昨今の青少年の様子を見て、またぞろ学校で「道徳教育」を強化したり、はたまた「徳育」なるものを始めようと考える人たちがいるようですが、彼らの気持ちは察しますが、おそらく無駄でしょう。
なぜなら、道徳は、理解するのではなく、感じるものだからです。学校の授業による「教育」では、所詮は理解までしか及びません。
「命の尊さ」や「親のありがたさ」や「友達の大切さ」を、いくら生徒に「教育」しても、彼らは感想文に「・・・のお話で、命の大切さがよくわかった。これからは一瞬一瞬を無駄にせず生きていこうと思う」などと、おざなりに「わかったこと」を書くだけで、解いた問題の答えを忘れるように、忘れるでしょう。
学校で「命の尊さ」を教えたければ、教えられる彼らが「尊ばれている」と感じることが先なのです。
さらに言うと、「道徳教育」を叫んだり、実際に行ったりする人たちが、人並み以上に道徳的であることは、まずほとんどありません。この事実が致命的です。
「数学」の教師は、少なくとも生徒よりかなり能力が高くないと、教えられないし、生徒も彼から学ぼうとしません。
ところが、「道徳」は、教師の道徳レベルが並か並以下でも、生徒に「教える」ことができるし、そうせよと職業的に迫られているのです(これは無論、教師個人のせいではありません)。
小学校も低学年なら、さほど疑いも抱かずに教師の言うことを鵜呑みにするでしょうが、思春期ともなれば、このへんの「道徳」事情は、わかりすぎるほどわかるでしょう。
したがって、およそ学校の「道徳教育」には無理があり、大した効果が期待できないのです。
さて、あらゆる学校で居心地が悪かった私は、いまや教師や級友のほとんどを忘れています。特に教師は、顔と名前を鮮明に思い出せる人が、一人しかいません。その一人が中学時代の「雲井」(雲居か?)という数学教師です。
私は、担任でもなかった彼から、「数学」ならぬ「道徳」を、一撃で骨の髄まで叩き込まれました。
その日の数学の時間、期末テストが返されました。見ると、87点。あとちょっとで、ずいぶん久しぶりの90点。ここで90点をこえると、全体でかなり結構な成績に。いけない欲が出ました。
私は、5点が配当されている間違った解答の「3」を、こっそり「8」に細工して、雲井先生のところに持って行きました。
「先生、採点違ってるんですけど」
彼は、別の生徒の質問に答えていたのを止め、私の答案に目を落としました。
「ふーん・・・」
そう言うと、ふいにニヤッと笑って、くるりと大きな丸をつけ、チラッと流し目で私を見ると、
「これ、前は間違ってたんじゃねぇの?」
私は、失禁しそうになりました。鉄球のような軽蔑が膀胱を直撃し、間髪入れずに熱湯のような恥辱と自己嫌悪が逆流して、尿と一緒に口から噴出するかと思いました。
以後、私はルール違反のような、自分が犯した不正を誤魔化すことができなくなりました。けっして「正直者」ではないのです。ですが、ちょっと不正を誤魔化そうと考えると、とたんにあの「ニヤッ」がフラッシュバックして、強烈な尿意が・・・。
あのとき、雲井先生が私を怒鳴りつけ、ぶん殴っていたら、あるいはクドクドと説教し続けていたら、私はこれほどのトラウマを負わなかったでしょう。
しかし、少なくとも私にとっては、学校における、あれ以上の「道徳教育」はあり得ませんでした。
追記:次回「仏教・私流」は2月26日(火)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて行います。
パン屋に、ぼーっとしてぶつぶつ言う足取りがおぼつかないおばあさんが入ってきた時のことです。
予測の通りおばあさんは転びました。パンを五つくらい巻き添えにして。対応は近い人がやったので、
ああ、やっぱり転ぶと思ったよ。滑りやすいっちゃ滑りやすい床だけど、パンも無駄になったし、怪我して大事にでもなったらたまんねーよな。あっちがぼーっとしてただけなのに。ぼけちゃってんなら一人で外に出なきゃいいのに。
とか考えていたら、その美人さんがしみじみと一言、私に言いました。
「私もおばあちゃんになったらああいう風に転んで笑われるんだろうな。」
反応することができませんでした。
今書いてて気がつきましたが、あんなに悲しそうに言ったのは、私の心の貧しさを哀れんでくれたんだと思います。そして未だにそういう貧しさは持っている。嫌われたくないから表に出さないだけで。でも出ちゃってるんでしょうね・・・。
しかし、人は育っていく上で、なにかの影響を受ける訳で、真っ白な小さな子供は本当にうのみにしていき、それは何かしらの影響を受けていきます。教育の影響、というのは他国の様々な国民性を見ても顕著だな、と思うこともあります。
私は今の日本の教育が良い、とも悪い、とも思っていません。一度はうのみにした子供も、様々な経験を経て、若き日の方丈様のように、独自の考えを持つのです。戦前戦後を経て、それでも日本人は本質的には変わらず、特殊な日本人らしさを保っています。
多分、原理的な宗教観とは少し違った思想を持つ日本人は、世の中の流れや教育がいかに変化したとしても、スタンスをキープするのでしょう。中心のない道徳観。そんな国が一つあることが、世界のバランスを取る一因になっているのかもしれません。
多くの人は言わなくてもいい今は幻である過去の自慢話をクドクドと述べ嫌われますが、言わなければ数少ない当事者のみぞ知る過去に犯した忌々しい恥を平然と言ってしまうところですね。 私自身も歳月を経たせいか心も落ち着き過去の忌々しい過ちを思い出す事も増えてきました。
今に及んで申し開きなんぞはしませんが、相手方の心情を察すればこそ己の恥を忍び今の在り方に役立たせていただくほかありません。
自己に対して、申し開きをせず恥を忍ぶことはあっても「相手方の心情を察し在り方に役立たせていただくほかありません」などと言える境地にはなれないでしょう。
やっと過去の過ちや未熟さに気づきつつありますが、お馬鹿さ加減と面の皮の厚さに変わりはないでしょう。
暴力は何もかも帳消しにするだけでなく憎悪を生成しますからね。 暴力に体罰と名を冠する思考たるやお馬鹿の頂点でしょう。
禅の修行である座禅において、集中が乱れると「警策」と呼ばれる棒で背中を叩かれる訳ですが、あれは素人の私の目には「体罰」としか映りません。ですから私は、禅を「修行システムの中に、体罰を公式に組み入れた宗教」とみなしています。
警策だけでなく、暴力をふるうことで名僧たちが弟子たちを悟りに導くといったエピソードは、禅の中ではゴロゴロしています。結局のところ、「修行方法の選択肢の一つとして、暴力を排除しない」という意思を、禅宗は比較的明瞭に示している宗教だと思われます。
私は「禅は暴力的だからダメだ」と非難したいわけではありません。ただ、「修行のためなら暴力も許される」という考えが、「勝利のためなら体罰も許される」という考えとどう違うのか(あるいは同じなのか)を知りたいだけです。
「この両者は似ているが、決定的になにかが違う」と私自身は感じていますが、これを言語化する能力と知識経験を私は持ち合わせていません。
ですから、この点に関する南さんの考えを聞いて、自らを納得させたいと願っております。
私が小学生だった頃の道徳の授業で、唯一いまでも覚えている話があり、それは
「野球の試合で、ある選手は監督のサインを無視して、自分の判断で打席に臨み、ヒットを放って勝利に貢献した。その後、勝手な判断を監督から怒られた」
というものです。当時の私は、
「怒られるなんて、そりゃねぇよ!」
と感じたのでした。
ここで教師が「この話の教訓は、チームワークの大切さです」などと気の抜けたビールのような講釈をせずに、生徒個人の考えを引き出して互いに議論をさせる等すれば、結構面白い授業になると思います。
(当時、実際にどんな授業であったかは覚えていません。記憶に残っているのは、せっかくヒットを打ったのに怒られて可哀想、という感想だけ)
1 乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「―を振るう」 2 合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。
坐禅修行については理屈ではなく体験し体感することが前提である。ググって知る知識は2次元だが、体験は4次元。本来の禅修行は寺の後継者のお勤めとしての禅修行とか、一般向け禅体験とは異なる別世界の内容。それはあまり暴露する必要もないし透明性も必要でない。
師弟関係は必要であるが師を尊重する必要はない。大事なことは師ではなく精進する行動を続けること。人々には救済の場であるが、修行者にとって寺は安住する場ではなく、出ていく場でもある。