恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

自由のための不自由

2013年09月10日 | インポート

 最近、写経がちょっとしたブームになっています。もともと、紙や筆記道具がまともになかった時代、釈尊の言葉とされた経典は、丸暗記によって伝承され、広まりました。その後、活字印刷の発明までは、経典の書写こそ、伝承と布教に決定的な意味を持っていたのです。ですから、諸経典の中で写経の功徳が大いに讃えられているわけです。

 これまた最近流行している寺社仏閣の朱印集めですが、ご存じのとおり、元はと言えば、写経を奉納したことの証明書であり、ただのスタンプラリーではありません。

 昨今の写経は、一種の「癒し」系行事になっています。実際、やった人の多くが、「疲れたけどスッキリした」というような感想を述べます。

 上述のように、写経は本来「スッキリ」するための行為ではありませんが、そういう効用が副産物としてあることは事実です。

 たとえば、恐山では、お経を印刷した台紙の上に和紙を置き、これを筆ペンでなぞるという、簡略化した作法で写経していただきます。

 これを実際にやっていただくと、皆さん非常に真剣に、一生懸命取り組まれます。いわゆる「集中している」状態です。これがどうして「スッキリ」感になるのでしょう。 

 私が思うに、写経が「自由」を奪っているからです。

 写経は、することもその手順も、あらかじめ完全に決まっています。それをする者は、決められたとおりに行うだけで、選択の余地がありません。選択可能性が「自由」の内実だとするなら、「自由」の余地がないのです。

 選択するということは、迷うことです。迷うこととは考えることです。つまり、自由であるためには、迷い考えるストレスを精神的コストとして受忍する覚悟がいるのです。ということは、「自由」を奪われることは、同時にストレスからの解放を意味するわけです。

 写経の「集中」は、この解放を可能にします。それが「体は疲れたけれど気持ちはスッキリ」に通じるのでしょう。道元禅師が坐禅について言う「万事を休息する」ことの意味に、この「スッキリ」も含まれていると、私は思います。

 私は政治的社会的「自由」を尊重すべきものと考える立場ですが、その「自由」を維持するためには、「自由」のストレスを緩和しなければなりません。このストレスが溜まりに溜まると、「自由からの逃走」(という題名の有名な本があります)的事態になりかねません。

 そうならないために重要なのは、自らの選択として「不自由」を選び、自らの選択として「不自由」を解除できることです。いわば、「自由であるために不自由であることの自由」を確保すべきでしょう。

 この矛盾に満ちた在り様は、結局、自らの選択で生まれてきたわけではない、つまり原理的に不自由な存在が、それでも自由であろうとすることの、切ない意志の宿命でしょう。


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59 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自由の逆説性についてですね。本来的に自由とは不... (senrigan)
2013-09-10 02:10:16
自由の逆説性についてですね。本来的に自由とは不自由だから自由であるということですか。その辺の消息については鈴木大拙が人間の肘の肉体的な構造をたとえに説明してます。それが人間存在の原理的不自由性に由来するということなのですか。ありがとうございます。
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自由って考えさせられる言葉ですよね。 (路傍花)
2013-09-10 02:30:11
自由って考えさせられる言葉ですよね。
外国語ではフリーダムとリベレイションは違うし、
でも日本語ではリベラル、自由主義とか思う人は多いと思います。
自らを由(依り代)にする、というのは、
強烈な切なさを共にする、んだと私の様な俗人は感じてしまいますが、
それが人の愛しさだと実感する初秋です。
私も写経してみたいとと思います。
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自由に考える苦労だとするなら (はさみ)
2013-09-10 15:32:10
自由に考える苦労だとするなら
流行(ファッション)も
考えず行動できる甘い思考ですね
型は同じだけどいくばくか変化
(色違い 型ちがい)がある
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結局  (ぺこちゃん)
2013-09-10 21:39:52
結局 
この世は自由でもないし不自由でもない
ただそれだけのことが
様々な形で展開された一例なんでしょうね
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運命をコントロールしようと生き方を学び過ぎれば... (Unknown)
2013-09-11 00:23:44
運命をコントロールしようと生き方を学び過ぎればその罪として虚無が襲ってきた。まるで神にさからったかのように。愛の理屈、善悪の理屈、分離不安。わかってしまった。すべてが虚しい。自我が崩壊しました。建て直そうとしました。でも知ってしまっているのです。すべてが虚しい。建て直そうにもどうすべきかを理屈の根本から知ってしまっているから虚しい。エゴイズムのない愛なんかない世界観に入ってしまった。夢から覚めてしまった。僕はエゴイズムのない愛はある!と思えばあることになるとおもうのです。愛はある!と思えばあることになるとおもうのです。気づくか気づかないかだとおもうのです。ぼくは気づいてしまった。愛を。その瞬間愛が嘘になるのです。信じることができなかった。愛を。自分に愛がないことに気づきながら生きるのは辛くない。苦しくもない。ただ不安なのです。これほんとうに芥川みたいになってしまったと思う。自慢とかそういうのなしにだれか助けてくれって思っています。絶望もできない。虚無なんです。ぼくはいま悲しみ、絶望すら愛しく思える。
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 自由には責任が伴いますよね。むしろ、何かに服... (ride)
2013-09-11 07:20:38
 自由には責任が伴いますよね。むしろ、何かに服従し、全てを決められて生きた方が楽なのかもしれません。
 釈尊は自分を依りどころにするようにおっしゃいました。本質的に自分を自由にし、救うことが出来るのは、自分自身だけなのでしょう。最終的に何かを頼る事を釈尊は良しとはされていない、と私は理解しています。なかなかハードな生き方ですが、仏教徒たる私はそのように生きるしか、ありません。
 私は写経はしたことがありませんが、仏教徒にとっての息抜きのようなもの、ということでしょうか。時間が取れたらやってみようかな、と思います。
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 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」読んで... (Unknown)
2013-09-11 07:41:20
 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」読んでみました。かなり時代がかった話だな、と思いました。今の人間はそんなに単純ではありません。大量の情報を消化し、複雑な社会を生きています。この本の考え方がそのまま2013年に適応される訳ではない、と思います。俗世では、時代が流れています。
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言葉を学ぶ人間は、客観的世界はびくともしなくな... (浅野)
2013-09-11 07:43:58
言葉を学ぶ人間は、客観的世界はびくともしなくなる信念を学ぶことになる。
自分が死んでしまっても、世界は回転し続けるという。
虚しいよな。幻想かも知れないのだから。いや、幻想なのだから。
どうせ死んでしまう。ならば、生きる意味はないのではないか。こんな馬鹿なことを毎日やって、そして死んで何になるのか。
自分が納得した生き方ができれば、虚しさも半減するかもしれないね。
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 何かやるべきことがある時、多少不自由な思いを... (Unknown)
2013-09-11 07:57:47
 何かやるべきことがある時、多少不自由な思いをしながらも、努力をすることは素晴らしい事だと思います。特に多くの仲間と協力しあい、成し遂げた時の達成感はひとしおです。
 しかし、諸行無常な浮き世では、良い状況が永久に続く訳ではありません。どのような状況になろうと、自分の意識をコントロールし、その環境から抜け出るのか耐えるのか、はたまた変えて行くのか、次の行動へ即座に移ることの出来る果てしなく強い精神力を身につけることが大切なのだと思います。それが「自由」なのでしょう。それは、人から習うものではなく、自分で編み出すしかありません。座禅はその助けになる、と私は思っています。
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方丈様がおっしゃってる自由というのは忙しくして... (tam)
2013-09-11 09:04:32
方丈様がおっしゃってる自由というのは忙しくしてない人達の事ですか?
私事ですが、数ヶ月前に仕事を辞め、今も新たな仕事を見つけましたが嬉しい事に?たくさん自由な時間があります。
何というか、、悪い癖かもしれないけど、、以前と現在の状況を比べてしまうと、、自由になったら今までには味わった事の無い悩みがめまぐるしいです。お金があればまた違う状況であるかもしれません。しかしそれはお金で解決できるだけのものであって、この精神状態からは程遠いものです。そんなたわごとを言ってる私は馬鹿者だと感じます。坐禅して頭を冷やしたいと思います。
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