して、輪廻するのは業だ、因果だ、生命のエネルギーだなどと言う輩がいますが、「業が輪廻する」「因果が輪廻する」「エネルギーが輪廻するとは誰も言いません。「業は相続」し、「因果は連鎖」し、「エネルギーは保存」されると言えばよいだけです。
所詮、仏教に輪廻は要りません。要らないどころか、このアイデアには実害があります。
つまり、「生まれ」や「出自」によって困難な境遇にあったり、差別されている人々に対して、その境遇を甘受するように説得したり、その種の差別を正当化するための、理論的根拠を与えるのです。
不要で実害のあるアイデアを捨てられない理由は色々あるでしょうが(それについては過去に当ブログでも触れました)、時に「真理」という概念を持ち出してくると、すべての矛盾を強引に糊塗しなければならない破目になります。
たとえば「初期経典」や『正法眼蔵』の言説を丸ごと「真理」だと主張すると、「捨てるべき」部分も「真理」の一部であるがゆえに捨てようがなくなり、後から無理で無様な理屈を捻り出して誤魔化さざるを得ないでしょう。
しかし、話し手が誰であろうと、それが言葉で語られ、他人が聞いてわかるようなこと(わからなければ、はじめから無意味)に、「真理」(すなわち絶対的・普遍的に正しいこと)などありません。
ブッダやキリストや道元禅師などの教祖・祖師、「初期経典」や「聖書」、『正法眼蔵』など、教祖・宗祖の言葉や聖典をすべて無謬であると考えるべきいわれはなく、無常と無我の観点からそれはあり得ないし、結局、無謬の証明は不可能です。
にもかかわらず、「真理」というイデオロギーを声高に言い募ることから、まさに決定的な誤謬が始まるのだと、私は思います。
自分の「問い」にアプローチする道具として仏教を選び、「初期経典」や『正法眼蔵』を使う私には、それが「真理」かどうかなどどうでもよく、使えるかどうかだけが問題です。使えず、さらに実害があるアイデアなら、そんなものは放棄するだけです。
その意味で、私は仏教に共感することはあっても、信仰することはありません。そして、およそ「真理」などというものは、認識の中にではなく、信仰の中にあるものです。
まず第一に、「考える」実存とは別に、因果がそれ自体として存在しないことについて。
そもそも、「結果」と「認定」される事象が起きてから、遡って「原因」を「発見」するのだから、「考える」人間がこの世にいなければ、因果は存在のしようがありません。
第二に、因果が人間にとって最も重要な「考える」方法である事実。
因果を使用しないかぎり、我々は「権利」と「責任」の概念を持ちようがなく、目的を定め、経験を反省し、今なすべきことを決断することもできません。すなわち、因果という道具なしに人間は「主体性」を構築できず、一貫したアイデンティティーを持つ「自己」を設定できません。
『正法眼蔵』は、このあたりの事情を「大修行」の巻と「深信因果」の巻で説明しています。
このうち、因果の非実体性は、「大修行」の巻で、ある公案(禅問答)を題材に解説されています。
もし因果を実体だと考えると、原因と結果をつなぐ何ものかも、必然的に実体と考えざるを得ず、「自業自得」のアイデアからすれば、「霊魂」的存在を呼び込むことになります。これは「無常」「無我」の考え方と決して相容れません。
このように、因果という考え方の意味と正当性を自らの修行において徹底的に問うこと、それを「大修行」と言うのです。
「大修行」の巻は、いわゆる75巻本『正法眼蔵』の中にあります。75巻本は、主として著者独自の仏教思想が大規模に展開され、それは今で言う存在論や認識論、果ては倫理観におよび、時に「日本思想史上最高の哲学書」と称されたりします。
これに対して、因果の方法としての重要性と必要性は、「深信因果」の巻で説かれます。この巻は、著者晩年に書かれた未完の12巻本『正法眼蔵』にあります。
12巻本は、75巻本と明らかにテーマと構想が違います。そのテーマは、仏教において修行する主体をどう構築するのか、その主体性をどう確立し維持するのか、まさにこの点にあります(最終的には、12巻本の構想に従い、75巻本は適宜修訂され、全100巻の『正法眼蔵』が予定されていた)。
「深信因果」の巻では、修行主体を構成する方法としての因果の重要性が強調されます。それと言うのも、「大修行」の巻で主張された因果の非実体性が拡大解釈されて、未熟な修行者が、修行主体を構築する方法としての重要性と必要性を無視し、因果そのものを一挙に否定し去るような錯誤を、徹底的に排除するためです。
このとき、「深信因果」の巻は「大修行」の巻が用いたのと同じ公案を取り上げ、因果に関するまったく逆の結論を導きます。この相違は、因果の非実体性と修行主体構築の方法的重要性という、議論のテーマの違いを際立たせるものです。
方法としての因果を否定すれば、「修行して成仏する」という実践は無意味かつ不可能になり、それでも「成仏」を説くなら、「人は本来悟っている」という話にせざるを得ず、その肉体はどうであれ「悟っている心」こそが人間の本質だと主張することになるでしょう。
『正法眼蔵』はそう述べた上で、この「悟っている心」は実体視されて、最終的に「絶対的な真理の世界(「性海」)に帰入するのだという、「大修行」の巻とは別の意味の実体論的ストーリーが語られることになると、厳しく批判するわけです。
ところで、因果が思考の方法、道具であるとすると、道具の道具たる由縁、すなわちその存在の「正当性」は、使用目的と使用効果に規定されます。紙を切ろうとしてハサミを用い、それが切れれば、ハサミとして正当性を持つでしょう。
因果も同じです。科学理論の完成を目的に因果(律)を使用する場合には、数式によるそれなりの論述スタイルがあり、効果は実験で検証されます。
これが仏教なら、修行主体を構築し、彼らの修行を可能にするために因果が用いられます。それ以外に仏教が因果を使用する必要はないし、この目的外で使用することは、仏教として正しくありません(かつての「親の因果が子に報い」的説教の犯罪性)。
問題は、道具の効果です。仏教における因果の使用効果は、どう検証されるのか。
たとえば、仏教の説く「善因善果」「悪因悪果」の理屈はどう検証されるのでしょうか。
現に生きている個人の経験の範囲内で、これを検証できることもあります。しかし、世の中には、善行が報われず、悪行が多大の利益を生むことがあります。それも、そう例外的なことではなく、むしろ、こちらの方が往々にして世間でリアルに感じられたりします。
さらに、「善因」や「悪因」がすぐに「善果」「悪果」を引き起こすとは限りません。その間隔が極めて長く、場合によっては個人の寿命さえ超えたら、因果による認識の正当性は検証できません。
つまり、仏教の因果、その道具の効果は検証が難しく、少なからぬ疑問がつきまといます。だから、「深信因果」なのです。因果それ自体が実在するなら、それを「理解」すればよいだけです。ですが、それが方法であり、効果の検証が困難なら、検証抜きの「効果」を「深信」するしかありません。
そこで、12巻本には「深信因果」の巻に続いて「三時業」の巻が出てくるわけです。
「三時」とは前世・現世・来世のことで、「三時業」の巻は、この三世にわたって「善業(行)によって天上界に生まれ、悪業(行)によって地獄に堕ちる」という因果(関係)が作動することを、経典からサンプルになるエピソードを引用して強力に主張しています。つまり、道具の「効果」を証明しようとしているのです。
すると、この巻は、そうとは直接言及していませんが、「輪廻」を説いているように見えます。サンプルは「生まれ変わり死に変わり」の話だからです。
ところが、ここで主題になっているのは、個人の特定の道徳的行為による「生まれ変わり死に変わり」の話(これが輪廻の話。それ以外の輪廻論は無意味。それについては後述)ではありません。
「三時業」の巻において「善業」と「悪業」を分けている基準は一つだけ、因果を信じるか否か、認めるか否かです。ある個人が道徳的に何をしたらどうなるかなどは、まったく眼中にありません。因果が三世に及んで方法として有効に機能することを「信じる」ことこそ、我々の修行の第一要件だと、そう説いているわけです。
ここから先は、僭越ながら、自著『「正法眼蔵」を読む』から引用させていただきます。
(引用はじめ)
この「三時業」の巻を読むと、『眼蔵』が因果や業、さらに前世や来世など、それ自体で存在する実体だと考えているように思えるであろう。「中有」などというものまで出てきては、なおさらである(ブログ主註:輪廻も)。
しかし、修行を可能にする因果の道理を、直接体験で検証できない状況で(ブログ主註:ゴータマ・ブッダ以後、修行して「成仏」した者は確認されていないし、確認は不可能)、方法として信じ続けなければならないとき、まさに前世や来世、三時業のような概念は、不可避的に要請されることになる。それは修行者が、自らの修行の限界を自覚したときに、是非とも必要なものなのだ。
修行の最中に自分の力の限界が自覚されればされるほど、その(ブログ主註:修行者の)発心と志は未来を求めるだろう。つまり、未完の修行の継続を願う意志が来世をリアルに要請する。
そして、力の限界の自覚が、なぜかという問いになったとき、それは過去の反省に向かう。そして自分の修行の妨げになるものの原因がわからないとすれば、修行への意志が切実であればあるほど、自ら原因を知りえない過去に求めざるを得ない。ここに前世が現前する。
すなわち、前世も来世も、地獄も天界も、修行への意志と教えへの確信がなければ無意味な概念なのである。『眼蔵』が因果や業を論じて問題にしているのは、修行の持続それ自体なのだ。修行こそすなわち仏法だというなら(ブログ主註:『眼蔵』はそう言っていると思う)、問題は、因果の道理が可能にする仏法の存続という業なのである。仏法においては、修行者が誰かはどうでもよいことであり、修行者が個人的にどういう生涯を送り、来世でどうなるかは、まったく問題ではない(ブログ主註:それを問題にするのが「輪廻」である)。現世の誰の修行が来世の誰の果報となろうと構わないのだ(ブログ主註:そうでなければ、要するに話は世間の取引である)。このとき、「自業自得」の「自」が単に人格的個人を意味するなら、その「自己」は脱落されなければならない。
仏法においては、人間は修行や信仰の主体としてしか意味はない。すなわち、仏教の「自己」は修行と信仰という業の器にすぎない。
だから、自己は忘れられて縁起的次元から再構成され(ブログ主註:坐禅を土台とする修行)、修行する業的実存として、未来と過去へと切り開かれなければならないのである。少なくとも、『眼蔵』はそう述べているだろうと、私は思う。
(引用おわり)
かくのごとく、『正法眼蔵』は因果と業は主題的に論じていますが、「輪廻」の巻はありません。主題になっていないのです。
言葉としては出てきますが、その回数はわずかであり、内容的にも乏しいものです。「三時業」の巻に引用されている「生まれ変わり死に変わり」のエピソードは、ほぼ輪廻と同じ意味で、これが最も詳しい記述でしょう。
その上で言うなら、『正法眼蔵』から「輪廻についての教示」と「輪廻を意味する記述」を全て切除しても、『正法眼蔵』の思想体系全体に何の影響もありません。さらに言うなら、ゴータマ・ブッダの言葉を記録したという「初期経典」から輪廻を語る全ての記述を抹消しても、思想的にも実践的にも、何の問題もないでしょう。
私が思うに、ブッダの思想の核心は「無常」「無我」「縁起」「無記」であり、『正法眼蔵』の土台には「観無常」があります。ならば、これらと「輪廻」が理論的に折り合うはずがありませんから、邪魔なだけです。
当ブログでも過去の記事で説明したとおり、輪廻は、「生まれ変わり死に変わりする」実体的存在(自己同一性を保持する霊魂のごときもの)を輪廻の主体として設定しない限り、意味をなさない概念です。
これに対して、輪廻するのは業だ、因果だ、生命のエネルギーだなどと言う輩がいますが、「業が輪廻する」「因果が輪廻する」「エネルギーが輪廻するとは誰も言いません。「業は相続」し、「因果は連鎖」し、「エネルギーは保存」されると言えばよいだけです。
所詮、仏教に輪廻は要りません。要らないどころか、このアイデアには実害があります。
つまり、「生まれ」や「出自」によって困難な境遇にあったり、差別されている人々に対して、その境遇を甘受するように説得したり、その種の差別を正当化するための、理論的根拠を与えるのです。
不要で実害のあるアイデアを捨てられない理由は色々あるでしょうが(それについては過去に当ブログでも触れました)、時に「真理」という概念を持ち出してくると、すべての矛盾を強引に糊塗しなければならない破目になります。
たとえば「初期経典」や『正法眼蔵』の言説を丸ごと「真理」だと主張すると、「捨てるべき」部分も「真理」の一部であるがゆえに捨てようがなくなり、後から無理で無様な理屈を捻り出して誤魔化さざるを得ないでしょう。
しかし、話し手が誰であろうと、それが言葉で語られ、他人が聞いてわかるようなこと(わからなければ、はじめから無意味)に、「真理」(すなわち絶対的・普遍的に正しいこと)などありません。
ブッダやキリストや道元禅師などの教祖・祖師、「初期経典」や「聖書」、『正法眼蔵』など、教祖・宗祖の言葉や聖典をすべて無謬であると考えるべきいわれはなく、無常と無我の観点からそれはあり得ないし、結局、無謬の証明は不可能です。
にもかかわらず、「真理」というイデオロギーを声高に言い募ることから、まさに決定的な誤謬が始まるのだと、私は思います。
自分の「問い」にアプローチする道具として仏教を選び、「初期経典」や『正法眼蔵』を使う私には、それが「真理」かどうかなどどうでもよく、使えるかどうかだけが問題です。使えず、さらに実害があるアイデアなら、そんなものは放棄するだけです。
その意味で、私は仏教に共感することはあっても、信仰することはありません。そして、およそ「真理」などというものは、認識の中にではなく、信仰の中にあるものです。
だから輪廻など形而上学的話しは出てこない。輪廻する本体の様な話しには、猛烈否定的ですよね。
しかし、12巻本の方は、
如来側から道元さんいよいよ「衆生側」に降りてきての話しよね。
まあ、釈尊は出家者には「形而上学的ことは口にするな」と言い
在家には「正しく生きれば天界に生まれますよ」と言う。
そういうことを道元さんもしているのですね。<
相手によっての「使い分け」をされているようで、本音と建前論もあるのかな。
どれをどのように解釈しても、選んでも、追究しても構いませんよ、生きる上での参考になれば幸いです、というような態度なのかな。
中道とは、ハッキリさせちゃいけない態度なのかな、なんて思います。
>人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。
生は生で前後際断で、今という刹那が生の時には、生が死になると考えないとしたら、そこには死という想いが無いということで、そうなると、死という想いの相対概念たる生も無くなる、だからそれを不生と言う。
死は死で前後際断で、今という刹那が死の時には、死が生になると考えないとしたら、そこには生という想いが無いということで、そうなると、生という想いの相対概念たる死も無くなる、だからそれを不死と言うところだが、不死という言葉は他にも使われるから、不滅とした。
ということかな、と思いました。
『お彼岸特集 大谷先生&北沢先生対談 宗教における生死観 誰もが自らの心の中に宗教的感性を持っている』から引用。
>宋代の禅者、圜悟克勤という人が『生や全機現、死や全機現』という言葉を残していますが、生は生、死は死。連続しているんじゃないんだということを言っているんです。
なるほど、道元禅師が言ってるのは、そのことですね。
>死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。
(正法眼蔵・現成公案)
その言説の元となったものは何だろうか、と考えると、次の言葉かなと。
373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
(スッタ・二パータ)
他に、過去はもう無い、未来はまだ無い、有るのは今だけ、というような言葉もありますね。
正法眼蔵のタイトルが、現成公案なので、そういうことですかね。
今、刹那刹那の現前のありようをテーマにしていると。
しかし、前世から今世に移行すると理解した弟子を釈迦が叱責する経典もあるんですよね。そうではない、縁によるのだと。
だから、仏教は、ややこしい、ということになるのだと思います。
>たき木はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はい(ひ)となりぬるのち、さらに薪とならざるごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆへに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆへに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
(正法眼蔵・現成公案)
それも、「実体が移行する」という見方を否定するもので、輪廻まで否定したものではないと私は理解しています。
240 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
(以上、ダンマ・パダ)
666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長する事を欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
(以上、スッタ・二パータ)
初期経典において前世の業を語るということは、輪廻と同じ意味、ということになりますよね。
(正法眼蔵・大修行)
不滅なら、生まれ変わる、ということはあり得ない、というのは、これも輪廻という言葉の意味を変えている、ということですよね。
スマナサーラ長老も同じようなことを言います。
業と輪廻の峻別ということは、これまで考えたことがありませんでした。
輪廻とは、釈迦以前のバラモン教の概念で、それは、身体と別なる不滅の実体たる我が、身体が死んで後に、新しい身体を得ることで、それを不滅の我の生まれ変わり、と呼んでいる。
そこで不滅の我の輪廻が起きる原因として、前世の行為により作られた業というものが関与するとされている。身体が死ぬときは、不滅の我が身体から出て、それに業が付き従うとされる。
輪廻とは、そういう意味の概念であり、それ以外は、輪廻とは呼べない。
さて、仏教においては、無我ですから、不滅の実体は認めていない。それなのに業による「輪廻」を語るのは、論理的に矛盾する。
だから、仏教が語る業論は、輪廻と峻別されるべきである。
仏教は、不滅の我が前世から今世に移行するということ、すなわち「輪廻」を認めていない。
仏教が認めているのは、前世の業が今世の身心の形成に関与し、今世以降の生に影響を及ぼすという業論であり、それは輪廻とは別概念である。
とそういうことですか。
まあ、輪廻という言葉の意味は、不動であるべき、ということなら、そうなるとは思うのですが。
私は、言葉の意味が変わることに抵抗が無いということなのかもしれないですね。
だから前世の業が今世の身心の形成に関与するということを輪廻と呼んでも問題を感じない。
とそういうことになりそうだなあ、と思いました。
仏教が、バラモン教と同じ言葉を使いながら、その意味を変えているという事例は、他にもありますよね。
例えば、不生不滅ですね。
バラモン教では、不滅の実体だから、生まれるということも、滅するということもない、という意味。
それが、仏教では、不滅の実体が無い、空だから、本性としては、生まれていない、生まれていないから滅することもない、という意味。
仏教には、そういう例が多いと思います。
業と輪廻を峻別するか、同一視するかは個人の考え方ですが、私は峻別派です。同一派にはその同一視の理由や根拠をお聞かせ願えると幸いです。
因みに「種子」は人格でも「魂」でもなく、輪廻の概念内で処理する必要はありません。植物の種は何も輪廻するわけではありません。それと同じです。
(正法眼蔵・行持)
「この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。」
「ただ宿殖般若の種子ある人は、」
それは、個人の輪廻について語ったものですよね。75巻本においても輪廻が語られてますね。
その気の強いということの意味は、救い主たる神とか輪廻とかという、それが迷信か事実かの検証の不可能な理念には、頼らない、ということです。あるいは、信仰によってしか成立し得えない概念を信仰しない、とでも言うか。
津波の後で、これは日本に対する天罰だと発言した人がいましたが、それを聞いた南さんは、その人は気の弱い人だと思った、とテレビ番組で言っていましたね。
まさに、災難を天罰と考える、というのは、気が弱い、ということだと思います。
まあ、気はそれほど強くはないのだけれども、信仰することでしか成立し得ない概念を生理的に受け付けないから、それに頼らない生き方をするしかないのだ、自らの理性基準の論理的思考に頼る他に選択肢は無いのだ、ということでもあるのかもしれないですが。
宗教は、気の弱い人が依存するもの。
そして、南さんがやっていることは、宗教たる仏教のエッセンスを使った、宗教色を排した哲学と言えるのではないか。
あるいは、仏教は、宗教も、宗教色を排した哲学も、どちらも併せ持つ、寛容で、間口の広いものであるが、そこから、自分が生理的に受け付ける、宗教色を排した哲学の部分を、生きる上での道具として利用している、ということ。
というより、仏教とは、その宗教色を排した哲学の部分であるべきと解釈している。
なんて思いました。
とはいえ、南さんは、超越的な理念に頼らずに、現実的に自らの理性基準で論理的に考え続けて行けば、いつか解決がつくと信じる、という自分を信仰している、という意味の宗教と言えるかも、とも思います。
まあ、それは、普通は宗教とは言わないのでしょうけど。
https://m.youtube.com/watch?v=mqeAcHTWcJI
正法眼蔵で、道元禅師が若い時に語ったと思われる大修行の巻と、晩年における深信因果の巻における言説の違いについて言及されてまして、興味深かったです。
それで、正法眼蔵のその部分をまた読みながら、この記事も再読しています。
なお、ネルケさんは、晩年の12巻本は、道元禅師がゼロから書き直したもの、と解釈しているようですね。それから、臨済宗の学僧で、道元禅師は晩年には老衰してた、ボケてたと解釈している人がいるという話は、なるほどそう思っちゃう人もいそうだなあ、と思いました。
曹洞宗の僧侶であるネルケさんは、もちろん、そこにはちゃんとした理由がある、と解釈してるようですね。
自分を根本的に正当化することの不可能性、欺瞞性の話ですね。
もし傷付かなかった自分、傷付けなかった自分、もしくは傷付けられた可哀想な自分を保持したくても、そのゴールは「死」な訳でしょう。そんな「きれいな自分」を永遠に続けるのは不可能であることを自分で認めている訳です。死がありがたいという退廃も生じるのです。きれいな自分が存在するためにはきれいではない他人が必要という欺瞞性も生まれますし、「自分だけがきれいなつもりか」という足を引っ張るようなセリフにもやはり「本当はきれいな自分」という欺瞞が隠れているのです。
欺瞞、退廃から逃れるためには無我しかないです。輪廻しかないです。「今を大事にする」こととは、癒やされない、救われない自分を認めることでもあります。そんな自分を幸せだと思えるとしたらそこに慈悲があるからです。
葉っぱが水に落ちて波紋が起きることはありふれたことだけど、せっちゃんの目に油が入っただけであんなに悲しくも美しいドラマが発生してしまうことが怖いんです。私が切に願うのはその恐れを簡単にごまかさないで、ということです。
尾崎豊が言うところの「街」とは都会とか田舎とかではなく人間の社会、生活空間そのものなんでしょうね。僕とあなたの一対一の関係を補完すべきであるはずの近代的な生活空間のネガティブな側面が曲の中で強調され気味であると。でもそれは確かに現実的な課題であるし、仏教ができた頃のインドでも同じような問題が意識されていたんでしょうね。今でいう一神教的な発想が化石状態になりバラモン教も飽和状態になり都市空間も成熟していくということは頭のいい人達がパンクしそうになるということですね。尾崎豊の「闇の告白」状態。
「君たちの気持ちはよく分かった」というセリフに唯一説得力があったのはブッダのみということですね。
「汚れちまった悲しみに…(中原中也)」
あなたの悲しい純潔は守られない。必ず自分の手で汚してしまうだろう。だってそれがあなたの純潔の証なのだから。
無常・無我・苦を来世にまで透徹させることによって純潔は慈悲になる…それが人間。ブッダの願い…。
輪廻のメリットについてはこの辺でよろしいでしょうか。
南和尚の仏教徒としてのさらなる進化をお祈りいたします。
ブッダン サラナン ガッチャーミ
生きとし生けるものが幸せでありますように
火垂るの墓のせっちゃんが校庭で遊んでいるシーンと焼け野原の街と清太が駅で死にかけているシーンが頭の中で一つに繋がって堪らない気分になるんですよ。ひたすらだだっ広い場所と、はるか遠くへ行くために人がせわしなく交差する駅という場所が象徴するものは何かということもあるし、人間がどうしようもなく人間であることを四歳の子供に際立たせてしまう戦災の悲しみですね。
尾崎豊の「forget me not」という曲が火垂るの墓の世界観と近い気がするなと思うのは、一つには曲の中の女性が「あんたみたいにうじうじした男は嫌いよ」と言い出しそうな所かなと。せっちゃんも心優しい男性にそんなことを言う感じの女性になったかもなと。尾崎さんの悲恋系の歌って大体そんな予感にさせられてしまうんですよ。「なにあり得ない理想みたいなこと言ってんの?もう付き合いきれない。バッカじゃないの」と(笑)だけど尾崎さんがうじうじしてるとかある訳がないんですよね。明日が存在することを本当に信じ込んじゃってる人が自分を馬鹿にしているんだと尾崎さんは知っていたでしょうね。それは人間が人間であるためには必要な「リアリティー」ではあるけど、その行く末はどうなるかと考えれば東京の大きい街の人混みが耐え難いものに見えたんでしょうね。ビルの下を歩いていてフトこんな所で死ぬなら田舎に帰りたいって思う人もいるだろうなと一瞬泣きたくなるような耳鳴りがする虚無に共感することってあったんじゃないかなと。それはせっちゃんが校庭で遊んでいるシーンに近いだろうなと。
「明日がある」ってことは圧倒的な輪廻ですよね。人間の悲劇の源泉でもあるけど、これこそが人間であるための最大メリットでもあるとしか言えないだろうなと。
641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。
647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅し尽くすに至った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。
以上、スッタ・ニパータ。
天界の住人には、前世の生涯を知ることはできないと思えますね。
まあ輪廻があって、私の輪廻が途切れて、涅槃があってという図式が人間を救う訳ですね。メリットデメリットというか、それ以外は最終的に前向きな考えとして成立しなくなるんじゃないかなと。なにしろ自分も自分じゃないですから、「信じるべきもの」はみんな壊れるのかもしれないですよと。普通の人に言いたいのは、壊れるんだけどどこまで献身的な気持ちを入れるかじゃないの、それで自分が向かっていく方向が決まるんじゃないのと。利己主義というのはやっぱり悲惨で論外になるよねと。
仏教のはっきりしたスタンスは涅槃というあなたを絶対的に納得させて浄化させるゴールはちゃんとありますよと。でもあまりにも具体的に死んだらああなるこうなると決めたり、反対に人間は現世だけを見るべきと自分を駆り立てる状況はどちらも「自分」を意識させ責め立てることであって、幸せとは言えないですよねと。
でも、生きてると、一時的に満足したとしても、必ず何かしらの不満、苦しみを感じることになりますよね。
さらには、天界に生まれ変わったとしても、そこにも寿命があり死ぬ苦しみがあるとされる。
それが一切皆苦ということだと思います。
そして釈迦は、苦しみの滅尽した境地があると説いた。それが滅諦。そしてそれは、輪廻からの解脱でもある。
まあ、およそ人間技には思えないことですけどね。でも、人間は、そういうものに憧れる生き物だと言えそうですね。
死んで人生を終わりにしたいということも、苦しみの滅尽への憧れと言えるかもしれないですね。
例えば、たかはしさんのいわれる「うまく生きていた」としても、個人個人、様々な苦があるはずですから、一言で片付けられる話でもありませんよね。
うまく生きるとは?
生まれた時から、半身不随など寝たきり状態の方もいますよね。
なぜバランスが崩れたのか。
それが、うまく生きたかったのに、そうはならない、そうはさせてくれない、ということに苦しんだから、ということではないかと。
でも、それに苦しんで死にたくなる、というのは、誰にでもあること、ですよね。
そこで実際に自殺を実行してしまうというのは、持って生まれた資質によるんじゃないかなあ、と思ったりします。
生きること自体が嫌というか、生きていても仕方ない、どうでもよくなる、というようなことですので、体に任せる気も、体が死ぬまで生きる気もない訳です。
心身のバランスが酷く崩れた場合、どこまでそれに精神が耐えられるかに掛かってくるでしょうね。
人生100年時代など、早く死にたい人にとっては傍迷惑というか、更に自殺願望者が増加しそうです。
今100歳以上の方が全国で約6万人、今10歳の子供が100歳に達する場合、約60万人との推定データを見ましたが、それがどれ程、幸福度と比例しているでしょうね。
AIの加速化と共に、人間の質は落ちていく、または淘汰されていくとしても問題は尽きない、とすると、余計な心配ではありますが、やはり次世代に負を背負わせているようでもあり、負の連鎖は止まらない、という思いもあります。
うまく生きられなくてもいいなら、それが嫌じゃないなら、そのまま体に任せて、体が死ぬまで生きればいいと思えるのですが。
体は、生きようとしますよね。例えば、インドには息を止めるという苦行があったようですが、呼吸止めても、息を吸えという体の反発には、すごいものがありますよね。そういう力のようなものの存在が、輪廻という発想にも繋がったかも、なんて思ったりします。そのエネルギーのようなものは簡単に消えるようなものではないだろうと。
>うまく生きられないから、死んで終わりにしたい、ということかなと思っています。
うまくいくいかないではなく、死にたいは死にたい、生きたいの裏返しではない、という友人がいます。
仏教でも、一切皆苦を説かれているように、生きていても苦だらけなのですし、生きていてもしょうがない、となるようです。
また、もうある程度楽しんだし、死んでもよい、という思いもあるようですね。
そこには、苦を避けるというより、幸を避けているようにも映ります。
ささやかな幸を感じられている内に死にたい、という感情もあるでしょう。
もしかすると、生きたいと思う方がオカシイのかもしれませんね。
生きていたらイイコトあるよ、ということこそ偽善的な方便でしょうね。
みんなやっぱり一切皆苦だなあ、と思いました。
>自殺したいというのは「生きたい」を言い換えたものではないかなと。
うまく生きられないから、死んで終わりにしたい、ということかなと思っています。生まれたからには、うまく生きたいですよね、やっぱり。でも、世間がそれを許さない。その最たるものがイジメ、ハラスメントかなと。それに、持って生まれた資質、能力の違いが、超えられない壁に思えたりもして。
執着を捨てられたら、生きることは、楽なものなのでしょうね。でも、それが難しい。若い時は特に。
瞑想中に昔のことを思い出してしまうのですが、あの時、もっと執着を捨ててれば楽でカッコよくやれたのに、と思うことの連続で、恥ずかしくなります。
輪廻が本当なら、前世でも同じようなことしてきたんだろうなあ、進歩がないなあと思って、せめてこれからはと反省しますが、しかし、なかなかに難しいですね、執着捨てるのは。
それは(仮に)性格のいい心のきれいな人が自殺するまで追い詰められるなんて耐えられないという心境でしょうね。そういう人間らしさは辛いものがあると。僕は君とずっと一緒にいたいから「私だけを見て」と言ってほしいよと。
よく聞くパターンとして「必要とされている実感がないから死にたい」という人を説得する場合も無我輪廻論のメリットが活かせるのではないかなと。
そもそも世の中は我々の想像以上にバラエティーに富んだ人々で構成されていると思いますから、あなたが意外と役に立っている事実をいつか知ることは割と簡単に予想が付くのでは、と思いますし、自殺したいというのは「生きたい」を言い換えたものではないかなと。生まれ変わって幸せになりたい、誰かの役に立ちたい、なんでしょうね。
自殺したら地獄へ行くよではなく、「幸せな場所なんて輪廻の中のどこにもない」。だけどどこでも幸せになれることに気付いてよ、人の役に立てないなら自分を大事にすればいい、自分は自分じゃなくて面倒を見て見送ってやる相手だよ、自分に優しくなることはそんなに難しいことかな、だから死なないで!と説得することもできるのではないかと思います。
ネットを通じて、現実では本音が困難な「心の仲」という関係性もあるかと思いますね。
心の対話は、できているのかどうか?
仲間意識や敵か味方意識が強くなると、ネットにおいても、本音で語ることが困難な状況も生まれるでしょうね。
ネットも道具で、どのように使うか、使い方ではないでしょうか。
心の対話ができている方と、実際にお会いしたことがあるのですが、何の問題もなく、アドバイスを頂いたり、実りある摩訶不思議な体験もさせて頂いたこともありますので、必ずしも軽々しいとは限らないでしょうね。
生きながら、苦を滅していくのが「仏教の目的」ではないでしょうか。
全くできないにしても(できないを前提にしても)、減少していくことが目的のように思います。
単純に死ぬだけなら、仏教は不要かと。
昔は今みたいに頻繁には使わなかったですよね。
またいつか来ます。。
人と人との仲は様々なグラデーションに満ちてる。つまり、命がけで守るような親友や、絶対に殺すべき敵は殆どいない。多くが敵でも味方でもない中間的な存在。。
中間的な存在は普通は「知り合い」と「顔見知り」とか呼ばれるように思います。
例えば街中、電車や病院の待合室での女性同士の会話。初対面でも喋りまくる。。だからと言って特別仲がいいわけでもない。
そんな光景がここ数年で激減してきている。皆、スマホとにらめっこになってしまった。
どういう話かというと、かつて人間関係における中間的な層、グレーなグラデーションの部分がネット、特にSNS に乗っ取られたのではないか?
それによってむしろ窮屈な人間関係が生まれてないか?
AさんとBさんの関係はあくまでもAさんとBさんの関係で、それを知るすべをCさんは知らなかった。
床屋のマスターと仲良しで、飲み屋のマスターと仲良しだとしても、それから、床屋のマスターと飲み屋のマスターが仲良しである必要はない。
しかしSNS では、ある知り合いと別の知り合いとを繋げる方向で運営されてます。
しかも、「友達」とか仰々しい名前で繋げようとします。
でも、本来なら顔見知り程度の関係を「友達」扱いするのは危険だと思います。
SNSの付き合いを軽く受け止める人は少数で、多くがむしろSNS を生活の場にしてるように思います。
それ故、本来顔見知り程度の仲で喧嘩するような仲ではないにもかかわらず、敵か味方か?みたいな感じになります。
炎上もそうした誤解が原因に思えてなりません。
また、相互監視システムみたいな感じがします。
少なくとも都市空間における豊かなグラデーションの関係が消滅しつつあるように思います。
政治生命を絶たれて自殺した、学者人生に挫折して自殺した、、等々、社会的な死が自殺の要因になる場合があると思いますが、こっちの社会でダメなら、あっちの社会がある。という方が良いように思います。
というか、社会的な存在ということに力点をおいてるように思います。
その意味で、生物学的な死は同時に社会的な死になるのだと思います。
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/df23c76f58a40570e923b8d9118a5388
輪廻を否定する立場では、苦しみからの脱却は「死ねばいい」と言えてしまう。
その是非は、遺族や周囲の者の問題ですよね。
否定した場合は「死ねばそれが苦の滅」という主張が出来ると思います。
そして、輪廻肯定の根拠の脆弱さも同時に考えているわけです。
輪廻を完全否定する立場からどういう反論が可能か?を考えてるわけです。
嘘な方に賭ける、という選択はあり得るでしょうけど。
輪廻が存在しなくとも、その有無を問わずに自殺する方が大半ではないでしょうか。
でも、重度の鬱病になった人は、死にたくてたまらなくなるそうですね。死が少しも怖くない、ということなんだろうか。
そんな状態の人に、そのまま自殺したら、もっと悪いところに生まれ変わるぞ、と言ったところで無意味かもしれないですね。
そういえば、南さんが少年時代に、好きな女の子が、自殺を賛美するかのような発言をしたのを聞いた時に、自殺する奴は馬鹿だ、俺が閻魔大王なら、そいつを、また同じ境遇のこの世に生まれ変わらせてやる、この世地獄に落としてやる、というようなことを思わず叫んで、その女の子から気持ち悪がられた、というのが過去記事にありましたね。
生きることに賭けるべきだ、という南さんのスタンスは、子供の時からあったのかな、なんて思っています。そして、それが普通だと思いますね。
死んで解決できると思えるというのは、異常なことではないか、その異常さの原因がどこにあるのかを当人に問わせて考えさせるべき、と私は思ってしまいます。
それでも、自殺してしまった人に対しては、苦しみが終わったのだろう、と断滅論に期待する気持ちも私にはありますけど。
例え一時的に良い生まれ変わりをしたとしても、そこにも寿命があり、死ぬ苦しみがある。だから、今生で輪廻から解脱しない限り、苦しみ続けなければならない、という悲壮感が漂う。逃げ場のない苦しみ。それが釈迦であり、無我の輪廻。
それに対して、有我の輪廻は、輪廻は苦しみということでは同じだが、しかし、そこには、不滅の真実の我は、元々清浄なものであり、万物の、宇宙の根源と本来同一である、という永遠、絶対、完全という概念に安らげるという、楽観が潜んでいる。それを信じることで、死ぬ苦しみを軽減できる、という側面がある。
無我の輪廻の苦しみは、根源的なもの。
有我の輪廻の苦しみは、表層的なもの。
とそんなふうに思いました。
でも、無我の輪廻を、死んでも終わりじゃないということで、死の苦しみを軽減するために使っている人が多いと思えますね。私もそうですね。
それに対して無我の輪廻とはリアルな「スタンス」であり、体中に目一杯空気を巡らせるような誠実さの結論なんですね。リアルを深く知っていくこと、それは救いを得ていくプロセスなのです。生命には何者にも侵害されない救いはあるのか?という煩悶の果ての、救いはちゃんとあるという結論なのです。それはブッダが全生命の悲劇性を賭けた決死の素潜りで得た一世一代の大発見だったのです。人間が深呼吸できるようになったのはそのおかげと言っても過言ではないぐらいで、やはり人間には分かりやすい希望がなければいけないということです。仏教ははっきりと世界にとって最重要の数える程しかない要石みたいな思想です。無我による輪廻、苦しみのはっきりした認識ゆえの救いというビジョンを捨ててしまう理由はありません。
いつか人類が滅亡の危機に瀕した時、人は有我の霊魂による輪廻というアイデアでさえ心の中で保持できなくなる可能性があるのです。初めから人間の不安定なイメージの悲劇性に自覚的であらねばならない無我の輪廻論者ならばその限りではないのです…。
人間はずっと健康ではいられません。弱くなるのです。現代人も未来人も良寛さんのように「死にとうない」と言うのが大方の現実です。その時病室で「まだ終わりじゃない」と思っているのは誰ですか…というのが無我輪廻論のメリットです。
無から有が生じるものか?、
有は無になり得るのか?
は科学でも分かっておらず、
般若心経では「無」+「有」=「空」だと言う形で終止符をうっているようだが、
現代人はもう少し先まで論理的に知りたい気分があるわけで・・・
森羅万象の(不滅の)実体を最小微粒子のクォーク(Quark)だとすると、
バラモン教の人は、
有我ゆえに不生不滅だと主張出来る事に成りますかね??
他方、仏教の人は、
クオークのレベルでは無我だから(=意識レベルでの物質を構成していないから)、
不滅の実体が在るとは言えない。
だからそれが集合した、
実存的に顕れる「色」にも不滅の実体が在るとは言えない。
よって生も無く滅もない(不生不滅)。
なんか、どちらようにも言えてしまうかも。
高橋さんはどう思いますか??
ミスユ○バースファイナリストを娶った男がこう宣ってます
仏教には、そういう面がありますよね。
例えば、バラモン教は、有我ゆえに不生不滅だと主張しますね。不滅の実体だから、常住だから、生じることもなければ、滅することもないと。
それに対して、仏教では、不滅の実体が無い、空だから、本質としては生まれておらず、生まれていないから滅することもない、と言う。
仏教のその説明を、屁理屈と捉える人も多いと思いますね。
それとは対照的に、自己同一性を保持する不滅の主体が無く、生滅の連続であるなら、それは生まれ変わりとは言えないだろう、という考え方を論理的と捉える人も多いとも思います。
人の思考には、依拠する基準における根本的な違いというか、何か、理屈じゃない、生理的なものが介在するような気がします。
アインシュタインが、ボーアの量子力学をどうしても認められなかったというのも、実は生理的なものが原因だったんじゃないか、なんて思ったりします。まあ、それは素人たる私のただの思いつきですが。
アインシュタインの量子力学批判が、逆に量子力学を理論的に発展させた、ということが言われるようですが、仏教の無我の輪廻説に対する有我のバラモン教から批判が、仏教の論理を強固にさせた、それも仏教2500年の歴史ということは言えるのではないか、と私は思っています。
存在イコール変化です。その存在たる我々が認識の保持を志向し続けている厳密な理由は多分絶対に分かりません。それが前提としか言えないのではないでしょうか。無意識的で強烈な渇愛エネルギーが死後に新たな拠り所に食らいついて認識活動を再開してしまう可能性は大です。払拭しきれない信憑性を伴います。それを完全否定できる理由はありません。今現在の生命活動についても何も説明できないも同然の状態なのですから。
仏教では輪廻はおろか存在そのものにもネガティブな意味合いが伴いますが、敢えてメリットを挙げれば、無我による輪廻ゆえに生きている間の一秒間にさえそれなりのスポットライトを当て易いのです。人間ならばその一秒間に善を投入すればいいのではないでしょうか。苦しみがあり、苦しみからの解放がある、でいいと思います。変わらない自我、魂といった考え方よりも、得られる「人間的なメリット」は大きいと思います。
月のような者さんも、無我で生滅の連続ということに、輪廻、生まれ変わりという言葉を当てることに違和感は覚えないということでしょうか。
様々な困難を伴う境遇は前世の悪行のせいと言っても、そもそも前世で明らかな悪人のままだった人が次も人間に転生できるとは考えづらいのではないでしょうか。少なくとも人間に生まれてきただけでも過去の大変な善行の作用と見るのが仏教のスタンスではないでしょうか。それでも様々な外的要因を含めた作用で厳しい境遇になる。それが六道輪廻の甘くない所であるというのが仏教の視点ですね。
七年前の深夜に浅草六区を十何年ぶりに頷きながら自転車で通った時の心境は昔の人への敬意ですね。もう「浅草六区」なんてないんです。そして全部が昔の人が苦しみの中で見ていた夢だったという。宗右衛門町ブルースではないけど、浅草オペラのスター女優のもしかしたらわびしい晩年もあくまで夢の続きであり、それを夢だと気付くこともなくついに消えた人への不思議な敬意なのです。そんな感慨も最大限のニュートラルを求めて「無我による輪廻」にたどり着いた故に得られたメリットです。輪廻も含めて何もかも苦しみしかないとなれば寂滅するとは何か、ブッダに手を合わせるとはどういうことかが分かりますし、人を敬う度合いも違ってくる訳ですね。
関連記事を見ていると、
現在療養中で、元女流棋士の林葉直子さんは、棋士時代、対局の際には“お守り”を携えていたとのことです。
それは扇子で、一般的にほかの棋士は「夢」や「忍」など好きな言葉を書くそうですが、林葉さんは「業の深い私はそんな一言二言では満足できず、なんと般若心経を書かせていただきました。色即是空、空即是色 ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー そうするとスッと気持ちが落ち着いてくるんですよ」と般若心経を書いた扇子をお守りにしていたとのこと。
「ところが、当時の私は対局が終わると“色即エッチ”となって煩悩の限りを尽くしてしまったわけです。嗚呼、若気の至り!」。それも般若心経の霊験だったか--?
全く不謹慎な話です(`へ´*)ノ
これから宇宙のことが解明され、人間の脳の解明も進むと、輪廻や霊魂というものを非現実的と捉える人が更に多くなることが予想されますし。
それなのに、仏教は今のままでいいのか、ということですよね。
南さんは、まず自分のこととして、伝統的な教義に納得いかない部分があった。生理的に受け付けない要素があった。それをなんとかする必要に迫られた。そして、自分と同じ想いを持ってる人の存在も知った、ということではないかと。
死は、分からないことだ、という了解の上に立った仏教、それが南さんが指向する仏教かな、と私は思っています。
私のような者からの異論は想定済みであると。
それを曲解した後世の仏弟子が、民衆を相手にしなくなった。どうせ理解できないと。それが、いわゆる大乗の側から小乗と蔑まれるようになった理由でしょう。
だから、大乗が、より多くの人を救おうとするなら、単一ではなく、より多くの選択肢、バージョンが必要になると思います。例えるなら、登山口、登山ルートは、いろいろあっていい、最終的に同じ頂上に到達するなら、ということですね。
それには一理あるが、でも、その理由をもってしても、全ての人を納得はさせられないだろう、というのが私の見解ということです。
そもそも、南さん自身が、真理というものを否定していますよね。真理とは、不変かつ普遍的なものであらなければならないが、有限な人間に、不変かつ普遍的なもの、永遠の真理など分かるはずがないと。
だから、人それぞれに、自分に合ったものを、これが真理だと思えるものを選択して信じることになると思います。
南さんも、道具として使えるか、を判断材料にしているのでは。
結局、どのようなことも語る人に依存するということでしょうね。
例えば、親を恨むのは、筋違いだよと。
そして、自らの努力で事態は改善できる、ということ。釈迦は、自分は精進論者だとも言っています。
更には、亡くなった人が、既に生まれ変わっていると思えたら、諦めがつきやすいのではないかと。
その亡くなった人が、善行者だったら、善い生まれ変わりをしているのだからと慰めになるとか。
葬式の時に、亡くなった人が、いかに善いことをしていたかを遺族や知人が話す、ということをしている地域がインドにあるとか。
そして、自業自得の輪廻思想の実害は、
お前がそんなふうに生まれたのは、お前の前世の悪業のせいだ、と他者が余計な干渉をする。それを言われた方は、多大な心痛を受ける。
それは差別を正当化する根拠に使われてしまう。
ということでしょうね。
未熟な人間によって特定の思想が悪用される、というのは、残念ですが避けられないようです。
ちなみに、釈迦は、人々を害すると思って説法を躊躇した、とも言っています。
釈迦の教えは、世間的には、劇薬だと私は思っています。
すいませんが、何を言いたいのでしょうか。
ですから、
これも人により蹴りでしょう。
>それから、断絶や不在という言葉は、死んで終わりじゃない、どこかにいる、ということに類似じゃないですか。
は?
という感じですね。
>いずれにしても、今まで連続してきたことは、輪廻ではなく、諸行なのではないでしょうかね。
これも、
輪廻を声高に取り上げられてるワリには、は?という感じですね。
無常はどこへやら、です。
それも妄想、錯覚ではないでしょうかね。
または、願望とか。
釈尊でさえ、死後のことはわからないから、語るなと言われているようですがね。
たかはしさんは、誰かの生まれ変わりと思っているから、その欲求もあるのでは?
ですが、誰の生まれ変わりかもわかっていないし、言えないですよね?
所詮、輪廻があったとしても、意味のないことですね。
これのことですか?
では、断絶を味わうとか、不在を認識する作業としてだけに葬式をしてるんですか、と返します。
それから、断絶や不在という言葉は、死んで終わりじゃない、どこかにいる、ということに類似じゃないですか。
それから、
>いずれにしても、今まで連続してきたことは、輪廻ではなく、諸行なのではないでしょうかね。
それは、私には意味不明で、特に取り上げるまでもなさそうだと思ったものです。
たかはしさんは、御自分の答え辛いことには口を閉ざしているようですが、そうでないとこには、とことん攻め立てますね。(笑)
それが証明できたら、輪廻も確立した思想となるでしょうけどね。
ここは追求されないのですね。(笑)
そうですね、勝縁という言葉から連想してみましたね。
高僧という欲を省けば、仏縁を続けること以外、その葬式に何か目的があるでしょうかね。
いずれにしても、今まで連続してきたことは、輪廻ではなく、諸行なのではないでしょうかね。
死んだら終わりではないという思いの発露には、霊魂がこの世とは別の特別な世界に行く、という思想もあるでしょうね。
>葬式とは、「死んだら終わり(もう、ここにはいませんよ)」という自覚をする為でもあるのではないでしょうか。
ここにはいない、の意味は?
どこかにはいる、ということじゃないの?
>高僧とか勝縁を重んじていたのであれば、それはただの利害関係で、弟子や後継者を思うが故に取られた「態度」だったのではないでしょうか。
そう解釈したのは、道元禅師のどんな言葉を参考にしましたか?
弟子や後継者への思いとは、どんな思い?
>死んでも終わりじゃないとすれば、それは輪廻ではなく、法縁だと思いますがね。
法縁とは?
死んだ後も師弟間の仏縁は続く、という意味?
そう解釈したのは、道元禅師のどんな言葉を参考にしましたか。
単に、勝縁という言葉から連想したものだ、ということですか。
もはや、たかはしさんは何を言っているのか、わかりません。
葬式とは、「死んだら終わり(もう、ここにはいませんよ)」という自覚をする為でもあるのではないでしょうか。
断絶を味わうというか、不在を認識していく作業の一つでもあるかと思います。
高僧とか勝縁を重んじていたのであれば、それはただの利害関係で、弟子や後継者を思うが故に取られた「態度」だったのではないでしょうか。
死んでも終わりじゃないとすれば、それは輪廻ではなく、法縁だと思いますがね。
死者を弔ってるの?
死者は、死んで終わりなら、弔う必要ないでしょ。
死んでも終わりじゃないと思うから、死者を弔うんじゃないの?
道元禅師は、なぜ僧侶の葬式を重視したのか?
正法眼蔵随聞記で、道元禅師は、高僧に葬式してもらったら、それが勝縁になる、と言ってるようです。勝縁って、輪廻に寄与するという意味だと思えますね。正法眼蔵随聞記では、輪廻を語ってますし。
ただ、在家においては、そうもいかない「事情」がありますから、執り行わざるを得ないこともありますよね。
これも、「絶対しなきゃならない」ことでもありませんが、どうもバツの悪い場合があったり、死者に対する気持ちの置き処が必要な人がいるからだと思いますがね。
葬式は死を弔う儀式であって、あくまで冠婚葬祭の一つの行事で、輪廻とは別物でしょ。
釈迦にしても道元禅師にしても、思想を「引き継いでいる」だけのことじゃないのかなあ。
それを「カタチ」にしないと忘れ去られるから、書物を遺したり奉ってるんだと思うけどね。
法身にしても、釈迦の行き着いた先で、人間の成せる技だよと言われているような?
この解説は、南さんがどう解釈されているか伺いたいところではあるけどね😉
仏舎利塔に収められて
それはそれは大切にうやまい奉られているから、
きっと敬虔な仏教徒なら、
その一つ一つの骨に釈迦の魂がやどっていると思って(=信仰して)いるという事ですかね。
懐奘禅師は、道元禅師の葬式を行なったのだろうか。
永平寺では、道元禅師が死んでからも、今も生きてるように扱っているということは、以前に南さんが言ってましたね。
懐奘禅師は、自分の葬式は不要と言い遺したんだろうか。
大変な事情があったか、はたまた「輪廻は不要」で、どうでもよいことだったから、スルーされたのでしょね。
そこには断定も断言もないわけで、各自が自由な態度や思想でいられる。だけどもそれはまた、かなり厳しい教えということでもあるよね。
「こうだ!!と決めてもらえた方がラクだから、輪廻に迎合する人が多いともいえるね。
この問題を道元禅師に質問した人は、いなかったんでしょうか。
正法眼蔵随聞記にも該当箇所が無いようですが、懐奘禅師は、そのことを疑問に思わなかったんだろうか。
質問したけど、何か事情があって、その返答を書き残さなかったのか。
でも、それは、苦しみの滅尽という悟りを本気で目指して全て捨てて出家した場合のことでしょうね。
在家は、自分が受け入れられるものを無理なく、というのが現実的ですよね。
この世も、かの世も捨てる、という言葉もあります。
生も、死も願わないとも。
いわゆる、無執着ですね。
その実現が悟りだから、輪廻思想は方便だ、という解釈が成立すると思います。
でも、それが真実か方便なのかは、悟るまで、分からないこと。
だから、輪廻思想が受け入れられない人は無理にそれを気にする必要はなく、輪廻思想が気になる人は、それを誤りなく使うことを気にして、釈迦が説いた為すべきことを実践して行けば、やがては、無執着へ導かれる。
釈迦の説いた修行法は、そういうシステムになっている、と私は思っています。
でも、死の真実は、分からない。
死後のことは、分からない。
知りたいのに、気になって仕方ないのに、分からない。それは苦しみになりますね。
その苦しみに、どう対処しますか。
人は、その苦しみに、どう対処したらいいだろうか。どう対処すべきか。
そこに、死、死後について答えを提供する、信じる拠り所を与える、それが、宗教の存在理由の一つだと思います。
それに対して、
死は、分からないことだと了解して、受け入れよ。
いつか必ず来るであろう死ぬ時まで、今、怠ることなく為すべきことをせよ、何を為すべきか自ら考えよ、生きることに賭けよ、それが善の根拠である。
社会的生き物たる人間は、他者との関係を良好に保つ努力を怠ってはならない。それも善である。
人は、善を求めなければならない。
という答えを提供するとしたら、それは宗教ではないと思われます。(それが善だ、と信じる、という意味において宗教と言えるかもしれませんが。)
死は、分からないことだと了解して、死や死後に関するどのような見解にも依存しない、ということが、全ての人に可能だろうか。
それが無理だとしたら、死や死後に関する見解で実害の生じる恐れの無いものは、あり得るだろうか。
問われているのは、そこだと思います。
人はそれを悪用して、他者を責める道具に使った。
だからむしろ輪廻思想を仏教概念から除いた方がいい。無くしたとしても仏教思想は影響受ける事は全然無い筈だ・・・
それが院代の趣旨で・・・
いや絶対輪廻思想は仏教に必要だという理由があるのか?
一体、輪廻思想が何故仏教に取り入れられたのか、その根拠は何なのか??
釈迦も内心では(半信半疑なりとしても、無記が無難だが・・・)
輪廻を信じていて
(当時の一般常識だったから・・・)、
この世を完全に捨てる事によってのみ
輪廻からの完全解脱が出来ると考えていた・・・は大いに有り得ることですね。
文明開化での知識レベルがまだ整っていない2500年前の話ですから・・・
通常は、わざわざ不要とされる場所には来られないでしょうしね。
必要なら、アチラへ行かれるはずですよね。
人間は弱い生き物ですから、その弱さにつけ入り刷り込まれてしまうと、疑う余地がなくなっていき、悪用された場合は時すでに遅し状態。
それらを未然に防ぐためにも、南さんは仏教者としても「正直」に、厳しく発信しておられると思いますよ。
個人的にといっても、今や何につけてもネット拡散で影響も受けやすい時代ですので、しっかりと認識しておきたいですね。
最近の座間事件ではないですが、その人が「ラクになる方法」として、ツイッターで堂々と勧誘していたものにも、類似点があるのではないでしょうか。
輪廻が幸せ=ラクとしたらば、輪廻も危ない道具の一つですよね。
輪廻思想があるから、無我や無常も説きやすいと考える人もいますね。
ただ、「輪廻」自体と「輪廻思想」は、「別物」だと私は思います。
天動説が正しいか、地動説が正しいか。
どっちでもいいのよ。
byアインスタイン
ー私の考えでは哲学の主体になるということは、生活の中の自己を捨てて真理の探究者、保持者、守護者になることではない。哲学の主体は直ちに生活の中の自己へと取り戻されるべくあってこそ存在理由を持つ。というのも、哲学は日々の「〈私〉の成立」という事態が遂行していることに力添えをする試みだと私は思うからである。〈私〉は、常に見いだされていながら猶も探され、相変わらずの変わらなさの中で変わることが模索される、そのような営みのうちで成立する。ー
ー私というものの成立 松永澄夫編ーより
また、現成公案の巻において、
「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。」
とか、
「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。」
と、それが釈迦の説いた悟り、正伝の仏法だと言えるのは、何を根拠にしているの?
それは、経典の記載が正しい、それが釈迦の説いたことに間違いない、と信じている、ということじゃないの?
絶対視する事の否定が先ず「現成公案」 に
○ 語感が良い 、 宗教には世俗レベルの話しがいる、 輪廻は多くの人が信じたと思います。 等々
憶測と引用文での講釈では お話しになりません。
ご自身のブログか何かで騙ると良いのでは。
弟子たちに人間性の完全放棄を求め、
生きる為に必須であるすべての世俗の「行為」を禁止した唯一の合理性は、
それが、輪廻における苦の循環を断ち切る唯一の方法論であった、
と釈迦が考えた・・・とするしかない。
瞑想したまま涅槃(=餓死)することが
唯一輪廻から「解脱」する方法だ。
つまり涅槃によってブラフマン世界に昇華できるという信仰を釈迦は持っていた・・・のだと思われる。
さもなくば「世俗のまま慎ましく正常に思い遣り深く『生きる』」という遣り方に何らの問題が生じない筈だと思われる。
生れ出た変性意識に
どんなレーベルをつけようと、
超越的な神がいないのなら
全ての定義・言語化は個人のファンジー(幻想・脳のサンスカーラ)に過ぎない。
輪廻も仏性も因果も縁起も空も・・・すべての定義が架空の仮想物。
でももし超越的な神が存在したら???
すべては神の御指図だ、神の啓示だとなるわけだ。
そんな場合の仏教とはキリスト教の地方版。
きみはどっちが好き??
と問うているに過ぎない
「輪廻」というからには、人の一生より遥かに長い時間を俯瞰したさいに、その期間を通して何らかの繋がりのある事象を見出せられねばならない。「何かがこの期間を通してある」と言ってしまうと諸行無常の原則に反するので、そうは言えない。しかし、例えば「生命」なんてものは、その親、またその親とさかのぼると、イエスちゃんさんの言わるようなアメーバまで辿りつくと言われる。よって長い期間生きる不死身の生物は存在しなくても、時代を超えて生命は繋がっていると言える。同様に、不滅の実体的存在はなくても、時代を超えるなんらかの繋がりはありうる。
次に、諸法無我の原則がある以上、何かそれだけで存在するものはありえない。この世にあるのは関係性だけ。そうすると、時間を超えた何らかの繋がりがあるとすれば、それは時間を超えた関係性の繋がりしかない。イメージしやすいのは、「怨念の連鎖」みたいなことでしょうか。民族間の対立による内戦のような状況で、自分の民族が殺されると、そこから恐怖・憎悪の念が生じ、相手の民族に危害を加える。そうすると相手の民族の方でも恐怖・憎悪が生じ報復する、といった状態に大概なります。そうやって負の関係性が連鎖する。
ところで、「私」「あなた」がいるから、この二人の間の関係性があるのではなく、二人の関係性があるから「私」「あなた」がいるのだと言います。ではなぜその関係性があるのか、という問いには答えられないのでしょうが、なぜ今のような関係性の形になったのかと問われれば、それは「怨念の連鎖」の様に、以前の関係性が今の関係性を形づけたと言える(?)のではないでしょうか。また、その「以前の関係性」は、それよりもさらに前の関係性によって形づけられたのでしょう。こうして過去に遡及していくと、今日の関係性は、アメーバまで行くかどうかはわかりませんが、人類が自他の関係を認識し始めた時点まで、その原点をさかのぼることができる。昨今何かと話題になるブロックチェーンみたいな感じでしょうか。「輪廻」というものがあるとすれば、それはこういった関係性の時代を超えた繋がりではないでしょうか。
この連綿と続く自他の関係性こそが、四苦八苦の後半四つの苦しみを生じさせると言えるでしょう。(このあたりは素人の暴言ですが)この四苦八苦の後半四つの苦しみは、前半四つのような根源的な苦しみではないので、そこから抜け出すには、十二支縁起の無明を消すとこまで行く必要はない。八番目の「愛」か九番目の「取」くらいを止めれば何とかなる。それは、一切の関係性に良くも悪くも価値を見出さないことではないでしょうか。つまり、災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、いった態度でしょう。
「教え」があるとすれば、全ての人からこういった苦しみを消すのは無理であろうが、まずはお前からそういった関係性に価値を置くのをやめろ、ということではないでしょうか。過去の関係性に今の行動を縛らせない。それができれば、「輪廻からの解脱」と言えるのではないでしょうか。
考えてみると、無記ということが、輪廻を否定できない、排除できないという作用を生んでいるかも、とも思えます。
中村元氏は、釈迦は、倫理的行為の主体たる自己の存在までは否定していない、むしろ本来の自己を求めよと言っている、ただ、その自己の形而上学的性質について無記だっただけである、と解釈するようです。
つまり、それでは、形而上学的性質たる不滅の我、輪廻の主体たるアートマンの存在は否定されていない、ということにもなりますから。
でもまあ、そんな中村氏も、釈迦は輪廻を方便として説いたと解釈したようですが。
>身心一如説と輪廻説
先の身心一如説と、今の輪廻説とは、一見矛盾した説のように見えるがそうであろうか。先に述べたように身心一如と言えば、この身の滅するとき、心もまた滅し、すべて無に帰するように考えたくなるが、道元禅師の身心一如は、どうもそのようなことではない。なぜなら、決して来世や輪廻を否定しているのではないからである。この身心一如説は、修行の実践の大切さを述べる中で示されていることは注目すべきで、つまり、身とは別に、身とは隔別の、すなわち身による修行とは関わらない(身の修行を必要としない)本来清浄なる心(性)、本来完成された円満な心(性)の存在を否定されたのであると受け取ることができるのである。
>それは「輪廻の主体」の否定ではなく、「輪廻の主体」がもとより完全無欠なさとりとしての存在ではないということの主張である。「修行の功徳」を積み上げて行くものとしての「輪廻の主体」は認めていると考えざるを得ないのである。つまり、道元禅師の「身心一如」とは、身業(身体的行為=修行 *もちろん口業、意業も含むべきであろう)が、心的〝なにもの〟(輪廻する主体)に密接に関わるということである。ゆえに、修行の必要性を説き、積功累徳(功徳の積み累ね)の重要なることを示されたのである。これが、道元禅師の輪廻説に直結するのである。であれば、道元禅師にとって、身心一如説と輪廻説とは決して矛盾するものではない。むしろ契合するものである。すなわち、身心一如なのであり、今世後世があるのであり、因果歴然であり、輪廻があるのである。
>私の思うに、輪廻転生ということは、一般的には信じがたいことであろう。しかし、大いなる仏道に対して謙虚であれば、仏道は遥かなのである。たとえ仏教に帰依して出家し、仏道を修行したとしても、今生において釈尊のような完成した人格が得られるというものではない。私も、遥かなる仏道の一生涯として今生を生きたいと思う。これは有所得の心からではない。ただ、大いなる仏道のために。そして、たとえ来世がなかったとしても私はそれでいいのだ。
以上、引用終わり。
それを書いた角田泰隆氏は、曹洞宗の僧侶で、駒沢大の教授のようですね。南さんは、その人と対談されたことはなかったのでしょうか。
相手に不足ありで興味が湧かなかったということでしょうか。(所詮は縮小コピーだと。)
ただし、それは方便だろうという思いが七割ほどありますが。
そういうことって、有ると思います。そして、実は、人間の思考には、それが決定的に作用するんじゃないかと。
釈迦は、伝承されてきた実体視を、生理的に受け付けない人だった、ということかも、なんて思いました。
輪廻の方が、語感が良い、ということかなあと。
人間には、論理的な面のみならず、感覚的な面もありますよね。というか、感覚的な面の方が支配的な人が多い、ということかも。
>因みに、「刹那」も「極微」も時間や物体を実体視して、それを微分するという観念的操作(つまり「単位」概念の設定して、それを実体と考える)をしない限り、出てこないアイデアです。これを「無我」や「無常」と論理的に統合することはどう考えても無理でしょう(大乗的批判)。
でも、大乗の時代を生きた道元禅師は、バラモン教の実体論を外道と批判しながらも、輪廻を語っていますよね。そして、刹那に生滅する身心と別なるものであるかのような法身にまで言及している。
道元禅師は、なぜにそんなスタンスを取ったのか、そこに私は興味があります。
なお、道元禅師の時代なら、霊魂を信じていた日本人にとって、輪廻は、多くの人が信じられたと思えます。
現代では、霊魂の存在を信じる人が少なくなっているんじゃないか。霊魂を信じられても、それが生まれ変わる、ということを信じる人は少なくなっているんじゃないか。霊魂の生まれ変わりを信じられたとしても、自業自得の輪廻を信じる人は少なくなっているんじゃないか、とそうは思います。
でも、現代のアンケートでは、四割以上の人が輪廻を信じると答えているようです。
未来には、その割合は更に減るでしょうが、しかし、それは根強いとも思えます。
>「刹那」も「極微」も時間や物体を実体視して、それを微分するという観念的操作(つまり「単位」概念の設定して、それを実体と考える)をしない限り、出てこないアイデアです。
最初は、実体視したと思いますね。
>これを「無我」や「無常」と論理的に統合することはどう考えても無理でしょう(大乗的批判)。
伝承されてきた実体視を、疑問に思い、それを批判した、ということではないかと。
人間にとっての一切とは、現象認識に過ぎないと。いわゆる六根、十二処、十八界。
認識された現象は、どれも常住不滅ではない(伝承されてきた常住不滅たる真実の我ではない、無我)、生滅する、変化する、無常だというのは、誰にでも自覚可能だと思います。
そこから、その背後に常住な実体が有る、と夢想するのが人間。釈迦は、その妄想を止めよ、それに依拠するなと説いた。
そういうことなら、刹那刹那の生滅と、無我・無常は、同一概念と言えると思います。
信仰が重要な人がいる、ということではないでしょうか。
超人的な絶対者に依存したい、その教えで救われたい、という。
苦しみの滅尽という悟りに人は憧れますよね。既存のバラモン教で伝承されていたその悟りを、釈迦は達成したと宣言した。
それを信じたい、という人が、釈迦の教えに耳を傾け、なるほどそれなら実現できそうだ、とそれを信じた。そして出家して修行に身を投じた。自分には出家は無理だと思った人は、修行僧に布施する功徳で来世で出家できるということを信じた。まあ、インチキだと非難する人もいたでしょうが。
苦しみの滅尽なんて人間には無理、人は、死ぬまで苦しみに対峙する努力を継続しなければならない、その努力を継続する姿が悟りである、というのでは、それは信仰を基礎とする宗教ではなく、人生哲学、教訓であり、そのような悟りに魅力を感じる人は少ないと思います。
そして、輪廻という思考は、人間の感覚に合致するのだと思います。
子供が生まれたのを見た時、これは誰々の生まれ変わりかも、という思考が現れるのは、自然なことと言ってもいいんじゃないでしょうか。
また、他者の死を見て、自らの死を自覚し、死について分からない、死にたくないと恐怖したことから、死後の世界に想いを馳せて、続きがあるのではないか、と思考する。
過去に誰かがそんな思考をしたからこそ、輪廻という概念、言葉が生まれ、それへの共感者がそれを伝承してきた、ということだと思います。
>私は、「輪廻」は「私にとって不要」だと考えているのではなく、「仏教にとって不要」だと考えています(「業・因果」説は必須)。
全ての人に、ということですか。
業・因果説は、現世に限定して適用すべき、ということですか。
私には、それは無理筋に思えて仕方ないです。
>その理由は、すでに縷々述べたとおり、無常・無我・縁起・無記と言う核心的でユニークな仏教のキー・アイデアと「輪廻」は理論的に整合せず、実害があるからです(また、「輪廻」説による脅迫と利益誘導で勧善懲悪を言うのは、世俗レベルの話にしかならないず、仏説としてどうしても維持しなければならない意味も必要もない)。
南さんに対して、後に南さんの奥さんになる女性が、あなたに相談してる人は人間だよ、と言ったとか。
人間って、世俗を生きる動物であり、そして世俗を脱することに憧れるものでもあると思います。
宗教に世俗レベルの話も必須だと思いますね。
私が不思議に思い、お聞かせ願いたいのは、「輪廻」というアイデアを仏教として維持していかなければならない理由です。つまり、それを主張することの「長所」(「たかはし」さん)は何かということです。
初期経典にある言葉はすべて「絶対的真理」だとする「信仰」以外に、「輪廻」を説き続けるどんなメリットがあるのか、それがわからないのです。
私は、「輪廻」は「私にとって不要」だと考えているのではなく、「仏教にとって不要」だと考えています(「業・因果」説は必須)。
その理由は、すでに縷々述べたとおり、無常・無我・縁起・無記と言う核心的でユニークな仏教のキー・アイデアと「輪廻」は理論的に整合せず、実害があるからです(また、「輪廻」説による脅迫と利益誘導で勧善懲悪を言うのは、世俗レベルの話にしかならないず、仏説としてどうしても維持しなければならない意味も必要もない)。
「刹那」の連続を「輪廻」だとする主張もあるようですが、何故わざわざ「連続」と言えばすむであろうことを、「輪廻」と言わねばならないのか? そう言うと、どのような「よいこと」があるのか? ややこしくなるだけではないか(概念の無用な拡張)? どうにも疑問です。
因みに、「刹那」も「極微」も時間や物体を実体視して、それを微分するという観念的操作(つまり「単位」概念の設定して、それを実体と考える)をしない限り、出てこないアイデアです。これを「無我」や「無常」と論理的に統合することはどう考えても無理でしょう(大乗的批判)。
どうか、ご教示・ご意見をお聞かせ下さい。
蛇足ながら、私が伺いたいのは、「輪廻批判」派の方の意見ではなく、「輪廻支持」側の方のお考えです。よろしくお願いいたします。
問題なのは、自分が受け入れられないから、他の人にも受け入れて欲しくない、と思って、輪廻は間違い、と他者に主張することではないか、と思います。
輪廻思想は、私には必要ない。言えるのは、そこまでだと思います。
そして南さんは、輪廻思想には、実害があるから、それは仏教から取り除くべきだ、と提言していて、それに賛同する人がいる、ということだと思います。
そして私は、輪廻思想は正しく使えば有効な道具だから、正しい使い方を教えて、後は、それを使うかどうかは、本人の選択に任せればいい、という考えを持っている、ということですね。
それを、これが正しくて、それは間違い、と悟っていない者が言い出すと、議論は不毛な論争になる、そう思います。
それに対して、初期経典の釈迦や、道元禅師は、Bという輪廻を語っていると思われる、というのが私。
そして、Aたる輪廻と、Bたる輪廻に共通することは、人は死んだら終わりではない、そこには続きがある、自らの行為を原因とした結果としての来世の生がある、それは修行して解脱するまで繰り返される、ということでしょう。
それではいくら意見を交わして議論がかみ合う筈がありません。
こういった概念の話をする際は、その言葉の定義をはっきりさせないと、不毛な議論が続きことになると思います。
同一なら、生まれ変わっていない、ということですよね。
だから、輪廻に求められるべきは、同一性の保持ではなく、変化の連続性、関連性ではないかと。
道元禅師も、大修行の巻で次のように言っています。
>もし身知ともに生滅せずは、五百生を算数すべからず。算数することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。
生滅しない、同一なら500回生まれ変わったとは言えない、ということですよね。
まあ、それは言葉遊びの域のような気もしますが。
つまり、縁起の背後に不滅の実体が有る、という可能性です。
バラモン教の輪廻は、通常の方法では認識できない不滅のアートマンが、業によって生まれ変わる、ということのようです。それは、アートマンが縁起する、ということでしょう。
だから、バラモン教から発展した今日のヒンズー教では、釈迦はヒンズー教と違わない、と解釈するようです。
でも、釈迦は、認識範囲にはアートマンは無い、だからアートマンの有無の問題から離れる、アートマンに依拠しない、ということですから、縁起による輪廻の背後にアートマンが有るのかどうかは、分からないこと、それは相手にしない、ということだと私は理解しています。
南さんは、認識範囲に無いということは、それは、無いということだ、というスタンスではないでしょうか。そんなようなことが過去記事にあったような。
南さんにとっては、輪廻、生まれ変わり、という言語表現は、自己同一性を保持する不滅の霊魂のような主体が有ることを意味する。それが生まれ変わるのだから、生まれ変わりなのだと。
そして、それは、バラモン教の伝承する輪廻に同じ。バラモン教では、その不滅の主体を、真実の我、アートマンだと伝承してきた。
しかし、初期経典の釈迦は、そのような不滅の主体の存在を認めることなく、輪廻という言葉を使っている。輪廻を縁起で説明する。
主体が移行するのではない、縁によって生まれるのだと。それは刹那の生滅の連続だと。
それも輪廻、生まれ変わりだとしたら、滅した直後に生まれる、そこに同一性が保持される何らかの機能が必要で、経典では、それを業とか識と言っていますが、その具体的なプロセスは明らかにされていないようです。業や識も縁よる、ということだけです。それで後世の仏弟子が、それをいろいろに考えたのでしょうね。阿頼耶識もその一つだと思います。
南さんは、縁による刹那の生滅の繰り返しよる自己同一性の保持ということなら、それは、輪廻、生まれ変わりという言葉の語義に反する、別な言葉を使うべき、というスタンスだと私は思っています。
南さんは、言葉の限界を知りつつも、言葉に厳格であろうとする傾向があると思います。
私は、伝承されてきた言葉の意味は、その真実が分かったのなら、そのとおりに意味が変わっても支障ない、というスタンスだと言えると思います。
“輪廻は、「生まれ変わり死に変わりする」実体的存在(自己同一性を保持する霊魂のごときもの)を輪廻の主体として設定しない限り、意味をなさない概念です。”
と書かれている。たかはしさんの言われる「釈迦の言う縁起による輪廻」とは、南和尚の言う輪廻と同じことですか。それとも違うことですか。
ご著書をここ何年も繰り返し読み込むうちに「非思量 観無常」やっと言葉が身に染みてきました。
信仰ではなく共感だとする生き方にも賛同致します。
仏教私流のレジュメをウエブ公開して戴けると有り難いです。
>大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。
>先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。
>しかあれども、墮野狐せりときこえず。おほからば見聞にもあまるべきなり。
あやまらずもあるらんといふつべしといへども、不落因果よりもはなはだしき胡乱答話のみおほし。仏法の辺におくべからざるもおほきなり。参学眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。
しかあればしりぬ、あしく祗對するによりて野狐身となり、よく祗對するによりて野狐身とならずといふべからず。この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につつめる眞珠あるべきなり。
>しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり。迷妄によりてしばらく野狐に墮生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。
>これは外道の本我にかへるといふ義なり、さらに仏法にあらず。もし野狐は本性にあらず、野狐に本覚なしといふは仏法にあらず。大悟すれば野狐身ははなれぬ、すてつるといはば、野狐の大悟にあらず、閑野狐あるべし。しかいふべからざるなり。
>不落因果の道は墮野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。墮脱ありといへども、なほこれ野狐の因果なり。
>しかあるに、古来いはく、不落因果は撥無因果に相似の道なるがゆゑに遂墮すといふ。この道、その宗旨なし、くらき人のいふところなり。たとひ先百丈ちなみありて不落因果と道取すとも、大修行の瞞他不得なるあり、撥無因果なるべからず。
>またいはく、不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身すといふ。まことにこれ八九成の参学眼なり。しかありといへども、迦葉仏時、曾住此山。釋迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。
以上、大修行の巻から抜粋して引用。
ここで否定されているのは、外道たるバラモン教の輪廻、不滅の実体たる真我を主体とする輪廻のことであり、釈迦の言う縁起による輪廻までは否定していない、と私には解釈できますね。
「過去迦葉仏時の百丈山と、現在釋迦牟尼仏の百丈山と、一にあらず異にあらず」
「迦葉仏時、曾住此山。釋迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。」
それは、まさに、縁起による輪廻のことを言っていると私には思えます。特に「一にあらず異にあらず」という言葉を見た時は、あ〜、やっぱり言ってる、と思いましたよ。
さらに、大修行の巻には、
>しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、到菩提園の辨道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。岩下の死野狐、たとひ先百丈の自称すとも、いかでか大僧の行李あらん、仏祖の骨髓あらん。たれか先百丈なることを證拠する。いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を軽慢すべからず。
>しかあればすなはち、たとひ国王大臣なりとも、たとひ梵天釋天なりとも、未作僧のともがら、きたりて亡僧の事例を請ぜんに、さらに聴許することなかれ。出家受戒し、大僧となりてきたるべしと答すべし。三界の業報を愛惜して、三宝の尊位を願求せざらんともがら、たとひ千枚の死皮袋を拈来して亡僧の事例をけがしやぶるとも、さらにこれ、をかしのはなはだしきなり、功徳となるべからず。
という記載がありますね。
これって、僧侶の葬式を功徳あるものとして、僧侶以外の者に適用することを禁じる、ということですよね。
葬式の功徳を認めるって、それは、輪廻を認めている、ということではないでしょうか。
やはり、正法眼蔵随聞記にもあったように、道元禅師は、僧侶の葬式を重要視してますね。それは、輪廻思想があるからだと私は思います。
南さんが考えていることの一端に触れた私は、そこに何か新しいものを感じて、とても興味が湧いています。
それも仏教と言えるなら、それが仏教と言える根拠は何だろうか、どういうことだろうか、と興味が尽きません。
私は、こう解釈する、ということに、南さんは、どんな解釈をするだろうか。
そこに、私が共感した初期経典との共通部分を見つけられて、それが仏教の根幹だと思えたら、仏教は、やはりそれでいいんだ、と私の安心材料になると思っています。
端的に言えば、学びとは、孤独なものですから、誰かと意見交換して確認したい、ということですね。
イエスちゃんさんは、輪廻思想は、間違い、と断言する、というスタンスだと私は理解しています。
私は、その断言を問題にしています。そう断言できる根拠は何か。その根拠は、盤石とは言えないだろうと。
そして、その断言を、全ての人に受け入れさせようとするなら、それこそ非現実的だろうと。
仏教における輪廻思想に、どう対処するかは、人それぞれでいいだろう、ということです。私がこだわっているのは、そこです。
イエスちゃんさんは、輪廻は外道だと言われる。
たかはしさんも、3割程の疑念はあるにしろ、7割方輪廻は方便だとお考えになられている。
しかし、今回のやり取りから察するに、どうしても輪廻が気になるようですね。その輪廻にこだわる心情をご自身ではどう分析されていますか。
また、たかはしさんの見解を南和尚に読んでもらいたいとのことですが、まさかそれで南和尚の輪廻に関する考えを変えようと思っているわけではありますまい。南和尚にコメントを読んでもらうことが、たかはしさんにとってどうプラスになるのですか。
いたとしても、
そう簡単に語れることでもないでしょう。
今回は院代の配慮である。
あと一日、思う存分語ることだ。
中途半端に対応するぐらいなら、最初から、放っておいて、というのが私の率直な感想です。
それに疑問を感じるのですよ。
前に話した、3巻/87巻を読みましたか?
・現成公案
・仏性
・行持
更に、
「帰依三宝の巻」「全体を」読んだのですか?
全体の中から「その意味が」確定するのである。
都合の良い「断片」だけをかき集めて、それを「自分の主張の道具」に利用する。
その姿勢に問題があるのですよ。
先ず、しっかり『正法眼蔵』を読みましょうよ。
素晴らしいです。
これは、外道?
それが他の参加者にとって極めて不快だ、という現状を見過ごせない、だから、その元凶たる私を排除するしかない、と管理人たる南さんが判断されるのであれば、率直に言って頂きたく思っています。
なお、私としては、コメント数に上限を設けたらどうだろうか、例えば100で打ち切りにするとか、なんて思ったりします。そうすれば、堂々巡りにブレーキが掛かるかもしれない、なんて。
最初の方の「名色」で十分。
つまり「色」(外界のもの・事象)に
「名」(名前、概念を付ける。内界の作用)の「一対」で。
そして、二つは分離できないから、
一つの専門語「名色」と名付けた。
同様に、
「身」と「こころ」と、二つに分けない。
「肉体」は滅びるが、
「こころ」「霊魂」「力」「エネルギー」「影響力」・・・だけは、滅びない。
これは仏教でなく、外道です。
その箇所を紹介してくれる人が現れることも期待しているのですが、それがないのが不思議なんです。
南さんに共感してこのブログを見ている人に、正法眼蔵に詳しい人はいないのではないか。
あるいは、正法眼蔵を分かっている人は、私のことを相手にせず、分かっていない人が、分かっていないが故に私を相手にするんじゃないか、なんて考えたりします。
南さんは、こう解釈した。イエスちゃんさんは、こう解釈した。そして、それに対して、私は、これこれの理由で、こう解釈している、と言ってるだけのつもりなんです。
そして、そのキーワードとして、道元禅師の言う法身を取り上げたのも、その一貫に過ぎない、というのが、私の感覚です。
そして、次々に新たなテーマが相手から提示されるから、それに対して私の解釈を披露する、ということになる。
私が、なんでそんなことをするのか、というのは、私の見解を南さんに読んでもらいたいからです。そう思っているのは、私だけじゃないでしょう。
そして、私の理解度を試す動機もあり、学びの刺激にしたいという意図もあります。実際、かなりの効果を感じています。
それを、迷惑に思っている人もいれば、勉強になる、と言う人もいる。
それが、ここで起こっていることであり、それを管理人である南さんが見守ってくれている、と私は思っている。
そして、南さんは極めて迷惑に思っているのだ、と南さん気持ちを代弁しようとする人もいる、ということではないかと。
後世に編集されたということで言えば、生老病死の「生」も「老病死」という三つの苦しみに後から付け加えらたとか。「生」があるから「老・病・死」があるという理由で、わざわざ「生」を足す必要があったのでしょうか。今風に言うならば、あまり上手いプレゼンではないですね。この編集をした人がこれまた輪廻を信じている人で、解脱しそこねる(=生まれる)苦しみという意味で、それを「老病死」に足したのでしょうか。
しかし、生老病死は人間以外の動物にもあります。彼らが人間のように苦しむとは思われない。そうすると、意識というものがどこかに入ってこないと、人間が苦しむ「老病死」は意味をなさないのではないかと思います。そこで「生」と意識がつながらないかと思ったのですが、生老病死の四字に深い意味を読んではいけないのかもしれません。
説得するのは、『正法眼蔵』の解読に長い年数を費やされた方の親切心だと思います。思い入れのある教えを曲解するな、という気持ちも多少あるかもしれません。
その助言を受け取る側が、それを必要としないというのであれば、それ以上話を続けても仕方がありません。
ただ、我々素人が独学で何かを学ぼうとする際には、その道の専門家の言う事には積極的に耳を傾けないと、大概は迷走して自己満足レベルの知識にしかならないと思います。そして、その自己満足を維持する為に、自分を外界から遮断する必要が出てくるでしょう。たかはしさんは、ご自身のブログを書かれたり、ここのコメント欄で意見を披露されるということは、自己満足のレベルで良いと思われてるのではないのでしょう。
法身という言葉についてこだわられている様ですが、仮にその言葉が「不滅なる魂」のようなものを指しているとしても、それはたいしたことではないと思います。正法眼蔵に「輪廻は方便である」という見方に合致する言葉を探せば、おそらくそれは見つかるでしょう。また「輪廻は事実ではないか」という見方に合致する言葉を探せば、それも見つかると思います。だから南和尚は「宗祖の言葉や聖典をすべて無謬であると考えるべきいわれはない」と釘を刺すのでしょう。しかし、道元禅師の思想は何であったのかと考える際に、正法眼蔵に矛盾する記述があるから理解は無理だととあきらめるのか。捨てるべき部分は捨てて、一貫した解釈を導きだすのか。それは読む人次第でしょう。
結局は、たかはしさんが仏教に何を求めるのか。また、南和尚の教えに何を求めるのか。問題はそこではないでしょうか。
いいかげんにしてください。
人は死ぬ。よって、常住は、あり得ない。常住論にあらず。
人は生まれる。よって、断滅は、あり得ない。断滅論にあらず。
しからば、私は、何を説くのか。
それは、縁起による輪廻である。
私は、業論者である。
初期経典によれば、そうなるようです。
そして、道元禅師は、法身を語るに及んだ。
そういうことじゃないかと。
「生(起こる、生起する)」
「住(それが、持続する)」
「異(それが、変化する)」
「滅(それが、消滅する)」
それに重ねて、
「生(誕生)」があるから「老」がある。
「老」があるから「死(死滅)」がある。
という意味でしょう。
(「生」がなければ「病」も当然ない)
もともと、独立した「二支縁起」「三支縁起」「四支縁起」…だったものを、後世につなげたものですから、
連鎖の途中段階の「生」に「輪廻転生」の意味を付加するのは、原初の目的には反します。
「現在の南方仏教」では、当初の意味が解らずに、なんでもかんでも正しいと言い張るので、
この「生」を
「自分の母の母体」から出てくる場合の、「自分が狭い産道をくぐる場合の痛み」の苦、なのだ
などというこじつけを考え付くのでしょうね。
だから、法身って、何なのか、をテーマにしたかったんだけど。
まあ、仕方ないですね。
そして堂々巡りになりましたから、もはや議論の限界のようですね。
「現成公案」の巻は、
旧草『正法眼蔵』全75巻の立場・目的・主題なのです。
他方、
「帰依三宝」「帰依仏法僧」の巻は、
新草『正法眼蔵』未完全25巻の立場・目的・主題なのです。
道元和尚の「執筆の目的」が明確に異なるのです。
後者は、修行・坐禅・只管打坐をする主体の確立が主題であり目的!
そして、執筆の目的に沿って、読まなければならない。当然である。
だから、再三に、「ブログ記事・最初の南師の文章・解説」を理解しなさい、と「要請している」のです。
それが解からないようでは、ここでの議論は無駄なのです。
ここで、はっきりと南師が「既に」ご説明しているのだから。
それに付け加える必要はない。私としては。
戯論、戯論ってさ。
あんたがたが言葉を話すんじゃない。言葉があんたがたを話すんだ。言葉は生きているもんだ。あんたがたの言葉は死んでいるぞ。
(摩訶般若波羅蜜)
諸法は、空である。
つまり諸法には、実体が無いから、実体は生まれていないのだから、諸法は、実体としては、不生。
実体が生まれていないから、生まれていないものは、滅することがあり得ないから、諸法は、実体としては、不滅。
でも、諸法は、実体が無い状態で、存在はしている。
実体が無い状態で存在しているからこそ、色々に輪廻できる。
そういう解釈も成立しそうでは?
人の認識範囲には、実体は見出せない。だから、それは実体ではない、としか言えない。
そして、人は、縁による輪廻という現象を認識できる。
そこに実体が介在しているのか、介在していないのかは、人は知ることが出来ない。
とそんな解釈も成立するのでは?
実体が輪廻するのではない。従来の輪廻の伝承は、間違いである。
輪廻とは、縁よって刹那刹那に生滅を繰り返すことである。
そう言われたら、どうします?
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。
死の生にならざる、法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。
たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
(現成公案)
イエスちゃんさんが言っている、
>そもそも
「前世から、「自己」が、生まれて来る」のではない」
だから「不・生」
「生まれて、来て、いない」のだから、
「この世から「滅し」去って、来世に生まれ変わるのでない」、
だから「不・滅」である。
というのは、上記の現成公案を解釈したものなの?
私なら。
>薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
>灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
>生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。
という言葉に着目して、それは、今、という刹那に着目した見方のことを言っていると解釈しますね。
存在は、常に、今、という刹那しか無い、という面に着目すると、そこには、原因から結果が生まれる、という流れはありません。
だから、
>生の死になるといはざる
>このゆゑに不生といふ。
ということになり、
>死の生にならざる
>このゆゑに不滅といふ。
ということになる。
だから、それは、存在は、今、という刹那の連続である、という面に着目した因果関係、輪廻まで否定したものではない。
と、私は解釈しますね。
だって、道元禅師は、刹那刹那に生滅する身心とは別の「法身」について語っているのだから。
イエスちゃんさんは、その法身を話題にすることを避けてるようだけど。
「武士の王子」だったので、「身体は屈強だった」筈です。
それにも関わらず、
「一番生命の盛りの時点」で、「老い」と「死」を「自分に起こる事」と実感し、リアルティを感じ、
社会を捨てて、家庭を捨てて、「出家」し、
「修行者」となって「解決の師」を求めて、インド全土を巡った。
そして、
「自己」を、「この死」から「救う」。
という課題に対して、
「パウロのキリスト教」では、
「自己」は、「魂」「霊魂」という実体であり、
神様が、「自己」が死んだ後、天国に生まれさせ、「永遠のいのち」を授けるという形で、解決する。
他方、「釈尊の仏教」では、
次のようにして解決している。
「自己」は「実体」ではない。
「自己」とは「現象」であり、
「それに名付けたもの」であり、
つまり、「言葉の虚構」である。
そもそも
「前世から、「自己」が、生まれて来る」のではない」
だから「不・生」
「生まれて、来て、いない」のだから、
「この世から「滅し」去って、来世に生まれ変わるのでない」、
だから「不・滅」である。
「自己」が、(大脳皮質の前頭葉の「自己認識機能部署」で)構築されたものである事は、
「深い坐禅の状態」に入る事によって、
(大脳皮質の活動を極限まで低下させて)
それまでの「自己」が解体されていくプロセスを何度も「実体験」し、
それを「後から深く省察・分析すること」によって、「発見した」と、考えられる。
だからこそ「坐禅修行行為」こそが、仏教では、最重要になってくる。
所謂「自己=現象」というものは、「条件が満たされて、縁起で顕われるものであり」「条件がなくなり、縁起で消えるもの」である。
この「無分別智」に至って、
「自己の死」の恐怖から解消される。
これが「釈尊の仏教」による「自己の死」の解消方法である。
「死の克服」である。
「釈尊の仏教」は、「救ってくれる神様」は必要ない。
「解れば、死苦から、解放される」
十二縁起は輪廻の他に、今世について、今現在について、全てが妥当する、とスマ長老は言います。
それから、中村元氏が東大で学んだ時の教授に宇井伯寿という人がいて、中村氏によると、その教授が、縁起は、現在の人間存在のありようについて語ったものだということを明らかにした、ということのようです。私は、その論文を読んだことがないので詳しく知らないのですが。
だから、中村氏は、輪廻は方便だと解釈するようです。
ちなみに、宇井伯寿という人は曹洞宗の僧侶で、なかなかに興味深い人物のようです。
現に存在するカースト制度を否定したり、
バラモン教の誤りを否定したりしなかった。
それって、イエスちゃんさんの独自解釈?
それとも誰かの解釈に共感したの?
私もそう思います。
っていうか、説得する必要無いでしょう。他者は他者で、それで満足してるなら。
輪廻思想には、誤用による実害があるから、というのがその理由だとしたら、誤用しないように正しく理解させることに努める方が現実的だと思いますね。
常にアンテナを張って、誤用されていないかどうか注視してね。
例えば、世の中からイジメを無くすための決定的な思想って、あり得るでしょうか。あったとしても、それを全ての人が受け入れて、全ての人が誤りなく実行する、なんてことが、人間にあり得るでしょうか。
それこそ、非現実的な期待だと思いますね。
誤用しないようにちゃんと理解させて、実行させるように、努め続ける、ということしか無いと思えますね。
人間を画一的に導こうなんてことは、無理筋だと思いますね。
人それぞれを認めた上で、どうしたらいいかを考えるのが、現実的でしょう。
母胎だけなら、それは、父と母の一滴より成る、と言えるでしょう。
そしてそれは、太古の生物から連綿と続く遺伝子の賜物である、という推察も成り立つでしょう。それが事実である可能性が高いと私は思っています。
仏教において問題になるのは、その母胎に入るという識とは、ナニモノか、ということになるでしょう。
釈迦は、その識こそが、前世から今世、そして来世へと移行する輪廻の主体だと理解した弟子を叱責しています。そうではない、縁によるのだと。
そして、縁起の法の理解は簡単だと言った、まだ悟っていないアーナンダに対して、そう考えてはならない、縁起の法は理解が難しいものである、とも言っている。
だから、ややこしい、とそう思います。
そこで私が記事に関連した話題としてテーマにしたいのは、
>身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。(帰依三宝)
>自己の身心は刹那刹那に生滅するはかないものではあるけれども、仏法僧の三宝に帰依することによって、永遠不滅の仏の身心が成長して、悟りを成就するのである。
http://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=39&bl=1
と道元禅師が言っている、法身とは何のことか、どういうものと考えられるか、ということです。
しかし、この話題には、イエスちゃんさんは反応しません。
あれだけ、色々と語るイエスちゃんが。
なぜ?
十二支縁起の11番目にある「生」が「生まれる」という意味だと、その前の10段階は生まれる前、つまりは「前世」みたいな話になります。これは十二支縁起が輪廻を信じる人によって構成され「後付け」されたからなのかもしれませんが、『中論』でも語られている以上、そう簡単にうっちゃってしまっていいのでしょうか。また、『「問い」から始まる仏教』にある、無明とは言語機能で、十二支縁起は存在構造の論理的説明だという発想にも私は魅力を感じます。
一方、生老病死の「生」が「生まれる」ならば、なぜ胎児の痛みなんぞを問題にするのか解りません。もし「生きる」ならば、「生きる苦しみとは生きることである」といった感じになり、意味のない駄目な文になってしまいます。
素人の思いつきですが、この「生」とは、(動物とは違う)人間として生まれる、つまりは自我意識が「生」じるということを指しているのではないでしょうか。そうすると「生老病死」は、「自我意識が発生するが、老い、病によりそれは消滅してしまう」のが人間の苦しみであると読めます。八苦の残りは四つは、自我意識から生じる煩わしさと言えるでしょう。
十二支縁起は、「言語機能が発動され、自他の関係性を認識するようになり、自我意識が生じ、苦しみに至る」仕組みと解釈できます。
こういう解釈は無理でしょうか。
もし科学にこだわるとしても、なぜ意識があるのかと問いは、科学でもまだ解明できていないようです。生物だけでなくありとあらゆる物質に程度の差こそあれ意識が存在する、といったワイルドな理論が真剣に研究されているようです。興味のある方は日本語字幕もあるので見てみてください。
https://www.ted.com/talks/david_chalmers_how_do_you_explain_consciousness
こういった理論が輪廻に関係しているという訳ではありませんが、科学で輪廻を信じる人を説得するには、分からないことがまだまだ多すぎるのだと思います。
釈尊は「インド社会」そのものを変革しようとしなかった。だから、
現に存在するカースト制度を否定したり、
バラモン教の誤りを否定したりしなかった。
逆に、釈尊も弟子も、この「インド社会」から「出て行った」のです。
それが「出家」です。
「父としての義務」「夫…の義務」「親への義務」「働く義務」…すべての社会が要請する義務を断ち切り、社会のしがらみを切って、この現実の社会の外に出て行ったのです。
このインド社会の外、
つまり、僧院内では、カースト制度をなくした、年長者を敬う事もなくした。
そして、ただ、「出家時期の順番」だけを残した。
必要な場合はそれを用いた。
席順など、いらない諍いや譲り合いを行ない様に。
社会を変えるのではなく、自分のこころの方を変えた。
それは、目的が「生病老死の苦」の克服だったから。
貴方は「今、現在」認めている、のですか?』
「輪廻転生」を信じているか、どうか、ではありません。
「この生物学的いのちが連続している」
この事実を認めるか、否定するか、
を質問しているのです。
なお、回答は、「もはや」不要です。
回答は必要はありません。
古代における「単細胞生物の輪廻転生」などとは、自己矛盾ですから。
完全に「この世のもの」である。
だから、「現代の生物学の発見した事実」と矛盾が生じないように「解釈が可能である」、と考えています。
「父のいのち」が「精子の形」をとり、「母のいのち」が「卵子の形」をとり、二つの「いのち」が合体して「受精卵の形」となるが、「私のいのち」となる。
つまり「私のいのち」と「言葉」で言っているが、実際は「父のいのち」が「連続して生きている」その「いのち」なのです。
同様に、「母のいのち」そのものが「私のいのち」なのです。
同じく、「私のいのち」がそのまま連続して「私の子供のいのち」そのものなのです。
「父」「私」「私の子供」・・・これらは「言語」を適用して区別しているが、「実際の世界」は連続しているのだから、「何処までが父で、どこからが私なのか?」は、「言葉」の定義の問題でしかないのです。
古代の「アメーバのような単細胞生物のいのち」が「現在の私のいのち」なのだという事実があるのです。
これは「信じるもの」ではなく、単に「知った事実」なのです。
そして、重要な事は、「この生物学的事実」の上には、
「輪廻転生の物語」は、「乗る事は不可能なの」です。
これが「論理的に」理解できますか?
龍樹菩薩が『中論』で証明しているように、
「自己」とは「言葉」が創り出したものであり、「実際に存在するもの」ではないのです。
「或る現象」に対して、言葉で名付けたもの、言葉で定義したものなのです。
「父のいのち」「私のいのち」「私の子供のいのち」これは、実際は「連続した・切れ目なしの・一つのいのち」なのですよ。
それに対して「言葉」を用いて、分断して「別の名前」を付けているだけなのです。
「無明」とは「この言葉の世界を、実際の世界であると、錯覚している、信じている事」である。
「自己」の「死=消滅」を恐怖しているが、
「自己」は「言葉の虚構」でしかなく、実際は全ては連続しており、「縁起の世界が展開されている」だけである。
だから、「輪廻転生」がはい入る隙間はないでしょう。
論理的に考えれば。
「釈尊の仏教」「龍樹菩薩の仏教」「道元和尚の仏教」は、「言葉で考えていることに、問題の本質がある、と発見」し、それを教えているのです。
だから、最後は、「非・思量」、
「考える行為ではない、非ず」と教えるのです。
私が輪廻を信じているのか、ということについては、方便だろう、が7割、真実かも、が3割、とそんな感じだと、以前にコメントしたんですが、読んだことなかったですか。
そのことについては、既にコメント済みです。
これが縁起的存在ということです。
「すべてが連続して」いて、起きている。
そこに対して「言語」を用いるから、
世界が分断され、
「自己」が「実体として存在する」と、妄信してしまう。
「自己」を実体と実感するのは「言葉の虚構」なのです。
「自己」は「現象」であり、縁起的存在である。
自分が、太古の「単細胞生物の・いのち」と「連続している・いのち」であると、
貴方は「今、現在」認めている、のですか?
「単細胞生物が…単細胞生物への輪廻」
それを「本当に」信じているのですか?
なぜ信じれるのだろうか?動機は?
だから、自己は忘れられて縁起的次元から再構成され(ブログ主註:坐禅を土台とする修行)、修行する業的実存として、未来と過去へと切り開かれなければならないのである。少なくとも、『眼蔵』はそう述べているだろうと、私は思う。』
どうも、「上記の文章の意味」が「まだ」理解できていない、としか考えられない。
もしも、議論するならば、上記を「共通の土台」にする必要がある。
先ず、ブログの文章を「正確に」理解して下さい。
重要な事は
新草『正法眼蔵』全75巻と旧草全12巻の「両方を、同時に」考える必要があるという事です。
大筋は、
旧草は、「仏教思想論」であり、
新草は、「仏道実践論」である。
アメーバのような単細胞生物が、まだ人類に進化していない時には、地球上では、単細胞生物への輪廻しか起きなかっただけで、他の惑星では人類のような生き物への輪廻が起きていた、という可能性を完全に排除できるか、という問題ですよ。
地球上だけで考えるから、無理筋に思えるんでしょう。
そんなことは、およそ非現実的に思える、というのが、多数でしょうが、しかし、それで全ての人は納得させられませんよ、という話です。
進化論を認めない人だっているのが現代人じゃないですか。
ところで、この話題は、南さんの記事から離れてませんか。
テーマを広げるのは、止めましょうよ。
進化して「貴方のいのち」と成っている、
(この「いのち」が連続している)
「この事実」を認めるのですか?
(生物の化石を「年代順に並べると」これが解る)
だから、以下のことは、「上記に対して、何も」反論になっていない。
(それが「論理的に」解かっていない。それが「議論するには」問題だと思う。)
『「最初の生命」は、宇宙から隕石に乗ってやってきた、なんて説はなかった?
この宇宙には、「他にも生命が住める」惑星が有る、なんて説は?
さらには、宇宙は、この宇宙だけでなく他にもある、なんて説はなかった?』
731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。
740 妄執を友としている人は、この状態から、かの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。
742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。
743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。
746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。
以上、スッタ・ニパータ。
中村元氏は、十二縁起は、後代に完成された教義であり、その原型は、スッタ・ニパータのその記載だと解釈するようです。
なかなか、今回の話は難しいですね。
「因果」自身も先日脚立から転落して左足頸部高原骨折をしてしまって、何が原因でこんなことになったのか、考えていました。
人生なにが起こるかわかりませんね。ポジティブに生きたいものです。
当初は、複数の「三支縁起」群、であった。
(それらを集大成して、後に「十二」で完成。)
つまり、釈尊の時点では「三支縁起」であっただろう。
南さんの解釈に共感している部分がある、ということ?
(「神話」などで、この世を説明しない)
「十二支縁起」は「坐禅の経験」から生まれてきたもの。
「大脳皮質の活動を「極限まで低下させ」た状態」から、
徐々に、頭脳活動が通常に「回復するプロセス」、
「外部から感覚を受け入れ」「その刺激を分析して外界を認識し」「脳内に、外界を構築する」ここで「言葉」が大きな働きをする。
「欲望が生まれ」「執着が生まれ」…、
最後は「生病老死」、「一切皆苦」、
つまり「生苦・病苦・老苦・死苦」が発生して来る。
『十二支縁起もやはり輪廻転生の「説明」』
違うと思います。
そして、道元禅師は、どう考えていたか、ということについて、理性的に議論しましょうよ。
有ると嫌なの?
それも執着じゃないの?
最初の生命は、宇宙から隕石に乗ってやってきた、なんて説はなかった?
この宇宙には、他にも生命が住める惑星が有る、なんて説は?
さらには、宇宙は、この宇宙だけでなく他にもある、なんて説はなかった?
どんなに現代科学を力説しても、それでもって万人は説得できないでしょう。
キリスト教徒だって、未だに進化論を認めない人がいるんでは?
(理性的に考えることができない人とは議論は成立しませんので)
「生物」が、今まで、「進化して」きて「種を拡散してきた」きたことは事実であり、
更に「自己のいのち」は、
古代に発生した「単細胞生物のいのち」がそのまま途切れずに、「多細胞生物のいのち」に変りながら続き、・・・(途中省略)、
「哺乳類のいのち(ネズミのような小動物だった)」更に「類人猿のいのち」・・・
最後は「現在の自分のいのち」となっている。
この全プロセスで「同じいのち」が続いている。
これが解かれば、
「この連続したいのち」のプロセスにおいて、途中のどの段階から「輪廻転生」が「突然」発生するのか?
最初の「単細胞生物のいのち」の段階からか?
これを、冷静に考えれば、客観的に考えれば、論理的に考えれば、「輪廻転生」は成立できません。
それでも「科学の知見の時代」の「現在でも」、
「自我」にしがみつく人は、「輪廻転生」を「欲望する」でしょう。
存在の刹那を観察するだけに集中してると、その存在は、刹那に、刻々と変化して行きますから、余計なことを考える暇が無くなりますね。
龍樹の中論では、前半は、原因によって結果が生まれる、ということを否定しているように読めますが、最後の方で、輪廻や、十二縁起が出てきて、原因によって生じる、ということが語られてますよね。
人が認識しているこの現象世界には、常に、今、という刹那しか無い、という面と、その刹那の連続である、という面がありますよね。
だから、今、という刹那しか無い、ということに着目すれば、原因から結果が生まれる、ということは無い、ということになる。
でも、その刹那の連続である、ということに着目すると、そこには原因から結果が生まれる、ということがあり、輪廻がある、ということになるのではないかと。
そして、悟るには、解脱するには、この世の存在には、今、という刹那しか無い、ということに着目して、執着から完全に離れることが必要なのだ、ということではないかと。
宮崎禅師が、息と一つになる、一息一息、欲の起こる隙が無い、というようなことを言ってましたね。
この件に関しては、現在のダライ・ラマの死後、その生まれ変わりを探し認定する役割を果たすパンチェン・ラマが中国政府によりどこかに連れ去られ消息不明で、中国政府が別のパンチェン・ラマを据えてしまった以上、そう言うしかないでしょう。おそらくは、ダライ14世が他界された後、中国政府は、この親中国のパンチェン・ラマを使い、中国政府に都合の良い人物をダライ・ラマの生まれ変わりとして選ぶ運びになるのでしょう。「輪廻転生で、次を決めない」という宣言は、それを見越してのことだと思われます。
>そもそも、「現代の日本人は」生物進化の事実を「知って」います。
私が思うに、輪廻を信じる人は、生物学の扱う「生物」「肉体」と輪廻する「魂」は全く別物と捉えているだろうので、生物進化の話をいくら強調しても伝わらないと思います。
老病死と分けた生の苦しみとは、生まれる時の痛み、という解釈なのかなと。
この東南アジアの友人は、タイの教団の信者なのですが、彼の縁でその教団のお坊さんと話す機会が何年か前にありました。
その時に私は、かじっただけの知識で「輪廻、輪廻とおっしゃりますが、お釈迦様は死後については何もはっきりしたことは言っていませんよね」と尋ねてみました。そうすると、お釈迦さまは「輪廻からの解脱」を明確に語っている。だから輪廻はあるんだ、という答えが返ってきました。
また別のタイのお坊さんと話したときは、『「問い」から始まる仏教』を読んだ勢いで、「生老病死の“生”とは何を指すのでしょうか」と聞いてみると、胎児が母体から出てくる際に痛みを感じるという説明でした。
胎児の痛みなんぞを「老病死」と並べて語る訳ないだろと思うのですが、タイのお坊さんがこう説明するということは、経典が中国語に翻訳されたときに、おかしな字が充てられて意味が伝わらなくなったということではないのでしょう。
この「生」という言葉が「生まれる」でも「生きる」でもない可能性を探る研究というのはないのでしょうか。この「生老病死」の「生」が「この世に生まれる」という意味で、十二支縁起の「生」も同じだとすると、十二支縁起もやはり輪廻転生の説明ということになってしまうと思います。
(「自己」が救われるためではない)
沢木興道老師
「坐禅は、「何の役にも」たたない」
スイスの宗教改革者・カルヴァン(カルビン)
「児童のための教理問答書」の「最初の問」でびっくりした。
「問1 人は「何のために」生きるのか?
答1 「神様を知るために」生きるのです。」
つまり、「自分が救われるために」キリスト教を信じるのではない、と教えているのです。
「人生」の為に、「宗教」がある、のではない。
逆であり、
「宗教」の為に、「人生」がある、と児童に教えている。
「宇宙」は、何の目的もなく、ただ存在している。
「地球」は、何の目的もなく、ただ存在している。
「生物」は、何の目的もなく、ただ存在している。
本当は
「自己」も・・・
「宗教」は、人間が勝手に決めた「目的」を、無効化してしまうものである。
と思う。
会話が盛り上がりそうもなかったので、私は、他の話題に切り替えました。
971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
スッタ・ニパータ
国教と言っていいような既存のバラモン教の生まれによる身分制度を否定し、 その祭祀の誤りを指摘した釈迦とその弟子が、司祭階級たるバラモンからどんな仕打ちを受けたか、想像できますね。それは巨大な抵抗勢力だったのではないかと。
それから、不滅の実体たるアートマンを認めない釈迦は、虚無論者と理解されていたようです。
さらには、頭を剃るというのは、当時は罪人への刑にあったとか。自ら髪を剃り落とし、捨てられていたボロ布で作った服を着た釈迦とその弟子を見たら、どう思うでしょう。危ないカルトと受け取られるでしょうね。そんな釈迦に大事な息子を出家させられたとしたら‥。
そんな釈迦の教えは、司祭階級たるバラモンを目障りに思っていたであろう王族や商人、自らの宗教に疑問を感じていたバラモンや、他の出家修行者には受け入れられる余地があったようですが。
やがて王によって政治利用されて、ある程度は普及したようですが、その王も、民衆も、釈迦の教えを真に理解できていたのかどうか。
宗教としては、死後も不滅の実体が有る、絶対者によって救われる、と言ってくれる方が圧倒的に支持されますよね。
テーラワーダ内では、
アウトローのようです。
独自の解釈を披露しますからね。
やっぱり、南和尚は、
曹洞宗内では、
アウトローのようなのでしょうか?
独自の解釈を披露してますからね。
やっぱり。ゴータマ・ブッダは、
古代インド宗教団内では、
アウトローだったんでしょうか?
独自の解釈を披露しましたからね。
釈迦の悟りの実現と、釈迦の悟りを実現できていない偉大な思想家。
道元禅師は、どちらを志向するだろうか。
スマ長老は、偉大な思想家は志向していないと思われます。
ちなみに、スマ長老は、最近の講話で、自分は日本にいるスリランカ人の信者からは相手にされていない、悪者扱いされている、と笑って発言してました。
やっぱり、スマ長老は、テーラワーダ内では、アウトローのようです。独自の解釈を披露しますからね。
初期経典には、法身という概念は無いと思われる。
道元禅師は、どこから法身という概念を導入したのだろうか。
イエスちゃんは、法身ということにコメントが及んでも、それに対応しない。
なぜ?
他方、道元和尚も少年の時に出家したが、しかし、比叡山で、「膨大な経典」「一切経」、「論書=哲学書」に出会った。
天台智顗の体系化で「法華経」「華厳経」…
初期経典「阿含経」「説一切有部の論書」
「北伝仏典」も、北方経由の「南伝仏典」も。
ここで「教え」に「大きな相違点」がある。
どれが「本当に」正しいのか?の文献批判が必要になってくる。
道元和尚は、信じる前に「批判的に読む訓練を」積んだ。
如浄禅師にも、自分が「偽の仏典」としたのが正しい事を、確認している。
要は、道元和尚は、「初期仏典」経由で釈尊に逢っている。
道元和尚は、「法華経」を執筆した「思想の巨人」とも格闘した。
互角であった。
だから、
『師匠の「言いなり」の弟子は、せいぜい縮小コピーにしかならず』
経典の「言いなり」にならなかった。
だからこそ、偉大な思想家になってしまった。
他方、スマナサーラ長老は、頭っから「南伝経典」を「信じて」いる。
勝れた縁とは、輪廻のことじゃないでしょうか。
病ひして死せば本意なり。大宋国の善知識の会下にて修し死に死してよき僧にさばくられたらんは、先づ勝縁なり。日本にて死せば、是れほどの人に如法仏家の儀式にて沙汰すべからず。
http://blog.goo.ne.jp/yoshinogawa3/e/6a79b76e257aa10e1fd7ef4ded174348
引用開始。
本は、ブッダの人生を概観し、ブッダの教えがどのように後世に伝えられたかを語る。衝撃的だったのは、ブッダの一番弟子でブッダの涅槃にも居合わせたアーナンダがブッダの教えを最初に裏切ったという事実である。そしてその裏切りを受け継いだのが現在の仏教徒であり、山折は彼らを”アーナンダの徒”と呼ぶ。
仏教徒の裏切り
「大パリニッパーナ教」(大般涅槃経)によると、80歳になったブッダは弟子のアーナンダをつれて最後の旅に出る。旅の途上、ヴェーサリーという町に入ったとき、ブッダは旅の疲れから生命の急速な衰えを感じたが、弟子や人々が望むならもっと生き続けられるということをアーナンダにほのめかす。しかし、アーナンダは3度あったブッダのささやきに気づかず聞き流してしまう。そのようなアーナンダの態度をみてブッダは3か月後に入滅することを決意する。これがブッダの最愛の弟子であったアーナンダの最初の裏切りである。次に、アーナンダに、”私の遺骨の供養にかかずらうな。”という遺言を残す。ところが、アーナンダと他の弟子たちは、ブッダの遺体を火葬に付し遺骨を分配しストゥーパを建てて安置し、その後長きにわたり供養を始めるのである。仏教はこのようにブッダの教えを裏切ることから出発したのだという。
しかし、山折はこの裏切りは必然で仕方がなかったと結論付けるのである。なぜなら、偉大な師を亡くした弱い人間は、仰天し、錯乱し、悲嘆と苦しみの中でブッダの遺骨を崇拝することしか救いがなかったのである。だから、現代のアーナンダの徒は、その歴史の必然を受け継ぐしかないのだという。葬式仏教だと罵られてもである。
以上、引用終わり。
「当時の習俗に」任せ「在家が」行った。
だから、多分「バラモン教式の葬式」だったろう。
要は、「葬式は、当時の社会の習俗で良い」。
理由は、「仏教の教え」とは、無関係だから、どうでもよい。
つまり、「日本では、死者は、ご先祖様の扱いで良い」のかも。
まあ、仏式が「習俗に」定着しましたが。
みなさんのお話を総合するとつまり、修行を続けてるとなんか神っぽくなってくるよってことよね。
>これと「道元和尚の仏教」と整合性を付ける必要はありません。もともと関係がないのですから。
イエスちゃんさんが、これまで義介禅師や瑩山禅師を批判してきたのは、何のため?
道元禅師が日本の仏教の現状に疑問を抱いたのも、その変容を間違いだと思って、歴史上の釈迦に回帰しようとしたんじゃないの?
歴史上の釈迦って、古代のインド人でしょ。
『ダライ・ラマのシステムは輪廻を前提』
「ダライ・ラマ」はもう「仏」「生き仏」になったのだから、「輪廻する」筈はない。
なのに、次の「ダライ・ラマ」は「転生した」「幼児」を必死に探し出して据える。
ですから、どう考えているのかなんて、「こちらが」考えてもしょうがありません。
(だから、現在のダライラマは、「輪廻転生で、次を決めない」と宣言している)
そもそも、「現代の日本人は」生物進化の事実を「知って」います。
「信じる」のではなく「知っている」のです。
子供たちは「恐竜」が大好きで、「古代の生物だ」として「詳しく」知っています。
「単細胞生物」猿のようなものから「人間」に進化したと、学校でも教わります。
だから「現在の日本」では「輪廻転生」の物語は「リアリティが無く」なっている。
ただ残っているのは、
日本古来の「死者の国」であり、「ご先祖様」だけでしょうね。
日本古来、死者も「生者と同じ考え・感じのままで」「別の地域・遠くの地域」で生きていると考えていた。
「山のかなた」などで。
(『古事記』など読むと、土続きで「歩いて」行ける。「空間的に連続して」いる。)
お盆に、ご先祖様をお呼びして「一緒に食事をとる」。昔は墓前でもご先祖と一緒に食事をとったと聞く。だから生前に好きだった食べ物、たばこ、お酒を供える。
(キリスト教は死者に「食べ物を」供えない。お花だけである。)
日本の曹洞宗も「輪廻転生」ではなく、
「死者の国」「ご先祖様」の「習俗・しきたり」が基盤でしょうね。
これと「道元和尚の仏教」と整合性を付ける必要はありません。
もともと関係がないのですから。
3段階目までの悟りの人は、その段階に応じて輪廻が起きるとされます。
出家して、4段階目、つまり釈迦と同じ完全な悟りの境地に達した人は、輪廻から解脱する、もはや生まれない、とされます。
道元禅師は、3段階目までのどれかの悟りを達成していた、と考えると、道元禅師の言説は、一貫したものに思えるんじゃないかと。
重要な事は、「宗祖」と「一般民衆の信仰」とは違うということです。
(我が曹洞宗でも「道元和尚の仏教」と「瑩山禅師の仏教」が大きく異なり、「現在の普通の檀家の信仰」とも大きく異なる。
そもそも「修証義」をあたかもお経の様に唱えるのも「道元和尚」は許さないでしょうね。
『正法眼蔵』の文句をあちこちつぎはぎして「在家の為に」作成されたものです。)
部派仏教では、在家は成仏できない!
と、教えている。
「成仏を断念する」ように教える。
(生物だから、性欲を我慢できない。出家は無理。
他方、だから、日本では、僧侶も性欲を満たしている。)
「それでかつ、輪廻転生する」ならば、自分の為に功徳を積む。具体的には、教団に寄進するようになる。
チベット仏教でも、僧侶は独身である。
「チベット仏教」の場合。
「南方・部派仏教、所謂、小乗仏教」の場合。
だから、私は、
「日本において」「現在において」と限定しています。
「日本において」「現在において」は、
余りにも「個人」が肥大化しています。
「個人」が「その人を支配して」います。
この「個人」は、「個人」を絶対化しているからこそ、
何よりも「個人」の消滅、つまり、「死」を恐れます。
この「個人の消滅」の現実を誤魔化すのが「輪廻転生」の物語であり、「個人は消滅しないで、次の世で生まれ変わる」というのです。
(この一番大事な「個人」が存続する。飛びつくわけです。)
「個人」こそが絶対!
この価値観は「若い人」に強いと思います。
そして「若い人」を縛っている。
これから抜け出すことが出来ないでいる!
そして、最後がまた「個人」になってしまう。次の様に・・・
『その答えは、やはり、人それぞれ、なんでしょうね。』
悟りの実現という目的は有る。
しかし、その目的達成のためには、その目的達成のため、という執着も捨てないと、その目的が達成されない。
でも、何もしなければ、その目的は達成されない。
さあ、どうしたらいいか。
それを、あえて言葉にすると、ただ坐る、ということになる。
そういうことだと思いますね。
目的を語っている言葉と、目的達成のための手段を語っている言葉を混同すると、逆の結論を語っているように思えるが、実は、それは逆ではない、とそういうことじゃないかと。
でも、その言葉に囚われると、仏法のために、も執着になる。
だから、ただ坐る、と言う。
そして、ただは、ただという言葉にしたら、それは、ただではない、と言う。
南さんが、言葉は真実に届かない、というようなことを言ったと思いますが、そういう意味もあると思いますね。
何より「最初に」強力だったのは、
「自己」のためではなく、「仏法」のために「仏法を学ぶ」!
この教えでした。
「自己」が「成仏」するためではない。
「自己」が功徳を積んで、輪廻転生で「地獄に行かない様にする」するためではない。
「衆生を救う」ためでもない。
何かの目的にためでは、まったくない。
「只管打坐」「ただただ坐禅するだけ」
外に「何も求めない」。
「人間に」このようなことが持続できるのか?
「この坐禅している事」それが、即、「行仏」なのです。
この点が不思議であり、理解できなかった。
だからこそ、引かれた。今でも。
そして、これだから、救われる。
最終到達点である。
涅槃。求めるものはもうない。
「無願」
同じ人が、同じ著作中でも、
一旦、視点を変えて物事を見直すと、
全く逆な結論だって出て来るモノだ。
人は所詮、
頭の中で
思考がグルグル回っているだけだ・・・
サンスカーラ、虚構の世界
>「自我」に執着する者ものだけが、「輪廻」「輪廻転生」を欲望し、必要とする。
お釈迦様の教え、道元禅師の思想がどうであったにせよ、今日の仏教徒の多くは輪廻を信じているのでしょう。ダライ・ラマのシステムは輪廻を前提としていますし、私の東南アジアの友人も仏教徒ですが、完全に生まれ変わりを信じているようです。
諸法無我の大原則と輪廻をどう両立させるかという問題は横に置くとします。
もし「輪廻からの解脱」を説く教えがあったとするならば、それを受け入れた人にとって輪廻は忌み嫌うものであったのでしょう。そこから解脱したいのですから。つまり死んだ後また生まれ変わるとは、地獄で永遠に苦しむと同じぐらいに思われたのでしょう。だから生まれ変わりたくない。自我には消滅して欲しい。だから解脱する方法を知りたいので、仏教に帰依するということだったと思います。
ところが、輪廻を信じたがる人はそうではない。彼らは死んでもまだ次があると信じたがっている。つまりは、どんなに人生が苦しくても、消滅してしまうよりかはマシだと思っているのでしょう。そうすると、自我に執着する者にとって「解脱する=生まれ変わらない」と言う事態は、拙いのではないでしょうか。徳を積めば天国に行ける、もしくはより良い環境で次の人生を送れる、と信じているのならまだ分かります。しかし、自我に執着のある人(=輪廻を信じる人、生まれ変わりたい人)が仏教(=生まれ変わらないようにする教え)を支持するというのはというのは、どうして可能なのでしょうか。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000190230
身体は死んでも、死んでないのだ、という意味?
つまり、死なない何かが有るのだ、という意味?
増谷氏の見解?
その融合?
423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
ダンマ・パダ
650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。
スッタ・ニパータ
多くの呪文をやたらつぶやいても、人は生まれによってバラモンとなるのでない。内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。王族でも、バラモンでも、庶民でも、シュードラでも、チャンダーラや下水掃除人でも、精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりと勇ましく行動する人は、最高の清らかさに達する。このような人々をバラモンであると知れ。
サンユッタ・ニカーヤ
⇒道元禅師の「遺偈」に「黄泉」がある理由。
「活きながら(生きたまま)、黄泉に陷る(地獄に、墜ちて行く)」
凄まじい行き様(よう)である。
「天界に、新しく生まれる、のではない」
如浄禅師 六十六年 罪犯彌天
打箇孛跳 活陷黄泉
咦
従来生死 不相干
道元和尚 五十四年 照第一天
打箇孛跳 觸破大千
咦
渾身無覓 活陷黄泉
そして、それに頼らずに、独自に修行した。
これが最重要である。
『私が思うに、ブッダの思想の核心は「無常」「無我」「縁起」「無記」であり、『正法眼蔵』の土台には「観無常」があります。』
日本においては、現在においては、
「自我」に執着する者ものだけが、「輪廻」「輪廻転生」を欲望し、必要とする。
それは「自我」を実体と見ているからであり、
「自我」の「消滅=死」を恐怖するからである。
中村元氏は「インド思想」の立場だから、そしてその主流はバラモン教・ヒンドゥ教だから、
どうにかして、
「釈尊の仏教」を「バラモン教」と同じとして見ようとする。
これは根本的な間違いである!
釈尊は「バラモン教」を捨てた!
つまり、「釈尊の仏教」と
「バラモン教」とは、根本的に異なるのである。
縮小コピー。エグい言葉だよなあ、舌鋒鋭い一刀両断南節。多分 破顔一笑って院代みたいな人に使う言葉なんだなあ。
これはあれかな。遠回しに「俺に認めてもらおうと思うのはつまらないからもう止めろ」といわれているのかなあ。
そうかあ。
じゃあ南直哉と蛭子能収のあいだを取ればいいんだな。
よし!
ほとんど、「まねぶ」「真似ぶ」「学ぶ」
そっくり、真似ている。しかし、
しっかりと、道元和尚の教えが、そこにある。
如浄禅師 六十六年 罪犯彌天 打箇孛跳 活陷黄泉
咦
従来生死 不相干
道元和尚 五十四年 照第一天
打箇孛跳 觸破大千
咦
渾身無覓 活陷黄泉
宏智禅師正覚和尚の「坐禅箴」
仏仏要機、祖祖機要。
不触事而知、不対縁而照。
不触事而知、其知自微。不対縁而照、其照自妙。
其知自微、曾無分別之思。其照自妙、曾無毫忽之兆。
曾無分別之思、其知無偶而奇。曾無毫忽之兆、其照無取而了。
水清徹底兮魚行遅遅、空闊莫涯兮鳥飛杳杳。
道元和尚の「坐禅箴」
仏仏要機、祖祖機要。
不思量而現、不回互而成。
不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。
其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。
曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。
水清徹地兮 魚行似魚、空闊透天兮 鳥飛如鳥。
本当に、瓜二つ、そっくりだ。
「水清徹底兮 魚行遅遅、空闊莫涯兮 鳥飛杳杳」
初期経典にも、神々が登場します。しかし、その神は、釈迦の時代の既存宗教たるバラモン教の神とは、性質が違っています。バラモン教の神は、人が頼る存在であり、自力の修行と共に神への信仰による神の恩寵によって悟る、とされます。
それに対して、仏教の神は、頼るべき存在ではなく、悟りも自力のみです。神も悟りに憧れている、釈迦の説法を聞きたいと望んでいる、それで仏教を守護している、とされます。
中村元氏は、神々や悪魔(実は神と同様に天界の住人)が登場して対話する、というのは、当時の説法者の話し方の通例だった、釈迦もそれを利用した、と解釈するようです。
それから、子孫断絶については、バラモン教の聖典たるウパニシャッドでは、人間存在の本質たる不滅の実体、全ての存在に共通の本質(アートマン)を知った者は、財を、子供を欲しがらない、とされています。
>‥ああ、実に子に対する愛のために子がいとしいのではない。アートマンに対する愛のために子はいとしいのだ。‥ああ、実に万物に対する愛のために万物がいとしいのではない。アートマンに対する愛のために万物はいとしいのだ。(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)
バラモン教においては、自らのアートマンを知って悟った者は、何を見ても、そこに同一なるアートマンを見るから、違いを見ない(だから執着が起きない)とされます。(全ての存在に仏性がある、ということとの共通点が見える気がしますね。)
そして、歓喜そのものたるアートマンを知って悟った者は、輪廻から解脱するとされます。
だから、子供は、前世で悟れなかったアートマンが、苦しみのこの世に生まれ変わってきてしまったもの、ということになるのでしょう。
インドの環境が、そんな宗教を生じさせたんですかね。
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%B0%E4%D0%F5
黄泉
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%B2%AB%C0%F4
中有
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C3%E6%CD%AD
法身
http://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=39&bl=1
>身心いまも刹那刹那に生滅すといへども、法身かならず長養して、菩提を成就するなり。(帰依三宝)
>自己の身心は刹那刹那に生滅するはかないものではあるけれども、仏法僧の三宝に帰依することによって、永遠不滅の仏の身心が成長して、悟りを成就するのである。
身心一如説と輪廻説
http://joen-ji.jp/jo7ofbwb2-136/
>先の身心一如説と、今の輪廻説とは、一見矛盾した説のように見えるがそうであろうか。先に述べたように身心一如と言えば、この身の滅するとき、心もまた滅し、すべて無に帰するように考えたくなるが、道元禅師の身心一如は、どうもそのようなことではない。なぜなら、決して来世や輪廻を否定しているのではないからである。この身心一如説は、修行の実践の大切さを述べる中で示されていることは注目すべきで、つまり、身とは別に、身とは隔別の、すなわち身による修行とは関わらない(身の修行を必要としない)本来清浄なる心(性)、本来完成された円満な心(性)の存在を否定されたのであると受け取ることができるのである。
>それは「輪廻の主体」の否定ではなく、「輪廻の主体」がもとより完全無欠なさとりとしての存在ではないということの主張である。「修行の功徳」を積み上げて行くものとしての「輪廻の主体」は認めていると考えざるを得ないのである。つまり、道元禅師の「身心一如」とは、身業(身体的行為=修行 *もちろん口業、意業も含むべきであろう)が、心的〝なにもの〟(輪廻する主体)に密接に関わるということである。ゆえに、修行の必要性を説き、積功累徳(功徳の積み累ね)の重要なることを示されたのである。これが、道元禅師の輪廻説に直結するのである。であれば、道元禅師にとって、身心一如説と輪廻説とは決して矛盾するものではない。むしろ契合するものである。すなわち、身心一如なのであり、今世後世があるのであり、因果歴然であり、輪廻があるのである。
以上、参考になりそうなものを挙げてみました。
なお、道元禅師に遺偈は、入宋して師とした如浄和尚の遺偈とかなり似ています。
http://blog.goo.ne.jp/tosen_2005/e/3a10ea9a96c2dc4237b39a0623a8e777
最後の、活陷黄泉、は同じですね。
道元禅師が「遺偈」で「黄泉」という言葉を使ってますよね?
たかはしさんのコメントのように文献の根拠はないのですが、ネットで目にして、私、ずっと気になっています。
言葉の無明、諸行無常、無我、無記?空を徹底した上で、実存に戻られ生きられたように思いたい。大乗仏教の慈悲なり、輪廻、彼岸、等、
道元禅師でさえも、そのような思想に頼ったのか、又はそれを、自ら積極的に選ばれたのか、
その、辺り、たかはしさん、お願いします。
バートランド・ラッセルの『幸福論』です。
素晴らしい本です、私には。
無神論者であり、長年の平和運動で、
ノーベル平和賞を受けました。
先に紹介した著作『宗教は必要か?』の結論は、
「宗教は必要ない」でした。
これは、高校生の私には初めて読んだ宗教に関する本でした。
釈尊も無神論であり、妻も息子も仏門に入れ、釈尊の子孫は、「自分の意志によって絶って」しまった。
「生物の本能として、子孫が永遠に続き、繁栄し続ける。」
この大原則、これに価値を置かなかった。
つまり、「人間の「いのち」こそが、いつでも、一番、大切・重要である。」
という「ヒューマニズム」では、まったくない。
しかし、ここから「慈悲心」が生まれてきます。
バートランドラッセルの場合も、同様で、
無神論であるにも関わらず、
ラッセル・アインシュタイン宣言で「原水爆禁止運動」を初め、
ラッセルとサルトルで「ベトナム戦争・国際法廷」を開催し、
「米国の有罪」を世界に訴えた。
これが「ラッセルの慈悲心」です。
あと南さんがテレビに映るとしたらブラタモリかなあ。
イエスちゃんさんのことが、分かってきた気がします。
それを最初に言ってよ、というのが私の感想です。
輪廻も認めるようになったということ?
>そして、「原始仏教」、増谷師のいう「根本仏教」経由で、もともとの法然上人の「浄土宗」に「再び出会う」のです。
死後の浄土への往生を受け入れた、ということ?
イエスちゃんさんは、鈴木大拙に共感してます?
それは、増谷氏の影響だ、ということ?
それに洗脳されてなかったら、道元禅師に全面的に従わなくてもいい、他に自分勝手な解釈をしても、道元禅師は、それを許すの?
増谷師は浄土宗のお寺で生まれ、「文雄」は最初から僧名で「ぶんゆう」です。
増谷師は道元和尚に出会って、仏教に戻って行きました。
そして、「原始仏教」、増谷師のいう「根本仏教」経由で、
もともとの法然上人の「浄土宗」に「再び出会う」のです。
昔、この増谷文雄師の講演を聞きたくて東京・大手町の「在家仏教の本部」に行ったのですが、その前にトイレに入ったのですが、ふと隣の人物を見ると増谷師でした。
白髪の上品な学究者そのものでした。
仏教とキリスト教、という本を書いているようですが、それですか。
増谷氏は、中村元氏の10歳年上で、どちらも東大ですね。同じ教授に学んでいるかもしれませんね。でも、一緒には学んでいないのでしょうね。
中村氏は、卒業後にそのまま東大の大学院に進み博士号を取り、東大の助教授、教授になったようです。
増谷氏は、いろんな経歴を経ながら、中村氏より18年後に東大で博士号を取っているようですね。そして大正大学の教授になってるようですね。
イエスちゃんさんは、中村氏の解釈を読んだことがありますか。
中村氏は、釈迦は、インドの既存思想たる輪廻思想の洗礼を受けていた、それを無視はできなかった、方便として利用した、というような解釈をしているようです。
「誰に」対して、「何の目的」で、「何を」教えているか、を知る事が重要です。
つまり「目的」外に、無暗に「拡大」使用は、まずい。
『正法眼蔵随聞記によれば、道元禅師を師とすることは、道元禅師に全面的に従うということ、自分勝手な解釈を捨てる、ということを意味する。』
これは「日本達磨宗で修行を完成してきた」道元和尚よりも2歳年長の二祖に対して、
「日本達磨宗の洗脳」から解除するための教えなのです。
オウム真理教の洗脳から解除するのと同じで、非常に困難である。
二祖は幼少期から「日本達磨宗」で洗脳され、
もともと、道元和尚にも、論戦しようとしてやって来た。
2、3日討論しているとその間は「まったく同じ教え」だった。
しかし、それを超えると、道元和尚の教えが「日本達磨宗」と異なっている事に気が付き始めた。
つまり、「日本達磨宗」で洗脳された頭で、道元和尚の教えを聞いていると、
2、3日間は、「日本達磨宗」と同じ教えと理解し、そう思ってしまう。
義介禅師が最後まで、道元和尚を理解できなかった原因はそこにあります。
今日においても、わが国では、仏教とは来世のことを説くものであると考えている人々がすくなくないように思われる。それには、いろいろの理由があることであるが、なかでも、仏教僧侶が死者の祭葬と供養のことをつかさどる司祭者の役割をはたしたこと、ならびに、仏教のなかに生天もしくは往生を説く思想がとりいれられて、それが後代の仏教のなかに大きな流れを形成したことが、その直接にして最大の理由と考えられる。それらの功罪については、いまは簡単にいうべきではない(D、仏教の歴史、参照)が、ブッダの説いたことのなかには、そのような考えはまったくなかった。
(増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、p. 17)
以上、引用終わり。
>ブッダの説いたことのなかには、そのような考えはまったくなかった。
釈迦は、輪廻のことなど全く考えていなかった。イエスちゃんさんは、増谷氏のその解釈が真実だと、信じている、ということだったのですか?
増谷氏は、正法眼蔵もその方向性で解釈しているのかな。
それとも、イエスちゃんさん独自に正法眼蔵を解釈して、75巻本は、輪廻を否定していると理解しているということなのかな。
その内容を、先ずは正確に知りたいと、思っているだけ。
だから、今回の南師の75巻本と12巻本の解説は素晴らしいと思っている。
(つまり、旧草も新草も、「両方共が」、道元和尚の最終段階で「認めた教え」である、という事が重要。そして、只、執筆「目的」「テーマ」が異なる。)
高校時代に学校の図書館で、バートランド・ラッセルを知り、
(大学入試問題で、彼の英文が良く利用されていた)
『宗教は必要か?』を読んでインプリントされた。
(今度のNHKの「名著で100分」に登場します)
大学1年の時には、明確に『正法眼蔵』を知りたいという目的意識があった。
南師と異なるのは、
道元和尚が、「日本達磨宗で洗脳され修行が完成されている弟子集団」に向って、「何を教えよう」としているか?
その内容を知りたいという事。
(利用目的ではない)
大学時代に源勝寺第33世石亀環道和尚の坐禅会に参加するようになったのも、(読むだけでは不十分)知りたいという「一種の欲望」から。
ここには自分にない何かがある、という直感から。
更に、『正法眼蔵』原文を読んでも理解できないからと、現代語訳をと(当時『在家仏教』に連載されていた)増谷文雄師(浄土宗僧侶)を読み、
この増谷師の専門の「原始仏教」「阿含経・相応部」に導かれ、
インド仏教、中国仏教に入っていった。
「釈尊の仏教」「龍樹菩薩の仏教」「道元和尚の仏教」
今ではこれが「正伝の仏法」と受け止めています。
それ故に正法眼蔵まるまる受け入れる??
①.ノータリンの思考停止なる弟子
②.信じて仰ぎ見ること(即ち【信仰】)に快感を感じる天才至上主義者。別名「奴隷根性!!」
罪として罰することができるのは、自由意志を持つ者に限られるからである。
原因から結果を引き起こすことが、因果関係で説明がつくのであれば、そこに行為当事者としての意思があるとは到底認め難い。
なぜなら、心は因果律に従うただの随伴現象である。意思があるとは思えない。
中村元氏が、正法眼蔵は法華経の注釈書だと解釈しているようですが、そういうことなのかもなあと。
そうじゃない、独創的、本格的な哲学書だ、という部分を、記事で紹介してもらえたら、ありがたいなあ、なんて勝手に期待しています。
そういえば、誰かが、有料で正法眼蔵の講義をしてほしいとコメントしてましたね。
正法眼蔵の講義録を、有料でいいのでネットで配信するとか、CDにして売るとかしてくれないかなあ、なんて思っています。
私も、初期経典に出会った時に、そう感じました。
その後、宮崎禅師を知って、また、そう思いました。
最近、このブログが縁で澤木興道老師を知り、さらには正法眼蔵随聞記で道元禅師を知るに至って、ますますそう感じています。
そういう前例があって、本当にありがたい気がしています。
>道元禅師は私にとっては「宗祖」であって師ではありません。
なんとなく分かる気がしますね。
>また、師匠の「言いなり」の弟子は、せいぜい縮小コピーにしかならず、出家以来30数年の経験から言って、師匠に「全面的に従う」弟子から、これはすごい! と思う者は出ません。
これも分かる気がします。
師から嗣法するというのは、師と全く同じことをして同じ境地に至る、と考えるのが自然かもしれないですが、しかし、それで本当に師と同じ境地なのかどうかは、分からないこと、ですよね。
それより、師を批判し、凌駕するぐらいの気概でもって当たってこそ、真に師を理解することができる、という見方もあると思います。
大学教授で、指導教授のイエスマンでは半人前、それを批判してこそ一人前、と言った人がいました。
釈迦は、悟ったと宣言し、説法を開始する時に、それまでの信仰を捨てよ、と言っています。
南さんが、輪廻思想は不要、と言うのも、自然なことでもある、と思います。
道元禅師は私にとっては「宗祖」であって師ではありません。
私の場合、道元禅師にとっての如浄禅師に当たる僧侶は、長野県の山寺の住職で、彼は「好きなようにやれ」という人でした。
因みに、道元禅師が如浄禅師の下にいたのはせいぜい2年。その後も如浄禅師の言いなりにやっていたら、『正法眼蔵』は生まれる余地もなかったでしょう(『正法眼蔵』は如浄禅師から思想的影響をほとんどまったく受けていない)。
また、師匠の「言いなり」の弟子は、せいぜい縮小コピーにしかならず、出家以来30数年の経験から言って、師匠に「全面的に従う」弟子から、これはすごい! と思う者は出ません。
「言いなり」が必要なのは、けだし最初の3年から5年で、基礎訓練の時期です。また優秀な師匠はそれがよくわかっていて、この時期を過ぎてなお、自分の「縮小コピー」を望んだりしません(だから死の床にいた如浄禅師は、あえて愛弟子を日本に帰したのでしょう)。
しかも、往々にして「弱点だらけ」の師匠から、驚くほど優秀な弟子が育ったりするのは、弟子の自由度が高く、師匠を守るためにも自分が努力しなければと考えるからでしょう。
道元禅師は遥か鎌倉時代の人物で、今や頼りになるのは、遺っている言葉だけ。言葉が問題なら、これを理解するのが最初の問題で、何にどう従うかは、解釈の後に考えることです。少なくとも、私の場合は。
私が道元禅師という人物に感じる正直な気持ちは「恩」です。ブッダにも、龍樹にも、そして師匠にも同じような「恩」を感じます。「よくぞこの世にいてくれた。言葉を遺してくれた。私の前に現れてくれた」、これにつきます。
は現代科学の真理ナリ
その場その場で、
違う自分が現れる
同一性ってその程度なモノ
無常・無我
なんでもござれ千変万化
うるさい黙れ!って書いてあるのかな。
「輪廻は仏教にとって無駄」
その言葉を、「死者となっても生前との同一性を保っている」ものとして訪れる人々によって続いてきたとも言える場所に座って書いている。
世の中って面白いですよね。
さらには、宝慶記によれば、入宋して師とした如浄和尚も輪廻を語ってるようですね。
>遠く仏の悟りを志して、このように誓願を起こすのです。そうすれば、この身心は今も刹那刹那に消滅しているけれども、自らの法身(仏身)は必ず長く養われて、仏の悟りを成就することが出来るのです。
≫「こころ」と「身体」は、一つなのです。
≫分けて考えるところに、道元和尚の教えから外れるのです。
刹那刹那に消滅している身心と、法身の違いは?
さて、南さんは、道元禅師を師としたのだろうか。
「機(説法の対象者)」は、同一人物です。
道元和尚の場合は「教え両方とも、同時に、採用すべし」です。
教えている「弟子である僧侶達は、同じものども」です。
「示・衆」だから、「弟子のみんなに示している」。
つまり、「1人の同じ人物が、両方の教えに従う」ことになる。
『なんか対「機」説法な気がする。
「どちらを」自分の心の拠り所とするか、
其れは「あなたの自由」。』
両方を採用せよ!だから、選択の自由はないのです。
○ ○ ○
「こころ」と「身体」を分けるのは、誤りなのです。
道元和尚の仏教の教えでは。
「こころ」と「身体」は、一つなのです。
分けて考えるところに、道元和尚の教えから外れるのです。
『身体髪膚は父母の二滴、一息とゞまりぬれば山野に離散して終に泥土となる。
正法眼蔵随聞記
「身体髪膚」は、と言ってますね。』
死んだらわかるんじゃない?
それまでまちなよ
いくら議論しても今ここの妄想さ。
悟り、とかもそうだよね。
あるいは、悟ったら、その問いそのものが無くなっている、だから答えもない、ということなのかもしれない。
そして、悟るためには、全て捨てて出家しなければならない。
では、そんな出家が出来ない在家は、どうしたらいいのか、ですよね。
その答えは、やはり、人それぞれ、なんでしょうね。
悟った人が見たであろう真実も、悟っていない我々には、知る由もないですし。
自分にとって、使える方を道具として使えばいい、そうなりますよね。
どちらを自分の心の拠り所とするか、
其れはあなたの自由。
どちらでも構わないけど・・・
ケンカしても犬も喰わぬ。
蓮の花は美しく咲く‥‥これが自由だ。
苦で肥溜めな世界であるが故に、
蓮の花は美しく咲く・・・これは自由ではなさそうだ・・・・なぜなら人が因果律言葉を使って妄想するから。
詳細教えろください。
イエスちゃんさんは、片面だけを真とする方に偏ってない?
それって中道なの?
そして、真の中道とは、コインの両面も仮だ、として、そのどちらからも離れる、ということだと私は思うけど。
龍樹の中論を読んで、そう思いませんでしたか?
なぜ、道元禅師には、構想の違い、ということが必要だったのか、それも問題にしなかったら、片手落ち、じゃないの?
それから、私には、イエスちゃんさんこそ、南さんの言説を理解していない、と思えるんだけどなあ。
そもそも、他者に関して、こんなことが断言できるということを、おかしいと思えないとしたら、そこが私には不思議。
なお、
http://joen-ji.jp/jo7ofbwb2-136/
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C3%C7%B8%AB
それらのサイトを書いた人は、正法眼蔵を一度も真剣に読んだことが無い人なの?
なぜ、きちんと読んで発言をしないのか?
何故『正法眼蔵』を読もうとしないのか?不思議ですね!
「帰依三宝」の巻は、晩年の新草『正法眼蔵』全25巻(予定)の方の中に含まれているものなのです。
南師の御教授をよく読みなさい!
『12巻本は、75巻本と明らかにテーマと構想が違います。そのテーマは、仏教において「修行する主体」をどう構築するのか、その主体性をどう確立し維持するのか、まさにこの点にあります』
この「目的」のための、この「テーマ」のための、教えなのです。
この「目的」以外に使用しては、ならないのですよ。
もう一度、そして、何度も「最初の南師の説明」を読みなさい。
キチンと理解できるまで。
タイトルに「「正法眼蔵」の」ってかいてあるよ。
よく切れるハサミは、それだけに使い方によっては、凶器になり得る。
だからと言って、ハサミを使用禁止にできるだろうか。
ハサミを禁止するのではなく、正しい使い方を教えることに尽力すべき、という考え方も一理ありますよね。
でも、よく切れるけど凶器には転用出来ない、というものが、あるはず、とそれを探す努力をすべき、という考え方も一理あると思いますね。それが南さんがやろうとしていることかなと。
死は死で、前後裁断。
過去は、もう無い。未来は、まだ無い。あるのは、今、という刹那だけ。
それが真に実現できた時が、つまり無執着が達成できた時に、輪廻から解脱する。輪廻を裁断できる。
そう解釈したらいいんじゃない?
それなら、輪廻が信じられようと、信じられまいと、関係ないんじゃない?
だって、そのための修行は、何かのためと執着することなく、ただ坐る、なんだろうから。
>設ひ飢へ死に寒へ死すとも、一日一時なりとも仏教に随ふべし。万劫千生、幾回か生じ幾度か死せん。皆な是れ世縁妄執の故へなり。今生一度仏制に随て餓死せん、是れ永劫の安楽なるべし。
>此の如く道を求る志し切になりなば、或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若は知識に逢はん時、実の志しを以て行ずる時、高くとも射つべく深くとも釣りぬべし。是れほどの心ろ発らずして、仏道の一念に生死の輪廻をきる大事をば如何んが成ぜん。
以上、正法眼蔵随聞記。
輪廻を語ってるでしょ。
(摩訶般若波羅蜜)
やはり、不生不滅は、不滅の実体の存在を否定する意味なんじゃないの?
というのは、
死が生になるのではない。死は死として前後裁断。それで不滅と言う。
の誤りかなと。
正法眼蔵随聞記
身体髪膚は、と言ってますね。
>この世で「死んで」、あの世に生まれるではない。
この生が死になるのではない。生は生として前後裁断。それで不生と言う。
死が生になるのではない。死は死として前後裁断。それで不死と言う。
そんなようなことを言ってなかった?
それは、生死輪廻に不滅の実体が介在しているという考えを否定するためのもので、輪廻まで否定したものじゃない、という解釈が出来ない?
だって、生にも、死にも、前後があると言ってるんでしょ。
この身心は、と言ってなかった?
>はるかに仏果菩提(ブッカ ボダイ)をこころざして、かくのごとく僧那(ソウナ)を始発(シホツ)するなり。しかあればすなはち、身心(シンジン)いまも刹那刹那(セツナ セツナ)に消滅すといへども、法身(ホッシン)かならず長養して、菩提を成就するなり。(帰依三宝)
>遠く仏の悟りを志して、このように誓願を起こすのです。そうすれば、この身心は今も刹那刹那に消滅しているけれども、自らの法身(仏身)は必ず長く養われて、仏の悟りを成就することが出来るのです。
これまでもコメントしてきましたが、そんな解説がネットにあります。
それに対して何ら対応しないのでは、自説に都合のいい解釈してるだけと受け取られるでしょう。
「釈尊の仏教」は、「自分」という実体を認めない。
だから「不生」「(前世から)生まれてなど来ない」
生まれて来ないから「不滅」なのです。
この世で「死んで」、あの世に生まれるではない。
「不生不滅」が「釈尊の仏教」なのです。
「龍樹菩薩の仏教」の『中論』なのです。
どんな人生であれ、本人が「不幸」と考えていなければ、不幸ではない。
癌で亡くなっても、「不幸」とは限らない。
つまり「精子=白」と「卵子=月経=赤」の合体で「生まれてくる」ということである。
要は、「父のいのち=精子」と「母のいのち=卵子」が、断絶なしに、「自分のいのち」として「生きて」いるのである。
「父のいのち自体が、自分のいのちとして、「そのまま生きている」のである」
同様に、「母のいのちが、自分のいのちとして、生きている」。
「父」「母」「自分」と、分断しているのは「言葉」なのです。
(人間の思考は、頭脳細胞の、「活性と不活性」の「2分法」で処理しているから、それを外部に投影して、「父」「母」「自分」と分割して認識することになるのだが)
要は、「父のいのち」が「自分のいのち」となっている。
この事実をはっきりと認めることができるかどうか、にかかっている。
これが解ると、そのまま古代に遡って、「自分のいのち」が「原始の単細胞のいのち」でもあることが解って来る。
「無明」とは、実際は連続しているのに「連綿とした縁起として生じている世界」なのに、それを「言葉」で分断して認識する事であり、その「分断し妄想した自分」が「実在する」とする事である。
「原始の単細胞のいのち」が「自分のいのち」であると解った時に、「輪廻転生の御伽噺」は「自分にしがみつく欲望」であることが解る。
しかし、本人はそれを認めたくない。
とてもいい事言ってますね・・・
そして、なぜ、と考えたことで、原因と結果という概念が生まれる。
認識している現象世界は、因果という概念で説明することが可能になった。
苦しみという感覚にも自覚的に対応するようになり、なぜ苦しむのか、と問うようになった。
永遠に苦しまないことは出来ないのか、と考えるようになった。
そもそも、なぜ、自分は存在するのか、生まれてきたのか、なぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか、という問いも持った。
人間には、現象認識の中に、霊的なものを捉える、そう解釈するという感性が備わっていた。
そこで、神、霊魂のような概念が生まれた。
そして、なぜ苦しむのか、永遠に苦しまないことは出来ないのか、なぜ自分は存在するのか、なぜ生まれてきたのか、なぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか、という問いに、神、霊魂、そして因果の概念を使って推察して答えを出すようになった。
あるいは、瞑想などの特殊体験を通じて、その答えを見つけた実感を得た。
それが宗教。
そして、永遠に苦しまない境地に興味を持つ者が後を絶たない。
釈迦は、それを実現したと宣言した。
その手法を開示した。
とそんなことを考えました。
信じる、疑う、ということも、人間にしか自覚できない概念、なんて思います。他の動物は、無自覚に、素朴に、信じる、疑う、ということをやっているのかも。
対ですね、人間が考えることができるのは全て対。
相対から抜け出した空概念も、ゼロも、相対するものから生まれたのでしょう。
今回の記事、ありがたいです。まだまだ理解出来ませんが、何度もよみます。
何かの思考方式(=思い付き)に辻褄を合わせる為に、
考え続ける事が出来る様に、
仮に設定した一種の方法論に過ぎない。
即ち『因果』とは仮設された架空の理論に過ぎない。
実証出来れば【真理】と呼べるが、実証できなければ【信仰】と成る。
同じ意味で、「悟り」も単なる「考える」方法でしかない。
同じ意味で、「縁起」も単なる「考える」方法でしかない。
因果も、縁起も、悟りも、解脱も、涅槃も・・・・単なる「考える」方法でしかない。
宇宙の原理が如く実在するモノではない。
無常・無我とはそういう事なのだ・・・
?????
だって、死後に良いことがあることが100パーセント信じられるのだから。
ということは、それって悟りに近い?
でも、そうはいかないのが人間、ですよね。
信じる、ということは、疑う、ということがあるから成立する、と南さんが言っていたような。
だから、どの宗教も簡単じゃない、そう思います。
修行の時に限界を感じた時の支えとして、「三時業」がある、という感じに受け取れますが、在家にとっても、限界を感じた時に必要になるものなのだと思います。実際、日々の日常は在家にとってもハードな修行です。仏法の存続にとって修行者が誰でもよいのなら、会社の存続にとっては社員は誰でもいいのですから。
とは言え、私は全く輪廻は信じていないのです。私の現実の中には、輪廻は存在しません。道具としても使えないのです。
輪廻を信じられる人は楽だろうと思います。しかし、因果は何故か信じられる。であれば、道元禅師から叱責は受けないのでしょうか?そうだと嬉しいのですが。
ヒュームは、因果関係の特徴は「でなければならない(must)」という考え、あるいは必然性にあると見なした。
しかし彼は、原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはなく、事物は我々にそのような印象を与えないと論じ、「であるbe」あるいは「起こるoccur」でしかなく、「must」は存在しないと主張した。
一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、
この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、
過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、あくまで人間の側で勝手に作ったものにすぎないのである。
では「原因」と「結果」と言われるものを繋いでいるのは何か。
それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である。
ヒュームは、それまで無条件に信頼されていた因果律には、心理的な習慣という基盤が存在することは認めたが、それが正しいものであるかは論証できないものであるとした。
後世この考えは「懐疑主義的」だと評価されることになった。
ちなみに、道元禅師は、財産が有る在家が財産を捨てて、竹籠を編みながら日々の生計を立てた例を挙げていたような。
貧乏の件は、道元禅師が、貧乏でなければならない、と言っていることに、私は共感したの。
貧乏は余分な金どころか必要な金もないから貧乏っていうんだよ?
すっきりします。
ー質素は、自由のための闘い です。
「ホセ.ムヒカの言葉」より
ツッコミどころ沢山あるけど、消されるから一つだけにしとく。応答はしない。
無我だよ。無我。仏教はそこから離れてはいけないんだよ。輪廻をいうなら一体 なにが輪廻するのって話になるし。輪廻があるとかないとかいってもしようがないじゃない。
そんなことはどっちみち自己という実存の様式が苦しみでしかないということを凝視することからの逃避でしかない。
それなら、どちらにせよ、輪廻をことさらにいう必要なくない?輪廻があるのかないのかどっちでもいいんだよ。一言で、無駄なんだ。
金持ちになっても、質素に生きるのは、ケチということじゃないの。
仏教では、物惜しみは、悪とされるようです。
輪廻が有る、と言うのは執着。
輪廻が無い、と言うのも執着。
輪廻は必要、と言うのも執着。
輪廻は不要、と言うのも執着。
あと、非仏教徒宣言などと思うのは的はずれだと思う。仏教の根本は「無我」なので、信仰の「対象」となるようなものはないですよね。
願望というのも違うと思う。「無我」の枠から外れてはいけないという意味で、仏教の論理というものがあるのなら、論理的に考えてそうなる。というだけのことですよね。
「自己」の消滅に恐怖しているのです。
先ずは、事実を直視すべきです。
56億年前に地球が生成され、
その後、「単細胞生物」「アメーバのような原始生物」が発生するようになり、
それが「多細胞生物」に進化し、魚類、両生類、…
果ては、哺乳類、類人猿、原人、ホモサピエンスと進化してきた。
その原始「単細胞」から現在の「自分」まで「いのち」が「連綿と、連続して」続き「今、同じいのちを生きている」のです。
(途中で「切れていない」のです)
この事実の前で、
「アメーバ」が死んで、再び「輪廻転生」する訳がない。
生物進化のどの段階から「輪廻転生」が発生したのか?
「こころ」というものは「頭脳という機関」がないと存在しない。
頭脳に物理的な問題が「起こる」と、並行して「こころ」に問題が「現れる」。
「身心一如」だから当然である。
古代人ではないのだから、
「現在解っている事実」を素直に受け入れるべきと思います。わたしは。
釈尊の時代には、この「生物学」の知見はなかったのだから、「輪廻転生のお話」はしょうがないのです。
「輪廻転生」は、害の方が大きいのです。
なければ、来世をあてにしないで、
「今を」真剣に頑張る様になる。
「今」「ここ」「自分」ここに立つ!
だから、ここに「終わりのない修行」が現れる。
そして、金を多く儲けるということは、それだけ誰かに損をさせているということだから、それは必ず不幸を招くだろう、というようなことまで言ってるようです。
いいこと言うなあ、道元禅師!
と思いました。
>たとえば、仏教の説く「善因善果」「悪因悪果」の理屈はどう検証されるのでしょうか。
>現に生きている個人の経験の範囲内で、これを検証できることもあります。しかし、世の中には、善行が報われず、悪行が多大の利益を生むことがあります。それも、そう例外的なことではなく、むしろ、こちらの方が往々にして世間でリアルに感じられたりします。
善とは、悟りの実現に役立つ行為、悪とは、悟りの実現を妨げる行為。
そう考えると、善行為をやっても世俗的な利益に結びつかなかった、あるいは、悪行為なのに世俗的な利益がもたらされた、ということは、仏教における「善因善果」「悪因悪果」とは関係が無い、と言えそうです。
善行為をすると、心が浄化されたような気持ちがする、やって良かったと感じて心が安定する。それは清浄行と言われる修行に合致するでしょう。
逆に、悪行為をすると、心が汚れた気になる、後悔して心が動揺する。それが修行の妨げであることは明白ですよね。
だから、仏教における「善因善果」「悪因悪果」の検証は容易である、とも言えると思います。
そして、仏教において何が善行為であり、何が悪行為なのかは、釈迦が明らかにしている。
それに従って、自分でやってみると、ある程度、その効果を検証できる。
後は、それに精進していれば、釈迦が言うように完全な悟りが実現できると、信じられるかどうか、という問題になりますね。
輪廻における「善因善果」「悪因悪果」に関しても、それは世俗の価値観では測れない、と言えそうです。
世俗的に過酷な境遇に生まれても、それが悪果とは決めつけられない、ということになりそうです。その過酷な境遇が縁となって、仏教に目覚めて、この世で修行して悟れたとしたら、その過酷な境遇に生まれたことは、仏教においては、悪果と言えなくなりそうです。
②「因果は連鎖」
③「エネルギーは保存」
上記の3つだけは明確に掴めますが、他の検証例は根拠がありすぎて、逆に曇りで空が見えないみたいな感じを受けてしまいますね。
院代の論法は
「枝(説明の説明)を切る」
「余計なリンクを加えない」ことによって、オペのメスのような機能を果たすのかなと思われました。
今回の記事は
晴れる前の曇りの天気のようですね。
「人間性の完全放棄」。
現実社会で生きている我々は
果たしてそれで生きて行けるのか?
現実社会で生きている限り、
(完全な)人間性の放棄など不可能だ。
当然、出世間(=出家)しなければそれは不可能で、そうする根拠付けとして輪廻説を方便として用いた。
しかし、僧侶になったとしても、
お寺を守り、存続させるのが自分の存在理由だと思った瞬間、人間性の放棄など出来なくなってしまう。どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
(理想論と現実論のギャップ)
他方釈迦は、衆生には人間性放棄などは不可能だと知っているから、衆生用に待機説法を用意した。善行を勧め輪廻説を意図的に利用した。
では、現代の世に生きている実存の存在である我々はどう生きるのか??
それは一人一人が自分で決める・・・決めざるを得ない。
釈迦は、
「人はどう生きるべきなのか」と言う、一つの命題を明らかにし、
一人一人に問題提起したのだ。
答えはあなたの胸の中に在る。
南和尚の仏教に対するお考えは改めてよく分かりました。一見した所、南和尚の「非仏教徒宣言」にも見えてしまいますが、そのように断定するべきではないとも思っております。今後お考えが変わっても変わらなくてもいいのですし、そこに仏教徒としての倫理的配慮があればよろしいのではないかと思います。
どうぞ幸せでありますように。
ああ
悲しいかな、実ることのない片想いだね。
私も、これは私の苦しみへの対処に使える、と思いました。何が使えて、何が使えないかは、人それぞれなのでしょうね。
>その意味で、私は仏教に共感することはあっても、信仰することはありません。そして、およそ「真理」などというものは、認識の中にではなく、信仰の中にあるものです。
初期経典の釈迦の悟りの記載が正しい、という確証は無いので、それは真実なのだろう、と信じられるかどうか、つまりそれは、あくまで信仰ですね。
苦しみの原因は執着である、執着が無ければ苦しみは無い、という初期経典の記載は、ある程度は、自ら実証できます。
しかし、執着を滅尽する、なんてことが、果たして可能なのか、ということになると、それは信仰の領域ですよね。それを信じられる人が本気でそれを目指すのでしょうね。
そしてたぶん、どうしても超えられない壁に当たって、経典の記載は正しいのか、という疑いが生じる。そこでどうするか。
そこにも、人それぞれの対応がありそうな気がします。
いわゆる筏の例えは、無理な理屈とは、私には思えないのですよね。
それから、
839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。
とそんなことまでスッタニパータには書かれています。
それは、戒律なんて守らなくていい、修行しなくていい、なんてことではなく、修行するけど、とらわれずに行う、それが大事だ、ということだと思います。
道元禅師が、悟るために坐るのではない、と言うのもその意味かと。
だから、言葉で語るけど、言葉は所詮言葉に過ぎない、ということは、十分に意識されていると私は思っています。
それで、輪廻を説明する時に、無理な理屈を捻り出して誤魔化したように見えたとしても、それは大した問題じゃない、と私には思えてしまいます。
なお、私としては、テーラワーダの輪廻の説明は、なるほどよく考えたものだ、二千年の歴史は伊達じゃない、と感心する部分があるのですが。そこが南さんと単純な私の違いかなと。
因果の非実体性と修行主体構築の方法的重要性、という言葉から、不滅の実体たる主体なき輪廻、ということを連想しました。
因果の非実体性と修行主体構築の方法的重要性、それは、両立し得る、と私には思えてしまいます。
昨日の私たる身と心と、今日の私たる身と心は、
同じではない。因果の非実体性。
別異でもない。因果の修行主体構築の方法的重要性。
とまあ、そんなことが頭に浮かびました。
スマ長老は、生きてる今も輪廻している、それが死後も続くだけのことだ、と言います。まあ、テーラワーダとしては、そう言わざるを得ない、ということだと思っています。
>つまり、「生まれ」や「出自」によって困難な境遇にあったり、差別されている人々に対して、その境遇を甘受するように説得したり、その種の差別を正当化するための、理論的根拠を与えるのです。
これですよね。これは強烈な実害ですね。
それが誤用による差別であったとしても、その実害は強烈だから、その思想は捨てるべきだ、という意見は、もっともだと思います。
その一方で、誤用は後で正せるから、その思想の長所は活用すべき、という意見もありそうな気がします。
むしろ、その誤用に気づけなかった、あるいは、気づいていながら何もしなかった教団の方の責任が重大ではないのか、という気もします。
難しい問題ですね。
今から何年後、何百年後、あるいは何千年後かに、宇宙の全て、遺伝子の働きを含めた人間の全て、脳の全てが解明された時に、輪廻思想は無用のものになるだろうか、なんて思います。
でも、科学者がそれを解明できたとしても、一般民衆はそれを理解できるだろうか、霊的なものたる我、輪廻というイメージを完全に捨てられるだろうか、とも思います。
無我なら、魂のようなものは無い、と答えてもいいように思われますが、やはり、有無から離れる、という中道のことがあるからでしょうか。
魂の有無から離れているのに、輪廻を語る。
本当に分かりにくいですよね、釈迦の言説は。
輪廻は、方便だ、という解釈が現実的なのでしょうね。
>当ブログでも過去の記事で説明したとおり、輪廻は、「生まれ変わり死に変わりする」実体的存在(自己同一性を保持する霊魂のごときもの)を輪廻の主体として設定しない限り、意味をなさない概念です。
無我は、輪廻の主体になるような実体は、どこにも存在しない、という意味なのか。
それは認識範囲には無いから、そのようなものに依拠しない、という意味ではないか。
だからこその無記と言えるのではないだろうか。
とそんなふうに解釈することもできてしまいます。
>これに対して、輪廻するのは業だ、因果だ、生命のエネルギーだなどと言う輩がいますが、「業が輪廻する」「因果が輪廻する」「エネルギーが輪廻するとは誰も言いません。「業は相続」し、「因果は連鎖」し、「エネルギーは保存」されると言えばよいだけです。
言葉の問題は厄介ですね。釈迦の時代、既に輪廻思想があった。輪廻という言葉があった。その意味は、不滅の実体たる我が生まれ変わる、というものだった。
それに対して釈迦は、不滅の実体の存在について、有ると認めないのに、輪廻を語っている。だから解釈に困ってしまう。
なぜ釈迦は、<「業は相続」し、「因果は連鎖」し、「エネルギーは保存」される>と言わずに、輪廻という言葉を使ったのか。
でも、初期経典で釈迦は、識が母胎に入る、と語っています。そして、それを聞いたであろう弟子が、識が生まれ変わりの主体だと理解したことを叱責して、そうではない、縁によるのだ、と言っています。識の生成、消滅も縁によるのだ、ということなのでしょう。
本当に分かりにくいですね。
テーラワーダのサイトから引用
お釈迦さまの弟子でアナンダ尊者というお坊さまがありますが、お釈迦さまの説法を全部憶えて後世の人に伝えた、非常に頭のいい人で、阿羅漢なんですね。
そのアナンダ尊者が、ある日お釈迦さまにこんなことを言ったんですね。因果説が、本当にむずかしいということは確かですが、自分にとってはむずかしくないんだと。
そうするとお釈迦さまは、そういうことは絶対に言ってはいけないとさとされたそうです。因果説は、本当にむずかしい、理解しがたい教えなのですと言われました。
因果説は、阿羅漢の、つまり悟った人の教えなのですが、アナンダ尊者はそのときまだ悟っていなかったのです。それでも普通の理論を使って考え、簡単ではないかと思ったわけですが、お釈迦さまは、それは悟りの智慧ですから、簡単だなんて言ってはいけないとおっしゃったのです。
この因果説をわからないからこそ、人間は輪廻の中で生まれたり死んだり、無限にいろいろな苦しみを味わったりしているのだと、お釈迦さまはおっしゃいました。なぜ、輪廻の中で無限に苦しんでいるかというと、因果説をはっきりと体験として、つまり悟りの体験として理解していないからだと。
中略
一般の人々は、言葉になった『因縁』の教えを学んでいるわけです。そういう悟りの智慧ですから、言葉にすれば大変な哲学になっているのです。ものすごい理論の体系なのです。ですが、理論と悟りの体験は、海と山ほどの差があります。縁起説の本を読まれても、哲学の本を読んでいるようなものですから、おもしろい人にとってはおもしろいですが、つまらない人にとってはつまらない。お釈迦さまの『智慧』というのは、そのような論理をはるかに超えた、『悟りの智慧』ですから、その『悟り』の智慧から因縁の教えを教えているのです。
以上、引用終わり。
誤魔化したように聞こえますね。
道元禅師が深信因果と言いたくなるのもわかる気がしてきますね。まだ私は深信因果の巻を読んでないのですが。
まさに、輪廻を信じようと信じまいと、仏教においては、今やるべきことに変わりはないですよね。
「こころで、そう思うだけ」で、良くなってしまうから。
「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも入れず、こころをも費やさずして、生死を離れ仏となる。」
「仏となるに、いと易きみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもうことなく、うれふることなき、これを仏となづく。」
97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。
ダンマ・パダ
作られざるものを知り、ということは、他によらず自らによって有るもの、つまり不滅の実体が有る、ということだ、釈迦はバラモン教と違わない、と解釈する人もいるようです。
経典の言葉は、どんな状況で、どんな相手に語られたことなのかが不明なことが多いので、厄介ですね。さらには、後世の加増の問題もありますし。
それらを、そのほとんどが釈迦が説いたことに間違いないと受け止めると、解釈に相当苦労することになりますよね。仏教者は、皆その苦労に直面することになりますよね。
道元禅師も、そこに苦労され、そして弟子の状況に応じて、その時々の弟子の執着を除くために様々なことを語ったのではないか、そしてそれは、道元禅師のその時の考え、心の状態を現しているのではないか、と私は思ったりします。まだほんの一部しか読んでないのですが。
仏教は、苦しみに対処するために執着を捨てる道である、とそこは間違いないと私は思っています。
だから問題は、どうやったら執着を捨てることができるか、そのための道具は何か、ということだと私は思っています。
そして、道具は、悪用される危険性を完全には排除できない。なぜなら、その道具を使う人間は不完全なのだから、と思います。
まあ、仏教、悟りも道具だ、とも言えそうですね。
一読して、南さんには、輪廻が不要ということが改めて伝わってきました。
ちょっと読んだぐらいでは私には分からないので、じっくり再読を繰り返したいと思います。
罰当たりな話かもしれませんが、私にとっても宗教は「実利的であるかどうか」という点において、評価しています。
結婚し、子育てをしておりますと「どうして自分は生きていくのだろう」という問いが生まれます。
そんな中で私は南さんの言葉に出会えました。
仏教(禅なのかな?)は、その問いに何かしらを応えてくれそうです。
だから私にとって実利的です。
少しずつ私なりのペースで、西洋哲学や禅を学んでいきたいと思っています。
じっくり考察したいと思います。
記事の更新、有り難うございます。
台風被害の無事をお祈り致します。