このブログでも何度か言及したと思いますが、自殺を否定する道徳的・論理的根拠はありません。どんな理由を説明されようと、自殺を決意した人は自殺するでしょう。このこと自体、自殺を理屈で否定することの無意味さを暴露しています。
自殺についてとりうる唯一の態度は、するかしないかの根拠なき決断だけであり、したがって、自殺志願者への「しないように」という説得は、「してはならない」という論理ではなく、「しないでほしい」という懇願で行う以外にない、ということになります。
死にたければ勝手に死ね、という考えもありましょうが、私はこの考えは非常に危険だと考えています。なぜなら、私は自殺をしないという決断だけが、人間における倫理の根拠であり、あらゆる「善」を可能にする条件だと思うからです。
自己が他者に由来すると考えるなら、「善」とは、そのような自己の在り方を受容し、肯定し、他者との関係を充実させていくことを意味するでしょう。
すると、自殺は、単なる自己の否定ではなく、自己が由来する「他者」それ自体の否定になり、それはすなわち、「善」なり「倫理」の成立条件を一挙に破壊する行為になります。
これは「自殺は悪いことだ」という意味ではありません。私が言いたいのは、自殺はそもそも善悪の判断そのものを無意味にしてしまう危機的行為だということです。
この意味で私は、他殺より自殺の方が危機的だと思います。なぜなら、他殺ならどのようなものであれ、対象は限定され、そこに殺す意思があり、その意思には理由があります。したがって、他殺は、極限的な形式であるにしろ、人間の関係の仕方なのです。だからこそ、その関係の仕方が問題となり、「悪」と認定されれば、倫理的あるいは法的に裁かれるわけです。
ところが、自殺は他者との関係性それ自体の否定であり、関係性の当否を判断する役目を負うはずの倫理が存在する余地をなくしてしまいます。
自殺は「悪」ではありません。だから私は自殺した人や、自殺したいと思う人を責めも否定もしません。しかし、我々がこの世に「善」を望むなら、「自殺しない」と決断すべきだと、私は思います。
やはり極限の救済は、南さんの教えしかないかな。
生きたくも死にたくもない立ち止まったり、迷っている人。それも仕方がないことだと思います。
しかし、唯一の救いは決断かもしれません。
自殺という道を選ぶことも、また賭けでありましょう。
南さんは以前、「自殺する人間は、自殺すればラクになると思って自殺するのだろうが、それは甘い。閻魔大王が、自殺する前と全く同じ状況に差し戻すかもしれないよ」と仰っていましたが、
当然ながら、死んだら今より辛くなるとわかっていたら、人は死にません。
死後どうなるかわからないからこそ、人はそこに希望を求めて、死に踏み切るのでしょう。
これは賭けです。
自殺は、大多数の人間にとっては、こわいことです。
自ら自分の命を絶つというのは、想像するのは容易でも、実際に行動に移すことができる人間はごく僅か。
他人の協力なくしてはできない所業です。
仰る通り、生を支えるものは自殺しないという根拠なき「決断」でありましょうが、
その決断の「強度」もまた、他者との関係性によって決せられるということを、忘れてはならないと思います。
長い歴史の中で自殺者の葬儀を行わない立場でした。
しかし、臨床心理学やドメスティックバイオレンス、
家庭の機能不全などの研究が米国からもたらされ、
現代社会によりそう教会として、
初めて「自死者のための追悼ミサ」が捧げられました。
教会は、自殺ではなく自死と表現し、
教会共同体全体の責任・問題として捉え始めています。
ある臨床心理士の話では、
自殺は選択の余地がなく、身を焼くような想いの末の「結果」だと表現していました。
最近は遺書などがないことが多いのだそうです。
私もつい数年前、その淵に立ったことがありました。
「死」を意識したのではなく「いま」いるところから逃れたい、
少しだけ楽になりたい、
疲れて疲れて、もう消えたい、そういう感覚でした。
もし命を落としていたら「自殺」と判断されたのだろうと思います。
年間の自殺者が3万人を超えて久しい日本ですが、
未遂を含めたら膨大な命が危機にある。
臨床心理士のお話にあった「結果」とするなら、
過程でなにかができるのではないか。
ただ少しの時間耳を傾けられたら
一言声をかけられたら
発信することができたら
小さなきっかけを見過ごさないようにしたいと思っています。
自戒と共に
懇願をどう伝えるのか。
懇願が伝わるのか。
懇願を受け容れる余裕があるのか。
魅了され続けてるもんね。
だからお坊さんで、い続けなきゃね。
い続けててね。
仏教はそのような祈りを広く深く受け入れるように感じます。それはつまりどのように生きていくかをこの上ない慈しみで表すようです。亡くなられた方、生きている方、どちらの関わりにおいても、生という前提に温もりのようなものを感じ生きてゆくことを、様々の方法で教えてくれているようです。
先日、ふいに無縁仏という言葉を耳にしました。
無縁なんてことがあるのだろうか…それはどういう意味合いで使っているのか…その言葉の存在は知っていたにもかかわらず、今更のようにとても気になりました。
急に涼しくなり、体調の変化が起きやすい頃ですが、どうぞご自愛くださいますよう心よりお祈り申し上げます。
その多くは禅語の出典などに関する学術的なもの、あるいは坐禅ができる寺院を紹介してほしいというものである。
ときおり禅僧になりたいという相談もある。
禅僧といってもそう簡単になれるものではなく、禅宗では先ず派に属する寺院の徒弟となることから始まり、専門道場での一定期間の修行が必要となってくる。
先日もAさんという方から出家を希望する電話がかかってきた。
聞けばNHK教育テレビ「心の時代」を見てこちらに掛けてきたらしく、リストラに遭って以来、自分自身を見つめ直す機会を探しているとのこと。
修行には確固たる道心が必要で、こうした理由だけでは、修行をしても長続きしないですよと伝えたが、それでも禅僧になりたいという。
少しの期間でも専門道場で修行体験ができれば適性がわかるのだが、一般人に門戸を広げている道場はない。
そんな中、盤珪禅師が住した姫路の龍門寺が、一般の禅修行希望者の受け入れを行なっていることを知った。
従来の僧堂の規矩に準じ、本格的な修行を志す者から短期間の修行体験を希望する人まで広く門戸を開放するという。
形骸化した世襲妻帯坊主ばかりの禅宗は、本物の出家者が不足しており、その養成が急がれている。
こうした道場から本格的な禅僧が生まれれば、宗門の活性化にも繋がり喜ばしいことだ。
Aさんにも早速この情報を伝えておいた。すぐ龍門寺に問い合わせをしたようだが、今のところ熟考中らしい。さて、この秋には門戸を叩くだろうか。」 とのこと。
「かわいがりが相撲界で問題となっている。
狭い領域で抑圧されることによって起きる、閉鎖的事象。
私は以前、僧堂というところにいた。
そこでは、これと同じようなことが起きていた。
仏につかえる身でありながら、殴る蹴るは日常茶飯事。
血を吐くもの、警策や木刀、あるいは鉄パイプで殴る。
私も傷跡を残している。
入門から5分の1に減る僧侶。
残る者は、凶悪犯のような顔となっている。
逃げ出す者は当然のこと居り、暴力によって身体障害者となった仲間も居た。
家族からの警察騒ぎになることもあったが、暫くすると何事も無かったかのようにことが収まっている。
長年の関係から、警察とも結託しているのだ。
これは修業世代の人間だけが起こすことではない。
いわゆる、位の高いとされる世代に渡って、堂内差別、脅迫、金銭の窃盗や資金の使い込みもが起きている。
僧侶の世界は、畜生、奴隷、人間、仏様の段階がある、という。
また、宗として決めている僧侶の格というものも、3等、2等、1等、権大・・・というように、上下の差をつくっている。
身分の低い僧侶は、高い僧侶に対して顔を見ることも許されない。
仏門の世界に対して、一般世界を娑婆と呼ぶ。
その団体生活は、まるで極道の世界。
弱肉強食、全体責任、抑圧された世界だけに、弱いところにしわ寄せが行き、強い者は何ら痛むことはない。
僧堂歴の無い僧侶が中には居るのだが、その人のほうがより人間らしい。
また、僧堂のある場所によってもその閉鎖性は違う。
山間部にある僧堂は、市街地にある僧堂とは違い、相手を認めることができない。
井戸の中の蛙状態となるのである。
私は資格取得までの期間、その宗派で2番目の位とされる人の内弟子であった。
国内僧侶のVIPといわれる人たちに接したり、あらゆる宗派の人たちとも会った。
また、帰属してからも、様々な宗教とその人たちと接して、実状を垣間見た。
やはりその中で最も閉鎖的だったのは、禅宗であると感じた。
私は一般社会の人たちのほうがよほど自然な信仰をしていると感じており、以来、僧侶が信用できないでいるのである。」
自殺者が自殺を志向するのは、それによって苦しみが終わることを期待するからであるが、それは間違いである。
ここまでは私も同意見です。
しかし、今回、自殺を「してはならない行為」として設定するために、善悪論とその否定という論の建て方をしておいでですが、これには素直に賛同しかねます。
我々は意志せずに生まれたものである以上、意志して死ぬ事の意味を知り得ないわけですが、自殺者はその知り得ないことに対して、一方的な希望を押しつけて、それの成就を期待して自殺をするわけです。
これは単に愚かな行為であって、行う意味が無いというだけのことです。星占いなどと同様の、一種狂信的愚行であると言うだけです。
苦しみから少しでも救われたいのなら、愚かな行為は避けるべきであるのに、苦しみから逃れるために狂信的行為を行うのは愚かしい。自殺とはただそれだけのことです。
社会システムを視野に入れるなら、ある機能を果たしている個人が自殺によって失われるときに、それを補うエネルギーの分だけ、自殺は社会全体に対する迷惑行為です。そして、自殺という行為は、自殺者の周囲の人に、精神的な衝撃を与えずにはいません。
愚かで、迷惑だ。自殺を行うべきでない理由としてはそれだけで十分で、善悪論とその否定のような、ややもすると難しい論を持ってくる必要はありません。
無論、そういう新たな視点を、このとても古い問題に持ち込むことは有意義なのですが、南さんらしからぬ、切れ味に乏しい論であると言う気がしてなりません。
自殺を実行する人は、平静であり正気なのでしょうか、それとも半ばかなり不安定でしてしまうのでしょうか?私は、決して正気ではないと思うのですが。生きていること自体、正気なことではないですから、なんというか、あまり有意義な発言じゃなかったかな。
けれど、自殺志願者にとっては、社会なんて関係ありませんし、社会なんて実物としてありません。だからこそ関係性を信じてるような。自殺できる権利、能力は個人にどうしてもあるのです。