単に一人でいることだけでは、孤独とは言えないでしょう。わかってほしいという思いがあっても、それを伝えられる相手がいないとき、わかってくれる人がいないと感じるときに、はじめて孤独になるのです。
ですから、わかってくれる(わかってくれると思われる)相手が現れるなら、この孤独はほぼ解消するのでしょう。私に言わせれば、これは「横の孤独」です。
これに対して、世の中には「縦の孤独」があります。それは、もはや他人に伝えたくても伝えようのない、隔絶した孤独です。死を前にした人間の孤独こそ、まさにそれ、「縦の孤独」でしょう。
死が何であるか、原理的にわからない以上、それを「伝える」ことも原理的にできません。「死」を前に「自己」と呼ばれる実存は完全な単独者となるのであり、その孤独は誰にも共有できません。
この「縦の孤独」に耐えられないなら、「わからない死」をわかる物語に仕立て直して「横の孤独」に変え、物語を共有することで孤独を解消するしかありません。東西の宗教的言説が果たしていた役割は、まさにこの物語の制作でしょう。
しかし、「ニルヴァーナ」を標榜する仏教は、「わからない死」を「わかる物語」にしません。わからないままそれを受容することを、仏教は求めているのです。とすれば、我々は「縦の孤独」を自ら切開し、それまでの自己の実存の仕方を変更することで、その求めに応じなければならないでしょう。「修行」とはそのプロセスなのです。
ですから、わかってくれる(わかってくれると思われる)相手が現れるなら、この孤独はほぼ解消するのでしょう。私に言わせれば、これは「横の孤独」です。
これに対して、世の中には「縦の孤独」があります。それは、もはや他人に伝えたくても伝えようのない、隔絶した孤独です。死を前にした人間の孤独こそ、まさにそれ、「縦の孤独」でしょう。
死が何であるか、原理的にわからない以上、それを「伝える」ことも原理的にできません。「死」を前に「自己」と呼ばれる実存は完全な単独者となるのであり、その孤独は誰にも共有できません。
この「縦の孤独」に耐えられないなら、「わからない死」をわかる物語に仕立て直して「横の孤独」に変え、物語を共有することで孤独を解消するしかありません。東西の宗教的言説が果たしていた役割は、まさにこの物語の制作でしょう。
しかし、「ニルヴァーナ」を標榜する仏教は、「わからない死」を「わかる物語」にしません。わからないままそれを受容することを、仏教は求めているのです。とすれば、我々は「縦の孤独」を自ら切開し、それまでの自己の実存の仕方を変更することで、その求めに応じなければならないでしょう。「修行」とはそのプロセスなのです。
涅槃があるから修行するのではない。
修行するから涅槃に近づけるのだ。
私は、ナナメの孤独を感じていたようです。
これは、ナニ教?
「わからないままそれを受容する」ことを、仏教は求めているのです。』
「生物科学における死」「利己的死」は魅力的な「わかる物語」です。
「自分の遺伝子」を後世に残すのに有利に成る様に、
「自己」自身は「老い」そして「死ぬ」。
これ自身は、納得しています。
保険です。
「正法眼蔵」旧草75巻、新草12巻が本命です。
永久修行論!
なのに、
日本曹洞宗は、わざと「江戸時代に編纂95巻本・本山版」を『正法眼蔵』と(「現在も」「今も」)主張する。
今月の『大法輪』誌の曹洞宗特集で、
「わからない死」を「わかる物語」にしている。
〈内容紹介〉
「おひとり様はかわいそう、独りになりたくない。
そんな世間の風潮に、自ら孤独を愛する著者が、あえて孤独になることの重要性を説きつつ、その楽しみ方も紹介します。
現在、独り身の人、将来の独居や孤独死を恐れている人、あるいは周囲となかなか打ち解けられずに悩む人に具体的なアドバイスと勇気をくれる一冊です。」
ふむふむ、縦の孤独も悪くないかも・・・
(修行して縦の孤独を切開するっていう感じか??、切開して『今を楽しむ』??
)
で、修行とは、死の受容の訓練だってこと?
それとも、
(生きてる間に)「死」を切開しちゃえば
「今を楽しめる」実存の仕方に変化するって事?
どういう風に切開すれば、
結果的にどういうものが、
どういう風に出現(変化)するのか
よく分かりません。
こりゃもうシュツケしかございませんな。
わかるとマケ、という仕組み。
もう少し「縦の孤独」が近づくまで、ささやかな目標を探して生きようと思わせてくれる時間でした。
皆様、季節の変わり目ですので、どうぞご自愛下さい。
「薬」「仏教」が存在するといって、
何も無理に、
「毒」を飲む必要はない。
「縦の孤独」を感じる必要はない。
健康な人には「薬」は不要である。
但し、実際は瀕死状態なのに、
「自分は健康だ」と信じている人もいる。