今後の社会における決定的な問題は、環境問題、AIとバイオテクノロジーの劇的進展から生じるでしょう。この件に関しては、過去の記事でも何度か触れましたが、ここでもう一度整理して起きたいと思います。なお今回は、環境問題には触れず、AIとバイオテクノロジーの発達から想像される我々の「実存」の問題に絞ります。
1.AI・バイオテクノロジーと「労働」
私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。
自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。
同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長によってももたらされるでしょう。
AIであれ人間であれ、この「拠りどころ」ツールを与える者が、次の時代の支配者となるはずです。
2.AI・バイオテクノロジーと「意識」の変容
意識と脳の生理的過程の相互関係(または平行関係)を量子レベルにまで解析できれば、意識を電子チップにコピーするか、あるいは意識相互をダイレクトに接続したり、インターネットに接続して無限大に拡張することも可能でしょう。
さらにバイオテクノロジーが肉体を改造するか機械と融合させ、拡張した意識を受容し得る身体を提供するなら、「自意識」はどのような変容を被るのでしょうか。それは「自意識」と呼びうるものなのでしょうか。
3.AI・バイオテクノロジーと「死」の消去
2の状況は、意識の機械的身体へのコピーや、肉体の改造(脳移植)や製造(培養された肉体への意識の移植)を通じて、「死」を消去することに通じます。もし「死」が失われれば、「生」は意味と価値を失い(誰も死なないなら、「しなければならない」ことは無くなり、それはつまり「意味」も「価値」も無くなるということ)、実存の様式としての「自己」「人間」は無化する(「自意識には一つの身体」という従来の実存原則が失われる)ことでしょう。
このとき、1は宗教に過大な負荷をかけることになるかもしれません。もし労働にかわるアイデンティティーの根拠を宗教に要求するなら、宗教は巨大な権力を手にすることになり、過酷なイデオロギー闘争の当事者になりかねません。
2と3は、宗教、特に普遍宗教の存在意義を壊滅させるでしょう。最後にかろうじて残存するとすれば、人間が自然に組み込まれていた時代のアニミズムが、デジタルアニミズムやAIアニミズムに変貌して、生き延びた微弱な意識に「神」を提供するかもしれません。その「神」はもちろん、AIが生み出す巨大クラウドでしょう。
では、この3つの問題に、仏教はどういうスタンスをとることができるでしょうか。いま私が漠然と考えているのは、以下のようなことです。
一つは、「死の消去」は仏教の教えが肯定するものではないだろうということです。「ニルヴァーナ」を目指す仏教は、「死の受容」こそがテーマなのであり、そこに逆説的に「受容する自己」の存在意義がかかっています。
他方、「自己」という実存様式(自意識をもつ実存)は、仏教にとって最終的な意味も価値も持ちません。そもそも仏教はヒューマニズムではないのです。
ただし、仏教の狙いは、「自意識」を無化、あるいは無意味化することではありません(特定の意識状態・「境地」への到達を目的とするものではない)。そうではなくて、ニルヴァーナ(死の受容)に方向づけられた実存として、それ相応の自意識に改造することです。これが上述した逆説的な「自己」の存在意義なのです。
いまだ十分な結論に至りませんが、これからも折に触れ、この問題を考えたいと思います。
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1.AI・バイオテクノロジーと「労働」
私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。
自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。
同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長によってももたらされるでしょう。
AIであれ人間であれ、この「拠りどころ」ツールを与える者が、次の時代の支配者となるはずです。
2.AI・バイオテクノロジーと「意識」の変容
意識と脳の生理的過程の相互関係(または平行関係)を量子レベルにまで解析できれば、意識を電子チップにコピーするか、あるいは意識相互をダイレクトに接続したり、インターネットに接続して無限大に拡張することも可能でしょう。
さらにバイオテクノロジーが肉体を改造するか機械と融合させ、拡張した意識を受容し得る身体を提供するなら、「自意識」はどのような変容を被るのでしょうか。それは「自意識」と呼びうるものなのでしょうか。
3.AI・バイオテクノロジーと「死」の消去
2の状況は、意識の機械的身体へのコピーや、肉体の改造(脳移植)や製造(培養された肉体への意識の移植)を通じて、「死」を消去することに通じます。もし「死」が失われれば、「生」は意味と価値を失い(誰も死なないなら、「しなければならない」ことは無くなり、それはつまり「意味」も「価値」も無くなるということ)、実存の様式としての「自己」「人間」は無化する(「自意識には一つの身体」という従来の実存原則が失われる)ことでしょう。
このとき、1は宗教に過大な負荷をかけることになるかもしれません。もし労働にかわるアイデンティティーの根拠を宗教に要求するなら、宗教は巨大な権力を手にすることになり、過酷なイデオロギー闘争の当事者になりかねません。
2と3は、宗教、特に普遍宗教の存在意義を壊滅させるでしょう。最後にかろうじて残存するとすれば、人間が自然に組み込まれていた時代のアニミズムが、デジタルアニミズムやAIアニミズムに変貌して、生き延びた微弱な意識に「神」を提供するかもしれません。その「神」はもちろん、AIが生み出す巨大クラウドでしょう。
では、この3つの問題に、仏教はどういうスタンスをとることができるでしょうか。いま私が漠然と考えているのは、以下のようなことです。
一つは、「死の消去」は仏教の教えが肯定するものではないだろうということです。「ニルヴァーナ」を目指す仏教は、「死の受容」こそがテーマなのであり、そこに逆説的に「受容する自己」の存在意義がかかっています。
他方、「自己」という実存様式(自意識をもつ実存)は、仏教にとって最終的な意味も価値も持ちません。そもそも仏教はヒューマニズムではないのです。
ただし、仏教の狙いは、「自意識」を無化、あるいは無意味化することではありません(特定の意識状態・「境地」への到達を目的とするものではない)。そうではなくて、ニルヴァーナ(死の受容)に方向づけられた実存として、それ相応の自意識に改造することです。これが上述した逆説的な「自己」の存在意義なのです。
いまだ十分な結論に至りませんが、これからも折に触れ、この問題を考えたいと思います。
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「拠りどころ」を与える者が次世代を支配すると言うのは、なるほどと思いました。
光陰 可惜
無常 迅速
時 不待人
しょうじ じだい
こういん おしむべし
むじょう じんそく
とき ひとをまたず
「永遠の修行」を成立させる為に、仮に「自我」を建てる。
「生きているのは膨大な頭脳のネットワーク」
時間的に古今の「死んだ頭脳」たち
空間的に世界中の「生きた頭脳」たち
自己の肉体、自己の精神が、「死」で消滅しても、残る。
自己は「部品」であり、自己はあたかも「細胞の一つ」であり、
新陳代謝で「次々に生き、次々に死ぬ」「細胞群の一つ」に対応する。
この「自己」が生きる意義は、「全体が生き残る意義」の中に回収されるのか?
「大が小を飲み込む」のではなく、「大と小とが、同等の価値」を持つ!
禅宗での「労働」は、「小乗仏教での破戒である」が、
自己「実現」、自己の根拠の「定立」ではない。
修行を継続するための「営み」である。
自分の「食」分を自分で満たす。他者からの食の供養を受けない。
人間の欲望には歯止めが効かない。
もう既に暴走が始まっている。
「自己の心・精神」が「自己の肉体の頭脳」から「不死の人工頭脳」に移植されたら、
「肉体の死」「頭脳の死」は恐怖の対象にならなくなる。
もし意識がデジタル化できるのであれば、その場合は言語こそが実体になるということだと思います。意識さえもがプログラミング言語で作られる世界では、「空」だとか「縁起」とかいう発想は意味をなさないでしょう。そんな世界には仏教の出る幕はないと思います。
私はむしろ逆ではないかと思います。死があろうがなかろうか、そもそも生きることには意味も価値もない。でもそれでは耐えられないので、あえて意味や価値を創作して、「しなければならないこと」を作っているのが人間だと思います。その「価値」は「生」よりも大事になる。だから戦争もやるし、死刑も肯定する。
ですから、仮に死が消去されても人間は「価値」を作りだし、「しなければならないこと」を作り続けると思います。価値を作りだすネタづくりのために、普遍宗教はより必要とされるのではないでしょうか。
意識・心のデジタル化は基本的に唯物論・実在論に基づいたコンセプトで仏教とは相容れない気がいたします。
「地球自身の内部運動」と「太陽の活発な運動」とが連動している。
その中で、「CO2自身の影響は微々たるもの」である。
つまり「CO2が温暖化犯人説」はでっち上げである。
「これで儲ける人々」が造り出したものである。
最大の排出国、米国と中国が、今までブレーキを掛けてこなかったのだから、もっともっと強烈な温暖化が起こっていなければならない。
以前の予想は完全に外れた。
つまり、CO2は、原因ではなかった。
真の問題は「世界中が騙されている」ことである。
何故、騙すのか?
何故、騙されるのか?
これは「重大な社会問題」である。
むしろ、寒冷化の方が人類や生物にとって危機である。
始まっていると主張する学者もいる。
私の意識を移植したアンドロイド自身は、まさに「私である」と意識するでしょう。第三者からみても、それは私に違いないと思います。しかし、一番の問題は意識を移植する前の私から見ても、それが私であるかどうかであります。禅における己自究明というのはまさにこのことを見極めることにほかなりません。そこのところを了解していたならこのような問題提起にはならないと思います。
己自究明の己自とは、私の肉体でもなければ私の記憶でもありません。いかなる属性をも排除したその先にあるものだから「無」と表現します。
公案の「倩女離魂」のテーマであります。
昔から、切ったり足したり、つぎはぎ作業を自分自身に対し、やってきた。
良かれと思ってやってきた。
現代の技術では、
意識をつかさどる脳や、
人間性を変えてしまうような遺伝子なども好きな様にいじくる事も可能になった。
良かれと思ってやっている。
宗教とか自分とはとかを詮索する「心」とかいうものは所詮、身体という物質から出来上がっているので、
人間が始めた聖域なき身体操作に
心がびっくりして身の危険を感じ始めた。
新たな存在不安に駆られるようになった。
「俺っていったいどうなっちゃうんだろうなァ~?」って。
今の和尚さんは、
なんかそんな感じかなァ~??
でもまあ、
この事をもって、人類が滅びるという事は無いだろう。
ただ単に、必然的な進化の過程で、
不要なものは消滅し、新たな価値観が生じて来るだけだ。
移植できたとしても、「その時点までの私」ですので、成長することも衰退することも、もはや「悟る」ことなど不可能という訳です。
厳密な私にするなら、常にバージョンアップするか、死ぬ間際に移植する必要があるでしょうが、仏教私的には、悟っていない意識など「不要」なのです。
無明な私が何人いたところで、AIにも「気の毒」という訳です。
デジタル仏陀や、デジタル道元など現れたとしても、修行できないしね!
まあできたとしても、死なないというより、「死ねない」なら、ニセモノですから!