時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。
先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。
彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。
その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。
「あなた、今のクリニックで苦情は?」
「ありません」
「院長から何か怒られた?」
「全然」
「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」
「なんというか、自信が・・・」
「自分のテクニックに自信が無いの?」
「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」
「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」
「かもしれません」
「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」
「そのつもりだったんですが・・・」
「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」
「あなた、父上のお仕事は?」
「歯医者なんです」
「なんだ、後継ぎか」
「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」
「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」
「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」
「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」
「いいえ・・」
「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」
これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、
「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」
びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。
どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。
だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。
それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。
先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。
彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。
その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。
「あなた、今のクリニックで苦情は?」
「ありません」
「院長から何か怒られた?」
「全然」
「じゃ、なぜ辞めなくちゃいけないの?」
「なんというか、自信が・・・」
「自分のテクニックに自信が無いの?」
「あまり器用じゃないし・・・。皆が僕を見ているようで・・・」
「あなたねえ、腕さえ良ければ、誰が見ていようと構わないでしょ。それに1年無事でやってるなら、基礎的なテクニックはあるんでしょう」
「かもしれません」
「だったらねえ、要は経験と勉強と練習でしょう。あなた自分の能力と時間のすべてを勉強と練習に注ぎ込んだことがあるの?」
「そのつもりだったんですが・・・」
「違うよ。本当にそうしてみてダメだと言うなら、もう自分で見切りをつけて、とっくに辞めてるよ。あなたね、今後3年すべてをつぎ込んで勉強し、寝る間も惜しんで練習しなさいよ。辞めるのは、それからだよ」
「あなた、父上のお仕事は?」
「歯医者なんです」
「なんだ、後継ぎか」
「違います。父は継ぐのに反対でした。この地方でこの業界は今後厳しいと。でも、僕は自分の意志で、この道を選んだんです」
「だったら、お父さんの医院を滑り止めにしなよ。最後にオヤジにお前の腕ではダメだと引導を渡してもらってから、見切りをつけて辞めればいい。実際、君は恵まれている。それまでは、自分が不器用だと言うなら、四の五の言わず、人の10倍努力して腕を鍛えなよ。そういう寿司職人知ってるよ。親方から見込みがないと言われながら、必死の努力で一人前になった人」
「あと・・・・、学会に行くと前の医院の院長や同僚と会うんですが、どうすれば・・・」
「あのねえ、そんなの挨拶して終わり! あなた、勉強に行ってるんで、付き合いに行ってるんじゃないでしょ。あとは無関係。もうどうでもいいの。学会で出世でもしたいの、あんたは?」
「いいえ・・」
「じゃ、彼らが今の君と何の関係があるの!」
これは彼に限りません。4、5年前、私は、修行道場6年目の古参和尚で、当時29歳の修行僧から、相談があるんですがと言われたとき、その和尚曰く、
「ぼく、下の者(後輩の修行僧)が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」
びっくり仰天!私が6年目と言えば、まさにダースベイダー時代。「下の者」なんぞ眼中に在りませんでした。
どうしてこうも彼らはデリケートなのか。
一つ思いつくのは、彼らは失敗を極端なまでに恐れているのではないか。ある集団や共同体の中で、自分が不協和音を出すことを、極端に気にしているのではないか。それは結局、その集団や共同体自体が、社会経済構造の変動と競争環境の激化にさらされて、余裕を失い、メンバー以上に組織自体が失敗を恐れているからではないか。
だとすると、これは問題です。なぜなら、これからの社会は、前人未到の荒野を行くようなもので、これまでの手法は通用しません。次の世代のトライ・アンド・エラー、試行錯誤によって道を拓いてもらうしかないのです。
それをこんなに委縮させてはいけない。私は、気の持ちようでどうにでもなる簡単な話に見えながら、何か深刻な問題に逢着した気がしました。
お寺の子は、真面目で有能であればあるほど病みますよ。「自分」を生きさせてもらえないからね。
特に、住職が真面目に「僧侶」をしてる場合は、そうなる可能性が高くなる。
自分の子供にあなたは向き合えてますか。
仏教者は身近な大切な存在を犠牲にして生きてる自覚が薄すぎるので注意が必要だと思いますね。釈迦も例外ではないですよ。
宗教者は、本気で宗教者として生きるなら家庭を持つべきではないと思います。
分かってる人からすると、このセンテンスだけでも「あぁ、子供の頃はいじめの加害者側だったんだろうな」とすぐ察しがついてしまう感じ。
教員のイジメ、いろいろ見聞きしてきましたが、加害者はみな「仕事ができる」「人気者」と評価されていました。
イジメられる側は、同僚や管理職からの評価も低く、すでに誰にも助けを求められない状況でした。
反撃しない相手をいじめる。
イジメの鉄板です
先日、初めて中国地方から恐山菩提寺を参拝させていただきました。有難うございました。
私は以前歯科業界にいまして、このお話に接し、あることを思い出し、コメントさせていただきます。それは...
翌日に開業を控えた若い歯科医が高速道路
に車を止め、飛び降り自殺したというものです。
その歯科医は何故死を選んだのか?
本当のことは誰にも判りませんが、院代のお話を伺い思い当たることもありました。
院代にご相談された歯科医は現実と倫理観の間で葛藤していたのではなかろうか?ということです。
歯科医は院代と対峙することで(相談することで)何かしらの光明を見出したかったのでは?と思うのです。
それは診療報酬と歯科医院経営をどのように捕らえるか?ということです。
医者(歯科医ではない)の過剰投薬と過剰診療(検査)と根は同じです。
医は算術...です。
案外金儲けと割り切った先生の世間の評価は「いい先生」なのかも知れません。
歯科医療で最も大切な所が根管治療ですが
患者からすれば最も嫌われるところではあります。
『 We don’t laugh because
Act as if what you do makes a difference.
It does.
(自分のすることが違いを作るかのように行動しなさい。
それが違いを作る。)
When you have to make a choice
and don’t make it,
that is in itself a choice.
(選択しなければならないのに
選択しないのは
それ自体がもう選択していることになる。)』
(ウィリアム・ジェームス)
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/aca87ed6f7ddbcf8744f3d1ee13fe7ee
差異は「違い」として確認できるわけですから、桁外れの違いは排除の対象になるわけです。
空気を読むとは、違いを差異として確認できることであり、その差異が許容範囲を超えていないかどうかの判断を下せることに他ならないわけです。
組織は常に、許容範囲内の差異を区別し、秩序化することで存続しているわけですから、「失敗を許さない」とはその許容範囲を一切認めないことであり、もはや空気を読むことさえ不可能になるわけです。
組織は差異を差異として階層化、序列化することで秩序が維持できるわけですから、排除すべき差異が無くなるということは、秩序はもはや維持できないということになるわけです。
これはある意味で深刻な事態というわけです。
二重投稿の意図はなく、『内容をご確認ください』に関するシステムエラーによるもののようです。
「人の目を気にする」ことは、不安に起因しているのかもしれません。
方丈様に相談された方は、「判断」や「覚悟を決める」ことを求めていたのかもしれません。
個人的なことですが、「覚悟を決める」ことは他者から与えられるものではないようです。
「覚悟」も「自信」も「不安・苦難の時をどう過ごしたか」により徐々についてくるもののように思われます。
経験の意味 (2009年02月21日)
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/20477e0417e39d3b613b41c9ade8d44a
「人の目を気にする」ことは、不安に起因しているのかもしれません。
方丈様に相談される方は、まさかゆるい癒しを求めている訳ではないでしょう。
不安を常々口にする方丈様に、「不安であっても覚悟を決める」ことに関する教えを求めていたのかもしれません。
個人的なことですが、「覚悟」も「自信」も他人から与えられるものではなく、「苦難の時をどう過ごしたか」により徐々についてくるもののように思われます。
経験の意味 (2009年02月21日)
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/20477e0417e39d3b613b41c9ade8d44a
今、NHKをぶっ壊す、とネットではひそかにやっていますが、そういう非正規雇用の人たちの声だと思います。既得権益をぶっ壊す。
なんだかよくわからないな。
つまり、自分自身になんのわだかまりもない状態で、周囲は空気として扱いやすく、そして、安定した所属感を持てる、ということでしょうか。
皆さんの職場は、失敗を許さない空気や人物はありますか?
私の職場は学校なので、緩いと思います。
帰属意識は一方通行
エンゲージメントは双方向
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/achievement-hrs.co.jp/ritori/%3Fp%3D4457%26type%3DAMP%26usqp%3Dmq331AQNKAGYAb3K9r2YmeaGIQ%253D%253D
イジメが、ですか?
それともサンガもただ集団の一つにすぎないということですか?
空気として扱われること、即ち、チャンナに与えられた罰のことです。
どんな山を登るのか?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190928-00010001-srnijugo-life&p=1
空気が読めれば組織の中で、自分の現在の座標や位置が分かるわけで、平均値から著しく逸脱することは意識的に避けることができるわけです。
学校でイジメられないようにする為の処世術は、プラス的にもマイナス的にも目立ち過ぎないということです。
振出しに戻る、にならないの?
「所属している感」は「所属したい・していたい」と思っているところから「所属を承認された・されている」と思えるから感じるんじゃないでしょうか。
会社で正社員として働いていても、そこが誰も知らないような会社で安い給料で平社員で仕事内容もブラックだったらやっぱり肩身狭いと思う。所属してますって気にならないと思う。
・・・でもどうなんだろう。最大手広告代理店の社員になったけど辛くて辛くて死を選びました、とかって。
それ言ったら晴れて本山の修行僧になったけど辛くて辛くて死を選びました、とかは・・・
会社に所属してなくても所属は作れそうですけどね。
南さんも「他人の目が気になってしょうがない人々」をつくる一助になってたかもしれないって気は全然してないの?
ってことな気がする。
みんな「友達である」。
クロサイとか読み始めてさ、著者の動画見たりしてさ、そういうこと言ってるわけさ。釈迦のサンガ運営手法みたいなのとかさ。そんな感じで言ってる。
だけども、永平寺的には頑として「下の者」なわけさ。
しかも「下の者」として設定したうえで「眼中にない」とするわけさ。
じゃあ「上の者」ってのはなんなんだ。
って思ったら「サバクにしろ」とかいうのを「それでわからないはずがない指示」だと思ってたりする存在なわけさ。
で、30年たってその子供にあたる世代が「下の者にどう思われてるか気になってしょうがない」って言って、
「下の者なんか眼中にない」派の親世代に相談に来る、って、なんかの因果が巡ってるってやつか?って面白いよ。
周りの世界の動きに気がつかず
いつの間にか取り残されている
正しいやり方・・?
正しい分担・・・?
ネット民やマスコミが個人をたたき
炎上騷ぎを起こす論理がこれだ
建前ばかり保身だらけの
つまらない自己規制社会になった
手段は与えられるものではなく
自分で考えて行動すること
多くの失敗は多くの経験を意味し
生きる醍醐味だ
問うべきは目的や理想の高さであり
手段ではない
丁寧に愚直に実践する
全ての基本であろう
承認欲求は盛んに聞きますが、所属欲求は、聞きません。
私は、派遣ですが、所属している感は勿論ありません(肩身が狭い)。
所属欲求と雇用形態と自己は、切り離せないと感じています。
南さんも、曹洞宗という巨大組織に所属していると思いますが、どう感じているのかな。
「良い友達ができる」という事は、悟りが成就する「ほぼ全て」に相当する。
と教えている。
一人では、挫折するが、集団で目的を成就する。
だから、サンガの中では、「カーストの上下関係」はない。
「老若の上下関係」もない。
ただ、「便法として」出家時期の前後で「序列をつけた」だけである。
僧侶の中では平等で上下関係はない。
みんな「友達である」。
釈尊の同時代のジャイナ教の「大雄」は、悟った後に、自分の意思で「餓死を」選んだ。
しかし、釈尊は「生きる道」を選んだ。
それは、「以前の自分と同じ苦しみの人々が多い」ことに気が付いたから。
だから、弟子たちが、釈尊よりも先に次々と亡くなっていき、
その度に、深く悲しんだ。
年を取っては、体に痛みを、普通に感じていた。
それでも遊行し続け、路傍で、野垂れ死んだ。
老いの「肉体の苦しみ」はあるが、「死への恐怖」はなかった。
煮ても焼いても食えない古参から、食われたくはないよね。
食われる前に食っちゃう。
それが釈尊のチエ。
つまり、生きたいや死にたいからも、離れていたように思う。
執着からの解脱をしていたんだろうし。
自ら戒律を守っていただけであろうことを、釈迦が80歳まで生きたことに、理由を求めるのは、縁起に背いている感じ。
生きとし生けるすべての生命に幸せを与えようと、真理探究・真理発見の旅に出るために沙門となって出家の旅を始めた、』
これは「全く、愚かな捏造物語」である。
道元和尚にも、「坐禅中に悟った物語」が「後世に捏造された」。
人間の弱さが「でっち上げの」「立派な」「物語」を捏造するようになる。
「無明」そのものである。
>(南)「そうでしょう。そうでなければ80歳まで生きている筈が無い」
このやりとり、なんか違和感がある。
後期高齢者のわたくしはむしろ斎藤茂太の言葉の方に共感を感じる・・・後期高齢者であるがゆえにだが。
『老いのケジメ』斎藤茂太156頁。
「私だったら、100歳まで生きるなどという気の長い目標は持たず、今日一日を精一杯楽しく生きるという簡単な目標にする。これなら大いに現実味がある。一日が終わったら、ああ楽しかったと思って寝てしまう。明日のことはまた明日考えればそれでよろしい。」
彼は一体どこに重点をおいているのか。どうすれば、ベクトルを変えることができる?
あ〜ZIPさんのコメントね🤣🤣
その様な環境下で、ダメになる奴は勝手に一人でダメになるというわけですからある意味ゾッとするわけです。
志しなど持たなくても叱言や叱責を受けられる世間の組織とはわけが違うという事です。
スクロールの手間ばかりがかかる箸にも棒にもかからないコメントしか出来ない人には仏教は無用でしょう。
そもそも永平寺という組織を一般の組織や企業と同じレベルで扱うこと自体が無意味だと思うわけです。
目的が個々人の修行というわけですから、後から入門してきた者達の面倒を見るなど、そういつまでもする必要があるとは思えないわけです。
個人的な志しで修行に取り組みにきているわけですから、後から入門した者達にどう思われているのか?などと言った発言をすること自体がお前一体何しに来たのっていう話です。
志しを持てなければ監獄と変わらないわけです。
どの僧団に入っても「悟り」など開けないと断念してしまったお方も存在する。
彼女曰く「釈迦のように一旦サンガから離れて、一人で悟りの修行をするしかないのです。その為には、そうできるだけの経済力が必要です」とかと、やや、隠遁者修験道的な言い草ではあるが・・・
煮て食われ、焼いて食われて、
自灯明・法灯明を忘れてしまった
あわれな迷える子羊たちが仏教サンガにも存在してる。
それを見聞きしても、何一つできず、
安全地帯の自分の僧団に居座って、
下のものを「煮て食おう・焼いて食おう」と虎視眈々としている輩もいる。
王宮に留まって、自分の種族(釈迦族)の為に自分の能力を捧げるのかを考えた時、
そうではなくて、
生きとし生けるすべての生命に幸せを与えようと、真理探究・真理発見の旅に出るために沙門となって出家の旅を始めた、
どんなことがあっても必ず解脱に達するのだという決意は不動であったのだ(パターナ経)。
星飛雄馬の親父みたいな
荒業を強いることを釈迦は好まない。
「法の鏡」経にのっとって、
合理性をモットーとした自灯明・法灯明に依るべきなのである。
煮て食おう・焼いて食おうは破戒・破僧への道である。
「煮て食え・焼いて食え」と説いた釈迦の教えがあるなら示してもらいたい。
自説を正当化しないでもらいたい。
悟りを開いた古参なら
下のものを、煮て食おう、焼いて食おうなんて思わない。
静かに自灯明・法灯明を指し示すのみである。
釈迦は偉大な医者であるが、薬を飲むかどうかは自灯明。
無明丸出しの古参にやられてはかなわない。
悟りの第一段階・・・豫流果
悟りの第二段階・・・一来果
悟りの第三段階・・・不還果
悟りの第四段階・・・阿羅漢果
注;釈迦だけが歴史上実在した「如来」である。
釈迦はこの世に二度とは現れない偉大な人物なのである。
35歳にして、悟り・解脱・涅槃を成し遂げたのである。
釈迦の偉大性は「心を自由自在に管理出来る能力」なのです。
自分(=釈迦)は「四神足」を完成したので、寿命を延ばせるけれど、
奴(=釈迦)は「生」を追求(執着)してる、なんて揶揄する人(=茂木ちゃん)も出てきたり、
弟子が、自分(=弟子)の悟りを釈迦に認定されないとダメだ(=無効だ)と思ったりしない為に、
自灯明・法灯明と言う教えを残した。
自灯明で自己反省し、法灯明で法にのっとってるか照らし合わせれば、
自らで、自分が『豫流果』(よるか)に達したかどうか自己診断が出来るのだ、とした。
豫流果・・・修行者がこの第一段階の悟りに達すれば、「完全なる聖なる悟りへの流れに入ったので、もはや完全な悟りにむかう道から離れることはない」、「豫った」ので豫流果と呼ばれる。
豫流果で消える煩悩は無知にもとずく三つ(三結)である。これは悟りを決定付ける三ッつの煩悩である。
①.「有身見」と呼ばれる煩悩。
「私」というものがいるという錯覚している煩悩。
②.「疑」と呼ばれる煩悩。
何が真実か分からないまま、ぐずぐずウジウジしていること。
この煩悩が消えれば、真理を目の前にして何の疑いもなく、ぐずぐず迷わず、余りを残すことも無いので結果もすぐ出る。心のつく嘘を識別出来るようになる。
③.「戒禁取」と呼ばれる煩悩。
しきたりや苦行などにこだわる煩悩。
私がやっているのが正しい、これでなければいけないとこだわったら、これは戒禁取である。
mmm、釈迦は、
「言うは易く、行うは難し」のことを言ったもんだなァ~!!
永平寺の儀式・しきたりは成り立たなくなっちゃいそうだし、
「悟りも開け」ちゃいそうだし、
「法」と言っても仏教には8万4千の法門があるし・・・迷っちゃうな
古参は「新到」を一人前の僧侶に鍛え上げるという重大な「責任」がある。
これの下でこそ「手段は自由勝手」である。
普通は、お寺の家庭で、甘やかされて育ってきている。
大学卒業直後の者も多いだろう。大学では遊び放題だろう。
そんな「現在の若者たち」には、余程の方法で「料理しなければ」、人間は変わる事はできない。
45年位前に、鎌倉の円覚寺に通っていた当時では、足立大進老師が、提唱で、少しでもここでの修行でとっかかりを得て帰って欲しい。
だからこそ、修行を厳しくしている。
何も分からずに、一生僧侶を続けて行くのは「可哀そうである」。
と話していた。
老婆・親切・心である。
S長老は「幼児の時に」、単に「賢い」からといって、スカウト「された」だけである。
釈尊が自分の「死苦」に悩んで、「29歳」頃「出家」した。
イエスは、「30歳」頃「自分の罪」に悩んで、「家族を捨てて」、罪から生き返る「ヨルダン川での洗礼」を受け、ヨハネ教団に入団した。
南師が小児喘息の苦しみから「死の課題」に直面し追究し拘り、
大学卒業し社会人になってたが、
「20代半ば」で、とうとう「出家」した。
S長老は、幼児だから、人間社会を知らないまま、
有利だから、誘われるままに「出家」した。
つまり、自分から「出家」の動機がない。
人間社会を知らない、体験していない。
そんのは、「お経を暗記しているだけ」であり、
当てにしてはならない。と考える。
マニュアルに書いてある回答を、オウムのように繰り返すだけ!
日本人は、それに騙される。
「すべてにポジティブなのは、ただのバカの人であるが、すべてにネガティブなのは、病気の人だ。」
ん、なになに??
「S長老なんて、ここの文壇では関係ない」って??
そう言う君は、ただの偏狭の人だ。
道元和尚(1200~1253)
最後の和歌をお詠みになったのは中秋の名月であった。
[師入滅 中秋夜の御詠歌]
また見んと思いしときの秋だにも
こよいの月にねられやはする
黄色い菊の中に、今年も、名月を観ました。
ある集団当事者間で当たり前だから当たり前、っていうのを疑ってないわけでしょ?っていうか。
「新到なんか煮て食おうが焼いて食おうが古参の勝手」とかいうのが、
南さんの中でどう納まっているんだろう?って奇妙に感じる。
新到なんて、っていうのが「かつてそう思っていた」というより「今もそういうもんだと思っている」風に語られてると思うので。
今回も、6年目といえばダースベーダー真っ盛りで「下の者」なんか眼中になかった、と。
わりと、「あーあ・・・(なんだかな)」って感じがして。
世代的に言えば親子ぐらいでしょう?今回の話の対象の人たちと南さんだと。
そういう親でそういう子供かぁ、って言い方もできちゃったりするのかもね、とか。
『一体この人生はなんなのかというと、世間に合わせているだけ。世間がしっかりしているならば、世間が模範になって、我々が目指すべきことだったらいいけど、世間といっても我々と同じバカ者の集まりなんです。世間の機嫌を取っても意味が無いんです。』
まあねぇ~。
素晴らしい人間関係をつくる四つのポイント――増支部八集「ハッタカ経」
相手が自分よりバカでも?
『こうした窮屈な社会を皆で作ってきた。 コンビニの雑誌が立読み出来なくなった頃から「ヒステリックで不寛容な世の中になったもんだ」とは思ってたけど、今後も規制ラッシュで息苦しい世の中になると思う。 「寛容」「おおらか』が死語になりつつある。』
そう、今や寛げる場所を見つけるのも一苦労。
快楽を求め、苦を避けるように設計されている。自己保全メカニズムである。
その区別がつかないで
受苦こそ快楽だと思う被虐趣味に倒錯する人もいるようだ。
また、快楽を得ることを苦だと定義する厭世的な人もいるらしい。
「快楽のニルバーナ」対
「苦のニルバーナ」
快楽も苦も
すべて脳の認識作用であるならば、
「一切皆苦」とはただ単に、
てめえの脳の反射にすぎないわけであるから、
じゃあ修行とは自己で行う脳操作ということになるのだろう。
修行のために、
出家が有利かどうかはわからない。
出家すれば
外部世間様からの干渉から
わが身を守るには役たつが、
出家環境内部での
人間相互のあくなき干渉は尽きることがない。
というだけで
かの国で或る考えが成り立つ必然も
理解せぬまま耳から身に纏いつけ
悩んだり気取ったりしながら
自分の人生を棒に振りたいたいのは
勝手である。
けれども、自分の人生を棒に振る人の
数は、地球上では、きっと
この国がいちばん多い。
それは、ひとえに「考える」という
単純作業が下手くそだからだ
現実感が濃いの薄いのと言うには
言うが
それなら「現実とは何か」という問いを
自力で推進してゆく力もなければ
方法も知らない
そんな事態があり得るとさえも知らない
のであろうか
人間関係は同調が第一であり、仲間内でコソコソ誰かを叩いてはいても、空気が読めなければコミュ障と呼ばれ、仲間ハズレを極端に怖れるわけです。
物欲が芽生えた頃には世の中はデフレというわけですから、見栄の為の高価なブランドには見向きもせず、ユニクロかリサイクルショップになるわけです。
コストパフォーマンス的にも漫画やアニメ、ゲームはもはや常識であり、且共通言語というわけです。
不確かな将来に対する冒険よりは、手堅い現状の充実に束の間の安心を見出すことは得意なわけです。
自分が役に立っているのか、いないのかの判断をする物差しが個人ではなく組織に向いているのだとすれば、満足な回答を得られるはずがないわけです。
デフレ世代に負わせるには荷が重すぎるわけでそれはあまりにも可哀想ではないかと思うわけです。
>お言葉ですが、仏教も大半は人生の質入れを促すような宗教になっていませんか?
「生きる」を善に質入れしていることになりますかね。
この歯医者さん、面会というトライをしてるじゃないですか。欲しかった言葉はもらえなかったみたいでエラーっぽいですが。「親の反対押しきって、不器用でも頑張ってきたのに、クレームつけられ、上司に怒られた」ことを思いっきり慰めた方が効き目があるかも。
(南)一番まずいのは、宗教が「生」を空虚にする場合があること。
信じれば救われるというように、いわば生きることを質入れしてしまう。
(茂木)生きることを質に入れとけば、とりあえずは安心だから。
(茂木)でも、お言葉ですが、仏教も大半は人生の質入れを促すような宗教になっていませんか?
(南)う~ん、仏教と言うより、お寺の問題ですね。お寺はあっても仏教がないことも今は多いから。
(茂木)じゃあ、どこに仏教はあるんですか。
(南)だからそれをさがすのに私も苦労しているんですよ・・・・自分の中でさえ、本当にあるかどうか、疑うときがある。
(南)「そうでしょう。そうでなければ、80歳まで生きているわけはない。つまり彼は、生の矛盾と不安を生き切ることで、生きることを引き受けようとしたんだと思う。そこから決して逃げなかった。生きることは最初から不条理なものだという覚悟を、どこかで決めたんでしょうね」
(安心立命を)「私の口から聞こうとしても無理なんです。」
「お釈迦様(の意図)は、辛くて悲しくて切ないことの方が多いいのに、にもかかわらず死を選ぶことなく、最後まで勇気をもって生き切るにはどうするのかというのが、仏教者のメインテーマである(と思う)」
生きている限り安心立命は無い。
(南)「私は人からよく自信満々に見えると言われる。なぜそうなのかというと、破綻していてもなんとか生きられるようにするしかないと思っているからでしょう。
〈破綻しないでいたい〉とか〈安心できる居場所がほしい〉ということを、自分で断念することから始めるしかないわけです。(略)、生が破綻していても構わないと覚悟を決めちゃうことなんです。
このニュアンスがわかる人は大抵病んだ人ですけど・・・」
(茂木)「生きていること自体が病んでいる状態ということには、激しく同意します。やっぱり生は、まがまがしいものだと思う。」
(南)「苦が快楽、それがリアルだ」
「苦しいってことは楽しいことなのだ」
「私は昔から順境に弱くて逆境に強い男と言われる」
「醜い目に遭っているいる方が何となく大丈夫って感じになる」。
「私は今まで生きていて、
腹の底から楽しいなんてことはほとんどないですからね。」
「辛かったことを話せと言われたら一晩だって二晩だって話せますから(笑う)
(茂木)「苦は生きることの本質と結びついているから、それを取り除いたら結局生きていないことになる。」
(南)「その通り。それが仏教の『一切皆苦』という思想。
我々は根本的に、望んで生命を与えられたものじゃないですから。ここがすべての致命的な問題です。」
(引用終わり)
苦集滅道、修行に始まり修行に終わる。
南師に読んで戴いているからです。
たとえ、
苦労して長文を書いたのを、
何度も「バッサリと」削除されましたが。
一度は、読んで戴いたのですから。
私も拝読してからずっとモヤモヤとしています。
私も実際に若者と接し、そのような雰囲気を感じたことが少なからずあります。
彼・彼女らがSNS世代だからかなと思っていたのですが、単にそのようなことに起因するものでもないのかもしれません。
会社員と中高生は“空気”に疲れてる!?~黒木華『凪のお暇』が逆照射した世相~
https://news.yahoo.co.jp/byline/suzukiyuji/20190921-00143635/
『ドラマは会社を辞め、住んでいたマンションも解約し、付き合っていた慎二を含め関わっていた全員と連絡を絶ち、コンプレックスだった天然パーマもそのままに、東京郊外のボロアパートで凪が暮らし始めたところから始まった。同調圧力からの自由がテーマだった。』
『終盤は中高生で大ブレーク
実は会社員以上に同ドラマに反応した層がある。人生のライフステージ別でみた場合の、中学生と高校生だ。』
『こうした展開を、固唾を飲んで見入った中高生が多かったが、実は視聴者数の伸び率では、女子より男子が勝っていた。』
女子OLが主役のドラマに男子中高生が強く反応した理由は、主役女優自体に関心があるというものでもなさそうです。
簡単には判断できないため、引き続き考えています。
釈尊の「家族を捨て、社会をドロップアウトした動機」は「自分の死苦」の解決・解消です。
まったく異なる課題です。
が
「諸法無我」
は、有効です。
現在の若者たちは「無神論」なのです。
学校の理科で「ダーウィンの進化論」を知って、「恐竜が大好き」で育ってきたのです。
「神の存在」はそこにはない。
しかし、イエスは「神ヤハウェ」に信頼を置いた。
イエスのルポルタージュ『マルコの福音書』に依れば、
壮年であるイエスは、「高揚」と「挫折」のジェット・コースターの状態だった。
ガリラヤ湖畔で神の国を説教しても人々は信じない。
ただ病気治しの奇跡だけを求める。
12弟子たちが理解しようとしない。
絶望し、エルサレムに向って「エルサレム神殿支配体制への批判」のために上って行く。
民族最大の祭り「過ぎ越しの祭り」の最中に。
そして実力行使した。
これは「神ヤハウェ」に100%信頼していたから、できた。
何度も挫折の中で、弟子たちを残して、一人、徹夜で神に祈っていた。
「神との対話」である。
「犀の角」のように、毅然と生きよ!
無神論の世界では、「人の目」だけが行動基準となる。
他人と絡むのは協調することが本来の主旨というわけです。
他者が絡まないと、歯の治療も出来ないというね。
釈迦も他者なしでは、釈迦たりえなかったはずだよね。
自分だけで済むことなら、
如何様にもなるというものだが、
他者が絡んでくると
途端にすべてが難しくなる。
周りから、がんじがらめにされて
にっちもさっちもいかなくなる。
まわりの眼が気になって仕方がなくなるものだ。
釈迦のように
すべてを捨ててしまえば、
自分だけの世界に浸れるが
凡人にはそれが出来ない。
釈迦のように、
命がけをさらに通りこして、
命(生)をすてて
「野垂れ死に」を前提に事を運べればよいのだけれど、
もちろん今回の歯医者さんには
到底そんなことはできないわけだ。
釈迦の場合は、
野垂れ死に覚悟の連中が集まって、
共同生活(僧団・サンガ)を組んだことで自らの生きる道を見出したのだから、
いちがいに
一人、孤立してしまった青年歯医者君を
弱虫となじることはできない。
すると「根拠のない推測」の地獄に陥る!
なんか、思春期の片思いみたいな話だな~。勝手に、あーやこーや想像してさ。気づけば、とんでもない相手に仕立てていたりな。まあ淡い思い出だよ。
事故的なものより、自分の悪意的なものに気付かされた時の自己嫌悪ときたらも~う、、これ以上はちょっと、、、
すると「根拠のない推測」の地獄に陥る!
この異常な感覚はどのようにして生まれるのか?
他人の視線で自己が作られていたことを南さんはじめ、仏教によって教えてもらった。それが異常だと知ることはなかった。
自己は自己である必要はなく、行為によっていくらでも自己を作り直せる。
それでも「根拠のない推論」の地獄を繰り返しますが、抜け出る知恵がある。有難い。
シロサイ🦏だにゃ
ありがとう。
かっこええで。鎧着とるみたいな。
究極の真理へと到達するために精励努力し、心、ひるむことなく、
行い、おこたることなく、
足取り堅固に、体力、智力を身につけて、
犀の角の如くただ独り歩め
図書館でも借りれます🐱
「過剰に他人の視線を気にする」異常さ!
他人が自分を「どのように思っている」のかを問題にする。
すると「根拠のない推測」の地獄に陥る!
この異常な感覚はどのようにして生まれるのか?
イエスの場合は「自分の罪」に悩んだ。
しかし、その罪とは、今までとまったく異なっていた。
ユダヤ教の罪は「十戒」で定められている。
これは「禁止している行為」を規定している。
「実行した行為」に対してだけ、「罪」と定める。
しかし、イエスは「異常にも」、
「心で思った」だけでも「姦淫の罪」を犯したと、批判する。
つまり、未遂でも「罪」とする。
これでは「全ての人が罪人」になる。
「義人は、一人も存在しない」として、
「十戒」を「守ったか破ったか」での
それまでの「合法的な差別」を無化した。
だから、ユダヤ教徒が怒った。
「社会的に虐げられている人々」が
自己規定から解放された。
釈尊時代の仏教と、大乗仏教に優劣はつけられない。
釈迦時代の本来の仏教は、自分の生活のすべてを投げ出して、なにもかもを修行一本にかけていく、ある意味恵まれた環境にある人たちの宗教である。
しかし、私たちの生活はすでにいろいろなしがらみでがんじがらめになっている。
そんな中で、我々に日々の平安を与えてくれるのは、不合理ではあるが穏やかで、説明はできないが暖かい、そういった超越者の宗教(=大乗)である。
釈尊のようなやり方ができない者を救い上げる超越者の宗教(大乗)は、これもまた人間社会にはなくてはならない大切な一機能なのである。
読んでみたくなったのでぐぐったら、黒い表紙の『犀の角たち』と、白い表紙の『科学するブッダ 犀の角たち』があるみたいなんですが、読んでいらっしゃるのは黒い表紙ですか?
しかしそれでも、その全体を遠くから眺めれば、共通項としては、
我々自身が仏陀になろうとする動きである。
(特に大乗においては)我々自身が釈尊と同じ立場のリーダーになって世の生き物を悟りへと導かねばならないという思いが前面に出てくるのである。
220頁「破僧の定義」--
「仏の教えに反する意見を主張するものが仲間を募って別個の僧団を作ること」
221頁
仏教が次第に勢力範囲を拡大し、独立した僧団が各地に散在する状態になると、多少なりとも教義に食い違いが生じ、
互いに相手を破僧集団として非難し始めた。
223-4頁
この問題を丸く収めるために、
半月一回の反省会である「布薩儀式のような集団行事を一緒に行なわないこと」を破僧の定義と変更した(たぶんアシューカ王時代)。
これにより、皆と一緒に行事に参加しないなら破僧、参加すれば問題なし、となった。
225頁
これ以上ないくらいに単純化して説明してきたが、仏教に全くなじみのない人たちにはやはり分かりにくい点があるかもしれない。もう捨て鉢になって一言で言ってしまえば「ある時を境にして、仏教と言う宗教は、お坊さんにさえなっていれば、どんな珍説奇説を主張しても追い出されることにない、なんでもオーケーの宗教に変貌した」ということである。
どうせ、順繰りにお世話になる事である。
「情けは人の為ならず」
かけた情けは、自分に戻ってくる。
過剰に「遠慮せず」に、お世話を受ければよい。
これは仕方がない事であるのだから。
毎日のように、「老人の行方不明者のお知らせ」が、大きなスピーカーから流されて聞こえてくる。
自分も、その内に同じようになる。
という「心構え」への促しである。
勿論、「発見されました」の感謝の報告もスピーカーから流れて、聞こえてくる。
ほっとする。
行方不明者の年齢が、この頃、気になる。
自分の年齢よりも若くなってきた。
可愛いジージに成れるかな?
堂々とした赤ちゃんなんていないよ
赤ちゃんなら可愛いと思ってもらえるようなじーじばーばにならなきゃ
私の「独自の考え」というものは「ありません」。
ただし、「ご紹介した考え」に共鳴している者です。
つまり、私が自分の判断で「拾い上げた考え」と「捨てた考え」・・・
その「峻別が私の考え」です。私の「独自の考え」というものは「ありません」。
ただし、「ご紹介した考え」に共鳴している者です。
つまり、私が自分の判断で「拾い上げた考え」と「捨てた考え」・・・
その「峻別が私の考え」です。と逃げ口上が用意されている。
このブログの汚点、自分のブログで騙れば と強く考えています
人生の最期には、「ウンコは漏らすし、飯はこぼすし」、、。』
「体」は丈夫だが、「頭脳」が痴呆になってしまう。
両方が同時に、寿命になる、期限切れがいい。
「徐々にじわじわと老いる」より、「ピンピンで、コロリ」がいい。
高齢になると「赤ちゃん」に戻って、他人のお世話になりながら亡くなっていく。
「ウンコは漏らすし、飯はこぼすし」
それまで世話をしてきたのだから、「最後は、堂々と世話になって」もいいだろう。
誰も最後はどうなるか予測はできない。
これを「みじめ」と呼ぶのか?
西部邁は、「自ら」死ぬことを選んだ。
「自裁」。
「入水」自殺、川で溺れて死んでいった。
江藤淳は、妻に死なれて「自殺」した。
二人とも老人だった。
黙っていても、死ぬことは直ぐだったのに。
すごい人すごい人いうても最期はそんなもんか
・・・どんなの期待してたんだろう・・・?
ところで今回の記事、続きが「失敗を恐れない若者を育てる社会にならなければなりません」あたりに落ち着いたりしたらウケる。
ヨハネ教団に入る訳です。
「罪の赦しに至る一度切りの洗礼」を洗礼者ヨハネから「ヨルダン川で受けて」
一度水に沈んで死んで、そこから生き返ってくる儀式を受けた。
捨てられた家族としては、イエスが気が狂ったと思い、捕まえに来る訳です。
イエス自身も社会からは弱者であり、落ちこぼれだったのです。
だから解決の為に、ヨハネから洗礼・浸水礼を受け、回心したのです「が」、
そこから「神の啓示」を受けて、更に回心をして「神の言葉を伝える預言者」に変る訳です。
ゴータマ・ブッダが、「死苦」の悩みから家族を捨て、
悟りを開いて、覚者として教えを広めて、救いの道を歩んだ。
私は、ここにパラレルな関係を観るのです。
「家族を捨てる程、深刻な問題だった」
「重大な挫折を受けて、そこから生き返ってきた」
そして最終的には、
社会的な弱者に寄りそうという生き方を選ぶ。
明仁「前」天皇も、社会的弱者に寄りそう生き方をして、「象徴天皇職」を全うされた。美智子「前」皇后とご一緒に。
現行の「平和憲法」と
昭和天皇の生き方を踏襲したのでしょう。そして、
30年間、一度も「東京裁判A級戦犯合祀の」靖国神社の親拝をなさらなかった。
これも、昭和天皇の遺訓に忠実に従った。
「退歩返照せしめば、
自然に打成一片ならん」
とかく外側に向かう心を内側に向け、自己を深く省みること(自分の役目を自覚)したなら
自と他を対立させて、良し悪しに振り回されいた心がなくなり、
一つとなる。
人間って惨めだなあ、、、、
宮崎禅師は病院で亡くなったのか、、、
すごい人すごい人いうても最期はそんなもんか
複雑性の縮減としての信頼にすがらなくては、おちおち夜も眠れないというわけです。
アインシュタインの、
「世の現象はすべて一義的因果関係によって確定しているに違いない」(=南さんはサイコロをふったとしても、『神はサイコロをふらない』)という思考は、
「そうあるはずだ」という直覚のレベルでの見解であった。つまり神の視点である。
それが、量子論という有無を言わさぬ論理思考によって否定される。
「そのような一義的因果則は成り立たない」という衝撃的な事実を突然突きつけられるのである。(略)
「神の視点を放棄して、人間という一動物種に特有の、より低位の視点で事象を認識せざるを得ない」と主張するのだから、自己の尊厳は著しく傷つく。
アインシュタインはそのような事態(=量子論的思考法)を受け入れたくなかった。そして死ぬまで量子論解釈に抵抗し続けた。
アインシュタインにすれば、美しい摂理にしたがって展開しているはずの宇宙を、
人間の偏狭な視点でしか理解し得ないと考える事は、科学の堕落であり忌むべき妄説だと映ったのである。
失敗を許さない組織に属している、やる気を失った有能な社員の判断によって投資効果が上がらなくなるのは当たり前です。
投資先を失った銀行が生き残る為に合併するのは当然だと思うわけです。
ありとあらゆる組織が評判を得る為に、リスクを偽装することに夢中になれば、コストパフォーマンスオンリーの選択になるしか術は無いわけですから、投資する側にしてもされる側にしても双方の利益になることはあまりないわけと思うわけです。
その余波を被る労働者は見返りの少ないボランティアとして活動することによってコストパフォーマンスにより一層貢献する羽目になるわけです。
業界の常識を知らない人間が当てずっぽうで言うと。
永平寺は(多分總持寺も)、修行僧として入ってずーっといて、優秀だから住職になりました、っていうことが起こらないところ、だったと思う。
会社だったら、新入社員で入って仕事して成果上げて、課長だ部長だ取締役だ社長だっていう目もあるけど、そうじゃないらしい。
会社役員級のお坊さんたちは、どこかのお寺(それなりの格があるところ?)の住職さんなんじゃないかな。自分のお寺が他にあると思う。
ちょっと前にこのブログの記事に出てきた宮崎禅師は札幌の病院で亡くなった。札幌のお寺の住職さんだったからかな。
で、南さんは優秀だったんだと思う。優秀な修行僧として長くいたから、その扱いが難しくなったんだと思う。だって、そのまま役員にはなれない会社だったら。
そのうえ、南さんはお寺の子でもないから、だから婿の口を探してくれた人も出てきたんでしょう。で、後の奥さんも待っててくれたと。
でも、永平寺を下りる前に福井のお寺の住職になってたって、それができるんなら永平寺にいられたんじゃないの?って思った。
それは、青森のお寺の娘婿になること前提の特例処置だったのかな。
>「ぼく、下の者が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」
この古参和尚は、、
いまハヤリの?「おっさんずラブ」かもしれませんよね。
よくよく話を聞かれた上での内容なのでしょうか?
同性の恋愛相談なら、話は全く違ってきますよ!
坐禅をしていない僧侶なんて、僧侶を生きているとはいえない。
問いを問題にしない僧侶なんて、僧侶を生きているとはいえない。
この語り口でしょう。
ただ私的には、最近の相談事をテーマにされるのは、当事者にとっては如何なものか?という感じはしますけどね。
自分を客観視できるようになるまでには、人それぞれ時間的なものを要するのかと。
まあ、このような事を野放しに増やさない為に、早目に提起しておく、という点では、効果を期待したいところではあります。
『そして、下界の「下々の生き方・苦悩」は「下らない事」でしょうね。』に変わり
そして、反論に究したら以下のように、
『私の「独自の考え」というものは「ありません」。
ただし、「ご紹介した考え」に共鳴している者です。
つまり、私が自分の判断で「拾い上げた考え」と「捨てた考え」・・・
その「峻別が私の考え」です。』とつまり思考せずにコピーで投稿しているだけの
「空っぽの物まね」と自ら告白されています。
これは無いんじゃない?
というか、現にまだ続けてらっしゃる。というか、二諦の関係を定義するのが僧侶の立場なら、批判は止めめないというか、止められない筈。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/1905e90a26981be8b3dbdfb8e7eac856
だもんね
「道元・仏教に基づく人」とすれば
「週刊誌的な括りの中に入るような出来事」を
取り上げる事には「違和感」があります
作家として対話内容が
「面白い・エピソード」の
一つとして語られているのでしょうか』
要は、「難しい・抽象的な・概念の世界」を至上と考えるのでしょうね。
そして、下界の「下々の生き方・苦悩」は「下らない事」でしょうね。
世の中の問題点は「個別の出来事」の中に現れるのです。
若者の「生き辛さ」は、世界一高い「自殺率」に現れている。
「餓死する心配がない日本」は、世界で一番恵まれているのにもかかわらず。
社会の「病理の兆候」をいち早く取り上げるのには感性が必要である。
このアンテナが麻痺していると、下らないと切り捨てることになる。
「痛みを感じる事」ができるのか?
イエスはご自分の「胃が痛む」ほど、
社会に虐げられている人々に寄り添った。
それとも、優秀なんで引き抜かれたの?』
要は、現在の曹洞宗の仏教思想には、二つの流れがある。
「道元和尚自身の流れ」と「日本達磨宗の印可状を大切にする流れ」とである。
三祖が、後者であり、中国に留学して、「当時の禅宗における密教の儀式」も大々的に取り入れた。
中国は、禅宗と浄土教に集約されており、更に融合し「念仏禅」になっていく。
仏教だけでなく「三教一致」として
「儒教・道教・仏教」が融合されていた。
(道元禅師は、それを徹底的に批判していた)
つまり、三祖は「当時の中国の禅宗に帰った」のである。
「日本達磨宗の印可状」こそ、その中国の禅宗からの「お墨付き」であった。
以下は、私の観測・推測ですが、
要は、現在の曹洞宗の中で、「道元和尚の教えを徹底的に主張し行動する」と、浮き上がってしまうのです。
組織から見ると「食み出し者」になっていた。つまり、「永平寺の修行道場」は永久にいる場所ではなくなっていた。
むしろ、邪魔な存在になっていた。
組織が持て余した。
だから、現在『正法眼蔵』の解釈が、多岐亡羊となり、その結果「岸沢版」が有難がられるようになっている。
南師によって、この現状を是正して戴きたい。伏して希う次第です。
それが、後世への光明になりますから。
普通の宗派は、「祖」は一人です。
「浄土宗」は「法然」上人
「浄土真宗」は「親鸞」聖人
「日本天台宗」は「最澄」伝教大師
「真言宗」は「空海」弘法大師
「日蓮宗」は「日蓮」大聖人
「臨済宗」は24流。
「栄西」禅師など、
「応・燈・関」の「白隠」禅師の流れ。
しかし、曹洞宗だけは、二人の「祖」がいます。
更に「道元和尚の流れ」は絶え、後者の流れのみになってしまった。
後者の働きで教えが広まり、1万寺にまで拡大した。
いわば「道元原理主義」は居場所はなくなっている。
南さんははじめての著作を40歳で書かれてるよね。
やっぱり「40歳」というのが1つの区切りなのかな。
あと「60」の区切りに政治に対する批判もやめるみたいなこともいってたよね。
秘守義務が求められているのではと
ふっと 「気になった」ので』
南師は「個人が特定できない」ように、配慮しています。
問題点の「典型的な例」として、具体的に示す必要があったのです。
このバランスへの配慮が重要です。
当方としては「読者への配慮・サービス」に感謝しますが・・・
南師は、師から忠告された。
賢いお前なら、1年の修行生活で「現在の永平寺という修行組織」の問題点が見えてくるだろうが…。
しかし、文句を言わずに、3年間黙って従え。
その後に初めて、自分の見解・文句を言え。
この結果、結局20年間修行生活をおくる「が」、
現在の「永平寺の組織」が修行を永久に続けることを許さなかった。
仕方なく「現在の曹洞宗の形態」、つまり、どこかの僧侶の娘と結婚して「お寺を継いで」、「修行道場を去る」事になった。それとも、熱烈な恋愛?
南師は「曹洞宗の組織」を変える事に、エネルギーを使わなかった。これは、巨大組織相手で消耗でしかない。
「曹洞宗の組織」の外で「私塾」を創り、「道元和尚の教え」を「正しく」「正法の仏法」を伝道する道を開いた。
具体的には「インド中国日本の三国仏教思想の連続講義」である。
また『正法眼蔵』の全巻の講義もしたいと述べられていた。
還暦に達したので、そろそろ始めた方が良いと思う。旧草75巻、新草12巻も存在するのだから、大分時間が掛かるだろう。
秋月老師の弟子の東洋大学の学長が、『正法眼蔵』の連続講義を行い、次々出版しているが、「臨済宗の看話禅で解釈しよう」と試みている。秋月流で。
これは「誤解が拡散する」だけである。
曹洞宗に蔓延している「岸沢版」解釈の是正が必要である。
悟りをしていない僧侶なんて、僧侶を生きているとはいえない。
この語り口で行くべきです。
「挫折してからが人生」
挫折をしていない人生なんて、人生を生きているとは言えない。
この語り口、好きです。
今回の記事は、挫折した後に、どう生きる?かと、組織はどうあるべきか?の二大テーマ構成となっていますよね。
というお話し。
「辞めるな!」と言われたかったのかもしれませんね。
本気で辞めたいなら、相談するまでもない事でしょうし。
困難を抱えたような誰かに、「続けてみなよ」と言ってほしかった、どうしても後押しが必要だったのでしょうね。
もし南さんが永平寺の団体行動でしごかれて我を忘れていなければ、
激しい存在不安に苛まれて、孤独の深淵にもがいて、
もうトウの昔にこの世に存在してなかった・・・、
という可能性大な事を思うと
南さんにとっても今回の歯科医ちゃんは身につまされるわけでしょうね。
まあ、修行歴6年目の子さん和尚には
それなりの今日歴があるんでしょうね。
歯医者は悟りを開いているフリをする。
自信たっぷりに我が悟りを演技する。
しかし患者が歯医者のカルマを疑うと、
他の歯医者に行く。
他の歯医者は自分こそが真に悟りを開いた者で、
前の歯医者は悟っていなかったことを暴露する。
かくして医療訴訟が起きる。
自分自身で『悟りは開けない』なんて言っている外部者にはお呼びがかからない。
ただ、心身を壊す程になりそうなら、とっとと辞める方が宜しかろう。
彼がどうなろうと、後を南師が面倒をみてくれるなら兎も角。
初心は何だったのか?
今一度思い出し、最後には、自分で自分を褒めてあげれるような人生を歩んでもらいたい。
高度な歯科技術を習得した歯医者が歯医者を辞め、
今度は歯科訴訟弁護士となって、患者のクレイムから、治療にあたった歯医者を法廷に引きずり出し、莫大な補償金(勝訴金)を取るそうだ。
歯医者は常に戦々恐々としている。
そんな現実があるようだ。カルフォルニアのシリコンバリーでの話である。
個人を特定出来ないまでも
『人の不幸は蜜の味』の喩え通り
噂話として聴き流す事かもしれません
しかし、このブログの主宰者が
道元・仏教に基づく人とすれば
週刊誌的な括りの中に入るような出来事を
取り上げる事には違和感があります
作家として対話内容が面白いエピソードの
一つとして語られているのでしょうか
何れにしても
カウンセラー的立場の方には
秘守義務が求められているのではと
ふっと 気になったので
歯医者の場合は、金を取って患者(他者)の体をいじる。常に良き結果を生まなければならない。
歯の治療をしたつもりが、現実には歯を壊してしまったという事実。医療訴訟になりかねない事実は軽く見るべきではない。
良心的にすっかり自信を無くした歯医者に対して、「そんな失敗誰でもあるさ、クヨクヨしなさんな、もっともっと他人の歯を壊してこそが1人前になる道だ!!」っていいたいの?
ご自分が実験台になるおつもりか?
幸い歯医者は他者の命を即座に奪うところまではいかない。
しかし他の医者の場合は直接命にかかわる
ケースも多い。医者の場合はもっと厳しい。医療過誤で人を死に追いやった医者は
頬かむりするしかなく、患者の無知を利用して医療過誤を隠す。
院長は莫大な補償金と評判を気にして、ひたすら事実を否定する。
我は万全を尽くしたけど、死は患者の自業自得であったと患者や家族を煙に巻く。
自業自得だってえ?・・・そりゃあそうだよね、そんな医者・医院を選んでしまった患者自身が悪いんだよね。
でもまあ医者・院長の言いなりになることが南さんの望んだ「死の受容」なら、それで一件落着だね。
当時29歳の釈迦が、
「ぼく、下の者が自分のことをどう思っているか気になって仕方がないんです」
と悩まれていたなら、仏教は生まれなかった訳ですね。
十把一絡げにされることで、やる気というものは間違いなく失われるわけです。
これからに時代にクリティカルでしょうね
いい方向に開き直れればいいけど
一億玉砕みたいなアホなことしかこの先も選べないのかな
飛びたい
失敗の防御としてのコンプライアンスの導入は、評判を稼ぐ手段の一つです。
持てる事業の自力以上に評判を稼がなければ、銀行や投資家に言い訳ができないわけです。
失敗はもってのほかであり、仮に失敗して評判が落ちたとしても、分社化や事業委託といった手段で人件費を削ることで、銀行や投資家に辻褄合わせはできるわけです。
辻褄合わせが上手くいけば、それなりに役員報酬が上がることもあるわけです。
組織がコンプライアンスを導入する理由は、「失敗を恐れる態度を示すこと」これ以外に理由はないわけです。
若い人に限らず、組織に属している人であれば以前ほど冒険をしようとは決して思わないはずです。
人の視線とは、つまり自分への視線でもありますかね。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/a554ed67a5b70a5cc268aecd1b1dd2ef
ここまで来ると相対化できますかね。
男は何といっても、セックスで自信を付けるものでしょう。
まずは生身で失敗に慣れる。
何度失敗しても許してくれるし、周りの目も気にならない。
えっ‼️
人の目がない所なら、自信満々なのか?
まさかね、、
何事も諦めなければ、熟成していくものではないですかね。
親の顔色ばかり見ている幼い子供。
いくら勉強や練習をしても怒られる、何をしても怒られる、が、親子関係を「辞める」ことはできない。
怒られないように、必死に耐えて耐えて耐え忍ぶ子供の様子が浮かんでしまった。
暇人の八つ当たり的なクレームはともかく、ある企業は、お客様の声として、率先してクレームを取り入れている。悪い点は直していこうという姿勢で、廃れないように取り組んでいる。
ミスを怒り放しではないのだろう。
トップなり上司なりのフォローが無理なら、周囲の教育や配慮をしておかないと、バランスが悪いままで、「よい仕事」をしているとは言えまい。
あと相談の際、もう少し事情を知らせてもらわないと、わからない面があるように思うんですが。
今回のケースでは、彼の思惑というか、彼の何が問題なのか。
周囲の目とは、承認欲求の強さの現れでもありますが、人によっては、強迫観念の問題もありますので、「事情」により対応も変わることでしょう。
年下の者を異常に気にするとは、尊敬願望が強いのかもしれません。
また3年といえば、どんなに練習しようと、熟練者とは言えないというか成れないのではないでしょうか。
二人のケースを同じ扱いにしてよいのかどうか?
モチベーションを上げる工夫ができるかどうか、自分を未熟者として取り扱えるようになるかどうかなど、「事情」によって取り扱い方も変わるかと思うんですが。
動詞対句としては
try and err.
名詞対句としては
trial and error.
なんですね。
英検あたりでは撥ねられそうですね。
今までの社会は違ったのかなぁ?
でも、南さん、ホントにこんなこと言ったのかなぁ?
「仲間から嫌われる恐怖」
行動の基準が、他者・世間・社会にある。
自分はそれに合わせないと生きていけない。
イジメに反対できずに、一緒にイジメてしまう。
「周りの空気を読み取る能力が必要」
どうしても過剰反応してしまう。
「犀の角のように一人で歩め」
今の日本で、これをするには勇気が必要である。
「出・家」つまり「社会のルールから出る」
「家族を捨て去る、出て行く」
正に「仏教」の出番である。
全体的な傾向として、人間関係が浅く、表面的になったので、その分不安を募らせているのかもしれません。
しかし、「最近の若いやつはなっとらん」といった文句は、おそらくいつの時代でも言われてきたことでしょう。「デリケート」と言ってしまうとひ弱に聞こえますが、周りの者の考えに気を配れるというのは悪いことではない。若い頃はいろいろ大変なので、あまり厳しいことを言っては気の毒だと思います。
気になさらないと思うので重箱の隅をつつくようなことをいうと、慣用句は「トライアル・アンド・エラー」(trial and error) です。
問題の根は、承認欲求だと感じています。寛容な上司などがいれば、そのような人間は、のびのび仕事をすると思います。
他人の視線に束縛されるのもそうですが、目的がなく、漠然と仕事に向かっているのもあると思うんです(今の私)。
南さんの助言の、限界まで本気でやってみろ、もまさにその通りだと感じています。
ただ、その本気というのが、今の若い世代は、どこかブレーキをかけているというか、冷めてるというか、物質的に豊かに育ったためだと思いますね、。
その歯科医さんがどうかはわかりませんが、SNSなどで年中相互監視の中にいることも関係しているのかなと思います。
「こんなリプライがあったけど本音はこうなんじゃないか」とか「誰々がリツイートしてくれて光栄だ」とか、どーでもいい他者評価で一喜一憂してる人がたくさんいます。
あと、自分と違う人が褒められているだけで「私は批判された」と感じる人も多いです。
私は女ですが、30代独身女性の中には、「子育てって素晴らしい」みたいなCMや記事を見るだけで、「同調圧力だ」といって怒る人も少なくないです。
いや、別に他人がどう言おうと関係ないでしょと思いますが、「私を認めて〜」「私を褒めて〜」という阿鼻叫喚の様相です。
そして今、ネット発で書籍として売れるものが多いですが、恐ろしく些細な人間関係でグジグジするエモい(ナイーブな)のが人気です。逆に、ほんの少し他者に承認される話で、「ほっこりした」「泣いた」なんて浅い感動を呼ぶみたいです。
この「私をわかってちゃん地獄」から抜け出る知恵は、経典に溢れているので、仏教の出番はますますあると感じます。
腕の良し悪しからも、自信からも、解放されることでしょう。
どうにもならないのならですが、それからでも道は拓けることでしょう。