「あなたは、『夢や希望それに個性なんて要らない』と、あちこちで言っているそうですね」
「その言い方には語弊があります。私は『夢や希望や個性などは、無くてもかまわない』と言っているだけです」
「どうしてそう天邪鬼なことを言うんですか。性格悪いですね」
「もともと性格がよいとは思いませんし、天邪鬼と言われればなかなか反論もできませんが、私の場合、世間で疑いもなく正しくよいことのように大声で宣揚されるアイデアは、どうも信用できないのです」
「どうして?」
「圧倒的多数が是として主張するアイデアは、むしろ主張させられているというか、主張するように仕向けられているように思うのです」
「誰がそうさせているというのです?」
「特定の人間ではありません。いわば社会システムです。『夢や希望』、『個性』などの場合なら、市場経済のシステムです。私には、『夢や希望』、『個性』の主張が、市場経済が生み出し、市場経済を支持する、一種のイデオロギーのように思えるのです」
「どういうことですか?」
「つまりですね、市場経済のシステムが経済活動の領域を超えて、人間関係や個々の人間の在り方まで侵食し規定している結果、こういう主張が声高になされるのではないかと考えているわけです」
「具体的に言うと?」
「市場経済とは、要は取り引きのシステムです。その取り引きの意味は、交易や貿易のように、需要と供給に基づく交換のことでしょう。つまり、こちらに無いものがあちらに有るという差異を前提とする行為です」
「ああ、言いたいことがわかりました。市場を機能させる根源たる『差異』が人間関係に反映されると、それが『個性』と呼ばれるというわけですね」
「そうです。いまやその反映はさらに露骨です。『個性』が取り引き対象として商品化されると、普通『人材』と呼ばれます」
「なるほど。しかし、それは市場経済の社会では当然で、否定すべきではないでしょう」
「私は何も否定したいわけではありません。『人材』はまだ経済活動の範囲内に収まる概念です。しかし、最近『個性』にかわって世で言われる『キャラ』という言葉は、市場化がより強く感じられるのです」
「市場化とは?」
「つまりですね、たとえば、若い女性が、『私、お笑いキャラだから』みたいなことを言ったりしますね。そしてそれが『私のウリ』だと言う」
「そうか。『売れる個性』か」
「それは、もはや経済市場の話ではありません。これは友人関係の場での話でしょう。敢えて言えば、『友人市場』の話なのです。友人関係が市場に覆われ、意識が底から規定されているのです」
「では、夢と希望はどうだと言うのですか?」
「このアイデアが反映しているのは、投資です。投資は未来と現在の差異で利益を生み出す行為です。交易が空間的差異に基づくものだとすれば、時間的差異を商品化しているのです。未来の利益のため、現在に資本を投下する」
「ということは、『夢や希望に向かってガンバレ』というのと、同じ行動パターン」
「同じではありません。投資が原型なのです。ですから、『個性』に対して『人材』という言葉があるように、『夢や希望』には、『キャリアアップ』という言い方がある。より露骨になると『自分への投資』などと言う」
「あなたはやっぱり、市場経済を否定したいのでしょう?」
「仮に否定したくたって、もうできませんよ。我々は市場経済を前提に、生き方や考え方を決めていく以外に、当面の道はありません。このとき、問題は、市場経済とどう向き合うか、なのです。」
「それは、経済活動を超えて人間全体を覆いつつあるように見える市場を、意識的に牽制・相対化すべきだ、というような意味ですか?」
「簡単に言えばそうです。交易だろうが投資だろうが、すべての取り引きは、今ここに無いものに向かって我々を駆り立て続けます。したがって、我々の現在は萎え、阻喪し、市場化された人間は慢性的に『疲労』という実存の仕方をするでしょう」
「いまや、『夢や希望』、『個性』というアイデアは、そういう在り方を肯定し強化する」
「少なくとも、これらのアイデアに乗って頑張ってくれる人は、市場にとって好都合でしょう。しかし、我々にとっては、必ずしも好都合とばかりは言えない」
「だから、あなたは・・・・」
「そう。『夢や希望や個性なんて無くたってかまわない』と言うのです。そんなもの無くたって、人は堂々と、元気に生きられます。今から百年・二百年前の人々が、『夢や希望』『個性』を叫んで生きていたと思いますか?」
「うーん・・・」
「でも、一生懸命、堂々と生きていたと思いますよ。今だって、街に繰り出している『オバちゃん』グループは楽しそうですよ。彼女たちは『夢や希望』のために生きているのでしょうか。そこらへんを駆け回っている幼児や、公園で日向ぼっこしている老夫婦に、『個性』もヘッタクレもないでしょう」
「そういう言い方で、あなたは市場の圧力を緩和しようというわけですね」
「そんな力はありませんよ。ただ、『夢や希望や個性なんて無くたってかまわない』というアイデアが、誰かの切ない気持ちを少しは和ませることができないかと願っているのです。人は取り引きするために生まれて来るわけではありません。生まれて来れば取り引きすることもある、それだけのはずなのです」
格差があっても「空約束」で不満解消できる。ホスピスの看護婦が「末期患者」に「夢と
希望」を語るのは、それが延命と生活の質に大きな影響を与えるから。突然の絶望感は人
を傷つける。親が子供に「夢と希望」を植え付けるのは、多くのチャンス(競争に勝
つ)を無駄にしてほしくないから。画家になるのは後からでもできるから、今は一流大学
に入れとか追う。自営業の父親が、ついでくれる息子の「夢と希望」を手助けするの
は、どうせ将来家業を継ぐので、代替えに今は好きにやらせてもリスクはないから。自分
自身で「夢と希望」をさがすのは、現状を変えたいから。今幸せいっぱいで満足している
人は「夢も希望」もいらない。現状満足。
今が厳しく苦しい人は「夢と希望」を求めて現実を変えようとする。
励ましを求める人は、存在することには、最終的に意味があるという前提条件から始め
る。それにかなう夢と希望を作り上げ、それを揺さぶる人を悪人と考える。
苦い薬と甘い薬が処方された時、どちらを取るだろうか?「悟り」を求める追及者たちは
厳しい道に進んでいくことでしょう。
現実的には、「夢と希望」を持たずに進むほうが傷が少ないのでしょう。意識改革とか意
識の拡大というものは、苦の開放にならないし、解決につながりません。ますます現実の
重みを感じることでしょう。なるべく荷物を軽くして軽やかに進むのが良いのでしょうね
>ない』と言っているだけです」
小学生の頃の話ですが学校で将来の夢は?
とよく訊かれて 成りたいものはないので
とても困惑してたのを思いだしました
学生のころそれを当時 交流のあった先輩に
話したら いまどきの冷めた子供だよと
軽く小馬鹿にされたのも思いだしました
30も半ば過ぎになり 先の二つの事を初めて
否定?してくれる文章にすこし安心しました
>我々の現在は萎え、阻喪し、市場化された
>人間は慢性的に『疲労』という実存の仕方を
>するでしょう
また昔の話になりますけどNHKTVでやっていた
イルカと供に漁をして生活してる部族がいました
その部族の一人が 漁を終えてみせた笑顔が
あまりに綺麗で後で母親と あんな素敵な
笑みをするんだね って話しあったのを思いだし
ます。
10年20年後の将来の為心配して不安になり生活
している私たちと その日の魚が取れたで
幸せになれる彼らと同じ人間なんですけどねw
ここに存在して生きているのがあたりまえで自然なのでしょうか。
その他は創り上げられたもの?
だから夢も希望も無くても大丈夫かもしれません。
その様に考えたら生きていくのが少し楽になるかも。
そのように生まれた夢や希望、個性は大切なもの。しかし、意図的にそれを得ようとしても、それは良い方向には向かわないのでしょう。
悟りを得ようとしても、得ることはできないように。
先生の正鵠を得た表現に脱帽です。私どもが常日頃、感じていた漠然とした不安や居心地の悪さの原因をこれだけ明確に摘出していただき感謝です。人は素に還り生きていけばよいと思います。
やはり無理があります。
でも、発信続けなけれないけない。
巨大カルトの前では無力であっても。
「夢と希望がなくても良い」というのは現在の日本では異端であるが、私は大賛成。大丈夫と言われればうれしい。但し他人の夢は壊してほしくありません。
「他人から夢と希望を持たされる」ということと、「自分で夢と希望を追いかける」ことは全然違いますね。他人から言われることは、表と裏の意味がある。なぜ?と考えることも必要。自分で設定した夢と希望は純真なものです。だけどその区別が難しいのも事実です。若いころに、「自分のありたい姿」など手帳に書いたものを見直してみると、自分の意見でなくて押し付けられたこと、無駄なことが多かった。私の場合は、ドイツ語の学習とか友達増やすことなど無駄だった気がする。
市場主義では個人が利益を追求することが社会の利益になるという前提条件がある。それは、始まりの特定の時期には良いことであるが、ある程度進むと良いことでなくなる。受験勉強とか、大会での成果を狙った運動競技とか、売上アップの商売も同様。