恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

ダースベーダーの体験的「体罰」論

2013年02月20日 | インポート

 ここにきて、各方面の要求黙しがたく(当ブログへのコメントも含め)、「体罰」をされたことも、したことも経験豊富な立場から、お話をしたいと思います。

(1) まず、「体罰」の是非はともかく、効果から。

 まったく効果のないことが、かくも長い間、家庭、学校、スポーツ界など、「教育」現場の各方面で行われるはずがありません。「体罰」は、特定の行為を禁止したり強制する場合、即効的で暫定的な、一定の効果があります。

「暫定的」と言ったのは、この場合、禁止されたり強制されたりする行為の監視が油断なく続く限りという意味であり、この監視が緩むと、ほぼ間違いなく、禁止行為は「目を盗んで」再開され、強制された行為は「サボタージュ」されます。「体罰」の基本は苦痛と恐怖による支配ですから、それがなくなれば、「自由に」行動したくなるのは当然でしょう。

 かくして、監視が緩み、「体罰」効果が薄れたら、その時はまた、「体罰」を実行せざるを得ないことになります(ただ一度の「体罰」で効果が持続するなら、それはPTSDになる強度の「体罰」ということになり、場合によっては「傷害罪」に問われかねません)。

 これに対して、どの分野であれ、人が自らなすべき課題を発見し、それに取り組む方法を創意工夫することが求められる場合、「体罰」はまったく役に立たず、あきらかに有害です。

 課題の発見と創意工夫には、それを行う人間に「志」が必要であり、それは「罰」とも暴力とも無縁です(暴力による「志」の強制など、定義矛盾でしょう)。その種の能力を要請し、そういうことが出来る人間に教育するには、相手に課題の発見を促し、方法を提案することが必要なのであり、これは言葉による指導の問題なのです。

 およそ、指導だの教育だのは、説明して理解させて行わせるか、行わせてから理解させるかであって、要するに必要なことを相手に納得させるしかありません。人は納得して初めて、「他人に言われなくても」行動できるのです。

 つまり、いずれにしても「理解」は絶対に欠かせませんので、「理解させる」言葉の能力に乏しい指導者は、それだけでダメなのです。

 したがって、「体罰」は、何かを禁止したり強制したい組織・人間が、厳しい監視という心身ともに莫大なコストをかけて、彼らに対して「ロボットのように」従属的な人間を「生産」することに、暫定的な効果があるだけです(「ロボットの生産」でなければ、「動物の調教」でしょう)。

 そういう「ロボット」を望む指導者や指導機関は、「体罰」が相手に与える身心のダメージを承知の上で、明確にその責任を(刑事責任も含めて)自覚して、この「暴力行為」を実行すればよいと思います。

 私自身はいま、次の世代の生徒にも選手にも修行僧にも、「ロボット」を望みません。

(2) 次に「体罰」の構造と意味について。

 私は「体罰」を個人の資質や性格の問題にすることは、まったくナンセンスだと思います。優秀な人物が「熱心」で「情熱」的な指導をしたら、なぜ「体罰」になるのか、問題はそこでしょう。

 では、「体罰」はどのような条件下で行われるのか。

 「体罰」という暴力の二大特徴は、

 ①拘束性の強い集団や組織の中で行われること

 ②暴力が一方的で恒常的であること

 です。

 そもそも、「体罰」という言葉があらわすように、この行為は常に価値判断を含んでいます。つまり、集団や組織は、常に特定の価値や目的のために構成されているのであり、構成員は全員、その価値や目的を追求し、実現したり達成「しなければならない」立場に置かれるわけです。 この「しなければならない」立場というのが、重要です。

 集団の構成員は「達成したい」「達成しよう」レベルの気持ちでは、自分の立場を維持できません。なぜなら、その立場を与える当の集団や組織は、様々な内外の矛盾や面倒にもかかわらず自らを存続させていくためのエネルギーを、構成員の意思から得ているからです。すなわち、集団・組織の強力さは彼らの意思の強度に比例し、「達成しなければならない」レベルの意思を動員して初めて、ある程度「続く」組織になりえるのです。

 したがって、この価値の実現や目的の達成に対する阻害要因になる行為や態度は、価値や目的に照らして「罪」と規定され、「罰」せられて当然ということになります。とすれば、「体罰」実施者は、その集団内では、「正義」を実行しているわけで、「悪いこと」しているとは、まったく思わないでしょう。

 ということは、この価値や目的の拘束力が強いほど、と同時にその追求方法が専門的で特殊であればあるほど、集団は閉鎖的で独善的になるでしょう。外部から見ればあからさまな暴力行為・犯罪行為が、内部では「必要な指導法」「愛のムチ」として通用し、場合によっては賞賛されるのです。すなわち、「体罰」は、

③閉鎖的・独善的な「指導」環境で行われる

 わけです。

 かくのごとく、実現・達成すべき価値や目的の追求過程で「体罰」が発生するとするなら、その達成方法をよく知る指導者が「体罰」を実施する「資格」があるわけで、指導される者が「逆襲」することはありえません。それは組織原理として許されないからです。たとえ圧倒的に「獰猛そうな」選手でも、見るからに「ひ弱そうな」監督の一方的な暴力に耐え続けるのは、まさにそれが「正義の実行」として、原理上、その集団と組織に承認されているからです。

 したがって、価値と目的の拘束力が変わらず、集団・組織の閉鎖性が破られない限り、一方的な「体罰」は、その間恒常的に続きます。それもこれも「正しい」指導だからです(②の理由。「体罰」の繰り返しが正当化されるのです)。

 こうなると、指導者と指導される者の関係は、事実上支配者と被支配者の関係と同然になります。これは要するに権力関係であり、指導者は「権力者」になるのです。

 ここで怖いのは、「権力欲」という言葉があるように、権力には快感が伴う、ということです。集団内で自他共に「正しい」と認める「体罰」は、権力化し、そこには快感が伴い始めます。すると、「体罰」を繰り返すうちに中毒し、「権力者」はもはや自制はできません。「程度」も「限度」もわからなくなります。

 たまたま外部から「あの体罰は異常だ」と指摘されても、それは権力関係ですから、権力を保証している集団や組織の、特に「権力層」が実行者をかばうでしょう。そうなると、「暴行」「傷害」など、外部の「法律」に違反する域に及んで、「世間」の目に晒されないかぎり、「体罰」という「組織内正義の実行」は終わりません。

「体罰」が権力関係の中にあるとすると、もう一つ注意すべき点があります。それは、支配する側だけではなく、支配される側がそれを望み、欲望する場合があるということです。

 先に「自ら課題を発見し、創意工夫する志」ということを述べましたが、実はこれは面倒で負担になることなのです。換言すれば、自分で自分のことを決める行為、あるいは決められるだけの判断根拠を自力で確保すること、すなわち自由であることは、単純に結構なこととは言い切れず、大きな苦痛、耐え難い不安でもありえます。

 だったら、それを「与えられた」方が楽だと考える者がいてもおかしくありません。目的を問答無用で与えられ、そこへの到達手段も選択の余地なく決められて、「何も考えずに頑張ること」は、それ自体が悦楽でありえます。つまり、「ロボット」になったり、「調教」されることに充実感や快感が生じる場合があるわけです。

 拘束力の強い集団で、目的と手段を共有させられて、ひたすらそれに没入していけば、「余計なこと」を考える必要はなく、共通の目的・手段が媒介する「仲間の連帯感」が濃密に発生し、「自由の孤独」を解消できるでしょう。

 これは、いわば独裁者への熱狂やカルトへの全面依存に近い状況と言えるでしょう。となれば、「体罰」は、する側のみならず、される側にも一定の欲望と支持が存在するのであり、こうした上下の立体的な構造を考えず、ただ平面的かつ単純に「体罰全面禁止」をご託宣のように打ち出しても、「体罰」は内向・潜行して、陰湿な「イジメ」のような行為に転化しかねません。

 さて、ここまで述べた上で言うなら、実行されている暴力による指導、あるいは暴力的指導が①②③の条件のいずれかを欠く場合、それは「体罰」にはなりません(そして、①②③のすべてかどれかを無効あるいは撤廃とすれば、「体罰」は激減するか無くなるでしょう)。

 ただ、これら三つの他にもう一つ、「体罰」を促進する条件を付け加えるとすれば、集団における制裁が「体罰」しかない場合です。

 集団内の制裁は通常大きく分けて、「体罰」でなければ、集団からの「隔離」ないし「追放」です。この「隔離」「追放」が制裁方法として使えないときには、指導者は「体罰」に傾きやすくなります。

 たとえば「義務教育」においては、「追放」処分は不可能ですし、それ以外の集団でも、「隔離」「追放」は隠蔽が難しく、それが内部の指導や統制の不十分さを外部に晒すものだとすれば、集団の「恥」や「不祥事」さらに「無能」として、多方面からの批判や糾弾の的になりかねません。

 すると集団が「面目」や「体面」を保つためには、「隔離」「追放」はそう簡単には使えない制裁方法で、結果的に「体罰」に頼りがちになるでしょう。

(3) 最後に、「体罰」ではない暴力的指導はあり得るでしょうか。

 その一つだと私が思うのは、家庭に於ける幼児期の「しつけ」と称されてなされる行為です。この暴力的指導が具体的で限定的な目的のため、事前に想定された期間内で使用され、指導者である親が感情をコントロールでき、目的が達せられるか、所定期間で指導効果が上がらないとわかった場合は直ちに暴力行為を中止できるなら、それは「しつけ」として許容されうると思います。

 ただし、家庭は集団の閉鎖性(「プライバシー尊重」)と暴力の一方性(「親の役目」)が非常に高く、指導は往々にして「体罰」どころか「虐待」になりかねません。したがって、親が行為の権力性と恒常性について、特に厳重な自制を働かせない限り、指導法として極めて不適当でしょう。

 もう一つは、たとえば、禅宗などの修行道場です。

 修行道場であっても、「住職資格」取得のために「修行」が制度的に義務付けられているなど、①強い拘束がかかる環境で、あと②③の条件がそろえば、これは単純に「体罰」で、その指導で「志」ある修行者は、まったく育ちません。単なる恐怖の支配となり、軍隊や独裁組織と同じことになるでしょう。

 ところが、古来、①②③のない暴力行為が、禅道場で指導法として使われてきた歴史があります。

 ①について言えば、要するに本来、「修行したい」人間(世に「修行しなければいけない」理由はまったくない)が、ある指導者を慕って道場に入門するのですから、その暴力的指導法がイヤなら出ていけばよいだけで、本人に躊躇するいわれはありませんし、周囲の誰も止めません。文字通り「入る者は拒まず、去る者は追わず」が原則で、拘束など無意味なのです。

 ②について言えば、たとえば「悟る」ことに関して客観的な基準や意味は提示できませんから(誰も釈尊の「悟り」を説明できない。釈尊ではないから)、指導者と被指導者の関係はまるで安定せず、昔から修行者が指導者を殴る例が多々あります。とても一方的・権力的とは言えません。

 ③について言えば、道場の暴力的指導は、常識的で世俗的な思考法を物理的ショックで断ち切るために使われるケースが大半で、「罰」とは無関係な行為です。したがって、この種の行為は、隠すのではなく公開されて第三者の評価を受けないと、指導手段としての正当性と効果を承認されません(だから暴力がらみの「公案」や「禅問答」が今に伝わっているのです)。

 とはいえ、こういうエキセントリックな指導法は仏教の歴史においては例外です。

 たとえば、皆さんも聞いたことがあるだろう「警策(きょうさく)」。坐禅中に居眠りをしていたり、姿勢が崩れているものを叩く細長い棒ですが、これは少なくとも道元禅師の時代にはなかったでしょう(禅師の全著作を通じて、「警策」への言及はない)。

 江戸時代の指導者に、「最近の警策の乱用は目に余る」として諌める書物を出した人がいますが、私は、現在も残存する警策の「体罰」的使われ方は、江戸時代以降に広まったのだと思います。

 私は一時期、警策はおろか、怒鳴り声さえまったく無い、とても小さい道場で修行したことがあります。

 そこには、修行したい人が修行したい期間集まりました。修行に必要なルールは、当然として守られ、イヤになった者はいつのまにかいなくなりました。

 いくつかの秩序は、お互いに修行を円滑に進めるためにのみ存在していました。

 私はいまでも、釈尊や道元禅師の下に集まった人々の修行は、そういうものではなかったかと思っています。それ以外に、本当に「道場」と言える空間はないでしょう。

 では、体験的結論。「修行」だろうと「教育」だろうと「指導」だろうと、「体罰」は愚策にして、無きにしかず。今回は長々、恐縮でした。

 


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22 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
切実なメッセージに、なにはともあれ共感させられ... (namusan)
2013-02-20 02:37:24
切実なメッセージに、なにはともあれ共感させられました。

つい最近の、昭和という時代に軍隊をもった日本国が存在していた。
体罰は当然のこととして、すべては御国の為にということであった。
時の繋がりは今にも及んでいるようで、スポーツだろうが経済だろうが、強い国に成るためには体罰もやむをえまい・・・・・

強い国とはいかなるものか、弱い壊れやすいが何故、悪いのか・・・そんなことを考える人は少ないだろう。
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>私はいまでも、・・・それ以外に、本当に「道場... (はてな)
2013-02-20 09:15:31
>私はいまでも、・・・それ以外に、本当に「道場」と言える空間はないでしょう。

そうでなければ、心身一如たる僧侶には育ち得ないでしょうね。 ある意味、直哉さんの下に集まる方々の言動にそれが表れることでしょう。

自分自身の生きる分野は兎も角、精神世界の領域に足を踏み入れた以上、何時まで経っても問い続けることから逃れられないでしょう。 それは、他者から求められるのではなく自分が自分で求めてしまうのですから、その事態を感情的に捉えることなく可能な限り在るがままに従う以外の在り方はないと思っております。 暴力行為が入り込む隙間など、何処にもありませんがね。
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余計なことですが、私にとって重要なので・・・。 (はてな)
2013-02-20 11:33:52
余計なことですが、私にとって重要なので・・・。

本質的なことを考え続けている方々の共通する特徴として、言葉のセンスがあります。

今回の掲題がそれを物語っていますね。 おだいっさんのように達筆でなくてもいいですから、揮毫をお願いしたくなりましたね・・・。

頼まれれば、書くしかないそうですから ・・・。
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初めまして。14歳の娘の母親です。 (さおりん)
2013-02-20 14:31:01
初めまして。14歳の娘の母親です。
子育てにおいても体罰=調教、脅しだと思っています。
和尚様の「何も考えずに頑張ることが快感」という言葉に考えさせられました。

「自分」というものを持たせてもらえずに、親の言いなりにしかなれない子供。(過保護過干渉)
「自分」というものを探すために右往左往し、それでも見つけられない子供。(育児放棄)

体罰をしてしまう指導者自身もその「自分の価値を他者に任せてしまう」人間なのではないでしょうか。
「結果を出して、自分の価値を認めさせたい」

何にしても、人間の集団の最小単位である、夫婦関係、親子関係がこの問題でも重要なんだろうと思いました。
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中学高校と曹洞宗の学校に通ったので、禅宗の厳し... (Unknown)
2013-02-21 13:20:09
中学高校と曹洞宗の学校に通ったので、禅宗の厳しさは肌で感じていました。
なので長らく禅宗はすごく激しい宗派という単純なイメージがありましたが、最近、道元禅師は体罰に否定的な意見も残しているということを知り、自分のイメージが不正確であったと反省しました。
院代様のこの記事は、世間にあふれる、短絡的な体罰論に対して警鐘を鳴らす意味でも、また、私のように禅宗ひいては仏教に対する理解が浅薄な者にとっても意義深いものであると思います。
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 私は体罰、というか、暴力といえるものは今まで... (ride)
2013-02-21 19:28:09
 私は体罰、というか、暴力といえるものは今までほとんど受けたことはありません。ので体罰について語ることはできませんが、あまり良い方向に向かうもの、とは思えないという感覚です。
 自分にとっての良き道は、ナチュラルに生きていれば、誰でも自然に示される、と感じています。
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警策も怒鳴り声もない道場は私も行ってみたいもの... (あじさい)
2013-02-21 21:22:30
警策も怒鳴り声もない道場は私も行ってみたいものです。

一般的に理想的な組織というものは時間がたつと崩れてゆくことが多い。スターリンも毛沢東も、革マルもそうです。連合赤軍は閉鎖的な環境と自己矛盾から暴力を伴い崩壊していった。近親憎悪が激化したり、袋小路でにっちもさっちもいかなくなっても軌道修正できずに玉砕する日本の組織は多い。組織において暴力が増加するのは、ストレスが増加した時が多い。

暴力的な怒りは、一部の人の気持ちを静める働きがあることは事実である。不安な状況から目をそらし、心の動揺を安定化させたい理由で起こることもあるし、ギャラリーが娯楽として要求する場合もある。

私が子供のころは、歴史というものはどんどん良くなる方向に進んでいると教えられた。しかし、体罰も悪習として増殖した例が多いのだろう。原始仏教の尊い教えもある程度ゆがめられているというのも避けがたい事実であろう。

雨後の竹の子のように出てくる新興宗教には胡散臭いものが多いが、既存宗教もリニューアルして新しいものを取り入れてほしいものである。

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私自身は腹を立てて小さな息子に手をあげたことが... (kina)
2013-02-22 08:42:41
私自身は腹を立てて小さな息子に手をあげたことがあるのですが、それが全くポジティブな結果とならなかったことが痛みとして残っています。ただ現在、一体自分や周囲が何の強迫観念にとらわれているのか、よく解きほぐし、変わりたいと願っていて、そうした時にここでご意見を読めるのはとてもありがたいです。

環境を変えることも、周囲からの目を変えることもすぐには難しい。苦しい状況に今いる子供(私の息子も含む)に、南さんであればどのような言葉をかけられるのだろうと思います。まず側にいる親や大人の役割が大きいとは思いますが、10歳位の子供にもできることで、困難な状況の中でも「生きのびる」ことを選べるような、「実践」または「心の保ち方」は、禅の観点からはどのようなものがあり得るでしょうか。
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ダースベーダーの体験的「体罰」論?? (Unknown)
2013-02-24 10:26:14
ダースベーダーの体験的「体罰」論??

>「体罰」をされたことも、したことも経験豊富な立場から、お話をしたいと思います。
> 私自身はいま、次の世代の生徒にも選手にも修行僧にも、「ロボット」を望みません。

ダースベーダーが己の体験をもとに、「ロボットを望んでいない」と断言している。
「いま」の断言に至るまでの反省はないのかな?
なぜダースベーダーと呼ばれていたのかを、このブログ読者の中にも知らない人たちもいるだろうから、説明と反省をすべきだろう。
そして、禅宗の修行としての「体罰」に「私自身はいま望んでいない」ことをどう展開していこうとしているのか。
個人的見解として「ロボットを望んではいない」という言い方は、少なからず禅宗に影響力を持つ身となった以上、許される態度ではあるまい。

>つまり、いずれにしても「理解」は絶対に欠かせませんので、「理解させる」言葉の能力に乏しい指導者は、それだけでダメなのです。

そのとおり。「不立文字」。「言葉では伝えられない」などと逃げ回るやつらの如何に多いことか。
言葉だけで伝えられるとは思わないし、だれもそうは思っていないだろう。
しかし、伝える努力もせず、無能をカムフラージュとし、「秘すれば花」として「なにやら奥深そうな」胡散臭さを醸し出しているだけなのだ。

> 「体罰」という暴力の二大特徴は、
>①拘束性の強い集団や組織の中で行われること
>②暴力が一方的で恒常的であること
>③閉鎖的・独善的な「指導」環境で行われる

絶対服従的、絶対覆らない上下関係の中での暴力。まさに、修行と名を借りた暴力。その意味で、禅宗は「暴力装置」。

>ここで怖いのは、「権力欲」という言葉があるように、権力には快感が伴う、ということです。集団内で自他共に「正しい」と認める「体罰」は、権力化し、そこには快感が伴い始めます。すると、「体罰」を繰り返すうちに中毒し、「権力者」はもはや自制はできません。「程度」も「限度」もわからなくなります。

これをサディズムという。

>だったら、それを「与えられた」方が楽だと考える者がいてもおかしくありません。目的を問答無用で与えられ、そこへの到達手段も選択の余地なく決められて、「何も考えずに頑張ること」は、それ自体が悦楽でありえます。つまり、「ロボット」になったり、「調教」されることに充実感や快感が生じる場合があるわけです。

これをマゾヒズムという。
つまり、禅宗の僧堂で行われている「修行」はSMプレイなのである、と院代は告白している。

>最後に、「体罰」ではない暴力的指導はあり得るでしょうか。
>その一つだと私が思うのは、家庭に於ける幼児期の「しつけ」と称されてなされる行為です。この暴力的指導が具体的で限定的な目的のため、事前に想定された期間内で使用され、指導者である親が感情をコントロールでき、目的が達せられるか、所定期間で指導効果が上がらないとわかった場合は直ちに暴力行為を中止できるなら、それは「しつけ」として許容されうると思います。

子育てしているのかな?子供は作っても育てていないのではないだろうかと推測する。
なにしろ、売れっ子坊さんだから家庭を顧みる時間はないのだろう。
お説のような話は、親として未熟で日常のしがらみに悩みながら生きている生き物が、全く聞き分けのない生き物を相手にしている場合には「しつけとして許容される」というのは絵空事。

>もう一つは、たとえば、禅宗などの修行道場です。
 修行道場であっても、「住職資格」取得のために「修行」が制度的に義務付けられているなど、①強い拘束がかかる環境で、あと②③の条件がそろえば、これは単純に「体罰」で、その指導で「志」ある修行者は、まったく育ちません。単なる恐怖の支配となり、軍隊や独裁組織と同じことになるでしょう。

全く育たないところに院代は30年近くいたわけで、それをどう反省するのか。
永平も、総持も、僧侶育成職業訓練所と名称を変え、修行という看板も外さねばならない。高僧と言われるようになった院代には是非是非、そのように、進言していただきたい。

>ところが、古来、①②③のない暴力行為が、禅道場で指導法として使われてきた歴史があります。
 >私はいまでも、釈尊や道元禅師の下に集まった人々の修行は、そういうものではなかったかと思っています。それ以外に、本当に「道場」と言える空間はないでしょう。

そういう道場の完成は如何に?
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人々は程度の差はあれ真実から離れた「思い込み」... (よっちゃん)
2013-02-24 15:07:15
人々は程度の差はあれ真実から離れた「思い込み」の世界に住んでいる。コミュニケーションはお互いの「推測」からなることが多い。相手に自分が理解されるという妄想を夢見ている。何故議論が生ずるのかというと、「思い込み」の食い違いがあると、それは許容できないからである。「思い込み」の世界が揺さぶられると激しき抵抗する。「真実」を知ると落ち込むから、「妄想」の世界に逃げ込んで安心しているのである。「妄想」の世界がぶれると、攻撃的な防御をしたりする。

人間同士に理解など難しい。同じ経験値があればある程度推測することはできる。しかし込み入った事柄を言葉では理解は不可能に近い。

現実とは同じ種族の生物の知覚情報の共通認識に過ぎない。脳内では、バーチャルな世界を作り上げ、自己矛盾に気が付くと激しく動揺し、安定化するために外に敵を設けて攻撃したりする。

情報の欠片からブラックな夢を作り出し、苦しむのは勝手なことである。その現実は、1~2リッターの脳の中での生化学反応に過ぎない。

人々は安定な環境で安住したいと望んでいる。しかし「妄想世界」に生きる限り絶え間ない激変の中で苦しむものである。人間が「異なる妄想世界」に住んでいるのでその違いから葛藤が生じるためである。そして緊張し感情的で怒りやすくみじめに生きているのである。そんな厳しい真実から目をそらすために「さらに深い妄想世界」に生きるのもよかろう。

互いの相違に気が付けば、聞き耳をたてるか時が過ぎるのも待つしかない。そうすればトラブルも避けられる。どうでもよいことに意地を張って命までかける輩もいる。個人の意見、主張はそのままにしておくのが無難である。退屈しのぎにはなるが、それ以上の事は望んでも無駄なことが多い。
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