時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。
先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。
彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。
その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。
「あなた、今のクリニックで苦情は?」
「ありません」
「院長から何か怒られた?」
「全然」
「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」
「なんというか、自信が・・・」
「自分のテクニックに自信が無いの?」
「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」
「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」
「かもしれません」
「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」
「そのつもりだったんですが・・・」
「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」
「あなた、父上のお仕事は?」
「歯医者なんです」
「なんだ、後継ぎか」
「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」
「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」
「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」
「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」
「いいえ・・」
「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」
これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、
「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」
びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。
どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。
だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。
それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。
先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。
彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。
その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。
「あなた、今のクリニックで苦情は?」
「ありません」
「院長から何か怒られた?」
「全然」
「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」
「なんというか、自信が・・・」
「自分のテクニックに自信が無いの?」
「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」
「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」
「かもしれません」
「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」
「そのつもりだったんですが・・・」
「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」
「あなた、父上のお仕事は?」
「歯医者なんです」
「なんだ、後継ぎか」
「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」
「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」
「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」
「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」
「いいえ・・」
「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」
これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、
「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」
びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。
どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。
だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。
それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。
どうにもならないのならですが、それからでも道は拓けることでしょう。
腕の良し悪しからも、自信からも、解放されることでしょう。
その歯科医さんがどうかはわかりませんが、SNSなどで年中相互監視の中にいることも関係しているのかなと思います。
「こんなリプライがあったけど本音はこうなんじゃないか」とか「誰々がリツイートしてくれて光栄だ」とか、どーでもいい他者評価で一喜一憂してる人がたくさんいます。
あと、自分と違う人が褒められているだけで「私は批判された」と感じる人も多いです。
私は女ですが、30代独身女性の中には、「子育てって素晴らしい」みたいなCMや記事を見るだけで、「同調圧力だ」といって怒る人も少なくないです。
いや、別に他人がどう言おうと関係ないでしょと思いますが、「私を認めて〜」「私を褒めて〜」という阿鼻叫喚の様相です。
そして今、ネット発で書籍として売れるものが多いですが、恐ろしく些細な人間関係でグジグジするエモい(ナイーブな)のが人気です。逆に、ほんの少し他者に承認される話で、「ほっこりした」「泣いた」なんて浅い感動を呼ぶみたいです。
この「私をわかってちゃん地獄」から抜け出る知恵は、経典に溢れているので、仏教の出番はますますあると感じます。
問題の根は、承認欲求だと感じています。寛容な上司などがいれば、そのような人間は、のびのび仕事をすると思います。
他人の視線に束縛されるのもそうですが、目的がなく、漠然と仕事に向かっているのもあると思うんです(今の私)。
南さんの助言の、限界まで本気でやってみろ、もまさにその通りだと感じています。
ただ、その本気というのが、今の若い世代は、どこかブレーキをかけているというか、冷めてるというか、物質的に豊かに育ったためだと思いますね、。
全体的な傾向として、人間関係が浅く、表面的になったので、その分不安を募らせているのかもしれません。
しかし、「最近の若いやつはなっとらん」といった文句は、おそらくいつの時代でも言われてきたことでしょう。「デリケート」と言ってしまうとひ弱に聞こえますが、周りの者の考えに気を配れるというのは悪いことではない。若い頃はいろいろ大変なので、あまり厳しいことを言っては気の毒だと思います。
気になさらないと思うので重箱の隅をつつくようなことをいうと、慣用句は「トライアル・アンド・エラー」(trial and error) です。
「仲間から嫌われる恐怖」
行動の基準が、他者・世間・社会にある。
自分はそれに合わせないと生きていけない。
イジメに反対できずに、一緒にイジメてしまう。
「周りの空気を読み取る能力が必要」
どうしても過剰反応してしまう。
「犀の角のように一人で歩め」
今の日本で、これをするには勇気が必要である。
「出・家」つまり「社会のルールから出る」
「家族を捨て去る、出て行く」
正に「仏教」の出番である。
今までの社会は違ったのかなぁ?
でも、南さん、ホントにこんなこと言ったのかなぁ?
動詞対句としては
try and err.
名詞対句としては
trial and error.
なんですね。
英検あたりでは撥ねられそうですね。
あと相談の際、もう少し事情を知らせてもらわないと、わからない面があるように思うんですが。
今回のケースでは、彼の思惑というか、彼の何が問題なのか。
周囲の目とは、承認欲求の強さの現れでもありますが、人によっては、強迫観念の問題もありますので、「事情」により対応も変わることでしょう。
年下の者を異常に気にするとは、尊敬願望が強いのかもしれません。
また3年といえば、どんなに練習しようと、熟練者とは言えないというか成れないのではないでしょうか。
二人のケースを同じ扱いにしてよいのかどうか?
モチベーションを上げる工夫ができるかどうか、自分を未熟者として取り扱えるようになるかどうかなど、「事情」によって取り扱い方も変わるかと思うんですが。